第59.5話 その6~不良と姉とまた不良~
太陽が一番高くまで上がり、お腹が栄養分を欲し始める頃。
私――竹田 琴音は一刻も早くこの《入れ替わり》を終わらせ、この身体を山空 海に返し、反対に海兄ぃからも私の身体を返してもらわなくてはならない現状にあった。
そのためには今すぐにでも海兄ぃの居る私の中学校まで向かわねばならないわけだけど……。
それには、この《入れ替わり》の現象を起こしたであろう鳴沢 恭平――恭兄ぃに、事情を説明しなければいけない。
初めこそ「私の身体が無防備だとわかったら変態の恭兄ぃに弄ばれるかもしれない」などと考えて事情を説明するのは避けていたけど……今はそんなこと言っていられる状況じゃなくなった。
私は早く元の身体に戻りたい。そして、塞ぎ込みがちだった今までの私と決別し、新たな中学校生活をスタートさせたい。
そう心に決めた瞬間、胸の奥底から熱い何かが沸々と湧き出てくる感じがした。
なんとなくだけど……私の胸に感じるその熱い炎みたいなこの感覚は、きっと私にとって大事なモノなのだと思う。
今までの私は常に奥手で、中学校生活に馴染もうとしなかった。――いや、できなかった。
でも、今は違う。
海兄ぃの身体になって、春風さんと話してみて初めて、自分から行動しようって思えるようになってきたんだ。
苦手なことに立ち向かって、怖いものに挑む。
思えば、ゲーム好きである私向きのやり方だった。
今までやったキャラクター物のノベル系ゲーム(俗に言うギャルゲー)を思い出せ。
今までに攻略してきた乙女ゲーを思い出せ。
それらのゲームの主人公は、私みたいに人を避けたままでヒロインやヒーロー達と仲良くなっていたか!? なってないだろ!
つまりはそういうこと。
有り体な言葉だけど、私の人生は私自身が主人公。主人公である私が行動を起こさないで、満足のいく学校生活が送れるはずがない。友達が出来るはずがない。
私と仲良くしてくれるクラスの人は、現時点で幼なじみである小野 和也くん(カズっちゃん)と、誰とでも分け隔てなく接してくれる里中 楓果ちゃん(楓ちゃん)だけ。
その二人が風邪か何かで学校を休んだ時は、私はひとりぼっちで、お弁当を食べる時も一人だし、空き時間も一人だし……とにかく、何をするにしても一人なのだ。
そしてそれは、私が二人に甘えている証拠でもある。
私と仲良くしてくれる人がいるからって、私は無意識のうちに他の友達はいらないと割り切ってしまっていた。それじゃダメなんだ。
来年、2年生になってクラスが離ればなれになっちゃたら?
さらに未来、高校が別々になってしまったら?
そしたら私は、今みたいに私に話しかけてきてくれる人をただ待つだけになってしまう。かといって一人孤立してしまったことを気にせずに生きていられる度量も残念ながら持ち合わせていない。
だったらもう自分が変わるしか道はないのだ。
やってやる、絶対に自分の力で友達を作ってやるんだ。
自分が起こした行動で、自分が考えた言葉で、友達を作る。
だから私は、すぐにこの《入れ替わり》に終止符を打たなくちゃいけないんだ。
……なのに。
それなのに、なんで――。
「おいおいおいおい山空きゅぅん? 足の骨折れちゃったんですけどぉ? あァん!? 責任取りやがれ!!!」
……勘弁、してください。
第59.5話 その6
~不良と姉とまた不良~
時は数分前にさかのぼる。
春風さんとの会話を済ませ、自分(海兄ぃ)の教室へ戻ろうとした矢先だった。
早く戻ろうと急いでいた私にも悪いところはあったのだが、いかんせん前をよく見ていなかったのである。否、見ていなかったというよりかは、いろいろ考え事してて視界が狭くなっていたというべきか。
とにかく、私の前方不注意だった。
階段途中で、前の方から階段を登ってくる男子がいた。
知り合いではないけれどなんとなく見覚えはあったから、多分海兄ぃのクラスメイトの人か……そんなところだと思う。
ただ、私は自分から見て階段の左端を通って降りていて、その男子は私から見て右端を通って登っていた。
このまま歩みを続ければ、普通に何事もなくすれ違える場所にお互いはいた。だから、特に気には止めなかった。
しかし、ハッとなって我にかえった時には、その男子は何故か私の目の前にいた。
私と同じ、左側。
危ないと脳が察知しても、時すでに遅し。
思考に体がついていかず、結果私はその人と正面衝突した。
ただ、衝突といっても、お互い歩きの速度だからそこまでひどい衝撃ではない。
しかし場所が階段なだけに、私にぶつかった男子はバランスを崩し、大声を上げながら階下へと転がり落ちていったのだ。
「うぎゃあああああああああ!!!!!」
まるで坂道のてっぺんから転がしたドラム缶のように、ゴロゴロ、ゴロゴロ。
「い、いってえええええ!!!!」
階段下までたどり着き、転がった勢いのまま床に体を打ち付けて、その人は止まった。
そして直ぐに、腕や足を抑えて、もがく。
立とうとはせず、床に背中をこすりつけて、ジタバタと手足を一生懸命動かしながら、痛みに耐えていた。
そんな光景を目の当たりにして、青ざめた私がその人に駆け寄るまでには全く時間を要さなかった。
「だ、大丈夫ですか!?」
うずくまり、苦しむその人の体を支えながら、私は慌てて呼びかけた。
――が。違和感。
近寄ってみて初めて気づく。その人は――口元をニヤつかせていた。
「おいおいおいおい山空きゅぅん? 足の骨折れちゃったんですけどぉ? あァん!? 責任取りやがれ!!!」
よく見ると、その人が階段や床に打ち付けたであろう手や、足や、そのほかにも制服から出ている肌色の部分には、擦り傷どころか、痣ひとつ残っていない。
顔は笑っているし、目には涙の一滴ほども溜まってないし、何より一番おかしいのが、その人はすでにその場で立ち上がり、私を見下ろしているのだ。
舐め回すような目線で私を見下ろして、ニタニタと薄ら笑いを浮かべて、折れた折れたと騒ぎ立てていたその足で隆々と聳え立っている。
握りこぶしを手で覆い、パキポキと関節を鳴らし、私を上から眺めている。
その視線は、まるで罠にかかったネズミを見ているような――そんないやらしい目つきだった。
「あの、ホント、大丈夫ですか……!?」
ぶつかってしまったのは私の不注意
怪しいと感じながらも、私も立ち上がって、その人に心配の言葉を投げかける。
だがその言葉が彼の何かに作用したのか、ゲラゲラと大声で嘲はじめた。
「大丈夫ですか、だァ? おめえの目は節穴かァ? 俺は階段から転げ落ちたんだぜ!? 骨の百本や二百本、すでに粉々に決まってんだろ!!」
横暴かつ、不自然な言い分。
ふと、プールの時にいた金髪の不良を思い出す。
あの時も確か、私がその人の腕を叩いちゃって、そしたら折れただとかなんとか難癖をつけられたんだ。
あの時の状況と、今の状況。……酷似している。
そして知る。私は今、絡まれているのだということを。
思い返してみても、この人の方から寄ってこなければ、階段でぶつかることなんてなかった。
派手に転んでいたのも、一見すると大怪我ものだったが……思い返してみると、軽くぶつかっただけなのにあんなに転がるものなのだろうか。
むしろ、派手さが際立ちすぎて、返って不自然さが目立っていたとさえ思える。
そう、まるで、自分から転がったような……そんな違和感。
もしそうだと仮定して考えてみると、受身の心得があるものなら無傷で済んだのも不思議な話じゃない。それこそ唐突に起こった出来事ではなく、自らが計算して転がり落ちた場合なら尚の事受身を取りやすい。
受身、だなんて言うと大それた技に聞こえるかもしれないが、こんなのちょっと格闘技か何かをかじっていれば、誰だって出来る技術。
パッと考えただけでも、状況がますます罠だということを如実に物語っていた。
「つーわけで、山空。ちょいとツラかせや」
あからさまな態度で、上を指さす当たり屋(仮)。……多分、屋上に来い、ということなのだろう。
本人ももはや嘘を最後まで隠し通す気はないらしい。
おそらく、階段を転がり落ちるという派手な演出は私に因縁を吹っかけるキッカケ欲しさに行った余興に過ぎないということだろうか。
なぜ、こんなことをしたのか。
考えても仕方のないことだけれど、考えられるのは……、イジメ……とか?
