第六十話~それぞれの想い~
とうとう第六十話です。
とても長かった……!!
その変化は、あまりにも唐突だった。
学校から何十分もの道のりをずっと走って来ていたから、まずはのどを潤そうという話になった。
だから僕は飲み物の準備を彼女に頼み、一足先に重要な方の準備を進めておこうと思った。
――だが、それがいけなかった。
僕がほんの一瞬だけ目を離した隙に、それは起こってしまったのだ。
まず始めに聞こえたのは、何かが崩れたような、大きな音だった。
ガタン、ドカン、ガラガラ。
反射的に、何か物を落としたのだと思った。
でも、それだけなら別に問題はない。
ガラスが割れたような音もしなかったし、重量感を感じるものが地面とぶつかりあった音でもなかった。
だから僕は、音がした方を振り向かずに、ただ目の前の作業だけに集中して声だけをかけた。
「琴音ちゃん、大丈夫かい?」
僕が問いかけると、言葉はすぐに返ってきた。
「だいじょーぶ。ちょっと手が滑っただけだから。えーと、お茶お茶……っと」
本当に何事もなかったかのように引き続きお茶の準備を始めたので、僕は安心して目の前の作業に没頭した。
しかし、その直後――彼女は告げた。
「はぁ~、それにしても、やっぱ自宅が一番落ち着くなぁ」
それは、彼女にとっては些細な独り言だったのかもしれない。
でも、着実に、確実に、《入れ替わり》による異常が彼女を侵食しているのがわかった。
琴音ちゃんは、ここを自宅と言った。
でも、ここは琴音ちゃんにとって自分の家じゃないことは明白だった。
先ほどまで普通だった琴音ちゃんが、何の前触れもなく変化していく。
わかってはいたことだけれど、それでもその事実を目の当たりにしてしまうと否が応でも焦燥感を囃し立てられている気がしてくる。
そして、琴音ちゃんのその些細な変化は、最初の口火に過ぎない事を僕は知ることになるのだ。
「あ、悪いオメガ。俺ちょっとトイレ行ってくるわ」
どんどん、変わっていく。
口調も、呼び名も、そして感情さえも、全部が全部たった数秒の間に目まぐるしく変化していった。
何がきっかけなのか、何が悪かったのか、そんなことを考える余裕は今の僕にはなかった。
作業していた手を止めて、僕は必死に琴音ちゃんに話しかける。
「琴音ちゃん、トイレはもう……恥ずかしくないの?」
「え? 何言ってんだ? 人間誰だって催すもんは催すんだ、いちいち恥ずかしがっててどうするんだよ」
学校ではあれだけ恥ずかしがっていた琴音ちゃんだ。
あの時は切羽詰っている状況にもかかわらず、わざわざ彼女の方から僕の発明品を頼りにしてくるぐらいだったのに、今ではその片鱗も見せない。
もう自分の感情すらも、狂ってきているらしかった。
今の琴音ちゃんは、辛うじで自分自身を“琴音”だと認識できている程度。
これ以上悪化の一途をたどってしまうと、本当に手の施しようがなくなってしまう。
どうしよう。
予想外の事態に、思考能力鈍くなって来ているのがわかる。
トイレに向かって歩いて行った琴音ちゃんの背中を、僕はただ他人事のように眺めていることしかできない。
僕の道具のせいで、僕の大切な人がどんどんおかしくなっていく。
そんなものを見せつけられて、冷静でいられるわけがなかった。
しばらくして、琴音ちゃんがトイレから戻ってきた。
まるで当たり前のように、自分の行動に違和感を抱くことなく、日々の習慣をこなしていくような軽さで彼女は戻ってきたのだ。
「悪いな、オメガ。飲み物後回しにしちまって。すぐ入れるから待っててくれ。あ、ちゃんと手は洗ったから安心してくれよ?」
あははと冗談を言い適当に笑う彼女の姿を見ていられなくなった僕は、まだ彼女の理性が少しでも残っている内に何とかしようと、手探りのまま話しかけた。……というより、話しかけることぐらいしか思い浮かばなかった。
「琴音ちゃん、ちょっといいかな」
これ以上、症状を進行させてはならない。
そのためには、琴音ちゃん自身が、自分は竹田琴音だということを言い聞かせてもらわないとダメだ。
この状況に、少しでも違和感を覚えてもらわなくちゃ……それすらも感じなくなった時が、おそらく本当の意味で手遅れの時なのだ。
だから、修理道具が手元に来るまで、琴音ちゃんは僕が絶対につなぎとめなくちゃいけない。
――そう、思っていた矢先。
「琴音? 何言ってんだよ。俺は“山空 海”だぜ?」
最後の猶予まで、無くなっていた。
……あぁ。もう、ダメかもしれない。
第六十話
~それぞれの想い~
「オメガ、わりぃ! 遅くなった……!!」
目的の荷物を手にして秋達と合流した俺は、自分の家の玄関のドアを乱暴に開けた。
「はぁ……はぁ…せ、先輩ちょっと待ってくださ……! けほっこほっ……!!」
必要以上に時間を食ってしまったことへの償いの意味も含めて、俺たちは学校からここまで(徒歩で約40分)の道のりをほぼ走りっぱなしのまま来たので、俺も含め他のみんなも息が上がっていた。
その中でも、特にユキが一番グロッキーらしく軽く酸欠状態になっている様子だ。
それに引き換え、見た感じ秋とエメリィーヌは比較的元気そう。
やはり、普段から適度に体を動かしている人とそうでない人とでは、明確に体力の差が現れるらしい。
ちなみに俺は運動なんて全然してないタイプだが、琴音の身体がそれなりに運動能力に長けていたおかげか、わりかし無事だった。
多分、これが琴音じゃなくて自分の身体だったとしたら、きっとユキのことなんて言えないぐらい、極限状態に陥っていたことだろう。
そう考えると、ここまで無我夢中でついてきてくれたユキの些細な凄さがよくわかる。
「よく頑張ったな。大丈夫か? 無理はするなよ」
「せ、先輩が……いつもより優しい……!?」
「そこ驚くとこじゃねえから!」
口元に両手を添えて、オーバーに驚いたリアクションを取るユキ。
おいばかやめろ。たったそれだけのことでここまで露骨な反応されたら、今までの俺が心配りの欠落したダメなヤツみたいじゃねえか。
「みたい、じゃなくて、実際にそうなんヨ」
「ガキンチョはちょっと黙ってろ」
「おぉ! いつものカイなんヨ!」
玄関先でそんなやり取りをしていると、ドタドタと騒がしい足音が聞こえる。
それから数秒もしないうちに、オメガが血相を変えて玄関先へと出てきた。
そして、オメガはおもむろに俺の手を掴むと、強引に部屋の中へ引っ張り込む。
ユキたちも、それに続いた。
「いててっ、なんだなんだ!?」
「急げ山空! もう時間がない!」
珍しく声を荒げるオメガ。
その切羽詰まった様子から、タイムリミットがもうすぐそこまで迫ってきているのだということを瞬時に理解する。
