第六十四話~モフとりなちゃん~
琴音の過去編です。
琴音の過去編は、地の文を三人称視点(神視点)でお送りしております。
――メジロ幼稚園。
そこは、都会にあるような立派な幼稚園と比べると、とてつもなく辺鄙な場所に位置している、傍からすると見劣りしてしまうような建物だった。
遊具はブランコと滑り台ぐらいで数は少なく、そもそもグラウンドさえ狭い、そんな場所。
けれどそこは園児。遊具なんてあってないようなもので、無いなら無いなりに独自の遊び方を編み出しては、それぞれで好き勝手に盛り上がることができるのは子供特有の強みなのではないだろうか。
砂があれば山を作り、水があれば全身で浴びて、園内に生い茂っているイチョウの葉っぱや昆虫。形のないものなんかでは声や想像力なんかも、十分な遊び道具となり得るのだ。
そしてその強みの根源は、『無知』だからこそなせる業。
たとえば、ジャングルジム。
一番高い場所……てっぺんまで登ると、普段と同じ場所なのに違う目線で見るだけで全部が小さく見えて、さながら自分が王様になったかのような優越感や満足感に胸が一杯になり、胸の奥底から何とも言えない高揚感が湧いてくる。
でもそれは、『高所』の危険性を理解できていないからだ。
落ちたら怪我じゃすまないし、足を滑らすかもしれないし、そんな大人なら予測できる簡単で単純なことさえも、子供はわからない。
そして、何もわからないから警戒心もわかない。
たとえ虫を殺したって、罪悪感も、危機感もわかない。
ただひたすら楽しめる。
だからこそ子供ならではのその好奇心は、時として残虐な刃となり得る。
そのことを踏まえたうえで、あえてもう一度言おう。
”子供は、どんなことでも楽しめる”。
そう、それがたとえ――“人”が対象であったとしても、だ。
第六十四話
~モフとりなちゃん~
「それじゃあ、この子のお名前を考えましょう」
は~い! と声が重なり、途端にクラス内がざわざわと騒々しくなる。
お腹のあたりに大きなウサギが刺繍されたエプロンをつけた女性が一人と、床に座ってふざけ合う子供が十数人。――先生と、園児。
先生はまだ若い。大学で教員免許を取り、卒業後すぐにこの幼稚園に就職した、二十代前半の先生だ。
この幼稚園には全部で年齢別で全3クラスあり、下から『年少組(3~4歳児)』、『年中組(4~5歳児)』、『年長組(5~6歳児)』に別れている。先生が担当しているこのクラスは、4歳~5歳の子たちが集う年中組にあたる。
現在、先生の足元には牧草が敷き詰められた飼育用ケージが置いてあり、その中には白く小さい子ウサギが、備え付けられた給水用ボトルから水をコクコクと飲んでいた。
今日日この幼稚園では、『命の大切さを学ぼう』という名目で、園児が動物と触れ合う機会を設けようと考えた園長先生の意向により、一羽の子ウサギを飼うことになった。
今日はその初日で、新しい仲間としてその子ウサギを迎え入れるために、先生が園児に子ウサギの名前を募っていた最中である。
もちろん、園児たちもこれには大喜び。
先生に言われるがまま、嬉々として口々に自分たちの案を挙げていく。
「“うんこ”がいいんじゃね!?」
クラス一のお調子者が、元気よく立ち上がる。
「下ネタじゃねーか!」
これに先生、相手が子供ということも忘れて強めにツッコミを入れた。
先生はお笑いが大好きだったのである。
「じゃなくて、もっとちゃんとした名前にしてあげて?」
我に返った先生は、ひきつる笑顔を向けながら優しく言葉をかける。
けれども所詮は園児。
生まれてまだ数年の子供には大人と比べると圧倒的に知識量が劣っているため、そのセンスも壊滅的であった。
親が子に名を与える時のような真剣さは園児たちにはなく、一つのイベント感覚として好き勝手に名を述べるだけ。
しかし周りも周りでそんないい加減さにも笑い声をあげるので、またいつものように大喜利のような流れになってしまうのだ。
「じゃあ“仮面○イダー”にしよう!」
「ヒーローじゃねーか! 仮面なんてつけてないしライダーでもないでしょ!?」
「ウサギだし“ウサギ”でいいんじゃね?」
「安直ッ! 人間の子だからって『人間』って名前にされるようなもんだよそれ!?」
