第五十九話~帰ろうか~
皆様、お久しぶりです。本樹にあです。
何か月も更新されないことが多いこの小説ですが、俺は絶対に失踪はしないのでいつか必ず更新されます。「○○間更新されていません」的な文字が表記されていても、必ず更新するので長い目で見てあげてください。
「遅い……」
自分の通う高校から数キロほど離れた場所にあるその家で、銀髪の少年は珍しく焦っていた。
道具を修理したいからカバンを取ってきてくれと頼んではや1時間。なかなか来ないあの人に、普段感情をあまり表に出さない彼もさすがに苛立ちが募り始めていた。
何もできない内は焦っていても仕方がない。
断腸の思いで、彼はリビングにあるソファに腰を落ち着かせていた。
「……早くこい山空」
頭ではわかっていても、心までは休めずにいた。
何もできないからと言って、何もしていないとなるとどうも体が落ち着かない。
普段しないような貧乏ゆすりでさえ、この時ばかりは色濃く出てしまっていた。
そんな彼の目の前に、そっとお茶が差し出される。
落ち着かない自分のことを想って入れてくれたであろうその人にお礼を告げるも、その人の行動がさらに彼を焦らせることになっていた。
「……? どうかした?」
お茶を持ってきてくれたその人をジッと見つめていると、その人は首をかしげながら素直に疑問を投げかけてきた。
「……いや、何でもないよ」
胸が苦しくなるも、彼はその感情を抑え込み柔らかく答えた。
しかし、そんな彼の違和感に疑問を持ったその人もまた、再び彼に問いかける。
「なにかあった?」
「……いや、何でもないよ。本当に何でもないんだ……。ただ、山空の帰りが遅いから、心配で」
銀髪の彼が言うと、その人は笑い声をあげた。
「あはは。何言ってんだよ。“俺はここにいるじゃんか”」
何のためらいも、疑いもなく、その人の口から出た言葉に、銀髪の彼は再び頭を抱える。
そして、その人に聞こえないくらいの小さな声で、彼は言った。
「――早く来てくれ山空……じゃないともう……手遅れになる……!!」
第五十九話
~帰ろうか~
「カイ、もう帰るんヨか?」
手を広げ意味もなくその場でくるくると回るエメリィーヌ。
「あぁ。言ってなかったけど、この《入れ替わり》ってヤツ、早く戻らねえと大変なことになるらしいからな」
そんなエメリィーヌとの会話に、秋とユキも食いついた。
「大変な事ってなんだ?」
そう問いかける秋に、
「えっとだな。なんつーか、一言でいえば俺が俺でなくなるらしいんだ」
俺はカズくんの言っていた妄想を手短に説明する。
「先輩が先輩でなくなる……? それってどういう意味なんですか?」
「えーと、さっきも言ったとおり、俺は今琴音と身体が入れ替わった状態にあるんだけどさ」
「たしか琴音っちは先輩の身体で先輩の家にいるんですよね?」
「そうそう。んで、その入れ替わった状態っていうのが、よくわかんねーけど魂(?)同士がそれぞれの身体に入っちまってる状態らしくて」
「う~ん……ゆ、ユキはもうギブアップです。秋先輩、代わりに“理解”よろしくです」
これが漫画ならば、シューシューと頭から湯気が出ていそうなほど混乱しているユキ。この光景を見るのは、楓果ちゃんに続いて二回目だ。
そしてバトンタッチされた秋もまた、同じく理解に苦しんでいるようだった。
まぁ、気持ちはわかる。
「えと、続き説明してもいいか? あ、でも時間が惜しいからから歩きながらな」
「お、おう。頑張って理解するぜ」
自分の胸を軽くとんと叩いて、その覚悟の度合いを示す秋。
そんな秋にどう説明するかを数秒だけ頭の中で考えながら、俺は足を進めた。
俺が歩き出すと、みんなもそのスピードに合わせてついてきてくれていた。
「えっと、どこまで話したっけか?」
「なんかコトネとカイの魂が入れ替わっている状態とかそういう辺りなんヨ」
「そっか。さんきゅ」
ユキや秋と比べると、エメリィーヌは比較的落ち着いている様子。
やはり超能力を扱える彼女は、突飛な出来事にも耐性があるのだろうか。
その堂々たる顔つきの彼女は、俺の説明を一番理解してくれそうな気さえしてくる。
