第六十一話~一難去って……~
今迄のと比較するまでもなく、驚異のハイペース更新!(ただ夏休みで時間があっただけ)
耳元で誰かの声が聞こえる。
その声はか細くて、儚くて、だけど俺がよく知る声だ。
左手が温かい。
誰かが、握ってくれている。
そして今も、ずっと声をかけ続けてくれている。
その声の主が誰かなどという疑問は、不思議と一切湧かない。
非常に心地が良い、安心できる声色。
この感覚は、琴音の身体で秋に会った時に感じた安心感とどこか似ていた。
でも、声の主は秋じゃない。
女性だ。
琴音か、エメリィーヌか。
……違うよな。
俺のことをここまで心配し、ここまで尽くしてくれて、いつまでもずっと隣にいてくれるヤツなんて……。
「――先輩……! 先輩、ですよね……!? ちゃんと無事に……!!」
「……あぁ。ありがとな。心配かけた」
お前しかいないよな、ユキ。
第六十一話
~一難去って……~
「……!! せんぱぁああい……!!」
ゆっくりと体を起こす余裕もなく、唐突に全身が柔らかい感触で包まれる。
反射的に引きはがそうと手を伸ばすが、俺に抱き付いているユキの目から涙がこぼれているのを見て、俺はそれをやめた。
その代わりというわけではないけれど、片時も離れずにずっと傍に居続けてくれたであろうユキの頭を感謝の意を込めて撫でてやる。
「カイ~、顔が真っ赤なんヨ~?」
「う、うっさいな」
冷やかしてくるガキンチョにはチョップを叩き込んでおく。
「山空、どこか異常はないか?」
ソファで横になりいまだ目を覚まさない琴音の傍にいたオメガが、俺のもとへと歩み寄ってくる。
「あぁ、今んとこ大丈夫だ。ちょっと頭がクラクラするけど、それ以外は無事っぽい」
ちゃんとした自分の身体。
そしてそれは、オメガの発明品が無事に成功したことを意味する。
《入れ替わり》は一日もないくらいの短い時間だったけれど、自分の声でこうやって言葉を発するのが少しだけ懐かしく感じた。
やっぱいいよな、自分の身体っていうのは。
「山空の頭がクラクラするのは、おそらく長時間にわたる《入れ替わり》から急に元に戻った際の後遺症のようなものだろう。しばらくすれば改善されるはずだ」
「そっか。オメガもありがとな」
「……どうした山空。キミが素直にお礼を言うなんて珍しいんじゃないか?」
「ユキにも同じこと言われたけど、俺って普段みんなからどう思われてんの?」
オメガに指摘されてなんだか急に照れくさくなった俺は、少しだけぶっきらぼうに答える。
「……まぁでも、確かに普段はあんまそういうのなかったとは自分でも思うよ」
俺は小さいころから両親(主に親父)に振り回されてた。
そのうちの一つとして、あれよあれよという間に俺の一人暮らしが決定した。
始め、俺はそんないい加減な両親に半ば反発するような形で日々を過ごしていた部分もあったかもしれない。
そしていつしか、一人暮らしを始めて家事や自炊なんかにも慣れてきた時には、俺は一人で何でもできるって心のどこかで思っていて、そのすべてが誰かに支えられて成立しているものだってことに気づいていなかった。
自由奔放な両親だったけど、そんな二人の支えがあって俺は今こうして何事もなく一人暮らしができている。
それにいくらいい加減だといっても、世間には子を殺してしまう親だっているし、住む家も、食べるものもないくらい貧乏なご家庭だってきっとあるはずだ。
そういう人たちから比べると、幸い俺の親は隆起的でもなければ、経済的にもちゃんとしている真面目な親だ。だからこそ、俺も好きかってやらせてもらっている。
それは、何よりもありがたいことなのだ。
親が頑張ってくれているから、お金にだってあまり困っていないし、学校だって通えているし、こうして健康で生きていけている。
そしてそれは、なにも両親に限った話じゃない。
秋や琴音、エメリィーヌやオメガ。そしてユキ。
それ以外にももっともっと、俺の支えとなってくれている人たちが存在する。
大きい規模で言えば、俺たちが事故や事件に巻き込まれずにこうして安全に生活できるのは、警察の人が頑張ってくれているからだ。
俺たちが学校に通えているのは、先生方が必死に学校を支えているからだ。
少し大げさな話になってしまったけれど、つまりはそういうこと。
俺が何かをしようとしたりするには、必ず誰かが何かを頑張ってくれているからできること。
そんな当たり前のことを、当たり前に思わないで感謝をする。
今回の《入れ替わり》で、俺はそれを身に染みて理解させられた。
「なんだかんだ言ってもさ、俺的には……今回の《入れ替わり》は凄く勉強になる部分も多かったんだ。いかに自分が恵まれた環境にいるかってことを、肌で感じた」
この《入れ替わり》があったから秋の優しさに気づけたし、西郷先生の器のデカさも知ることができたし、……そして何より、ユキのことも考えさせられた。
そのことで散々悩んだことも、その悩みが決して無駄なんかじゃないってことも、いろいろわかった。
そして、それらをまるまる全部ひっくるめて、感謝の心を知った。
症状が進行して危機的状況に陥ってしまった琴音には悪いけど、俺にとってこの《入れ替わり》はかけがえのない情報を俺に与えてくれた大事な時間だった。
だから、みんなの言うように今の俺は、自分で言うのもあれだけど今までの俺とは一味もふた味も違う、いうなればまた一つ大人の階段を上った新しい俺ということになる。
「だから、二人が言う俺らしくないってのは……あながち間違いじゃないかもしれないな」
俺はこれからの人生、前の俺よりは有意義にすごせると胸を張って言える。
今までよりも人にやさしくできるだろうし、俺も気分よく日々を謳歌できるだろう。
少なくとも、そんな単純な思考の自分が可愛く思える程度には、心にゆとりを持つことができたようだった。
「つーわけだから、ユキも……もうちょっとだけ待っててくれな。ちゃんと答えは出すから」
ユキにすら聞こえないぐらいの小さな声で、俺はひとりつぶやいた。
「へ……? 先輩、今なにか言いましたですか……?」
ぐすっと涙を拭いながら、ユキははてなマークを頭に浮かべる。
「なんでもねーよ」
そんなユキをいじらしく思い、頭をわしゃわしゃと撫でてやった。
普段なら俺が絶対しないような行動に戸惑ったらしいユキは、驚いた様子で俺から飛び退くと「も、もう先輩ってば! 髪の毛がぐちゃぐちゃになっちゃうじゃないですか!」と悪態をつく。
そんな彼女の顔は真っ赤に染まっており、いつも積極的に俺にアプローチをかけていた彼女とはまた別の汐らしいユキが滑稽に思えて、俺はケラケラと笑い声をあげた。
「な、なんで笑うんですかー!!」
「ははは、わりぃわりぃ」
「む~。先輩が意地悪になった気がしますです……なんかお茶を濁されてるような~……」
ぶつくさと不満を漏らすユキ。
うん、こういうからかい方をするとユキはこんな反応を示すのか。実にほっこりする。
「なにほっこりしたような顔してるんですか先輩!! ドSですか!? エクストラサディストですか!?」
「おいコラ新しい単語作るな。なんだよエクストラサディストって」
人聞きが悪すぎるだろ。
「うむ、その様子だと山空は完璧に無事みたいだな」
俺とユキの中身のないやり取りを聞いていたオメガは、安心したように顔をほころばせた。
しかしすぐに険しい表情に戻すと、いまだ目を覚まさない琴音に視線を向ける。