「はい! “ミミ”がいい! ミミがいいと思う!」
「お、いいじゃない? やっとまともな案が……」
「じゃあ“ミミゲ”にしよう」
「毛ッッ!!!!」
みんな(先生も含む)のテンションが上がり全体的な声量が大きくなってきたところで、大きなため息とともに先生がパンパンと手を打つ。
「はいはい! ちゃんとした名前にしないとこの子が可哀想でしょ? マサキくんも、自分の名前が“うんこ”とか“ミミゲ”とかだったらどう思う?」
呆れ口調で先生がクラスのお調子者、マサキくんに問いかけると、特徴的ないがぐり頭を押さえたマサキくんは、
「いやだああああああうわあああああ!!!」
と大げさに叫ぶ。
周りの園児もまた、それを見て「あはははは!」と楽しそうに笑うのだった。
それからなんども似たような口論が繰り返されるも全く意見がまとまらず、結局比較的まともな案だけを集めて多数決で決めることになった。
「じゃあ、“モフ”ちゃんがいいと思う人~」
一通りこの質問を繰り返して、その時に挙がった手の数を数え、先生はその合計をホワイトボードに書き込んでいく。
「……はい、じゃあこの子の名前は、りなちゃんが提案してくれた“モフ”ちゃんに決定! 拍手~」
パチパチパチパチ……と、一クラス分の拍手が響き渡る。
モフという名前を発案した「りなちゃん」と呼ばれる少女は、とても嬉しそうに笑顔をこぼした。
「それじゃ、次はモフちゃんのお世話係を決めたいと思うんだけど……これはみんなにやってもらいたいので、そうだなぁ……2人一組で、一週間ごとに交代にします。問題は誰が最初にお世話をするかなんだけど……」
「はい! おれやりたい!」
「あーちゃんもやりたい!」
「わたしもー!」
「りなもやるー!」
「え~? りなちゃんは名前決めたんだからダメだよ~」
「そうだよ、ずるいよ」
「でもやりたいんだもん!」
再びもめごとが起こりかけたところで、またしても先生がタイミングよく間に入る。
「はいはい! 喧嘩になると思って先生は先手を打っておきました。というわけでくじ引きをやりま~す」
そういうと、教員用のロッカーから昨晩一人で作ったのであろう、人数分のクジが入った箱を取り出す。
箱の中には1から順番に番号が振ってある小さな紙を各数字2枚ずつ入れてあり、くじを引いて同じ番号の人とペアになって、なおかつその数字の順番で飼育係を決定する完璧な仕様だ。
しかし、この作戦には穴があることを、先生は次の瞬間気づいた。
「おれが先に引くー!」
「あーちゃんが先~!」
「わたしが先よ~!!」
そう、そのくじを引く順番を決める方法を考えていなかったのだ。
けれど先生は、このような想定外の出来事にも慌てない。これだけの子供たちに囲まれているのだ、むしろ予想通りに事が運ぶほうが少ないのが日常なこの職業。
保育士という職についてから経過した期間は少ないけれど、そんな場所に身を置いていたおかげで、先生は若くして動じない鋼の心と想定外の出来事に対応する柔軟な発想力を手に入れていたのである。
「え~、じゃあ、先生とじゃんけんをして勝った人からね!」
方法はまぁ、いたってシンプルだけれど。
話は変わるが、この先生には一つの信念があった。それは、もめごとが起こった時、名前のあいうえお順や誕生日順にしない事である。
と言うのも、彼女自身が1月1日生まれの『相内』だったため、どちらにせよ何事も1番始めで散々苦労させられてきたからである。
入学当初や進級した最初は『自己紹介』とかいう悪夢めいたイベントに遭遇し、高確率で出席番号順だから一番最初で内容を考える時間もなく、どういった具合で話せばいいのかもわからないまま、それでも頭をこねくり回して全力を尽くした自己紹介を次の人にパクられる。
どんな時も、何かの発表の時も1番。そんな彼女が一番つらかった1番のエピソードは、何を隠そう授与式だ。
例えば卒業式などの際、名前を呼ばれて起立するのは、当然のように出席番号1番の彼女。
最初に立たされて、それからはクラス全員分が終わるまでずっと立ち続けなければならない。