そのようなことを頭の片隅で考えながら、俺は説明を再開した。
「俺自身もよくわかってないし、色々ややこしいから結果だけ告げるけど、なんか脳の所有者とか記憶の元の持ち主とかそのあたりの事情で、早くしないと俺が琴音になってしまうらしくてな」
「やっべぇ、さっぱりわからん」
うん、心中はお察しするよ。
正直俺も自分が何を言ってるのかわからないしな。
でも、それでも説明しなくちゃいけないツラさは、筆舌に尽くしがたいといっても過言ではない。
「まずはわかりやすいように、具体的にどのように危険なのか具体的な例を挙げておく。……えっと、誰か紙とペン持ってないか?」
絵の苦手な俺が、“まるで琴音になったかのように”ハイクオリティの絵を描き出すこの方法は、俺がこの危険性を理解できた方法であり、琴音に説明する際にも用いた、現時点で100%の確率で俺の言わんとすることを理解してもらえる方法なのである。
最初、美術の授業で絵がうまく描けちゃったときは焦ったが、今はこんなにも頼りになるなんて……人生、どう転ぶかわからないものだ。
「ん、ノートとシャーペン」
自分の学生鞄からすこし使い古されて所々シャープペンシルの芯の汚れ跡がついているノートと、その汚れ跡の元凶らしき白と青のツートンカラーが特徴的なシャープペンシルを差し出してきた秋。
なんだこのシャーペンカッコいいな! どこで売ってたんだよ! と、一瞬だけ男心をくすぐられたが、そんなものにかまっていられるほど時間的余裕もないのでここはグッと押さえてそのノートとシャープペンシルを受け取った。
そして何を描こうかある程度頭に思い浮かべると、俺はそれをノートに描きだしていく。
ちなみに、想像したのはなぜか記憶の片隅に残ってた、日曜日の朝に絶賛放送中の大人気アニメ、『魔法少女 マジカル☆ボランティア』に登場するちょっとドジな主人公だ。
なぜこんな子供向けアニメのキャラが頭の片隅に残ってたのかは謎だが、思い浮かんだのだから描き連ねるしかない。
「んと……まぁこんな感じかな?」
手に持ったそのノートには、一分もしないうちに例のアニメキャラが魔法少女に変身したときの服装で可愛くポーズを決めているワンシーンがでかでかと描き出されていた。
って、いったいなんなんだこのキャラ。魔法少女なのに服装がその辺の制服にほんのちょっと、いうなればお母さんがちょっと遊び心出してつけちゃったみたいな、申し訳程度のフリルが装飾されてるだけの地味な服装じゃねえか。もはやコスプレじゃねえか。
「つーか自分で描いといてあれだが誰なんだよこのキャラ……って、そんなこと今どうでもいいか。ほら、これが“琴音になる”ってことだ」
見たこともないキャラがノートに描かれていることに多少なりとも違和感を持ったが、いくら理由を考えてもわからないままだったのでひとまずその絵を秋たちに見せることにした。
すると、三人は『う、うまっ!?』と言葉をハモらせる。
そのあとすぐ、その三人の中で一番最初にその絵に対する意見を述べたのはユキだった。
「うわぁ、先輩って絵上手なんですね!」
そのセリフにどこか軽さ感じ、俺は一瞬呆然とする。
しかしすぐに、ユキは琴音が絵が上手いことを知らなかったんだという答えを見つけ、俺は補足を付ける。
「ユキ違うんだ」
「え? 何がです?」
「えっとな、秋とエメリィーヌはわかってくれてると思うが、俺は絵が上手くないんだ」
「へ? でもこれすごく上手にかけてますですが……あ! もしや謙遜ですね?」
「いや、謙遜なんかじゃないんだユキ。実はだな」
「もう、先輩ってば恥ずかしがらなくても大丈夫ですよ!」
「じゃなくて、その」
「胸張っていいですよ、先輩は絵が上手です! 漫画家に匹敵するレベルですよ!」
「あの、ユキ、話を聞いてほしいんだが」
「正直羨ましいです。ユキもですね、そりゃ乙女ですから絵の練習したこともありますですし、本気で漫画家を目指したこともありました。今思えば若気の至りですが……でも結果だけを言えば諦めてしまったんですよね。だがしかし! 先輩はユキにできなかったことを平然とやってのけちゃったわけですよね!? すごいです先輩! その根気! そのど根性! そこに痺れます! 憧れます! その画力でレッツ漫画家です!」
