第六十五話~失って、出会って~
前回に引き続き、琴音の過去編です。
「りな、りな。そろそろ到着するわよ?」
フランスからここ日本に戻ってくるまで、約8時間もの飛行移動は、これが初めてではないもののまだ4歳のりなちゃんには少し退屈なものでもあった。
座席に体を預けすやすやと眠るりなちゃんの肩を、彼女の母が優しくぽんぽんと叩く。
「ふわぁあ……」
両腕を上にあげ伸びをしながら、小さく欠伸を漏らすりなちゃん。
左隣にある窓から外を見てみると、飛行機はまだ雲の上を飛んでいるようだった。
『皆様、まもなく着陸いたします。座席のリクライニング、フットレスト、前のテーブルを元の位置にお戻しください。ただ今を持ちまして、機内のオーディオサービスを終了させていただきます。お手元のヘッドフォンを客室乗務員にお渡しくださいますようお願い申しあげます――』
機内アナウンスが、機体が着陸態勢に入ることを告げる。
機内乗務員が、それぞれの席を見回って着陸のための指示を乗客に促していた。
「あぁ……たのしみだなぁ……」
幼稚園が夏休みの間の数ヶ月、りなちゃんは父親の実家であるフランスで過ごしていた。
だから、日本で待つ友達の琴音や、子ウサギのモフにはもうしばらく会っていない。
早くことねちゃんの顔がみたい。
そしていっしょにモフちゃんのお世話をしたい。
しっかりとシートベルトを着用したりなちゃんはそんな妄想に思いふけり、胸を高鳴らせていた。
「お、りなご機嫌だなぁ」
ははは、とはにかむお父さんの言葉に、
「うん! 早くおうち帰って、モフちゃんをだっこしてあげたいの!」
りなちゃんは、とびきりの笑顔でそう答えた。
第六十五話
~失って、出会って~
事が起こったのは、夏休みが明けた最初の日だった。
琴音は、フランスに行かなければならなかったりなちゃんと、結婚式に行かなければならなかった相内先生の代わりに、夏休みの間毎日モフの元へ行ってお世話をしていた。
元々先生にモフの世話を任されていたのは夏休みが終わる最後の1週間だけだったが、琴音にはそんなの関係なかった。
最終的には、許可を得てモフを自宅へ連れ帰り、モフと蜜月の日々を過ごしていた。
朝起きればモフの傍まで駆け寄り、朝ご飯を食べた後モフを連れて近所の公園まで散歩に行ったり、いっしょにお風呂にも入ったし、時にはモフとおままごとで遊んだり、夜になれば母に怒られながらも一緒の布団で寝たりもした。
琴音にとって、それがとても楽しくて楽しくて仕方がなかった。それだけが、琴音のすべてだったといってもいいくらい、本当にモフのことが大好きだったのだ。
常に一緒にいて、四六時中寄り添って、そんな日々を重ねて心を開いたのは、なにも琴音に限った話ではなく……モフの方も例外ではなかった。
愛情をこめて接したこともあり、モフと琴音はすっかり心を通わせていた。
幼稚園でお世話をしていたころ以上に琴音に懐いたモフは、今では彼女が近づくだけでそばに寄ってきてくれるようにまでなっていた。
――でも、それがダメだったのだ。
「なんで!? どうしてなの!?」
フランスから帰ってきから初めてのモフとの対面。
ずっと、ずっと楽しみにしていた今日という日。
本当だったら楽しいはずの夏休みも、今日という日と比べると些細なことに思えてきてしまうくらい、本当に待ちわびていたこの瞬間。
けれどその想いは、さながら地面に落としてしまったガラス食器のごとく、いとも簡単に粉々に砕け散ってしまうモノだった。
「なんでモフちゃんはりなのところにこないの……!?」
りなちゃんが近づくと、モフは怯えたように琴音の元へと跳ねていく。警戒心を隠そうともせずに、モフはりなちゃんから距離を置こうと逃げ出したのだ。
「なんで……ことねちゃんばっかり……!!」
夏休みの間、モフに会いたくて会いたくて仕方なかったりなちゃんに待っていたのは、そんな残酷な現実だった。
ぽろぽろと、大粒の涙がりなちゃんの頬を伝った。
動物と言うのは非道なもので、たった1ヶ月会わなかっただけで、モフはりなちゃんのことをすっかり忘れてしまっているようだった。
