第59.5話 その4~燕返し~
過去編の時も同じこと思いましたけど、《入れ替わり》編なげぇよ!!!!
まぁ俺が書いてるんですけどね。_(:3」∠)_
私の名前は春風 燕。クラスの委員長を担っている16歳の高校2年生。
視力はあまりよろしくなくメガネを着用するのが日課だった私だが、最近コンタクトデビューに挑戦してみたりもして、今では家ではメガネ、学校ではコンタクトと使い分けている。
「よしっ、これで終わりかな」
今日も今日とて委員長。雑務をこなして一息入れる。
昔からよく人に頼みごとをされやすかった私は、立候補したわけでもないのにあれよあれよと委員長に就任してしまった。
委員長なんて肩書きは立派だけれど、中を割って覗いてみれば、その正体はただの雑務係。
先生の仕事を手伝ったり、教室の管理をしたり、時にはクラスをまとめたり。
そんな雑用を体よく押し付けられる役目が、この委員長なのである。
でも、意外なことに私はそれが嫌いじゃない。
昔から誰かのために何かをするのが好きだった私は、みんなの笑顔や「ありがとう」という感謝の言葉を聞くだけで心がとても暖かくなる。
私のおかげ、なんて大層なことは思っていないけど、それでも私が頑張ったことでみんなが喜んでくれるのは、素直に楽しいものだった。
そんなこんなで、今日も朝から良い運動になった。
チョークが切れかかっているとかで、担任の西崎先生に頼まれて、職員室から予備のチョーク一式を教室に運ぶその途中で、美術の先生にポスターを張るのを手伝って欲しいと頼まれ、さらにその途中で校長先生に校長室のゴミを捨てに行くのを手伝って欲しいとお願いされ、今はそれらをこなし当初の目的であったチョークの箱を教室に持ってきたところだ。
今のように、頼みごと一つをこなすのにもかなりの遠回りになってしまうのは、よくあることだった。
これは、私の人柄がそうさせるのか、単に周りの人にとって私が扱いやすいから利用しているだけなのかはわからないけど、誰かの為に動いていること自体にやりがいを感じている私は、そんなのどっちだってよかった。友達にはよく「燕ってドMだよね」なんてからかわれたりするけど、そういうのとは違う。上手く言葉にできないけど、ドMなんかじゃないって信じたい。
そんな私だが、別に何でもかんでも頼みごとを聞いているわけじゃない。私だってひとりの人間だ。私一人の力でできることなんて限られているから、あくまでも委員長として然るべき仕事だけを手助けするように調節はしている。
疲れてやる気が出ない時もあったりするし、そういう時も息抜きをしようと決めていた。
要するに何するにしてもケースバイケース。時と場合と状況と重要性を見極めて、無理せずに手伝う。これに限る。そしてそれが、私の委員長としての在り方なのだと胸を張ってみたりして。
「おっ、燕。ま~たドMしてんの~?」
持ってきたチョークの箱をひとつ開けて黒板のチョーク置き場に補充していた私に、私の友達である桜ちゃんが声をかけてくる。
「あ、桜ちゃん」
桜ちゃんこと、野々部 桜。
声が俗に言うアニメ声な桜ちゃんは、普通に喋っていてもとっても可愛い。本人はあまり自分の声を好きではないらしいけど、私は透き通るような桜ちゃんの声が大好きだった。
桜ちゃんとは、高校に入学したばかりの頃に隣の席になって、たまたま部活も一緒の新聞部になったことからよく話すようになったという至って普通な出会いだが、今では一番仲良くしてる友達だ。
いつも私を気にかけていてくれるし、私の委員長の仕事も手伝ってくれる。
ちょっと口調が乱暴だから誤解されやすいけど、すごく優しい友達だ。
そんな桜ちゃんに、私から一言だけ。
「別にドMじゃないよ……」
私の見解だが、俗にいうM――つまりマゾヒズムは、「痛みや苦痛を喜ぶ人」と考えている。そして当然だが、私は痛いのも嫌だし苦しいのも嫌だ。
つまり、私は桜ちゃんが言うドMなんかでは断じてないという事だ。
ただ、小さいころから父に「苦労は買ってでもしろ」と教わってきたこともあり、多少自分を犠牲にしちゃったりとかは……まぁ、あるけど。
でも、どんなに大変でも、いいように扱われているだけだとしても、命があるからこそ出来ることで、こうして笑顔で無事に毎日を過ごせている私は、絶対に幸せだ。……私の、人とは違う“特別な体質”上、常々そう思わざるを得ない。
「えー? でも雑用好きなんでしょ?」
「好きとかじゃなくて、何かしてないと落ち着かないだけだよ」
「それを世間ではドMって言うんだよ燕」
「そ……そんなこと……!!」
傍から見ればそう見えるかもしれないけど、私は別に大変な目に遭うのが大好きなわけじゃないんだよ! 雑用とかをするのだって、小さい頃から家の手伝いで雑用をこなしてたことが原因だし!! それが身体に染みついちゃって、癖になっちゃってるだけなの!
……と、言いたいのをグッと我慢する。
あくまでも私は委員長。友達との会話の流れとはいえ、学校の中で……それも人が多くいるこの教室で思い切り声を張り上げるのは頗る宜しくない。学生のお手本が委員長。常にそうでなくてはならないのだ。皆を指導したり、まとめたりする立場である委員長という役職は、嘗められたら最後。そのくらいの気概で臨まねば到底やっていけないだろう。
桜ちゃんは、私が委員長という身でシッカリしてなくちゃならないのを知っていて、わざと私が大声で否定したくなるような事を言う。私を玩具にするのはいい加減やめてほしいんだけど、でもそれが桜ちゃんらしい部分でもあるため簡単に「やめろ」などとは言いづらく、結局何も注意できないでいた。私のこういう甘さが幾度も頼みごとをされてしまう現状を作り出していることなど理解していないわけではないのだけれど、こればっかりは私の生まれついての性格上の問題のため、自分ではどうすることもできなさそうだ。
「あははっ、冗談だって。ホント、燕はイジり甲斐があるよね~」
「も~、私で遊ばないでよ」
心の中では「桜ちゃんのおたんこナス!」と軽めの雑言をぶつけつつ、その本心をひた隠し、冷静を演じながら小さくあしらうのがいつもの私のスタイル。
「それはできない相談だわ」
それでも、桜ちゃんは私をからかい続ける。
嫌というわけではないけれど、周りに他の人が大勢いる前でついうっかり“素の私”が出てしまい、私が今まで積み上げてきた“真面目な委員長”像が崩落し「委員長だって規律守れてないじゃん!」とか言われてしまうことを考えると、この桜ちゃんの悪戯心は洒落にならない。
然してこういう桜ちゃんとのやり取りに好意に似た感情を感じてしまっている私には、桜ちゃんを抑制する言葉も、気力も、何一つ持ち合わせていなかった。
だから私は、せめてもの抵抗として、できるだけ淡泊に言葉を返す。
「うんわかった、来月の学級新聞は桜ちゃんのスリーサイズ特集にしとくね」
「やめて」
「それはできない相談だよ」
「このパワハラ委員長め……!!」
ふふふ、なんとでも言うがいいさ。私をからかったら、委員長の力と、新聞部の力を最大限に利用して吊し上げてくれちゃうぜ?