ビシッっと親指を前に突き出すユキ。
あかん。あかんよのこの子。人の話まったく聞こうとせえへん。自分の世界に入り込むと周りが全く見えなくなってまう癖はよ治さな……。
まぁ、癖を治せとか人のことを言えた義理ではないけどさ。
「あー……秋とエメリィーヌはどう思う?」
ユキの反応に苦笑いをしながら、俺は彼女に説明することを断念し、俺の言わんとすることを理解してくれているであろう二人に話を振る。
相手にされなくなったことにも気づかず、ユキは目を光らせながら『さっすが先輩ですね! ユキが惚れただけのことはありますです! ふぉおお!!!』とか騒いでいた。
やめろ、大声で変なこと叫ぶんじゃない。恥ずかしいだろうが。
「こ、これ、お前、どういう……ことだ……!?」
「カイが……あのカイが……なんヨ……!?」
期待通り、秋は額に汗をにじませるほどに驚愕しているようだった。
そして、それに負けじと、エメリィーヌも目を丸くして愕然としている
そうだ。この反応だ。この反応が正しい反応なんだ。
よく見とけユキ。お前の反応は間違っているんだ。だからそんな『たとえ先輩が萌え要素を詰め込んだ女子……中学生ですか? 女子中学生の魔法少女の絵を描いていようがユキは引きませんです! なぜかって? そんなもの決まってます! そう! 芸術だからです!!!』とか萌え萌えきゅんなキャライラストを提示した俺に気を使って微妙な顔をしながらも褒めちぎったりするのは間違いなんだ。わかったなユキ。もう一度言うぞ、悲しいからその微妙な表情やめるんだ。
「カイ……これって……? つまりはそういう事なんヨか……?」
「あぁ。察しの通りだ」
さすがはエメリィーヌ。理解が早くて助かる。
「そうなんヨか……。これは驚きなんヨね……。まさかカイがオタクだったなんて……」
前言撤回。
「ごめん。俺が思ってた察しと違った。訂正させてくれ、察しの通りじゃない。全然違うぞエメリィーヌ」
「は?」
エメリィーヌは『何を言っているのかわからないんヨ』と言わんばかりに眉間にしわを寄せた。
そんなエメリィーヌを視界からを外し、俺は今度は秋に期待の目を向けた。
秋、俺は信じてる。こういう時、必ず俺の言わんとすることが伝わるのがお前だ。こういう時のお前は、本当にどこの誰よりも頼りになるんだ。
だから頼む、理解してくれ……!!
「お前これ、琴音が好きなアニメのキャラなんだけど……海も好きなのか?」
「好きじゃねえよ!」
まぁわかってましたけどね。
この展開で俺の期待に応えてくれる奴はいないって、なんとなくわかってましたけどね。
そんなことより、秋の一言で、なんで俺が知らないキャラを描けたのか、ようやく合点がいった。
どうやら琴音はこのアニメが好きらしい。となると、当然俺が描き出したこのキャラも琴音は知っていることだろう。
つまり、琴音が知っていたキャラだからこそ――琴音の脳が記憶していたキャラだったからこそ、何も知らない俺でもどこか見覚えがあったってわけだ。
記憶がごっちゃになってくると、いよいよカズくんの言うところの魂が体になじんできてしまっているという事実を意識せざるを得なくなる。
口調に関してはカズくんや楓果ちゃんを琴音が使ってたあだ名で呼ぶ程度のレベルで済んでいるものの、記憶に関してはもはやどれが自分の記憶でどれが琴音の記憶なのかわからないことに違和感を覚えなくなってきてしまっているのだ。恐ろしいことこの上ない。
あと関係ないけど、なんかだいぶこの状況に順応してきたな俺。
「で、お前はこの絵を通して俺たちに何を伝えたいんだ? 今のところ俺たちの中じゃ海がオタク街道にまっしぐらなことくらいしか理解できてないんだが」
「だからまっしぐらじゃねえって! もういいよ! 面倒だから残りは家に帰って各自オメガから聞いてくれよ!」
「……そうするわ」
昇降口についたこともあり、俺は説明するのをやめた。
エメリィーヌと秋はどうにも腑に落ちない様子だったものの、それでも面倒なことを避けたかったのか、理解を素直に諦めた。