りなちゃんが餌を差し出しても、警戒して食べようとしない。だけど、琴音の餌はしっかりと食べる。
りなちゃんが抱きかかえようとすると、身体を機敏に動かし跳ねて逃げて行ってしまう。でも、琴音が相手だとモフの方から琴音に寄っていく。
何度手を差し伸べても、逃げられるどころか指をかじられる始末。
モフがりなちゃんに突き付けた現実は、4歳の女の子にとってはあまりにも膨大すぎた。
苦しくて、悲しくて。
もしかしたら自分が何か嫌がるようなことをしてしまったんじゃないかと考えて「ごめんねモフちゃん」と謝罪の言葉を口にしても、当のモフはそれに応えてはくれなかった。
そんなりなちゃんの胸中を知ってか知らずか、琴音はモフが寄ってきてくれるのが楽しくて、嬉しくて、またりなちゃんと一緒に世話で来るのがたまらなく幸せで、ずっと笑顔を絶やさなかった。
そんな琴音とモフの姿が、りなちゃんは自分が裏切られたように感じた。
琴音の笑顔が自分を嘲笑っているように感じて、悔しくて悔しくてたまらなかった。
そしてその内りなちゃんは、お腹の奥底で、黒く、禍々しいなにかがぐるぐると渦巻いているような感覚に支配される。
ギュッと奥歯をかみしめて、リナちゃんは思ってしまったのだ。
――あのモフが、りなのことを嫌うわけがない。きっと、“ことねちゃんがモフになにかしたんだ”。
4歳の子供の安直な思考回路は、そんな残忍な結論に結び付いた。
りなちゃんの鬱憤の吐け口が琴音へと向いてしまったのである。
――りなは悪くない。悪いのはことねちゃんだ。ことねちゃんさえいなければ、モフはりなのものだったのに。りなは悪くない。りなは悪くない。
ぐつぐつ、グツグツと。
――ことねちゃんさえいなければ。ことねちゃんさえ……ことねちゃんさえ……。
十分に煮えたトマトスープが、ボコボコと鍋のふたを叩くかのように。
――ことねちゃんなんか、もう友達じゃない!!!
りなちゃんの想いが、最悪な方向へ爆発してしまった。
「ゥアアアアぁああああ!!!!」
「わあッ……!!」
――ドンッ、と、琴音に強い力がかかる。瞬間、琴音はふわりと体が宙に浮くような感覚に見舞われた。
「いッ……たァ……」
モフを抱えていた重さのせいか、勢いよくしりもちをついて、ウサギ小屋のフェンスに背中をガシャンとぶつける。
その衝撃に驚いたのか、モフは琴音の腕から機敏に飛び退く。
「りな……ちゃん……?」
転んだ琴音の下には、潰されてぐちゃぐちゃになったモフの餌が散乱していた。
楽しい空間のはずだった。
かけがえのない時間のはずだった。
なのに、どうしてこんなことになったのか、まだ幼い琴音には理解ができなかった。
なんで、モフと同じくらい大好きだったあのりなちゃんが、こんな怖い目で自分を見下ろしているのか……当時の琴音には、理解できるはずがなかった。
だから琴音は訳も分からず、突き飛ばされた衝撃と、打ちつけた痛みに任せてボロボロと涙を零すことしかできなかった。
「なんで……ひっく……こんなことっ……っ……」
必死に涙をぬぐいながら、あの楽しかった時間を取り戻したくて、大好きなりなちゃんに戻ってほしくて、必死に笑顔を作って琴音は問いかける。
でも、激昂しているりなちゃんにとって、その笑顔も、涙も、声も、琴音のなにもかもが憎く、怒りの対象でしかなくなっていた。
「なんで!? ことねちゃんばっかり……りなだって……りなだって……!! ことねちゃんなんか大っ嫌い!!!!」
りなちゃんの目からも涙があふれる。
悔しくて。悲しくて。ぽろぽろ。ボロボロ。
砂を掴んで、琴音に投げつける。
何度も、何度でも投げつけた。
途中、砂に大き目の砂利が混じっていたのか、「あぐぅッ」と琴音が悲鳴を上げ、頭を押さえて丸くなる。それでも、りなちゃんは投げつけるのをやめなかった。
「嫌いッ……!! 嫌い! 嫌い嫌いッ!! 嫌い嫌いきらいきらいキライッッ……!!!」
つかめる砂が少なくなってくると、今度は近くに落ちているモノに変わる。
「このッ……!!」
それは、掃除用のホウキだったり。
「ことねちゃんも……!! モフちゃんも……ッ!!」
散乱したモフの餌用の野菜だったり。
「みんな……みんな……!! 大っ嫌いッッ……!!!!」