なんて、もちろんそんなことはしませんが。そもそも一生徒のスリーサイズとか記事にしたらさすがに私でも先生に怒られるし。
「ところで燕、来月分の学級新聞の話なんだけどさ」
学級新聞。それは、私と桜ちゃんが所属している新聞部で作っているものだ。
私たちが所属する新聞部は、実はイラスト部と写真部が合併している。簡単に言えば、2つの部が合わさって新聞部になっているのだ。
そんな新聞部で、私たちは毎月この学校の最新の情報や面白いネタを一枚の紙にまとめて、この学校の情報やスクープネタなどをそのまま「学級新聞」として毎月各教室や廊下等に掲示させてもらっている。
学級新聞の大まかな内容としては、個性豊かな生徒たちへのインタビューだったり、様々な写真だったり、真面目なお便りだったり、学校近辺の些細なニュースだったり、イラストだったり、4コマだったりと、なかなかカラフルに趣向を凝らしており、何度読んでも飽きの来ないような記事に仕上がっている。……はず。
「そろそろ締め日だけど、燕はネタとか当てあんの?」
「えっ、もうそんな経つっけ?」
「うん。もう残り10日切ってるかんね」
新聞部で制作している学級新聞は、毎月25日までに新聞部の顧問の先生に提出しなければならない。そのことを踏まえたうえで、今日の日付を思い出してみるとする。
――9月16日。提出期限まで、今日を含めて残りジャスト10日。
大体いつも学級新聞を制作するのにネタ集め等含め平均2週間ぐらいは費やすことを考えると、事の深刻さがよくわかっていただけることだと思う。
「嘘……死にたい」
「気持ちはわかるけどさ!」
学級新聞は主に、イラスト部の人がデザインを、写真部の人が写真と取材を、そして新聞部がそれらをまとめて、記事にする。それぞれの役割分担によって、織り成っているのだけれど……。
イラスト担当の人も、写真担当の人も、みんなもう三年生。受験勉強等も重なって、学級新聞制作への進捗が滞ってしまっている状況にあるのだ。
私と桜ちゃんは二年生なわけだけど、所属的にはイラスト部にも写真部にも属さない、純正なる新聞部。記事をまとめる係。
私たちは、2人そろってイラストだってあまり得意ではないし、カメラの扱いだってボタン押せば写真が撮れる程度の知識量。イラスト部や写真部の先輩方に、勝るものなど何もなく。
先輩方が記事にできそうなネタを拾ってきてくれないと、何もできない状態にあった。
「で? 結局来月分のネタどうすんの」
「桜ちゃんのスリーサイズ」
「いや、マジ話な方向で」
「う~ん……」
先程も言ったように、私と桜ちゃんを除いて部員は皆受験生。将来の進路や就職先を躍起になって探し、挑んでいる時期。
これらのことからでもわかるとおり、新聞部は軽く廃部の危機にある。
この危機的状況を、他の部員の人たちの責任であり私は全く関係ない、などと突っぱねることができたらどんなに楽だったろうか。
学業に忙しい先輩方の代わりを私たちが担わなくてどうするんだ。創部以来、毎月欠かすことなく掲載してきた学級新聞。歴代の先輩方の努力を水の泡にするような真似、絶対にしてなるものか。そう自分に言い聞かせ、ない知恵絞って必死に良い案を考える。
「桜ちゃんはなにか案ある?」
「案ねぇ……」
私と同様に、桜ちゃんもうんうんと唸って思考を巡らせる。
「……案ってほどでもないけどさ、やっぱ私たちでも取材ぐらいはできるわけじゃん? 先輩たちにばっか任せてらんないし、私らも動くべきだと思うんだよね」
「取材かぁ……うん、そうだよね。私たちがやらなくちゃ、だよね」
取材なんて一度もやったことないけれど、四の五の言ってる場合じゃない。
それによく考えると、いずれにしろ来年度になれば先輩たちは皆卒業。新入部員が入ればいいけど、最悪の場合私たち二人だけで新聞部を回していかなくちゃいけなくなるかもしれない。そうなると、今回のピンチも良い経験になるのではないかと思う。何事も経験。できないからってチャレンジしなければ、絶対に今後もできないままだ。
「その意気その意気。私たちで先輩たちをあっと驚かすような素晴らしい記事作って、先輩たちを安心さしたろうじゃない?」
「……だね!」
桜ちゃんの言うとおりだ。
ここで私たち二人だけでもきちんとこなせることを先輩たちに知ってもらえれば、安心して卒業してもらえる。
私たちの腕の見せどころだ。
「でさ、燕。私思ったんだけど、先月転校してきた鳴沢くんとかさ、あと、エメリィーヌって子。あの子も結構いいネタ提供してくれそうじゃない? まだちゃんと記事にしてなかったよね?」
「たしかに取材価値はあるとは思うけど……でもほら……山空くんがいるから……」
「あぁ、あの不良か……」
桜ちゃんの目の付け所は悪くない。
先月転校してきた、同じクラスの鳴沢 恭平くん。第一印象は、凄くクールで、かっこいい男の子。
銀髪なのも珍しいし、転校生だし、ネタとしては十分に取材しがいがある人材だ。
それと、エメリィーヌちゃん。
あの子は凄く可愛い子で、お人形さんみたいに綺麗な顔立ちをしていて、金髪で喋り方もちょっとおかしなところがあるから日本人じゃないのだと思うけど、とにかく良い子だ。この高校の生徒じゃないから取材対象になるのかは怪しい所だけど……でも取材する価値は十分にあると思う。
それにもう一人。
鳴沢恭平くんと一緒に転校してきた、一年生の女の子もいる。確か名前は……白河 雪ちゃんだったっけ。よく空き時間にこのクラスに遊びに来ているのを見かける。
……でも、その三人。変な共通点がある。
鳴沢恭平くんと、白河雪ちゃんと、エメリィーヌちゃん。
この三人は、どうやら不良の山空 海くんと知り合いの人みたいらしいのだ。
エメリィーヌちゃんに至っては山空くんの妹って聞いたし(多分義理の妹かなんかだと思う)、白河雪ちゃんも山空くんの彼女さんみたい。わからないけど、行動は恋人同士のそれだ。
山空くんは顔が怖いし、いつもむすーっとしてて、担任の西崎先生にも喧嘩腰で話してたし……正直あまりかかわりたくない。ずっと前の話になるけど、たしか何かの用事で山空くんに話しかけた時も、物凄く睨まれてとても怖かった覚えがある。
だから、誰でもそうだとは思うけどやっぱり不良の人にはあまり近寄りたくないし、その山空くんの知り合いである三人に取材するのも、後々山空くんに怒られたりするんじゃないかと思うと恐ろしい。
勝手な偏見だけど、不良の人って、結構理不尽なことで怒るイメージがあるから。
「たしかに……不良に近寄るのはちょっとアレだよね……」
「うん、怖い……かな」
「でもそれってあんたが理想としている委員長像としてどうなん? 大げさな話、差別ってことになるんじゃない?」
「そうなんだけどさ……。でも、背に腹は変えられないっていうか……、我が身が一番可愛いってやつ、かな。なんか変な言い方になっちゃうけどね」
委員長としては、たとえ相手が不良でも他の生徒と同様に接するのが理想なんだろうけど……。
私がなにかやっちゃって機嫌を悪くさせちゃったりしたらと考えると、山空くんに近寄るのは遠慮したい。下手な事して目をつけられたりしたらたまったものじゃないし、なにもそんな危険を冒してまで理想の委員長像を目指さなくてもいいんじゃないかって思う。
「たしかにね……。特に燕なんかは気を付けないといつか食べられちゃうかもだし」
「た、食べるって?」
「そのままの意味に決まってるじゃない。どうせ不良なんてサボることと喧嘩とエロしか頭にないんだから」
「で、でも私、可愛くないし」
「いい? 燕。不良ってのはね、女なら誰だって構わない、そんな生き物なのよ」
そんな名言風に言わなくても!
