第59.5話 その1~危機感よりも罪悪感よりもテスト~
《入れ替わり》を琴音視点でお送りいたします。
楽しい雰囲気が伝わってくれれば僕は満足です。
「な、なぁ琴音。すっごい今更だが……やっぱりこんな早朝、迷惑なんじゃないか? 海の親父さんもいるしさ」
明朝5時。正確には5時と数十分。
今私達は、山空 海――こと、海兄ぃの家の前に立っていた。
「何言ってるの。私が今日の英語のテストで赤点を逃れるためには、もう手段を選んでられないんだよ」
本日、学校の5時間目。英語のテストがある。
昨日の放課後、私の苦手な英語のテストを実施するという先生の言葉を耳にし、私の心臓は凍てついた。
というのも、私は根っからの日本人で、大和魂を常日頃から心がけてるぐらい英語というものに縁もゆかりもない少女だからだ。
何を言っているのかわからないと思うけど、要するに私は英語が超絶苦手なわけで。
今日の英語のテストで赤点を免れないと、私だけは土日祝日も補習という、社会人もビックリな強制労働を強いられるのだ。
もし万が一そんな事態に陥ったとしたら、多分私は死ぬ。大袈裟な話ではなく、普通に死ぬ。
精神をがりがりと削られた私は、精神の欠落によってその日のうちに二階の窓からこの身を投げるだろう。
私が英語で赤点を免れるなど、末代までいっても不可能だ。これは努力とかそういうので何とかなるほどちゃちな問題じゃない。
もしも英語のテストを受けなければいけないというのなら、私はその運命にあらがって、人見知りであがり症な私だが英語の先生に媚を売ってご機嫌をとりにいってもいい覚悟だ。むしろ人見知りなど英語に比べれば克服なんぞ容易いのである。
――さて、ではなぜ英語のテストが控えている私がこんな明朝に海兄ぃの家に足を運んでいるのか? その理由を説明しよう。
何度も言うように私は英語が無理だ。嫌いとか、苦手とかじゃなく、無理。これはもう決定事項である。そんな私が英語のテストを受けざるを得ない状況になってしまった。
だったらどうするか?
そう考えると、思い浮かぶのはただ一つ。“不正”である。
私だって気が進まない。だけどやるしかないのだ。
人に何と思われようと、誰がどうこう言おうと、私はこの方法でしか自分を救えないから、だから私は不正を働く。これは私が生き残るうえで致し方がない事なのだ。
しかし勘違いしないでほしい、不正といっても、べつにテストの答えを盗み見るだとか、あらかじめ答案用紙を奪い予習に励むだとか、そういうことではないのだ。
そんな替え玉受験並みの不正を行えば、不正がバレた時の代償があまりにも大きすぎる。正直、英語なんかにそこまで体は張れない。
あくまでも私のやる不正は、正攻法からの不正。正々堂々、それでいて絶対にばれず、万が一バレたとしてもどうにかこうにか誤魔化して罪を問われないようにする。
そんな夢のような不正が、この海兄ぃの家には眠っている。今日はその準備のため私の兄である竹田 秋――もとい秋兄ぃを連れ、ここまでやってきたのである。
海兄ぃのお父さんが帰ってきているのは重々承知で、今までのように容易に訪問するのはちょっとアレな事も理解している。
だから私も、今日という日まで不正を実行するのをためらってきたのだ。
だけどもうダメ。
いくら考えても、当日になっても不正以外の案が思い浮かばなかった。
もうこれは海兄ぃのお父さんがどうとか、そんなこと言っていられるほど私も余裕がないのだ。
ゆえに訪ねてきた。ゆえに不正をする。つまりはそういうわけなのである。
「……呼び鈴はどうする?」
秋兄ぃがこちらを見て問う。
何度も言うように、今は明朝5時とちょっと。こんな時間に呼び鈴を押したら、それこそ迷惑極まりない行為だ。
今こうして訪問しているだけでも迷惑なのだから、さらなる迷惑を重ねたくはない。よって、私たちは呼び鈴を押さずにお邪魔させてもらおう。
「それ不法侵入じゃね?」
「違うよ。だって恭兄ぃに許可とってから入るもん」
恭兄ぃ――こと、鳴沢 恭平。
彼はこの海兄ぃの家になぜか居候しているド変態だ。
いつもはこの変態にあれこれされてきたが、今日はこの変態を逆に利用する。というか協力を依頼する。
そしてそれは海兄ぃの家に無断であげてもらう事もそうだが、主に今回の不正うんぬんの件を彼に協力してもらう予定だ。
恭兄ぃは普段、庭のテントにいることが多いらしい。
寝るときはさすがに海兄ぃが家に上げたと聞くが、それ以外は学校に行く時などは別としてほとんどテントの中にいるそうだ。
そして、恭兄ぃは重度のオタクであるというところから、この時間帯でもなにかしらしていて起きている可能性が高い(偏見)。
そして起きていたら、庭にあるテントにいると思うから、そこで協力をお願いするわけだ。
「あれ? なにやら声がすると思えば琴音ちゃん達じゃないか」
まさか私たちが庭へ足をはこぶ前に、恭兄ぃの方から来てくれるとは。
「あっ、恭兄ぃ! おはよっ!」
まずはいつも通りの挨拶から。
恭兄ぃの機嫌を損ねれば、私の計画の十割を失敗したといっても過言でなくなる。つまるところ完全に恭兄ぃ任せな作戦というわけなのだが、とにかくそういうわけで、ご機嫌取りが必要になってくるわけだ。
そもそも彼が私相手に機嫌をそこなるなんて可能性はほぼゼロに近いが、用心に越したことはないため念には念を入れておく。
「琴音ちゃんおはよ~。なんでこの時間にこんなとこにいるのかわからないけど、とりあえずあがってあがって。紅茶でもご馳走になってってよ」
「おっす恭平。ひとつ聞きたいんだけどさ、海の親父さん……今どうしてるんだ?」
笑顔で告げる恭兄ぃに、秋兄ぃが問いかける。
「ん? あぁ、なんかちょっと前に家飛び出してったから今いないよ。今日は帰らないかもしれない、とも言ってたっけかな」
これは、ツキが味方しているといってもいいのではないだろうか?