――いやいや! 海兄ぃに限ってイジメなんて……!! ……でも、もしかしたら。
ありえない、とは分かっていても、その可能性を拭いきれないのは、私が今日ずっと感じていた海兄ぃの待遇のせいだろう。
避けられて、陰口を叩かれて、怯えられて、疎まれて。
そんな空間が、海兄ぃの場合学校中に広がってしまっている。
だから、今のように好戦的な人に目をつけられたのだとしても何ら不思議はなかった。
「何を……するつもりなんだ……?」
恐る恐る、問いかける。
すると彼は、その言葉を待ってましたと言わんばかりに、「来ればわかる」と一言つぶやくと、私に背を向けて階段を上り始める。
彼の言葉に、従うべきか。それとも、従わざるべきか。
重大な選択を迫られていたはずなのに、意外とあっさりと私の答えは顔を出す。
そう……何も律儀についていく必要はない。
私の頭の中には既に、「逃げる」コマンド一択だった。
「なっ!? 貴様ッ!!」
すぐさま逆方向に走り出して階段を下りていくと、私の行動に気づいた当たり屋(仮)も必死に追いかけてくる。
5階から4階。
4階から3階。
3階から2階。
2階から1階。
ドタドタと盛大に足音を立てて、ガチの鬼ごっこが幕を開ける。
さすがに息が切れてきたものの、「なんか今日、私追いかけられてばっかだなぁ」と呑気な感想を思えるぐらいの余裕はあった。
「クソッ、不覚を取った!! コイツがこう言う奴だってことを忘れてたぜ……!!」
その声は、私の数メートル後ろの方で聞こえた。
今はまだ授業中。廊下には人がいないけど、これだけ騒いでいれば誰かしらに見つかる可能性は高い。
そうなるとやはり海兄ぃの印象をより悪化させてしまうし、そもそも春風さん以外の女子はまだ私の覗きの件で腸が煮えくり返っている猛者達ばかり。
これ以上逃げ回るのは、客観的に見ても得策とは到底呼べなかった。
廊下を走り抜けて、私は昇降口にたどり着く。
その辺で、私の体力も限界を迎えていた。
「ぜぇ……ぜぇ……」
足を止め、肩で息をする私と、
「はぁ……はぁ……、けほっ」
私のすぐ後ろで上手く酸素を取り入れられずに咳き込む当たり屋(仮)。
なんでこの人は、ここまで私――というか海兄ぃに執着するのだろう。
学校中で孤立している私が弱く写って、虐め甲斐があると判断したのだろうか。
それとも、態度や言葉使いから察するにこの人も不良だろうから、不良顔の海兄ぃを仲間だと認識して絡んできているだけなのだろうか。
「なんで……俺なんだ……?」
頭の隅で思っていたことが、思わず口に出てしまう。
いきなりの私の質問に、当たり屋(仮)も驚いた様子だ。
「は、はぁ? 何言ってんだお前。……んなことより、自ら人気のない場所に来るたァいい度胸してんじゃねえか」
「へ? あ、やばっ」
言われて初めて気づく。
授業中である今は、この昇降口に近づく生徒や教職員など誰ひとりいない。
いるとすれば遅刻してきた生徒の重役出勤もとい重役登校だろうが、校庭の方を見渡してみるもその人影はどこにもいなかった。
職員室になら昇降口の監視カメラぐらい設置されているのだろうが、教師はみな出払っている。
つくづく、この場所は屋上と同じくらい獲物を誘い込むには格好の場所だったってわけだ。
逃げ場は、校庭しかない。
しかし、今校庭に出て、仮に海兄ぃのいる中学校先へ逃げたとしても、この《入れ替わり》を終わらせるにはこの高校にいる恭兄ぃの力が必要不可欠だから、どっちにしろ再びこの場所に戻ってくることになる。
それに走りすぎたせいで膝もガクガクだし、息も切れかかっている。逃げられるかさえ五分五分の確率なのだ。海兄ぃの体、運動不足過ぎて笑えてくるよ。
以上のことからここでなんとか収めるしかない。私が、ひとりで。
幸い、格闘技には自信がある。
今は海兄ぃの体だから上手く体が動いてくれるか心配だけど、それでも、多分負けはないと思う。
むしろ、海兄ぃの筋力と私の技術が合わさり、より強力になること請け合いだ。
……ただ、暴力的な解決は、正直あまりしたくない。今朝だって、すぐに手を出す癖を直そうと自分に言い聞かせたばかりだ。
変わりたいって思うから、まずは出来ることから覆していかないといけない。
だから、力に任せるのは……最終手段にする。無用な争いはしない。そうしなきゃいけない。
「ふふふ、もう逃がさねえ。いつもは逃げられるからな……今日こそは正々堂々勝負してもらうぜ?」
いつも……。ということは、海兄ぃは毎回今みたくこの人に絡まれているらしい。
不敵に笑い、私に睨みを効かせる。
不意にカタリと物音が聞こえその方向に視線を移すと、いつの間にか見知らぬ男子生徒数名(当たり屋(仮)の取り巻きだろうか)が校庭へと続くドアの鍵を全て掛けていた。
もともと校庭へは逃げるつもりはなかったが、逃げ道は確実に塞がれた。
目の前の当たり屋(仮)の人も廊下に続いてる場所に立ちふさがっているし、ここから逃げるにはそれを突破しなくちゃいけないのだが……。
当たり屋(仮)を筆頭に、ドアに鍵をかけていた数名の男子生徒も私を取り囲むように近づいてきていた。
そして、見る見るうちに私は包囲されてしまう。
さすがに、ちょっと焦ってきた。
「正々堂々とか言っておいて……これはどういう真似なのかな……?」
警戒心をむきだしにしながら、私は問いかけた。
そんな私の質問を笑い声で一蹴すると、当たり屋(仮)は答える。
「おいおい、そんなのお前が一番わかってることじゃねェのか? あの狐な山空様とは思えないセリフだぜ」
「狐……?」
少しだけ考えて、彼が言わんとすることを理解した私。
正々堂々なんて単語は、海兄ぃにとって最も無縁な言葉なのだ。
常に『正々堂々? なにそれ、おいしいの?』を念頭においている海兄ぃは、タイマン勝負にだって鉄パイプの一つでも持ち出してくるだろうし、テストの点で勝負とかだとしても容赦なくカンニングに走る。そういう男。
卑怯だろうがなんだろうが勝負事は最終的に勝てばいいという海兄ぃ独自のやり方により、相手を騙したり、それこそ狐のように、灰汁どい顔で相手を化かしたりして勝ちに行く。
味方としては頼りになるが、敵対したらひたすらウザい。それが海兄ぃのスタイルである。
「つーわけで、だ。日頃の恨みを込めて、この俺、山下 一平が貴様を成敗致す!!」
山下さんですね。了解です。
……あ、そっか。今思い出したけど、この人ジャンケン大会の時に海兄ぃにボロクソに言われて負けた人だ。道理でどっかで見たことあるはずだよ。
そんなことを考えていると、今まで大人しかった周りが急に盛り上がり始める。
「うおおおお! やっちまえイッペーさん!」
「イッペー! そんなヤツぶっ殺せー!!」
「いや、待て、殺しはまずい! ほどほどにやっちまえイッペーさん!」
「一杯ぶん殴れイッペーさん!!」
口々に、山下さんもといイッペーさんへのけたたましい応援が昇降口全体を包み込む。
それを聞いたイッペーさんも、「よせやい」と人差し指を鼻にあてて照れている。何この茶番。軽くイライラしてきた。もう帰ろう。