さらに、証書を受け取る際も、一番最初だから以下同文とはならず、校長先生の読み上げる証書の文が終わるまでずっと教壇に立っていなければならない。
そして極め付けには、受け取って座席に戻ったら戻ったで結局皆が受け取るまで立ち続けなければならなくて、ましてや、それが一回だけならまだしも、本番が残り数日までに迫ってくるとほぼ毎日頭おかしいぐらいに練習させられる。
何も悪くないのにずっと立ち続けていなければならないこんな名前のせいで、将来の夢の作文に『1番の苦悩』というタイトルで、文末に『すぐに結婚してこんな名前塗り替えてやる』という野望を力強い字面で書き殴った学生時代はまだ昨日のことのように感じるが、悲しいかな彼氏はおろか男友達すら無に等しいのが現状である。
そんな彼女だからこそ、名前や生年月日、さらには背の順や身体能力などで順番を決めることは絶対にしないと誓いを立てているのだ。
何の準備もしていない、丸裸同然の状態で視線と言う名のスポットライトを浴びるあの恐怖はきっと出席番号1番になった人にしかわからないだろう。
「――それじゃ、最初の当番は――」
********
それから、数か月が経過した。
最初はまだ赤ん坊だったウサギのモフも、今では少しだけ大きく育っている。
しかしそれとは対照的に、最初は人気だったウサギのお世話も、徐々に飽きが来たのか特定の園児しか行わなくなっているのが現状だった。
そして、今日もいつものように、その特定の園児という立場になった二人が、いつものように園内の隅の方に目立たずに設置してあるウサギ小屋へと近づく。
その人物の一人が、このウサギに“モフ”と名前を付けた女の子――りなちゃんだった。
「モフちゃん~ごはんだよ~」
4歳の少女の手のひらには少しばかり大きめの器。そこに、モフのごはんになる生野菜が食べやすい大きさにちぎって盛り付けてある。
この餌は全部、モフを飼い始めた時と同時に行った園児たちの小さな菜園から集めている者だ。と言っても、水やりはほぼ全部、年中組の担当の相内先生と、今もウサギのお世話をしているりなちゃんと、あともう一人の園児だけだった。
「じゃありなちゃん、わたしモフちゃんのおへやのおそうじするね」
そう言って、慣れた手つきでウサギ小屋に立てかけてあったほうきを手に取ったのは、りなちゃんと一緒にお世話をしていたもう一人の子――
「うん、じゃありな、おみずとりかえて来るね、“ことねちゃん”」
――竹田 琴音だった。
当時、りなちゃんと同じ4歳だった琴音。
この頃の彼女は、人見知りとはいえど少し自分の感情を表に出すのが苦手なだけの――比較的大人しい女の子というだけだった。
琴音とりなちゃんは普段あまり会話はなかったが、あの日のくじ引きで一緒のお世話係になってからというもの、思いのほか意気投合して仲良くなり、今では幼稚園で常に一緒に遊ぶほどの間柄になっていた。
りなちゃんもりなちゃんで、親が日本人とフランス人のため生まれつきハーフで、髪の色素も薄く赤みがかかっており、それゆえ皆に避けられている節があり、だからこそお互いに心から笑いあえる友達は初めてだったのかもしれない。
そのおかげもあって、二人の仲は子ウサギのモフによって固く結ばれていたのである。
「ことねちゃん、おそうじ終わったー?」
「うん! とってもぴっかぴかだよ」
「じゃあモフちゃんのごはん、いっしょにあげよう?」
「うん! ……って、あー!」
一通り雑務をこなした後の楽しい時間である餌やり。
琴音とりなちゃんはいつも通り餌を与えようと野菜が盛り付けられた器に手を伸ばす。
しかし、その時に琴音はあることに気づく。
そう、モフちゃん用の餌に、数匹の蟻が集っていたのだ。
それを見た琴音は、小さく驚きながら――。
「もう、だめだよアリさん~! それはモフちゃんの~!」
――指先で優しくつまみ、地面へと返してあげた。
「ことねちゃん、虫こわくないのー?」
「べつに怖くないよ? わたしアリさんすきだもん!」
「へー、すごいねことねちゃん!」
「えへへ~」
野菜に集っていた蟻をすべて掃け終わると、「つぎやったらおこるからね!」と蟻に説教をする琴音。
そして気がすんだのか、再び野菜の一つに手を伸ばした。
