第59.5話 その2~すべてを水に流したい~
いつも通りに描いたのに挿絵がちょっと薄めにスキャンされてしまったのはきっと妖怪のせい。
下腹部あたりに違和感。この正体を、私は知っているようで知らないようで。
状況が状況だけに、今まで気づけなかったこの悩ましい切迫感にハッとなったときにはすでに、ほとんど限界が近づいているように思えた。
考えていなかった。
そうだ、《入れ替わり》という事は、こういう事が起こりうるという事なのだ。
私だけじゃない。
海兄ぃだって、私の身体だって、動物に備わっている生理現象だけはどう頑張ったって間髪入れずに襲ってくる。空気を読めなんて、意思を持たない生理現象に頼むのも無理な話だ。
どうしよう。ホントマジでどうしよう。
――多分だけど、トイレ行きたい。
なんとも言い表せないこの排尿への欲求。
どう頑張っても、どうあがいても。
この欲求からは逃れられない。
あ、やばい。漏れそう。
それが私の率直な感想だった。
まるで水風船がお腹一杯に詰まっているような、下腹部にそんな膨満感。確実に、これ以上我慢すると身体に悪いと言い切れるレベルだ。
が、しかし。
私には海兄ぃの身体でお手洗いに直行など膨大な恥じらいが邪魔をしてできるはずもない。男子トイレへ入ることだけでも躊躇するのに、男性の身体で排泄しようなどというのは土台無理な話だった。
好奇心はある。普段だったら経験なし得ないことをやってみたいという、いわゆる怖いもの見たさみたいな感情は確かにあった。
でも、それ以上に恥じらいが一回りも二回りも上回っているため、結果として今すぐ元の身体に戻りたい衝動に駆られる。
けれど、おそらくだがこの感覚の状態からすると、今さら元に戻るために頑張ったところで到底間に合いそうもなく、もはや覚悟を決めるしか道は残されていなかった。
そんな中。
『え? ごめん琴音。うまく聞き取れなかった。もう一度、言ってくれるか?』
などとイヤホン越しに宣う海兄ぃ。
完全に他人事めいた物言いに、つい怒鳴り声をあげたくなる。ただ、この状態で怒りを爆発させるとよからぬところも爆発しそうなので、保健室のシーツに染みを作らないためにも深呼吸をして心を落ち着かせた。
一体どうしようか。海兄ぃに問いかけたところでろくな案が出ないことなど理解しているつもりなのだが、切羽詰っている私は誰でもいいからとにかく誰かに縋りたい一心だった。
漏らして死ぬか漏らさないで死ぬかの究極の二択を、どんなものでもいいから三択にでも増えてくれれば万々歳。ただそれだけの想いで、私は海兄ぃに意見を求め続ける。自分自身で考えるのはもう放棄していた。
「トイレ……行きたい……!!」
心なしか、我慢のしすぎか腹部の痛みまで現れ始めた。
体調を崩しているわけでもないのに、嫌な汗が額を伝う。
何の拷問なんだこれは。恥ずかしいんだぞ、トイレに行きたいと披露するのって結構恥ずかしいんだぞ。
『はぁ? 琴音。もう一度、聞き取れるように大きな声で言ってくれないか?』
「えと……と……と」
『と? と、なんだ?』
「と……と……トイレ行きたい」
『と……たい? 飛び降り死体か?』
「怖いなっ!! 全然違うよ!!」
なんで伝わらないんだよ! 耳が悪いのかよ! 何回私にトイレ言わせれば気が済むんだよ! 勘弁してよ!
『ならちゃんと言葉にして下さい。今の俺には琴音の思考を読む能力はないのだから』
ウザい! ナンダコイツ!
なかなか理解してくれないので海兄ぃの耳の悪さを疑ったが、思えば今は海兄ぃは私の耳。自分の耳のことは自分が一番よく知っているわけで、当然悪いわけもなく、むしろ前に行った健康診断で計測した聴力はA判定だったぐらい良い。
つまるところいくら私が恥ずかしさで声が小さくなってしまっているとしても、聞き取れないほどの大きさというわけでないため、私の耳なら絶対に聞き取れているはずなのである。
要するに、そこから導き出される答えは……。
『さぁ、琴音。どんなに恥ずかしくても言葉にしてみましょう。さぁ、さぁ、今こそ発言するのです。『トイレに行きたい』と!!』
「聞こえてんじゃねーかぁ!!!!!」
やっぱり聞こえてたよ!! 案の定聞こえてたよ! そりゃそうだよ! だって私の聴力A判定だもん! これで聞こえてないんだったらS判定の超人連れてくるしかないよ! もしくはSS判定かSSS判定の人ね! って、今はそんな場合じゃないよバカ! 私のバカ!
「と、とにかく、私どうすればいいかな!?」
海兄ぃがビックリさせやがるから、その衝撃でちょっと漏れたかもわからない。もう膀胱の感覚が危険信号以外に無くなっていた。
我慢しすぎて、逆流して鼻から出てきそうなくらい、私は限界を超えていた。
そんな私は、藁にもすがる思いで海兄ぃに意見を求める。すでに私は考えることすらままならないくらい混乱していた。
『ちゃんと、手は洗ってくれよ?』
「ばっ、バッカヤロォォォ!!!!!」
何を考えているんだ海兄ぃは。おかげで人生で一番といってもいいくらいの大声で叫んでしまったではないか。
「い、いいのか!! 海兄ぃはそれでいいのか!! 恥ずかしさとかはないのか!!!」
私がこの身体でトイレに行くという事は、まぁ、その……ねぇ? そういう事になるわけで。興味ないと言えば嘘になるけど、別にそこまでして見たいものでも……って、何考えてるんだ私は! 別に見たくないよ! 微塵も見たくない!! ただ私とは違うだろうからちょっとだけ好奇心的なものがあるだけであって、それ以外の理由だったらまったくもって見たくないよ! それに小さい頃にお父さんのとか秋兄ぃのとか見たことありますし!! ……うわああああ思い出しちゃった! 消えろ! 消えてください!! ヤバいなんでかわからないけど泣きそう! 挫けそう!! 心折れそう!!
『いや、でも≪入れ替わり≫が起きた時点で一番最初に覚悟することだろ。漫画で読んだことあるぞ』
「この変態ぃぃ!!! こうなったら教室内で漏らしてやるぅぅ!!」
『そんな殺生なっ!』
自分でもわかるくらい、私はパニックを起こしていた。
どれもこれも、海兄ぃが他人事すぎるせいだ。
「はぁはぁ、ならこの状況どうするか考えて!! なるべく早く!!」
迫りくる尿意に身をよじらせながら、とりあえず覚悟を決めていざという時いつでも対応できるようにトイレへと足を進めようと立ち上がる。
しかし、大量の老廃物を蓄えたこの身体では、まるで生まれたての小鹿のようにヨタヨタと覚束ない千鳥足で歩くことしかできなかった。
もしもこのままトイレへと駆け込んで用を足すことになった場合、確実に海兄ぃの……その、アレを見ることになるわけで、覚悟を決めたとはいえやはり私は今一歩踏み切れそうになさそうだ。
あー、もう! なんで私ばっかりこんな目に合うんだ! いや、今回は私のせいだけど……でも私恭兄ぃの道具で恥ずかしい目にしかあってない気がする! というか道具に限らずここ最近恥ずかしい目にしかあってないような! 神様一生許さない!
『まぁ、考えるっつっても、ぶっちゃけ『元気で行ってらっしゃい』という言葉しかかけようがないのだが……』
そして海兄ぃのその妙な余裕はなんなんだ! 他の人に下半身部分見られるんだぞ! なんで恥ずかしくないんだ! あれか!? 自信があるのか!? 他人には負けないという密かな自身があるのか!? ほほう! そりゃあ是非拝んでおこう! って拝むかッ!
「あぁもう使えないなぁ!! なんで入れ替わる前に行っとかなかったのよ!!」
海兄ぃの危機感のなさに呆れた私は、保険室の扉に手をかけたところで足を止めた。
『いやそんなこと言われても、トイレ行こうとした時に≪入れ替わり≫が起こったんだもん。しょうがないじゃないのよ!』
「私の声で気持ち悪い女言葉使うなっ!!」
あぁ私が汚されていく……!! もう嫌だ! もうヤだよお母さん! もう元に戻りたいよ! だけどダメ……!! まだ英語のテスト終えてない……!! こうなったら意地でも良い点とってもらうんだから覚悟しなさい海兄ぃよろしくお願いします!!