「まぁ……琴音ちゃんが目を覚ますまで安心はできないが」
「……ですね」
「なんヨ」
たしかに、俺が無事に元に戻れたからと言って、琴音まで無事とは言い切れない。
ただでさえ琴音は俺よりも症状が悪化していた。そのことを踏まえても、俺よりも琴音のほうが重要なのははっきりとわかる。
「琴音……頼む……琴音……!!」
ユキが俺にそうしてくれていたように、ソファで横になる琴音の手を握りずっと声をかけ続ける秋。
そんな秋の呼びかけが伝わったのか、もぞもぞと琴音が寝返りを打つ。
「うぅ……ん…………、……あれ……秋、兄ぃ……?」
そして、ゆっくりと身体を起こし、秋の名を口にした。
「琴音? 気づいたか琴音!! 大丈夫か!? 痛むとことか……なんかおかしなところとかないか!? あ、俺のこと、わかるか?」
秋が必死に言葉を投げかける。
あまりに必死な秋の声に少しだけ戸惑ったそぶりを見せつつも、琴音は丁寧に答えていく。
「えっと……痛いところも……変なところもないよ、秋兄ぃ……」
「はぁ……よかったぁあああ!!!」
そんな秋の言葉は、俺たちの気持ちも代弁してくれていた。
よかった。本当に良かった。
これで何事もなく、無事にすべて元通りというわけだ。
「良かったなんヨね、シュウ」
「あぁ、本当に良かった……」
安心しすぎて全身の力が抜けたらしい秋は、大の字になり仰向けで絨毯に寝っ転がった。
オメガもオメガで、表情にこそ出さないが何事もなくて内心はすごく安心しているのだろう。いつもよりも朗らかに見える。
もちろん、それは俺たちも例外じゃない。
俺だって肩の荷が下りたし、エメリィーヌもぬへへとここ最近で一番の笑顔を見せている。ユキに至っては涙を流しすぎてもう泣いてるのか笑ってるのかよくわからない顔になっていた。
そして、そんな俺たちを見まわして、不思議そうな表情を浮かべる琴音。
「……あれ」
「どうしたんヨか? カイ」
「いや……なんか……」
琴音の顔を見た瞬間、心が陰るような錯覚に襲われた。
それが何を意味するのか、なんでそう感じたのかはわからないけど……なんか、こう……琴音は琴音でも、この琴音はいつもと何かが違う、そんな気がしたのだ。
そんな不安を晴らしたかったため、改めて、琴音の顔を確認してみる。
琴音も俺の視線に気づいたのか一瞬こっちを見たけれど、目が合ったと同時にすぐに目をそらされた。
――ジッと見つめられて照れたのだろう。
そう自分に言い聞かせるも、やはり心の中にあるもやもやした感じは晴れない。
なぜだろう、うまく言えないけれど、琴音と俺との距離に壁があるような、そんな気がする。
「な、なぁ、琴音……」
ドクンドクンと鼓動が強くなる。
根拠はない。だけど、気のせいという言葉で片付けられるほど、簡単なものではなかった。
今のこの感覚を一言でいうなら、琴音が俺を……いや、〝俺たちを警戒している”ような……。
だから俺は、そんなわけないと思いつつも、琴音に問いかける。
「俺が誰だか……わかるか……?」
俺が言うと、みんなの表情が陰るのが分かった。
「せ、先輩……なに……言ってるんですか……?」
「ごめんユキ、俺もわからない。でも、なんか……変なんだ、琴音」
「変って……」
そこまで言って、ユキは口ごもる。そして、その先を琴音の反応で得ようと彼女のほうに視線を向けた。
それを筆頭に、俺に向けられていたみんなの視線も琴音へと集中する。
みんなが息をのむ。
そんな中、当の琴音は顔をひきつらせながら完全に下を向いてしまった。
……正直、俺にはその反応だけで十分だった。
「覚えて、ないんだな……? 俺のことも、ユキやオメガやエメリィーヌのことも、全部」
琴音が俺たちのことを覚えていたとしたら、こんな反応をすることなんてありえない。俺たちを警戒する必要が、まずない。
すなわち今の琴音の反応は、俺たちのことを知らない。忘れている。だから警戒している。そういうことになる。
「……そう、なのか? 琴音」
秋が恐る恐る問いかけた。
すると、琴音はゆっくりと、ただ黙って頷く。
「そんな……琴音っち……」
ユキの顔を見ると、真っ青だった。
おそらく、俺も同じ顔をしていると思う。
秋も、オメガも、同じだ。
いつも賑やかなエメリィーヌも、なんて言葉を発していいのかわからず、この時ばかりは無言になる。
「ご、ごめん、なさい……私……よく、わかんなくて……」
場の雰囲気から自分が原因だと察したらしい琴音は、小さく謝罪する。
そんな彼女の謝罪もまた、俺たちの絶望感を煽るだけだった。
一難去ってまた一難。
言葉にすればすっきりしているけれど、その一難がとてつもなく大きい。
漸く《入れ替わり》が終わって、全部元通りになると思っていたのに……今度は琴音が記憶喪失(?)になってしまった。
まだ《入れ替わり》は機械を使えば元に戻れるという希望があった。
でも、記憶喪失は話が別だ。
もしかすると1分後には何事もなかったかのように全部思い出すかもしれないし、最悪一生このままかもしれない。
どちらにせよ、どうやったら助かるのか、明確な方法がないから、目指していい希望がない。
これを絶望と言わずしてなんというのか。
もちろん、だからと言ってただ指をくわえてみている気もさらさらない。
助かる可能性をほんの少しでも上げるため、俺たちは努力するしかない。
そして、そのためにはどうするのか。
まずは、琴音がどれくらいの期間分の記憶を忘れてしまっているのかを調べる。
少なくとも、俺の記憶がないのだから、俺が琴音と初めて会った日――つまり4年分は消失してしまっているといっていいだろう。
でもだからと言ってそれを鵜呑みにしない。
俺の記憶がなくても、俺と一緒に過ごした時間の記憶は残っているかもしれないのだ。
だから今は、そういう部分を重点的に調べる。
「琴音、いきなり悪い。俺は山空 海。わかるか? お前、俺のこと海兄ぃって呼んでくれてたろ?」
「…………」
ただ無言で、フルフルと、琴音は首を横に振る。
その反応が、思っていたよりもツラかった。
まるで心を握るつぶされているかのような、息苦しさが俺を襲う。
何とかしたい一心で話しかけたのだけれど、早々に心が折れそうだった。
そんな俺を見て、琴音が口を開いた。
「あの……もしかしなくても……私、記憶喪失……ってヤツですよね……」
「え、琴音……自覚あるのか?」
秋が驚いた声を上げる。それは俺も同じだった。
記憶喪失で何が一番厄介なのか。それは、記憶を失った本人が、自分が記憶を失ったことを自覚したときにパニックになってしまうことだ。
自分が知らない自分のことを、周りが知っている。
そんな不可思議な状況を突然目の当たりにして、脳が混乱を起こす。よく耳にするケースだ。
だから俺は、琴音に自分が記憶を失ったことをあまり気にさせないようにしようと気を付けていた。
でも、あろうことか琴音は自分からその話題を持ち出したのだ。
琴音本人にとっては受け入れがたい現実のはずなのに、わずか数分で受け入れようとしている。
記憶喪失に関する知識が全くない俺でも、それは凄いことだっていうのがわかった。
「だって……みんな私の名前知ってるみたいだし……ましてや秋兄ぃもそんなようなこと言ってるし……こんな状況、私が記憶喪失になったって考えるのが普通だと思う……」