そしてその予想は、案の定当たっていたようで。
リビングに連れてこられた俺は、その部屋にいた琴音の姿を見て愕然とする。
「おい……琴音、お前……」
テレビから流れるバラエティ番組。
その番組を、ソファで横になりながら見ている琴音。
まるで自分の家のように、図々しく、甲斐甲斐しく、ふてぶてしく、くつろいでいる。
一見すると、別段変わった様子はない。
でも、それでもそこにいる彼女は明らかに違うとわかる。
いうなれば、“彼女らしさ”が消えているのだ。
現に学校での琴音は歩き方にしろ、小さいことなら汗を拭う動作にしろ、俺とは違う、琴音だけの動きが見て取れた。
別に琴音が妙な癖を持っていて別段変な動きをするだとか、そういうことではない。
ただなんとなく、いつもなら雰囲気で琴音だとわかるのだ。
けれど、今の彼女からは何も感じない。
琴音しか持ち得ない、琴音らしい、琴音だけの仕草が、全くと言っていいほど消え去っている。
そう……一言で言うならば、その姿はまさしく“俺”だった。
見た目に関してだけじゃない。
いくら身体は俺でも、中身は女の子。
どんな仕草をしたって、随所にその片鱗が垣間見えるはずなのだ。
でも、今はそうじゃない。
完全に、完璧に、その姿勢は山空 海その人なのである。
なんの違和感もない。
その見た目と限りなくマッチした、完璧なまでの俺。
俺自身が俺だと感じるほどに……まるで俺と全く同じ人間がもうひとり現れたのかと感じてしまうくらい……すべからく俺。
鏡で映し出すよりも、極致的な俺。
そんな違和感を、俺は一目見ただけで膨大なくらい感じたのだ。
そしてそれは、俺だけではない。
「琴音っちの様子が……なんかおかしいです……」
ユキも。
「カイ……なんヨ……どっからどう見ても……」
エメリィーヌも。
「どうしちまったんだよ……おい……」
そして当然、秋も。
みんながみんな、目の前にいる人物が“琴音”だとは認識できずにいた。
事態の深刻さが、状況をあまり理解できていなかったユキ達に残酷にも刃を立てる。無理やり事態を認識させられて、顔が青ざめていくのが見ていなくてもわかった。
そんな俺たちに追い打ちをかけるように、琴音が飄々としながら口を開いた。
「あれ、お前ら。何しに来たんだ?」
「なっ……!?」
たった一言。
だけど、その何気ない言葉が明らかに異常を訴えていた。
琴音が、俺たちのことを“お前ら”呼ばわりするのもおかしいし、そもそも「何しに来たんだ」と問いかけること自体まずありえない。
なぜなら琴音は、俺たちがこの《入れ替わり》を終わらせるためにここにやってきたことを知っているからだ。
《入れ替わり》を引き起こした機械を修理するために、その修理道具が入っているオメガのカバンを俺はここに持ってきた。
だから、本来なら彼女の第一声は「遅かったね」とか、「カバンは持ってこれた?」とか、そういうセリフが出てくるのが普通なのだ。
でも彼女はあろう事か、まるで“それらの事情をすべて忘れてしまっているかのようなセリフ”を口にした。
これが緊急事態じゃなくて、一体何だというのか。
「オメガ……単刀直入に聞くぞ……」
今、琴音の身に何が起こっているのか。
想像するだけでも恐ろしいが、そこから目を背けちゃいけないことなど理解しているつもりだ。
故に俺は、すでに機械を修理するために俺が持ってきたカバンの中身を床一面に広げているオメガに問いかける。
「琴音は……手遅れなのか?」
「……正直、わからない。気づいてると思うが、今の彼女は、もう自分が琴音ちゃんだという認識ができていないんだ。自分のことを完全に山空本人だと思い込んでる」
あくまでも修理を続けながら、オメガは答えた。
オメガの手元には、見たこともないような道具と、バラバラに分解された、“例の機械“。
それは、俺と琴音が《入れ替わり》になってしまった元凶の代物だ。
サイズも形も様々な無数のネジ。複雑に絡み合ったコード。
それ等を慣れた手つきで分解したり、弄ったりしている彼の手は、まるで指の一本一本が意思を持っているかのようにせわしなく動いている。
慣れた手つきでカチャカチャと音を立て、一つ一つ繋ぎ直していく様は、さすがと思わざるを得ない。
そんな緻密な作業をしながらも、オメガは話を続けた。
「もう手遅れかも知れないし、まだ間に合うかも知れない。それは僕にも判断がつかない」
「なんだよ……それ……」
オメガの話を聞いて、わなわなと肩を震わせる秋。
そしてそのままオメガの元へ歩み寄ると、突然胸ぐらを掴み上げた。
ブチブチブチ……と弾けるオメガのYシャツのボタン。
秋に無理やり立ち上がらせられたオメガの手から、カランと修理道具が地面に落ちる。
普段温厚な秋の突然の行動に、俺たちは唖然とするしかなかった。
「ふざけんなよ……ふざけんじゃねえぞ!!!」
秋には似つかわしくないくらいの、咆哮。
さすがのオメガも、これにはたまらず目を丸くする。
ソファに座る琴音はこちらを見向きもしないでテレビ鑑賞を続けているけれど、もしも琴音が“俺になりかけている”としたならば、きっと興味ないふりをしつつもしっかりとこちら側のやり取りを聞いていることだろう。……だって、もし俺が琴音の立場なら、きっとそうするから。
「なにが『手遅れかもしれない』だ!! なにが『僕には判断がつかない』だ!! 無責任なこと言ってんじゃねぇよ!! お前琴音が好きなんだろ!? 大事に思ってくれてるんだろ!? だったらそんなこと簡単に口にすんじゃねえよ!!!」
「しゅ、秋先輩! 落ち着いてください!!」
「落ち着け!? 琴音がヤバいって時に落ち着けるわけないだろ!?」
「秋……先輩……」
まさか怒鳴られるなんて思っていなかったらしいユキは、その一言で完全に萎縮してしまう。
いつも人当たりの良い秋が、ここまで剣幕をまくし立てることはかなり珍しい。
付き合いの長い俺でさえ、秋が自分の事で怒っているところはほとんど見たことがないのだ。
そんな彼が唯一怒る時。それはいつも誰かのため。
相手の気持ちを常に考え、気遣ってあげられる彼だからこそ、誰かが傷つけられると自分のことのように怒り、助けようとする。
たとえそれが、全然知らない赤の他人でも、だ。
例えばいたずらなんかでも、秋本人が何かをされたとしたならば、彼は最終的に笑って許してくれる。でも、そのいたずらの度が過ぎて全然関係のない人にまで被害が及んでしまったとき、秋はすごく怒る。
俺が中学生だった時も、それで何度か秋に説教されたこともあった。
それくらい、彼は心優しい人間なのだ。
そんな彼が一番怒りをあらわにするとき……それが、“大切な家族を傷つけられたとき”である。