「あの、用がないなら帰りたいんですけど」
「駄目に決まってんだろ!! なめてんのかてめェ!?」
イッペーさんめっちゃキレた。
「はは~ん、わかったぞ……? さてはお前、俺のことは眼中にないってことだろ。相変わらずスカシてやがって……」
「いや、別にスカシてなんてないですけど……。あ、でもお腹はスカシてます。夜店の焼きそば一つください」
「誰が明星さんちのイッペーちゃんだこらァ!!」
……なんか、だんだんこの人からかうのが面白くなってきた。
それに、なんでかわからないけれど、なぜかこの異様なやりとりに安心感を覚えている自分もいる。
周りがみんな海兄ぃを避けているこの状況で、まともじゃないけれど話しかけてきてくれる人が居るとわかったからなのだろうか。
イジメにしろ、カツアゲにしろ、他の目的にしろ、目の前でうすら笑いを浮かべているイッペーさんからは、何故か嫌な雰囲気は感じない。
立ち振る舞いこそチンピラけれど、なんだろう……うまく説明できない。ただ、悪い人には思えなかった。
「おい! なにほっこりしたような顔してるんだ! 金的かますぞ!!」
自分ではわからないけれど、どうやら私はのほほんとした柔い表情になっていたらしい。イッペーさんの言葉には、戸惑いが混ざっていた。
いや、そんなことよりも、興味をそそられる出来事がひとつありまして。
「金的……ですか?」
「おう、金的だ!!」
「金的っていうのはつまり……あの……」
「おう、股間を蹴る」
「それは……痛いん、ですよね……?」
「当たり前だろ! お前、男何年目だ!」
「そっか……痛いのかぁ……」
金的。主に男の人の局部を蹴る行為。
昔、お母さんに「男の人は股間蹴るとイチコロ。いわゆる一撃必殺技よ」って教えてもらったことがあった。
女でも股間を蹴られれば普通に痛いが、男の人のそれは女の人とは比べ物にならないくらいに効果覿面だと聞く。
男の人が生理痛や出産時の痛みを体験できないのと同じように、女である私には一生経験し得ない痛み。だけど、それが今なら体験できてしまうのだ。
正直言って、興味はあった。かなりあった。
あの武術を極めたお母さんが一撃必殺と謳うくらいなのだ。その武術の伝承者として、そしてゲーマーとして、その攻撃力を把握しておきたいと思うのは当然の思考である。
一体どれくらいの痛みなのか……。
知りたい。知りたい。知りたすぎる。
この機会を逃せば一生経験できない行為。既に私の心は、その魅力に囚われていた。
「ぜひ、お願いします!!!」
『えっ』
私以外、この場にいる全員の声が見事に合わさる。その反応により、私の言ったことがいかに狂気的であるかが見て取れた。
しかしその度肝を抜かれたようなリアクションは、私の好奇心を余計に掻き立てる役割を果たしただけであった。
「金的……。怖いけど、興味あるんです!! ぜひ! さぁ、バッチこい!!」
無我夢中で足を肩幅くらいに広げた私は、イッペーさんに背中を向けて腰を突き出した。
浮かれ気分の私とは裏腹に、周りのみんなは額に脂汗を浮かべ、薄気味悪いものを見てしまったかのように顔を青く染めている。
そして、その中の一人の「ひっ」という短い悲鳴を口火に。
「うわあああああ!!!! コイツやべえええええ!!!!!」
「う……嘘だろォオオ!!!!??? 嘘だと言ってくれェエエ!!!!」
「マジ○チだぁああああ!!!! マジ○チがでたああああ!!!」
「狐じゃなくて狐憑きとしか思えねえよぉおおお!!!」
「うええええええん!!!! ママぁああああああ!!!」
その様はまさに阿鼻叫喚。
発狂やら、悲鳴やらが飛び交い、悪い意味でお祭り騒ぎだった。
そして、それはイッペーさんも例外ではなく。
「お、お前ら!! て、撤収!! 撤収ぅううう!!!!」
イッペーさんは震えた声で叫びながら腕で空を大きく仰ぎ合図を出すと、それを認識するが早いか、ものすごい勢いで目まぐるしい程に逃げ出していくチンピラ一同。
昇降口に一人残された私もまた、その姿に呆気にとられる他なかった。
「私……そんなに変なこと言ったのかなぁ」
誰に言うまでもなく呟いてみても、当然答えは返ってこない。
しかし脱兎のごとく逃走したみんなの行動こそが、その答えになることだけは理解できた。
金的の痛み……。流石に自分で危害を加える度胸はなく、私はゆっくりと突き出した腰を引き体制を戻す。
少し残念だったような、ホッとしたような、判断しづらい感情に息を吐きながら、不良を追い払えたのでよしとすることにして、私は恭兄ぃのもとへ向かうために昇降口を離れた。
廊下にかけてある時計を確認してみると、残り15分足らずで三時限目の授業が終わりを告げ、お昼休憩へとバトンタッチする時間帯だ。
恭兄ぃのいる教室を目指し、アニメ声の人たち率いる女子軍団が未だ誤解を抱えたままでいるのではないかと周りを警戒しつつ、廊下を歩き、階段を上がっていく。
しかし、やはりというべきか……教室が見えるくらいの位置まで来ると、目的のその場所の前にはその人たちが肩を並べてドアの前に立ちふさがり、私の帰りを待っているようだった。
妖気のような禍々しさを周囲に放出しながら仁王立ちしている彼女ら。きっとまだ誤解はとけていないのだと思う。
これでは、近づこうにも近づけない。恭兄ぃに事情を説明することはできなそうだ。
「……とりあえず、海兄ぃと連絡を取ることを優先しよう」
彼女たちも、一日中あそこに突っ立っているわけにはいかないだろう。
きっと今の時間帯の授業が終わり、お昼時になれば昼食をとりにその場を離れるだろう。その時を狙って、恭兄ぃに接触すればいいのだ。
だからそれまでは海兄ぃと連絡を取るために、あの雄々しい担任の先生から通信機一式を取り戻す。
今、あの先生は授業中。
通信機が先生のポケットや、教室の教卓、教室の先生用の机なんかに収納されてたら取り戻すことは現状無理だけど、もしかしたら、万が一の可能性でうっかり職員室に置いてあるかも知れない。
それを確認しに行くだけでも、いい時間つぶしにはなる。
「そうと決まれば職員室に行きたいんだけど……ええと、確か一階だっけ……」
イッペーさんに追われて階段を下りて、恭兄ぃに会うために階段を上がって、今度は職員室に行くためにまた階段を下りる。
完全に要領の悪い道順だが、そうなってしまったのだから悔やんでも仕方ない。
既に疲れた足を必死で動かしながら、私は再び一階にある職員室を目指した。
「失礼しま~す……」
授業に出ているため誰もいるはずのない職員室に律儀に挨拶をしながら、私は通信機一式を探す。
あの先生の机の場所は知らないから、適当に漁るだけしかできない。
音を立てないように考慮しながら、教員たちの机の上や、引き出しの中などを探る。
今の自分の姿を人に見られたら、確実に言い逃れはできないことだろう。