……ってあれ? よくよく考えたらこれってもし私の身体もトイレ行きたくなったら海兄ぃに全部見られるってことじゃ……。
「あはは、ナニコレ詰んでるじゃん」
『ん? なんか言ったか?』
「んーん? なんでもな……ぃわけないだろおおお!!!! 嘘だああああああああ!!!」
『喜怒哀楽激しいなお前!?』
自分の声で変な言葉を言われたり、自分の顔で変な表情を作られたりすることだけでも恥ずかしすぎて死にそうなんだぞ。そんな私が全部見られたりなんかしたら……。
きっと恥ずかしさが暴走を始めて、顔が熱くなり血液が蒸発し血管が内部破裂してひでぶとか言いながら死んで行くに違いない。
そんな思いをするぐらいなら、今すぐにでも元に戻りたい。だけどそんな感情を当たり前のようにやっぱり邪魔をする英語のテストへの希望。
今ここで元に戻ったら、結局のところ英語漬けにされて死んだも同然。
つまり今の私には、英語で確実に死ぬか、来るかもしれない恥ずかしさで死ぬか二つに一つ。
だったら、確実に死ぬより生き残る可能性がある方法を選択するのが賢いやり方に決まっている。
やはり優先すべきは英語のテスト。元に戻るのはそのあとからでも遅くはないはずだ。
「というワケで海兄ぃ! 水分はとっちゃダメだからね!」
『どんなワケだよ。なんで俺のくせに考え事暴露しねえんだよ』
「中身は私だからに決まってるでしょ。だから、トイレに行きたくなったら困るから水分補給は一切しないでって言ってるの」
『アホか! 死ぬわ!』
「アホはそっちだよ! なんか飲んだらそれこそ死ぬでしょ!」
『別にそんな水中毒になるまでガブ飲みはしねえよ』
「そういう科学的原因の死じゃないよ!」
『え? ってことは非科学的原因の死? 水飲んだら裸の天使達に霊体を運搬されるのか? どんなファンタジーな死に際だよ。フラン○ースの犬かお前は』
「思いっきり間違ってるけど面倒だからもうそれでいいや! とにかく水は飲まないこと! いいね!?」
『ったく、わかったよ。喉渇いたら近場の自販機でお茶でも買うよ』
「それもダメええ!!!! 今あるお小遣いは後ほどゲーム代に全額消える予定だからあぁああああ!!!!」
『どんだけゲーム好きだよお前』
飲み物の種類を変えればいいってもんじゃない。何かを飲むこと自体ダメなのだ。
水分を取るとトイレに行きたくなる。トイレに行けば全てが終わる。ゲームは私の人生。なぜこんな簡単なことがわからないのか不思議でならない。
『……あ、そうか。今お前の身体だから、俺がトイレに行くとお前的には恥ずかしいってことか? だから水分は控えろと』
海兄ぃはしばらく唸ると、私の意をようやく汲んでくれた。
なんだかんだ言っても、察しが良いのはとても助かる。なぜこの察しの良さが恋愛にもいかせないのか。考えれば考えるほどユキちゃんが不憫に思えてくる。
『あのなぁ、オメガじゃねえんだから、お前みたいな子供の放尿シーンなんかちょっとしか興味無いっつーの』
ちょっとはあるんだ。それは喜んでいいのか悪いのかわからないけど、純粋にキモチワルイよ……。
というか誰が子供だ! どっからどうみても大人だろいいかげんにしろ!
「海兄ぃがどう思うかじゃなくて、私が普通に恥ずかしいんだって!」
そこまで言い聞かせたところで、限界を超越していた下腹部が鈍痛に襲われる。
あ、これやばいヤツかも。
「ど……どうしよう海兄ぃ……漏れる……!!」
『へ? いやっ、ちょ……が、頑張れ!! 漏らすな!!』
「じゃあどうするか考えてよ!!」
先程までの興味のなさから一変し、自分自身に危害が及ぶとわかった瞬間焦り始める海兄ぃに、もうこの場で漏らしてやろうかと割と本気で考えてしまった。
それもいいけど、そうなると漏らしたあとの処理を私がすることになるわけで、そんな地獄に付き合っていられないからそこはグッと我慢しておく。
しかし、漏らしたい衝動は我慢できるも尿意は我慢できそうになく、結果的に漏らしそうなのでもうわけがわからないくらい脳内は混沌としていた。
『どうするったって……まぁ、最悪オメガに事情を話して元に戻してもらうまで我慢だな』
ここに来てまだそんな不抜けた考えをしているというのか。いい加減自分の膀胱の耐久度を過信するのはいかがなものかと思う。
「そ、それはだ、ダメだよ……! 今の私じゃ私の身体を庇いきれないし……何よりそれまで持ちこ、こたえられそうにな、ないし……!!」
キュー……っと、お腹の奥底が雑巾絞りされているような嫌な痛みが現れ始め、私は反射的にお腹を押さえる。
さすってみると、制服のワイシャツ越しからでもわかるくらい、腹部は硬さを帯びていた。この硬さはさしずめ、空気を目一杯詰め込んだゴミ袋といったところか。
『だったらもう我慢しないでトイレに行けよ。膀胱炎とかになったらシャレにならないだろうが。頑張れ俺の膀胱。ファイトだ俺の膀胱』
「ちょ、変なこと言ってないで……早く!!」
早くこの危機を逃れるための作戦を!!
『じゃ、じゃああれだ! とりあえず保健室を出て教室に向かってくれ!』
なんで向かう先がトイレではなく教室なのか。疑問は残るが、こらえることに精一杯で何も考えられなくなっていた私は、頼りないが海兄ぃの言う通りにするしかなかった。
震える膝を落ち着かせることにさえ気が回せず、私は保健室の扉をガラリと開けると、よたよたと廊下を進んでいく。
ここは高校だけど、私はよく秋兄ぃの忘れ物を届けに来たりしているから校内の間取りは把握している。
教室というのはおそらく海兄ぃのクラスということだろう。つまり二階にある2年2組。
“2組”ということからでもわかるとおり、この高校は、クラスの組み分けが英字ではなく今時珍しい数字表記のため、英語が苦手な私にとっては非常に覚えやすく素晴らしい高校なのだ。もうそれだけで私の進路は決まったようなものだ。
というわけで、英字じゃないおかげで各クラスへの道順はバッチリと記憶している。
そして私の記憶が正しければ、私が今いるこの保健室は一階にあり、海兄ぃのクラスである2年2組は二階に存在する。つまるところ、階段を登らねばならない。
……わー、嫌がらせだー。でも登るしかない。私はそういう戦いを強いられているんだ。
『いいか琴音。階段はツラいかもしれんが、教室に行けばオメガがいる。アイツなら尿意を止める薬のひとつくらいは持ってるはずだ。《入れ替わり》を知られるのはまずいから俺のフリして頼み込め』
「な、なるほど……」
海兄ぃの作戦はこうだ。
教室にいく。
恭兄ぃに会う。
薬的なヤツ貰う。
飲む。
天国。
うん、完璧な作戦だ。……いや、ちょっと待って?
「で、でももし恭兄ぃがその薬を持っていなかったら……?」
私は階段を丁寧に登りながら、恐る恐る訪ねてみた。
『乙でした』
そして放たれる無情の死刑宣告。
「つまり諦めろってことか……あぁもう、しょうがない! その可能性にかけるしかない!!」
『じゃ、俺は俺で授業始まるから。通信機一式の電源は切っておくが、通信が来たらわかるようになっているのでいつでも相談してくれ。じゃあね!』
「あっ、ちょ……」
私も大概そうだけど、割と自分勝手な海兄ぃに文句を言う暇もなく、ブツン――と、通信機の通信が切断された。
もう一度かけ直そうと思ったが、それよりも今は自分の方で精一杯なため仕方なく通信機一式をポケットにねじ込んだ。
「急がないと……」
苦痛に耐えきれず涙目になりながら、階段をゆっくりと上がる。
保健室の時計から知ったが、今はまだ授業開始前の微妙な時間帯のためか、さっきからほかの学生の方々とすれ違いまくっていた。
しかしながら、中身が中学生な私にとって当然その中に顔見知りの人はおらず、皆が皆全然知らない赤の他人だった。
そんな見ず知らずの人たちに囲まれてトイレを我慢して顔を歪ませるなんて、本来の私ならそれだけでも恥ずかしくて卒倒しそうなレベルの状況だが、今はそんな恥ずかしさに構っていられるほど余裕を持っていなかったのが不幸中の幸いだ。
けれど、ひとつだけ気になることがある。
こんなにも苦痛で顔を強ばらせながらお腹を押さえて歩いている人がいるのに、誰ひとりとして声をかけてこないのだ。
心配になってもおかしくないぐらい脂汗をかいているのに、周りの人間は明らかに私を避けている。挙句の果てには興味すら抱いていない人間だっている。あからさまに見て見ぬふりをしている。
友達同士らしい人が仲良く雑談しながら横を通っていったりもしているので、ここにいる人間が根っこから冷血というわけではなさそうだが、そうなると、ある一つの答えが浮き出てきてしまう。
これってもしかして……海兄ぃが嫌われてる……とか?