中でも、琴音のことに関しては信じられないぐらい我を忘れたように取り乱す。
普段は冷静な秋が、琴音が関わっていると知った途端、少し過保護すぎるんじゃないかってくらいオーバーに激怒する。
家族のことを大切に思っているのはすごく伝わってくるけれど、それでも正直、普段の彼とのギャップが凄すぎてついていけない事も何度かあった。
ぶっちゃけ、シスコンと疑われても弁解の余地はないと思う。
それでも秋の言っていることは常に間違っていないし、なにより家族を守ろうと頑張っている彼を止める事なんてできるはずもなく、こういう状況になった時の俺はただただ秋が落ち着くのを待っていることしかできないのだ。
「見損なったぞ竹田兄」
オメガもまた、秋の豹変っぷりに怒りを隠せていない。
そりゃそうだ、オメガからしてみれば、いきなり胸ぐらをつかみあげられて理不尽に怒鳴られているのだから。
「さっきから聞いていればなんなんだキミは」
「……なにがだよ」
「琴音ちゃんはいま危機的状況にいる。それは揺るぎない事実だし、僕が確実に助けられるかどうかわからないというのもまた事実だ。それが気に食わないなら、僕は嘘でも方便でも使って、『琴音ちゃんは絶対に助かる』と言ってあげてもいい。キミの気が済むなら、今すぐ土下座して謝罪したっていい……でも、そうじゃない。そうじゃないんだ」
淡々とした口調。しかし、その言葉には刺が含まれているように感じる。
「僕がなにを言おうと、事実は事実。それは変わらない。琴音ちゃんが危険な状況にいるのは覆ることはないんだ。言うなればただのその場しのぎの戯言。そんな言葉に意味ないのは明白だろう」
「……だったらどうしろって言うんだ!? 諦めろってのかよ!? それに俺だってそんなことわかってる……!! 琴音が今どのくらいヤバイ状況かなんて、見りゃ一発だ! あんなの琴音じゃない! あの身体の中に琴音はいない!! でもだからって……それを受け入れられるわけ無いだろうが……!!」
「竹田兄……」
「もう……恭平しか無理なんだよ……!! この状況をなんとかできるのはお前だけしか!! なのに……!!」
オメガの首元から手を離し、秋は肩を震わせた。
「なのに、そんな簡単に……手遅れだなんて言うなよ……!! 判断がつかないだなんて……!! 間に合うかもしれないじゃない、間に合わせるんだ!! 絶対に琴音を助ける……!! “万が一”なんてダメなんだ!! 絶対に、確実に、無理だろうがなんだろうが助けてもらわなくちゃ困るんだよッ……!! だから……頼むよ恭平……、絶対に琴音を助けるって……言い切ってくれよ……」
そう叫ぶ秋の顔色は真っ青で、その表情は今にも泣き崩れそうなぐらい不安定だった。
この《入れ替わり》に終止符を打つには、オメガの力が必要不可欠。むしろ、オメガがお手上げとなると、もうこっちは何もできない。
だから秋にとって……俺たちにとっても、オメガが最後の頼みの綱なのだ。
なのに、そんな彼が「無理かもしれない」と呟いたとなれば、秋からしてみれば冗談じゃ済まされない言葉。例えるならばそう、家族が重病を患ってこれから手術って時に、医者から「最善は尽くしますが、あまり期待しないでください」と宣告されたようなものなのだ。
こっちは何も手を出せない。目の前で刻々とタイムリミットに近づく家族を、ただ祈って見守ることしかできない。なのに……何もできない自分と違って直接助けてあげられる人が半ば諦めたようなセリフを吐く。
しかも専門の人の口からでた言葉ゆえその説得力は膨大。
欲しいモノが手に入らなかった時みたいに「それならしょうがない」と簡単に割り切れるはずもなく、焦りとか不安とか恐怖とか悲しみとか、全部が腹の中でグツグツと混ぜ合わさったその感情の捌け口が、唯一の希望を背負ったその相手へと向くのは必然だったのかもしれない。
結果として、秋は自分の感情に身を任せてオメガの作業を無理やり中断させる形となってしまった。
そのせいで琴音が本当に手遅れになる可能性だってある。
だから今は一分一秒が大切だってことぐらい、あの秋が分かっていないはずがないのに。
そういう不自然さから見ても、秋は本当に余裕がなく、追い詰められていたということだ。
そして、同じ琴音を大事に思う者同士、オメガも秋の気持ちが分かるのだろう。
トン……と秋の胸に軽く拳を当て、オメガは言った。
「キミは僕を嘗め過ぎだぞ竹田兄。だから見損なったと言ったんだ」
「え……?」
「琴音ちゃんを絶対に助けろ……? 何を言ってるんだキミは。そんなの――当然に決まっているだろう……!!」
そう言い放つオメガは、決して笑っていない。真剣そのものだった。
そして、告げるや否や、オメガは作業に戻っていく。
「え……? でも……手遅れなんじゃ……」
そう尋ねる秋は、余りにも情けない声だった。
そんな秋に呆れたように、オメガは一度だけ大きくため息をつく。
「……すまないな竹田兄。どうやら僕とキミの価値観がずれていたようだ。だから誤解が生じた」
「それって……どういう……」
「僕の中では琴音ちゃんを助けるのはもう大前提だった。どんな手を使っても、たとえそれで僕がどうなろうとも絶対に助けるつもりだったんだ。だからそういう体で話を進めていたし、ゆえに琴音ちゃんが助かるかどうかなんて考える必要などないと思っていた。でもキミは違ったらしいな」
「なっ! 違うわけ無い! 俺だって――」
「じゃあなんで僕に「絶対に琴音ちゃんを助けろ」だなんて言ったんだ?」
「は、はぁ? そ、それは恭平が……」
「僕が? 僕がなんだ。僕が手遅れと言ったから? つまりはそういうことだろう。キミは僕が手遅れだったら琴音ちゃんを助けないと、そういう奴なんだと思っていたってことだろ? 僕を馬鹿にするのも大概にしろ」
「おいオメガ! 言いすぎだ!」
オメガの言い分も、秋の言い分もどちらも理解できた。
だからさっきまでは黙って聞いていたけど、少しオメガの頭に血が上ってきたのを感じ取った俺はたまらず仲裁に入る。
さっきから二人が言ってるとおり、琴音が今危うい状況なんだ。こんなことで言い争っている自体、おこがましい行為じゃないのかよ。
「なにも秋だってお前が琴音を見捨てるような奴だなんて思っているわけじゃねえだろ!」
「いや……いいんだ海。俺が間違ってたんだ」
「なっ……」
俯いて、うなだれて、あろうことかそんな事を口にする秋に、俺が感じたのは確かな怒りだった。
ふざけんなよ秋……お前、いつからそんな不抜けた感じになっちまったんだよ……。
お前が間違ってた? そんなわけ……ねえだろうが!