けれど今の私には人に見つかる怖さや、無断で忍び込んでいる背徳感などは自分でも不思議なぐらい微塵も感じておらず、あるのはただ《入れ替わり》から解放されたいという想いと、早く自分の身体で中学校に行って、やり直したいという覚悟だけだった。
気の持ちようで人はここまで前向きになれるのかと、自分で驚くばかりだ。
「う~ん、ないなぁ」
落し物や没収したものというのは、大概机の上か、引き出しに収納してあるものなのではないかと狙いを定めて探してみているのだけど……。
人生そう甘くないようで、あらかた探し尽くしても目的のものは見つからない。
職員室にないということは、やはり通信機一式はあの先生のポケットの中にでも収まっているのだろうか。
「だったら探しても無駄だよね……」
そうとわかれば長居は無用。
別に海兄ぃと連絡が取れなくても、不便なだけで絶対に困るとかそういうわけではない。
だから通信機を見つけるのよりも、こうやって職員室に忍び込んでいるのが先生たちにバレて「一体ここで何をしていたのか」と問いただされ、時間を浪費してしまうことのほうが問題。
とりあえず先生が授業が終わって戻ってくる前に、早々に退散しておいたほうがいいだろう。
……それにしても、ここ誰もいないのにすごく冷房効いてるなぁ。さすが職員室。特別待遇ってやつですか。でも誰もいないのにつけっぱなしは良くないと思います。……お母さんが聞いたら「お前が言うな」って言われるな、私。
「……どうしよっかなぁ」
授業が終わるまで、まだ数分時間があった。
通信機は見つからないし、あの先生が持ってるのだとしたら返してもらえそうにないし……万が一返してもらえることになっても、結局は授業が終わるまで教室に乗り込むわけにもいかないから、実質私は今時間が余ってしまっている状態にあった。
恭兄ぃも、今日の選択科目は履修しているヤツだったらしいから同じく授業が終わるまでは会えないし。
余った時間、何をしようかと考えながら職員室を出て廊下をうろついていると、気づけば保健室の前まで来ていた。
閉じているドアの向こうから、かすかに話し声が聞こえる。
『――いつもありがと那留先生。すごい助かってる』
『ふふっ、大丈夫です。むしろ先生、頼ってくれて嬉しいくらい』
話している内容はあまり聞き取れないが、声の調子からして女生徒と保健の先生の二人だけのようだ。
そっか、保健の先生は基本授業はやらないから、深刻な教師不足だろうと授業に駆り出されることはないのか。
『楓にはいろいろ気を使わせちゃってるし、母にもこれ以上苦労かけられないですから……先生がそう言ってくれるなら、私もだいぶ気分が楽になれます』
『保健の先生はケガを治すだけが仕事じゃないの。こういうふうに、生徒たち一人ひとりの不安や苦労を、少しでも一緒に背負う。それも私の仕事なのよ?』
『へー、先生は仕事だから私に優しくしてくれてるんだー。仕事じゃなかったら助けてくれないんだー』
『そういうこと言うならもう貸しませんからね“里中さん”』
『ごめんなさい!!』
――サトナカ。
無意識に彼女たちの会話を立ち聞きする形になってしまったが、那留先生と呼ばれた人が発したその言葉は、どこか聞き覚えがあった。
それに、最初に女生徒の方も、“フウ”という人名らしき言葉を口にしていた。
サトナカ。そして、フウ。
どこか馴染み深いような、懐かしいような。その二つの単語が、呆けていた私の脳内でぐるぐると回っていた。
「サトナカ……フウ……さとなか……ふう……里中、楓……えっ!? 楓ちゃん!?」
何気なく耳に入った言葉だったから、反応が遅れてしまったようで。
聞き覚えがあるどころじゃない。その言葉は、余りにも身近な人物の名前だった。
里中 楓果。そう、幼馴染のカズっちゃんを除いて、私の唯一の友達。当然ながら、楓ちゃんは中学生だ。
そんな楓ちゃんの名前が、なぜこんな場所で出てくるのだろうか。
そういえば、たしか前に楓ちゃんにはお義姉ちゃんが居るって聞いたことがある。ってことは、いま保健室にいる人は楓ちゃんのお義姉さん……?
それに夏休み明け頃の話になるけど、海兄ぃがすっごい嬉しそうに「友達ができた!」ってはしゃいでいたことがあった。その人の名前もたしか“里中”さんだったはずだ。あの時「楓ちゃんと同じ名前なんだ」って思った記憶があるから間違いない。
だけどそうなると、私の友達のお義姉ちゃんが海兄ぃの友達ってことになるわけで、そう考えるとなんか保健室にいる里中さんにものすごく親近感が湧いてくる。
まぁ、まだ楓ちゃんのお義姉ちゃんだって決まったわけじゃないけど……でも、少なくとも今保健室にいる里中さんは海兄ぃと友達になってくれた人らしいし、他の女子みたいに私(海兄ぃ)の姿を見た瞬間問答無用でボコボコにしてくることはないだろう。
ただ、これも“海兄ぃと友達になってくれた里中さん”だったらの話で、全然関係ない“ただ単に同じ名前なだけの里中さん”だった場合じゃダメなんだろうけど。
でも、もし本当に正真正銘の楓ちゃんのお義姉さんなら一目見てみたいという気持ちもある。
それと保健の先生のことだけど、私が《入れ替わり》で目が覚めたとき保健室にいたってことは、保健室の先生にも介抱してもらったはずだし……お礼を言っておくのもいいかもしれない。
だから、ちょっとくらい寄り道してもいいよね?
「あ、ニセ不良じゃん」
「ふゃい!!」
私が保健室のドアに手を伸ばしかけたまさにその時、私がドアを開けるよりも先に、向こうの方から勝手に開いた。
そして目の前には、ギャルと誠実さのちょうど中間ぐらいのどっちつかずな印象を匂わせる女子生徒さんが立っていた。
私(海兄ぃ)のことを見て「ニセ不良」と呼んだこの人は、覗きをしたと噂が立っている私に敵意を向けるわけでも、睨みつけるわけでもなく、ただ普通にクラスメイトに遭遇した時の妥当な反応だった。
もしかして、この人が里中さんなのだろうか。
私の友達のお義姉さんでもあり、海兄ぃが友達になったと騒いでいた里中さん、そのご本人……?
……そのまえに、一応話しかけられたのだから、返事を返さないと無視をしたって思われてしまうかもしれない。なにか適当に返さないと。
「あ、えっと……里中……さん? ですよね……?」
私は探るように聞き返す。
すると彼女は、怪訝な表情を隠す素振りも見せず、私に言う。
「そうだけど……なんで敬語」
「あっ、いやっ」
「……あぁ、なるほど」
「へ?」
私がしどろもどろになっていると、里中さんはひとりで納得したように頷くと、
「だいじょーぶよ。私、噂とかって基本信じないタイプだから」
平坦に告げた。
どうやら里中さんは、私が噂を気にして顔色を伺っていて不自然な返答になったとでも解釈してくれたのだろう。
「え、あ、う、うん。ありがとう」
「あ、そうそう。ついでにこの前の雑誌代返しておくわね」
スカートのポケットを探り、財布を取り出しながら里中さんは言う。
「雑誌……?」
身に覚えがない。まぁ里中さんと海兄ぃの間にあったことなんて身に覚えがあるわけないんだけど、これは受け取ったほうがいいのだろうか?