というか……。
「可愛くないって所は否定してくれないんだね……」
「嫌味にしか聞こえなくてつい無視しちゃった」
「あ……なんかごめんね」
「そこで謝られるともう嫌味じゃなくて虐めの領域になるけどそれでもいい?」
「じゃあ私どうするのが正解だったの!?」
私が大声を出したことで、教室にいたみんながこっちを見てくる。
いけないいけない、私は委員長。いつでもどこでも、清く正しく美しくあれ。それが私の、理想の委員長像だ。学級委員長として、みんなに注意をしなければいけない立場。私がちゃんと出来ていないのに相手に注意しようなんておこがましいから、私はこの理想像を崩すことはできない。何度も言うように教室の中で大声を出すなんて、委員長としてあるまじき行為である。気をつけなければ。
「ほんと燕って面白いよね」
「面白い? 私が?」
「うん。ちょー面白い」
言葉の通り、桜ちゃんはとても楽しそうだった。
つまらなそうにしているよりは良いことなので別にかまわないけど、一体私の何がそんなに面白かったのかだけは気になる。
「でさ、燕。話戻すけど、実際のところ他に記事のネタなくない?」
「う~ん……そうなんだよね」
ネタがなければ学級新聞は作れない。それに来年度の――未来の私たちのためにも、新入部員が入るよう、読んだ人が思わず目を見張るようなインパクトのある記事にしたほうが良いだろう。
部としてやっていけなくなり廃部になってしまう……なんてことにならないためにも、もっと先輩たちにも引けを取らないぐらい優秀な部員を集めるんだ。イラストが得意で、写真も上手で、取材力がある人材を……オールマイティーじゃなくても、どれか一つでもこなせる人を何人か見つけて、入部してもらうしかない。そのためにはもっとこの新聞部をうまいこと宣伝しなくちゃ。
「……っと、ごめん桜ちゃん、ちょっとお手洗い行ってくるね?」
「あ、うん。私もちょっと職員室に用事あるから、ちょっと行ってくる」
「うん、わかった」
何かに集中したい時。何かから逃げだしたい時。息抜きをしたい時。じっくり考え込みたい時。
よく頼みごとをされる私が自分のことに集中できる場所というのは、自宅でも学校でも、トイレぐらいしかなかった。
委員長としても、新聞部としても、ここ最近は忙しいことばかり。寝て起きても疲れが体から抜けることもあまりなくなってきていて、思いのほか私は疲労困憊だ。
私だって本当は、周りの人みたいに髪を染めたり、つけ爪とかしてみたり、化粧とかで自分を飾ってみたい。でも、委員長っていうのはいつも一生懸命、真面目を演じていないといけない。
勉強だって、平均点以上は常にキープしていないとダメだし、遅刻はできないし、ハメも外せない。
「ふぅ……」
女子トイレの一番奥の個室に入り、腰掛ける。さすが洋式トイレ。座り心地はなかなかのものだ。と言っても特に催していたわけでもないため本当にただ便座の上に座っただけだけど。
……やはり、落ち着く。
誰に何を頼まれるわけでも、気を使って真面目ぶったりしなくてもいいこの空間が、ものすごく居心地がいい。友達と会話に花を咲かせている時間とはまた違った心地よさが、この場所にはあった。
「山空くん……か」
先ほどの桜ちゃんとの会話を思い出し、私は呟いた。
ネタにするなら、確かに彼やその周りの人達が一番記事にしやすい。
鳴沢くんはカッコイイし、白河さんは普段を見るにとても元気で、取材なんかもちゃんと応じてくれそうだ。エメリィーヌちゃんだって、今はもうクラスのマスコットみたいな感覚だし……。
でも山空くん。
彼だけは、まったくもっていい結果が望めそうにない。
目立つことが嫌いそうだし、転校生の二人やエメリィーヌちゃんが来る前までは、いつも一人で怖い顔してたし。
今はまぁ、昔と違って多少は表情豊かになってきたのかなとは感じるけど、でも相変わらず授業中はむすっとしてるし、目に入るもの全てを鬱陶しく思ってるような、そんな雰囲気を放っている。正直、なんでそんなにつまらなそうにしているのかが理解できない。
私だって、今みたいに疲れからトイレに逃げてきちゃうこともあるけど、基本的には学校生活は楽しい。
友達と話している時も、頼られてる時も、どんな時でも、自由にできることは少ないけど……それでも充実していると言い切れる。
こんなこと言いたくはないけれど、山空くん一人が威圧感を放ったり、暗い雰囲気を作ってたりすると、クラス全員のテンションも釣られて沈んでしまうのだ。あの殺伐とした空気、私はすごく苦手。
「はぁ……きっとああいう人のことを問題児って言うんだろうなぁ」
何はともあれ、私が関わることもあまりないだろう。でもまぁ、一応記事のネタ候補としては入れておくことにするけど。あくまでも本当にネタに困ったときだけ、保険として考えておくだけだ。できればその保険を使わなくて済むように、頑張らなくちゃ。
「……はぁ! よしっ、今日も頑張ろー!」
息を強く吐き、やってやるぜと気合を込める。これが私の日課。
芳香剤のバラの香りが、私の疲れを取ってくれる。そんな気がするのだ。
元気いっぱいに立ち上がり、私は外に出ようとドア手を伸ばす。
――その瞬間だった。
私の手が触れるよりも前に、ひとりでにドアが開かれた。
その時になってようやく、自分が鍵を閉め忘れていたことに気づく。
だけど、まぁ、用を足している途中なら焦ったかもだけど、別に下着を下ろしているわけでもないし、そもそもここは女子トイレ。覗かれたところで相手は女子なんだからさほど気にする必要はないだろう……と、自分に言い聞かせるも、内心穏やかではなかったり。
……いや、嘘、ちょっと待って。
これって、どういうこと……?
