第59.5話 その7~金魚すくいのような~
今話から挿絵をフルデジタル化しました。
とうとうペンタブを買ったのです。
『――――ザザッ――プールの時にいた――ザザッ――やつ覚えてるか?』
「え?」
海兄ぃからの通信。
右耳につけているイヤホンから広がるその声に、不規則なノイズが走る。
そんな中。
『はぁ? ……あぁ、あのオタク野郎か。それがどうした?』
私の記憶に鮮明に残っていたアイツの言葉は、一言一句逃さずに私に送り届けられた。ノイズ仕事しろ。
「海……兄ぃ……?」
なぜ今、アイツ――金髪の不良の声が聴こえるのか。
私たちは知り合いでもないし、あのプールの事件以来接点なんて何一つなかった。
なのに、アイツは今このイヤホンの向こうに存在している。
そして、このイヤホンがアイツの声を拾っているということは、イヤホンの受信先――つまり、海兄ぃのすぐそばにソイツがいるということ。
金髪の不良。
ヤツは人目が多かったプールの中でも、ナイフを持ち出してくるような常軌を逸したやつだった。
そんな奴が今、海兄ぃのすぐそばにいる。
イヤホンが声を拾えてしまうぐらいの、すぐそばに。
もしかしたら、金髪の不良だけではなく、プールの時その不良と一緒にいたもうひとりの不良――黒髪の不良もいるかもしれない。
危険な奴らが二人。そんな奴らが、海兄ぃと仲良く世間話をしているはずもない。つまり、海兄ぃは今奴らに絡まれているということだ。
この私でさえ、プールの時あの不良達に腕を掴まれて振りほどくことができなかった。それほどまでに男女の筋力差――それも成人した男性と、成長途中の女子中学生とでは大差と呼べるくらいに著しい差が存在する。
それだけでも絶望的なのに、あろうことか中身は私じゃなくてあの海兄ぃ。
海兄ぃが私レベルの格闘術を習得しているはずもなく、反対にあの不良たちは私が武術に長けているのを知っている。
もしも不良達が油断せず、慎重に警戒しながら喧嘩をふっかけてきていたら、戦況は圧倒的に海兄ぃの方が不利だった。
だが、もし万が一そういう状況に海兄ぃが陥っていたとして、ただでやられる人じゃないことなど私は知っていた。
肉体的な部分では劣っていたとしても、狡賢さなら海兄ぃは群を抜いている。何かしら、作戦的なものを考え、行動しているに違いないのだ。
『あいつ――ザザッ――ロリコン――ザザッ――』
……海兄ぃはなんの話してるんだよ。何が狙いだよ。
危機的状況だと思い込んでいたのは私の方だけで、実はそうでもないんじゃないかって思いたくなるぐらい間抜けな会話。
この言葉が私に向かって放たれたものではないのだと推測すると、不良の人とそんなやり取りをしていることになる。
声だけだと情報が少なすぎて、もうなにがなにやらだ。
『はぁ?』
私の気持ちを、不良の人が一言で代弁してくれた気がした。
そりゃあ「はぁ?」ってなるわ。私もなるよ。
『お前らのよう――ザザッ――女の子をいたぶるような――ザザザッ――』
ノイズが激しい。
まるで、マイクを手のひらでなでた時のような、ひどい擦り切れ音。
だけど、だからといって目を背けていいはずもなく、私は必死に聞き取ろうと全神経を耳に集中させる。
『――ザザッ――アイツのいるクラスの窓を見下ろすと俺とお前の姿が確認できる――ザザザッ――俺の危機――ザザッ――』
俺の危機。海兄ぃは確かにそう言った。
ということはやはり、襲われているということだ。
間違いない。海兄ぃは、私に助けを求めている。
だったらこんなところでもたもたしていられない。すぐに助けに行かなくちゃ。
窓から見下ろすと見える位置に二人は居るらしい。“アイツ”っていうのは、多分恭兄ぃのことだ。
恭兄ぃの居る窓はたしか、校庭側。
中学校とこの高校は隣に位置するわけだから、恭兄ぃは窓から中学校全体を見れる位置にいるんだ。
ってことは、体育の時とか、校庭で遊んでいる時とか、全部全部丸見えということになるわけで、つまるところ私は四六時中恭兄ぃに観察されているということに……!!
「い、いや、今はそれどころじゃないよ!」
あまりのおぞましさに背中の産毛が逆立つような感覚に襲われたが、今はそんな事実におののいている場合じゃない。
つまるところ、中学校全体は見下ろさなくたって席に座っているだけで見渡せる。それをあえて“見下ろせば”と言葉にしているということは、その窓からでも見下ろさなければ見えない位置……。
つまり、海兄ぃは中学校ではなく、もうすでにこの高校まで――校庭付近まできているということ。
『…………はん、ただの脅しだろ?』
そして、もうひとつ気づいたことがある。
あれほどまでに頻繁に入っているノイズが、金髪不良が喋る時だけ微塵も入らない。
これは偶然……? いいや、違う。
ノイズの音は、何度聞いても意図的に作り出されたような――そんな違和感があった。
ガザゴソと何かを弄っているような、布が擦れるような音。
冷静になって考えてみると、海兄ぃは今不良に絡まれている。そんな状況で、堂々と通信機を装着して私に助けを求められるはずがない。何か怪しい動きをしたら、不良の人だって黙っちゃいないだろう。
だからこそ海兄ぃは不良の人にバレないように、きっとピンマイクをポケットか何かに入れたまま……尚且つ助けを求めていると悟られないようにべらべらとわけのわからない言葉を並べているのだ。
そして、そのくだらない会話さなか、ポケットにあるピンマイクに何かしらの衝撃を与えてノイズを意図的に発生させ、一部分だけを私に伝えることで重要なヘルプサインを送ってきているに違いない。
だから海兄ぃが喋っている時だけノイズがひどく、反対に不良が話しているときは綺麗な音を拾っているのだ。
そんな私の推理を裏付けるかのように、再び海兄ぃから雑音混じりのメッセージが届く。
『ザザッ――あいつ――ザザッ――まずはバラす――ザザザッ――』
不自然な言葉のつながり。
むしろ言葉を発しているであろう時間よりも雑音の方が多く、聞けば聞くほどちぐはぐだらけ。
そして、それらを理解した上で海兄ぃの言っていたことをまとめると、こうなる。
“今、俺は不良に襲われている”。
“場所はこの高校の校庭”。
さらに海兄ぃは先程「あいつ」と「まずはバラす」という単語を残した。
まずは、ということは、助けに来る前に「あいつ」に「バラす」ことをしてから来いということ。
あいつっていうのは、ロリコン。
ロリコンっていうのは、恭兄ぃ。
そして、私や海兄ぃが「恭兄ぃ」と「バラす」で共通することといえば――そう、《入れ替わり》のことに関してだろう。
すぐに助けに行ったほうがいいはずなのに、わざわざ恭兄ぃを経由してから来いという。
その行動にどういう意図が含まれているのかまでは汲み取れないが、海兄ぃにはなにか考えがあってそう言ってる。
だったら私は、急いで言われた通りの行動するのみだ。
「恭兄ぃは……教室かな」
教室は目と鼻の先。
しかし、ほんの数分前まで誤解を孕んだ女子一同が待ち伏せていたはずだ。
だけど、今はそんなこと構っている場合じゃない。ことは一刻を争うといっても過言じゃないんだ。
よっしゃあ、気合入れてこう!!