「確かに反省点はあったかもしれない。そこは直しゃいい。でもな、家族のことを案じ、あれだけ必死になれるお前の気持ちと行動が、間違ってるわけないだろ」
「海……」
「いいか秋。お前はそのままでいいんだよ。そのままのお前が、一番琴音が安心するんだ。冗談や慰めじゃないぞ? 実際に琴音になってみて、奇しくも感情を共有してしまっている俺だからわかる。お前のそばにいると、なんつーか、心に羽が生えたみたいに、ふわっと軽くなるような感じがするんだ。これは俺の感情じゃない、琴音本人の感情だ」
これは嘘ではない。
実際問題、周りが知らない人だらけの高校で、肩身の狭さというか……息苦しさを俺は確かに感じていた。これは、琴音の人見知りが作用していたのだろう。
でも、そんな中で秋の姿を見たとき。秋が俺の助けになってくれたとき。俺は本当に、心の底から安心できたんだ。
顔を知っている人たからという理由だけじゃない、現にオメガと会った時は、確かに少しは気が楽になったけど、それは秋に会ったときとはまた違った感覚だった。それこそ、知らない人達の中で見知った顔がいたからという、そんな感じの安心感だ。
でも、秋の時はなんていうか……うまく言葉にするのは難しいけど、胸の奥にあった不安とか、重さみたいなのが全部吹き飛んだ。
まさに心の拠り所みたいだった。
「琴音はお前のこと本当に信頼してる。この場にはお前以外に俺やオメガ、ユキやエメリィーヌもいるけど、本当に困ったときに琴音が一番頼りにするのは――秋、紛れもなくお前なんだよ」
もちろん、琴音にとって秋が兄貴だからとか、家族だからとか、そういうことじゃない。
たしかにそれもあるかもしれないけど、それでも秋達みたいにそこまで仲が良い兄妹はそうそういないだろう。兄妹仲が悪い家族だっているはずだ。
つまり根っこの部分は、秋が今まで琴音に接してきて、それを琴音が認めているからこその信頼関係に他ならない。
秋が立派に兄貴をやっているから。それこそ今みたいに、琴音のために友達に対しても怒鳴りつけられるくらい、琴音のためを思って行動しているからこその恩恵。
その気持ちを受け取った琴音本人は少々照れくさいだろうけど、自分のために体を張ってくれて嬉しくないはずがない。
そしてそれは反対に、秋に対しても言えることだ。
秋が琴音を心配しているのと同じぐらい、琴音も秋のことを心配している。
秋達兄妹は、そうやって釣り合いが取れているのではないかと俺は思う。
琴音と秋、お互いが相手のことを想っているからこそ、この二人の絆は堅いのだ。
兄妹喧嘩をした後でも、この二人ならすぐに「でも自分にも悪い所があったなぁ」って反省することができる。そして二人してそう考えるから、すぐに仲直りもできる。
平たく言えば、とても仲の良い兄妹ってことだ。
で、何が言いたいかっていうとだ。
「でもな秋。これはオメガにも言えることだけど、本当に琴音のためを思うなら、あんまり喧嘩するなよ。琴音は優しいからな、いくら自分のためとはいえ、そのせいで二人が喧嘩しているとなると、琴音にとってはただ嫌なだけなんだ。わかるだろ?」
俺はオメガが言った「たとえ僕がどうなろうとも」という言葉にずっと引っかかってた。
僕がどうなろうとも……。つまり極端な話、“自分の命”と“琴音の命”、どちらを助けるか、という状況に陥ったとき、オメガは迷わず“琴音の命”を選ぶと言ってるのと同じだ。
でも、それは違うと思う。
琴音という人間は、『二人が喧嘩するぐらいなら、こんなこと言わなきゃよかった』、『自分が我慢すればよかった』と、そういう考えをして、自分を犠牲にすることができる心優しい子だ。
秋もそうだけど、オメガも根は良い奴だから、例え自分はどうなっても絶対に琴音を助けると言い、我が身を省みず実行しようとする。
でも、琴音はそれを良しとしなくて、むしろそんなことをされたら琴音は喜ぶどころか悲しむだろう。そしてそんな琴音を見てまた二人も良しとしなくて、それが延々とぐるぐる回って結果的に誰も得しない悪循環に陥る。
「だから二人とも、自分を犠牲にする考えはやめた方がいい。大袈裟な話になっちまうけど、もっと自分の命の重さを理解した方がいいぞ」
琴音は良く人を見てる。それは露骨にじっくりと見つめているとかそういうのじゃなくて、なんていうか、表面上というよりかは、その人の内側を理解しようとしてあげられる子なんだ。
例えばクラスの誰かの悪い噂が流れていたとする。……まぁ普段の俺みたいな状況だ。
そんな状況でも、琴音はその噂に左右されず、自分でその人を見極めようとする芯の強さがある。
だけど、それが裏目に出てしまうこともある。
琴音は察しがいいから、相手が気を使ってくれているのも直感的に察知して、たとえその気遣いが琴音にとってあまり良いものではなかったとしても、相手がせっかく自分のために気を使ってくれているのだからと自分を押し殺してそれに乗っかってしまう。
さらには、そんなことを考えてる時点で相手に失礼なんじゃないかとか、不快感を与えてしまっているんじゃないかとか、そんな細かいところまで考えが及んでしまい、その結果、人と接するのが苦手な人見知りが出来上がってしまうというわけだ。
話がそれてしまったけど、要は琴音は自分のために誰かが傷つくのを喜べるほど簡単な人間じゃないという事。
だからオメガはもっと、もしも自分が怪我をしたとき、病気になったとき、……死んだとき。心配したり悲しんだりしてくれる人がいるってことを理解して、そうしたうえで、なおかつその人のために“自分を傷つける”のではなく、“自分を大切にする”という方法があるってことを、知っていてほしい。
「さっきまで二人が言い合いしている時間も、俺がこんなことを話している時間さえ、普通にしていれば琴音のために使えた時間だ」
俺たちは一人で戦っているんじゃない。
ツラくなったり、苦しくなったりした時に、助けてくれる人達がいる。
「今からでも遅くない。俺たちだってやれることはあるはずだ。だろ? 秋、オメガ。……それにユキも、エメリィーヌも、な?」
後ろで静かに成り行きを見守っていた二人に目配せをすると、ユキもエメリィーヌも大きくうなずいた。
「ですです! ユキは今の状況よくわかってないですけど、喧嘩している余裕なんてないですよ!」
状況良くわかってなかったの!?