「いやいや琴音お前それ凄いことだぞ!?」
「お、大げさだよ秋兄ぃ……そもそもゲームじゃ珍しいことじゃないし……」
「お前こんな時までゲームかよ!」
「それにこういう時って意外と些細なことで記憶戻ったりすることが多いし……なんとかなるよきっと。ゲームならだけど」
「お前のそのちょくちょく見せるゲームに対しての信頼なんなんだ!」
「それに私、一回記憶喪失の気分味わってみたいと思ってたからむしろちょっと新鮮というか……」
「どんなポジティブシンキングだよ! 逞しいな!」
「も、もちろん不安はあるよ? 本当に全然思い出せないし……それは怖い。……けど、なんていうかさ……やっぱあれかな、一度やったゲームとかも、もう一度新鮮な気持ちで楽しめたりとかするのかな!?」
「なんでちょっとテンション上がってんだお前!」
兄妹二人のやり取りを聞いて、唖然とする俺たち。
そんな中、最初に崩れたのはオメガだった。
「ふふふ……あははははは!」
突然笑い声をあげるオメガに、秋たち二人も会話をするのをぴたりとやめ、オメガのほうを振り返った。
その直後、オメガを口火に、ユキもクスクスと笑いながら肩をくすめた。
いったい何事かわからずにきょろきょろと視線を動かす琴音をみて、不謹慎ながら俺も吹き出してしまう。
最終的には、秋さえも笑っていた。
「え、な、なにっ、なんなんヨか!?」
エメリィーヌだけはなんで俺たちが笑っているのか理解できずにいるようで、オロオロと狼狽えている。
琴音は、自分が何かをやらかしたと思い、顔を真っ赤にして再びうつむいていた。
「はぁ……すまない、琴音ちゃん。それに竹田兄も……こんな状況で笑うのが不謹慎なことぐらい重々承知していたのだが……でもそのおかげで肩の力を抜くことができたよ、ありがとう琴音ちゃん」
「すみません……ユキもつい……でもさすが琴音っちです。頑張って記憶取り戻しましょうね!」
「えっ? えぇ?」
オメガとユキが口々に褒めるので、琴音は訳も分からず混乱しているようだった。
でも、そんな姿さえもさすが琴音だなって思える。
だから、俺も言った。
「ユキやオメガの言うとおりだな。琴音しかできない芸当だった。すげえよ琴音。お前最高だわ」
笑い過ぎて目にたまった涙を、俺は指で拭った。
「しゅ、秋兄ぃ~……」
混乱が限界に来たのか、琴音は軽く涙目になりながら秋に泣きついた。
そんな琴音の背中を、励ますように優しくぽんとたたく秋。
「お前が記憶をなくしちまったから、俺たちも結構追いつめられててさ。どうやって助けていいのかもわからず、途方に暮れてたところだったんだよ。でもお前がいつも通りで安心した。ありがとな琴音。さすが俺の妹だ」
「ですです! ユキはちょっと難しく考えすぎてて頭痛くなっちゃってたんですけど、当の琴音っちがあまりいつもの琴音っちでしたから……そのおかげでリラックスできましたです! 凄いですよ琴音っち!」
「だな。ちょっと悩みすぎてたけど、……変な言い方になるが、琴音のその素っ頓狂さのおかげで肩の荷が下りたわ。サンキューな」
「ありがとう琴音ちゃん。僕はまた自分を責めるところだった。またキミに救われた。……だからもう大丈夫。安心してくれ琴音ちゃん。キミは僕が――いや、僕たちが必ず記憶が戻る方法を見つけ出す。もちろん琴音ちゃんにも協力してもらうよ」
本当に、みんなが言った通り凄く安心できた。
もし琴音がもうすこし後ろ向きだったら、記憶を失ったことで落ち込んだり、泣いたり、心を閉ざしてしまったり、最悪の場合生きてるのがツラくなって自分で命を絶ってしまう――なんてことになってもおかしくなかったのだ。
それに記憶がなくなるってことは、人生がめちゃくちゃになるってこと。
そんな風に考え、思い詰めていた俺たちにとって、琴音のポジティブな発想にとても救われたのだ。
記憶がなくなっても、琴音は琴音。
たとえ俺たちのことを覚えていなくても、俺たちが身構える必要なんてなかった。
俺たちは必要以上に悩みすぎていた。実際はそんな難しい話じゃなかったんだ。
琴音と一緒に、みんなで、完全に、完璧に、元に戻る方法を探す。ただそれだけのことだったのだ。
「つーわけでみんな。ショックを受けている暇があるなら、一緒に琴音の記憶を戻す方法探すぞ! もちろん、琴音も一緒にな」
俺がぱちんと手のひら打って気合を入れると、みんなもそれに続くように頷いた。
「うむ」
「です!」
「な、なんヨ!」
「おう!」
「は、はい……」
それじゃまずは当初の予定通り、琴音がどこまで覚えてるか調べるとするか――――――。
「――んで、二時間が経過したわけだけど……」
あれからいろいろ試してみたけれど、結局琴音の記憶が元に戻ることはなかった。
酷くもなっていないけど、改善もされていない。まさに袋小路状態。
「みなさん、お茶が入りましたですよ」
ユキが人数分のお茶が入った湯呑を、おぼんに乗せて運んでくる。
「あまり根を詰めすぎてもよくないですし、みなさんも休憩してくださいです」
「……だな」
ユキに誘われて、俺たちは一度休憩をとることにした。
大きめのリビングテーブルに置かれた湯呑を、各々で勝手に取っていく。
だけど、まだ俺たちに慣れていないらしい琴音は遠慮して取ろうとしない。
そこを、すかさず秋がカバーする。
「ほら、琴音も遠慮すんなよ? 要らないなら要らないで、無理する必要ないからな」
「そうですよ琴音っち。遠慮しないで要らないなら要らないと言ってくださいです。そしたらユキは膝を抱えて泣き崩れます」
お前は何を言ってるんだ。
「ユキなりのちょっとしたお茶目ですようーみん先輩」
「全然ちょっとしてねえよ。どっぷりじゃねえか」
「ウチはココアが飲みたかったんヨに~」
「おめえは遠慮しろよハゲ!!」
「すっごい暴言吐き捨てられたんヨ」
いつものノリで俺たちがやんややんや言っていると、それが緊張をほぐす材料になったのか、琴音も自然と笑顔を見せるようになっていた。
そんな琴音と目が合って、琴音はまた照れくさくて顔をそむけてしまうけど、それでも俺たちになじんできてくれているのは嬉しく思えた。
しかし、そんな現状で満足してしまうなど言語道断。
最終的な目的は、琴音が緊張をほぐす材料すら不要なくらい馴染んだ――いつもの俺たちの関係に戻ることだ。
心の中で改めて気合を入れた俺は、今までのことをまとめることにした。
「えっと、じゃあもう一回整理するぞ」
琴音にいろいろ質問を浴びせてわかったこと。
それは、琴音は俺と出会ってから(正確にはそれの少し前から)、この《入れ替わり》の終わりまでの記憶が綺麗さっぱり抜けている。
しかし、言葉のチョイスやレパートリーの多さから見るに、言語能力や基本的な部分は中学一年生そのものらしい。
オメガが言うには、脳が記憶する部分はいくつかに分かれているらしく、言語とか言葉の意味とかを記憶している部分を『意味記憶』。体が覚えてるみたいな感じのを『手続記憶』。……とまぁそんな感じで分類されているらしい。
で、琴音の場合はその思い出とかそういう部分だから、ええと……。
「『エピソード記憶』だ。まぁ簡単に言えば、脳のアルバムみたいなものだ。アルバムが開けなければ、その中の写真――つまり、思い出を振り返ることはできないだろう? 要は琴音ちゃんは今、そのアルバムが何かのエラーで糊付けされている……みたいな状況になっているというわけだ」