ダダダッと駆け出して、廊下へと飛び出す。
「い、いたぞぉおおおお!!!! ぶっ殺せええええええ!!!!」
「女の敵ぃいいい!!!! 引き裂いてやるうう!!!!!!」
「くたばれセクハラ不良ぅうううう!!!!」
「俺らの燕ちゃんのを見たというのかぁぁ!!! 見たというのかぁあああ!!!!」
ちょっと最後のやつ男の人じゃん!!!
その人たちは、とても乱暴な言葉を吐き、目を赤く光らせ、体からどす黒いオーラを放出し、まるで飢えた獣のように本能のなすがまま私のほうに向かって突進してきていた。
だけど今の私に退くという選択肢は残されていない。
イヤホン越しに、海兄ぃと金髪の不良が今もなお会話を続けている。
しかし、それも長くは持たないだろう。
不良の人にとって、高校の校庭などという目立つ場所には長居したくないのが当然の道理。
手遅れになる前に、私がなんとかしなくちゃいけないんだ!
「覚悟しろエロふりょ……なっ!?」
いち早く私のもとにたどり着いた女子生徒の一人が掴みかかってきたが、私はそれを軽快に回避する。
それを見ていた他の取り巻きたちも襲いかかってくるが、所詮やはり素人。動きが単調で読みやすく、私は上下に、左右に、身軽な動きで全てを避けた。
「なに、あの動き……!?」
「全員の合間を縫って、一気に突破したとでも言うの!?」
「滑らかなフットワーク……さすが喧嘩慣れした不良というわけか……!!」
「そしてそのフットワークで我らが燕ちゃんのを覗いたというわけだな!? 羨まし……けしからんやつめ! ぜひご教授願おう!」
だから最後の人!! ご教授願うな!
既に私に突破された女子軍団(一名男子)が、私の背中を見て口々に驚きの声を上げる。
私だって、伊達にお母さんから護身術として武術を学んでいるわけではない。
力が弱い私が大の男に勝つためには、相手を観察し、重心の動きや相手の死角、隙なんかを瞬時に判断してその状況に一番効果的な角度で拳を叩き込む。そんな努力が必要不可欠。自分で言うのもアレだけど、そこいらの人間じゃ私は止められないと思う。
バスケとかドッジボールとか、それにサッカーとかなんかも、私が本気を出せば絶対にいい感じの活躍をするだろう。学校とかだと目立つと恥ずかしいのであまりそういうのは発揮しないようにしているわけだけど。
……あ、でもどうだろう。
人を避けたりするのは得意だけど、バスケにしろサッカーにしろ、シュートを決められるかどうかと聞かれれば多分無理だ。
私はあくまでも観察眼を鍛えているだけ。それがお母さんの指導方針だったから。
「オメガ!!!」
教室のドアをガラリと開けて、その姿があるかどうかを確認する時間さえも惜しく感じた私は、彼の名前だけを先行して叫んだ。
すると、姿は見えずとも大量の女子の輪の中心から「何用かな山空くん?」という陽気な返事が返ってくる。
うわぁ、恭兄ぃってやっぱモテるんだ……。
『小鳥が1羽飛んでるだけだ!!!』
『うおっと!? あぶねぇ!!!』
イヤホンから、なにやら戦闘を開始したようなセリフが聴こえてくる。
こうなったら、説明は海兄ぃの元を向かいながらするとして、今は恭兄ぃを連れて校庭に急いだほうがいいだろう。
「オメガ! 俺と来てくれ! 琴音がピンチだ!!」
女子に囲まれて身動きがとれなそうな恭兄ぃにどうやって危機感を伝えるか考えた結果、一番効果的なのが私の名前を出すことだった。
そして、その言葉を聞いた恭兄ぃは、突如怒鳴り声を上げる。
「オラオラオラどけよ女子共!!! 僕の邪魔をするとぶっ殺すぞ!!!!!」
ありえないぐらい乱暴なセリフを吐きながら、一瞬にして私の目の前に躍り出た恭兄ぃ。
「で、どういう状況なんだ山空?」
多重人格を疑いたくなるぐらい人が変わった恭兄ぃに若干引くと同時に、私のことでここまでしてくれるのかという事実に、不覚にも嬉しさがこみ上げてきていたり。
って、喜んでる場合じゃない。
「とりあえず話は後!! 校庭行くよ!!」
「了解した!!」
言うが早いか、私と恭兄ぃは廊下を今までにないぐらい全力で走っていた。
今日だけで私は何回廊下を走っているだろう。この学校の校長先生が見たらきっと泣くよ。
「えと、走りながら聞いて欲しいんだけど!! 実は私、海兄ぃじゃなくて琴音なの!!」
時間もないので端的に告げる。
多分恭兄ぃからしてみれば「何言ってんだ」という感想しか出てこないだろうが、それでも事細かに説明している暇なんてなかった。
「何言ってるかわからないだろうけど、なんか入れ替わっちゃってるみたいで!! で、今は私の身体になってる海兄ぃがプールの時にいたあの金髪の不良に襲われて助けを求めているってわけ!!」
「理解した」
「理解したの!? すごいな!」
さすが恭兄ぃ。常軌を逸した理解速度だ。
そんなことをしている間に、私と恭兄ぃはすぐに昇降口にたどり着いた。
ガラスのドアを隔てて、校庭には威圧感を放つ金髪不良の背中と、ソイツに捕まっている海兄ぃの姿だった。
物事は殴り合いに発展したんだろうか。海兄ぃは両手を掴まれ、右足を踏みつけられ、攻撃を繰り出したであろうその左足は、さながら受話器のごとく金髪不良の肩と顔に見事に挟まれていた。
だが、そんなことはさほど問題ではない。
問題なのは、海兄ぃが左足を蹴り上げたままの状態で停止しているせいで、こちら側から私のスカートの中に潜む下着が白昼堂々と露見してしまっている件。そして、それを目撃したであろう恭兄ぃが真っ赤な鮮血をまき散らしながら音もなく卒倒しているということだ。
早く海兄ぃを助けなくちゃという使命感と、このままでは海兄ぃが殴られて私の顔とかにアザができるかも知れないという危機感と、下着を見られた恥ずかしさと、自分のパンチラを遠くから見せつけられているという何とも言えぬ虚無感。いろんな感情が入り乱れすぎて混乱しそうだったので、私は考えるのをやめてとりあえず海兄ぃを助けることを最優先にした。
校内用の上靴のまま玄関に降り、昇降口のドアに手をかける。
しかし、鍵が掛かっていた。
「あのイッペーさん達……!!」
数分前にこっちもこっちで不良に絡まれていた時のことを思い出し、昇降口の全部のドアに鍵がかけられている原因に気づく。
目の前には今にも海兄ぃに殴りかかりそうな金髪の不良。
幸い、昇降口の鍵は簡易なレバー式のものだったため数秒あれば開けることは可能だが、この時だけはその数秒間の作業だけでも焦燥してしまう。
「琴音……ちゃん……」
鍵を外して今まさにドアを開けようとしたその時だった。
下駄箱先で鼻血に溺れ倒れていた恭兄ぃが、かすれた声で私の名を告げながら何かを差し出してきていた。
よくよく見ると、それは英和辞典と書かれている。
「これ、海兄ぃの机の上に置いてあったやつ……?」
なぜに今こんなものを? と当然の疑問が浮かんできたが、それを察したらしい恭兄ぃが短く、
「これで殴るんだ……」
とだけ告げて、再びガクッとその場で突っ伏した。
英和辞典。
文庫本数冊分の厚さと重さを誇るソレを武器にすれば、たしかに普通に殴るよりも効果が目に見えて分かりそうだ。特に角の部分とか、武器を通り越して凶器にもなり得る。