モフの餌が装われていた、受け皿なんかも、全部全部、力いっぱい琴音に向かって投げつけた。
そして、再び投げるものがなくなったりなちゃんはようやく手を止めて、逃げるようにウサギ小屋から飛び出した。
「ことねちゃんなんか……死んじゃえ!!!」
最後にそう、吐き捨てて……。
「――――っ……!!」
残酷な言葉だけど、子供にとっては、本当に何気のない言葉。
でも、琴音にとって……親友の口から放たれたその言葉は、突き飛ばされたことなんかよりも何十倍も衝撃的だった。
明らかな敵意。
なにがなんだかわからないまま、突然親友に嫌われた。死ねとまで言われた。
今までこらえていた涙が、決壊したダムのように溢れ出す。
何が悪かったのか。
何がいけなかったのか。
わたしはなにを、してしまったのか。
とても悲しくて、ツラくて、苦しくて、でも、神様は残酷で、ぼろぼろになった琴音にさらに追い打ちをかけるように、それは起こった。
「うくっ……ひっく……モフちゃん……あれ、モフちゃん……?」
開けっ放しのウサギ小屋。
気づけば、モフさえも琴音の元から姿を消していたのだ。
「モフちゃん……モフちゃん……」
嗚咽を漏らしながらも、琴音はモフを探そうと立ち上がる。
「まだ……ごはんのとちゅう……」
きっとお腹がすいているはずだ。
そう考えて、手にはぐちゃぐちゃになってしまった野菜を握りしめ、ウサギ小屋のすぐそばにある水道をひねった。
そして、泥だらけの手で、泥だらけの顔で、泥だらけの野菜を洗った。
「まってて……モフちゃん……」
そして綺麗に洗い終えると、琴音はモフを探すために、子ウサギらしい足跡を追った。
その足跡は幼稚園の奥の奥へと続いており、茂みの中へと消えていた。
茂みの奥には、幼稚園を取り囲んでいるフェンスがある。しかし琴音は、その一角に穴が開いているフェンスがあることに気づき、そこを潜った。
「モフちゃん……」
道路に出てキョロキョロと見渡しても、モフの姿はない。
そんな状況でも、『諦める』という器用な事にまで考えが及ばないのが子供。
琴音の頭には「お腹を空かしているモフにごはんをあげなくちゃ」ということだけだった。
それから数時間。
4歳の少女が出歩ける範囲なんてたかが知れていて、モフが見つからないまま、結局その日は琴音が幼稚園からいなくなったことを知った先生や保護者達に琴音だけ保護される結果に落ち着いた。
保護された琴音は幼稚園に連れてかれ、周りの先生や保護者などの大人たちにはひどく叱られた。それでも、琴音はずっと口をつぐんだまま俯くだけだった。
りなちゃんのことと、モフがいなくなったということが、琴音自身信じられない出来事だったということもあるだろう。
自分の中で整理がついていないせいか、他人に説明することが難しかったのだ。
それとそれ以上に、精神的においやられていたのも一つの理由でもある。
結局、何も語らない琴音の対応に困った大人たちは、ひとまず解散する選択をとった。
「ほら、琴音。おうち、入ろうな?」
俯いたままの琴音の背中をさすりながら、当時小学2年生だった琴音の兄、秋はずっと琴音に声をかけ続けた。
二人の母も、「今日のお夕飯は、琴音の好きなもの作ったげるよ」と陽気にふるまう。
それでも、琴音は元気がなく、ずっと黙ったままだった。
そして、翌日。
日を跨いでも一向に回復しない琴音の様子を不安に思った母は、幼稚園を休ませることにした。
「……琴音、今日は幼稚園お休みしたからね」
「…………」
ずっと寝床で布団にくるまったままの琴音に、母は話しかける。しかしその言葉に返事はかえって来なかった。
普段、あれだけ元気で、毎日幼稚園であったことを楽しそうに話してくれた自分の娘が、今は人が変わったようにただひたすら無言。
何を訊いても、いくら声をかけても、身体をピクリと動かして反応は示すもののまともな会話はできずにいた。
落ち込んでいる娘を眺めている事しかできないこの状況は、母にとってもツラく苦しい時間だった。
「琴音、朝ご飯できたけど……食べる?」
「…………」
それでも母は、そんな空間を壊したくて、すこしでも琴音に元気を取り戻してほしくて、何も言わない琴音に対して返事がなくても言葉をかけ続けようと思った。