ユキはというと、未だ俺が漫画家を目指し始めたという架空の事実を妄想し続けている。まぁ本人が楽しそうなので放っておくことにするけどな。
そんな、心なしかよだれもたれているのではと錯覚してしまうほどに口元をゆるませているユキを横目に、オメガや琴音は今どうしているのかと考えながら、俺は自分の下駄箱に近寄る。
昇降口から見える外の景色は、全体的に空に赤みがさしており、もう夕暮れ時だということを鮮明に物語っていた。
なんだかんだいって、今日は一日中学校にいたような気がする。
朝、珍しく早起きして、毎度のごとく不法侵入していた竹田兄妹を含めて朝食をみんなで囲み、オメガの道具で痺れた後いつもより早めに学校に登校し、西郷とのテスト勝負うんぬんのために朝っぱらから誰もいない教室で勉学に勤しんだ。
それからなんだかんだあって、結局もう外は茜色。
本来なら、この時間はエメリィーヌと一緒に夕食の材料の買い出しに出かけているか、軽めのお部屋のお掃除に取り組んでいるかのどちらかだ。
今日の夕食は何を作ろうか。材料はこの前特売で購入しすぎたものが大量に残っているから、作ろうと思えば大抵のものが作れるはず。
そういえば、先日から家には親父も帰ってきているんだ。そうなると、俺と親父、居候しているオメガとエメリィーヌを含めて4人が全員満足できる品を考えなくてはならないということになる。
俺は一人暮らしだった故、料理に関して多少のレパートリーはあるものの、そんな大人数を持て成せる料理となるともう鍋ぐらいしか思い浮かばない。
ならばもういっそのこと、琴音の身体のうちに夕食を作ってしまうという手もある。
琴音の身体……琴音の脳ならば、俺よりも料理の種類は多いはずだし作るにしても上手いはずだ。
長い間入れ替わってしまっていると危険という特性を逆手に取ったこの発想……俺は天才かもしれない。―――なんて、もちろんそんなことはしないですけども。
でもまぁ、だったらもういっそのこと全員夕食に誘ってプチパーティーなんてものありかもしれない。
みんな俺に協力してくれているわけだし、カズくんや楓果ちゃんにもかなり世話をかけた。そのお詫びの気持ちも兼ねて、全員呼んで……そうだな、手巻き寿司とか盛り上がるんじゃないだろうか。
お金とかかかりそうだけど、そのあたりは親父に土下座するとしよう。長い間家を空けていたんだ、そのくらいの家族サービスがあってもいいだろう。うん、そうしよう。
「……なぁ、みんな。いきなりなんだけどさ、今夜、俺ん家で夕食とかどうかな?」
一人で盛り上がりすっかりその気になってしまった時、みんな用事があって結局誰一人として集まりませんでしたじゃショックの度合いも大きくなってしまう。
そう思ったので、何の脈略もなかったが皆に確認を取ることにした。といっても、この場では秋とユキだけしかいないのだが。
すると、秋とユキはほぼ同時に、何も言わないままポケットから秋はスマートフォン、ユキは折り畳み式のガラパゴス携帯電話(いわゆるガラケー)を取り出して、どこかに電話を掛け始める。
「あ、もしもしお袋? あのさ、夕飯ってもう作り始めちゃったりとかしてる?」
秋はどうやら、自分の家に電話をかけているようだった。
そうか、この時間だもんな。早い家はもう夕飯を作り始めていてもおかしくない筈。秋はそれを確認したかったわけか。作り始めてるのにいらないってなると申し訳ないからな。
そうなると、おそらくユキも同じ理由から自宅に電話をかけているのだろう。
にしても、お前ら一言ぐらい俺に言ってくれてもいいんじゃないだろうか。俺はただ『夕飯俺ん家で食うか?』って聞いただけなのに、その質問にハイともイイエとも返さないで真っ先にすることが電話って……せめて『じゃあ家に確認してみるね』ぐらいの声掛けは欲しかった。
結果的には二人とも乗り気なのは嬉しいが、なんか無視されたみたいで胸の奥がキュンってなったしな。キュンてなったとて断じて恋ではないぞ。
「あ、もしもしお母さん? ユキです。今日のお夕飯って作っちゃってますですか?」