「あ、りなもー」
二人が差し出す野菜を、おいしそうにモクモクと食べ進める子ウサギのモフ。
そんなモフを見て二人はお互いに顔を合わせると、嬉しそうに「にへー」と笑顔を向けあった。
そんな日々が続き、メジロ幼稚園は夏休みを迎えようとしていた。
夏休みが1週間後に迫って来た辺りの帰りの時間。皆が送迎用の幼稚園バスに乗り込む。
幼稚園バスもクラスごとでわかれているため、年中組しか乗っていないこのバス内を眺めながら、相内先生はとあることで頭を悩ませていた。
それは、『夏休みの間、誰がウサギのお世話をするのか』、についてだ。
本来の予定では、年中組の相内先生――つまり自分自身が世話係を担当する予定だったのだが……。 幸か不幸か、突然の用事でそれが叶わなくなってしまったのである。
先生の用事は夏休みの最後の1週間だけなのだが、その1週間は確実にウサギの世話は出来なくなりそうだった。
つまるところ相内先生は、自分の代わりにウサギの世話をしてくれる……いわば代役を探さなくてはいけない状況にあったのだ。
そんな状況の中で相内先生がまず真っ先に思いついた解決法は、他の先生に頼んでみることだった。
しかし世知辛いこの世の中。どの職業にも上下関係というものが存在するわけで、まだまだ若輩者の自分のお願いを簡単に受け入れてくれる先生はいなかったのだ。
まぁ、仕方ないといえば仕方がない。
園児たちが休みと言うことは、先生たちにとっても休み。
もちろん雑務等の仕事もあるが、ここメジロ幼稚園では、夏休み中は『親と子の触れ合いも大事』という名目がら預かり保育も行っていないため、先生方は各々の仕事を終えた者もまた夏休みに入れるという、教職員にとっても魅力的な期間なのである。
ずっと大勢の園児の世話をして、時には保護者達に愛想をふりまきながら精神を削るこの仕事。
そんな心労募るこの仕事に、やっと訪れた長期休暇のチャンス。そんなチャンスを潰してまでして、誰がウサギの世話なんかに感けるだろうか?
そして、それは相内先生も同じだった。
本来ならば相内先生がお世話をすることになっていた。先生自身も、ウサギの世話をすること自体は苦ではなかった。事実、先生自身もついこの間まではお世話するそのつもりでいた。
でも、それらをすべて他人に任せてまでこなしたい用事が、ある日突然舞い込んできてしまったのだ。
相内先生にとってその用事は、とても大事な……考えようによっては人生を大きく左右するかもしれない、本当に希少な用事だった。
例えるならばそう、目の前に長年の夢が叶うチケットと、ウサギの世話のチケットをぶら下げられた場合、わざわざウサギのチケットを取る人なんてほとんどいないだろう。
相内先生は今、そんな状況だった。
そんな極限なまでの板挟みの中で相内先生は、昨日ある作戦を実行に移していた。
先生に代役を頼んでみてもダメだった。
なら、その次は……と考えると、自然と保護者たちの方へ考えが及んだ。
だから先生は、保護者達に協力を募るため、その概要を書いたプリントを配布したのである。
当然、確率的には低い。
責任があるはずの先生たちだって拒否したことを、わざわざ名乗りを上げてまでやってくれる保護者の方など存在するわけもない。
だから、これが最後。
園児たちを送り届ける際、そこで顔を合わせるはずの保護者の方たちにそれとなくお願いする。
成功しないことは百も承知。あくまでダメもとで、だ。
もしも、それで世話をしてくれる人が現れれば万々歳。ダメならもう、仕方ないから覚悟を決めて用事を蹴るしかない。
そう心に決めた先生を運ぶバスは、最初の送り届け場所へと到着した。
「――せんせー! さよーならー!」
最初の子がバスから降りる。
そこには当たり前に、迎えに来ていたその子のお母さんもいた。
園児とそのお母さんに一通り挨拶と今後の報告をした後、相内先生は本題を切り出してみる。
「あの……それでですね、お配りしたプリントでもご協力を募らせていただいたのですが……ウサギのお世話の件……どうでしょう? あ、もちろん強制ではないですので……本当によろしければ、という形になるんですが」