……ということらしい。
「ちなみに、今しがた僕がした説明と似たようなことをついこの間の授業でやってたぞ山空」
「マジかよ。俺も記憶喪失かな?」
「カイはただ寝てただけなんヨ……」
話を戻す。
「で、琴音は自分が中学生だっていう自覚はあるんだっけ?」
「あ、はい……でも誕生日を迎えた記憶はなくて……だけど自分が13歳だってことはすんなり認識できた感じ……です」
「そこなんだよな」
オメガの話によれば、年齢云々も要は時間の経過……つまり思い出に分類される。
琴音はエピソード記憶が欠落しているしているわけだから、本来すんなり認識することなんてできないはずなのだ。
簡単に言えば、琴音は今、子供のころに事故にあって目が覚めたら大人だった、っていう状況と同じ。
もっと細かく言うならば、琴音の場合は小学三年生(8歳~9歳)頃から、《入れ替わり》が終わって目が覚めるまで(13歳)までの記憶が無いことになり、これを先程の例に当てはめると小学三年生の頃に事故にあい、目が覚めたら中学生だったっていうのと同じ状況なのだ。
だから本来、琴音は自分が中学生だったことに戸惑うはず。
しかし本人が言うには、戸惑うどころか違和感すら覚えなかったというのだ。
そういう脳のあれこれに詳しいオメガも、さすがにこれには首をかしげていた。
「僕の考えとしては、琴音ちゃんの場合、脳のエラーというよりは心――つまり魂のエラーなんだと思う」
「魂のエラー?」
「うむ。そもそも《入れ替わり》の時、琴音ちゃんは山空に限りなく近い感じになってしまっていただろう? それは、徐々に魂が体に馴染んできていたということなのだと思う」
そんなオメガの説明を聞いて、ユキも自分なりの考えを口にする。
「ということはあれですか? つまりは幽体離脱みたいなことってワケですか?」
「……というと?」
「魂が身体に馴染んでいない。つまり幽体離脱というか……憑依でいうなら幽体が半分だけ身体に入っている状態。この状態だと、まだ先輩たちは自分が自分だと認識できる」
「どういうことなんヨ?」
「う~ん、わかりやすく絵を描きますですね。画用紙と……なんか描くものありますですか?」
「ウチのお絵かきセット使ってもいいんヨ」
「ありがとうです!」
自分でも説明がじれったく感じたのか、エメリィーヌからスケッチブックとクレヨンを受け取ったユキは、サラサラと絵を描き起こしていく。
昔、本気で漫画家を目指していた時期があったと言うだけあって、琴音には勝るとも劣らない、魅せられる画力は備えているようだった。
可愛いものが好きなユキの描く絵は、殴り書きとはいえども粗さや雑さを感じさせることはなく、キャラクターもとても可愛らしい。むしろファンシーな絵に関しては琴音よりもユキの方が上なんじゃないかとすら思える。
そんなことを考えているうちに、ユキお手製のフリップが完成したようだった。
「じゃあ、もう一回説明しますですね」
そういって出した手作りのフリップには、デフォルメで描かれた直立しているクロクマさんと、そのクロクマさんの背中にさながら半身浴のごとく突き刺さった半透明のシロクマさんが描かれていた。
クレヨンで描いているせいもあるのだろうが、その絵はまるで絵本のようで、その証拠にエメリィーヌは目を輝かせながら鼻を鳴らしている。
「この佇んでいるクロクマさんが琴音っちで、この琴音っちの背中に下半身だけお邪魔しているシロクマさんがうーみん先輩の魂だとしますね」
「なるほど、これはわかりやすいんヨ!」
「ありがとですエメちゃん。……で、このクロクマさんとシロクマさんの状態が、入れ替わった直後の琴音っちとうーみん先輩の魂だとしますね」
「うむ」
「で、このシロクマさん……もというーみん先輩の魂が、時間が経過すると同時に徐々に琴音っちに吸い込まれていって」
そこまで言うと、ユキはペラリとページをめくる。
すると今度は、クロクマさんとシロクマさんが完全に合体し、パンダさんらしい人が両手を上にあげて「うおおおお」と高らかに吠えている絵が描かれていた。もちろん、パンダさんは小豆のような目に大豆のような鼻のデフォルメパンダさんだ。
「で、最終的に琴音っちと融合してしまい、このパンダさんみたいになる。それが、数時間前のうーみん先輩になってしまった琴音っちの状態」
「おぉ」
あまりにわかりやすいので、俺も思わず声が出てしまった。
「というのが、入れ替わってしまった先輩と琴音っちというわけですね眼鏡先輩」
「うむ、その通りだよ白河さん」
まぁ、山空たちの場合は合体しても別の生き物にはならないけどね。と、オメガが補足する。
「やりましたです先輩! ユキもちゃんと理解が追いつきましたですよ!」
「おー偉いぞ~。だが残念ながら俺たちは次のステップへと進んでいるんだ」
「ふへぇ!?」
そう、俺たちはユキの説明した入れ替わり現象のさらに次のステップ……つまり、琴音がなぜ記憶喪失になってしまったのか。それも、なぜ妙な失い方をしているのかについての話をしている。
でも、何とか話に食いついていこうとするその姿勢は立派だ。だから落ち込むな。そしてさりげなく俺が飲んだお茶を飲もうとするな。
「なんでばれたですか」
「いやお前、だって俺がなんか飲むと所構わず必ずやるだろ。もう一連の流れみたいになってるだろ」
「そんな先輩との阿吽の呼吸がちょっと嬉しかったり」
「何それちょっとキュンと来た」
「そんな先輩にユキもキュンと来ましたです」
「二人して何言ってるんヨか」
「もういい加減付き合っちまえよお前ら」
エメリィーヌと秋がなんか言ってきた。
やめなさい、そうやって囃し立てるのはやめるんだ。今はまだシャレにならない。
「……話を続けたいのだがいいかな二人とも」
「あ、ごめんオメガ。続けてくれ」
「ですです」
そうだった。こんな遊んでる場合じゃないんだった。すまん琴音。
「とりあえず、《入れ替わり》に関しては先ほど白河さんが説明してくれた通りだ」
「ですよみなさん!」
「すっげえ嬉しそう」
ユキは自分の紙芝居が褒められてとても胸を張っていた。
やめなさい。ちょっと可愛いだろ。
「ここからは僕の仮説にすぎないが、先ほども言ったように琴音ちゃんの記憶の異常は、脳自体に何かあったのではなく、僕はこの〝魂”の部分にあると考えている」
「仮に魂に何かあったとして、そのせいで記憶がなくなる、なんてことはあり得るのか?」
秋が問いかける。
「もちろん、脳自体にも多少は異常があったのだとは思うが……その脳のエラーも、魂が異常をきたした影響による……いわゆる併発によるものだと僕は思う」
「琴音の魂がエラーを起こしたことによって、脳に影響が表れた……ってことか?」
「その通りだ竹田兄。先ほどの白河さんの絵で言えば、最初の一枚目。今の琴音ちゃんは、自分の身体に自分の魂が馴染んでいないという状況なのだ」
琴音の身体に、琴音の魂が馴染んでいない……。
「つまりこの絵のクロクマさんが琴音っちで、シロクマさんが琴音っちの魂ってことですね」
そういいながら、ユキは先ほどのクロクマの背中に半透明のシロクマの下半身が突き刺さっている絵を出す。
「でも自分の身体に自分の魂が馴染まない、なんてことあるのか?」
いわば、魂にとって身体は器。
自分の器の中に、自分の魂が収まらない。そんな不条理が本当にあるのだろうか?