その矢先。
「……朝ご飯、ラップしておいておくから。お腹すいたら食べなさいね」
「…………きたい」
昨日幼稚園から帰ってきて以来、一言も言葉を発しなかった琴音が、ぽつりと何かを小さくつぶやいた。
時間にしてみれば、たった数十時間。
けれど母は、何十年ぶりかぐらいに琴音の声を聞けたような錯覚を覚えていた。
やっと聞けた娘の声は、いつもの陽気さがあふれる声とは程遠かったけれど、それで嬉しさが込み上げた。
「え? なあに? 今なんて言ったの?」
くぐもった声のせいで聞き取れなかった母は、すぐに聞き返した。
すると、琴音は一言だけ。
「モフちゃんのところ……行きたい……」
と、口にした。
娘のために何をしていいのかわからなかった母は、ハッキリと自分の意見を言ってくれた琴音の言葉に感動すら覚えた。
「朝ご飯食べてからでも大丈夫?」
「……モフちゃんも、お腹すいてるから……」
「……わかったわ。じゃあお着替えしてからね? それと、お家に帰ってきたら、琴音も朝ご飯ちゃんと食べること。いいわね?」
「……うん」
言い終わると、母は作ったばかりの朝ごはんにラップをかけ、外に行くための準備を始める。
琴音もまた、俯いたままだったけれど着々と着替えを済ませていった。
それからしばらく。
歩いて幼稚園まで向かう途中、外に出たことで多少気分が晴れやかになったのか、琴音は自ら、母にモフが幼稚園からいなくなってしまったことと、その経緯を話した。
それでも、りなちゃんのことは一切口には出さない。
あくまでも琴音は、自分のせいで、モフが逃げたのだと主張した。
そんな琴音の言葉に相槌をうちながらようやく幼稚園を視界に捉える。
幼稚園のグラウンドに誰もいないことから、先生やほかの園児はみんな部屋の中で何かをしているのだろう。
当然、休むと連絡してあった琴音は正門から幼稚園に入ることをためらい、外からモフの小屋がある場所まで回り込む形となった。
フェンスにぐるりと囲まれた幼稚園の敷地内に、ぽつんと存在するそのウサギ小屋。
夏休みに何度も琴音を連れてきていたこともあり、母はそれがモフの小屋であることは知っていた。
けれど夏休みの時とは違って、やはりモフの姿はそこにはなかった。
それでも琴音は「かえったときにごはんがないとかわいそうだから……」と告げ、金網の穴が開いてる場所から幼稚園の中に入り、餌と水をいつものように準備する。掃除だってした。
でも、いつものことなのに、いつも一緒にいたりなちゃんとモフはここにはいない。
滲む涙を拭いながら、琴音は一生懸命ウサギ小屋を整えていった。
その翌日もまた、母は未だ元気のない琴音を心配し幼稚園を休ませることにした。
そして昨日と同様にまた、「モフちゃんのところに行きたい」と琴音が言い出すので、それが琴音のためになるならと母はとことん付き合ってあげることにしていた。
もちろんウサギ小屋に着いてもそこにモフの姿はなく当たり前のように餌は残ったまま放置されていた。
ふいに、琴音のクラスからは「あはは!」という愉快そうな声が漏れてくる。
それは、普段と変わらない、みんなの声。
本来ならば琴音もその声の中に混じって楽しく笑っていたのだと考えると、母は悔しさと寂しさに胸が締め付けられるような想いを感じていた。
しかし琴音本人は気に留めずに、ただひたすらモフのために手を動かし続けていた。
その翌日も同様に、幼稚園を休ませた。琴音自身が「行きたくない」と呟いたのが理由だった。
けれどやはり一昨日や既往と同様にモフの小屋に行くのだけはやめなかった。
「……あれ?」
ウサギ小屋についたとき、ふと、母が何かに気づいた。
その母に一歩遅れて、琴音も違和感を察知する。
「だれか……いる」
モフの姿はない。それは昨日までと同様だった。
けれど、小屋の中に人の影が動いてるのが見えたのだ。
その人影は小さく、大人でないことは一目でわかった。そうなると、園児だろうか。
園児らしき影はこれまでの琴音と同様に、せっせとモフの小屋を整えているように思える。