ちゃんとお世話して頂いた期間、ウサギのお世話のためにかかった費用等はすべてこちらが負担します、と付け加える。もちろん、この交渉をすることは園長先生にすでに承諾済みだ。
けれど、結果は予想通りで。
「ごめんなさいねぇ」
という一言とともに頭を下げられる。まぁ、想像していた通りだ。
それからというもの、園児を指定の場所に送り届けては、同じセリフとともになんとか交渉を試みる先生。
けれど保護者達もまた、似たようなセリフとともにそれを拒否し続けていた。
そして断られ続けるまま、とうとう一番最後の園児……琴音の自宅の近くまでやってくる。
琴音は、他の園児が興味を失った後でもずっとウサギの世話をしてくれていた園児の一人だ。もちろん、先生はそのことを知っていた。
だからもし代役を了承してくれる可能性があるとしたならば、琴音と、あともう一人、同じ理由でりなちゃんだと考えていた。
しかしあいにく、りなちゃんの方は今日、家の都合とかで幼稚園を休んでいた。
いくら代役を見つけたいからと言って、まさか休みのところをわざわざりなちゃんの家に押しかけて「ウサギのお世話どうですか?」なんてちょっと特殊な訪問販売じみた真似などできるはずもなく、実質先生の最後の望みは琴音に託されていた。
相内先生にとって、琴音が最後の希望。
先生が今から行おうとしていることは、一方的な押し付けにすぎない。本来なら、先生がしっかりしていれば問題のなかった事なのだから。
そして先生自身も、それを自覚していた。
しかしそれらを天秤にかけたうえでも、今回の用事はできればキャンセルはしたくないぐらい重要だったのだ。
なぜなら、何を隠そう。
――相内先生自身の、結婚式があるからである。
きっかけは、一人の園児の延長保育だった。
その園児の家庭は両親ともども働いていて、どうしても既定の時間までに迎えが来れないという、まぁ幼稚園ではよくある事情ゆえの延長保育。
そして、その園児はいつも一番最後まで、本当に時間ぎりぎりの夜遅くまでずっと残っている。
メジロ幼稚園では、雑務や延長保育などの仕事が終わって帰れる状態になると、自由に帰宅していいという決まりがあった。
わかりやすく言えば、延長保育で残っている園児がいないクラスの先生は雑務さえ終われば園児が帰宅するのと同じ時間にいつでも帰宅できるのに対し、延長保育で残っている園児がいるクラスはその園児の迎えが来るまで残ってなくてはいけないのだ。
一応、延長保育が可能な時間に決まりはあるけれど、その決まりの時間を過ぎたからといって「時間だからほっぽって帰ろう!」というわけにもいかないので、実質園児の迎えが来るまで残っていなければならない。
延長保育の場合はバスで送ることは出来ない規則。というより、いつも運転してくれている運転手さんも定時で上がるため、運転できる人がいなくなるのが理由だ。
ゆえに延長保育の場合は、ご家族の方に幼稚園まで迎えに来てもらうのが決まりである。
いつも最後まで幼稚園に残っている一人の園児。
その園児のお迎えに来てくれる人は、決まってその子のお父さんでも、お母さんでもなかった。
そう、年の離れた、その子のお兄さん。
延長保育で時間ぎりぎりまで残っている園児がその子だけというのもあり、毎回その子の迎えの時間には幼稚園に先生一人だけ。ほかの先生も雑務がおえていない場合は別だが、大概退勤している。
だから必然と、先生は迎えに来たそのお兄さんと会話をすることになる。
お兄さんの年齢は、自分と同じ二十代前半。
年が近いおかげか思いのほか話が合い、結構話し込んだりもしていた。――園児は少し退屈そうだったけれど。
そんなことを繰り返しているうち、先生とそのお兄さんはお互いに惹かれあっていく。
そしていつしか、交際を始めるのだ。
けれど先生には先生としての業務。お兄さんには営業マンとしての仕事があったため、付き合いたてのカップルがするような初々しいデートなんて一度もしたことはない。
だから二人にとっては、夜、誰もいない幼稚園で、延長保育の迎えに来た時にくだらない会話に花を咲かせるのが何よりも幸せだった。
そんな経緯があって、その二人はとうとう結婚に至る。