いや、まぁ確かに大雑把な説明しかしてなかったけども!
「ウチはちゃんと理解してるなんヨ! コトネがヤバい!」
「合ってるけど! それで合ってるけどォ!」
エメリィーヌは、ふんすと鼻を鳴らしている。
まぁ、一から説明している時間も惜しいので、とりあえずは各々の想像力に任せることにするが……いいの? せっかく一致団結みたいな雰囲気だったのにこんな曖昧なふたりが一緒でいいの?
「さっきから聞いてたけど……琴音に何かあったのか?」
そう問いかけてくるのは、俺――ではなく、琴音本人。
まじかよ、本当にもう自分と俺との区別がつかなくなっちまってるってのかよ。
このままじゃ、琴音は完全に俺になってしまう。日本語がおかしいけど、でも事実だ。
「琴音はお前だろうが! 大丈夫かよ!」
琴音の双肩に手を置いて、秋が何度も言い聞かせる。
必死に話しかけている秋とは裏腹に、琴音は頭にはてなマークを浮かべていた。
「……先輩は、大丈夫なんですか?」
ふと、ユキが俺の耳元でそう囁く。
耳に吐息がかかるぐらいの近距離で思わずギョッとしたが、なんとか平然を装った。
「俺は……大丈夫っぽい。大きな変化だけで言えば、今んとこ絵が上手いだけだぜ」
自分で言っててあれだけど、ホントなんなんだこのキテレツな会話は。
「だからそれは先輩の実力ですよね?」
「お前まだその段階で理解できてなかったの!?」
「だ、だってややこしいんですもん!!」
「ちょ、耳元で怒鳴るな! キーンてする!」
ぷりぷりと怒るユキをなだめながら、やはりこのままじゃどうにもやりづらいので、今の状況を簡単に説明しておくことに。
俺たちにもやれることはあるはずだ、とかカッコイイこと言っておいて実際問題はオメガからの指示がない限り何をしていいのかも分からず手持ち無沙汰でなんか恥ずかしかったので、ちょうど良くもあった。
「――とまぁ、そんな感じで、今琴音が危ういんだ。わかったか?」
「半分ぐらい理解できましたです!」
「オーケー、上出来だ。エメリィーヌは?」
「ヨ? 全然聞いてなかったんヨ」
「オーケー、上出来だ」
「上出来なんですか!?」
ごめん、つい面倒になって。
つーか、そんなことよりも、だ。
「なぁ、オメガ。なんで俺は無事なんだ?」
さっきユキに聞かれたことで疑問を持ったことがある。
同じ《入れ替わり》の被害に遭っている琴音が現状そのままの意味で自我を失うくらい症状が進行しているのに、俺だけそれほど症状が進行していないように思える。少なくとも、比べるとその差は歴然だ。
「……あくまでも憶測の域を出ないが……おそらく運動量の差だろう」
「運動量の……差?」
「あぁ。琴音ちゃんは運動慣れしていない山空の身体で、ほぼ一日中走り回ってたんだ。走り回ると心臓の鼓動も早くなり、血の巡りも加速する。それにより、脳が活発に働いたため、なんかその辺がいい感じに促進効果をもたらしたと考えられる」
「お前たまに説明ふわっふわになるよな」
でも、なんとなくは思い当たるフシがある。
オメガの説明通りだと仮定した場合に考えると、俺に症状が現れた時、それこそ走ったり、緊張してたり、焦ったり、驚いたり、とにかくオメガも言ってたように心臓の鼓動が早くなっていたであろう瞬間だった気がする。……よく覚えてないけど。
それにもしも心臓の鼓動が症状の進行度に密接に関係しているとしたならば、自分で言うのもアレだけど俺は比較的落ち着いていたと思うし、それどころか琴音の体になってから二度ほど意識が遠くなって寝込んでいたので、その間鼓動という鼓動はゆっくりと流れていたはずだ。
それに引き換え、琴音はなんか覗きとかの事情で追っかけ回されたりとかしていたのだろう。あの女子たちの怒り具合から見ても、そのことが伺える。
だから辻褄は一応合ってはいた。
「事の真偽を確かめるには山空が今ここで興奮状態に自ら陥り、症状が出るか出ないかで判断するのが一番手っ取り早いのだが……頼めるか?」
「嫌に決まってるだろ!」
「なぁに、ちょっと着ているものをすべてとっぱらってそこに立っててもらえれば程よく興奮することができるはずだ。僕が」
「お前かよ! お前関係ねえだろ!」
何を言い出すんだこの変態メガネ! 場を和ますための冗談だろうけど、時と場合を考えろよ!