そんなことを思いながら、私はニヤリとほくそ笑んだ。
「だから安心してゆっくりしてくといいよ。山空の親父さんに用があったわけじゃないのだろう?」
「おう」
「だったらこんなところで立ち話もなんだし、あがってって。玄関カギあいてるけど……音が立つと山空が起きてしまう可能性があるし、申し訳ないが庭から入ってくれると助かる」
そういうと、私と秋兄ぃを海兄ぃの家のリビングにまで案内してくれた恭兄ぃ。
よもや玄関からではなく庭のガラス戸からお邪魔する方が多くなってきた今日この頃。
この家には何度もいきなり訪ねてきている私だが、海兄ぃの家はいつ来ても綺麗だ。
私はどちらかというと片付けとか苦手で、ことあるごとに部屋を散らかしっぱなしにしては、秋兄ぃやお母さんによく怒られたりしている。
それでもやはり、片付けしかり勉強しかり、嫌な事というのはいつなんどきでもやる気が出てこない。
秋兄ぃ曰く、毎日やってればそんな苦労することもないらしいけど、毎日やるのが苦痛な人はどうすればいいのかという話なのだ。
やろうやろうとは思うけど、怠けたいという気持ちに嘘はつけず、いつもそのままずるずると部屋は散らかるわ課題は終わらないわで四苦八苦することになる。
年に二~三回は、なんで私はいつもこうだらしがないんだ、などと反省するけど、それも数日たてばきれいさっぱり忘れてしまい再び同じ過ちを繰り返す。それがいつもの状態だった。
だからこそ、毎日綺麗なこの家はとても居心地が良い。
暑い中、数十分かけてこの家まで来るだけの価値がここにはある。
あの無愛想な海兄ぃからは想像もできないほどに、塵や埃のない純麗な部屋。ぶっちゃけ弟子入りしようかなと考えたことも一度や二度ではない。それくらい清潔感があふれている。
「琴音ちゃん、紅茶入ったよ」
「ありがと恭兄ぃ」
いつもの定位置に腰を落ち着かせると、私は恭兄ぃが差し出した紅茶を受け取った。
本来なら足を崩して座りたいところだが、今は学校の制服(セーラー服)のせいでスカートのため、そして近くに変態がいるため、私は正座を続ける。
大き目のテーブルを挟んで、私と向き合うように恭兄ぃも腰を下ろした。
「……な、なに?」
にやにやと薄気味悪い笑みを浮かべて、恭兄ぃは私の顔をジッと見つめてくる。
毎度のこととはいえ、私を舐め回すような、ネットリとした視線はどうにも慣れそうになかった。
「セーラー服姿の琴音ちゃんは珍しいから、目に焼き付けておこうかなって」
私の問いかけに、このような返答を口にした恭兄ぃ。
予想通りといえば予想通りだが、予想が当たっていても別に嬉しさとかがわき出るはずもなく、むしろただひたすらに気持ち悪いという印象を受けた。
「落ち着かないからやめて。……って、なんか恭兄ぃ今日大人しくない?」
ふとした違和感。
いつもなら『琴音ちゅわぁぁああん』とか言いながら飛びついてくるか、ご自慢の本格的なカメラを取り出して被写体である私の許可なく撮影会が開催されるかのどちらかのはずなのだが、今日にいたってはただ私の向かい側に座り、私のことを笑顔で眺めてくるだけだった。
私に直接何かしてこようものなら鉄拳制裁でもなんでも加えて黙らせられるのに、今回はただ見られているだけなので怒りづらい。
もし恭兄ぃがこのことを見据えて大人しくしているというのなら一周まわって一本取られたと感心するが、そうじゃないのなら明らかに異常だ。
なんか調子が狂うというか、一度その感覚を覚えてしまうと、どうにも気になってしょうがない。
そういった経緯から、私は恭兄ぃに素直に聞いてみることにした。
「あはは……実はちょっと徹夜で発明品の点検をしていてね。だからちょっと疲労困憊というか……そんな感じなんだ」
その理由は意外と単純で、それなら仕方がないとつい納得してしまった。
「琴音ちゃんが訪ねてくるってわかってたら熟睡して精力回復に努めていたというのに……僕としたことがぁ……!!」
「はぁ……そういう事言わなきゃ“カッコイイ”のになぁ……」
「琴音!?」
特に何も考えずに発言した瞬間、一人だけソファに腰を下ろしていた秋兄ぃがガタリと音を立てて立ち上がった。
秋兄ぃが過剰な反応を示したせいで、私自身も自分の言ったことを必要以上に意識してしまい顔が熱くなる。
「い、いや!? 違うからね!? 私そういうつもりで言ったんじゃないからね!? ほら、あの、客観的に見て恭兄ぃはカッコいいから……」
「カッコイイ!? 琴音……嘘だろ……!?」
必死に誤解を解こうとするも、上手く口が回らず逆効果という結果に陥ってしまう。
そんな中、話題に上がっている恭兄ぃはというと。
「竹田兄、少しは落ち着いたらどうなんだ。琴音ちゃんが戸惑っているだろう?」
予想に反し、意外にも紳士的な振舞いをしていた。
三人の中で、変態が一番堅実だという矛盾。
もし寝不足のせいで恭兄ぃがこんなにもまともになるというのなら、年中寝不足でいてもらいたいものだ。
「なぁ恭平。もしかしてお前って……朝弱い?」
さすがの秋兄ぃも恭兄ぃの異常な振舞いが気になりだしたのか、そう問いかけた。
「いや、そういうわけじゃないんだが……色々と考え込んでしまってね」
「へ~、恭兄ぃでも悩むことあるんだ~。なんか意外」
普段、私といるときは常におちゃらけていて、どうしようもないド変態な恭兄ぃ。
そういう彼が普段の恭兄ぃだと思っていた私にとって、言っちゃ悪いけど、人間らしいことで頭を悩ませる事なんてないと思っていた。
成績優秀で、頭脳明晰で、見た目だって絶対だと言い切れるほどに整った顔立ちで、そしてなにより自分の気持ちにいつも正直に生きている。こんな――勉強ができなくて今から不正を取り繕おうとしている私とは正反対の彼が、何を悩んでいるというのだろうか。
きっとそれは、私には想像もできない事なのだと思う。
思えば、たしか恭兄ぃは両親がいないらしいし、さらにはお世話になっていた祖父母にまで家を追い出されたと聞く。
恭兄ぃ自身にも問題があったのかもしれないけど、それでも家族がおらず、親戚に見捨てられた気持ちなんて、それらすべてを持っている私には到底わかりっこないことだ。悩みの一つや二つ、あったってなにもおかしくないのかもしれない。
もしかしたら、私に必要以上にかまってくるのも、寂しさを紛らわすためとかだったりするかもしれない。
表だけ見れば悩みを知らぬような振る舞いをする恭兄ぃだけど、その裏には重く苦しいものを背負っているのかもしれない。
もしそうなら……。
私が勝手に考えているだけで本人からしてみればとんだ見当違いなことかもしれないけど、それでももう少しだけ彼の気持ちを考えてあげてもいいかなって思う。少なくとも、すぐに殴ったりしちゃうのはやめよう。
当然、それらは甘やかすってことじゃなくて、あくまでも何も考えずにアタマっから蔑ろにはしないという意味なので、いつものようにいきなり抱きついて来たり、体中を触ってきたり、写真を取られたりなどというのはご遠慮願いたいけども。
それでも暴力に頼るのだけはやめようと思う。実は前、海兄ぃにも『暴力だけはやめたほうがいい』みたいなことを数十分の時間をかけて諭されたこともあるし。私も大人にならなくちゃ。
あ、でも、もしそれで恭兄ぃが調子づいて今以上のことをやってきたら、その時は自分の身を守るために解放せざるを得ないけどね。うん。それは妥協してもらわないと私が困る。
とにかく、普段がどうであれ、今の恭兄ぃは私にとってほぼ無害。恭兄ぃのためにも、そして自分のためにも、怒らないで接してあげよう。
「恭兄ぃ、となり座ってもいい?」
「「えっ!」」
優しくしてあげようと思った矢先、やり方がわからずにとりあえず私の方から歩み寄ってみようと思い取った行動なのだが、あまりに露骨すぎて秋兄ぃと恭兄ぃが声を合わせる結果となった。
秋兄ぃはともかく恭兄ぃにまで驚かれたとなると、私が普段彼に対してどのくらい酷い対応をしていたかが伺えた。まぁ十中八九悪いのは恭兄ぃなんだけど……それでも、普段がひどいからという理由で普通に話しかけてきてくれた時も無意識に避けていた気がするし、それはやっぱり可哀相なことだよね。
「琴音ちゃん……熱でもあるの?」
いくらいつもの私らしからぬ行動をとったからって、そこまで心配するのは返って傷つくじゃんさ。
なんて思いながらも、慈悲深い気持ちが溢れている私は気に止めないようにして、恭兄ぃの隣に腰を下ろした。
「熱はないけどさ、なんていうか……たまにはいいんじゃない? こういうのも!」
「惚れてまうやろ~!!!」
「ちょ、恭兄ぃキャラ壊れてるから!」
「もう僕はここで死んでもいいかもしれない」
「大袈裟だなぁ」
あはは、と、私の口から自然に笑い声がこぼれた。
恭兄ぃと話をしてて素直に楽しいと思えたのは、これが初めてかもしれない。
早朝ののどやかな雰囲気に感化されたのかは不明だが、今日の私は自分でもわかるくらい温厚だ。でもそのおかげで恭兄ぃとこうして普通に話ができたわけで、早起きは三文の徳とはまさにこのことであると実感していた。
なんていうか……人に優しくするって、いいよね。
……う~ん、これが悟り世代というやつなのだろうか?