「や、山空……くん……!?」
開ききったドアの前に立っていたのは、先ほどずっと私の思考の中にいた、彼だった。
ゆらりと体を揺らしながら、ただ無言で私の前に立つ山空くん。
フラフラとした足取りで、一歩ずつ確実に私の方に歩み寄ってきていた。
「な、ちょ、ちょっと……!!」
私も思わず、少しずつ後ずさる。
それに合わせるように、山空くんもまた一歩ずつ近くにきて……。
「ここ、じょ、女子トイレ……!」
様子がおかしい。
理由はわからないけど、なにか、いつもと雰囲気が違う気がする。
よくわからないけど、なんだか、怖い。
「なんで……ねぇ……!」
ここはトイレの個室。後ろに下がれるほどのスペースもあまりなく、すぐに後ろの便座に足が当たり、バランスを崩す。なし崩し的に便座に座らせられた。
自分がどんな表情をしていたのかはわからないけど、この時確実に青ざめていたであろう私に構う素振りすら見せず、彼はゆったりと私を見下ろすように佇みながら、トイレのドアを閉め、鍵をかけた。
「あ、あの、わたっ、私……!!」
疑問は尽きない。
なんで女子トイレなのに男子である彼がいるのかとか、悪口とも取れる私の独り言を聞かれてはいないだろうかとか、私はこれから……何をされるのだろう、とか。
先ほど桜ちゃんとしていた会話を、嫌でも思い出してしまう。『特に燕、アンタなんか気を付けないといつか食べられちゃうかもよ?』というあの言葉が、私の思考を恐怖心で満たすのにはそれほど時間はかからなかった。
ゆっくりと、彼の手が私のスカートに伸びる。
「やめ、やめてよ……!! お願い……っ!!」
気がつけば私は、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃに濡らしていた。それでも、それを拭う事まで気が回らない。
スカートを掴んだ彼の手を無我夢中で振り払うが、彼は突然私の上に覆いかぶさるように倒れこんでくる。
必死に押し返そうとしても、私の力が及ばず、彼はぴくりとも動いてくれなかった。
どうしてこんなことになってしまったのか。
私のなにがいけなかったのか。
怖い。怖くて、声が出ない。
なにかの間違いかも知れないと思いたかったけど、ここまで来たらもう誰でもわかる。
「ごめんなさい……私がなにかしちゃったのなら謝るから……」
私は、今。
「もうやめて……許してよぉ……!!」
――山空くんに、襲われているんだ。
第59.5話 その4
~燕返し~
「はぁ……はぁ……意気込んで走って登ってくるんじゃなかった……」
春風さんが所属している新聞部の部室を目指し、一階から五階までの階段を一気に駆け上ってきた私。最後の一段を登りきる頃には、膝は笑い、肩で息するような状態に陥っていた。
最初は一歩が大きくて足取りが軽いと思っていたこの体も、今では重たく苦しい身体と化してしまっている。さすが海兄ぃの身体。とてつもなく運動不足だ。
自分の身体との変化に戸惑いながらもあのアニメ声の人とその仲間たちに見つからないように注意してここまで進んできたが、それでも鉢合わせたりしなかったのは運が良かったのだと思う。
「えっと、たしか一番奥だったから……あの部屋か」
張り紙されていた部活勧誘のポスターを思い出しながらしばらく廊下を進んでいると、本当に一番奥の、人目につかなそうな突き当たりに目的の部屋はあった。部屋の入り口のところに『第三視聴覚室』と書いてあるところから見ても、新聞部の部室はあそこで間違いないだろう。
海兄ぃの姿で女子トイレに入ってしまい、春風さんがトイレしているのを覗く形になってしまった私。その誤解を解くために、知らない人と会話するための心に準備は出来ている。
人見知りだろうが、あがり症だろうが、モジモジして躊躇できる状況ではない。そんなことはわかってる。けれど、頭ではわかっていても、心臓はドクンドクンと大きな音を発し始めていた。
「すぅー……はぁー……。よし、落ち着け、私……」
新聞部の部室から少し離れたところで足を止め、その場で大きく深呼吸をして興奮気味な心臓の鼓動をなだめる。
目的の場所はすぐ目の前。そこに春風さんがいるかどうかはまだわからないが、もしいた時はもう逃げられない。いつもなら誰かに頼ることもできただろうが、今は私が何とかするしかない。絶対に誤解を解いてやる。否、解かなければいけないんだ。
大丈夫。私はやれば出来る子。いつも海兄ぃや秋兄ぃ達と話しているように、豪快で遠慮のない、いつもの私で行けばいい。
それに、今は見た目は海兄ぃ。変な言い方だけど、何かやらかしても悪く思われるのは私じゃない。だから多少おかしくても大丈夫。よし、自己催眠完了! 行こう!
緊張をほぐすために自分に言い聞かせる。そして、あがり症の私にとっては壮大に勇気のいる一歩を踏み出そうと右足を持ち上げる。
――ガラララッ!!
私がドアの前に向かおうとした瞬間、そのドアが音を立てて開かれた。反射的に、第三視聴覚室の隣にあった空き教室に身を隠す。
私が無我夢中で駆け込んだその教室は、机などの道具も一切なく、少しだけ埃っぽいことから完全に使われていない教室なのだと判断できた。おそらくまた新しい部活動ができたとき、こういう場所が部室になるのだろう。
そんなことよりも、今は春風さんの事だ。
新聞部の部室のドアが開かれたということは、部室内に誰かがいるという証拠。
今顔を出したら見つかってしまう危険があるためここで耳を澄ませることしかできないが、どうにか春風さんに関する情報だけでも入手できたら……。
顔も声も知らないから判断材料不足だけど、ここに隠れていれば話声も聞こえるし有力な何かを得られるかもしれない。せめて春風さんが部室にいるのかどうかがわからないと、謝ろうにも謝りに行けないし。
だから私は息を殺して、第三視聴覚室――新聞部の部室から出てきた人の声を待つ。
盗み聞きになってしまうけど、慎重に行くに越したことはない。もし焦って飛び出して謝る相手を間違えて誤解を余計ひどくさせたりした日には、私は海兄ぃに合わせる顔がないし春風さんにも申し訳が立たない。それゆえに、失礼を承知で聞き耳を立てるしかないのだ。
私が息を潜めることほんの数秒、持久戦になるかと思っていたが、意外と早くその人物は喋り始めた。……の、だが。
『いい? 燕。あの変態野郎が来たらすぐに叫ぶのよ? わかった?』
完全にアニメ声の子です。本当にありがとうございました。
いやぁ、隠れて良かった!! 勢いに任せて突入しなくてホント良かった!! 死線をかいくぐった気分だよ今!!
もしあの時咄嗟に隠れないで、ご対面を果たしてしまっていたら。そう考えるだけで、嫌な寒気が体全体を駆け巡った。
「はぁ……危なかった……」
大きな奇跡に感謝をしながら、私は再び息を殺す。
見つかったら終わる。殺される。そんな気がしてならない。
敵に見つからないように隠れながら、会話を盗み見る。今の気分はさながらメ○ルギアだ。
『う、うん……早く戻ってきてね! 絶対だよ……!?』
アニメ声の人とは違う、もう一人の女性の声。その声は震えていた。
この人がきっと、私が覗きをしてしまった相手である委員長の春風燕さんなのだろう。
出来ることなら姿を確認しておきたいけど、アニメ声の人がいる以上顔は出せないし……。
『大丈夫。ちょっとトイレ行くついでにこの辺にアイツがいないか見てくるだけだから』
先ほど私を問い詰める時の剣幕など微塵も感じられない、優しいトーンで話すアニメ声の人。そんな彼女から、良い情報を聞けた。
アニメ声の人はトイレらしいから、少なくとも2~3分は戻ってこないだろう。それだけ時間があれば、十分に私の気持ちを春風さんに伝えられるはずだ。
『で、でも、私一人になっちゃうし……!!』
アニメ声の人と引き換え、春風さんはすごく不安そうだ。
やはり私が想像していた通り、春風さんは誤解を大きく間に受けてしまっている様子。一人になることさえ不安に思うくらいには、参っているようだった。
まぁ、それも仕方のないことだろう。
だって不良顔の人が寝ながら襲って来るんだよ? いくら話しかけても無反応でただひたすら歩み寄ってくるとか、想像しただけでも得体の知れない怖さを感じるよ。
恭兄ぃの道具の効果で意識がなかったとは言え、本当にごめんなさい、春風さん。
『だから大丈夫だって。アイツもあれだけ騒ぎになった後で節操なくここまで来るなんてことないだろうしさ』
ごめんなさい来てます。
『そういうこと言ってるときに限ってくるんだって! えーっと、ほら、ふらぐ、っていうヤツだよ!』
『ふふっ、安心して燕。どんなに遅くなっても、5分以内に戻ってくるから』
『言ってるそばからそれ死んじゃうヤツじゃん!!』
『ははは、それだけ元気なら大丈夫そうね。じゃあ、私行くから。燕はアイツの一面記事を書いて告発してやんな』
そう言って、アニメ声の人の足音がその場を離れてどんどん小さくなっていく。
そして、その足音と反比例するかのごとく、事態はどんどん大きくなってきている気がした。
告発って……。一面記事って……。
私が少しでもミスしたら学級新聞上で指名手配される。だけど、何もしなくても今のような逃亡劇の主人公状態が続くだけ。つまり私に残された道は、必ず春風さんとの誤解を解かねばならないということだ。
最初っから誤解は解くつもりでいたから別にいいんだけど……失敗できないというプレッシャーが、必要以上に私にのしかかってきているような気がする。許してもらえるかどうかじゃなくて、許してもらわなくちゃいけなくなってきているのだ。荷が重たい……。
……なんて落ち込んでいる場合じゃない。
アニメ声の人はもうトイレへと向かった。そして会話の内容から、部室にはいま春風さんが一人で残っている。つまり、謝罪するなら春風さんが一人の今が好奇。有無も言わさず突撃をしなければ……!!