ユキは相手が母親でも相変わらずですます口調らしい。
なんか両親に対して丁寧語を使う人を見慣れていないせいか、物凄く違和感を覚えるが……まぁ呼び方なんてものは人それぞれなので気にしないようにしておく。
「そうそう、海ん家で。うん、琴音と……あとエメリィーヌとクラスの男子一人と女子一人かな。え? いやいや、女子って言ったって別にそんな……え? 他に? ちょっと待ってて」
どうやら秋はお母様に問い詰められている模様。
秋達のお母様は他人の色恋沙汰好きそうだしな。無理もないだろう。琴音も他人の色恋沙汰好きっぽいし、遺伝だろうな。
「なぁ海。お袋が他に誰が来るのか800文字以内で説明しろってうるせーんだけど、海から説明してやってくれないか?」
「なんでそんなレポートの文字数みたいな制限設けられてんだよ。つーかなんで俺が説明すんだよ」
そもそも俺、今は琴音の声だしね。ややこしいことになりかねないからね。
「はぁ……わかったよ。じゃあ他に誰が来んのかだけ教えてくれね? いや、海に限って他の人呼ぶってのはまずないか! あはは」
「否定はできないがお前失礼だな」
「否定できないんじゃねーか」
「まぁあれだ。カズくんや楓果ちゃんも呼べたら呼ぼうと思ってるんだが……」
「なんで? というか楓果ちゃんって誰?」
どうやら楓果ちゃんの名が初耳らしい秋。
俺は兄妹ならお互いの交友関係みたいなのを普通に把握しているものだと勝手に思っていたので、少しばかり面を喰らった。どうやら現実の兄妹はそう甘くないようだ。
そのようなことを頭の片隅で考えながら、会話を続ける。
「俺が琴音になった時、《入れ替わり》だったから、当然中学校で目が覚めたんだけどさ。その時に色々協力してもらったんだよな。楓果ちゃんってのは琴音の友達だ」
ほんと、琴音はいい奴らと友達になったもんだ。あ、カズくんは友達じゃなくて幼馴染だったっけ。
どちらにせよ、将来が楽しみな頼もしい二人だった。
「へ~、琴音そんな友達居たんだな~。そういう話、家では一切してくれないからなぁアイツ……」
どこか感慨深そうな表情をして、自嘲気味に笑う秋。
それを見た俺は、秋に対する同情の意味を込めて、
「いつもごめんね秋兄ぃ。大好きだよ」
と、なんとなく呟いてみる。
「ありがとう海。琴音の声でその言葉が聞けただけで少し救われた気がするよ」
「いつもどんだけひどい扱い受けてるんだよお前……」
「聞くな。聞いたって十中八九財布にされてるエピソードしか出てこねーから……」
「お、おぉふ……」
悲しみの海がそこには広がっていた。
ちくしょう! 泣けるぜ!
「あ、もしもしお袋? 他に琴音の友達とカズッちゃん来るっぽいよ? うん、帰りどのくらいになるかわからないけどさ、そんな遅くならないと思うから。帰るときは電話するし。うん、わかった。ありがとう。じゃあまた」
言い終わると、秋はスマートフォンの画面を一回だけタッチし(通話を終了したのだろう)、ポケットにしまいこんだ。
「……終わったか?」
「おう。『悪い虫が寄ってきたらお母さんが叩き潰してあげるからね! そう、蠅のように!』って息巻いてたけどな、お袋」
「それが何の揶揄でもないあたりがまた恐ろしいよな」
「だな」
前に一度、秋のお母様にボコられ三途の川へと旅行に行く羽目になった俺だからわかる。お母様は本気だ。
お母様がどのくらい恐ろしいかというと、琴音に護身術として暴力的なもののすべてを教え込んだのがあのお母様なのだ。
そのすさまじさは、俺が思わずお母“様”と呼んでしまうぐらいである。
それにしても、秋達は大変だな。
話を聞く限り秋たちは『どこの馬の骨ともわからん奴にウチの娘はやれん!』タイプのご家庭のようだしな。
それに引き換え俺ん家なんか、親父がユキに遭った時『おぉ! 可愛娘ちゃん! いつでも息子の嫁にきてくれな!』と散々盛り上がっていたくらいだ。
恋愛に寛容なのはこちらとしても助かるとは思うが、それにしたって自由すぎると思う。まったく、あの親父ときたらどこまでいい加減なんだよ。
っと、そういえばユキの方はどうなったかな?