「だって、山空だけ琴音ちゃんを堪能するなんてずるいだろう!」
「人を変態呼ばわりすんじゃねえよしてねえよ!」
「なに!? 海お前……見たのか!?」
「お前もか秋! 見てねえし見たとしても琴音にぶっ殺されるの俺だからな!」
「先輩最低ですね」
「なんでだよ!! 俺が見たという体で話を進めんじゃねえよ!」
「でも見たなんヨね?」
「なにこれ!? 何この統率のとれた嫌がらせ!?」
「俺なら見てた」
「おいそこの俺の分身! ややこしくなるから俺の本音をぶちまけんな! というかお前の身体だろ! いいのかそれで!」
なにこれ! なんだこれ! 無駄にツッコませんじゃねえよ! なんかしんないけど琴音の身体のせいかボケには敏感なんだよ! ツッコまずにはいられないんだよ! 胸の奥にあるツッコミニズムがくすぐられちまうんだよ! ツッコミニズムってなんだ!
「山空、あまりはしゃぐな」
「誰のせいだよ!!!」
ハァハァと肩で息をして、無駄に鼓動を早くする俺。
もうホントまじで……これで俺まで琴音化したらどうすんだ。人材が一人減って患者が一人増えるんだぞ。もう医者がインフルエンザ感染りましたみたいな状況になるぞ。いいのかそれで。
「とりあえずふざけてる場合じゃねえ……オメガ、指示出してくれ、俺なにすればいい?」
「大丈夫だ。もう修理自体は終わった」
「タイミング!!!!」
「先輩、今日テンション高めですね」
「はぁ!? ……え、えっと? なんて?」
「え? ですからテンション高めですねって」
「え? あぁ。うん、高いのいっぱいあるよな」
「え?」
「えっ」
なぜだか、ユキと会話が合わない。
「え、先輩何言ってるんです?」
「え? ハクションとかって、団地とかの話だよな?」
「ユキが言ったのはテンションですよ!? 先輩が言ってるのはマンションですよね! ハクションってどっから出てきたんですか! 大魔王じゃないですか! なんで呼ばれてもないのに飛び出てきちゃったんですか!」
「え? まんしょん? って……えっと……」
あれ、おかしいな。聴き慣れた単語なのに情景が浮かばない。
まんしょん……って、あれだよな……なんかこう……作り話とかそういう……、あれ? それがハクションだっけ? いやハクションは普通にくしゃみだ! 大丈夫か俺!
「おい……か、海」
「ん? なんだ秋」
「お前……英語、わかんない、のか……?」
青ざめた秋。オメガは何やら機械がちゃんと直ったか点検みたいなことを始めているが、よく見ると、ユキやエメリィーヌも似たような顔色で俺を見ていた。
「え? どうしたんだよお前ら……急に英語のテストの話なんか……」
「テストじゃねえよ! 海、お前『りんご』は英語でなんていうかわかるか!? ちなみに綴りはこれだからな!」
そう言って、どこからともなくりんごの絵とその下に『apple』と書かれた紙を取り出した。
何言ってんだこいつは。りんごなんて、簡単じゃないか。しかも綴りまで出ているのだ、あとはもうこの綴りをそのまま読むだけ。
「そんなの簡単だ。『アッペェイレ』だよ」
俺が答えた瞬間、ユキが「ブフォ……!!」と吹き出した。
おい馬鹿、なんで笑うんだ失礼だろ。
「重症じゃねーか!」
「な、なにがだよ!?」
「カイ、もしかしなくても……コトネになってきているんじゃないんヨか……?」
「な、なんだって!?」
エメリィーヌの一言で、俺はようやく自分がおかしいことに気づく。
俺は、この英単語の読みを正解だと思っていた。
でも、もしそうじゃなかったらどうなるのだろう。
もしそうじゃなかったら……俺はこんな初歩的な英単語を間違えていたという事になる。
でも、じゃあなんで間違えた?
……答えは簡単だ。俺が琴音にまた一歩近づいてしまったという事実に他ならない。
「……オメガ、どうやらお前の読みは正解っぽいぜ……ドキドキしたら進行度がグングン進みやがった……!!」
さっきのやり取りで、俺はツッコミのしすぎで息切れをした。つまり、心臓の鼓動が早くなった。
その瞬間。たったあれだけの時間で、こんなにも克明に症状が現れた。
……しかし、恐ろしいのはそこじゃない。
エメリィーヌに指摘してもらわなきゃ、俺は自分が異常な事にすら気づかなかった。
英単語を答えられないなんて、俺からすれば明らかにおかしい。
でもそれを俺は、なぜだか元々そうであったかのように、疑問に思うことすらできなかった。
目の前にいる琴音も俺と同じく、自分が自分でなくなっていくことにも気づけないまま……“俺”に成り果ててしまったのだろう。
でも、だとしたら気づかせてあげることが大切だ。
俺だって、指摘されるまでは気づけなかったけど……でも、それは裏を返せば、指摘すれば気づけるってことだ。
もう手遅れかもしれない琴音の、手遅れじゃない確率を少しでも上げるために……。
「琴音……よく聞いてくれ」
「……?」
俺は、俺の姿をした琴音に向かって言う。
もちろん本人は自分のことを琴音だと認識していないため、当然「琴音? そりゃお前だろ」みたいな面構えをしている。
……なるほど、俺はいつも、こんな風に表情に考えていることが表れてたんだな……。そりゃわかりやすいわけだ。
でもな琴音。それはお前の“癖”じゃない。俺のモンだ。
「お前は山空海なんかじゃない。山空海は俺なんだ。お前は竹田琴音。覚えてるか? 俺とお前はオメガの道具で入れ替わっちまった」
「オメガの……道具で……?」
目を丸くして、驚いている様子がはっきりと分かった。
琴音も琴音で、さっきの秋とオメガの言い合いの様子を聞いて多少なりとも物事に違和感というものを覚えていたのだろう。だからこそ、オメガの発明品と聞いて「ありえない話じゃない」って顔をしている。
「いいか、お前は竹田琴音だ。ただ《入れ替わり》の副作用みたいなやつで、お前は自分のことを山空海だって思い込んでしまっているだけなんだよ」
「そ、そうですよ琴音っち! それに……もし仮にここにいる先輩が本当に琴音っちだったとしたら、こんなことすると思いますですか!?」