たとえば家具か何かを組み立てていて、作業中指定のネジ穴にそれに合ったネジを使用する行程があるとする。
本来、指定のネジ穴と同じ指定のネジを使用するのだから、綺麗にかみ合って当然の部品。
しかし琴音の場合、そのネジを使っているのにもかかわらずネジ穴に入らない……とまぁそのようなことを言っているようなもんなのだ。
そのネジのためだけに作られた、そのネジ専用の穴。だけど不思議と入らない。それが今の琴音ってことなのだろうか。
「なるほど、家具のネジか……言い得て妙だよ山空。そう、つまりはそういうこと。必ず一致するはずなのに、合わない。無理やり合わせようとすると、そのネジ穴は壊れてしまいもう一生使い物にならなくなるだろう」
「ユキは先輩というネジにならユキのネジ穴を壊されても構わないですけど」
「え? 何それ下ネタ?」
はしたないですよ。やめてください。
「ち、違いますよ! ユキの心のカギを先輩と言うカギ穴で開けてほしいみたいな意味です!!」
「どっちにしろ意味わかんねえよ」
喩えが独特すぎるだろ。
「……でも、普通に考えてそんなことはあり得ない。だから僕は少し混乱したんだ」
そしてオメガのスルースキル。
「で、いろいろ考えたんだが……そもそも前提として、琴音ちゃんがこんな風になっているのに、山空だけ無事なのはおかしいってところまでたどり着いた」
「まぁ、確かに」
「先輩はいたって普通の先輩ですもんね」
「なんかその言い方だと俺に個性がないみたいだな」
「いやいや、そんな秋先輩じゃないんですから」
「すっげえ流れ弾飛んできたんだけど、さりげなく俺を貶すのやめくれませんかね?」
「あれ? 秋いたのか」
「秋先輩いらっしゃったんですね」
「ストレートに俺を貶すのもやめてくんね!?」
あかんあかん。
こんな愉快なやり取りしてる場合じゃないんだ。
「話を続けるけど、琴音ちゃんが記憶を失ってしまい、山空が無事ということは、だ」
「どういう、ことなんヨ……?」
「琴音ちゃんがやって、山空がやらなかったこと。それがキーになってくるというわけだ」
俺がやらないで、琴音がやったこと……? そんなの、あるとは思えない。
《入れ替わり》が起こって、すぐ俺と琴音は連絡を取り合った。
そして、運動量の差はあれど、基本的に元に戻るためにお互いのいる学校へ向かおうとしていた。
その行動に、大きな違いなんてないように思える。
「ところがどっこい、琴音ちゃんは……というか僕のせいなんだけど、ある重大なミスを犯してしまったんだ」
「重大な……ミス……?」
琴音がして、俺がしなかったこと。
重大なミスと呼べるくらいの、決定的な違い。
……やっぱり、何もわからない。わからないものは考えるだけ時間の無駄だ。
そう感じた俺は、答えを要求するつもりでオメガの目を見据えながら彼の次の言葉を待った。
「言い淀んでいても仕方ないから端的に言うけれど、琴音ちゃんは――僕の発明品を使ってしまった」
「発明品? 使ったのか?」
「うむ。山空の身体でトイレ行きたいってなった時に、それも脳波を弄繰り回すタイプのそれをね」
「脳波を弄繰り回すタイプって何!?」
淡々となんか恐ろしいこと言わなかったかコイツ!! そんとき中身は琴音でも弄繰り回された脳は俺の脳だろ!? 何してくれてんだよ!! 怖ぇよ! 知らない間に知らないことされてたよ!