第59.5話 その2
~すべてを水に流したい~
「…………」
まるで見てはいけないものを見ているようで、底知れない不安混じりの恐怖心が湧き出てくる。
がやがやと騒がしく、忙しないみんなの目に、海兄ぃの姿が映っていない。みんなの輪の中に、海兄ぃが存在していない。
それは、“ただクラスに馴染めないだけ”の私とは、似て非なるモノだった。
私もそんな仲の良い人が多い方じゃない。だけど、話しかければ相手にしてくれるし、怪我をすれば心配してくれる。相手から話しかけてきてくれることだってある。
でも、海兄ぃのは違う。
苦しそうにしていても、ツラそうにしていても、誰も目に止めないし、視界に入っても関わろうとしてこない。
海兄ぃは、私と違って人相が悪いから誤解されがちなのも仕方ないが、それにしたって異常な扱いだ。
秋兄ぃへの用事で来た時は、みんな明るくて、私も人見知りなりに愉快な学校だなという印象を持っていたから、きっとみんな素は普通の学生なんだと思う。でも海兄ぃにだけ、なぜか風当たりが強い。そんな感じがする。
周りの目に人一倍敏感な私だからそう感じるだけかもしれないけど、確実に気分のいいものじゃない。
「うぅ……やっと教室が見えてきた……」
もう詰まりすぎてタプタプすらしないお腹を押さえながら、なんとか階段を上り切る。ここまでくじけずに来れた自分をめちゃくちゃ褒めてあげたい。
2年1組の教室の横を通る。この教室は、秋兄ぃのクラスだ。
少しだけ覗いてみると、秋兄ぃは教室の超ど真ん中ぐらいの位置のある机に腰掛けており、別段何かをしているわけでもなくただただ机に突っ伏してぐでーっとしていた。
そして、悲しいことにそんな秋兄ぃの周りには人っ子一人よって来ておらず、なんていうか、傍から見たら完全にクラスに孤立していてやることがない惨めな学生をそのまま具現化したような振る舞いを見せていた。
「……友達、いないのかな……?」
海兄ぃに続いて秋兄ぃまでも。
無意識に心配の言葉が口に出たところで、私は気づく。
そうか、秋兄ぃは影が薄いから気づいてもらえないんだ。きっと。
その証拠に、今も進行形で誰の目にも止まっていない。挙句の果てには、秋兄ぃが突っ伏しているその机に腰掛けて話し始める女子グループが現れ始めた。
ただでさえ短めのスカートが制服の高校なのに、スカートの乱れを一切直そうとしない。ほんの数センチ後ろに秋兄ぃの顔があるのにも関わらずだ。
高校生にもなればパンツの一つや二つぐらい見えてもどうってことないのかもしれないが、それにしたって遠慮が無さ過ぎる。もしこれがこの高校の通常スタイルなら、きっと私は学校一清楚な子になれる自信があるレベルだ。
というか秋兄ぃも秋兄ぃだよ! なんであそこまでされているのにピクリとも動かないの!? 死んじゃったの!? ほら、スカート鼻先掠めてるって! やばいって!
「あぁもうスカートすごい邪魔! 見えないじゃねーか!」
なんか言い出したんですけど!? もうセクハラの域超越してるよねそれ!? 気持ち悪すぎる! 兄のこんな一面知りたくなかった! どんだけ欲望に忠実なんだあの男!
『あ、竹田いたんだ~ごめんね~』
そして温厚だ! クラスの女子とっても温厚だ!
「いいよいいよ。こっちこそ影が薄くてごめんな」
自虐ネタで場を収めた! なんだこいつ! 白々しいな!
『あはは、それ超ウケんね!』
そしてウケてる! なんだこれ!? 私は今何を見せつけられてるんだ!? これが高校生の青春!? 絶対違うわ!
「まーウケ狙って言ったフシあるしな」
それは言ったらダメなやつ! 言った瞬間に場が白ける魔法の言葉!
『竹田……それ、思ってても口に出しちゃダメなヤツ』
ですよね!
「あれ、山空。なにしてるんだ?」
「どッふァい!?」
兄とその女子生徒の会話を見るのに夢中になっていた私は、背後から近づき声をかけてきたその人物に気付けず、驚きのあまり妙な奇声をあげてしまった。
今は海兄ぃの身体だってことをすっかり忘れて、はしたなくも完全に覗きの体勢になっていた私は、飛び跳ねるように背筋を伸ばした。
声に驚き振り向けば、そこにはいつもの見慣れた銀髪を揺らめかせながら、大きなカバンを肩にかけて歩み寄ってくる恭兄ぃの姿があった。
そして彼の姿をみた時、私は自分が今トイレに行きたかったことを思い出す。
あれだけツライ思いをしていたのに一瞬でも尿意の存在を忘れていたのは、それほどまでに秋兄ぃの腑抜けっぷりが衝撃的だったからであろう。
あー、思い出したらまた心配になってきた。
そりゃあ秋兄ぃも男なわけだし、スカートの中を覗きたいっていうのは普通のことかもしれないけど……私としては軽蔑したくなるぐらい複雑な心境だ。
家ではそういう顔を一切見せないからこそ、普段との違いに戸惑うばかり。頭のどこかで、秋兄ぃも海兄ぃのように女の子に対して奥手だと勝手に思い込んでいたからかもしれないけど、しばらく秋兄ぃの顔をまともに見れない気がする。
はぁ……秋兄ぃのあんな姿見たくなかったよ……。どうしよう……なんか涙出てきたよ。
「どうしたんだ山空? ロリ不足か?」
「いや一緒にすんな!!」
元気のない私を見て真面目な顔でふざけた事を抜かす恭兄ぃに、思わず元気よくツッコミを入れてしまった。その反動で、再び下腹部に禍々しい痛みが走る。
そうだった。秋兄ぃのことなんかで落ち込んでいる場合じゃない。どちらかといえば今は私のほうが瀬戸際なのだ。
「ねぇ恭兄ぃ!」
「恭兄ぃ~? ちょっと! 山空に言われても反吐が出るんですけど~! みたいな~!」
「おおおおお、おう! ごめん間違えただぜ!!!」
身体をくねらせて一昔前のギャルのような口調でされた恭兄ぃ指摘に、私は心底慌てふためいた。
そうだ。落ち着け私……! 今私は海兄ぃなんだ。そして海兄ぃは恭兄ぃのことを『恭兄ぃ』だなんて呼ばない。『オメガ』だ。恭兄ぃじゃなくて、オメガ。海兄ぃになりきれ私……!!