ヘタに素手で殴ったり蹴ったりするよりは確実に殺傷能力の高い武器といえよう。
「ありがと、恭兄ぃ!」
海兄ぃを助けるためには、不良の動きを封じる必要がある。
そのため、攻撃威力の高いものを使用したほうがいいのは火を見るよりも明らか。
弱っちい攻撃で反撃されたらたまったもんじゃないし。
それにしても、不幸中の幸い。不良はどうやら金髪の不良だけで、プールの時一緒にいた黒髪のやつはいないようだ。
相手が一人だとわかればなんの躊躇もいらない。
私は恭兄ぃの手から英和辞典を乱暴に受け取ると、私は一目散に海兄ぃの元へ駆け出した。
昇降口のドアをガラリと開き、英和辞典を掲げる。
その時、海兄ぃと目があった。
その瞬間、海兄ぃは勝利を確信したようにニヤリと口元を緩ませる。
そして、それとほぼ同時に――。
「うおりゃ!!!」
私は、英和辞典を不良の頭頂部に容赦なく叩き込んだ。
第59.5話 その7
~金魚すくいのような~
『うごッ!?』
人間の体から発せられた音とは思えないような鈍い音とともに、小さくうめき声をあげて金髪不良は勢いよく倒れ込む。両手足をその不良に拘束されていた海兄ぃもまた、不良が倒れた拍子に尻餅をついた。
「この不良……!! 私の身体に触んないで!!!!」
倒れて四肢をピクピクと痙攣させている金髪の不良を蔑むように見下ろし、私は言い放った。不良の人に聞こえているのやらいないのやら。
「海のに……あっいや、琴ちゃ~ん!!! 先生呼んできた……って、あれぇ!? 解決してる!?」
ふいに、中学校の方から聞き慣れた声が響いた。
反射的にそちらの方を見やると、中学校の昇降口からは私の幼馴染のカズっちゃん――こと小野 和也くんと、友達の里中 楓果ちゃん、そしてなぜだか美術の先生が三人こちらに向かって走ってきていた。
「先生! アレ! アイツがその不良やで! あの厳いかつい不良っぽいんがそうです!!」
「なにぃ!? アイツは中学の時の俺の生徒、山空じゃないか!! とうとうそこまで落ちたか!!」
「あ、いや先生、海の兄ちゃんじゃなくってその近くで倒れてる方」
「え? そっち? ……あっいや、あいつかァ!!!」
何やら面白いやりとりがこちらにまで届く。
おおかた海兄ぃが私たち以外に準備した助っ人達なのだろうが、三人の会話からは緊張感が仕事をしていないように思えた。
「琴音……助かったよ」
スカートについた砂を手で払いながら、海兄ぃはよいしょ、と立ち上がる。
私の声と姿で余りにも海兄ぃが素直に感謝の気持ちを告げたせいで、なぜだか妙な恥ずかしさが私を襲った。
まるっきり私である人物が、目の前で動いて、喋って、汗だってかいてる。
自分の姿を客観的に見ているという、鏡に映った自分を見るのとは勝手が違うその不思議な感覚に、私は少しだけ目を奪われた。
「ううん、海兄ぃのおかげだよ」
私が不良の存在に気づけたのは、海兄ぃが通信機で知らせてくれたからだ。あれがなければ、私は今も教室に入ることを躊躇い廊下付近で徘徊しているに違いない。
海兄ぃ的には不良に絡まれて散々だったろうけど、結果として恭兄ぃには事情を説明できたし、私と海兄ぃはこうして合流することができた。
だったらあとは、もうこの《入れ替わり》から解放されるまでの事運びだ。
そして、無事元に戻った私は見事、時期はずれの中学デビューを果たす。なんと素晴らしい未来でしょう。なんて妄想するのは簡単です。
「お。ってことは俺の呼び掛けが伝わったってことか?」
狙い……っていうのは多分、通信機越しに聞こえたあの人為的なノイズのことに違いない。
音を拾うピンマイクにわざと手をこすりつけて雑音を発生させ、私に要所だけを聞かせ、本当の意図を伝える。
咄嗟の作戦にしては中々の出来だとは思うけど、いかんせん余りにも露骨すぎて正直むず痒さを感じてたりして。
おそらく不良の人にとっては、急に海兄ぃがベラベラとよくわからないことを喋りだして、気味が悪かったはずだ。
「伝わったっていうか……超不自然だったし」
そんな私の感想を素直に告げると、
「マジか」
と、軽く驚いたように告げた。
そんなやりとりを海兄ぃとしていると、気づけばカズっちゃんたちが私たちすぐそばまで来ていた。
カズっちゃんと楓ちゃん、いつものふたりに安心感を覚えるも、海兄ぃの目線で見るふたりの姿は私が知っているふたりとは違って見えて、同時に言葉にできない寂しさのようなものを感じた。
「おいおい、こりゃ一体どういう状況なんだ? 山空に竹田、一体何があった? 正直先生もうなにも見なかったことにして職員室に逃げ帰りたいんだが……」
面倒事をとことん嫌う美術の先生が、普段のマイペースぶりをいかんなく発揮している。
しかし、それでもこの場所に来てくれているということは、生徒のために重たい腰を上げてくれているという証拠でもあった。
「か、顔怖っ!! 山空さんって目つき悪っ!! 顔怖っ!!」
突如として、私と目があった楓ちゃんが悲鳴にも似た声を上げる。
「おいコラはっ倒すぞ」
そうツッコミを入れたのは、その目つきの悪い顔の持ち主である海兄ぃだ。
「あ、ちゃうねん琴ちゃんに言うたんじゃ……あ、今は琴ちゃんが山空さんなんやったっけ? で、そこに居る山空さんが琴ちゃんで……って、あぁもうこんがらがってしもてわけわかれへん!!!」
私と海兄ぃを交互に見比べて、頭を押さえてもがく楓ちゃん。
あぁ、楓ちゃんって複雑なこと考えるの苦手だからなぁ。
あと状況の分かってない美術の先生が楓ちゃんの事を変人を見るような目で見てるのは教えてあげたほうがいいのだろうか。
「なんだかややこし……ゴホッゲホッ!!」
カズっちゃんが壮大に咳き込む。
「……カズくんお前大丈夫か?」
「あ、うん……ケホッ! アイツ突き飛ばされた時にちょっと唾が器官に入っちゃって……ケホッコホッ!!」
大きく深呼吸をして、呼吸を整えようとするカズっちゃん。
「え?」
ちょ、ちょっと待ってよ。今、なんて言ったの?
突き飛ばされた? アイツに? あの不良に? カズっちゃんが?
てっきり被害を受けたのは海兄ぃだけかと思い込んでいた私は、慌ててカズっちゃんのもとへ駆け寄り、背中をさすった。
「突き飛ばされたって……カズっちゃん大丈夫なの……!?」
どこにも怪我はないだろうか。
心配になり、カズっちゃんの手や足など、痣ができてないか確認する。けれど幸いにもそれっぽいものは見つからず、安堵の息を漏らした。
しかし、その直後。
カズっちゃんの顔が真っ赤なことに気づく。
もしかして……あの不良、顔面に……!?
「カズっちゃん顔真っ赤じゃん!! 大丈夫!? ぶたれたりしたの!?」
カズっちゃんがどこか怪我をしていないかという心配の気持ちが、不良への怒りへと発展した。
あの不良……中学生相手になんてこと……!!
「あ、ぶ、ぶたれてはないよ? かるくド突き飛ばされて壁に背中を思いっきり打ち付けただけで……」
私は相当怖い顔をしていたのだろうか。カズっちゃんが慌てて訂正した。
けれど訂正する前よりひどくなった気がする。
顔を殴られたんじゃなくてよかったけど、それでも壁に背中をぶつけちゃうぐらい思いっきり突き飛ばされたってことだよね……。
もはや軽くじゃないじゃん!