よし、行け! 行けぇー! 私ぃー!!!
「あれ、先輩?」
「のっふぇい!?」
不意に話しかけられ、私は驚きのあまり変な反応をしてしまった。
もしやアニメ声の人やその取り巻きの人達に見つかったかと焦って振り向く。
だけど、そこには私がよく知る人物が立っていた。
「ユ、ユキちゃん!? なんでここに……」
白河 雪。年上だけど私の友達の一人。
一見元気ハツラツとした明るい子なんだけど、大好きな海兄ぃのことで悩んじゃったりもして、女の私から見でもすごく女の子らしい可愛い人だと思う。
髪型の二つ縛りのおさげのせいで幼く見えるが、顔立ちは意外と大人っぽいため、子供っぽいのを気にしている私には少しだけ嫉妬の対象でもあったりして。なーんてね。
「せ、先輩!? い、いま……ゆ、ゆゆゆ、“ユキちゃん”って!! 先輩今ユキのこと“ユキちゃん”って言いましたですか!? 今、ユキのこと、“ユキちゃん”って!! とうとうユキの秘めたるの子猫級の可愛さに気づいたんですね!? 幸せの絶頂です!」
両手を合わせピョンピョンとはねながら、目を輝かせて鼻息を荒くしているユキちゃん。その姿は子猫というよりはうさぎにそっくりに思えた。
……じゃなくて、やらかしてしまった! ついいつものクセで「ユキちゃん」と呼んでしまったけど、海兄ぃはそのまま「ユキ」って呼び捨てにするんだった!!
ユキちゃんは海兄ぃのことが好きなんだ。それも、すごく本気で。そんなユキちゃんに、海兄ぃの姿と声で「ユキちゃん」などと呼んでしまえば、普段とのギャップに彼女が喜ぶことなど少し考えれば分かることだったのに。
こういうユキちゃんが喜ぶような言葉は、海兄ぃ自身が自分で考えて自分の言葉でユキちゃんに伝えないと意味がないと思うから、ユキちゃんには変な糠喜びをさせてしうまうことになるけど致し方がない。正直に謝ろう。
「ご、ごめん、ついうっかりしてた! 今のは忘れてくれ! ホント、申し訳ないんだけど……今のは無かったことにして!」
本当にごめんねユキちゃん……!! 私、ユキちゃんがどれだけ鈍感な海兄ぃのことで悩んでるのか知ってるのに期待を持たせるようなこと言って!! 本当にごめんね!!
「なかったことにできません! いただきましたよ先輩のちゃん付け! これだけでご飯三杯はスルスルいけますです!」
「そんなお茶漬けみたいな!」
キャッキャとはしゃいでいるユキちゃんを見るのがとてもツラい。ツラすぎて仕方がないから、もう話をそらすしかないだろう。
「ユ、ユキ。そんなことよりなんでここにいるんだ?」
あははと苦笑いをして先ほどのミスを濁しながら、私は気になったことを聞いてみることに。
秋兄ぃたちの時と同じく、ユキちゃんのことを呼び捨てで呼ぶのにはちょっと慣れそうにないけど、海兄ぃの口調である男言葉には結構慣れてきている自分がいた。
「むーっ、先輩ってばなんでまた呼び捨てに戻しちゃうんですか! 俺様系のつもりですか!? そんな先輩も素敵なのでユキは一向にかまわんですよ!」
なんか勝手に納得してくれたのですごく助かった。
「……で、なんでしたっけ? あ、そうそう。ユキがここにいる理由、ですよね。いやー、それが聞いてくださいです。ユキって夏休み明けに転入してきたじゃないですか」
たしかに、もう長いこと一緒にいるような気がするけど、実際はまだ出会ってから2ヶ月経ったかどうがぐらいの時間なんだよね。
それでもここまで仲良くなれるのだ。それは、ユキちゃんの人柄のおかげに他ならないだろう。
「それで、ユキのクラスの担任の先生がですね、『クラスに馴染めてきたようだしそろそろ部活に入りなさい』とか言い出しまして……とりあえずこの空き時間を利用して私に合った部活動を探しているところだったんですよ」
正直どこも入りたくないんですけどね……と、ユキちゃんは物憂げな表情を浮かべる。
しかし、その後直ぐに元気を取り戻し、
「けど先輩のいる部活なら入りたいです! 先輩は何部にご所属済みなんですか?」
と期待の眼差しを向けてきた。
楽しげに「先輩ならどんな部活でも似合いそうですね」と一人で盛り上がっているユキちゃんには悪いけど、海兄ぃが何部に入っているのかとか、そんなの私が知るわけがない。というかそもそも、海兄ぃが部活に入っているかどうかすら怪しい。
そういえば秋兄ぃも、一緒に暮らしてて部活で遅くなったとかは一度もない。
おそらくだけど、二人共たぶん帰宅部なのだと思う。
なにはともあれ、わからないことはいくら考えてもわからない。だから、ここは適当にごまかしておくに限るだろう。
「俺はあれだよ。帰宅部」
大方間違いないだろうと思いながら、ユキちゃんに教える。
「え? ですけどユキは必ず部活動に入ってなきゃダメだって聞いてたんですけど……」
「え? そうなの?」
そんなの初耳なんですけど。
「はい。たしか編入手続きをした時もこの学校の校長先生からそういう話をお伺いしましたですのでまず間違いないかと思いますです」
ユキちゃんがこの状況で嘘を言うこともないだろう。
つまり、私が知らないだけで海兄ぃや秋兄ぃは部活に所属していた……?