「ほんとですか!? ありがとですお母さん! わかりましたです! ……え? あぁはい、先輩はみんな男性の方、ですけど……。あっ、でも琴音っちとかも来ますですし! ……はぁ!? いやっ、ちっ違っ! そんなんじゃ! もうお母さん!? ちょ、ハーレムとかじゃないですって! お母さんなにを言ってるんですか!? いや、全員ものにしろってそんなっ……いや、別に海先輩とはそういう関係じゃなくて! あぁもう! ちょ、ちょとお母さーん!? お母さ~ん!?」
なんかヤバい会話してた。
そんな会話の中で一つだけ引っかかる台詞が耳についた。
ユキが言った、『海先輩とはそういう関係じゃない』という言葉。一見すると照れ隠しのようにも取れるが、あのユキに至って照れなんてモノは微々たるものでしかないだろう。
要するに何が言いたいかっていうと、もしかしてユキ……。
「なぁユキ。もしかしてお母さんには俺が好きだってこと隠してるのか?」
こんなこと聞くこと自体めちゃくちゃ恥ずかしいのだが、ユキの性格からしても意外だったので確認せざるを得なかった。
決してユキに好かれてるから調子に乗ってるとかそういうんじゃなく、普通に、純粋な興味からの疑問だ。
そんな、誰に責められているわけでもないのに心の中で良いわけをかましている俺の質問を聞き、ユキは少しだけ戸惑いを見せた。
「あっ、え、えっとですね……」
「あ、答えにくいなら別に言わなくていいぞ? たしかに、好きな人ができたなんて親に言いにくいもんな~」
「あっ、違うんです違うんです! ただ……あの、ユキは先輩のことその……好きなんですけど、先輩はそうじゃないかもなので……お付き合いしているわけでもないのに勝手にそういう事お母さんとかに報告しても先輩の迷惑になっちゃうんじゃないかなぁって……」
えへへ……と気まずそうに笑うユキに、俺は心底驚いた。
「俺の……ため……?」
「いや、そのですね、ユキの……私のお母さんって結構グイグイ行くところとかあるので、もし私が先輩のことが好きだってわかると、たぶんいつか先輩の方にもグイグイ言っちゃうと思うんですよね。でもそれだと、先輩は優しいですから、その……」
言ってて恥ずかしくなったのか、ユキは珍しく恥ずかしさで顔を赤く染め、言い淀む。
たしかに、先ほどユキがしていた電話の会話を聞いた限りでは、ユキのお母さんはそりゃもうグイグイ行くタイプの人なのだろう。ユキが恋愛に積極的なのも、そのお母さんの影響なのかもしれない。
まさに、『この親あってこの子あり』という言葉をそのまま具現化したような親子なのだと思う。
「……なるほどな。つまり白河は、海が白河のお母さんにグイグイ……例えば『付き合っちゃいなよ』的な事を言われたとき、気を使って、流れるがままに付き合い始めたりするんじゃないかって不安に思ってるわけだよな?」
「そんな感じ……です」
秋の言葉に同意の意を示した後、ユキは慌てて『あっでも!』と付け足すと、言葉を続ける。
「不安……というよりかは、こちら側の都合で、先輩が自分の気持ちとかを押さえ込んでしまうんじゃないかって……そうなったら、先輩には申し訳ないなって思ったんです。だからユキがお母さんに先輩のことを話すときは、先輩もユキのことを好きになってくれた時って決めてるんですよね」
ユキの言いたいことはすべて理解できた。
要するにユキは、俺がユキに同情に近い感情で、ユキの気持ちを受け入れることになったら嫌だという事だろう。
そういわれると、俺にも思い当たるフシがあった。
やはり、いつもユキの方からアプローチをもらっている。しかし俺は、それを本気で考えたことはなかった。
現に今回だって、琴音になったことで俺の知らないユキの一面を夢に見て、今までのユキに対してのあたりを申し訳なく思ったから、《入れ替わり》が終わったらユキと面と向かってから話そうと思えたんだ。いうなれば、それも一種の同情みたいなものだ。
そんな感情の中、ユキのお母さんとやらに、少しでも『普段家の中でユキがどんなふうに俺のことを話しているのか』とか、『俺の話をするときはいつと笑顔で話す』だとか、そういうことを聞かされてみろ。
……俺のことだ、そこまでしてくれているんならって、そんなに思ってくれているのに答えてあげないのはユキに可哀相だとか適当に理由をくっつけて、同情のみでユキとそういう関係になってしまう……なんてのもあり得ない話ではなかった。
だからこそ、ユキは俺のことを家族に内緒にしてくれている。
自分の力だけで好きな人を振り向かせたいという想い。そしてなにより、俺が一時の感情に流されて後悔しないようにという想いから、ユキはそんなところにまで気を使ってくれていたのだ。
そしてそれは、何を隠そう彼女の優しさに他ならない。
ユキと向き合うって決めたけど、結局はすぐに結論が出るわけじゃなく、付き合うにしても付き合わないにしても、ユキにはまだまだ待ってもらうことになるだろう。
……本当にそれで良いのだろうか。
どうなるかわからないけど向き合うなんて、それはもう何もしてあげてないのと同じなんじゃないのか?