「な、なぁオメガ」
「ツッコミが来ないから僕がなんかスベッたみたいな感じになったじゃないかどうしてくれるんだ」
「しらんがな!!」
「おー、ナイスツッコミ」
「やかましいわ!」
よ、よし。恭兄ぃのノリに流されて又しても思わずツッコミを入れてしまったが、今のやりとりは完全に海兄ぃと恭兄ぃのやりとりだったはずだ。
海兄ぃの普段のガサツそうな口調を真似するのはちょっと骨が折れるし男口調ってよくわからないけど、とりあえず「だぜ」とか言っておけばいいんだよね。うん、このまま落ち着いてやれば大丈夫。落ち着け、私。
あと関係ないけど「オメガ」って呼ぶの普通に恥ずかしいんだけどどうしたらいいんですかね。こんな厨二病みたいな呼び名を、海兄ぃはいつも平然とした面持ちでやってのけてたというのか。無駄に精神強いな。私なんて「オメガ」に限った話で言えばもうすでに心折れそうなのに。
「……で? 僕に何か用があったのだろう?」
「へ!? あ、う、うん。実はそうなんだぜ。実は折り入って頼みがあるだぜ」
「……なんだ?」
「実はだな! えっと――」
ここまで口にしたところで、ふと疑問がよぎる。一体どうやって説明すればいいのか、という疑問だ。
例えば、普通に「漏れそうだから何とかして欲しい」と頼んだとする。しかしそれだと、恭兄ぃからしてみれば十中八九「じゃあトイレ行けば?」という考えに至るだろう。
そう、本来ならばトイレに行きたくなったら行けばいいのだ。それは、人類みなが無意識のうちにやっていること。いわば人間に備わっている本能と言っても過言ではない。
私は今からその常識を覆そうというのだから、月並みな言葉では到底理解してもらえないことだろう。
《入れ替わり》だという事実を説明すれば、おそらく交渉は簡単だ。しかし先にも挙げた不安要素がある以上、それはできない。
つまり私は、海兄ぃがトイレに行きたくなったが、トイレに用を足しに行くことができず恭兄ぃに頼るしか方法がなかった、という状況を、《入れ替わり》という現状を用いずに繕わねばならぬということになる。
それってどんな状況だよ……。つくづくそう思う。
だが考えている余裕もない。漏らすという最悪の結果を体験する羽目になってしまうから。
黙っていても仕方がない。伝わらない。もう私に残された時間などたかがしれていた。
「えっと……その……」
今持っている知識をすべてこねくり回して考える。
うまい言い訳はないか。最善のでまかせはどういうものか。
尿意に急かされながら、私は必死に考えた。
そしてひとつだけ、活路が開かれた。
そうだ。逆に考えるんだ。理由を説明できないなら。言い訳が思いつかないなら。“何も説明しなきゃいいんだ”。
普段、後ろ向きの考え方をしている私からは想像もできないほどの、逆転の発想。追い詰められて秘めたる才能が開花したのかはわからないが、意外にもすんなりとその結論が脳裏に浮かんだ。
「恭に……じゃない、オメガ! 何も聞かずに尿意を止める薬をくれ!!」
額の前に両手をパシンと打ち合わせ、必死に懇願する。
人の目が憚れるところだが、幸か不幸か、この学校において海兄ぃが不躾な存在で誰にも相手にされてないがゆえに、気兼ねすることなく大声を出せた。
「……は? え、あ! 趣向が斬新なカツアゲ?」
いつも冷静ぶってるさすがの恭兄ぃも、唐突のお願いにポカンと口を開く。
まぁ私も突然そんなこと言われたら同じ反応する自信があるため、何も言えないけど。
あとカツアゲでは断じてない。もしカツアゲだとしてもおかしいだろ。なんで求めるものが金ではなく尿意を止める薬なんだよ。普通のカツアゲよりもよっぽど恐ろしいよ。特殊すぎるだろ。
「もう一回言うけど、今ものすごくトイレに行きたくて……でもトイレに行きたくないんだ! だから、トイレに行かずしてトイレに行ったことにできるような薬的なものあればただちに下さい!」
言っていることがむちゃくちゃなのは自分でも理解しているが、他に言いようがないためこれで押し通すしかないのだ。
「ちょ、ちょっと待て山空。キミは僕を薬剤師か何かと勘違いしていないか?」
「じゃあ薬じゃなくていいから! 発明品の中に何かしらあるだよな!?」
「僕は薬剤師でもなけりゃ未来のネコ型ロボットでもない。そもそもそんなピンポイントな道具あるはず無いだろう。常識的に考えたまえよ」
「そ、そんな……」
乙でした。海兄ぃのそんな言葉を思い出す。
まさに絶望。これを絶望と呼ばずしてなんと例えようか。それくらいに八方塞がりだった。
油断していた。《入れ替わり》を起こせるぐらいだから、尿意ぐらいどっかの彼方に吹き飛ばしてくれるって心の奥底では信じ込んでいたのかもしれない
もうだめだ。諦めの境地に達した私は、膝から崩れ落ちる。
「え、山空……? みっともないぞ。落ち着け。落ち着きなさい。落ち着いてください」
「いいんだ……もう……いいんだ……どうせ漏らす運命にあるんだ……」
「トイレ行けばいいのではないのか……?」
「トイレアレルギーなんだよ! 文句あんのか!?」
「わ、わかったから落ち着きたまえ! 何とかするから!」
「まじで!?」
突然の朗報に、折れていた腰を清く正しい体制に戻し、元気よく立ち上がった。感動の涙も出た。さすが恭兄ぃ、頼りになるぅ!
「はぁ……今朝の琴音ちゃんの事といい、なんでこうも無理難題を吹っかけっれるんだ僕は……」
恭兄ぃの何気ない言葉が、グサリと心に刃を立てた。
「うっ……その節は、ホントごめん……」
英語のテストの件で、無理を言ってしまったのは本当に反省している。
荷物から察するに、恭兄ぃ今登校してきたのだろう。ということは、今朝私のために陳列して見せてくれた大量の発明品を、ずっと一人で片付けていたことになる。つい海兄ぃ達のノリに合わせて片付けを手伝わずに逃げてきちゃったけど、本来ならそれは依頼者たる私にあるまじき行為だ。
何から何まで、本当に迷惑をかけている。
ごめんなさい。そしてありがとう。今日だけ。今日だけだから。次回からはきっと頑張るから。頑張っても英語は無理だろうけど……でも頑張るよ、私。
「その節……? あぁ、今回のってこと?」
「へ? ……あ、あぁ! そうね! 今回ね! トイレの件の話だぜうん!」
つい謝ってしまったけど、よくよく考えれば私は海兄ぃ。そもそも英語のテストの交渉の際に海兄ぃは寝ていたからその節がどの節か知ってるわけがないんだ。
こういう本人しか知りえないことや、相手しか知りえないことのすれ違いには、今後共気を付けよう。私が知ってても海兄ぃが知ってるとは限らないもんね。その逆もまた然り。注意しないと。
「……えっと、もう一度確認するけど、トイレに行きたいのをトイレに行かないでなんとかする方法……だったね?」
「それだぜ!」
「はぁ……なるべく善処するけど、キミが望むような解決ができるとは限らないから、そのあたりは理解してくれ」
「うんうん、もうこの状況が打破できるなら何でもいいから早く!」
「いちいち図太いなキミは」
肩から掛けていた大きめの黒い鞄を下ろすと、やれやれと呟きながら、廊下なのにも関わらずその場でしゃがんで中身を漁り始める恭兄ぃ。
自分でお願いしておいてあれだけど、本当にこの破裂しそうなくらい詰まっている排泄物をなんとか処理できるのだろうか。もしできるとしたら、その方法は如何様にして……。
思考がまとまるよりも早く、恭兄ぃは「あ、もうこれでいいや」と呟きながら、ソレを取り出した。
しかし取り出したソレは、どこからどう見てもその辺のお店で売られているようなパッケージに包まれた冷却シートそのものであった。