「琴音が……ついにぶっ壊れた……」
清々しい心境の私とは裏腹に、世界の滅亡を知った人みたいな勢いで膝から崩れ落ちる秋兄ぃ。
自分でもありえない行動をとっているとは思うけど、そこまで大袈裟の大盤振る舞いを見せつけられると、純粋に悲しい気分になってくる。
『遅刻だぁぁぁぁぁ!!!!!』
「うるさっ!?」
突如として響き渡る叫び声。
その声量に、私は思わず耳を塞いだ。
「な、なんだなんだ!?」
砂と化してサラサラと消えゆく秋兄ぃも正気に戻った。それほどの海兄ぃの大叫喚。
急すぎて何を叫んだのかは聞き取れなかったが、ご近所に多大なる迷惑をおかけしたのはまず間違いないだろう。
しかし、その弾みで忘れかけていた私の本来の目的を思い出すことができた。
そう、不正だ。
海兄ぃが起きてしまった。そして、叫び声をあげた。
とすれば、おそらく同じ部屋で眠っているであろうエメリィちゃんも、目が覚めてしまったはずだ。
エメリィちゃんはまだ子供。そんな子の目の前で、堂々と不正の協力を依頼するなんて、想像しただけでも私の数少ない良心がズキズキと傷んだ。
ゆえに、協力をお願いするチャンスは今しかない。
幸か不幸か、恭兄ぃは私の気まぐれな優しさで少し私に甘くなっているはずだ。別にそれが目的で優しくしたわけではないが、そんなこと今はどうでもいい。今はこのチャンスを生かす時である。
ようするに、私に甘くなっている時にお願いすれば、不正に協力してもらえる可能性が高いというわけだ。
と、いうわけで。
「恭兄ぃ! お願いがあるんだけど!」
「おぉ突然だね琴音ちゃん。なに? 僕にできる範囲であれば協力するよ?」
私の読み通り、恭兄ぃが私に向けたその表情は、なんかもう幸せすぎて柔らかく崩壊したみたいな、そんな表情だった。
恭兄ぃの優しさに漬け込むみたいで気が進まないが、何度も言うように私の人生がかかっている。もし万が一不正が不可能になってしまったなんてことになったら、私の休日は地獄の補修に変わってしまうのだ。
今心を鬼にせずいつするのか。そういうことだ。
「実はね、今日の授業で英語のテストがあるんだけど」
「うむ」
「そのテストで赤点を免れないと、私土日と祝日に毎回補習になっちゃうんだ」
「ほうほう。それでそれで?」
「だからね、恭兄ぃに何とかしてほしいな~なんて」
「いいよー」
「やたっ! ありがとう恭兄ぃ!」
予想通り、あっさり引き受けてくれた恭兄ぃ。
これで今日のテストは安泰である。
「で? 僕は何をすればいいのかな?」
「あ、そうだった。えーっとね、とりあえず今日のテストの替え玉とか、もしくは答えを丸写しできる機械とかあればうれしいんだけど……」
私はなるべく私自身が答案用紙に答えを書かないで済むような方法を提案する。
どういうことなのかといえば、たとえば誰かの考えていることが読めたり、答案の答えを誰にもバレずに視認できる道具を恭兄ぃ受け取ったとする。
通常の人ならそれで100点満点確実なのだろうが、いかんせん今回の道具の使用者は私だ。たとえ相手の考えていることを読み取って答えを知ったとしても、たとえ答案の回答を怪しまれることなく視ることが可能だったとしても、私がその意味を理解できるハズがない。だから答案にだって書き入れることができない。
つまり、私が不正をするにあたって求める条件というのは、次の三つ。
一つ、私自身は何もせずとも大丈夫な方法。
二つ、不正をしても怪しまれずに済む方法。
三つ、何かの不具合で、不正が発覚してしまった時の対処ができる方法。
以上の条件を満たした方法を考え、尚且つその方法それにあった道具を、恭兄ぃにお願いしたいわけなのである。
というようなことを、恭兄ぃに手短に説明する。
すると恭兄ぃは、しばらく考え込む素振りを見せると。
「ごめん琴音ちゃん。僕はキミの力になれない」
と告げた。
その言葉の意味を私の脳が理解するよりも先に、口が動いていた。
「え? え? いや、な、なんで……」
恭兄ぃならなんとかしてくれると完全に信じていた私にとって、それはあまりにも残酷な死刑宣告であった。
考えていなかったわけじゃない。
もし恭兄ぃが協力してくれたとして、私が想像するような理想の不正が行える道具を、はたして恭兄ぃが持っているのか? とか。仮に持っていたとして、その道具は正常に作動するのか? とか。そもそも恭兄ぃが私の話に乗ってくれるのか? とか、考えれば考えるだけ不安な要素は逐一浮かび上がってきていた。
でも、その一方で恭兄ぃなら何とかしてくれるという根拠のない期待を抱いていたことも、もしかしたらあったかもしれない。
……どっちにしろ、私は馬鹿だから、恭兄ぃが協力してくれないと何もできない。だから身勝手で不躾なお願いになってしまうけど、恭兄ぃには無理矢理にでも何とかしてもらわないと困るのだ。
「お願いだよ恭兄ぃ!! 私……、私このままだと本当に危ないんだよ!!」
苦虫を噛む思いで、私は恭兄ぃに懇願した。
なんでダメなのだろう。道具がないのか、はたまた別の理由なのか。よくわからないけど、今の私には、恭兄ぃしかいないのだ。
そんな私の思いを知ってか知らずか、恭兄ぃはどこか悲しげな表情を浮かべると、口を開く。
「……だけど琴音ちゃん。テストは自分の力でやらなくちゃダメだと思うよ」
「なっ……!?」
その言葉を聞いて、困惑して必死だったせいか、恭兄ぃに苛立ちだけが募った。
わかってるよ……。自分でやらなきゃいけないことくらい、十分に理解している。でも、それがわかっていても尚こんなに頼んできているのだ、それほど切羽詰っているっていう証拠じゃないか。
道具がないならしょうがない。
方法がないなら納得はできる。
でも、方法も道具もあるのに、インチキだからという理由で断られるのは諦めが効かないというものだ。
だからお願い。一度だけでいい。恭兄ぃ、私の我が儘を聞き入れて……!!
「お願いだよ、恭兄ぃ!」
「……やっぱりダメだよ琴音ちゃん。琴音ちゃんの力以外の方法でテストをどうにかすることに関しては、僕は一切協力したくない。理由は数点あるが、一番は真面目に頑張ってる他の子たちに申し訳が立たないし、そしてなによりキミのためにならないからだ。琴音ちゃんには悪いけど……そういうことなら諦めて欲しい」
「そんな……!! あ、そだっ、秋兄ぃからもなんとか言ってよ!」
ずっと拒み続ける恭兄ぃを説得するため、秋兄ぃにも協力をお願いした。
私に話を振られた秋兄ぃは、のんびりとしたいつもの調子を崩さぬまま、恭兄ぃに話しかけた。
「あ~、じゃあそうだな……えっと」
何かを躊躇っているのか、なかなか言葉を発しない秋兄ぃ。
しかし数秒経った頃、考えがまとまったのか、ようやく喋り始める。
「……なぁ恭平。わりぃけどさ、今回ばっかりは……琴音に協力してやってくれないか?」
「竹田兄、それは本気で言ってるのか?」
「あぁ、頼む。俺に免じて、“琴音を信じて”やってくれ」
あぐらをかきながら、深々と頭を下げる秋兄ぃ。
私を信じて……?