「落ち着け山空。本来なら安全な道具なんだ。だが、あの時の山空の身体には、まだ馴染み切れていない琴音ちゃんの魂が入っていた。そんな状態で、脳に刺激を与えてしまった」
オメガが言うには、その行為は先ほどのネジ穴の喩えで言うと合わないネジを無理やり締めたことになる可能性が高いらしい。
「そうだな、わかりやすく言えば……パソコンで最新の更新プログラムをインストール中に、ブレーカーが落っこちて強制終了されてしまったようなものだ」
「そらエラーも起こすわ」
琴音の魂に、俺の脳の情報がインストールされている最中、別の機械でその脳の情報をシャットダウンして別の情報を入れてしまう。
途中まで情報を刷り込まれていた琴音の魂は宙ぶらりん状態。そんな状態のまま、《入れ替わり》が元に戻り……今度は琴音の脳の情報が、琴音の魂にインストールされる。
しかし前回更新が途中で止まってしまった俺の脳の情報が残っていたため、琴音の脳の情報とぶつかり合って結果メモリー部分が破損。記憶障害が起こったわけだ。
「山空はまだその脳と魂の情報の混線が少量だった。でも琴音ちゃんに至っては山空の比じゃないくらいぐっちゃぐちゃになっていたのだと思われる。……まぁ、所詮それでも僕の仮説にすぎないのだけどね」
「いや、でもそう考えるとシックリくる。全く的外れってわけでもなさそうだぜ」
「……山空も、今は無事だからとはいえ後々キミにもなにか起こり得る可能性がなくなったわけじゃない。なにか違和感を覚えたらすぐに僕に報告してくれ」
「了解」
俺も元に戻ってから体のダルさがなかなか取れない。
もしかすると、この倦怠感もその脳や魂のエラーゆえの症状なのかもしれないということか。
「よくわからないですけど……でしたら琴音っちが助かる方法あるんですか?」
難しすぎて話についていけてなかったらしいユキが、その疑問を口にする。
そうだ、琴音がなんでこんなことになっているのかは、あくまでも仮定にすぎないが一応把握することはできた。
しかし、それによってどう琴音を助ければいいのか。この話し合いの本筋はそこだったはずだ。
「……仮説が正しければ、の話になるのだが」
「ってことは〝琴音を助ける方法がある”ってことか!?」
秋がガタリと身を乗り出す。
しかしオメガは、解決方法があることに気づいていながらも……どことなくツラそうだった。まるで、助ける方法があるにはあるけれど、その方法があまり最善じゃなくて実行するのを憚れるかのような……。
「時間が、解決してくれる……はずだ」
「え、それってどういう……」
「さっき話したと思うのだが、今の琴音ちゃんは、脳の情報と魂の情報が複雑に絡み合い、一時的な記憶障害をおこしている可能性が高い。……そうだな、琴音ちゃんにもわかりやすいように、ゲームのコードで例えることにするけど――」
さながらゲームのコードが絡み合うように、線と線が複雑に入り乱れている。これが、脳と魂がエラーを起こしている状態。
俺の場合、その絡み具合も少しだけで、簡単なもの。だからそれほど後遺症めいたものは存在しない。
しかし琴音は、もうどれがどのコードなのか見分けがつかないぐらい、ぐちゃぐちゃに交差してしまっているのだ。だから症状も重い。
「人間というのは、もともと順応性に優れた生き物だ。たとえば暗闇で目が慣れてきたりするのも、その順応性が大きく作用している」
「たしかに、しばらくすれば真っ暗でもなんとなく見えるようになるんヨね」
「え? エメリィーヌお前人間か?」
「宇宙人も立派な人なんヨ」
「山空、話し続けたいんだが」
「あーわりぃ、続けてくれ」
オメガに軽く睨まれたので、素直に謝罪しておく。
えーと、たしか人間は順応性が高いってところまでだったな。
「そう、つまり、順応性が高いからこそ、琴音ちゃんのその複雑に絡んだコードも、琴音ちゃんの身体自身が自力で解こうとする。つまり今の脳や魂に順応しようとする。言ってみればその記憶障害は、その自己修復の際におこるバグのようなもの」
「え? よくわかんねーけど、順応しようとしたら、その記憶をなくした状態に馴染んでしまうってことになるんじゃないか?」
秋が問いかける。
「いや、順応と言っても、脳を誤魔化すようなものなんだ」
「誤魔化す?」
「そう。騙し絵って見たことないか? ないはずのものがあるように見えたり、違う角度で見るとまったく別のものに見えたり。いうなればそれは、視覚から入る情報を脳に送る際、視覚の情報の中で「ここはおかしい、これは違和感がある」という部分を勝手に削除してこじつけようとするからなんだ」
「ややこしいな……つまりはどういうことなんだよ恭平?」
そう言われたオメガはしばらく考えるそぶりを見せると、何かを思いついたように語りだした。
「口で説明するのは難しいのだが……じゃあ聞くが竹田兄。たとえばキミが動画をとっていたとする。内容は何でもいいが……じゃあ琴音ちゃんの運動会を撮影していた」
「お、おう」
「琴音ちゃんが出る競技は2つ。仮に『徒競走』と『組み体操』の二種目だとして、それ以外は琴音ちゃんが出ない……いわば全然関係ない人が頑張る、興味のない競技だったとする」
「なるほど」
「で、運動会が終わり家に帰ったキミは、運動会の映像をDVDに焼き増ししようと考える。しかし、キミはカメラの電源を切り忘れていたので、琴音ちゃんの活躍する競技以外にも、全然関係のない人が頑張る全然興味のない競技も撮影してしまった」
「う、うん」
「さらに最悪なことに、その全然知らない人の競技は琴音ちゃんの『徒競走』と『組み体操』のちょうど真ん中で行われた競技だった。まぁ琴音ちゃんの競技で関係のない競技をサンドイッチしてしまっている状態ってことだ」
「つまりあれか、競技の順番が『琴音の競技』『全然関係のない人の競技』『琴音の競技』ってなっちゃってるわけか」
「そう。それでDVDに焼き増しするのは琴音ちゃんが活躍した場面だけにしたかったキミ。真ん中の無関係な人が頑張る競技は要らない。こんな時、キミならどうする?」
「えっと……要はあれだろ? 琴音の競技だけを残したい。つまり裏を返せば、それ以外の映像は不要になるわけだ。だから答えは、その不要な部分を動画編集ソフトかなんかで削除して、琴音の競技だけの映像を作る。どうだ?」
「そう、正解。要らない部分、よくわからない部分は削除して、繋ぎ合せてしまえばいい。そうすれば、あたかも真ん中の不要な部分は最初からなかったんじゃないかってくらい完璧な映像を作れる」
「なるほど……それで?」
「実は騙し絵なんかもそれと一緒で、目で見た情報を脳が受け入れられず、あろうことか『どうせ受け入れられないなら最初からなかったことにしてしまおう!』ってことになって、勝手に不要な部分を消去し、繋ぎ合せて、つじつまを合わせようとしてしまう。ゆえに目の錯覚が起こり得るのだ」
オメガの言いたいことを簡潔にまとめると、トマトのサンドイッチがあったとして、自分はトマトが嫌いだから、そのトマトを削除……つまり取り除いて、このサンドイッチは最初っからトマトなんて入ってなかったんだ、っていうのと同じだろう。
要は琴音の記憶障害の件も、騙し絵の時と同じく、脳が〝記憶障害”を不要なものだと認識し、勝手に取り除いてつじつまを合わせてくれる(順応してくれる)から、記憶障害を残したまま馴染むことは無い、ってことをオメガは言いたいわけだ。
まぁ、ややこしい話だけど、一応筋は通ってる。
で、本題はどうして記憶障害が現れてしまっているのか、になるんだけど。
たとえばカラオケとかで、マイクを置いたり、拾い上げたりする際に、その時に擦れた音とか、そういう雑音がマイクを通じてスピーカーから発せられることがあるだろう。
この記憶障害も同じ理屈だ。
身体に魂が入り込もうとしたら、脳がそれを異常と察知して、その異常を修復しようとする。その際に、〝記憶障害”として症状に現れる。
だから琴音のその記憶障害の症状は、『身体に異常を察知したのでただいま修復中です』ってことを知らせるための、いわば危険信号の一種。
風邪をひいたときに熱が出たり、寝不足の時に頭痛がしてくるのと同じく、身体が異常を教えてくれているだけなのだ。
だからオメガは、時間の問題といった。
この記憶障害は、マイクの雑音と同じ。
何もずっと雑音が鳴り続けるわけじゃない。いずれはフェードアウトして、消えていく。元に戻っていく。
今回の琴音の症状も時間がたてば勝手に消えていくのだ。