「もはや軽くじゃないよねそれ!?」
声に出てた。
「おいおい小野、保健室行くか……?」
先生も事情を聞いてただ事ではない実感がようやく出てきたようだった。
そんな、深刻な空気になったこの場を楓ちゃんが朗らかに和らげようと明るめの口調で言った。
「まぁまぁ、琴ちゃんに先生。カズっちゃんは多分平気やと思うで? 飛ばされたとき丁度プールバッグが壁と背中に隙間に入ってクッションになってたみたいやし……それにカズっちゃんの顔が赤いんはまた別の理由やしなぁニヤニヤ」
「え? それってどういう……」
別の理由? 一体どういうことだろう。
殴られたんじゃなく、それ以外で顔が赤くなる状況なんて、思いつく限りでは風邪ひいたとかそういう感じのヤツだけなんだけど……。
でも体を触った感じ熱はないみたいだし、それ以外の理由なんて……。
あ、でも、私も緊張したり恥ずかしいって感じたりすると顔が熱くなるから、風邪じゃなくても赤くはなるのか……?
「ちょっと楓ちゃん!!! 『ニヤニヤ』って口で言うものじゃないとオレは思うのですが!!」
楓ちゃんの言葉を聞いて、より一層顔を真っ赤に染めたカズっちゃん。
わかんない。もう私には分かんないよ。わかんないけど……とりあえず怪我とかそういうんじゃなくて良かった。
「……このっ!! お縄にっ、頂戴するっ!! 暴れるなこの変態めっ!!!」
カズっちゃんたちと話していたすぐ後ろで声が聞こえ、私は振り返る。
「いてぇ、いてっつの!!」
すると、昇降口で倒れていたはずの恭兄ぃが金髪不良を縄で縛り付け、動けないようにしている最中だった。
些細な抵抗むなしく完全に束縛される金髪不良。その姿はまさにお縄に頂戴する状態だった。
「……琴音、お前もしかして鉄パイプか何かで殴った?」
しばらく恭兄ぃと金髪不良の攻防を見守っていた海兄ぃが、引きつった表情で静かに聞いてきた。
たしかに、金髪不良の頭髪は漫画さながらのたんこぶが見え隠れしているため、気になっちゃう気持ちはわかる。
私は「あはは……」と軽く愛想笑いしてから、英和辞典という名の鈍器を武器に使用したことを素直に白状する。
それを聞いた海兄ぃは、軽く青ざめながら「容赦ねえな……」と言った。
「……ふぅ、琴音ちゃんと……そのお友達だね。怪我はないか?」
一通り不良に仕返しをし終えた恭兄ぃは、煌く汗を振りまきながら私たちに向き直る。
そんな恭兄ぃと目があった楓ちゃんが、
「何この人……!! むっちゃイケメンやん……!!!」
とか言い出して目を輝かせ始めたので私は全身から血の気が引いた。
「おいおい楓果ちゃん!! 待て早まるな!! 落ち着つけ!!!」
私と同じ感覚を海兄ぃも味わっていたようで、必死に楓ちゃんに言い聞かせる。
「そうだよ楓ちゃん!! この人はイケメンだけど中身は真のへんた――」
「そうか、楓果ちゃんって言うのか。可愛い子は名前も可愛いんだね」
海兄ぃに負けじと、私も精一杯説得をしようとしたけれど、その言葉は無情にも変態の言葉で遮られてしまう。
というか名前が可愛いってなんだよ。名前に可愛いもへったくれもないよ。いや、あるけど。
「かかかっかかか、可愛い!?」
そして楓ちゃんもちょっとは耐性を身につけてください! 面食いよくない! 大事なのは中身だよ! ちゃんと内面を見て!
「ほら、そんな地べたに座り込んでたら服が汚れてしまう。……立てるかい?」
「は、はい」
差し伸べられた変態の手を、楓ちゃんが掴んだ。
そして立ち上がろうとしたとき、楓ちゃんの足がもつれ、恭兄ぃの胸にもたれかかるようにバランスを崩す。
「おっと……」
「なっ……!!!!」
そして恭兄ぃは、そんな楓ちゃんに優しい言葉を投げかけ続け、楓ちゃんも楓ちゃんでその言葉を鵜呑みにして翻弄され続ける。
イケメンという仮面にすっかり魅了されたちゃんの瞳の奥には、甘酸っぱい恋愛を彷彿とさせる艶やかな桜色のハートマークがゆらゆらと揺らめいていた。
「すすすす、すみません! ホンマにごめんなさい!! 足がもつれてしもて!!!」
「……ふふっ、怪我はないか?」
泥沼にはまっていく私の友達。
だが楓ちゃんはその泥沼が底なし沼だと気づいていないせいで、引っ張り出そうと必死に差し伸べる私の手と声はまったく届かない。
友達を助けることさえかなわない自分自身の不甲斐なさと、どんどん人生を狂わされていく友達を見せつけられて、私はもう放心状態だった。
ふふふ……、そうだ。これは悪い夢だ。きっとうそうに違いない。ほっぺたをつねれば、きっと目が覚めるはずなんだ。
軽く現実を逃避した私は、哀れな思考に流されるまま自分の頬を抓った。
あはは、ほら、痛くない。痛くないよ……痛いわけがないんだ……だって、これは悪い夢なんだから。だから、涙が出るのはおかしいんだ……。おかしいんだよ……。アハハ……――。
――それからしばらく。
美術の先生が警察を呼んで、不良は無事警察の人と仲良くお出かけしていった。
私も当事者であったため、警察の人に色々と質問をされたが、さすがは私といったところか。人見知りを遺憾なく発揮しては海兄ぃに横から肘でつつかれるという恥をさらしていた。……変わるとは言ったけど、警察とか人見知り云々(うんぬん)の前に普通に緊張するし、これは仕方ないと思う。
だいたい1時間ほどで警察の人は撤収し、その流れでカズっちゃんたちも授業に戻っていった。
そして、海兄ぃと私と恭兄ぃの三人だけがこの静かな校庭に残り、状況を整理するために話し合いを始める。
「山空、琴音ちゃん。よく聞いてくれ」
そう言う恭兄ぃの顔はいつになく真剣味を帯びていて、感覚的に重要な話なのだろうと悟る。
「急に改まってどしたの“メガ兄ぃ”」
「琴音ちゃん、今僕のことなんて呼んだ……?」
「え? なんてって……普通にメガ兄ぃって……あ、あれ? おかしいな。なんでだろ」
言われて初めて気づく。
なんでか、私は“恭兄ぃ”のことを“メガ兄ぃ”と呼んでいた。
まるで、その呼び名が当たり前であるかのような錯覚。
言い間違え、などといった可愛いものじゃない。
当たり前に口にしていた言葉を、さも当然のように間違えてしまった。そして、そのことを指摘されるまで自分が言い間違えていたことにすら気付けなかった。
これは一体、どういうことなのか。
何がなんだかわからないけれど、胸の奥をチリチリと焼かれるような、たとえようのないのない焦燥感がジワジワと染み出してくる。
「おい琴音! ちょっと……えっと……あ、あった。このノートに落書きしてみろ!!!」
ふいに、海兄ぃが私の学生鞄からノートと鉛筆を取り出し、それを突き出してくる。
「え? なんで? え? こんな状況で?」
「いいから早く!!」
いきなりのことで戸惑いばかりが先行したが、海兄ぃの焦ったような声色と、胸焼けのようなこの蟠りが、「早く戻らないと大変なことになる」というカズっちゃんのあの言葉と関係しているのがなんとなくわかった。
「わ、わかったよ……」
一体なにが起こっているのかわからぬまま、言われるがままに鉛筆をノートの上で走らせる。
いきなり落書きしろと言われ、咄嗟に頭に浮かんだのは一匹のタヌキ。特に理由はない。ただなんとなく思い浮かんだだけだ。
林の中を餌を求めて歩く一匹のタヌキ。
そんな可愛らしくもあり野性的でもある一枚を描き出そうとしたのだが。
「……あ、あれ……?」
……おかしい。思うように鉛筆が動かない。
線はガタガタで、抑揚が全くない。
二度書きや三度書きじゃ収まらないくらい、何十にも線を書きたさないと安定しない直線。
グネグネと思わぬ方向に歪み行く曲線。
消しゴムをもらってないため、必然的に修正箇所は線が濃くなってしまう。
感覚が取れない。――いや、わからない。
普段描きなれていない動物の絵だからだとか、私が特別下手だとかじゃない。
自慢じゃないが、絵に関してはそこそこ自身だってあった。
小学校で描いた緑化ポスターは金賞をもらったこともあったし、中学の美術の授業では絵がキッカケでクラスのことかともちょっと言葉を交わすことも何度かあって――あ! そういえば今日の美術の授業でクラスの男子に似顔絵を描いてあげるって約束してたんだった……!!