秋兄ぃの言っている意味はよくわからなかったが、恭兄ぃにはその意図が伝わったらしく、しばらく考え込みはじめた。
「信じて……か。……わかった、協力するよ」
「え!? いいの!?」
よくわからないけど、秋兄ぃの説得のおかげか、協力してくれることになったらしい。
よかった……。とにかくよかった。さすが私のお兄ちゃん、実に見事だった。
とりあえず、後で恭兄ぃには協力してくれた事へのお礼と、無理やり協力させてしまった事への謝罪を告げておくことにしよう。
「協力してくれてありがとね恭兄ぃ! 安心したせいかちょっと涙出てきちゃったよ。あっ、そうだ! 朝ごはんまだ食べてないでしょ? お礼に作ったげる!」
「え? ホントに!? ヒャッホォオオオウ!」
なんか予想以上に食いついた。
「ほんとほんと! あ、そだ、海兄ぃも食べるかな? ちょっと聞いてくるね!」
先程まで絶望に染まって全身重たく感じていたのだが、今の体の軽いこと軽いこと。
どういう方法にするかはまだわからないけど、一応これでテストは何とかなったわけだから、もう私の心は海に行って水着になった時のような開放感に包まれていた。
あぁ、楽しい。人生って楽しいな。
自分でも笑っちゃうくらい気分上々になりながら、私は海兄ぃがいるであろう、二階の部屋へと向かうため階段を駆け上がった。
第59.5話 その1
~危機感よりも罪悪感よりもテスト~
原因はわかっている。全部、私のせいだ。
私が無理やり恭兄ぃに協力させたせいで、こんなことになってしまったのだ。
目を開けて、最初に見えたもの。
それは、ただただありきたりな、素朴な白い天井だった。
プールでよく嗅ぐような、塩素の混じった消毒液の独特な香り。
まるで新品の消しゴムのように真っ白いベッド。目が覚めたとき、私はそこで横になっていた。
布団がわりに敷いてあった薄めのシーツをどかしながら体を起こした時に、壁に掛かっていた鏡の中の自分と目が合い、そして気づいた。
“私は海兄ぃになってしまっている”。
その事実を知ったとき、自分でも意外に思えるくらい私は冷静でいられた。というのも、驚くとほぼ同時に、こうなってしまった原因をはっきりと理解できたためだ。
今朝、私のわがままを聞き入れてくれた恭兄ぃは、私の、英語のテストの不正の件にふさわしい発明品がないか、わざわざカバンから出してすべて並べて説明してくれた。
大きなものから小さなものまで、全部合わせるとザッと100は優に超すのではないかと思われるほどの発明品の数々。
その中には、吹きかけるだけで肌に艶やかさが出る魔法のようなスプレーだったり、かと思えば四角い箱で、蓋を開ければドカーンという大きな音が鳴り響くびっくり箱のような道具もあった。
用途が全くわからないものも結構あったのだが、効果が未知数の多種多様な面白い発明品には、どこか私の心を揺さぶるものがあった。多分ゲームが大好きと似たような理由で、純粋に私はそういうワクワクするものが好みなのだと思う。
そして今、海兄ぃのズボンのポケットの中に入っていたこれも、恭兄ぃがくれた、発明品の一つだ。
「通信機……これ、どうやって使うんだっけ……」
朝方恭兄ぃから教えてもらった使い方を思い出しながら、私は通信機を装備していく。
まずはピンマイク。制服の襟元に付けるだけの簡単な道具。
次に、イヤホン。ポップな感じのカエルのデザインが施された、可愛さ目立つそれを、私は左耳につけた。
この通信機は、私のほかに海兄ぃも恭兄ぃから受け取っている。そして、海兄ぃのと私のとで、まるで電話のように、会話ができるのだ。
ちなみに、私が受け取ったイヤホンはニンジン型で、海兄ぃが受け取ったのが今私がつけているカエル型のイヤホン。
そんな私が、海兄ぃのカエル型のイヤホンを持っているということは、私は今『海兄ぃの姿になっている』のではなく、『海兄ぃと入れ替わってしまっている』という線が濃厚だろう。
ゲームやマンガは子供の影響に悪いだなんてよく聞くけど、こういう非常事態の時でも私が冷静でいられるのは、紛れもなくそれら娯楽のおかげであるわけで。
世の中、何が良いとか、何が悪いとかっていうのは、受け手の捉え方の違いであり、人によっては良くも悪くもなるってことを今実感している。
「海兄ぃ……! 出て~!」
通信機の電源を入れ、私は海兄ぃとの通信を試みる。
もしこれが《入れ替わり》だとしたら、私は今海兄ぃの高校にいて、逆に海兄ぃが私の中学校にいるということになる。
入れ替わる直前、突然体調が悪くなって気を失ったわけだけど、私が気を失った場所は教室だった。つまり、私が海兄ぃの身体で保健室に居るように、海兄ぃもまた、私の身体で私の教室にいるということだ。
正直、私は裏表の差が激しい人間だ。
普段、海兄ぃや秋兄ぃ達の前で見せている私が通常の私なのだが、いかんせん私は自分でも嫌になるくらいにあがり症なようで、学校とかでは借りてきた猫のように大人しいし、無口だし、なんならまともに会話したことのあるクラスメイトさえ少ない。
もっと明るくて、元気で、普通にみんなと接することができたら……なんてことはしょっちゅう思うけど、あいにく実現できるほどの勇気を持ち合わせていないから、結局ズルズルと今の微妙な立ち位置に居続けてきた。
が、今回、海兄ぃが私になったことで、海兄ぃが普段のノリの良い私を学校での私だと思い込み、教室でも同じように振舞ってしまったら。調子に乗ってベラベラと私のクラスメイトに話しかけようものなら。そう考えると、私は気が気ではいられなかった。
海兄ぃのことを信用していないわけじゃないけど、もしこの《入れ替わり》が終わったとして、次の日学校に行ってみたらクラスのみんなが私のことをいつもとは違う目で見てきたり、何かしら違和感を覚えちゃうような素振りをされたら、多分私は心が折れてしまうと思う。あまりの気まずさに泣き出してしまうのではないかと自分で自分が不安になる。
しかしその一方で、今まで私が保ってきたもの全部ぶち壊してもらい、また一からやり直したいなんて願っている自分もいて、結局のところ、私は自分の気持ちに、イマイチ整理がつかないでいた。
そのようなことを考えていると、しばらく繋がらなかった通信機がどこかに繋がったのを確かに感じた。
『も、もしもし……?』
イヤホンを通して聞こえてきたその声は、確かに“私の声だった”。
馴染み深いような、それでいてどこか新鮮なような。
自分で声を発するのとは違い、客観的に聞いた時の自分の声は、どこか戸惑いの色をちらつかせていた。
「えと、その、もしもし……?」
関係ないけど、海兄ぃの身体になってみて、気づいたことがある。
男の人の身体だからだろうか、声を出す時、妙に喉の奥に引っかかるものを感じていた。例えようもないけれど、どことなく声帯が震えているような……そんな蟠りがあった。性別の違う私の身体とは似ているようで構造が異なっているのだと、その時初めて理解した。
全員が全員そうってワケじゃないのかもしれないけど、少なくとも海兄ぃは、声を出すとき毎回この喉のイガイガを我慢しているのだろうか。
完全に大人の男性のように、吐き出しづらい野太い声。
首の真ん中にポコンと出っ張った喉仏が、苦しく感じてどうにも慣れそうにない。
ただ性別が違うだけで、人間はここまで違う生き物になってしまうなんて……。他にもいろいろ知りたいと思うと同時に、少しだけ怖いと感じてしまった。
『えと、どちら様ですか』
たどたどしいその物言いを聞き、その時初めて、私は気付いていても海兄ぃが《入れ替わり》だと気づいてる保証はどこにもないことを知る。
私はこの現状を、たとえ憶測だけだとしても理解できていたからまだ良かった。でも、もし理解ができないままいたらどうなっていたのか? ……きっと、不安になっていたことだろう。
要するに、海兄ぃは今そんな状態なのだ。
自分の身に何が起こったのかも理解できていない。わかるのは、目が覚めたら私の身体になってしまっていたということだけ。そんなの、不安にならない方がおかしい。
以上のことらを察した私は、なるべく不安を煽らせぬように努力をしながら、言葉を返す。
「も、もしかして海兄ぃなの……?」
心構えが出来ていた私は、イヤホンごしの声を聞いて相手が海兄ぃだとすぐにわかった。
しかし、心構えができていないかもしれない海兄ぃは、はたして今の私の声を聞いて『自分の声だから《入れ替わり》だ!』などと容易に理解できるのだろうか?