あ、なるほど。頭を冷やせと。お前の言っていることは理解不能でわけがわからないと。そう仰るんですね。ふざけてる場合じゃないんだよ馬鹿野郎。投槍も体外にしろ。
「ちょ、なんで睨んでくるんだ。……あ、ふざけてないぞ? いたって真面目だぞ僕は」
「真面目にわた――俺のこと頭がイカレタやつだと認識しているということか。なるほどだぜ」
よぉし、歯を食いしばってそこに直れ。ビンタをお見舞いしてやる。
「違う違う。よく見ろ。これは冷却シートじゃない。パッケージが似ているのは本物に寄せたかったという僕のこだわりなだけだ」
「へ?」
恭兄ぃに言われて、改めてその箱を見直してみる。
すると、デザインやイラスト等はほぼよく見かける冷却シートのソレだったが、よくよく見ると商品名が冷却シートではなく『睡眠学習シート』と銘打ってあった。
けれど、どちらにせよ意味がわからない。
睡眠学習っていうのは、詳しいことはわからないけど、たしか寝ている間に覚えたいことを聞き続ければ、起きた時に記憶できている……というような効果だったはず。
本当に効果があるのかはわからないが、少なくとも寝ている間に英単語を延々と聞かされたりなんかした日には、翌朝目覚めずに永眠する自信が私にはある。どうせ寝てる間に聞くなら、ゲームの音楽の方が数千倍増しだ。
今昔のゲームは心に直接語りかけてくるような、まさに神曲と謳わざるを得ない名曲が数多く存在する。それがたとえクソゲーだと干され、売り残り品として超低価格でご提供されているような一般受けしないくらいストーリーがヘドロみたいなゲームでも、ゲーム中に流れる音楽だけは神ゲーなものとかも結構ある。だからゲーマーである私としては、内容だけでゲームの良し悪しを決めるのは勿体無いと、全国のゲーム好きの人たちにそう説いたい。
むしろ有名作品の中に埋もれてしまって脚光を浴びることができなかったゲーム達だからこそ、私たちゲーマーがプレイし、エンディングを迎えてあげることで、そのゲームの制作に関わった方達の思いや努力。そしてなにより、そのゲーム自身を救ってあげることができるのだと思う。
そしてどんなにクソみたいなゲームでも、必ずどこかに一つは素晴らしい部分が声を殺して待ち受けている。その部分を見つけ出せたとき、そのゲームを最大限楽しむことが出来るのだ。それが、ゲーマーとしてのあり方だと私は思う。
だが強要はしない。
同じゲームでも、プレイヤーの数だけ楽しみ方が違うのは当然のことだからだ。
自分が好きなゲームが批判され、蔑ろにされていたからとて、その相手に文句を言うのはお門違いもいいところ。人の数だけ、趣味趣向が違うわけで、合う合わないっていうのが当然出てくる。
そもそも、文句を言う人たちがいたからって何か問題でもあるのか? たとえ世界中の人間がクソゲーだと酷評を浴びせたゲームでも、ただ一人、自分がそのゲームのことを愛してあげることができたなら、それはもう神ゲーなのだ。
むしろ逆に考えると、そのゲームに対して批難を浴びせている人は、そのゲームの魅力を見つけられずに離れていってしまった人たち。いわば損していると言っても過言ではない。
クソゲーと評して向き合うことをやめた人達と、どんなにクソゲーでも最後の最後まで向き合い続けた人達とでは、見え方が違って当然なのだ。
ただ、これだけは覚えておいて欲しい。
早々にクソゲーだと見限って離れていた人たちが悪いとか、愚かだとか、そういう事を言っているのではない。
むしろ自分に合わないゲームを素早く見切って、別のゲームに移ることができるのだから、それはそれで優秀な判断なのだ。
もしも別のゲームに移り、そのゲームの中に魅力を見つけることが出来たなら。そしてそれが、先ほどのゲームと同じように全世界の人々にクソゲーと評されるようなゲームだったら。
もはやその人は、ゲームは違えどあなたと同じ立場のプレイヤーなのだから。
自分に合ったゲームを。自分だけしか知りえない魅力を持ったのゲームを。いかにして見つけるかが、ゲーマーの腕の見せどころでもあるわけだ。
だから同じくゲーマーである私にとって、ワゴンセールは宝の山。
極端な話、世間一般ではクソゲーだろうと、自分が素晴らしいゲームだと認識した時点で神ゲーだし、世間一般では神ゲーだろうと、自分に少し合わないなと思ったらそれはもうクソゲーだ。
だから私が望むのはただ一つ。
自分の中の神ゲーに出会う前に、ゲームを嫌いにならないで欲しい。
買ったゲームが100回連続でクソゲーだろうと、もしかしたら次の101回目に貴方の望むゲームと出会うかも知れないのだ。
だからどうか、失敗を恐れないでほしい。
私が言えるのは、それだけだ。
「山空……?」
「へ? あ、ごめんごめん。ちょっと頭の中の論文が心に染みて……」
「……何を言ってるのかわからないが、道具の使い方説明してもいいかな。キミがボーッとしてるからさっきからずっと『この紋所が目に入らぬかーッ!』みたいなポーズで道具を突き出したままお預けされて、さすがに腕が疲れてきているんだ」
「あ、うん。ごめん、お願い。というか言い回しが胸糞悪い」
「いつになく傍若無人だなキミは」
恭兄ぃは「やっと説明ができる」と乾いた息を吐くも、どことなく楽しそうだった。
やはり発明が趣味なだけあって、自分の作った道具を人に勧めたり、解説したりというのは嬉しいものなのだろう。
私も、自分の好きなものを誰かと共有することができる楽しさはよく知っている。ゲーム的な意味で。
あと胸糞悪いは言いすぎました。切羽詰っててイライラしてたんです。ごめんなさい。
「こほんっ」
もったいぶったように咳払いをすると、恭兄ぃは手に持ったそれを私に差し出してくる。
よくわからぬまま受け取った私は、パッケージに視線を落とした。
「パッケージにも書いてあるとおり、それは冷却シートではない。そう、その名も――『あなたの知恵熱抑えます、睡眠学習シート』だ!」
メガネのブリッジ部分に中指を当て、クイッと押し上げる。そして、もう一方の手で私の持っている『睡眠学習シート』なるものをビシッっと指さした。
毎回のことなのだが、発明品の名前の前に妙な謳い文句を入れるあたり、恭兄ぃはそういう雰囲気をこだわる人らしい。素直にスッと言えよと思う反面、そこにこだわりたくなる気持ちが理解できてしまうところが私をいかんともしがたい気分にさせる。
ほら、技名とかも、普通に『ファイヤーボール!』とかよりは、なんかそれらしい詠唱呪文をつけたほうがカッコ良さが全然違うもん。『業火の力よ、我が手に集いて眼前の悪を燃やせ! ファイヤーボール!』みたいな感じでね。ワクワク感が全然違うでしょ。今の詠唱呪文は適当に考えただけのやっつけだから出来栄えは気にしないでください。
「睡眠学習シート……? 何に使うんだぜこれ」
さっきも言ったように、睡眠学習っていうのは寝ている間に勉強するっていうアレだ。たしかに、実際にそんなことが可能なら非常に魅力的なアイテムではあるのだが、今回に至っては用途が思い浮かばない。
ただトイレに行かずして済ませたいだけなのに、眠りながら勉学に勤しんでどうするのか。トイレ行きたくないなら眠っておねしょとして気づかぬ間に漏らしてしまえばいいとかそういう理屈なのだろうか。おもらしじゃないから恥ずかしくないもんとでも言いたいのだろうか。もしそうなら期待はずれもいいところだ。
しかし、相手はあの恭兄ぃ。そんな、とんちのようでいて豪快に諦めるだけというわけのわからない発想なんかで、果たして協力を承るだろうか?