「か、カツアゲ!!!」
不意に、里中さんと私のやり取りを保健室の中から伺っていた丸メガネの女性(保健の先生だろう)が声を荒げる。
たしかに、傍から見ればカツアゲに見えなくもない。
「「ち、違います!!」」
里中さんと一緒に、私は慌てて否定した。
しかし、目の前でそういう行為が行われていたという事実に混乱したらしい保健の先生は、話を聞こうともせず里中さんの前に立って私に立ちふざがる。
「だだだだ、ダメですよ!! カツアゲは立派ないじめなんですからね!! というかアナタ覗きをしたとか噂になってる人じゃないですか!! だだだだ、だからそのあの……覗き魔!! 変態!! 鬼畜不良!!! 強欲な壺!!!!」
「すごい言われよう!!!」
この人は本当に保健の先生なんだろうか。
「な、那留先生落ち着いて! 私カツアゲされてないから!」
「そう言えと脅されているんですね!?」
「どうしよう!! 話を聞いてくれない!!」
もうだめだ。
完全に誤解されてしまっている。
海兄ぃ……いつもこんな感じであらぬ噂がたてられていくんだね。可哀想すぎる。
――それから数分が経過し、里中さんが那留先生(で合ってるよね?)をなんとか落ち着かせる。
保健室の空きベッドの上に私と里中さんが並ぶように腰掛け、那留先生はキャスターのついている自分用の事務椅子に座り小さく息を吐いて呼吸を整えていた。
「だから那留先生。この人は悪い人じゃないのよ。――だよね?」
深呼吸を終えた那留先生の様子を見計らい、里中さんが必死に海兄ぃの印象を和らげようと頑張って話をしてくれている。
悪い人かどうかを本人に聞きますか。と一瞬思ったけど、よくよく考えれば私は本人じゃなくて私なのだから全然関係ないことに気づき、心の中で苦笑いをこぼす。
「そうです!! 全然悪い人じゃないです!!」
海兄ぃは見た目がアレなだけで、中を割って覗いてみればそれはそれは可愛らしい繊細な内面が顔を出すのだ。その愛くるしさはさしずめハムスターと大差ないだろう。ごめんちょっと盛った。
「話を振った私が言うのもアレだけどその言い方だと返ってめちゃくちゃ怪しいわよ?」
「たしかに!!!」
里中さんの言うとおり、自分で自分のことを悪い人じゃないとかいう人ほど、怪しい人はいない。
全くの逆効果だったことに気づいた私は、慌てて訂正する。
「じゃあバリバリ悪い人です!!」
「不思議。とても良い人そう」
日本語ってすごい。
「――わかりました。山空くんは不良じゃないんですね?」
私と里中さんの説得ややり取りを聞いていた那留先生が、不安げに確認を促してくる。
それに私と里中さんは頷き返すと、ようやく那留先生は安心したようで、大きく息を吐いた。
「それであの、俺が倒れた時に介抱してくれたんですよね。ありがとうございます、那留先生」
ちゃんとお礼も忘れない。
これ以上海兄ぃの印象を悪くして学校生活をめちゃくちゃにしたくないこともあるし、普通に感謝の気持ちもある。だからここは頭を下げて然る可きなのだ。
そして、春風さんの時もそうだったけど……海兄ぃが素直に頭を下げるのはよほどイメージとかけ離れているのか、那留先生も春風さんと同様驚いたように一瞬だけ目を丸くする。
素直な反応がこれだけ相手の意表を突くなら、海兄ぃはもう感謝の気持ちを表現するだけでクラスに馴染める可能性が出てきた。
「……いえいえ、お礼なら私よりも、里中さんに言ってあげてください。廊下で倒れていたアナタを見つけて、私に呼びかけて、誰よりも必死になっていたのはこの子なんですから」
私の感謝の意を見てようやく警戒心が解けたのか、那留先生はニッコリと微笑むとそう告げた。
それを聞いた里中さんは「ちょっ! 那留先生!!!」と顔を真っ赤にして声を荒らげている。
「ありがとう、……里中」
さっきは敬語を使ったことを指摘されたし、呼び捨てで大丈夫のはず。そう考えて少しだけ恐る恐る呼び捨てにしてみたけど、そんな不安などやはり不要だったようで、里中さんは特に気に留める様子もなかった。
むしろ、私がお礼を告げたことの方が不気味に思えたらしい。
「アンタ、そういうとこ素直だよね」
「なんだよ、俺だってありがたいと感じればお礼ぐらい言うぞ?」
「ごめんごめん、悪い意味じゃないの。むしろ清々しくて見てるこっちもスッキリするくらい」
「ありがとう、でいいのかなそれは」
「だから褒め言葉だって」
自分で言うのもアレだけど、今のやりとりは完全に海兄ぃっぽかった。
なぜだかは分からないが、徐々に海兄ぃだったらこう言うだろうな、っていうのが分かるようになってきている気がする。
「……山空くん、何かあったら、いつでも保健室に遊びに来ていいからね?」
警戒心が溶けた瞬間、那留先生の対応はまさにVIP待遇だった。
やったね海兄ぃ。居場所が増えたよ。
「最初、信じてあげられなくてごめんなさいね?」
そう告げて、那留先生は私に微笑んだ。
覗きに関しては事実なのでその言葉を純粋に受け止めきれない後ろめたさはあったものの、それよりもちゃんと話せば海兄ぃの味方になってくれる人もいるのだとわかり、私は安堵する。
「それにしても、山空くんって里中さんと仲良かったのね? 先生ビックリしちゃった。どういう馴れ初めなの?」
面白いネタを見つけたかのようにグイグイ来た。
やばい……そんな質問、この私が答えられっこない。むしろ私のほうが知りたい事柄だ。あの基本ぶっきらぼうな海兄ぃと里中さんが友達になるきっかけなんて、想像つくわけがない。
私が唯一わかるのは、里中さんと海兄ぃが仲良くなったのはユキちゃんと初めて会ったあの日……つまり夏休み明けの最初の登校日のあの日。今からだいたい2ヶ月ぐらい前の出来事だということだけだ。
それ以外は情報も持たない私だけど、答えなければ不自然。
不信感を与えないようにしつつ、受け答えするしかないのだ。
「えーっとですね……」
ひとまず、状況を思い返してみる。
海兄ぃはクラス中から嫌われていた。そしてそれは、里中さんと友達になった時もそうだったに違いないのだ。
ということは、嫌われている状態である海兄ぃが自ら、自分のことを嫌ってるかもしれない里中さんに声をかけるとは考えにくい。
そしてもう一つ。
あの時の海兄ぃは確かに「友達ができた」と断言していた。里中って人と友達になった、俺にも友達ができた、と嬉しそうに語っていた。
これがもし里中さんと軽く言葉を交わした程度だったら、あれほどまでにハッキリと言い切れないはず。とすれば、海兄ぃと里中さんの間に明確な「友達」としての認定があったはずなのだ。
それすなわち、里中さんの方から海兄ぃに向かって「友達になろう」的なことを言ったのだと推測される。
さすれば問題は、なぜ里中さんは海兄ぃを友達と認めたのか、という点だ。
なにかの気まぐれ? ……いや、その線は薄いだろう。
学校中から嫌われている海兄ぃと仲良くすれば悪目立ちしてしまうかもしれない。
たとえ里中さんが心の底から優しい人で日頃から海兄ぃの境遇を息苦しく感じていたのだとしても、わざわざ「友達になろう」だなんて言いに行くのだろうか?
言いに行くにしても、きっとなにかきっかけがあったはずだ。
海兄ぃと友達になってあげようと思えるような、何か変わった、普段とは違うきっかけが。
じゃないと、里中さんにとって、なんの得もない。
損得を考えないような人だったらもう何も言えないけど、人間誰しも自分に無利益なことや、むしろ被害に遭うことなど進んで行ったりするはずがない。
だからこそ、里中さんが海兄ぃと友達になろうと思えたその理由が、必ずしも存在するのである。
そこまで考えたところで、私は気づいた。
――そっか、エメリィちゃんだ。
エメリィちゃんはたしかあの時、海兄ぃのクラスにいたはず。海兄ぃの家で留守番させていたのに、超能力を使って学校まで飛んできちゃったんだと聞いた。
初めて見る地球の学校――海兄ぃの高校を見て、あのエメリィちゃんが大はしゃぎしないわけがない。
縦横無尽に遊びまわり、それに翻弄される海兄ぃ。そんな賑やかな二人の姿が、その場にいなくても容易に想像ができる。
詳しいことはわからないけど、もし里中さんがエメリィちゃんに翻弄されてヘトヘトになっている海兄ぃの姿を見ていたのだとしたら、海兄ぃと話をするキッカケはそれで十分だ。
この金髪の子は誰なのか。海兄ぃとは一体どういう関係なのか。
教室にエメリィちゃんがいるという珍奇な状況下、話題なんてそこかしこに転がっていたことだろう。そのうちのひとつの話題で海兄ぃに話しかけ、そこから友達へと進展していく。
それすなわち――。
「クラスで孤立していた俺に、里中の方から声をかけてくれたんです」
この受け答えが正解のはず!
「そうそう、私が慈悲の手を差し出したワケ」
うわあああああ本当に正解だった! 私凄いなっ!! もう探偵行けるでしょこれ!? 名探偵琴音の誕生だよこれ!!