心構え出来ていたはずの私だって、イヤホン越しに聞こえてきた自分の声を、一瞬だけだが自分の声だと認識できなかった。
先程も言ったと思うが、普段自分で話しているのと、客観的に自分の声を聞くのとでは、少なからずどうしても想像と違いが出てきてしまう。
さらにいえば、私は女だから声質もある程度見分けがつくような感じなのに対し、海兄ぃは声質が似たり寄ったりになってしまう判断しづらい男性。
自分の声を、自分の声だと認識できないことだってきっとあるはずなのだ。
そのようなことを色々と踏まえた結果、私はいつもの慣れた呼び方で、海兄ぃに私の存在をアピールする形をとったのである。
そして、その考察が功を奏したのかはわからないが。
『え? 海兄ぃって……お前、琴音か!?』
海兄ぃもまた、通話している相手が私だということを理解してくれたようだった。
それにしても、イヤホンの奥が少しばかり騒々しい。
私の予想のとおり、おそらく海兄ぃは私の教室で通話しているのだろう。
あんまり変な行動を取って欲しくないとは思うけど、今はそれよりもこの《入れ替わり》を何とかするのが先決だと思うので、私は気に止めないようにし話を続けた。
「海兄ぃだよね!? よかったー、とりあえず無事なんだね!」
『お前、本当に琴音か!? なんかあったのか!?』
私が答えようとしたとき、海兄ぃがなにやらブツブツと呟き始める。
『もし通話先が琴音なら、もっとこう可愛らしい声が聞こえてくるはずだよな……。なのになんで不良っぽいドスの利いた謎の男の声が……? あれ、これってもしかしてオレオレ詐欺的な……』
こういう独り言のようにボソボソと声を漏らしている時の海兄ぃは、ほぼ確実に考え事を無意識のうちに喋ってしまっている時の状態だ。
そして当然、この状態の海兄ぃが喋っている内容は、考え事ゆえ全て本音なので、時折とても辛辣な独り言が飛び出したりして、結構落ち込んだりすることも多々あったりする。
周りの人の精神をも揺るがす海兄ぃの悪い癖。早急に直して欲しい次第である。
それにしても、混乱しているのかはわからないが、海兄ぃは私のこの声が自分自身の声だということにも気づかず、頭の中でかなりボロクソ言っている。そしてそれを聞いてる身としては、高度な自虐ネタを披露してもらっているようで、何とも言えない気持ちだ。
……やれやれ。
おそらく海兄ぃは、未だにこの現象が《入れ替わり》だということを理解できていないのだろう。だから自分の声を罵るという新喜劇を披露してしまうのだ。
この自虐ネタ、意外と滑稽で面白かったのでしばらく聞いていたい気持ちもあるのだが、ここは大人しく海兄ぃに『この声は自分の声だよ!』と教えてあげることにしよう。
そう考えた私が口を開くとほぼ同時に、私の幼なじみである小野 和也――こと、カズっちゃんの声がイヤホンから微かに聞こえてきた。
『なんだよ!?』
突然、海兄ぃが怒鳴り声を上げた。カズっちゃんと会話しているのだろうが、声を拾うピンマイクからわずかに距離があるせいか、カズっちゃんが何を言っているのかまでは聞き取れない。だから、なぜ海兄ぃが急にキレたのか理解できず、少しばかり戸惑った。
おまけに、海兄ぃが声を荒らげた瞬間、ずっと聞こえていたざわめきがピタ……っと静かになるのを感じた。きっと急に大声を出すものだからクラス中に注目されてしまったのだろう。
私が保ってきたものを全部ぶち壊して変わるキッカケになったら、などと考えたりもしたが、やはりいざとなるとめちゃくちゃ怖いし、めちゃくちゃ恥ずかしい。
恥ずかしさに明確な理由なんてないけれど、生まれつき私は人に注目されるのがどうも苦手らしく、想像するだけで身の毛もよだつ気恥ずかしさで、私は思わずベッドのシーツに顔をうずめた。
あああああああ! 恥ずかしい!! 死にたい!! なんてことしてくれたんだ海兄ぃのアホ!!!
「あっ」
シーツにくるまり身悶えしていた拍子で、耳からイヤホンが外れてベッドの下へと転がり落ちてしまう。
慌ててベッドを降りイヤホンを回収すると、すぐにそれを耳にあてがう。そして、未だブツブツと呟いて考え込んでいるらしい海兄ぃに、とりあえず教えてあげることにした。
「……まさかとは思うけど、心配だし一応説明するよ。私は今海兄ぃの身体になっちゃってて、おそらく海兄ぃも私の身体になっちゃってると思う。つまり、私と海兄ぃは入れ替わっちゃってるってことだよ。あと散々ひどいこと言ってたけど、この声は海兄ぃ自身の声なんだからね」
『…………あ、なるほど』
ようやく理解してもらえたようだった。
私なんて目が覚めて、身体の異変を知ってすぐに今の状況を察することができたのに……海兄ぃってば情けないなぁ。なんて、優越感に浸ってみたり。当然口には出しませんけどね。ゲーム脳だって指摘されそうですし。
『さすが俺の声。超カッコいいイケメンボイスだぜ!』
なんかすごい手のひら返す声が聞こえた。
さっきまで不良声だとかドスの効いたダミ声だとかさんざん酷い事を言っていたくせに、自分の声だとわかるとめちゃくちゃ賛美し出すなんて……自分大好きか!
「まったく……だからさ、そういうわけだから、みんなの前であまり変なことしないでね。今度学校行くときに変な目で見られるの私なんだからね」
とりあえず注意を促しておく。
学校行きました → 嫌われてました。じゃ洒落にならない。
『そっか、入れ替わってるんだもんな……極端な話、今ここで俺が全裸になった場合、痴女呼ばわりされ続けるのは琴音だもんな。おーけー、気をつける』
「だから教室でそういうこと言わないでくれない!? もし誰かに聞かれたら誰もいないのに一人で卑猥な話してるド変態みたいな印象になっちゃうから!!」
みんなまさか私が通信機で誰かと会話してるなんて思わないから! 独り言が激しいやばい子みたいな感じになっちゃうから!
『残念だけどカズくんには聞かれたぞ。なんか急に脱ぎだした琴音を想像したっぽくて鼻血出して倒れてる』
「なんてこった!」
けど……まぁ、カズっちゃんなら聞かれてもいいかなとは思うけど。幼馴染だし。昔からの付き合いだし。
いや、良くないけどね。ほかのクラスメイトとかよりはマシだというだけで全然良くないけどね。
『ははは』
「はははじゃねーよ! 何笑ってんの!? いい、絶対に変な行動しないで! この際だから言うけど私めちゃくちゃ対人スキルがなくて素で接することのできる友達はカズっちゃんとあと楓果ちゃんって子ぐらいなの! わかった!?」
幼馴染の小野 和也と、同じクラスの里中 楓果ちゃん。この二人が私が唯一いつものノリで会話できる友人だ。
カズっちゃんは昔からの馴染みだからいいとして、楓ちゃんは中学に入って同じクラスだったからというのが知り合うきっかけだったわけだけど、なぜかわからないけど毎日のように私に大阪人特有のノリで話しかけてきてくれるから、いつの間にか私もつられて素で接してたみたいな間柄だ。
楓ちゃんと仲良くなった頃は、私もテンション上がって『この調子でクラス中と友達になったるで!』みたいに意気込んでたけど、結局何も変わらないまま半年以上過ぎてたわけで。
濁さず言うと、もっと友達ほしいなって思う。そしていずれは学校中の子と友達になって、肩身の狭い思いを全くしない学校生活を迎えられたらいいね。勿論ただの妄想です。
『あ、楓果ちゃんも今俺の後ろにいるぞ。なんか急に脱ぎだした琴音を想像したっぽくて琴ちゃんスケベやわぁって言ってるけど』
「ますますなんてこった!」
スケベじゃないよ……!! 私全然スケベじゃないよ楓ちゃん!! 私がスケベなら全国各地みなスケベってくらい私は清い子だよおそらく多分!