ど、どうしよう、約束破っちゃった……。
はぁ……せっかく向こうから話しかけてきてくれたのに……。
大丈夫かな。怒ってないかな。嫌われてないかな……。
ごめん、ごめんね……! この埋め合わせは絶対するから……!!
「琴音、そのノート見せてみろ」
「へぇ!?」
私が約束をすっぽかしてしまったクラスの男子に心の中で謝罪の言葉を述べていると、海兄ぃが恐ろしいことを言い出す。
「あ、いやちょっと待って! 今ちょっと調子が悪いみたいで……また別の機会に!」
上手くかけている状態ならまだしも、ノートに描き記されたのは一匹のタヌキ――のようななにか。
明らかに、いつもの私の絵じゃない。
私なら、もっと上手く、愛らしく、小気味よいタッチで描けるはずなんだ。なのに……なんでこんな薄汚れたタヌキが出来上がっちゃったんだろう……。
芸術のセンスが淀み濁ってしまっているその絵を見て、ショックのダメージはあまりにもでかいものだった。
「調子が悪い? じゃあなおさら見せてくれ」
「あっ、ちょ!!」
己の画力の著しい低下にうろたえ、憂えていると、私の手から強引にノートが消え去る。海兄ぃの仕業だ。
そして海兄ぃは、私の描いたタヌキを、まるで骨董品を鑑定するかのようにじっくりと舐め回すように見ていく。その時間が経てば経つほど、私の顔は熱を帯び始めた。
「う、うわぁああ見られたぁあぁぁぁ!!!! 恥ずかしいいいい死ねるぅうううう!!!!!」
両手で自分の顔を覆い、両膝ついて叫び狂う私。
や、やめて……見ないで……!! そんな『幼稚園児が落書きしてももっとマシな絵が出てくるだろ』という感想しか出てこないぐらい拙い私のタヌキを見ないでぇ……!!
「うぅ……ひどいよ海兄ぃ……もう、お嫁に行けないくらいのショックを受けたよ……」
たとえば妄想全開の落書きを見られるのも恥ずかしいが、自分自身が失敗作だと感じている絵を見られるのもまた同等の小っ恥ずかしさが襲い来るのである。
そんな私の気も知らず、海兄ぃはなんか恭兄ぃと盛り上がっている。
しかし私はそんなことにかまけていられるほどのゆとりを心に持ち合わせておらず、ふたりの会話は右から左へと通過していくだけだった。
「――ただのチートじゃねえか!!!」
けれど、ゲームに関連する用語だけは話は別だ。
日常生活においても、ゲームの単語だけは一言一句聞き逃したことはない。
これは、意識しているとかそういうのではなく、もう体に染み付いてしまっていること。
何かを見たり、何かを食べたり、匂いを嗅いだりするとひとりでに脳に情報が送られるのと同様、その単語が耳に入るだけで勝手に私の脳が情報を掴んでしまうのだ。恐らく、地獄耳とかの原理と同じだと思う。
「ちょっと海兄ぃ!! チートっていうのはもっとこう神がかりレベルで……」
「ゲーム脳は帰れ!!」
失礼な。憤慨するぞ。
「……ったく、いつもならこんなボケ共スルーするのに……なんか今日はやたら体が反応しちまうんだよなぁ」
ボソリと海兄ぃが言う。
海兄ぃがこう誰に言っているのかわからない感じの言葉の時は、基本的に無意識のうちに考え事を暴露している時が多い。ゆえに、今のもきっと脳内であしらわれた文字列たちを表に公開してしまっているに過ぎないのだろう。
考え事っていうのは、つまるところ本音。
たまに残酷な胸の内が語られたりするのは結構ツラいので、海兄ぃのこの癖は早急に治したい次第。して、その方法は如何様に。
考えたとき、その都度指摘してあげるのが一番いいだろうという結論に至った私は、こういう時はからかってあげることにすると決めていた。
「ちょ、『スルーする』って……なにその新手の寒いダシャレ」
言うと、私はその寒さの度合いを表現するため、自分の身体を包容するようにわざとらしく震えてみせた。
しかし、海兄ぃは無反応。
それどころか、『こいつめんどくせえ』みたいな目で見てきやがる。
海兄ぃは考え事を暴露してしまうほかに、表情にも出やすいという弱点も兼ね備えているのだが……まさか私の顔でもその効果が発揮されるとは思わなかった。その微妙な顔やめて。
「というか早くそのノート返してよ!! 百均で500円もしたんだから!!」
恥ずかしさをごまかすために、盛大に冗談を言ってみる。いや、ノートを返して欲しいのはホントだけど。
「百均なのに!?」
すると、さすがは海兄ぃ、私の冗談を果敢に拾ってきた。
そのツッコミを待ってましたと言わんばかりに、私は意気軒昂とボケを続けた。
「百均は百均でも、“ほぼ”百均だからね」
「何その店!?」
「その名も、『ダイタイソー』」
「ドヤ顔で言われてもそれ既出だから!! 某バラエティ番組ですでに既出だから!!」
とても凄まじいツッコミだったが、すでに既出って……言葉が重複してるじゃん。私の声で変な間違えしないで欲しい。
そんなこんなで一通りボケ終えた私は、それに逐一対応していた海兄ぃと同時に軽く息を吐く。
こんな何気ないやりとりが私は結構好きなのだが、海兄ぃも海兄ぃで口では面倒くさがりつつもなんだかんだ付き合ってくれるところから見るとやぶさかじゃないんだと思う。
――不意に、パラリ……と、紙が擦れるような音が聞こえた。
一体何の音なのだろうか。
……いや、わかっているんだ。だって、その音は私の目の前で発せられている音なのだから。
ただ、理解が追いついていないだけ。
思考回路が乱雑に片付けたゲームのコードのように複雑に絡んで、なかなか解けないでいるような……そんな感じ。
何が起こったのか、わかっているはずなのに……認識ができない。その理由の一つに、余りにも自然な動きだったから、というのもあるだろう。
紙の擦れる音は、海兄ぃがノートのページをめくる音。
パラリ、ペラリと、なんどもページの間を行き来する海兄ぃの手。
そして、とうとう私は認識する。
海兄ぃの手にあるのは私の自由ノート。
そのノートにはあの下手クソなタヌキが描いてあって、そして海兄ぃはそのページを一枚めくっている。
そして、ページをめくったのだから、当然その先にはタヌキじゃない絵が描いてあるはずで、その絵というのはもちろん、私が授業中に書いたであろう落書きで――。
「――ぎゃあぁぁあああああああああああああ!!!!!! ちょっ見るなー!!!」
私はご存知のとおり小さい頃からゲームが好きで、そしてゲームが好きということはもちろん勇者が好きってことで。そんなカッコイイ勇者を、自分の手で創り上げたいって思うのもまた私にとっては自然な流れだった。
自分の考えたキャラクター。それを見て、その子達の活躍を妄想したりして楽しむのが、人見知りで友達の少ない私が覚えた暇つぶしの方法の一つ。
小さい子が戦隊ヒーローものの特撮とかを見て自分も将来ああいうのになりたいと夢見るのと同じように、私もまた自分の創り出したキャラクターを頭の中で動かして、それこそRPGさながらの大冒険をさせるのがとても楽しい。
しかし、その行為は一般的に『黒歴史』と名を馳せるモノ。
特に趣味趣向全開の妄想から出来上がったイラストなんかは、他人に見られただけで凶悪な発火装置と化して顔に火を放ってくる。
もちろん他人に見られても全然お構いなしの人もいるだろうけど、私がそんな性格だったら今の今まで人見知りなんかやってない。
つまり何が言いたいかっていうと、めっちゃ恥ずかしいってこと。
案の定海兄ぃもなんかチラチラこっち見てくるし、もうダメ、耐えられない。
「違うんですよ!? それは授業中暇だったから何の気なしに描いたヤツであって別に普段からオリジナルキャラクターみたいなのとか考えてるわけじゃなくて……!! あぁもう返せ!!!!」
必死に弁解するも、よもや泥沼に自らハマっていくだけだった。
くそ、この泥沼め……楓ちゃんだけでなく私までとって食おうというのか!!