きっと、この道具には特別な使い方があるに違いない。
そう信じて、私は何も言わずに説明を聞き続けることにした。
「それを説明する前に、中身を箱から取り出してみてくれ」
言われるがまま、私は封を開けて中身を取り出す。
箱の中にはなにやら薄っぺらいものと分厚いものが入っており、そのうちの分厚い方を取り出す。するとそれは、文庫本とほぼ同じくらいの大きさの、折りたたまれた電子辞書……のようなものだった。
次に、薄い方を取り出す。
薄い方は、やはりよく見かける普通の冷却シートそのものだった。
白いガーゼの上に青いジェルが乗り、その中に『冷感カプセル』と呼ばれる冷たさを長持ちさせる役割を持つ青いボールがところどころに散りばめられている。
正真正銘どっからどう見ても、おデコに貼り付けるタイプの、ごく普通の冷却ジェルシートだった。
「これ……熱を下げるやつだよな?」
流石に不安に煽られた私は、心細い声を上げる。
だが恭兄ぃにはその質問も想定内のことだったらしく、少しだけ口元を緩ませると、得意げに説明を続けた。
「はっはっは。残念ながら、このシートには熱を下げる効果はない。なぜなら、見た目は蒸発熱が程よく起こりそうなジェルでも、中身は全く別ものだからだ」
「つまり、どういうこと?」
「白いガーゼ部分はごく普通の、本家冷却シートにも使われているような一般的なものなのだが、そのジェルとジェルの中に埋め込まれているカプセルがちょっと特殊なもので出来てるんだ」
「特殊なものってなにぜ?」
「実はそのジェルの中に入ってるカプセルは、いわゆる一つのマイクロチップでね。そこから発信される電波によって脳が刺激され、人体の行動を制御するんだ。その電波が脳に送られることにより、寝ながらにして勉強に励むことが可能となる」
「脳に電波って……なんか身体に悪そうなんだけど」
「うむ。本来ならば危険極まりないことだ。けど、その危険性をその周りの特別な成分で作られたジェルがカバーしてくれる。つまるところ、そのジェルに包まれていれば、人体に悪影響を及ぼさない安全な電波になるんだ。さらに、微弱な電波でもジェルを通せば増強することが可能で、それも電波の安全性の一つを担ってる」
「……でも、やっぱり危なくないだぜ? また副作用があるとか……」
前に似たような道具で、『精神安定シール』というものがあった。名前は少し凶暴そうだけど、実際は高ぶった気持ちを落ち着かせてくれるというだけの安全な道具だったわけだけど……。
そのあとに待ち受けていた副作用が厄介なものだった。
感情を鎮静しすぎるあまり、性格が一時的に真逆のものへと変化してしまったのだ。
今ではその失敗を参考にして、その副作用が出ない『精神安定シール(改)』っていうのができたわけだから結果オーライだけど……。
でもやはりあの副作用にやられた時の恥ずかしさと言ったらそりゃもう酷いものだったので、もうあのような思いをするのは嫌だ。
今回の《入れ替わり》だって、もし元に戻れたとして、副作用がないとも限らない。
恭兄ぃの道具はすごいけど、危険性も隣り合っている。不安に思わないわけがなかった。
「安心してくれ。今回ばかりは大丈夫。自信を持って提供するよ。それに、電波という言葉に惑わされているが、言ってしまえば今回のは接骨院とかでやる電気治療みたいなものだ。むしろ脳が活性化して物覚えが良くなるぐらいだ」
「あ、そんな感じなんだ」
「うむ。そんな感じだ」
恭兄ぃの自信たっぷりなその言葉で副作用への不安が薄まったところで、先程まで大人しくて大丈夫だった尿意が再び反乱を起こし始める。
こうなった以上、もうこの道具に頼るしか道は残されていないだろうが……、まだ肝心なことを聞いていない。
「この道具で……一体、どうやって漏らさずに何とかするのさ……!」
声を発するのも一苦労だ。
ちょっとした気の緩みが、大惨事につながることさえあり得る。
今までも限界だと思っていたけど、今度こそ限界という限界に到達していた。
「結論から言う。やはり溜まった尿を排泄せずにどうにかすることは不可能だ」
「はぁ!? それじゃ話が……!!」
「まて、落ち着け。要するにキミは、とある事情でトイレに行きたくない――いいや、用を足したくないと、そういうことなのだろう?」
「そう!」
「じゃあもうひとつ聞くが、もしも、トイレで用を足した記憶がなければ……つまり知らない間に用を足すことができたら、それはどうだ?」
「え? どういう意味……?」
「簡単な話、寝て起きたら尿意がスッキリしていればいいわけだ」
「ご、ごめん、話についていけないんだけど……!」
「要するに、この道具は『睡眠学習シート』とは言っているが、実際のところ勉強以外にも寝ている間も何かをしたい人のための道具でね。あらかじめ設定しておくと、発信機から送られる電波に脳が反応して、寝ている間に身体だけその通りに行動してくれるという発明品なんだ」
「寝ている間に……?」
なんとなく理解できた。
平たく言うと、私が今持っているこの道具を使えば、寝ている間……つまり意識がないとき、私の知らない間に、体が勝手に行動してくれるということらしい。ほっとくだけで勝手に部屋を掃除してくれるお掃除ロボットと似たような理屈だろうか。
信じられない話ではあったものの、疑っている余裕など残されていないため、今はこの道具にかけるしかない。
「どうやら納得してくれたみたいだね。ならば、道具の使い方を説明する。なに、難しいことなど何もない。そっちの、電子送信パッドを開いて電源を入れて、画面に表示される項目をタッチするだけだ」
「電子送信パッド……? あ、この電子辞書みたいなやつか……」
「あとは箱の裏に詳しい説明が載ってるから、それを確認してくれ」
「箱の裏……?」
手に持っていた『睡眠学習シート』のパッケージを裏返してみる。すると、そこには箇条書された取り扱い説明文が並べられていた。
正直、こんなものを読んでいるほど耐えられるものじゃなかったため、私は恭兄ぃにすべてを押し付けた。
「設定……お願い……!!」
「まぁそうなるだろうね。十数秒だけ待ってて」
手馴れたように、手際よく電源を起動させ、設定を入力していく恭兄ぃ。
さすが開発者本人といったところだろう。動きに無駄がない。
そして、設定が終わるまでに十数秒も要さず、本当に手早く設定が完了した。
「あとはトイレの前でそのシートを額に貼って、モニターに映っている送信ボタンを指でタッチすれば、眠っている間に機械がこなしてくれるはずだ」
手渡してくれたパッドのモニターには、でかでかと「送信」の文字が表示されていた。
要はこの送信ボタンに触れればいいわけだよね。そしたら寝ている間にこの機械が……。
あれ、ちょっとまって。
「寝ている間って、今全然眠くないんだけど!?」
というかたとえ眠かったとしてもこの襲い来る暴力的尿意の前じゃ眠れそうにないですけど。
「そのことなら安心してくれ。ちゃんと送信が終わったら自然と眠るように設定してある。もちろん、事が済んだら目覚めるようにもなってる」
「あ、そうなんだ……便利だね」
でもまぁ考えてみれば寝ている身体を動かせちゃうわけだから、逆に起きている身体を眠らせるぐらいのことは出来て当たり前なのかもしれない。
だったらもう不確定要素はない。全力でトイレ行ってくる!!
「ありがとう! じゃあ行ってくる!」
「うむ。ちゃんとトイレの前でボタン押すんだぞ」
駆け出した私は、この場から一番近いトイレを目指して走った。
良いのか悪いのか、授業開始まで暇らしい人で混雑していた廊下も、海兄ぃが嫌われているおかげで人が自分から避けていき、私が避けなくても勝手に道ができていた。
海兄ぃの高校生活には一際不安を覚えるけど、今だけは馴染めていない海兄ぃに全力で謝恩の念を捧げたい気分だ。
そんなことを思いながら、ようやくトイレの出入り口の前にたどり着く。周りに人が居ようが関係なかった。私はすぐに飛び込んだ。
トイレの中は、中学校とさして変化はなく、それどころかどこか懐かしい雰囲気さえ感じる。なぜだろうと考えると、芳香剤の香りがトイレ独特の嫌な臭いを吸収し、中学校のトイレと同じバラの良い香りを発していることに気づく。