というか海兄ぃふざけないでよ! なんで二人が近くにいるってわかってるのに変なこと言っちゃうのよ! 勘違いされて嫌われたらそれこそ私終了のお知らせだよ!
『ところで琴音。お前の身体使って変顔とかしてみてもいい?』
「もう意味わかんないよ! やる意味なくない!?」
『いや、琴音のそういうの見たことないからレアかなーって』
「恥ずかしいからダメ!! やんないでよ!? 絶対やんないでよ!?」
『おーけー。ネタふり了解』
「上○竜兵さん的なノリで言ってるワケじゃないからね!? これマジなヤツだから!!」
『はっはっは。冗談だよ冗談。つーかここ鏡ないから変顔したところで見れんしな』
「鏡あってもやるな!」
なんなの海兄ぃのヤツ。マジ意味わかんない。私もう意味わかんない。ムカついたから海兄ぃの身体で変顔してやる。
両手を顔の前に持って行き、適当に指で引っ張る。
ムニュ。
うん、思った程面白くなかった。
海兄ぃの顔を弄んでいると、イヤホンがガサガサという音を発し始めた。通信機の向こう側で、海兄ぃがいじくっているのだろうか。
しばらくすると、妙な音も収まった。
「海兄ぃ、なにしてたの?」
『琴音のアレのアレをアレしてました』
「ちょっと待ってホントになにしてたの!?」
怖い! 姿が見えない分めちゃくちゃ怖い!
『おやおや~、俺はただ琴音のイヤホンの音量を最大にしてただけですよ~? 何想像したんですか琴音さんは~』
わざと煽るような言い方をしてくる海兄ぃに、温厚(自称)な私もさすがにイラッときた。私の声のくせにウザすぎだろ。
こうなったら手段を選んでいられない。海兄ぃ許すまじ。
というわけで。
「今から海兄ぃの顔面思いっきりぶん殴るね」
海兄ぃの身体はこちらの手中にある。つまり、そっちが私の身体を使っていろいろできるように、私だって海兄ぃの身体に好き勝手できるわけだ。言うなれば人質だ。
だからもし海兄ぃが私の身体に何かしらするようならば、私だって容赦はしないということを教えてあげよう。海兄ぃが調子に乗らないようにする良い機会だ。
『おいやめろ! それはお互いに悲劇しか生まない! 俺が悪かったから絶対にするんじゃないぞ!?』
「ネタ振り了解で~す」
『琴音さんマジすみませんでした!!』
その謝罪からは誠意が伝わってきたので、とりあえず許してあげることにする。
「じゃあ海兄ぃ。くれぐれも、私と海兄ぃが入れ替わってることを誰にも悟られないようにしてね」
誰かに怪しまれるということは、私の様子がおかしいと思われているということ。それでは困るのだ。
つまり、バレないようにするってくらいの覚悟で、一般的な私を演じてもらわなくてはならない。
「特にカズっちゃんや楓ちゃんなんかはよく話とかするから、ちょっとしたことで怪しまれちゃう可能性あるので要注意ね。他のクラスメイトは……うん、あまり関わりとかないし大丈夫かな……」
自分で言ってて悲しくなってきた。
なんで私がこんな思いしないといけないんだ。
『え? ちょっとまって』
「ん? なに?」
『カズくんと楓果ちゃんにはもうすでにバレてるというか……俺から話しちゃったんだけど』
「えぇ!? カズッちゃんと楓ちゃんに話しちゃったの!?」
こんな突拍子もない話、容易に信じられるわけがない。
だから普通なら私がイカレたと思われても仕方のないことだから、特に仲のいい二人にはそういう風に思われたくなかった。
しかし、そんな私の不安はどうやら杞憂だったらしく、
『あぁ、二人とも最初は半信半疑だったがな。何とか信じてくれたよ、いい友達持ってんじゃねぇか』
という海兄ぃの言葉で、一気に肩の荷が降りた気がした。
海兄ぃの説明の仕方が良かったのか、それとも二人が単純で素直なのかはわからないけど、とにかく私の想像の通りにならなくてよかったよ。
『琴ちゃん、聞こえとる? アタシやアタシ。聞こえてたら返事してや』
不意に、聞き慣れた関西弁がイヤホンから聞こえてきた。
どことなく楽しげな雰囲気を匂わせる楓ちゃんの言葉を聞いて、私は更に安心することができた。
「あ、楓ちゃん? ごめんねなんか変なことになっちゃってて。理解に苦しんだでしょ」
いくら二人が納得してくれたとはいえ、そこまでに至る経緯はきっと複雑で大変なものだったと思う。
私は恭兄ぃの発明品に備わっている不思議な力の数々を知っているからいいものの、当然二人はそんなもの知らないわけだから、何もない状態からこの《入れ替わり》を信じるまでには相当頭を悩ませたはずなのだ。
なのにも関わらず、最終的には信じてくれている。鼻で笑い適当にあしらうこともできたのに、ほんと二人はとても優しくて頼りになる友達だ。もう私の誇りといってもいい。それぐらい大切な人たちだ。ちょっと大げさかもだけどね。
『琴ちゃんの様子がいつもとちゃうかってん、話聞いてむしろ納得したわ』
陽気に言う楓ちゃん。
様子がいつもと違かったというその言葉に、私は「ははは……」とわざとらしく相槌を打ちながら、海兄ぃの右頬を思いっきりつねってやった。
うん、痛い。とても痛い。よってこの現実は夢じゃないのだろう。
海兄ぃのやつ、やっぱり怪しまれるような変な行動したんだな……。もう本当に勘弁して欲しい。
とりあえず、これ以上私の日常を荒らされる前に、海兄ぃと元に戻る対策を取ったほうがいいかもしれない。
そう思いたった私は、「あ、そうだ」と一言つけてから海兄ぃに話しかける。
「海兄ぃ」
『ん? どした?』
海兄ぃはこの状況に危機感のかけらもなさそうな、間延びした口調で返事を返した。
危機感が薄いのは私も人のこと言えた義理じゃないのだが、それにしたって呑気すぎるその反応に、どことなく不安感を抱いてしまう。
「これってさ、やっぱり今朝の……恭兄ぃの道具のせいだよね」
私が言うと、
『あぁ、おそらくな。てか絶対アイツのせいだ』
海兄ぃも大方推測がついていたようだった。
この《入れ替わり》の現況。状況から見て、恭兄ぃの発明品の誤作動による現象だと言っていいだろう。
今朝、海兄ぃが発明品の一つを手に持ったままバランスを崩し、私を巻き込んで倒れ込んだ。
そして、その手に持っていた発明品から電流が発生。密着していた私たちの身体をその電気が惜しげもなく駆け巡った。
その場ではなにも目立つ変化はなかったのだが、学校に登校して、しばらくしたあと体調が急激に悪くなった。
声を出すこともできず、全身の力が抜けて動かすことのできない脱力感に苛まれ、あげく身体中が熱を持ち始め、人体の内側から焼かれていくような感覚。割と本気で死を覚悟しながら意識を失い、目が覚め、この状態というわけだ。
できることならあの時の苦しみは二度と体験したくないが、元に戻る際に同じ手順を踏まなければならないとした場合のことを考えて、今から心の準備をしておいたほうがいいかもしれない。
『恭兄ぃって……さっき山空さんが言うてた?』
海兄ぃはどこまで楓ちゃんたちに説明したのだろうか。
このぶんだと、恭兄ぃが超ド変態だといういらない情報まで説明してそうで怖い。
『あぁそいつそいつ』
『ホンマに居ったんやな』
あ、これ説明してるわ。恭兄ぃが人類を凌駕するレベルの変態だって説明してるわ。楓ちゃん露骨にドン引きしている風だもの。
事情を知っているなら、もうしょうがない。いずれ楓ちゃんにも恭兄ぃの魔の手が忍び寄る可能性もあるかもわからないし、楓ちゃんには危機感を持ってもらったほうがいいよね。うん。
というわけで。
「楓ちゃんは気を付けないとだめだよ! 楓ちゃんぐらいだと特に食べ頃なんだから!」
『あ、うん……注意しとくわ……』