「もうダメ……もうお嫁に行けない……ひどいよ海兄ぃ……」
小っ恥ずかしさにより再び悶える私。
あぁもう……頭がおかしくなりそう……。
「キミらは自分たちの置かれた状況を忘れてはいないか?」
恭兄ぃの声が、一段と険しい。
そうだった、こんなところで悶えている場合じゃなかったんだ。
第一次悶え中の時に二人の話し声がうっすら聞こえていたけど、どうやら《入れ替わり》を引き起こしたのは今朝の発明品のせいで、おまけにその機械が今はぶっ壊れているとかなんとか。
つまり、役者が揃ったとは言えまだ元に戻れると決まったわけじゃない。危機的状況なのはまだ何も変わっちゃいないんだ。
しっかりしないと。
……でもなぁ!!! イラスト見られたからなぁ!!!! うあああああ思い出したらまたぶり返してきた!! 恥ずかしい! ダメだ! やっぱり話に集中できない! もう死にたい! 消えてなくなりたい!!
そもそも、海兄ぃってばなんでページめくっちゃうんだよ。
薄汚れたタヌキの絵を見られただけで相当なダメージだったんだぞ。瀕死の重傷で、急所に当たった挙句効果は抜群だったんだぞ。
なのになんでさらなる追加ダメージを与えたんだ。
死んじゃうだろ。確実にトドメを刺しに来ちゃったよ。
びっくりしたもん。まさかこの世にこんな悪逆非道を働く輩が居ようとはね。ゲームだったら神プレイだよ。でもこれ現実ですから。そんなガリガリ来られたらHPがモリモリ減っていくから。
「――琴音てめぇ一体なにしくさってんだァ!!」
ボコッ。
いきなり海兄ぃに殴り飛ばされる。
い、痛い! ナニコレ痛い!!
「い、いッつぅ……!!! ッんなにすんのよ海兄ぃ!!!!」
唇が切れてしまったようで、そこから血液が顎を伝って地面に落ちた。
何考えてんの!? これ海兄ぃの顔だからね! 何があったら自分の顔面を容赦なくぶん殴ることになっちゃったの!? 精神的攻撃だけじゃなくて物理的にも攻撃してきやがったよコイツ!! どこまで勝ちに来てるんだ! オーバーキルにも程があるよ!
「なにすんのよはこっちのセリフだ!!! 琴音テメェ、俺の身体で覗きを実行したらしいじゃねえか……?」
「はぁ!? 覗き!? そんなんするわけないでしょ変態じゃあるまいし!!!」
「じゃあ委員長のトイレを覗いたってのはなんだ!!!」
「あ」
「やっぱり身に覚えがあんのかよぉおおおおお!!!!!!」
違う! 違うんだよ!!
それはもう解決したんだって!
心優しい春風さんがもう全部許してくれたんだって!
私も頑張ったんだって!
「もうダメ……もう学校に行けない……ひどいよ琴音ぇ……」
今度は海兄ぃがサメザメと泣いた。
「とりあえず僕の荷物を取りに行くついでに様子を見てきたらどうだ? もしかしたら解決策が見つかるやもしれん」
「もういいよ……もう、いいんだ……」
うぅ……と、海兄ぃ嗚咽を漏らす。
ごめんて。
「あの……海兄ぃ、覗いたのはその……ほら、事故みたいなものでさ。一応誤解を解いてきたしもう大丈夫だから……」
「本当に……?」
うるんだ瞳とか細い声で、ちらりとこちらを見る海兄ぃ。
その儚げな彼(というか私)の姿に、不覚にも少しだけドキッとした。
お、おぉう……なんだこれ。私のくせに可愛いじゃん。
……私もまだまだ捨てたもんじゃないな。
「うん、だから大丈夫。安心してよ海兄ぃ。他の女子はみんな海兄ぃを目の敵にしてたけど」
「全然安心できない!!」
そんなこと言われても事実なのだからしょうがない。
「じゃあ山空。僕は一足先に帰って例の道具の修理に必要な機材を揃えておく。キミは僕に、修理道具の入っている僕のカバンを届けてくれればいい。今は一刻を争うときだ、なるべく早く頼む」
淡々とした口調で告げながら、恭兄ぃは地面に置きっ放しになっていた私たちのカバンを持って、テキパキと帰り支度を始めた。
「ちょっと待って! もうちょっとだけ打ち拉がらせて!」
なんていう海兄ぃの願いを、
「そして琴音ちゃんは僕に少し手を貸してくれ」
スルーというある意味一番残酷な方法で恭兄ぃは一蹴した。
そのおかげか、海兄ぃも「……ったく」と悪態をつきながら、心は既に《入れ替わり》を終わらせる方に切り替わっているようだった。
「通信機は僕が持っておくから、何かあれば連絡してくれ。同様にこちらからも連絡を入れる。時間はない、頼んだぞ山空」
「りょーかい」
「じゃあ琴音ちゃん、急ぎゆえ走っていくが……ちゃんとついて来きてくれ」
「海兄ぃの体がショボイから多分途中で息切れするけど」
「悪かったな運動不足で」
「ははは、じゃあツラくなったら声かけて」
「了解! 恭兄ぃ!」
からかわれたり無視されたりで海兄ぃがふてくされていたが、私たちは気にせずに話を進める。
そして、恭兄ぃが「じゃ、行くよ」と告げるやいなや走り出したため、私も慌てて後を追った。
「じゃあ海兄ぃ! あとはよろしくね!」
「おう! カバンとってくるついでに机の一つや二つ一緒にもってきてやらぁ!!」
「それただの窃盗だよ!!」
なんて言葉を交わし、海兄ぃと別れた。
海兄ぃがカバンをとってきてくれる。私はそれを待ってる間、恭兄ぃの手伝いをする。
そして、《入れ替わり》を終わらせるんだ。
よっしゃぁ、と息巻いて、私は走るスピードを速め、先陣を切っていた恭兄ぃを追い抜いた。
「……っと、そういえば手伝って欲しいことって何?」
あくまでも歩みを続けながら、私は恭兄ぃに問いかけてみる。
関係ないけど、恭兄ぃはオタクなくせに意外と体力があるらしい。足も速いし、今も涼しい顔で走ってる。
「とりあえず機械を修理するのに壊れてる箇所を明確に調べておきたいから……それのメモを取ってくれればいいよ」
その分僕が機械の方に集中できる。と恭兄ぃは続けた。
なるほど、メモを取るだけか。
もっとこう、機械の部品とかを付けたり外したりを指示されたりとか、グチャグチャになった配線を繋ぎ直したりとか、そういう指示されるのかと思ってたけど。
思っていたより簡単そうでよかった。
「……それよりも琴音ちゃん」
「ん? なに?」
「今日は……ごめんね」
「え?」
いきなりのことで、少しだけ混乱する。
ごめんねって……《入れ替わり》のことだろうか。
それなら、恭兄ぃだけが悪いわけじゃない。
全部は、私のわがままが発端で起こってしまった出来事なのだ。
「今の状態のことなら、別に恭兄ぃが悪いわけじゃ――」
思ったことをそのまま口にすると、その言葉を遮るように恭兄ぃが告げる。
「それじゃなくて、……いや、それもあるけど。僕が謝りたいのは、今朝のこと――というか、琴音ちゃんに初めて会ってから今までのこと丸々全部なんだ」
「へ?」
いきなり壮大な話になった。
出会ってから今までのことで謝りたいなんて……一体どういうことなのだろうか。
あの恭兄ぃが、いつになく寂しげな表情を浮かべている。
その顔は、今日教室で見た恭兄ぃの顔と全く同じものだった。
それを見て、私は確信する。