ゆえに、記憶障害の症状は、現状さほど問題じゃない。
今一番危険視すべきは、記憶障害じゃなく――……そう、〝どのくらい時間が経過すれば、完全に元通りになるのか”、についてだ。
「そう言いたいんだろ? オメガ」
「……その通りだよ山空。問題は時間。これに至っては見当のつけようがない。今日中に回復するかもしれないし、もしかしたら数年後かもしれない。……最悪の場合一生のうちに回復しない可能性だってある」
だからオメガは辛苦の表情を浮かべてたんだ。
琴音の記憶を戻す方法はわかった。何もせず放っておけばいい。でも、どのくらい放っておけばいいのかが、定かじゃない。
怪我みたいなもんだ。
同じ怪我でも、『擦り傷』と『骨折』じゃ治る期間が違う。
そのどちらか一方の中でも、さらに軽度のものと重度のものがあって、その場合でもやっぱり治る期間が違うのだ。
でも、まだ怪我ならいい。
擦り傷だったとしたら、軽度のものでも、重度のものでも、1週間~2週間ぐらいあれば完全に治るだろう。
骨折だって、長くても1年ぐらいあれば大概治る。
そう、怪我の場合は、軽度なのか重度なのかが判別不能でも、大体の期間が算出できる。だから治るまで待つのも苦痛じゃない。
だけど琴音の記憶の場合は違う。
そもそも『擦り傷』と『骨折』、どっちの部類に属するのかもわからないし、その中で軽度なのか重度なのかすらもわからない。
一言で言えば、計算のしようがないのだ。
いつ治るかわからず、もしかしたら一生治らないかもしれない状況でただひたすら時間が過ぎるのを待つ。
リハビリとかしながら、「記憶が戻ったらどうしたい?」なんて雑談しながら、ただただ時間の経過を見守るだけ。
記憶を失ってしまった琴音に気を使って、でも琴音はそれを察知して、その都度「私がこんなことにならなければ」なんて考えて、もちろん俺たちは琴音がそういう風に考えてるのも気づいてて、お互いに苦しくなって、必死に励まそうとするけれどどこかぎこちなくなって。
そんなの生きた心地がしない。生きてるなんて言えない。琴音の記憶が戻るよりも先に、俺たちの心がぶっ壊れちまう。
大げさだけど、あり得ない話じゃない。
もしもの可能性。そんな未来が本当に訪れるかもしれない。
だから、このままじゃだめだ。
時間が解決してくれるのだとしても、それじゃダメなんだ。
それ以外の方法を探さなきゃ……今日中に、琴音を元に戻さなくちゃ。
俺たちは絶対に楽しく日々を過ごせない。
「琴音、安心しろよ。時間がどうとか、そんな悠長なことはしない。何としてでも他の方法を見つけ出して、お前を助けてやる。だから、琴音も諦めないで最後まで協力してくれな」
「あ、ありがとう……ございます」
琴音は未だ敬語だ。
その時点でもう、この琴音は俺たちの望む琴音じゃない。
琴音自身を否定するわけじゃないが、それでもこの琴音は琴音じゃないんだ。
「カイ、一つ提案があるんヨが」
「なんだ、エメリィーヌ?」
エメリィーヌの声は、普段の愉快な感じではなく、真剣そのものだった。
だから、エメリィーヌも本気で琴音を救おうと考えてくれているんだって感じて、なぜか俺も嬉しくなる。
そんなエメリィーヌが、ジッと俺の目を見据えて、言った。
「ウチの超能力、使ってみるのも一つの手だと思うんヨ」
エメリィーヌの超能力。
それは、彼女の私物の勾玉を介することによって使える、エメリィーヌの特殊技だ。
ただ、多用するとエメリィーヌ自身がぶっ倒れたりする諸刃の剣みたいなモノなので、普段は俺がその勾玉を管理している。
エメリィーヌの言う通り、その勾玉をエメリィーヌに返して、超能力を使ってもらえば……琴音の記憶喪失が治るかもしれない。
でもあくまでも〝治る可能性がある”ってだけの話で、確実というわけではない。
特に超能力の中で治癒系の能力が一番エメリィーヌの体力を奪うらしいし、一度倒れると、数時間は目を覚まさないぐらいには、酷いデメリットなのだ。
だから、できれば使わせたくない。
琴音のためとはいえ、確実に治るかどうかもわからないのに、エメリィーヌに無理をさせたくない。……そう考えるのは、おそらく俺のエゴなんだろうな。
でも、やっぱり許可できない。
「ダメだエメリィーヌ。いくら琴音のためとはいえ、お前が犠牲になることなんて――」
「覚悟の上なんヨ」
俺の心情を察したのか、力強く言い放ったエメリィーヌの目は……すべてわかったうえで、覚悟している眼だった。
自分が体調を悪くすることを厭わない。むしろ琴音を助けるためなら、それも本望だと眼で訴えている。
「それに、犠牲なんかじゃないんヨ。コトネはもしかしたらずっと治らないかもしれないんヨね? でも、ウチが大変なのはたった数時間なんヨ。だから、ウチは全然平気なんヨ」
「エメリィーヌ、お前……」
まだ小さいエメリィーヌが、自分が苦しい思いをするのをわかっててなお、琴音を助けることに何の躊躇もなかった。
エメリィーヌは馬鹿じゃない。
俺がオメガに言った「自分を傷つけるな」って言葉の意味もきっと理解している。
自分の身体を悪くしてまで琴音を助けたところで、琴音があまり喜ばないこともわかってる。
万が一それで琴音が助かったとして、自分が倒れてしまったら俺たちに迷惑をかけるんじゃないかって、そういうこともエメリィーヌは全部考えて、考えたうえで、そう言ってる。
状況からみれば、確かにエメリィーヌがたった数時間我慢すればいいだけ。それで、もしかしたら一生治らないかもしれない琴音の記憶喪失を治せるかもしれないのだ。
そんなの、比べればどちらがいいかなんで一目瞭然。
でも、実際問題はそうじゃない。
俺にとって、俺たちにとって、琴音は琴音、エメリィーヌはエメリィーヌなのだ。
琴音を助けるためとはいえ、エメリィーヌが苦しむところなんか見たくない。だけど、そんなエメリィーヌの提案よりも良い方法が思い浮かばないことも確かだった。
「あの、エメちゃんに先輩、ちょっといいですか?」
俺がどうするべきか頭を悩ませていると、横からユキが割り込んでくる。
どうするべきかわからなかった俺と違って、ユキは何かもっといい方法でも思いついたのだろうか。
そう思ったのだが。
「エメちゃんとか超能力とかって、何の話ですか……?」
「「「「え?」」」」
俺だけではなく、この場にいる琴音以外の全員が声をそろえた。
ユキは何を言っているんだ? まさかユキまで記憶障害にでもあったというのだろうか……。
……いや、そんなはずはない。ユキは至って真剣そのものだ。
ってことは、そこから導き出される答えは――。
「あれ、ユキってエメリィーヌの超能力見たことないんだっけ……?」
――単純に、エメリィーヌの超能力を知らないってことだ。
「ありませんですけど……え、ということは本当にエメちゃん超能力使えるんですか!?」
当たり前だけど、超能力が実在すると知りユキは目を白黒させて驚いている。
思い返してみれば、ユキの前でエメリィーヌが超能力を使ったことは一度たりともなかったような気もする。
それにもしエメリィーヌから超能力の存在を聞いていたとしても、実際に見たことない人にとっては冗談半分で聞き流すだろう。
だから、ユキがエメリィーヌの超能力の存在を知らないのも当然といえば当然だった。
いやはや、てっきりエメリィーヌの超能力の存在は俺たち全員みんな知っていると思っていたから……少しだけ虚を突かれた。
「その通りなんヨ! 何とビックリ、ウチは超能力が使えたんなんヨ!!」
得意げに胸を張るエメリィーヌに、ユキはキラキラと目を輝かせた。
「ふおおお!!! 凄いじゃないですか!! なんで教えてくれなかったんですか!? 水臭いですよみなさん!!」
「ごめんなユキ。内緒にしてたとか仲間外れにしてたとかじゃないんだ。単純にもう知ってるもんかと思ってて……」
「あぁ、いえ! それは別にいいんですけど!! 超能力が使えるなんてめちゃめちゃカッコいいです!! もう童話の世界の住人じゃないですか! え!? どういうことができるんですかそれで!! もしかして先輩の心の中覗き放題だったりしますですか!?」
「な、なんヨ……大概のことは何でもできるはずなんヨけど……」
「おおおおお! いいですねいいですね!! ということはお空飛んだりシュンって移動したりとか! あ、そしたら水の中でお魚さんたちとお喋りしたりとかもできますですね!? いや、それどころかあれじゃないですか!? 先輩を操作して既成事実万歳みたいな!!」
なんか怖いこと言ってる!!