楓ちゃんの身を案じた親切心からくる物言いだったのだが、何を間違えたのか、先程よりもあからさまにドン引きされてしまった。
自分でも『食べ頃』という表現はいささかオカシイのではないかと思ったが、それでも他に適切な表現が見当たらなかったわけで。楓ちゃんには悪いけど、ここでドン引かれる筋合いなんてなかった。
どうもスッキリしないので、もしこの悲劇に犯人を探すとするならば、海兄ぃのこの変質者まがいの声質が悪いんだと勝手に納得していく。おっ、だいぶスッキリしたぞ? これはなかなか良い兆候だ。
『あのさ琴ちゃん』
心の中で海兄ぃに責任をなすりつけていると、ふいに今まで静かだったカズっちゃんの声が聞こえた。
いつになく真剣な声色。
顔が見えない分、それが怒っている声なのか、はたまた別の感情なのかが全く分からず、否応にも少し緊張が走った。
けれど今からカズっちゃんが言うであろう言葉を聞かないなんていう選択肢はないわけで、というかそもそも別に聞きたくないわけじゃないので、私はイヤホンを軽く指で押さえて聞く体制を取る。
『琴ちゃんって今、どこにいるの?』
必要以上に身構えていた私だったが、カズっちゃんの言葉は何気ない普通の質問だった。
肩透かしを受けたような気分になりながら、私は一応周りを見渡したあと、答える。
「えっと、保健室……にいるみたいだけど」
『保健室……ってことは、琴ちゃんは今海の兄ちゃんの高校にいるってことだよね?』
「う、うん。そうみたいだけど」
入れ替わる直前、気を失うぐらい酷い体調不良に苛まれるのだ。
もしあの異変が廊下を歩いている時だったりした場合には、きっと立っていられずに頽れてしまうはず。とすれば、周りに人がいた場合、唐突に倒れた海兄ぃを心配しこの保健室へと運んでくるのはいわば必然。
だからきっと私は――海兄ぃの身体は、保健室にいたのだ。
私の身体の場合は、机の上に突っ伏すような形になってたから、倒れても居眠りしてるぐらいにしか思わないだろうけどね。
……クラスのみんなに寝坊助な子だって思われたりしてないかな。もしそうだったら嫌だなぁ。私学校ではそんなキャラじゃないんだけどなぁ……。う~……あ~……。
『急に頭がよう冴える少年みたいなこと言うてなにをねらってんねんなカズッちゃん』
クラスの印象に不安感を覚え憂いていると、真面目な口調のカズっちゃんに対して楓ちゃんが何やらよくわからないツッコミを入れた。
楓ちゃんは頭の中で考え事がこんがらがったりするとごく希に変なことを言ったりするので、この若干スべってさえいるツッコミをしたということは、冷静そうに見えて意外と脳内はパニックになっているのだと見受けられた。
まぁ確かに入れ替わっているなんてそうそう信じられることじゃないし。多分理解はしてるけどどこかまとまらないみたいな感じになっちゃってるんだと思う。ゲームで例えるなら、倒し方はわかるんだけどその状況を作り出すまでがわからないみたいな感じ。うん、すごくわかり易い例えだった。
そんなことを考えていると、ふいに海兄ぃがボソボソと何かを呟く声が聞こえた。またしても考え事を喋ってしまう癖が発動してしまっているのだろう。
『楓果ちゃんのツッコミ独特だな……これならもう秋いらないんじゃね……? もし次に秋がツッコミ入れてきたら『チェンジ!』って言い放ってやろうか……』
「秋兄ぃをどこまで追い詰めれば気が済むんだ」
海兄ぃの考え事を聞き、「なんでだよ! 俺からツッコミとったら何も残らないだろやめてくれ!」と涙ながらに懇願している秋兄ぃの姿が容易に想像できてしまった。
私的にはこういう弄られ方もある意味秋兄ぃの実力だと思うのでなんとも言い難いが、秋兄ぃ本人からしてみればそれはとてもとても重大なことなのだと思うので、一応兄の代わりにツッコミを入れておく。
「……で、何が言いたいのカズッちゃん?」
とりあえず聞き返しておくが、正直私は、話の流れからカズっちゃんの言わんとすることは大方想像が付いていた。
おそらくだがカズっちゃんは、私が高校にいるのなら、同じ高校にいるはずの元凶(恭兄ぃ)の元へ行き事情を説明して戻してもらう……とかなんとかそういう考えなのだろう。もちろんその解決方法は私も真っ先に思いついたことだった。
しかし、よくよく想像してみる。すると、数個だけ不安な部分が導きでてしまったのだ。
まず一つ目は、私は今海兄ぃの身体だということ。
私が事情を説明するとして、中身は私でも、はたしてあの恭兄ぃが見た目が海兄ぃである私の言うことを素直にきくのだろうか? という点である。
次に二つ目、一つ目と同じく、海兄ぃが今私の身体だということ。
もし恭兄ぃが見た目第一の考えの持ち主だった場合、その時は確実に私の身体を狙われてしまう。普段私なら少し荒っぽいが蹴ったり殴ったり突き飛ばしたりして事なきを得ているが、あの海兄ぃが私と同じような反撃を出来るはずもないので、その場合私の身体は無事に帰ってくるのか? という点。
だがこれらはあくまでも可能性であり、一貫性として恭兄ぃのロリコンがどこまでのものなのかわからないがための不安要素。私が思うに、おそらくだが恭兄ぃはここまで見境がないなんてことはないと思うのだが……。
やはり確実ではないため、不安であることには代わりはなかった。
そして最後に三つ目……、これは私個人の感情だが、想定外の出来事とは言え、この現状を作り出すきっかけを与えてしまったのは私の単なるワガママに恭兄ぃが答えてくれたからだということ。
私から無理やりお願いしておいて、それが不手際で失敗してこのような形になって、そんな状況で私が恭兄ぃに「元に戻して欲しい」なんて言えるのだろうか? という点だ。
《入れ替わり》が起こったのは私のワガママが引き金であり、それを元に戻して欲しいというのも、言ってしまえば私のワガママだ。
本音を言えば、これ以上恭兄ぃに――知り合いに自分が弱いところを見られたくない。
強がりたいとか、カッコつけたいとかじゃなくて、うまく言えないけど……一番近い言葉を言うなら、“恥ずかしい”からだ。
どちらかといえば私は恭兄ぃのこと好きではないけれど、それは表面上のことで、自分でも知らないうちに私は恭兄ぃにどこか心を許している部分があるのかもしれない。そしてそれは多分、過剰な接触こそあれど、恭兄ぃは絶対に私が本当に嫌がることはしないという安心感があるからだと思う。
だからこそ、親しく思っていた人に私は嫌われたくないのだ。
ワガママを言って疎まれるのも、訝しげに思われるのも、幻滅されるのも、全部が怖い。
あの恭兄ぃに限ってそんなことはあるわけないと頭ではわかっていても、やはりこの身体の根っ子に絡みついた生まれついての性格だけは、どうにもできない。そして、この臆病な性格こそが、過剰な人見知りを引き起こしていることも私にはわかっていた。
身体は海兄ぃなのに生まれついての性格だなんてまさに滑稽な言い分だと思うけど、やっぱり身体が変わるだけじゃ人間の根本的な部分までは変わらないのだと思う。
大袈裟なことくらい理解してるけど、大袈裟だと割り切れないのが私の弱いところだ。こんなんじゃ私は一生人見知りのままだ。あぁ……嫌だなぁ……。
『ならさ、そこにいるであろう、この《入れ替わり》の元凶である変態に話せば今すぐにでも元に戻してもらえるんじゃないのかなぁ~って』
考え事をしながら適当に相づちを打っていると、案の定私の予想通りのことを想像していたらしいカズっちゃん。その幼さを交えた彼の声に、私はハッとなる。
何してるんだ私、こんなに卑屈になってちゃダメだ……! しっかりしろ!