わからない。
俺は一体、ユキをどうしたいのだろう。
「……そういや、早く帰らないとまずいんじゃないのか?」
「ん? あ、あぁ。そうだな。帰ろう」
……いつまでも目を背けるわけにはいかないことだけど、わからないことを考えていても答えは出そうになかった。
だから今は、目の前のことに集中するしかない。
「――って、やっべぇ……!!」
自分の靴を持ち帰るため靴箱からとり、その辺に放置してあった琴音の靴をはこうとしゃがみこんだ時だった。
俺は一つの重大な忘れ物に気づく。
「カイ? どうしたんヨか?」
「オメガのカバン! 持ってくるの忘れてた……!!」
この《入れ替わり》現象から解放されるためには、現象を起こすきっかけとなったオメガの道具が必要だ。
しかし、何度も言うようにその道具は今朝の一件で調子が悪くなってしまっているらしい。
オメガの道具の不具合をどうにかするには、当然オメガに何とかしてもらうしか方法がないわけなのだが……。
何とかするためには、オメガのカバンの中に入っている修理道具的なものが必要で、だからこそ俺は琴音の姿でありながらこの高校に侵入したんだ。
そのような説明を三人に話すと、エメリィーヌは保健室のある方を指差した。
「キョウヘイのカバンなんヨね? それなら、たしかカイのカバンと一緒に保健室の隅の方に置いといたはずなんヨ」
「あー、確かにエメちゃんなんかカバン抱えてましたですもんねぇ」
「そっか! じゃあちょっと取ってくるから!」
そういうと、返事も聞かずに俺は走り出す。
「あっ、ちょっと待て海! 俺たちは先外出てるぞ!」
「わかった!」
秋に返事を返している内に保健室の前にたどり着くと、保健室に入る時の決まり事であるノックの存在などすっかり忘れ乱暴にドアを開く。
「あれっ? こ、琴音ちゃん?」
少し先生同士で思うところがあったのか、西郷と話をしていた奈留先生は、それを中断して俺に視線を移した。
俺のことを『琴音ちゃん』と呼んでいるあたり、奈留先生は《入れ替わり》に関しては状況が呑み込めていないことが伺えたものの、もはやそんなことはどうでもいい俺は、きょろきょろと室内を見回す。
「ん? なんだぁ? 忘れ物かぁ?」
慌ただしい俺に、西郷が問いかけてくる。
「あぁ! えっと……おっ、あったあった!」
奈留先生の机の陰に隠れて死角になっていたせいか見つけるのに少しばかり時間を要したが、無事お目当てのものを見つけることがてきた。
隅の方に置かれた二つのカバンは、間違いなく俺とオメガのカバンだ。
一応二つある内の一つのカバンの中身を確認してみるも、入っているノートや筆記用具入れはまさしく、自分が長年愛用していた何の面白味もない素朴なモノだった。
「じゃあ西郷先生に奈留先生! 改めてお騒がせしました……うおっ、重ッ!?」
俺のカバンは必要最低限のものしか入れてないためなじみ深い重さだったが、オメガのカバンを持った瞬間、その重量感のたっぷりさに、少し足を奪われてよろけてしまった。
まったく、オタクなくせして普段こんなものを持ち歩いていたのかあいつは……。いや、それよりもこのカバンを持ってきたエメリィーヌっていったい……。
「じゃあ、さ、さよなら~……」
両手で持たないと追いつかないぐらい重たいカバンをぶら下げて、よろめきながらも保健室を出る。
少し歩いただけなのに、息切れをするのがいつもの数倍早い。
額にあふれる汗をぬぐうため、重たいカバンを一度床に置き、ハンカチのありかなどわからない俺は仕方なく腕でその汗を振り払った。
「……あ、そうだ山空! ちょっと待ってくれ」
先生に頭を下げ、保健室のドアを閉めようと手を伸ばした時だった。
不意に、西郷が俺の名を呼んだので、俺は伸ばした手を引っ込める。
「はい?」
「お前に一つだけ言っておきたいことがあるんだ」
そう告げる西郷の表情は、いつになく真剣で、かといっていつものような雰囲気を持っていて。