「おいバカ、シャレにならないこと言うな! あとテンションをもっと押さえろユキ、エメリィーヌがドン引きしてるぞ」
「いやいやいやいや何言ってるんですかうーみん先輩!! これが興奮せずにいられるというほうが無理難題ですよ! だってあれですよ先輩! 先輩だって世界中の女の子を侍らすことも意のままですよ!?」
「人を欲望の塊みたいに言うな!!」
「まぁそれは冗談ですけど……でもほら! 宝くじ! 一等当選も容易じゃないですか!?」
「ユキ……お前天才かよ」
「欲望まみれじゃねーか!!」
俺たちのやり取りに耐え切れなくなったらしい秋が果敢にツッコミを入れてくる。
い、いやもちろん冗談だよ? それにそういうことするにはまずエメリィーヌを介さなきゃいけなくなるわけだし……人としてそれはどうよって思うし。
というかそもそも、ユキの反応が新鮮で面白くて話に乗ってあげようかなって思っただけで、実際にそんなことするわけないだろう。やだなぁ、もう。
「それに白河も、海が真に受けて女の子侍らし始めたらどうするんだよ?」
「やだなぁ秋先輩。うーみん先輩にそんな度胸ないですって」
はっ倒すぞ。
「それに、もしそんなことになったらユキが容赦しませんですので」
にこっ、と今世紀最大の弾ける笑顔で告げるユキ。
ははっ、ヤンデレかな?
「盛り上がっているところ悪いが、エメルの超能力はちょっと待っててほしい」
完全に話がそれてしまった俺たちを牽制するように、オメガが割って入ってくる。
「待ってほしいって……どういうことだ?」
「エメルに負担をかけたくないというのも一つだが、それ以上に超能力だとダメな理由がいくつかあるんだ」
「ウチの超能力だとダメな理由、なんヨか……?」
「うむ。主に今の琴音ちゃんは、先ほども説明した通り魂が不安定な状態ゆえ記憶障害が発生していると考えていい。つまり、琴音ちゃんを助けるには、その魂の部分をどうにかしなくちゃならない」
もっとも、時間が経過すれば自然と元に戻るのだが……、とオメガは付け足す。
もちろん、そんな悠長なことは言ってられないための今の状況だ。
「仮にエメルの超能力が魂や心に干渉できるというのなら話は別だが……どうだ?」
「えと、ウチの超能力……それも治癒能力は、ヒトが持つ元々の力を活性化させて治すだけなんヨ……」
「やはり思っていた通りだ。エメルの能力は、例えるならば人間の自然治癒力を促進させるだけ。軽めの風邪なら、薬を飲まなくても勝手に治っている時があるだろう? それが自然治癒力。要はエメルのそれはその力を通常の何倍にも増やして修復するモノなんだ」
「なるほど、通常なら30分で治るところを、エメちゃんの力を使えば1秒で完全に治っちゃったりするわけですね」
「その通り。もちろん怪我を治す場合なら、人間が持つ怪我を治す働きを促進させている。わかりやすく言えば早送りしているようなものだ。身体の働きを何倍、何十倍にも加速させ、結果怪我が治る」
あくまでも超能力は〝力”であって〝魔法”ではないということだろう。
魔法は何もないところから物質を作り出すことが可能だが、超能力は〝無”からじゃ何も作れない。
だからこそ、超能力は物体として存在していない魂には干渉できないのだ。
「琴音ちゃんの症状が脳の異常が原因で現れた症状ならそれで解決なのだが、今回は脳じゃなくて魂。自然治癒力の及ばない部分。だからエメルの超能力じゃどうしようもない。もしも治すなら、魂に直接干渉できるものじゃないとダメなんだ」
魂に直接干渉できるモノじゃないとダメ、か。
「まるで雲をつかむような話だな……」
「現実問題、雲は見えるが魂は見えない。だから現状はそれ以上に厳しいとみて間違いないだろうな」
魂をどうにかできる人なんて、いるハズもない。
結局、俺たちは振出しに戻ってしまった。
完全に打つ手なし。まさに袋小路。
そんな時だった。
――ピンポーン。
と、静かに響くチャイム。
タイミング的に朝から出かけている俺の親父が帰ってきたのかとも思ったが、親ならわざわざインターホンを鳴らす必要もないことに気づき、その可能性はないと判断する。
正直お客の相手をしている場合じゃないのだが、だからと言って無視するわけにもいかないので、しぶしぶ玄関前モニターを確認することにした。
「――ってあれ? なんで……?」
玄関先を映しだし、誰が来たのか一目で確認できるそのモニターに映っていた人。……俺の家に訪問してきた人の姿を確認した俺は、少しばかり混乱してしまう。
接点は、ない。……はずだ。
だから、〝彼女”がここに来る用事なんてあるはずが――。
ここまで考えたところで、俺は一つだけ思い当たる節があることに気づく。
そう、俺自身は全くと言っていいほど接点はなかった。だが、俺が俺でない時に、接点というものを作り出してしまった可能性があったのだ。
カメラに映った人物が、なかなか返事がないことを不思議に思いながらもゆっくりと口を開く。
そして、言った。
――――『えっと……山空くん、私、委員長の春風 燕です!』
第六十一話 完
ここでまさかの春風さん……だと……!?(迫真の演技)