そう言って、ユキは俺に目配せをすると、小声で「ほら、先輩! ここですかさず琴音っちが絶対しないような動きを見せてくださいです!」と無茶ぶりをしてきやがった。
しかし、確かに琴音が絶対しないようなことを琴音の姿である俺が見せれば、より信憑性は増すだろう。
だけど、それはそれだ。
急に話を振られたって、琴音が普段絶対にしないようなことなんて、とっさに思い浮かぶわけもない。
それこそさっきオメガが言ってたみたいに突然衣服を脱ぎ捨てたりとかすればそれも正解なのだろうが、琴音を救うためとはいえ、そのために後々琴音自身が死にたくなるような振る舞いなんてしていいわけないし、そもそもそんなことしたら秋にぶっ殺されそうだ。
琴音自身を傷つけず、俺が琴音でないと立証する方法……やはり、あれしかないだろう。
「……俺は今から、虫を触る」
俺がそう告げた瞬間、目の前にいる山空海がかすかに息をのむのを俺は見逃さなかった。
そう、この方法は、琴音のクラスメイトであった小野 和也くんと里中 楓果ちゃんに、実際に俺が琴音でない事を証明した究極の方法である。
琴音は大の虫嫌い。それは、蟻や蚊でさえも受け付けないほどに、酷いもの。そしてその事実は、目の前の山空海も重々承知の事実だ。
そんな琴音が、実際に虫を触る。
それを見せられた瞬間、この上ない説得力が生み出されることだろう。
「よく見とけ」
一言だけ言い残すと、俺は玄関から琴音の靴を持ってきて、テラス戸から庭へと降りる。
そんな俺の後姿を、道具の調整をしているオメガ以外全員が見守っていた。
「……どこだ?」
虫なら何でもよかった。
だから俺は、適当に蟻でも捕まえようかと思っていたのだが……なぜだか全然見当たらない。
俺んちの庭がきれいすぎるのか、はたまた虫達が危険を察知して隠れてしまったのかわからないけど、普段普通に道を歩いているだけで見つかるぐらい大勢いる蟻たちは、一向に姿を見せなかった。
俺は仕方なく、庭の隅の方にある漬物をつける際に手ごろそうな大きさの石をどかす。
するとその石の下から出てきたのは、予想通り大量のダンゴ虫たちだった。
突然差し込んだ日光に戸惑いカサカサと慌てふためいたように徘徊するダンゴ虫たちの中の一匹に手を伸ばし、ちょんとソイツに触れてみる。
すると、俺の指を敵と判断したらしいダンゴ虫が、くるんと丸くなって防御態勢に入った。
丸くなったダンゴ虫を躊躇なく拾い上げ、俺は手のひらの上に乗せる。
ジッと身を固めて息をひそめるダンゴ虫は、文字通りそのまんまの意味で俺の手のひらの上で転がされていた。
「どうだ、これが、俺が琴音ではない証拠だ」
「まじかよ」
一部始終を見ていた山空海が、驚きの声を上げる。
これで、だいぶ信憑性が増しただろう。
「信じられないかもしれないけど、他の誰でもない、お前が竹田琴音なんだ。あんまり心配かけさせるんじゃねえよ」
俺ができるのはここまで。あとは、山空海――否、琴音自身の解釈に任せることにする。
ふと、手のひらがムズムズと痒くなる。
感触を感じた場所を見ると、ダンゴ虫が元に戻ってもぞもぞと手のひらを歩き回っていた。
――それを見たとたん、唐突に視界が真っ暗になる。
「なんだ……これ……」
真っ暗な視界にぼんやりと“映像”が浮かぶ。
所々でノイズが走り、まるでセピア色のフィルターを被せながら、古いビデオテープを再生しているかのような――そんな光景が、延々と流され続けている。
『お前が**した』
脳内に響く何かの音。誰かの声。
その音は、途切れ途切れになって俺の頭の中に響いてきた。
「一体……どうなって……」
その映像の中には、人がいた。
どこかの……教室の中。それも、学校のではなく、もっと昔の――保育園のような。
そんな場所に、数十人の子供と、一人だけ背の高い大人も交じっている。
だけど、その映像に映っている人たちの顔とノイズが重なり、表情は全くわからなかった。
きょろきょろと辺りを見回してみるけど、その映像は動かない。
首を動かしている感覚はあるのに、映像は正面しか映してくれない。
大人の人(おそらく女性)は花柄のエプロンをしているのだが、胸元から上が画面から見切れている。
それにひきかえ、子供たちはみんな同じ服を着ている。
なぜだか、自分の目線は、その子供たちと同じ高さに位置していた。
『お前のせい。お前が**した』
その場にいる全員の視線が、俺に向けられる。
顔はわからないんだから、視線が向けられていることもわからない筈なのに……。
確かに、その視線は俺を打ち抜いていた。
『私じゃない、私じゃない』
誰かが必死に声を絞り出す。
その声は、今にも泣き出しそうなくらい……震えていた。
その言葉を聞いて、また誰かが声を上げる。
『嘘つき。アンタが**したんじゃん』
誰かが、何かを言ってる。
でも、聞こえない。聞き取れない。
不意に、耳障りな音が耳元に浮かぶ。
不快感を仰ぐような、精神を中から破壊していくような、そんな音。
夏の暑い日の、藪蚊の羽音のような音が、ずっと耳元でなり続ける。
『ちがう……ちがう……』
とうとう、誰かが泣き出した。
それと同時に、一際大きいノイズが画面全体を覆った。
再び、視界は闇に包まれる。
けれど、所々でチリチリと音がして、時々白い斑点がプツプツと浮かんでは消えていく。
……いや、白いモノが浮かんでいるのではない。白いものはおそらく映像で、黒い何かがそれを覆っているのだ。
黒い何かが動くたび、映像の光がチリチリと差しこんでくる。
それに気付くと、なぜだか寒気がした。
心臓を血まみれの手で撫でられたような、そんな不気味な胸やけが襲う。
そして数秒もしないうちに、視界を覆っていた黒い何かがどんどん消えていく。
その黒いモノの正体は、大量の小蝿だった。
何千。何万の小蝿が一斉に飛び立つ。
そして、映像が露わになった。
映像の中心で、残った少量の小蝿が何かを基軸にブンブンと遊泳している。
縦横無尽に見えて、規則性にのっとった動き。
ブンブン。
チリチリと。
まるで俺に何かを訴えるように、“あるモノ”の上をずっと舞っていた。
ブンブン。
ジリジリ。
チリチリ。
ブンブン。
ジリジリ。