つまりところ、その結婚式がちょうど夏休みとかぶってしまっていたのだ。
結婚式の日にちをずらすことは、まぁ……やろうと思えばできる。
でももしこの機を逃したら、お兄さんも先生も、お互いに時間の都合が取れず結婚がドンドン先延ばしになってしまうことは目に見えていた。
先生の夢であり、かねてからの希望でもあった結婚。
変な話、ウサギの世話と結婚式で言えば、とても不本意だったが先生的には結婚式を優先したかった。
そんな思いを孕んだ、先生の願い。自分の都合だけで保護者に責任を押し付けるのだから、罪悪感はとてつもなくあった。
だからもしも全員に断られたら結婚式は諦めると、本当に覚悟を決めていた。
でも――。
「全然かまわないですよ~」
琴音の母は、何のためらいもなく引き受けてくれたのだ。
「えっ、い、いいんですか!?」
思わず、先生も大きな声を出してしまう。
もしかしたら無理をしているんじゃないか、本当は断りたいのに断り切れずにいるのではないか、と、そんな言葉がぐるぐると先生の頭の中を掻きまわしていた。
「えぇ、もちろん」
それでも、琴音の母はそう即答する。
よかった。嬉しい。これで結婚式に出れる。……そのはずなのに、十中八九断られると思い込んでいた先生にとってはその結果があまりにあっけなさ過ぎて、胸中に不安だけが募ってきてしまっていた。
「あ、あの実は……元々、私の仕事で……でも、私用事があって、だから誰かに頼もうとしてたんです! だ、だからその……自分勝手な理由で仕事を押し付けるみたいな……その……!!」
自分でも何を言いたいのかわからない。
わざわざ世話をしてくれるというのに、こんなことを言って「じゃあお断りします」なんて言われでもしたらどうするつもりなんだ。
そんな自責が先生の心を掌握する。
だけど。
「大丈夫ですよ先生。実はあのプリントをいただく前から、この子は夏休みの間ずっと「モフちゃんの世話をするんだー」って言って聞かなかったんです。なのでむしろこちらからお願いしようとしていたところだったんですよ」
ね? 琴音。と言いながら、琴音の頭に手を乗せてぽんぽんと優しく叩く。
その言葉に驚いた先生は、琴音の目線の高さまでかがむと、
「本当にいいの……? 琴音ちゃん」
と尋ねた。
すると先生の心の中の蟠りを全部吹き飛ばしてくれるぐらいのはじけた笑顔で、
「うん!」
琴音はそう頷いたのだ。
その笑顔に、思わず涙がこぼれそうになった。
申し訳ないという想いと、ありがたいという想いと。色々な感情が混ざり合って、腰が抜けそうな感覚すら覚えた。
「……と言うわけなので、先生。気にしないで、琴音に全部任せてあげてください」
「……は、はい! よろしくお願いします!! ありがとうございます!! ……琴音ちゃんも、ありがとね!」
「えへへ~! わたしね! りなちゃんといっしょにね! モフちゃんとあそぶの! でもね、りなちゃんがあそべなくても、あそぶの!」
「あははは、お願いね、琴音ちゃん」
あははは、と笑い声が空へと消えていった。
先生は心の底から感謝をした。
そして、夏休みに入る前の日。
それは、いつものように、りなちゃんと琴音の二人でモフの世話をしていた時だった。
「え~!? りなちゃんモフちゃんのお世話できないの~!?」
モフに餌を与えながら、琴音が驚く。
「うん……だからね、ことねちゃん、休みのあいだ、モフちゃんのことよろしくね」
りなちゃんもまた、とても残念そうな顔でうつむいた。
彼女の父親は、フランス人で、母親が日本人。
話を聞いてみると、りなちゃん一家は、長期休暇を利用して、そのフランス人の父の実家に戻らなくてはならなくなったとのことだった。
つまり、日本を離れ、夏休みの間フランスに行かなくちゃ行けなくなったのだ。
それを聞いた琴音は、寂しそうに顔をゆがめながらも小さく頷いた。
「わかった、わたし、りなちゃんのぶんもいっしょーけんめーモフちゃんのお世話する!」
「うん! おねがいね、ことねちゃん!」
本当に仲の良い二人。
けれど、この二人の笑顔は。
――夏休みを境に、無くなってしまうのだ。
第六十四話 完
琴音の過去編はそんなに長くならないと思います。おそらく!