やっぱり、恭兄ぃはなにか悩んでいる。
それも、なにか大きな……答えが簡単に見つからないようなことで。
そして、そんな恭兄ぃが今、私に本音をぶつけてくれようとしているのだ。
だったら私も、茶化さずに真剣に聞いてあげることにしよう。
走るスピードをちょっとだけ落とし、私は恭兄ぃのとなりに移動する。
横から見ると、いつもの銀髪で恭兄ぃの表情が隠れてしまっていて見えないけど、それでも彼がどんな顔をしているのかわかる気がした。
「朝、教室であった時も……僕が相談を持ちかけたあの時の山空も……琴音ちゃんだったんだよね」
あの時。
それは、教室で最終的になんか私がいろいろ爆発して言いたいことをぶちまけちゃったあの時の事を言っているのだろう。
「そうだけど……でもあれは私が悪かったし……」
少なくとも、恭兄ぃが謝る事ではないはずだ。
「それも含めて、そして今までも僕はキミに対してあまり良い行いをしてきたとは言い難い」
たしかに、いきなり抱きつかれたり、ベタベタと体中を触られたり、写真を撮られたり、匂いを嗅がれたりなど、いつも徹底的なまでに嫌悪感を抱かせてくれていた。
いつものこと過ぎて軽く麻痺してきていたけど、今思い返すと本当に酷い。私もよく今日まで普通に生活してこれたな。
「でも僕は今まで、琴音ちゃんが本当に嫌がることは極力しないように気をつけているつもりでいた」
「あ、あははは……」
あれでも一応自重してたんだ。
……でも、思い返してみるとたしかに私が本気で嫌がった時は意外とすんなり引いてくれるし、少しだけ体調がすぐれなかった時とかもやりすぎってくらい心配してくれるし、基本的に私を第一に考えてくれているのはよくわかる。
「琴音ちゃんのことならなんでも理解してあげているつもりだったし、琴音ちゃんのためならなんだってしてあげる、そう思っている」
「あ、ありがと……」
恭兄ぃはいつも正直だ。
自分の道を常に突き進んでいるというか、周囲に翻弄されないその姿はまさに私とは正反対で、そういう性格はちょっとだけ羨ましく思える。
いつしか、私たちは歩みを止めていた。
恭兄ぃは、ずっと俯いたまま話を続けている。
「でも、それは所詮僕のわがままでしかない。今朝の竹田兄の言葉で、そう感じた」
「そういえば、あれって結局どういう意味だったの?」
今朝、英語のテストで不正を行いたいという私のお願いを拒否した恭兄ぃ。
しかしその時、秋兄ぃが恭兄ぃに向かって「琴音を信じろ」と告げた。
私はその意味を全く理解できなかったけど、恭兄ぃには伝わっているようだった。
あれは一体、どういう意味で放った言葉だったのか。ずっと気になっていたのだ。
「竹田兄は、全部わかってたんだ」
「……?」
「僕は琴音ちゃんが怠けようとしているんじゃないかと思った。そして、もし今回僕が協力してしまうと、また同じ状況に陥ったとき、直ぐに僕を頼るようになってしまうんじゃないか……。僕のせいで、琴音ちゃんがダメになっちゃうんじゃないかって思った」
「……」
正直、否定はできなかった、
私は、自分がよく怠けてしまうことを知っている。
部屋の掃除だってあまりできないし、面倒事からすぐに逃げてしまうのが私の悪いところだ。
英語のテストだって、恭兄ぃに助けてもらうつもりでいたから、あまり勉強らしい勉強もやってない。
すがれるものにはすぐに甘えてしまう。今回の《入れ替わり》で、私はそれを身に染みて感じた。
「竹田兄は、そんな僕の考えも理解していた。そして、知っているのにもなお、僕に協力を仰いだ。僕は不思議に思ったよ。竹田兄は琴音ちゃんをすごく大事にしている。なのにどうして琴音ちゃんがダメになるかもしれない方法に手を貸したのかが理解できなかった」
「それなら……なんで」
「……琴音ちゃんは、《入れ替わり》になって、どう思った?」
「へ?」
いきなり話を振られ、少し戸惑う。
「どう思ったって言われても……、でも、まぁ……私もこのままじゃダメかなぁ……みたいな? 海兄ぃになってみて、いろいろ私も思うところがあったっていうか……」
「……やっぱり。琴音ちゃんはすごい」
「え? なにが?」
なんの脈略もなく褒められて、より一層困惑した。
恭兄ぃが何を言いたいのか、いまいちよく伝わらない。
「竹田兄は、きっとこう言いたかったんだ」
そんな困り顔の私を見て、恭兄ぃは小さく笑う。
「――琴音ちゃんなら、きっとしっかりと向き合うって」
汗でベタついた首元を、そよ風がなでるように冷やして行く。
日が落ちてくるとともに涼しくなってくるところを見ると、季節ももう夏から秋へ本格的に切り替わる時期に入ったのだろうと、ふとそんな事を考える。
「そもそも優しいキミが罪悪感を感じずに平気でインチキをするはずがないんだ。少なくとも、そういう不正を行ってテストで満点を取れたとしても、琴音ちゃんは素直に喜べるような子じゃないし、むしろ後悔するだろう。キミはそういう人だ」
「恭兄ぃ……」
「だからといって、その罪悪感から逃げるような子でもない。ちゃんと向き合って、ちゃんと反省して、同じ失敗をしないように努力することができる。そういう琴音ちゃんだからこそ、竹田兄はキミを信じろと言ったんだと思う」
私が……嫌なことでもちゃんと向き合う。恭兄ぃはそう言った。
でも、それは間違っている。
私は、そんなに強くない。
恭兄ぃは私のことを好きだから、きっと特別視したいだけ。
本来の私は、本当に弱い。
「……私は、そんな出来た子じゃないよ」
気づけば、思っていたことをそのまま口に出していた。
海兄ぃの癖が、こんなタイミングで出てしまったのだろうか。
それとも、これは私自身の……。
「嫌なことからはとことん逃げるし、みんなに迷惑だってかけるし……自分からじゃ友達だって作れないし……。今回だって、私のわがままのせいで恭兄ぃや海兄ぃ……春風さんにだって迷惑をかけちゃった。なのに、それでも私は英語のテストを諦めきれなくて……。だから私は――」
元に戻ろうと思えばすぐに戻れたんだ。
私が英語のテストに執着しないで、恭兄ぃに襲われるかも、だなんてくだらないことを考えないで、正直に全部説明しておけば、こんな、今もまだ海兄ぃの身体でいることなんてなかった。
全部、私がいろんなことから逃げたり、自分の欲望だけを優先したりしたせいだ。
今回変わろうって思えたのだって、海兄ぃの身体になって、春風さんと話をして、そうしようって思えただけで、自分ひとりじゃ何もできやしなかった。
「……だから私は、恭兄ぃには悪いけど……そんな褒められるようなことは何一つしてないんだよ」
「…………」
あはは……と、わざとらしく笑って緊迫した空気を和らげようと頑張ってみる。
けれど、恭兄ぃはずっと無言のままだった。
私に投げかける言葉を選んでいるのか、はたまた後ろ向きな発言ばっかの私に呆れてしまったのか。
流れで本音を思いっきり口にしてしまったのを後悔したくなり始めたとき、ようやく恭兄ぃが口を開く。
「……ふふっ」
えっ、笑われた?