チリチリ。
羽音に交じって、今度はハッキリと声が聞こえた。
――“お前が、殺した”。
「――はっ!?」
ビクリと、肩がはねた。
気が付くと、俺は大量に汗を流していた。
慌てて、きょろきょろと辺りを見回してみる。
俺の家の庭。
手にはダンゴ虫が優雅に動き回っていた。
唐突にこみあげてくる吐き気。悪寒。
「う、うわぁぁああ!!!!」
俺は慌てて、それを振り払う。
なぜだかこの時の俺には、ダンゴ虫が恐怖の対象になっていた。
「か、海!?」
「どうしたんですか先輩……!?」
「なに事なんヨか!?」
「山空!?」
俺のなさけない悲鳴に、みんなが同時に声を荒げた。
「ご、ごめん……何でもないんだ……ただ、虫が、怖くて」
「海、それって、また……」
秋が呟く。
虫が怖い。つまり、またしても俺は琴音に近づいてしまったという事だ。
けれど俺は、そんなことよりも先ほど見た映像の方が気になっていた。
思い出すだけで、背筋が凍るような嫌悪感があふれ出てくる。
あの映像は、いったいなんだったのだろうか。
俺の知らない場所、知らない人、知らないやり取り。
そんな光景が映像として眼前に浮かぶこの感覚は、少し前に中学校の保健室で経験したそれとどこか似ていた。
保健室の時は、俺が知らない、琴音とユキの会話だった。
恋愛に対して、臆病になっているユキ。
それは、普段の積極的な彼女からは想像もできないくらい、弱弱しい姿だった。
そしてそれは多分、琴音の記憶。
俺が琴音になってしまって、何かのきっかけで琴音の脳に保存されている記憶の映像を、俺が見てしまったという事になるのだと思う。
琴音だけが知ってる、琴音しか知りえない、琴音だけの記憶。
つまり、もしさっきの映像があの時と同じ意味合いなのだとしたら……。
「よし、山空! 準備万端だ!」
オメガが道具を手に持ちながら、そう言った。
「わ、わかった!」
今はあれこれ考えている場合じゃない。
道具も完全に直った。だから、あとは元に戻るだけだ。
さっきの映像のことは、その後にでもじっくり考えればいい。
「良く聞いてくれ山空。それに琴音ちゃんと……あとみんなも」
オメガが指示したとおりに琴音の隣に立った俺。
それを確認したオメガが、なにやら神妙な顔つきで話し始める。
「先ほども言ったように、可能性は100%じゃない。この《入れ替わり》事態僕も予期せぬ事故だったんだ。だから、今から発明品を使うけど……実際に元に戻れるかどうかはわからない」
秋の身体が、小刻みに揺れていた。
その揺れの発信源を目で追って視線を下にずらすと、そこにはかつてないくらい強く握られた握り拳があった。
苦虫をかみ殺したような表情で握るその手には、どれほどの想いが詰まっているのか。どんな感情が込められているのか。
きっと秋だけにしかその感情は理解できないのだろうと静かに悟った。
「っ……」
オメガも、そんな秋に気付いたのか、小さく息をのんだ。
それでも、オメガは続けた。
「仮に戻れたとしても、何らかの障害が残る可能性だってある。……覚悟だけは、しておいてくれ……。それじゃ山空、いくぞ」
「……頼む」
オメガの合図にコクリと頷いた俺は、琴音の肩に手を置いた。
今朝の経験上、道具を使った時に体中に電気が走るような感覚に襲われる。
ピリッとするような、チクッとするような、さながら静電気が放電したときと同じような電流が、身体全体に駆け巡るのだ。
琴音に触れておかなくちゃいけないのも、それらの都合のためである。
「――スイッチ、オン!」
オメガの指が、ボタンに触れた。
「うっ……!!」
「ぐあっ……!!」
その瞬間、思っていたよりも強力な痛みが身体に走る。
自然と洩れるうめき声。
筋肉が電気によって一瞬硬直し、ビクンと体がはねた。
けれど、それも1秒もないくらいのほんのわずかな時間。
すぐに、俺達は痛みから解放された。
「元に戻った……のか?」
秋が恐る恐る確認してくる。
「いや……今朝の時も効果が出るまでに少し時間がかかったんだ。だからそんなすぐにというわけにはいかないと思う」
俺が説明すると、秋は納得してくれたようだ。
そう……今朝の通りに道を辿るなら、この後しばらく何も起こらず、数時間後に唐突に体調が絶不調に陥るのだ。
呼吸もままならず、身体が痺れて立つことすら許されない。体の内側から焼かれているように熱を帯び、やがて意識を失っていく。
今までに経験したことないような辛苦の感覚が、俺達に容赦なく襲いかかってくる。
できればもう二度と経験したくないような苦しみだったけれど、それをもう一度体験しなくちゃならないというのは、なかなかに堪えるものがあった。
「実はこの道具、今朝よりも威力を高めてある。だから数時間を待たずとも第二の症状が現れ始めるはずだ。もちろん、ちゃんと計算した上での改造だ、安心してくれ」
「まじか……」
すぐに効果が出ると聞いて、素直に喜べない。
あの痛みがより早く襲いくるなどと聞かされて、喜べる方がどうかしているが。
「とにかく、しばらく待ってればいいんだな?」
俺の姿をした琴音もまた、わからないなりにこの状況になんとか食らいついていこうとしてくれている。
記録の混乱によるものなのか、はたまた別の理由なのかわからないけれど、琴音は“俺”になるにつれて《入れ替わり》の詳細をきれいに忘れているようだった。
「――うっ!?」
そして、その時間はあまりに唐突に訪れた。
数時間後なんてもんじゃない。道具のスイッチを押してからまだ5分も経過していないのに、また、あの痛みと苦しみが俺の身体をつかんで離さない。
何かにすがるように自分の胸元を抑え、最初はひざ。次に腰と、順に地面に近づいていく。
意識が朦朧とする中横目で琴音の方を見ると、琴音もまた俺と同じ苦しみに耐えているようだった。
ドクンドクンと、心臓が脈打つのがわかる。
うめき声すらあげられないほど、呼吸が乱れる。
そして、秋やユキ、エメリィーヌ等の不安そうな声を最後に、俺の意識は深い場所へと落ちて行った――。
第六十話 完
≪入れ替わり≫編も思いっきりラストスパート!!
本当にとても長かった……!!