バチン、と、両頬を思いっきり叩いて気合いを入れ直す。鏡に映る海兄ぃの顔には、くっきりともみじマークが押印されていた。
あ、ごめん海兄ぃ。この顔も今は海兄ぃのモノだってこと頭から抜けてたよ。反省します。
それからしばらく。
相変わらずなカズっちゃんや楓ちゃん、そして私の声を客観的に聴きながら、いろいろあって恭兄ぃに近づくと危険だということで話がまとまった。
私としては恭兄ぃを悪役みたいに扱ってしまったことに少しばかり……というか、正直かなり罪悪感を覚えたものの、あながち間違いでもないのだと自分に言い聞かせて納得をしておく。
今朝、恭兄ぃに協力を依頼したことと、妙に恭兄ぃが優しく接してくれたせいで、普段だったら感じないような感情が恭兄ぃに対して生まれてしまっていた。
どうしようもないくらい変態の恭兄ぃに、ちゃんと謝ったほうがいいのかな、なんて考えるのは全部あの優しさが原因だ。まったく、恭兄ぃのヤツはとことん私を困らせる。勘弁してもらいたいものだ。
「はぁ……おかしなことになっちゃったなぁ……」
誰に言うわけでもなく、私はつぶやく。
声に出ているのか出ていないのか、自分でもわからないくらいの小ささで、おそらくピンマイクもこの言葉は拾えていないのではないだろうか。
ボスッ……と、身体をベッドに預けると、私は真っ白な天井を呆けたように眺める。
――本当に元に戻れるのかな。
贔屓目なしに考えると、今の私が恭兄ぃに近づいたら危険なのは先刻の想像の通り危険だろう。恭兄ぃが見境がなかった場合、ひどい目に遭うのは私の身体。これでもかと疑うぐらいがちょうどいい。
でも、元に戻るためにはどちらにせよ恭兄ぃに事情を説明しなければいけない。
どうあがいても危険な行動を取らねばならぬことになるのだが、あまりにも最悪だった場合の被害が大きすぎる。こんな有様になってしまったのは私のせいだけど、いくらなんでもその危険性を妥協する事はできそうになかった。
それに、もし仮に恭兄ぃと接触して、何事もなく元に戻してくれる流れになった場合でも不安はある。
たとえば元に戻るために必要な道具が作動しなかったり、それにいつもみたいに道具の副作用がないとも限らない。
無事に私たちが元に戻れる確証なんて、今のところ何もない。
考えれば考えるほど、体験したことのない恐怖に心が揺さぶられる。
眠れない夜とかに、自分の生きている意味とか、宇宙の始まりとか、そういう壮大な心理を考察し始めた時と同じくらい、不安でしかたなくて、自分が弱く感じてしまう。
もし戻れなかった場合、私は海兄ぃとして生きていくのだろうか。
秋兄ぃとは、もう家族じゃなくなる? お父さんやお母さんとも、もういつものように中身の無いような会話で笑い合うこともできなくなるのだろうか。
怖い。すごく怖い。
海兄ぃからしてみれば、若返ったあげく可愛い女の子になれたのだからそれなりに楽しいのではないかと思うが、私からしてみれば老けた挙句目つきの悪いあんちゃんみたいな感じになってしまったということになるため、とてもじゃないが《入れ替わり》を喜べそうにない。
……ただ、その一方で。
不謹慎かも知れないけど、英語のテストを海兄ぃに受けてもらえば100点取れて補修もなくなるし成績は上がるしでいいことづく目なのではないかという醜い欲望が、元に戻れないかもしれない恐怖と天秤で釣り合いをとっていたりして。
恭兄ぃへの背徳感とか、この状況への危機感とか、そういうの丸々全部ひっくるめても英語のテスト満点は魅力的な存在だった。
元に戻れても、戻れなくても、恭兄ぃに事情を説明しなきゃいけないことには変わりない。だったら、英語のテストを海兄ぃに受けてもらってからでも、差して変化はないのではないか。などという思考で頭の中がいっぱいだ。
幸か不幸か、英語のテスト100点が非常に魅惑的で、恐怖心がびっくりするぐらい薄れてきていたりもして、挙句の果てには、なるようになれとさえ考え始めている始末。
怖いし不安だから戻りたいけど、テストの事を考えると戻りたくない。そんなわけのわからない感情が、私を支配して放してくれない。
あーもう、私ってどんだけアホなんだ!
『なぁ、今思てんけど、学校が終わったら琴ちゃんと二人で頼み込めばええんとちゃうの?』
自制心の無さに苦しんでいると、楓ちゃんが何やら面白いことを言い出した。
学校が終わったら恭兄ぃの元に私だけでなく海兄ぃも一緒に連れて頼み込むとか、なんと面白い発想だろう。
『何を言っているんだ楓果ちゃん。琴音の身体である今の俺が直接変態にあってしまったら、それこそ本末転倒だろうに……』
「そうだよ楓ちゃん」
海兄ぃの言うとおりだ。
私の身体の中身が海兄ぃで、恭兄ぃに何をされてもいつものような反撃ができないというこの状況。
恭兄ぃのそばに私の身体を近づけるだけでも危険だというのに、あろう事かその危険を自ら犯しに行けとか、面白い冗談にしか聞こえない。
二人で一緒に事情を説明しに行って、私の身体である海兄ぃが恭兄ぃに捕まって、自分の身体が好き勝手されている様を私はただ見続けることしかできない。そんな悲劇が容易に想像できてやまない。
だから残念だけど楓ちゃん、その案は却下という形でお願いします。
『いや、琴ちゃんと一緒なんやし、そうなる前に琴ちゃんにシバいてもろたらええねん。まぁ、琴ちゃん任せになってまうんやけどな』
『…………あぁ!』
「…………あぁ!」
まさに盲点。私が自分の身体を守るというその発想……!!
そうか、そうだよね。離れ離れじゃ成す術がないけど、一緒に居れば私が守ってあげられる。だったらもう、恭兄ぃへの不安なんて何一つないじゃないか。
つまり、これで安心して英語のテストに専念できる!!!
『ありがとう楓果ちゃん! 学校が終わってからと言わず、今すぐ行ってくる!! 今日は休みと伝えといてくれ!!』
ガタガタッと、イヤホン越しに椅子が地面に擦れた音が聞こえた。大方、海兄ぃが立ち上がった音だろう。
「あ、ちょっと待って!」
そんな海兄ぃを、気づけば私は呼び止めていた。
第59.5話 その1 完
「このセリフ言わせよう」って思って執筆するじゃないですか。
それで満足して1週間ぐらい執筆進まなくなるじゃないですか。
そして次に書くとき、前回書いた内容をすっかり忘れて「このセリフ言わせよう」と思ったヤツ書くじゃないですか。
それでまた満足して1週間ぐらい執筆進まなくなるじゃないですか。
それをなんどもなんども繰り返すとどうなるか。
そう、気づいた時にはすでに「このセリフ言わせよう」と思ったセリフをキャラが何度も何度もリピートアフタミーしてるわけですよ。
シュールですよね。