二人のことならなんでも知っている気がしていたけど、どうにもそんなことはないらしく、なんだか私だけ仲間はずれにされた気がして面白くない。
「ゆ、ユキは何かやりたいこととかないのか?」
私が知らないことを、これ以上問い詰められたらいずれボロが出てしまう。別にユキちゃんになら《入れ替わり》がバレても問題ないといえば問題ないのだけれど、私から海兄ぃに「入れ替わっていることを周りに気づかれないようにして」とお願いしておいて、こちらが先にそれを裏切るのもどうかと思うので、誤魔化す方向で話を進めておくことにした。
それに、正直なところ恭兄ぃへの不安と同じ不安が、多少なりともユキちゃんにもある。
もし目の前の海兄ぃが海兄ぃでないと知ったら、『琴音っち! 先輩の声で「ユキ大好きだぜ!」って言ってもらえませんですか!?』などとオモチャにされる可能性がなくはない。もしかしたらそれ以上のことも強要されるかもわからない。
英語のテストを変わってもらうという目的がなくなった以上は私だって一刻も早く元に戻りたいので、ユキちゃんには悪いけどそんな妙な遊びに付き合っている時間はないのだ。だから私は海兄ぃを演じ続ける。単純に説明するのもめんどくさいっていうのもあるけど。
「ユキのやりたいこと……ですか。そうですね、ユキは先輩と一緒にいたいです! それ以外にやりたいことなんてありませんです!」
なにこの可愛い生き物。不覚にもドキッとしてしまった。
こんなに一生懸命、女の私でも心を揺さぶられるぐらいに想ってくれているのに、海兄ぃはなんであんな対応をするのか私には不思議でならない。どんだけ奥手なんだよ海兄ぃのヤツ。
「――って! やばっ、春風さんのところ行くんだった!!」
「……春風さん? お友達ですか?」
ユキちゃんとの会話でもう数分が経過してしまっていた。そろそろトイレついでに見回りにでかけたアニメ声の人が戻ってくる頃だ。
春風さんが一人の今が千載一遇のチャンスなんだ。こうしちゃいられない。申し訳ないけど、ちょっと強引には会話を中断するしかない。
「ごめんユキ! ちょっと俺行くところあるから!! ホントごめんね!!」
何回か大きく頭を下げて断りを入れると、私はすぐにその場から飛び出し春風さんのいるであろう第三視聴覚室のドアの前に立った。
これからする私の言葉や行動が、海兄ぃや春風さんの学校生活にめちゃくちゃ関わってくると考えただけで、心臓の鼓動が騒がしい。
「ちょ、先輩? そこ新聞部……ですよね? あ、もしかして春風さんって新聞部の方ですか? たしか部活勧誘の張り紙に名前書いてあった気が……」
考え込むユキちゃんに構わず、私は意を決してそのドアを三回ほどノックする。
ユキちゃんが見てる前で多少やりづらいが、ユキちゃんにどっかいってもらうように説得している時間さえも今は惜しい。アニメ声の人がトイレから帰ってくる前に、すべてを終わりにしないといけないのだ。
『は、はい? どなたですか……?』
ドアの向こうから弱々しい声が返事を返した。
さっきのアニメ声の人とのやり取りでもわかってたことだけど、春風さんは相当怯えているらしい。下手な事を言って余計に警戒されてしまったら、それこそ説得のしようがない。
それに、もしこれ以上怖がらせて悲鳴をあげられたら、きっとそれを聞いたアニメ声の人が駆けつけてきて私は捕まり人生が終わりを告げてしまう。そうなると私的にも海兄ぃ的にも終了だ。慎重に言葉を選んで話だけでも聞いてもらえる状態を維持しないと、謝るに謝れない。
だからここは、問答無用で悲鳴をあげられないように会話を試みよう。相手を怖がらせない……話を聞いてもらえるような第一声。
そんなの、これしかない。
「ごめんなさい!!」
私はその場で、頭を下げた。
『――ッ!!』
ドアの向こうから、かすかに息を飲む音が聞こえる。
「えっと……せ、先輩? あの、よくわからないですけど……ワケアリみたいですし、ユキはどっかいってますですね。頑張ってくださいね、先輩」
状況が分からず戸惑っているらしいユキちゃんだったが、そんな様子を表に出さず私に微笑みかける。そして、私に気をきかせて直ぐにその場を離れていった。
まったく、海兄ぃにはもったいないぐらいシッカリしている。ユキちゃんに応援されて、純粋に、元気が出た。
さてと、ユキちゃんのおかげでこっちに集中できるわけだし……気を引き締めますかっ。
「春風さん、だよね? 怖い思いさせてホント、ごめん」
『…………』
春風さんは、無言のまま答えない。
ドア越しでもわかるぐらい警戒されているのが伝わってきて、心がズキズキと痛む。
「俺……その、山空海、だけど……このまま、ドア越しでいいから、春風さんさえよければその……話を聞いて欲しい」
普段人と話し慣れていない分、言葉一つ一つを選ぶのにいちいち時間がかかってしまう。そんな自分の言葉が、自分でもどかしい。
でも、伝えなくちゃいけない。いくら人と話すのが苦手でも、逃げちゃいけないところぐらいはわきまえているつもりだ。
だけど、頭ではわかっていても、他人と対峙しているというだけでも緊張で喉の奥が乾いてどうしようもなくて、海兄ぃを演じるとか、そういう事を考える余裕がなくなってきてしまっていた。
『……なんですか……?』
春風さんは基本的に素直な人なのだろう。相手が自分に怖い思いをさせた人物でも、話を聞こうとしてくれている。それが彼女がみんなから慕われる理由の一つであり、委員長としての技量なのだと思う。素直さだけで言えば、ユキちゃんと似たような雰囲気を感じる。
同時に、こんなに真面目な人に怖い思いをさせてしまった自分が、ものすごく情けなく思えてくる。今の私にできることは、その気持ちを言葉に宿して、春風さんの恐怖を取り除いてあげること。そしてもう一つ、海兄ぃのことを許してもらうことだ。
今回のは私のミスで海兄ぃは関係ないんだから、春風さんには、本当は海兄ぃは覗きをする人じゃないんだってことを知ってもらい、許しを得ないと、ちゃんと責任を取ったとは言い難いもんね。
終着地点は、春風さんと海兄ぃが普段通りに接することができる状態。それが理想だ。
「こんなこと言ったら気を悪くさせちゃうだけかもしれないけど……覗くつもりじゃなかったんだ。覗いてしまったのも、事故みたいなものだったんだ」
これは全部本当のことだ。私がただトイレを間違えただけ。ただそれだけのことだ。
でも、その“ただ間違えただけ”のことで春風さんをここまで怯えさせてしまう形になってしまった。いくら悪気がなかったといっても、海兄ぃの身体であった私が女子トイレに入って、春風さんがいたトイレの個室のドアを確認もせずに開けてしまった(らしい)のは揺るぎない事実。単なる事故では済まされないことだ。
「だから……」
『“だから”……なんなんですか……?』
ピリリ、と、空気が張り詰める。
怯えていただけの春風さんが、私の言葉に不快感を覚えたのがドアを隔てていても伝わってきた。
私の対人スキルのなさが完全に裏目に出てしまった。ただ私は春風さんに「わざとじゃないから、もう絶対にしないから心配しないで欲しい」ということが伝えたかっただけなのに、煮え切らない言い回しのせいで自己弁護したと受け取られてしまったのかもしれない。
「えっと、だからその……!! 俺は悪気があったわけじゃなくて! 間違えたというか……だからもう二度としないから、春風さんに安心して欲しくて……!!」
慌てて弁解しようとするけど、喋れば喋るほど自分勝手な言い訳にしか聞こえない。
違うんだよ、私はこんなことが言いたいんじゃなくて、ただ謝りたいだけなのに……!!