「でもあれはアンタの……義理の妹さん、だっけ? に言われたからってのもあるんだよね」
「え?」
義理の妹……海兄ぃってそんな子いたの? 初耳なんですけど。
「あの子言ってたよ? “カイはすごく良い人なんヨ”って」
あ、なんだ。義理の妹ってエメリィちゃんのことだったんだ。びっくりした。
まぁ、たしかに宇宙人だなんて説明できないだろうし、義理の妹ってことにしておくのが一番無難かも知れない。
「ほら、アンタって根も葉もない噂が凄く多くてさ。だけどあの子が言ってたことって、その噂とは全部真逆のことで……それで、もしあの子の言ってることが全部本当なら面白そうだなって思ったのよ。その結果が今ってわけ」
「……そうだったんだ」
「……だから、さ。アンタ、エメリィーヌちゃんのこと……大切にしてあげなきゃダメだかんね?」
表情は変わらなかったけど、里中さんが言ったその言葉には、今までの中で一番感情がこもっているような……そんな気がした。
だから私も、力強く頷く。きっと海兄ぃでもそうしたと思うから。
「よくわからないけど……良い話ね」
那留先生は状況が飲み込めない割に感動したようで、メガネを外してハンカチで自分の熱くなった目頭を押さえている。
それからしばらくしてメガネをかけ直した那留先生は、
「そういえば里中さん。さっき聞き忘れてたんだけど……どう? 楓果ちゃん元気にしてる?」
と、どこか落ち着いた様子で問いかけた。
その質問に、里中さんだけでなく私もぴくりと反応する。
……言った。今、完全に“楓果ちゃん”って言った。
やっぱり、私が思ったとおり……この里中さんは、楓ちゃんの義理のお姉さんだったんだ。
「楓は元気だけが取り柄みたいなところあるし、相変わらず騒がしいですよ」
里中さんと楓ちゃんの家の事情は一応一通り楓ちゃん本人から聞いているため、理解はしているつもりではある。
たしか、里中さんと楓ちゃんは血の繋がっていない義理の姉妹だったはず。
里中さんが父親(性は里中)の連れ子、楓ちゃんが母親(性は常住)の連れ子であり、その其々の親が結婚。これにより、楓ちゃんは「常住 楓果」から「里中 楓果」になって、里中さんと義理の姉妹關係になった。
最初は出身地や方言の違いでぎこちないところもあったけれど、仲良くやっていたと聞く。
けれど、それも束の間。
そのわずか数ヶ月後には、お父さんが事故死してしまい、母子家庭で暮らしていくことを余儀なくされてしまったらしいのだ。
お父さんが亡くなってしまったってことは、里中さんは今唯一血の繋がりがあった人を失い、義理の母と義理の妹である楓ちゃんと一緒に暮らしているということになるはず。
ふたりのお母さんは必死で働いたけど、2年後(つまり去年)に過労で倒れてしまったと聞く。今は元気らしいけど……無理はさせられないだろう。
では、いなくなってしまった父親と、倒れたことがあるためあまり働いて欲しくない母親の代わりを誰が担うのか。それは里中さんや楓ちゃんだろう。
……そういえば、「お義姉ちゃんはアルバイトとかいっぱいしてる」って楓ちゃんが言ってたっけ。ってことは里中さん、すごい頑張ってるってことだよね……。
はぁ、改めて整理してみたけどめちゃくちゃ重い……。
もう自伝を一冊出せるレベルだよ……。
義妹のことを一生懸命守ろうとしている里中さんと、お義姉ちゃんのことを一生懸命支えようとしている楓ちゃん。
この二人ほど応援したくなる姉妹はほかにいないだろう。
あ、やばい。心が揺さぶられすぎて目が潤んできた。こういう健気に頑張る系の話、私弱いんだよなぁ。その中でも特に泣けるのが、人間と動物の絆の物語!! あれは確実に涙モノだよ。動物系にハズレはないってね。
「あんまり無理しないでね!!! 里中さん!!!」
「お、おぉう!? どうしたのよ急に!?」
つい感極まって里中さんの手を取ってしまった。
しまった! つい海兄ぃだということを忘れて暴走してしまった!
「ご、ごめんつい!!!」
パッと、握っていた里中さんの両手を離す。
衝撃と焦りと戸惑いにより、顔を少し赤く染める里中さん。
対する私もまた同様にてんやわんやしていた。
あーもう! 女子の手を急に握るなんて、もうこれセクハラみたいなものじゃん! 覗きの誤解に現実味が増しちゃうだけじゃん! 何やってんだよ私!
「違うんだよ、えと、そのほ、ほらあの、事情知ってるから!! 楓ちゃんと仲いいから!!」
「へっ? アンタ楓と知り合いなの?」
「もちろん!!! ……ん!? いや違う! もちろんじゃない!!!」
「はぁ?」
楓ちゃんと仲良しなのは“私”であって“海兄ぃ”じゃないよ!! 海兄ぃは事情知らないし!! まぁ今回の《入れ替わり》の一件で知り合いにはなったっぽいからいいかもしれないけど!! でも「なんでコイツ中学生の女の子と仲良いんだ」とか思われるから!! 一気に不信感増すから!!
「俺じゃない! 楓ちゃんと知り合いなのは俺じゃなくて……俺の友達の妹がその子と仲良しなんだよ!」
「……?」
もうわけがわからないよ。里中さんは無言だったが目でそう語っていた。
「えと、違うんだ。違うんだよ」
「何がよ」
「ほら、俺の友達に竹田 秋ってのがいるんだけど」
「誰」
「ほら、となりのクラスの」
「……ごめん、わかんないわ。なにか特徴とかある?」
「影が薄い」
「わかるわけないでしょ!! ……いや、ちょっと待って、もしかしていつもあんたと一緒にいる人?」
「……一緒にいる人ってどんな感じの人?」
「あんまり印象に残ってないから分からないけど」
「あ、その人だ!」
完全に秋兄ぃだった。
特徴を聞かれて、「良い人」や「特徴がないのが特徴」などと言われている人が居るとするならば、そいつは十中八九秋兄ぃだ。
印象を聞かれて、「記憶にない」や「影が薄い」などと貶されている人物が存在したならば、それは間違いなく秋兄ぃなのだ。
キャラクターを絵で描くときの、顔の部分に十字のアタリ線を引いただけの状態。それを想像して頂ければ、それが秋兄ぃその人なのである。
数百人の顔写真を重ねて合成していって、最終的に出来上がるのが秋兄ぃ本人であるわけで。
要はそれほどまでに普遍的な人物。それが竹田 秋という人間だ。
……ちょっと言いすぎたかな。
「で、その秋に……楓ちゃんと同い年の妹がいるんだけど、その妹が楓ちゃんの友達でさ。俺もその秋の妹とは仲がいいから、その流れで楓ちゃんとも知り合ったんだ」
これは嘘ではない。
私が楓ちゃんと仲良かったから、《入れ替わり》という変な流れで海兄ぃと楓ちゃんが知り合うことができた。
だからこれは紛うことなき真実なのである。
「あ、もしかして……その竹田、だっけ? の妹の名前ってもしかして琴音とかっていう子?」
「そ、そうだよ……?」
面識のなかった相手から自分の名前が話題に上がり、反射的に体が強張る。
もしも「あの子超ダサいよね」とか「あの子ブサイクだよね」とかそういう悪い感じの言葉が飛び出してきたらと思うと、想像しただけで冷や汗が止まらない。
緊張のあまり心拍数がどえらいことになってきているも、そんなことになっていることなど知る由もない里中さんは、自分のペースで言葉を続けていく。
「そうだったんだ……へぇ……。いやさ、楓から結構その子のこと聞いててさー」
咄嗟に、耳を塞ぎたくなる衝動に駆られる。
けれど、里中さんの言葉を遮ったとしてもなんの解決にもならないのは百も承知なので、私はグッとこらえた。
里中さんも、まさか私がその本人だとは夢にも思わないだろう。
さぁ、来るなら来い。
楓ちゃんは、友達の悪口は言わないはず。だから今から語られるのは、ほぼ間違いなく私がいかに素晴らしい人間かということだけだろう。そうであってほしい。そうじゃなきゃ私は自我を保っていられそうにない。
「琴音って子、すごく可愛い子なんだってね」
「ゴホッ!? げほっけほっ!!」
不意打ち過ぎてとてつもない勢いでむせた。
悪口か、それともなんか「面白い人」だとか「楽しい人」だとかそういう類のものが来ると思っていたのだが……よりにもよって「可愛い人」とかもうどう反応するのが正解なのかわからない。
もし仮に同意したとして、なんか自分自身のことを可愛いと思ってる勘違いの人みたいな感情が沸いてくると思うし、自己嫌悪の後処理が大変そうだ。
逆に否定したとしても、それはそれで何とも言えないし。
この「可愛い人」という印象に対し、肯定するにしても否定するにしても、どっちにしろ身を削る思いをしなければならなくなる。恨むぞ楓ちゃん。
だがしかし、私はこの状況の打開策を知っている。そしてそれは……。
「普通だと思うよ」
そう、どっちつかずの回答をすることである。
白黒をつけない。どちらとも取れるような回答。曖昧な受け答え。
それは、日本人らしさがふんだんにあしらわれた、むしろ日本人だからこそ使える大技である。
そして、この技の決め手は――。
「なにせ秋の妹だしね!」
秋兄ぃの名前を持ち出すこと!!