「ちょ、なんで笑うのさ! たしかに笑っちゃうくらい情けないけど、これでも私なりに考えて――」
「いやいや、ごめんごめん。大丈夫だよ琴音ちゃん」
「大丈夫? なにが?」
「だってほら、琴音ちゃんは否定してるけど……ちゃんと向き合えてる」
「へ!?」
何を言い出すのかと思えば……恭兄ぃは私の話を聞いていなかったのだろうか。
私が嫌なことに向き合えてるだなんて、冗談がすぎる。
「だから、私はそんな立派なもんじゃないんだって! いや、ほんと!」
「でもさっき琴音ちゃん自分で“私なりに考えてる”って言ってたじゃないか」
「え? ……あ!」
「そもそも、そうやって自分のことをそこまで悪く言えること自体、自分と向き合って……自分を知っていないとできないことでしょ?」
「……そ、そっか……」
……そっか、私、頑張れてたんだ。
こうやって悩んで、今すごく大変だと感じているのも、私が頑張ってる証拠なんだ。
なんだ……これでいいんだ。
今までのように、考えて、悩んで、苦しんで、それで前に進んでいく。
小さなことですぐ悩んじゃう自分のことを弱いと思っていたけれど、恭兄ぃ曰く、それが“向き合う“ってことなんだね。
ははは……なんだ、やるじゃん、私。
「ほんとに……すごいよ私……」
ジワリと目に涙が溢れる。
今まで、結果だけを褒めてくれた人はいっぱいいた。
テストでいい点を取れば褒めてくれるし、絵を描いてコンクールを取ればみんな喜んでた。
だからこそ、なんでもできる人がエラくて、うじうじ考えている私みたいな人は弱いんだって思ってた。
でも、そうじゃない。
恭兄ぃは、そんな臆病な私の内面を褒めてくれた。
頑張ってるって、ちゃんとやれてるんだって、自信を与えてくれた。
私も明日学校に行って友達とか作るって吹っ切れてはいたけれど、やっぱり心のどこかではものすごく不安で、めちゃくちゃ怖かった。
だけどその不安や恐怖を、恭兄ぃは「頑張り」だと認めてくれた。
正直……すごい、救われた。
「なんて、僕が言っても信じてもらえないかもしれないけどね。日頃が日頃だし」
気づけば、恭兄ぃの悩みを聞いてあげるつもりが、私の悩みを解決してもらう形になってしまった。
ほんとに、私ってばどうしようもないなぁ。
けれど恭兄ぃのおかげで、こんなどうしようもなささえも好きになれそうな気がしていた。
だから、私も精一杯恭兄ぃを励まそう。
恭兄ぃは本音で私に接してくれた。だったら私も、本心で答えてあげるのが道理というものだ。
「ううん、そんなことないよ。私、恭兄ぃのこと案外信用してるんだから」
セクハラは多いしぶっちゃけ気色悪いと思うこともあるけど、恭兄ぃのこと自体は嫌いじゃない。海兄ぃや秋兄ぃ、エメリィちゃんやユキちゃんなんかと同じくらい、恭兄ぃも私の大事な友達だ。
年齢差的には友達というよりお兄ちゃんの方がしっくりくるけどね。秋兄ぃとも同じ年の生まれだし。……あっ、でもこんな変態がお兄ちゃんは勘弁してもらいたいな。
まぁ、そんなわけで。
「普段の素行はやめてほしいけど、人としてだったら恭兄ぃのこと好きだから安心してよ。地味に発明品とかも新しいのが出てくるたびワクワクしてるしね」
「……ありがとう。そう言ってもらえると僕も救われるよ」
「私も救われたし、お互い様だよ、恭兄ぃ」
「ん? 僕琴音ちゃんを救うようなこと言ったっけ?」
「言った言った。私という金魚は、恭兄ぃというポイにすくわれたんだよ」
「なるほど、金魚すくい……だったら僕は200匹分ぐらい救われたよ」
「いやいやいや、だったら私は5000匹分ぐらい救われたよ」
「僕そんな良い事言った?」
「私の人生のターメリックポストイットといっても過言じゃないよ」
「ターニングポイントだよ琴音ちゃん。それだとスパイスをまぶした付箋だ」
「……てへっ!」
頭を小突いて舌をぺろっと出した。これが俗に言うテヘペロである。
顔が真っ赤に染まっているのはきっとさっきまで全力疾走していたせい。……ごめんなさい嘘です言い間違えてめっちゃ恥ずかしいです。穴があったら埋まりたい。
「そのテヘペロ琴音ちゃんの姿で見たかった!」
「なら、こんなところで足を止めてないで急いで元に戻る準備を進めなくちゃね」
海兄ぃの家はあと5分走れば着く距離。もう目と鼻の先なのだ。
カバンをとってきてくれている海兄ぃが戻ってきた時に、こっちの準備がまだ終わってませんでした、じゃ、海兄ぃに「え? 二人もいてまだ終わってないの? 俺はもう終わったよ? あ、俺が優秀すぎた? ごっめーん」とかひたすらうざい煽りで攻撃されるに違いない。海兄ぃって人を小馬鹿にするの好きそうだし。
「え? じゃあ元に戻ったら琴音ちゃんのテヘペロ見せてくれるってこと!?」
恭兄ぃのテンションが一気に限界突破した。
そして、瞬く間にオタクとは思えないスピードで走り出す。
なんで恭兄ぃはいつも突然走り出すんだ! 落ち着きのない子供か!
「待ってよ恭兄ぃ!」
私も遅れて後を追う。
「琴音ちゃんのテヘペロ! うおおお萌えてきた!!!」
なに恥ずかしいこと叫んでるのこの人!! ご近所さんに迷惑だろ! というか見せないし!
「琴音ちゃん! 早く!! テヘペロ早く!!」
「あーもう! 一回につき5万円だかんね」
「安い! 買った!!」
「しまった変態だった!」
ギャーギャー騒ぎながら、私たちは海兄ぃの家を目指した。
――私、竹田 琴音が、自我を保てずに自分のことを山空 海だと思い込んでしまうのは、これからわずか数十分後の出来事である。
第59.5話 その7 完
とうとう琴音視点の《入れ替わり》編も終わりました。
次回から第六十話になります。