『――っていうんですか』
儚げに震える声を、春風さんが口にする。
言葉が厚いドアに遮断されてよく聞き取れなかったけど、もしかしなくても……怒ってる、よね。
『だからなんだって言うんですか……!!』
そんな私の不安は的中しており、春風さんは我慢をしきれずに怒りの声を私にぶつける。その言葉一つ一つに、怒りと、悲しみと、その時の恐怖心がこもっている。
『……男性である山空くんが、間違えて女子トイレに入って、間違えて私のいるトイレのドアを開けたって言うんですか……? それで私に攻め寄ってきて、抱きついてきて……やめてくださいって頼んでもやめてくれなかったのも事故で! 偶然! たまたま! 間違えてやってしまったって言うんですかッ!?』
予想以上に罪を犯していた。
攻め寄って抱きついて、やめてって言われてもやめなかったんだ私。これはあれだ、もう無理かもしれない。私の思っている以上に心の傷が深すぎた。
……でも、それなら尚の事誤解を解いてあげないと。じゃないとこんなの、トラウマじゃすまないよ!
「本当にごめんなさい!!! 本当に……ごめんなさい!!!」
『口では何とでも言えるよ!』
事の大きさに完全に混乱してしまいただ謝ることしかできなかった私の謝罪を、春風さんはスパッとなぎ払った。
『私怖かったんだよ……? すごく怖かった……。今でも思い出すと手が震えて、収まらなくて……』
「…………」
何も言えない。言葉が、見つからない。
春風さんが負った心の傷は、予想以上に深かった。そんな彼女の前にいくら謝罪の言葉を並べたところで、その傷を癒さない限り根本的な解決にはならない。
『自意識過剰だって思われてもいい……!! 私はあの時、あなたに襲われた!! 山空くんは軽い気持ちだったのかもしれないし……もしかしたら、私のこと嫌いだったのかもしれない……でも、だからってあんな……』
「だからそれは……!!」
『もう言い訳なんて聞きたくないよ!! 私がどれだけ……!!』
どうしよう、どうすれば、春風さんはわかってくれるのだろう。私にはわからない。他人がどう感じて、どう考えるかなんて、わかるわけがなかった。
謝りたいのに、誤解を解きたいのに、相手がそれを根本から拒んでいる。私には、どうすることもできなかった。
「本当に……ごめん……」
何も言い返せなくて、この言葉しか出てこなかった。
なんて言えばいいんだろう。こんなに怯えて、怖がっている人に、なんて声をかければその気持ちをなくすことができるんだろう。
『……私、アナタのこと、信用できない……』
か細い声で、春風さんは私の言葉を切り捨てた。
甘かった。気持ちが伝われば、きっと誤解は解けるって思ってた。でも違った。私の言葉は、春風さんに届いてすらいなかったんだ。私と春風さん、ドア一枚を隔てて会話している、心の距離にも、同じように壁が隔てられていた。
春風さんと対等に話をするためには、まずはその心の壁から崩していかないとダメだ。じゃないと、私の言葉は全部戯言にしかならなくて、私の気持ちは春風さんの心には届かない。
――でも、どうすればいいんだろう。
心の壁、相手との距離。それをどうやって縮めるかなんて、私が一番知りたいことだっていうのに……。
――いったいどうすれば、信用してもらえるのだろう。
『本当に信用して欲しいって思ってるなら……嘘、つかないでよ……!!』
「え……?」
突然の春風さんの声に、私は驚いてしまった。
まるで心を見透かされたみたいに、私が悩んでいたことにヒントを与えてくれたのだ。……いや、心を読まれた、なんてあるわけないのだけれど。偶然、にしては色々と違和感があるような気もする……。
……いや、それよりも、何が起こったのかわかからないけど今は春風さんに気持ちを伝えるんだ。
でも、「嘘をつくな」ってどういうことなのだろう。
私は心の底から春風さんに謝りたいって思っているし、私がしてしまったことの重大さだって自覚しているつもりだ。私が春風さんに向けて言った言葉は、全く嘘偽りない私の気持ち。
だけど春風さんは、そんな私の言葉を「嘘」だと言っている。
嘘をついていないのに、嘘をつくな……?
――春風さんは、何を伝えたいんだろう……?
『何をって……もういい。もういいから帰ってよ!!』
「ま、また……!!」
今度は思いすごしじゃない。明らかに、私の思考を読み取っているような返答だ。
心を読める……? そんなわけあるはずない……。じゃあ、一体なんで……。
『さっきからブツブツ何言ってるの……!? 心がどうとか、意味わかんないよ!! もう帰って!』
また心を読んだ……? ……いや、違う!? うそっ、もしかして……。
――私、喋ってる……!?
『喋ってるって何が……!? 何が言いたいの!?』
思えば、かすかにだけれど、考え事をしているとき微かに口を無意識に動かしていたような気もする。
でも、そうなるとおかしい。
だって私は、『無意識のうちに考え事を喋っちゃう』なんて、そんな“海兄ぃみたいな癖”持ってないはずなのに……。
――“早く戻らないと大変なことになる”。
なぜか、カズっちゃんの伝言が脳裏をよぎった。
もしかしたら、私が“海兄ぃみたいな癖”をしてしまっていることに、何か関係があるのかもしれない。
ただの思い過ごしならいいけど、胃の中で何かが渦巻くような、そんな焦燥感が強くなっていた。
だけど、そんなものよりも、春風さんのことのほうが重要だ。
理由はわからないけど、私は無意識に喋ってしまっていたらしい。でも、そのおかげで、春風さんからヒントをもらえた。
嘘をつかない。それは、裏を返せば本音を言う、ということだ。
だが、さっきも言ったように私の言葉は、全部私の本心だ。けれど、それはどうやら違うらしい。
せっかく春風さんが親切に教えてくれたこのチャンス。この機を逃したら、きっともう春風さんと仲直りするタイミングは訪れなくなってしまうことだろう。
だから慎重に。精一杯考える。私は一体、どうすべきなのかを。
「……あ、そうか」
考え始めると、意外と早くその答えらしきものを見つけ出すことができた。
本音を伝えなければ、春風さんの心には届かない。じゃあ、そもそも本音が伝わる時はどういう時なのか。
そう思考を巡らせたときに、単純な答えに行き着いた。
「春風さん。ちゃんと謝りたいからさ……」
言葉だけじゃ、伝わらない。
目で、表情で、行動で、身体全体で言葉を届けるんだ。
目の前のこの厚いドアは、春風さんと私とを阻む壁そのもの。そんなものを隔てて会話しているうちは、本当の気持ちなんて伝わるはずがない。
怯えられようと、怖がられようと、面と向かって、土下座でもなんでもして、「悪かった」って伝えるんだ。だから。
「……悪いけど、ドア、開けるね」
――ガラリッ、と、春風さんの返事を待たずに私はドアを横にスライドさせた。
「――っ!?」
「わっ!?」
ドアを開けた瞬間、泣きはらして赤くなってしまったであろう目をした春風さんの顔が視界を覆う。
「わ、わっ……!!」
あまりに予想外のことで驚き、飛び退く私。しかしその反動でバランスを崩し、私は尻餅をついてしまう。
「いってて……」
腰をさすりながら、改めて少し上を見上げてみる。
そこにはやっぱり、何度見ても春風さんがいた。
この状況を考えれば考えるほどに、春風さんは私の言葉を、思っていたよりもすぐ近くで聞いてくれていたことになる。