これにより、本来なら「当たり障りのない回答をしやがって!」と相手に思われてしまうところを、地味な印象をもたれる秋兄ぃを比較対象に出すことで――。
「あぁ、なるほど。確かに印象薄いもんね……」
と、相手も妙な説得力に納得せざるを得ない状況となるのだ。
ハッキリしない返答はただ場をしらけさせるだけ。しかし、私に限り兄というオプションが使えるため、場の空気を常温に保ったままきわどい質問を回避することが可能なのである。
発動条件は秋兄ぃのことを少しでも知っている人。
里中さんの場合は記憶の奥底に「そんな人いたっけなぁ」ぐらいの印象だが、この技は秋兄ぃの印象が薄ければ薄いほど効果的なのだ。
「そういえば、里中はなんで保健室にいたんだ?」
そして、相手が納得している隙を突いて、話題を転換する。
しばらく放置していると、影の薄い秋兄ぃの妹はどんな子なのか返って興味が沸いてしまう危険性もあるため、そうならないようにほかのことへ思考を転換させる。
これが、私が長年の対人関係で築き上げてきた上等スキルである。
「え? 私? 私は……えっと……」
どことなく言葉に困っているような雰囲気で、里中さんは那留先生に視線を移した。
それに気づいた那留先生が一度だけ小さく頷くと、里中さんは口を開く。
「アンタ、私んちの環境知ってるのよね?」
環境……つまり、複雑な家庭環境のことだろう。
詳しく知っているといえば嘘になるけど、大まかな部分は多分知っていると思う。
「うん。……あれ、これ重い話になる? その……アレなら別に話さなくてもいいけど」
里中さんの口調は至って平常で、さっきまで会話していた時と変わらなかったため反応が遅れたけど、家庭環境が関わってくる話ならば、里中さんにとって面白い話ではないと思う。
さっきも、なんか那留先生と里中さんだけの秘密みたいな感じだったし、それでも私に話してくれようとしているのは、私ではなく海兄ぃを信用しているからだ。
なのに、私がそれを聞き出してしまうのもどうなのだろう。
「別にそんな重要な話じゃないから大丈夫よ。ただ、そういう家庭環境だから結構ギリギリの生活送ってて……。それで、まぁ、私もアルバイト結構かけもちしてるのよね」
そう語る里中さんの表情は、話の内容とは似つかわしくないと感じてしまうほどに平然としていた。
「先生としては、健康を害してしまう危険性の多い里中さんには、ゆっくり体を休めて疲れをとって欲しいところではあるんですけど……でも家庭の事を考えるとさすがに先生も口は出せないので、それならと協力だけでもしてあげてるの」
里中さんに続くように、那留先生も詳細を教えてくれた。
「母は仕事で遅くまで帰ってこないことが多いし……私放課後はバイトだから、夕食の買い物とか学校に来る前に済ませちゃったりとか多いのよ。でもお店の開店時間とかの都合で、買い物を済ませてから家に帰るまでの時間がどうしても取れないのよね」
このあたりは商店街があるけど、どのお店も早くても朝の7時からとか、8時からとかの開店が殆ど。
里中さんの家がどのあたりにあるのか分からないけど、買い物を済ませて往復するとそれなりの時間がかかるはずだ。
たとえば7時に開店するお店に合わせて家を出たとしても、やっぱり買い物で時間を使って、家に帰っているとどんなに急いでも授業開始ギリギリになってしまうだろう。
「前はそれでも一旦家に帰ってたのよ? でも……一回だけ、家に帰ってたら完全に遅刻しちゃう時間帯の日があって。それで仕方なく買い物袋片手に学校に来たんだけど……その時に、那留先生が私に声かけてくれたの。ほら、そこに冷蔵庫あるでしょ? それに入れといていいって言ってくれて。それからお世話になってるわけ」
里中さんが指をさした方を見ると、カーテンの裏に隠れて少しわかりづらかったが、部屋の隅にはたしかに小さめの冷蔵庫が設置されていた。
なるほど。学校行く途中で買い物を済ませて、その食材を持ったまま登校。そして下校時に食材を家に持って帰ったほうが時間も手間も体力も無駄に消費しなくて済む。そういう考えなのだろう。
「楓に頼むこともできるけど……あの子にはなるべく学校生活に集中して欲しいしね。何も考えずに遊べるのなんて……中学生ぐらいまでだから」
俯いて、里中さんがポツリと呟く。
そして少なからず重い空気が流れてしまったことに気づいたのかすぐに顔を上げると、
「とまぁ! そんなわけだからさ。もしアルバイトしたくなったら私に言ってね~。特別どギツイの紹介したげるから」
ケラケラと笑いながら、私の背中を手のひらでバシバシと叩いた。
「そんじゃま、そろそろお昼だし……私は教室に戻るわね。那留先生。放課後食材取りに来ますね」
よっこいせ、と立ち上がった里中さんは、私と那留先生にふりふりと手を振った。
「えぇ、午後の授業、居眠りしないようにしてくださいね」
「先生こそ、お腹すいたからって冷蔵庫あさらないでくださいよ~?」
「あ、漁りませんよっ!」
「そんじゃねエセ不良。教室でまた会いましょ」
「お、おう」
一通り挨拶を交わして、里中さんは保健室を出ていった。
そして、それと同時にお昼を告げるチャイムが鳴った。
「……じゃあ、俺もそろそろ……」
「……山空くん」
早く元の姿に戻らなきゃいけないことを思い出し、立ち上がって保健室のドアの前まで歩いた時、ふいに那留先生が海兄ぃの名を呼んだ。
「なんですか? 先生」
私は振り返って、返事を返す。
「里中さんのこと、気にかけておいてあげて欲しいの」
「へ?」
いきなり脈略のないことを言い出した那留先生に驚いて、素っ頓狂な声を上げてしまった。
一体どういう意味なのかと聞き返そうとしたけれど、すんでのところで那留先生の言わんとする意味が理解できた私は、その言葉を飲み込む。
学校生活と、いくつものアルバイト。どのくらいの時間動いているのかはわからないけれど、それは絶対に楽なものではないのは話を聞いていれば誰だってわかる。
それに、家庭のことでもそうだ。
里中さんに至っては、3年前に実の父親を事故で亡くしている。今でこそ明るく振舞っていたけど、その胸の内はとても苦しく、私なんかじゃ想像もできないぐらいツラいものなのかもしれない。
過労で倒れちゃったお母さんに無理をさせるのも、かといってまだ中学1年生の楓ちゃんに大変の思いをさせるのも、里中さんは良く思わない。だからこそ、里中さんはひとりで頑張っているんだ。
だから那留先生は、いつか里中さんが体調を崩すのではないかと心配している。だから那留先生は、海兄ぃにお願いしたのだ。
「里中さんはああやって元気そうでいても、実際はとても疲労やストレスが溜まっているはずなの。ストレスは何よりも身体に悪影響を及ぼす。疲れが溜まればストレスも溜まる。今は若いから、まだ明確な害にはなっていないけど、将来大人になって、体の抵抗力が落ちてきた時に若い頃の無理がたたって重大な病気にかかってしまうというケースも多いのよ。だから……」
「里中には気を使ってあげて欲しい……ってことですか?」
「ううん、それもあるけど……さっきみたいに会話したり、普通に接してくれればそれでいいのよ。難しく考えないで、ただ里中さんの息抜きになって貰えればそれでいい。それだけでもストレスって結構減るものだから」
特に、男の子の友達だとね。最後にそう付け加える。
「なんで、男子だといいんですか?」
「ほら、よく聞かない? 女子は友達同士で話をしているとき、そのうちの誰か一人がいなくなるとその一人の悪口で会話に花を咲かせるっていう……謂れみたいなやつ」
たしか、友情がどうのこうのという話で、似たようなことを聞いたことがある。
女子の間に本当の友情なんてなくて、さっき那留先生が言っていたように、一人が席を離れたら、その子の悪口で盛り上がるのが女子。そういう女子の怖さを喩えた話は知っているし、悲しいけど中学のクラスでも悪口で盛り上がっているグループの会話を聞いたこともある。
まぁ、私の場合は友達少ないしそもそもそういう会話すらできないわけなんだけど。
でも、やっぱりそれって残酷なことだし、私も私で、私がトイレとかに立っていなくなった瞬間に「あの子っていつも一人だよね~」とか「友達いないんじゃない? カワイソー」みたいな会話をされているのだと思うと怖くて仕方がない。
でも、それは悪いことばかりでもなくて。
春風さんのときみたく、友達の一人がなにか事件的なものに巻き込まれた時の女子の結束力は本当にすごい。
みんながその人のことを自分のことみたいに思って、皆が皆一人のために怒る。そういうのってカッコイイことだと思う。
だから、女子の何が悪いとか、何が良いとか、そういうことじゃないんだけど……。
ただ、女子の友達に対して心の底から本音を話せるかといえば、少し躊躇してしまうかも知れない。
その点、楓ちゃんは私に家の事情とか、家庭の環境とか、そういう大事なことまで話してくれた。これは、楓ちゃんが本当に私のことを信用してくれているからだ。だから私も、楓ちゃんにだけは本音で接することができる。
だからこの話は本当に例えばの話で、例外はもちろんあるのだ。
それでも根本的にはあっているような気がしなくもないのは、やはり事実も多く含むからだろう。
ゲームの話とかなんかはやっぱり楓ちゃんよりもカズっちゃんとかとじゃないとあまり楽しくなかったりもするし、多分中身のないバカみたいな会話とかは男子とかの方が話が合うんじゃないだろうか。
男子って単純だし、良い意味で馬鹿だからね!