いつもなら誰もいないはずのウサギ小屋を、たった一人で手入れしている園児。
今の時間はお弁当の時間のはずだから、必然的にその園児はお弁当そっちのけで掃除をしてくれていることになる。
昨日、一昨日と放置されてきたこの場所を、いったい誰がやってくれているのか。そう考えた時、琴音が思い当たる人物など一人だけだった。
「りなちゃんだ!」
りなちゃんがやってくれているんだ。琴音はそう思った。
喧嘩して、モフのことを嫌いだっていってたけど、それでもりなちゃんはちゃんとお世話をしてくれていたんだ。やっぱりりなちゃんは、りなちゃんだったんだ。
そう考えると嬉しくなって、琴音はいてもたってもいられなくなり、急いで金網の穴を潜り抜けモフの小屋へと向かった。
「りなちゃ……あ」
体を丸めてモフのエサを食べやすい大きさにちぎっていた園児の制服を見て見ると、ズボンをはいていた。
女子の制服はスカートだから、それはその人物が男子だということを証明していたのだ。
それに気づいた琴音は、呼びかけていた名を途中で止める。
そして、その声に気づいた男の子の園児は、ビックリしたように肩をはねさせた。
「だ、だれ!? ……あれ? ことちゃん?」
琴音の姿を見ると、その男の子は嬉しそうに駆け寄って来る。
「かぜ引いたってきいたけど大丈夫なの~?」
馴れ馴れしいくらいフレンドリーなその男の子は、琴音と同じクラスだけれど、琴音にとってはあまり関わったことのないただの男の子でしかなく、そんな子がなぜウサギ小屋を掃除しているのかわからなかった。
「あ、えっと……その」
なんて声をかけていいのか迷っている琴音とは打って変わって、男の子はそんなこと気にしていない様子でどんどん声をかけてくる。
「ことちゃん、きのうも、その前もここに来てたよね? オレたまたま見てたんだ」
「う、うん」
男の子は一昨日、外に置いてある靴箱の中に好きだったミニカーを置きっぱなしにしたことに気づき、それを取りにクラスの外へ出た。琴音を見かけたのはその時だった。
建物の裏側。ちょうどウサギ小屋のある方から、カタカタとなにか音が聞こえて、何の音なのか気になり様子を見に行くと、琴音が一生懸命、一人でウサギ小屋の手入れをしていたのである。
そして次の日、男の子はクラスの中にいたけれど、かすかにまたカタカタと音が聞こえたので、様子を見に行った。もちろん、その音はまたしても琴音が小屋の手入れをしているところだった。
その光景を見た男の子は、子供ながらにこう考える。
今日、ことちゃんはかぜでお休みだったはず……なんでウサギ小屋の掃除をしているんだろう?。
そうか。きっと、お世話係だから無理して頑張って掃除に来てるんだ。
そして、そこまで考えが及んだら、後は単純だった。
男の子は、琴音と一緒にお世話をしていたりなちゃんがウサギが行方不明になってから全然お世話をしていない事を知っていた。
だからこそ、わざわざ琴音が風邪なのに掃除に来ているのではないか。
そんな、半ば確信のような自信を得た男の子は、最終的に「風邪なのに無理をするのはいけない」という結論に至り、今日、琴音よりも先にウサギ小屋を綺麗にしてあげようと思い立ったのである。
「かぜは治りかけが一番あぶないんだってオレのおかあさんが言ってたよ。モフの家の掃除はオレがやっておくから、ことちゃんははやく元気になって、ようちえんきてよね」
優しい男の子の、何げない気まぐれから出た言葉。
でも、その言葉は今の琴音にとって――モフも居なくなり、りなちゃんにも嫌われてしまいひとりぼっちになってしまった琴音にとって、とても暖かく、嬉しい言葉だったのだ。
だから琴音は、その男の子の言葉を大切にしたくて。
「あしたはちゃんとようちえんくるよ」
一言、そう告げた。
そして、一瞬我に返り、すぐに母の方へと振り向くと、「いいよね?」と言わんばかりにニコッと微笑む。
母はその笑顔をとても久しぶりに見たような気がして、一気に心が軽くなるのを感じた。
「ありがとね、ボク」
ずっと沈みがちだった娘を、たった数分でいつもの明るい娘に戻してくれた男の子。その子のことがとても気に入った母は、その子に感謝の言葉を投げかけずにはいられなかった。