いつもの見慣れた光景と香りに安堵しながらも、私は扉に目を移した。
そして知る。
トイレの洗面台を使っている人は誰もいなかったが、最悪なことに5つある扉は全部閉まっているのだ。
「うっそ……もしかして全部使用中……!?」
焦る心を押さえ込みながら、念のため一つ一つ扉の取っ手部分にある鍵の色を確認していく。
最初の扉は、赤。つまり、鍵が掛かっている。使用中だ。
次の扉も、その次の扉も、その次も、全部赤。赤を見るのは英語の点数だけで十分なのに、なんでこうも運が悪いのか。
追い詰められすぎて軽く涙目になりながら、最後の扉を確認してみる。
青。
鍵が、開いている。
最後の扉も鍵が掛かっていた日には神様を恨み、呪い殺してやろうとさえ考えていたが、どうやら天界へ喧嘩を売らずに済みそうだった。
手に持っていた睡眠学習シートの粘着部分に付いている透明なフィルムを剥がし、ジェルの部分を額に当たるようにして貼り付けた。少しだけひんやりとしていたが、熱が出た日に貼る冷却シートと比べればとても生ぬるい。冷水プールと温水プールぐらいの温度差があった。
「……よし、あとは送信ボタンを押せば……」
恭兄ぃの話を信じていないわけではないけど、やはり副作用が心配だった。
けれど、ここまできて、この極限状態でためらっていられる時間などあるはずもなく、すぐに覚悟を決めた私は、眠った時に落として壊さないようにすぐ左にあった窓の縁の芳香剤のとなりへとパッドを起くと。
「……ッ!」
送信ボタンを、押した。
目が覚めると、私はなぜか教室にいた。
人も疎らで、私以外に席についているものはほとんどおらず、本当にあと数分後に授業が開始される教室なのかと疑いたくなってくる。
「気づいたか山空。調子はどうだ?」
私の隣には恭兄ぃがいた。
冷静沈着で、どことなくつまらなそうな表情を浮かべている。
「えっと……うん、大丈夫そう」
「なら、いい」
先程まであった下腹部の違和感がなくなっており、そのことから発明品がうまくいったのだと悟った。
デコに貼ってあるシートを外し、気づけば手に持っていた電子送信パッドと共に恭兄ぃに返却する。
「これ、ありがとう。正直こんなうまくいくとは思ってなかったよ」
知らないうちに尿意が解消されているのには多少なりとも違和感を覚えざるを得ないが、それでも一応は、私の想像する最悪の形は免れることができた。
寝ている間とはいえ海兄ぃの身体でそういう事をしたのかと思うと凄く恥ずかしいけど、過程はどうであれ、結果としてその感覚を私が感じていない状態のまま解決できたのだからそこは妥協しておくしかない。
「それにしても凄いなこの道具。本当に寝ながら行動できるなんて……お、俺がここにいるのもオメガが設定してくれたからなんだろ?」
言葉遣いに細心の注意を払いながら、普段私に見せる時とは違いぶっきらぼうな恭兄ぃとの会話を試みる。
「その通りだ」
なにか気に障ることでもしてしまったのだろうか。それとも、この姿が恭兄ぃの学校での素の姿なのだろうか。
知らないことを考えてもわかるわけがなく、でも黙っていると気まずい空気に耐えられそうもなかったため、適当に話を振る。
「……なんか嫌な事でもあった?」
私が問いかけると、ずっと窓の外を眺めていた恭兄ぃは少しだけこちらに顔を向けると、
「急にどうした? キミがそんなことを聞くなんて」
と、不思議そうな顔を浮かべた。
たしかに、海兄ぃはそういうのに気づいてたとしても、わざわざ本人に聞いたりはしなさそうな性格だ。
だけど、私にとってこんなにおとなしい恭兄ぃは珍しく心配に思ってしまったのだから、多少海兄ぃの発言と離れていてもこのくらいだったら見逃してもらいたいところだ。
それに、恭兄ぃの本音が聞けるかもしれない。
何かに悩んでたとして、私と海兄ぃ、どちらの方が悩みを打ち明けやすいか。考えるまでもなく、年齢も近い同じ目線にたてる海兄ぃの方が何かと相談しやすいだろう。
私は恭兄ぃよりも年下だし、性別の違いもある。プライドとか、弱いところを見せたくないとか、そういうのも相まって、なかなか私に相談なんてできないんだと思う。
私もそういう素直になれない部分が結構あるから、良くわかる。
「なんか、元気なさそうだから……」
「……少しばかり考え事をしててね」
「考え事?」
「……なぁ山空。同じ状況になった場合、キミならどうする?」
儚げな、それでいて真剣な。
読み取ることのできないそんな不安定な表情をしている恭兄ぃの質問に、私は意味が良くわからず聞き返す。
「どういうこと……?」
「……実は今朝、琴音ちゃんに頼まれたんだ」
その言葉を聞いて、ギクリと体が強張る。
「た、頼まれたって……何を?」
私が頼んだのだから、そんなのきかなくても十分に理解している。
でも、海兄ぃはこのことを知らない筈だから、そう切り返すしかできなかった。
「今日、琴音ちゃん英語のテストがあるらしくてね。それで赤点を取ってしまうと、補習になってしまうらしくて」
「そ、そうなんだ……」
「それで、琴音ちゃんは言うんだよ。補習は嫌だから、英語のテストで不正をしたい。僕に協力してほしいってね」
「ははは……それは……」
何も言えるわけがない。
改めて思い返してみて、自分で自分のことが情けなく感じてしまう。
でも、それでも私は……。
「僕は、ダメだと思ってるんだ」
――ズキッ。
恭兄ぃの本音が、乱暴に胸をえぐるようだった。
わからない。私には、何も。
ダメだってことは知ってる。不正なんて、本来いけない事だってことは、重々承知の上だ。
それでも私はそれを行う。行わざるを得ないのだ。それがどんなに情けないことでも、やるしかない。そう思っていたし、その考えは今でも変わらない。
でも……恭兄ぃはハッキリと拒否した。私の言うことなら何事にも意気軒昂と尽くしてくれていたあの恭兄ぃが、だ。
それがすごく意想外で、衝撃で。
恭兄ぃが何を想い、何を考えているのかが読み取れなくて、正直すごく不安でいる。できれば、今はあまり恭兄ぃと話をしたくない。
今まで、ウザったく思うほどにどこの誰よりも私に好意を抱いてくれていた恭兄ぃに、もし突き放されたり、心が離れたりしたらと考えると……どうしようもなく怖い。
たとえ変にちょっかい出してくる恭兄ぃでも、私に良くしてくれる人が私のせいで離れていくのは嫌なんだ。
……本当に、嫌なんだ。
――“もう、あんな思いをするのは”。
「……どうした山空? 顔色が良くないようだが……キミこそ何かあったのか?」
「――ッ! いや! なんでもない! 俺は、だ、大丈夫だ」
気づけば恭兄ぃの訝しげな表情がこちらを伺っており、私の額からは大量に汗が吹き出ていた。
落ち着け私。前向きに考えるんだ。いつまでも“あの日”のことを引きずってたら前に進めない。考えるな、考えちゃダメだ。“過去”を振り返るな。
フルフルと首を大きく左右に振り、嫌な想像を吹き飛ばす。
「そんなことよりなんだっけ? 琴音がズルしようとしたんだったっけ?」
あの恭兄ぃが私の事を嫌うなんてことはない。そんなの、今までの反応を見ていればわかりきっていることだ。
私に対しての執着心が演技でなければ、恭兄ぃは絶対に私を見捨てたりはしない。あの振る舞いが演技だなんて到底思えないし、大丈夫のはずだ。
だから今は、私は恭兄ぃの話を聞いてあげることだけを考えよう。
原因は私のせいだけど……いや、むしろ私のせいだからこそ、話を聞いてあげるくらいのことはしてあげるべきだ。
だから。だから。
「ほんと、琴音はダメなやつだよなぁ! 自分がだらしないのをいいことにオメガに全部押し付けて楽しようなんて!!」
あ、あれ……おかしいな? 私、何言ってるんだろう?
「ろくに努力もしないでインチキにオメガを巻き込んで! ほんとダメなヤツだな!!! これじゃあ周りで頑張っているクラスの子にも申し訳がたたないっていうか……!! クラスに馴染めないのも当然っていうか……!!」
なんで私、自分を追い詰めているんだろう?