「里中さんも多分、山空くんと話してるほうが楽しいんだと思うの。色々なことを、一時的ではあるけれど全部忘れて盛り上がれるから。里中さん……男の子の友達あまりいないみたいだし、ね?」
「……まぁ、それくらいなら頼まれるまでもないですよ」
勝手に返事をしてしまったけれど、もし私が私でなくて海兄ぃだったとしても、返答は同じ言葉だっただろう。
その言葉を聞いて安心したのか、那留先生は小さく微笑むと「引き止めちゃってごめんなさいね」とだけ告げ、デスクに向かってなにか作業の続きをし始めた。
その背中に「それじゃ、また」と声をかけ、私は保健室を出る。
廊下に出て、ずっと座っていたせいで固まってしまった筋肉をほぐすために伸びをしながら一度大きく息を吸うと、だれかのお弁当の香りが私の鼻腔を通って肺の中をいっぱいにした。
「はぁあ~……もうお昼かぁ」
吸った息を大きく吐き出し、私は廊下をあてもなく歩き出す。
そういえば、里中さんの下の名前知らないままだなぁ。なんて考えながら適当に階段を登ると、途中であの先生とすれ違い、たまらず歩みを止めて振り返った。
「あ、せ、先生!!」
大柄の、雄々しい先生。私から、通信機を奪った張本人。
いろいろあったけど、《入れ替わり》はもう終わりにしたい。そのためにも、通信機を返してもらって……海兄ぃに連絡を取りたい。
でもこの先生は、あの通信機を私がカンニングするためのものだと勘違いしている。返してもらうには、まずはその誤解を解かなくちゃならないだろう。
「どうした山空。あのおもちゃなら返さんぞ~」
「うっ」
出鼻をくじかれるとはまさにこのことであろう。
私が今まさに言おうとしていたことを、まっさきに釘を刺されてしまい言葉が出てこなくなる。
けれど、それはこの先生がカンニングを防止しようとしているからに過ぎないわけだから、そのカンニングに使わないことがわかれば絶対に返してくれるはずだ。
最初に会ったときは人見知りが先行して上手く話ができなかったけれど、私はもう変わるって決めたんだ。元に戻って、中学校でいつもの私を押しのけて元気に挨拶して、いっぱい友達作るって決めたんだ。
いい機会じゃないか。これはその予行演習だ。
頑張って、勇気を出して、恥ずかしくても、声が震えても、私をもっと表に出すんだ。
「そ、その通信機は恭兄ぃ……じゃなくて、オメガにもらった大事なものなんです!! カンニングはしません!! 約束します……だから、返してください!! 今日だけ見逃してください!!」
言った。私は、言えたんだ。
些細なことかもしれないけれど、今までの私からしてみれば大きな第一歩。
その気になれば、やろうと思えば、私はあがり症を克服することだって出来るんだ。
相手はまだ、今日あったばかりの先生だけど、それでも言えた。
でも、これで満足していちゃいけない。
私がこれからやろうと決心したのは、今日限りで顔を合わせなくなる先生なんかじゃなく、3年間、中学校を卒業するまで……もしかしたら卒業してからもかもだけど、それまでずっと一緒にいるクラスメイトたち。怖いなんてもんじゃない。
でも、私ならやれる。それでもし失敗しても、楓ちゃんやカズっちゃんがいる。恐れることなんてない。
「――ったく、わかった、かえしゃあいいんだろぉ?」
やれやれと投げやりな言葉を吐きながら、先生はポケットからソレを取り出した。
そしてその通信機を私につき出すと、鋭い目で睨みをきかせながら、
「絶対に、カンニングに使うんじゃねえぞ?」
と、ドスの効いた声色で脅してくる。
一瞬気圧されたけど、でも私はそれに負けじと言い返した。
「約束します。絶対に、不正行為はしません」
本当に今朝方恭兄ぃに不正の依頼をした本人なのか疑いたくなるぐらい、まっすぐとした言葉だった。
そんな私の目を見て、先生もまた、理解してくれたらしく。
「ほらよ」
私の手のひらに、ポンと通信機一式を置いてくれた。
「ありがとうございます!!」
「いや、こっちこそ取り上げちまって悪かったなぁ。テスト、精々頑張れよぉ」
私に背を向けて、スタスタと階段を下りていく先生。
轟々しい先生だったけれど、なんとなくいい先生なんだなと感じた。
――ピピピピピピピピピピッ!!!!
刹那、手に持った通信機から通信が入ったことを示すブザーが鳴る。海兄ぃたちの誰かが、通話をしようとしてきている証拠だ。
私は慌てて通信機を装備すると、通話の受諾をする。
すると右耳につけたポップなカエル型のイヤホンから、聞き覚えのある私自身の声――つまり、海兄ぃの声が聞こえてきた。
……だが、ところどころ雑音が入り、うまく聞き取れない。
『――――ザザッ――プールの時にいた――ザザッ――やつ覚えてるか?』
「え?」
プールの時にいたヤツ。
いきなりのわけのわからない質問に困惑したが、私の思考はある二人の人物を反射的に導き出していた。
忘れもしない、金髪の不良と黒髪の不良。
私を襲おうとし、そして秋兄ぃをナイフで刺そうとして、間一髪のところで警察に御用になっていたあの二人組のことだ。
でも、それが一体――。
『はぁ? ……あぁ、あのオタク野郎か。それがどうした?』
ビクリ、と体が小さくはねる。
今の声、男の人の声だった。
でも、カズっちゃんの声じゃないし、海兄ぃだって今は私の声。あんな挑発的な声出せるわけがない。
「じゃあ、一体誰……?」
意味もなく呟いてみるも、優秀な私の記憶は、その声が既にとある人物の顔と合致していることを示していた。
そうだ、覚えている。全部……全部しっかりと覚えているんだ。
……そう、あの声は。あの、聞くたびに寒気が全身を襲うような感覚にとらわれるあの声は。
――紛れもない、プールの時にいた、金髪の不良の声だった。
第59.5話 その6 完
~おまけ~
里「那留先生! 今回とうとう私の挿絵が!」
那「よかったですね、里中さん」
里「これで私も準レギュラーメンバーの仲間入りってことになるわけね!」
那「え? それって挿絵の有無で決まるんです?」
里「だって普通、重要じゃないキャラは描かないわよね?」
那「言われてみれば……そうかも」
里「でしょ? だから、私もようやくモブキャラから這い上がってきたってワケ! 義妹の楓には負けてられないしね!」
那「ふふふ、頑張れお義姉ちゃん!」
里「ありがと、那留先生! ……っと、やばいやばい! バイトの時間!! それじゃさよなら!!」
作者(今更キャラデザが決まった人から順に描いてるなんて言えない……)