「わ、わぁあ!?」
突然話しかけたせいで、琴音しかいないと思っていたその男の子はとても驚いていたけれど。
「それじゃ、わたしかえるね」
「うん、早くよくなってね」
「でもわたし、かぜひいてないよ?」
「そうなの!?」
「うん、だからあしたは来れるの」
「そ、そっかー、すごいね」
そんな二人のやり取りを聞いて、母は「琴音にもボーイフレンドができたのね」と内心とてもニヤニヤしていたりして。
明日の琴音の幼稚園のお弁当はいつもより気合を入れようと、一人意気込んだ。
一通り楽しそうに会話を終えた琴音は、金網の穴を潜り抜け、母の元へと駆け寄る。
そして、男の子に手を振った。
「ばいばーい! えっと……なにくんだっけ?」
「え、オレとことちゃん、おなじクラスじゃん……しらないの?」
「ご、ごめん……」
しょんぼりと落ち込む琴音とは裏腹に、男の子はさほど気にしていない様子で、
「まあいいや! オレはかずや! おぼえといて!」
「かずや……くん?」
「うん!」
かずやくん。
その名前を聞いて、ピンときたのは琴音ではなく母の方だった。
「あれ、キミってもしかして、小野 和也くん?」
「うん! ……あれ、ことちゃんのおかあさんはオレのこと知ってるの?」
小野和也くん。
母にとって、和也くんを知っているというよりも、和也くんのお母さんとちょっと会話をしたことがあった。
まぁ、連絡網とか、子供会の会合の場とかでの事務的な会話だったけれど。
なので、その時和也くんのお母さんに「うちのかずやは猪突猛進なところがあるから」というような愚痴を耳にした覚えがあったのである。
親同士の話し合いの場。和也くんのお母さんにしろ、琴音の母にしろ、そこに自分の子供を連れてくることがなかった二人は、名前こそ知れどお互いの子供の顔は見たことがなかったことに、今更ながら母は気づいた。
そして、その和也くん家である小野家と、琴音の家である竹田家は、意外なことに結構近所だったりする。
ただ幼稚園バスが来る場所がお互いに違う場所だったため、そういう場での顔合わせがないのも、お互いの子供を知らぬ原因の内の一つだった。
「和也くん、良かったら今度、うちにも遊びおいでね?」
見ず知らずの子ではないことを知って(同じ幼稚園に通っている時点で見ず知らずではないのだが)妙な親近感を抱いた母は、もはや和也くんが自分の子供であるような錯覚さえ覚えていた。
「ことちゃんち? ことちゃんってゲームとかやるの?」
「げーむ? あ、わたしかくれんぼとかすきー」
わが娘の返答に、がくっとリアクション芸人張りにこけそうになる母。
たしかに琴音がゲームをやっているところを見たことはないが、その返答はあまりにも間抜けな答えだった。
「違うでしょ琴音。ゲームっていうのはほら、トランプとか、オセロとか、花札とかの……」
娘の言葉を訂正しようとする母の言葉に、今度は和也くんがコケそうになる。
「ちがうよことちゃんのおかあさん! ゲームっていうのは、こうぴこぴこ~ってボタンおすやつ!」
突然食って掛かってくる和也くんに困惑する母。
和也くんも両手の親指を一生懸命動かして必死にジェスチャーをしてきているが、基本的に和也くんの言うようなゲームをする家計ではなかったため、母娘揃っていまいちピンと来なかった。
「じゃあオレ、こんどゲーム持ってことちゃんちにあそび行くよ!」
「うん! わかった、たのしみにしてるね!」
ゲームの楽しさをどうしても伝えたかった和也くんは、ジェスチャーを続けながらそう口にした。
琴音も琴音で、まんざらでもなさそうだった。
こう、出会ってすぐに一緒にあそべるあたり、子供ってすごいなぁ、と母は静かに思う。しかしそれと同時に、なんか考えがババ臭くなって来てるような気もしてきて、少し複雑な気分になる。
なんにせよ、この和也くんのおかげで琴音も元気を取り戻したし、このまま立ち直ってくれるだろう。
この時の母は、そう信じて疑わなかった。
――“これ以上の暗転なんてあるわけない”と、そう信じて……疑わなかった。
第六十五話 完
挿絵の制服、前回と若干違うのは描き間違えたからとかではなく妖怪の仕業だと思います。