なんで、こんなこと……私……。
「オメガに嫌われても文句言えないっていうか……! 自業自得っていうか……!!」
「山空……?」
「こんなに迷惑かけて……本当にしょうがないヤツっていうか……わかってるのに、楽な道を選んじゃって、それに甘えて……どうしようもないくらい情けないって……弱虫だって思ってて……でも、ダメってわかってるのに体が言うことを聞かないっていうか……」
次から次へと、言いたくもない言葉が口をついて出てくる。
自分の言葉で、胸が締め付けられる。
心が、瓦解する。
何か心の奥底の大事な糸がぷっつりと切れたのと同時に、私のものじゃない口からは、臆病な私の心の声が次々と吐き出され続けた。
何がきっかけでスイッチが入ってしまったのか自分でもわからないけど、今の私は、完全に弱く、触れただけでも崩壊してしまいそうなぐらい脆い存在だった。
そんな私に、恭兄ぃは奇異な視線を向ける。
当惑しているはずなのに崩れていない彼の表情が、私の陰る心を余計に刺激した。
私は何をしているんだろう。
話を聞いてあげようとしてたのに、暴走して余計に不安を煽っている。
自分で勝手に思いつめて、それで勝手に心細くなって恭兄ぃにぶつけて、そんなことをしているにも関わらず未だに嫌われたくないなどと考えている。
喚いて、後悔して、また同じことを繰り返している。
海兄ぃには「私の身体で変なことはしないで」などと偉そうに宣っておいて、自分は海兄ぃの声と身体で不安定に八つ当たりをしている。
私の勝手で恭兄ぃに協力を仰いで、私の勝手で《入れ替わり》になってしまって、私の勝手で海兄ぃを振り回して、今は私の勝手で恭兄ぃに迷惑をかけている。
全部が全部、私が勝手に望んで、勝手に落ち込んで、周りを巻き込んでいるんだ。
それで自分で不安になって、自分勝手に言いたい放題言っている。
そんな弱い自分が、心底嫌になる。
私はどこまで臆病なんだ。私はどこまで脆いんだ。
肝心な時はいつもこうだ。
でも、わかっていても、止められない。
直さなきゃって、わかってるのに。
つくづく、私は馬鹿野郎だ。
ごめん恭兄ぃ。私は……臆病者だ。
「ふっ、流石だな山空」
「……え?」
恭兄ぃが、突然静かに笑い出す。
彼が何を思って笑みを浮かべているのか、皆目検討もつかなかった。
なにが、どうして、恭兄ぃは笑っているんだろう。
わからない。今の私には、想像もつかない。
驚きに目を丸くする私に微笑みかけながら、恭兄ぃは言う。
「何を驚いた顔しているんだ。全部僕のために言ってくれたのだろう? 確かに、琴音ちゃんは竹田兄に似て妙なところで神経質になってしまうところも多々あるから……表面上はいい加減そうでも、心の中ではキミが言ったみたいに感じているのかもしれないね」
そう言うと、恭兄ぃはひと呼吸置いてから、
「キミのおかげで、僕はまだ琴音ちゃんを好きでいられそうだよ。ありがとう」
と、表情を変えないまま、静かに口にした。
その言葉は、弱い私を認めてくれているかのようにも取れて。
乱れていた心が、少しだけ救われた気がした。
嫌われてない。好きだと言ってくれた。いつもの冗談まがいに言ってくれている“好き”とは違った、正真正銘の“好き”という言葉に、単純にも気持ちが楽になる。
本当に、よかった。
「……悔しいな、僕も結構琴音ちゃんのことを理解してあげているつもりでいたんだけど……竹田兄に言われたことといい、今といい、やはり僕はまだまだ未熟だったらしい」
ははは、と、恭兄ぃは冗談っぽく笑う。
竹田兄……つまり、秋兄ぃのことだ。
恭兄ぃが秋兄ぃに言われたことというので、ひとつだけ私にも気になることが思い浮かんだ。
今朝、私が恭兄ぃに協力を仰いでいる時に、秋兄ぃが言った『琴音を信じて』という言葉。その言葉を聞いて、最初は協力を断っていた恭兄ぃが協力してくれると頷いてくれたのだ。
――私を信じる。
一体どういうことなのか。ずっと気になっていた。
「……秋がなにか?」
思い切って、私は聞いてみた。
「あぁ、実はね、さっきも言ったと思うけど、僕は最初は琴音ちゃんのお願いを拒否してたんだよ。理由はいろいろあるけど……一番は嫌なことから逃げていると琴音ちゃん自身の為にならないって思ってたから。でもね、そのとき竹田兄が僕に言ったんだ。「琴音ちゃんを信じろ」ってね」
「それって、どういう意味なんだ……?」
「うん、多分だけど、竹田兄は――」
――ガラガラガラッ!!
恭兄ぃが意味を説明してくれようとした次の瞬間、勢いよく教室の扉が開かれた。
条件反射で何事かと視線を移すと、そこには明らかに雰囲気が張り詰めている女子生徒が大人数で訪ねてきていた。
眉間にシワを寄せて教室全体を見回す十数名の女子生徒の姿は授業開始時刻が迫っているから慌てて教室に戻ってきたようにも見えるが、それにしたって全員仰々しいくらいに怒りを顕にしているところから見ると、単純に切羽詰っているというわけでもなさそうだった。
よく見えないけど、ざっと10人以上は絶対に居る。
教室にいた周りの人も、唐突の事態に言葉を失い、無理やり入室してくる女子生徒たちを眺め続けることしか出来ていない。そのことから、この人たちの訪問は予期せぬものということが見て取れた。
大勢の女子生徒の先頭を歩き指揮していると思われる、気の強そうな人をみて、直ぐに「不良なのかな」という感想が脳裏に浮かぶ。
しかし、制服もきっちり着こなしているし、頭髪も染めたこともないような純正の黒髪をサラサラとなびかせている。そんな彼女を不良と一括りにするにはあまりにも清純そうな容姿をしているため、私は何が何やら理解できずにいた。
『覗き魔ってのはどこのドイツだァ!!!!!!』
唐突に、先頭の女子生徒が声を尖らせる。その声質は、怒気を放っている表情とは裏腹に、とても聞き惚れてしまうような可愛らしいアニメ声だった。
アニメ声の女子生徒は、教壇の上に立ち、教卓に両手を打ち付け露骨な威嚇を行っている。
覗き魔。
彼女がその言葉を口にした瞬間、静かだった教室内も流石にざわついた。
そして皆が皆、口々に犯人探しを始めた。
『覗き魔だって!?』
『おいおい、このクラスにもそんな不躾な輩が居やがるってのかよ……!?』
『ちょっと男子! 早く自首しなさいよ!』
『なんで男子だって決め付けてるんだ! もしかしたら女子かも知れないだろ!』
『ちょっとみんな落ち着いてよ! 犯人は安田くんに決まってるでしょ!』
『俺!? なんでだよ! ずっとここで早弁してんの見てただろ!?』
『いや早弁にしても早すぎだろ、もう朝食じゃん』
『早弁とか許せることじゃねえよ。早く自首しろよ安田』
『なんでだよ! 好きに食わせろよ!』
『《許されざる早弁》、安田』
『変な異名浸透させないで!』
なんかひとりだけ秋兄ぃみたいに不憫な人がいる。安田さん……可哀想に。
それにしても、覗きだなんて……。そういうことする人ってあれだよね? 変態……。
「はっ!? まさか……!!」
「そこで僕を見るのはやめてくれ山空。僕が小さい女の子にしか興味ないことは知っているだろう。まったく……」
なんで私がそんな「心外だな」みたいな反応されなくちゃいけないんだ。
『名前はもう割れてるのよ! みんなの前で言いふらさして欲しくなかったら大人しく手を上げなさいど変態!!』
中々名乗りを上げない悪党に、再び咆哮するアニメ声の女子。
そもそもこんな大勢に注目される中素直に自首したら、必然的にみんなにバレるから挙手したくてもできないのでは……?
ざわついていた周囲も、自ら罪を認める者が現れることを待っているのか、静かにキョロキョロと周囲を見渡している。
『ほほう、あくまでも白を通す気なのね……わかった、そっちがその気ならもういい。反省しているなら許してあげようと思ったけど……もうやめた』
それにしても、覗きなんて何が楽しいんだろう。
たぶん、女である私には到底理解できないものなのだろう。
私は別に覗いた人を最低だとかは思わないけど、でももし万が一自分が被害者だったらと考えると……少し怖いかも知れない。
当たり前だけど、相手に不快な思いをさせる行為はやっぱりしちゃいけないことだと思う。人のこと言える立場じゃないけど、でもやっぱり覗きはいけないことだ。
他人にジロジロ見られるのって、それくらい気分のいいものじゃないことを、私はよく知ってる。
『いい、最後の警告よ。あと五秒以内に名乗りを上げなかった場合、私らはお前をとことん追い詰めるから。5……4……3……』
だから、もし覗いた人がこの中にいるなら、自分から手を挙げて欲しい。
やってしまったことはもううやむやにできない。なら、せめて自分で蒔いた種に、正々堂々立ち向かって、落着へと向かって欲しい。
私も、今回の件をうやむやにしないで、元に戻ったらちゃんと謝る。
恭兄ぃにも、海兄ぃにも、秋兄ぃにも迷惑かけたから、謝って、それで次からちゃんとしっかりやろうって思う。
それが、失敗してしまった人の礼儀だと思う。
『2……1……0……』
そうだ。
前向きに。前向きに考えてさえいれば、きっとなんとかなる。
私は十分反省した。落ち込んだし、弱音も吐いた。だったら今度は、全力で失敗を取り戻す。
それでこそ、私だ。うん、気分がスッキリした。
きっと、全部やり直せ――
『……時間切れ。覚悟しろォ、山空 海!!!!』
「……んんっ!?」
え……私、覗いたの?
第59.5話 その2 完
挿絵にピンマイクを描き忘れているのもきっと妖怪のせい。