ドアの向こうにいるのは自分を襲った相手。たとえドア越しだろうとなんだろうと、近寄りたくないと思うのが普通。そういう概念があったためか、春風さんの行動が理解できずにいた。
ドアに手を置いて、眉をひそめて警戒心を剥き出しにしながら私を見下ろす春風さんの目には涙が溜まっており、何度も拭ったのだろうと一目見て理解できるくらい赤くなっていた。
そんな彼女を見て、私は崩れた体制を立て直し正座すると、両手を床につける。そして、額を躊躇なく地面に密着させた。
一言で言えば、私は土下座をしたのだ。
「本当に、ごめんさない……!! 全部、私が悪いんだ……!!」
「あっ、いや……べ、別に土下座して欲しかったわけじゃなくて……!! というか、“私”って……?」
いきなり土下座しだした私をみて、うろたえ始める春風さん。
春風さんにとって、相手は覗きを行った悪徳不良。そんな奴がまさか土下座までするとは思わなかったのだろう。
でも、そのおかげで私の誠意もより伝わったはずだ。
たとえば普段土下座ばかりしている人の土下座には新鮮味も意外性もないから真に受け止めきれないかもしれないけど、プライドが高そうで普段土下座なんて絶対にしなさそうな見た目の奴が土下座したとなると、それを見た受け手のショックもなかなかに大きいもののはず。
その証拠に、春風さんは今戸惑っている。そしてそれは、突然のできごとに困惑し、私への警戒心が薄れている証明にもなった。
春風さんの気が緩んだ今が好機。誤解を解くんだ。うまく喋れなくてもいい、私の本音で。
「春風さん……ごめんね……!! 私のせいで、怖い思いさせちゃって……」
私は人と話すことだけで精一杯で、海兄ぃを演じるとか、どうにも出来そうになかった。
……でも、それでいいのかもしれない。だって、演じていながら出た言葉が、本当の意味での本音だなんて思えないから。
「や……山空、くん……?」
「いろいろ謝りたいことはあるんだけど……とにかくもう二度としないから!! 絶対だから!!」
『燕ーーー!!! 何かあったのーーー!?』
突然、バタバタと騒がしい足音が大きくなって近づいて来る。
騒がしくしていたせいで、アニメ声の人が異変を察知してしまったのだろうか。急いで戻ってきているのだろう。
「やばっ……!?」
慌てて、キョロキョロと辺りを見回してみる。
しかし、アニメ声の人の叫び声は聞こえるがその姿は見えなかった。
まだ見つかっていないことを知り安堵の息が漏れる。が、アニメ声の人はここに向かってきている。この調子だと見つかるのも時間の問題だ。
どうしよう!! まだ春風さんの誤解を解けきれていないっていうのに……!!
直ぐにこの場を離れたいけど、今を逃したら春風さんとの件は解決しないままになってしまう。見つかったらきっと私はタダじゃ済まされない。あのアニメ声の人の目は、マジギレした時の私のお母さんに匹敵するぐらいの鋭い目つきだった。半殺しですむかどうかが怪しいところだ。
うん、やっぱ誤解もときたいけど、海兄ぃの身体の安全の方が優先すべきだろう。適当なところに身を隠して、やり過ごすしかない……!!
私はすぐに立ち上がると、先ほどまで身を隠していた空き教室に隠れようと思いと走りだした。
……しかしそれよりも早く、私は左腕を誰かに引かれていた。
「山空くん!! こっち!!」
「へ!?」
春風さんは私の手を引っ張ると、新聞部の部室の奥の方にあるロッカーの中へと誘導した。
呆気にとられた私は、されるがままにロッカーの中へ押し込められる。
そしてそのロッカーの扉が春風さんの手で閉められたと同時に、話し声が聞こえ始めた。
『ど、どうしたの桜ちゃん』
『はぁはぁ……い、いや……なんかアンタが叫んでたみたいだったから急いできたんだけど……!! 大丈夫だった……!?』
ロッカー内は扉が閉まるとほとんど密閉で、上の方に換気穴が少し空いている程度。
扉の外は明るいはずなのに、この中はほぼ真っ暗で何も見えない。
幸い何もモノが入ってないのであまり窮屈ではないが、少しだけ蒸し暑かった。
そんなことよりも、あのアニメ声の人はどうやら桜さんという人らしい。
ロッカーの換気穴から少しだけ外の様子が見えるけど、なぜだかわからないが春風さんが私をかばうようにロッカーを背にして桜さんと話をしてくれているようだ。
私の謝罪が春風さんの心に届いたのか、はたまた私をここに閉じ込めて後々桜さんと二人で八つ裂きにする計画なのかはわからないけど、どっちにしろここに入ってしまった以上私は何もできない。春風さんの善心を信じて全てを委ねるしかなないのだ。
尿意に苛まれ、女子たちに追い掛け回されて、今度は閉じ込められている。
絶対に今日は、今後一生絶対に経験できないぐらいの濃い一日になるだろう。
そんなことを考えながら、私はジッと待ち続ける。
『え、えぇ~、わ、私叫んでたぁ~!?』
めちゃくちゃ棒読みだった。
私のことをかばってくれているみたいなのはとてもありがたいんだけど、春風さん嘘下手くそすぎる!
『え、何そのわざとらしいトボけ方。アンタふざけてんの?』
『ふ、ふざけてないよ~? 私は至って正常だよぉ~?』
『それが正常ならどんだけ面白いのよアンタ』
春風さんの大根役者っぷりに苦笑いを返しながらも、桜さんは春風さんを心配している様子だった。
私が感じた「鬼のようなアニメ声の人」という第一印象とは全く別の桜さん。これがきっと、本当の彼女の姿なのだろう。そしてそれは、覗きがどれだけ人を変えてしまうのかということも如実に物語っていた。
覗きヤバい。
『……あ! そういえば、山空くんっぽい人が向こうの方にビューンって走ってった気がするかも!』
さながら今思いつきましたみたいな演技力で、思いっきり嘘をついた春風さん。
『なにぃ!? あんの不良め……半殺しにしてやる!!』
客観的に見れば完全に取ってつけたようなホラだったが、桜さんは我を忘れて突っ走っていったようで、ドタドタと激しい足音は遠くの方へ向かっていずれ聞こえなくなった。
一人の友達のためにあれだけ怒れるなんて、いい人なんだなとのんきな感想を想っていると、静かに私が入っていたロッカーの扉が開く。
ロッカーの扉を開けながら、春風さんは小さく「もう大丈夫だよ」と私に囁いた。
春風さんのその反応……。もう私のことは許してくれているのだろうか、などと考えながら、私はゆっくりとロッカーから出た。
「あ、ありがとうございました……」
春風さんの優しさに不信感を覚えながらも、一応かばってくれたことのお礼を告げておく。
すると春風さんは、
「ううん、ただ私が山空くんに聞きたいことがあったから……」
と告げる。その顔は、少し険しい表情だった。
怯えているのとも、警戒しているのとも取れない、真剣な春風さん。
彼女は一体何を考えているのか。私をかばってまで聞きたかったことって……。
いくら思考をめぐらそうとも回答のかの字もみえない春風さんのその目をみて、私は思わず息を飲んだ。
「聞きたいことって……?」
「うん……えっと、変な子だって思わないで欲しいんだけど……それと、もし全然見当違いの的外れだったら気にしないで欲しいんだけど……」
妙に口ごもる春風さん。
聞きづらいことで言葉を選んでいるのかはわからないけど、わたわたと表情を崩しながら身振り手振りで私に話しかけてきている。
そして次の瞬間。そんな彼女から、思わぬ言葉が飛び出した。
「――キミ……山空くんじゃ、ないよね?」
「……え?」
第59.5話 その4 完
燕さん可愛い。(親バカ)