言葉では言い表せない、普段見たこともないような表情を、西郷は俺に向けていた。
「なぁ山空。今朝の勝負、覚えてるよな?」
今朝の勝負……。
そんなの、忘れるはずもなく。
「英語のテスト勝負……ですね」
今日の抜き打ちテストで俺が英語のテストで95点以上取ると俺の勝ち。取れなかったら俺は負けで西郷の勝ち。
勝った方が負けた方に何でも一つだけ命令でき、負けた方はそれを必ず実行する(もちろんモラルに反する命令は無しだが)。
しかし、俺は勝負云々の前に《入れ替わり》という人為的な現象のせいでその勝負の土俵にすら立てない状態にあった。だからこれは無効試合のはずで……。
「まさかとは思うが、今回の件でチャラになっただなんて思ってねぇよなぁ?」
「……ですよね」
どんな経緯だろうが、戦えなかったのは俺の責任。
もし俺が逆の立場だったら間髪入れずに『不戦勝で俺の勝ち』だと言い張る自信があるし、やはりこの勝負をまた別の日にするなどという事は不可能であり、それを主張するのは愚かな行為でしかないだろう。
でもだからと言って、このまま「はいそうですか」と西郷の言いなりになるわけにもいかない。
だからこの場は屁理屈をごねて、ごねまくって、敗北という事実を覆す……とまではいかなくとも、せめてその事実を無かったことにしないといけない。
今の時点じゃ上手い言い訳など浮かんでこないけど、それは喋りながら考える。
一筋縄じゃいかないことなど目に見えているが、俺の命運がかかっているとなればそのわずかな可能性に賭けるしかない。
「英語のテストはもう終わった。そして山空、お前はテストを“受けそこなった”。つまりは俺の勝ちということになるわけだが――」
「ちょっと待ってください」
西郷にこれ以上先を言われると、否が応でも負けを認めざるを得なくなる。それではダメだ。
ゆえに、まずは適当に言葉を羅列して時間を稼ぐ。それしかない。
「なんだ? 言ってみろ」
待ってましたとばかりにニヤリと口元を緩ませる西郷。
そんな西郷にかまわず、俺は続けた。
「こんなの全然、フェアじゃないじゃないですか」
そう、フェアじゃない。
そもそもこの勝負には、俺に不利な事が二つある。
そして、そのうちの一つは、テストを作っているのは西郷本人だから、テスト内容をたとえば俺が苦手な部分を詰め合わせたモノに変更できるということなんだが……。
だが、それを言うのはいわゆる野暮。
テスト内容を変更しようと、全部俺がきっちりと授業を受け、真面目に取り組んでいればできる範囲には違いない。
つまり、このことを西郷に告げても、俺の努力が足りないという結果に落ち着いてしまうのだ。
「ほう。その真意はなんだ?」
「それをお答えする前にまず、先生に二つほどお伺いしたいことがあります」
「……なんだ?」
「先ほど英語のテストはもう終わったと仰ってましたが、いったい何時頃行ったんですか?」
「ん? あぁ、たしか五時限目だ」
五時限目ということは、ちょうど俺が不良の件でやってきた警察の方々に事情を説明して、『大丈夫だった?』『怖かったね』などと慰められている時だ。
なんだかんだ言って1~2時間ぐらい警察の人がとどまってたから、その間にテストを行ったに違いない。
だが……。
「あれ、おかしいですね。たしか五時限目は数学だったはず……。俺はてっきり四時限目に英語の授業があるのでその時に行うものだとばかり思っていたんですが……」
今日の時間割は次の通りだ。
一時限目・歴史
二時限目・現代文
三時限目・選択教科
=昼食=
四時限目・英語
五時限目・数学
六時限目・家庭基礎
うちの学校は何度も言うが深刻な教師不足ゆえ、全科目を西郷が受け持っている(選択教科は別)。
つまるところ、西郷は授業内容の変更をいともたやすく行えるということだ。
これが、もう一つのフェアじゃない理由である。
例えば、歴史が予想以上に遅れていたら他の教科を犠牲にして歴史を二時間ぶっ続けて行ったりだとか、何かの都合で四時限目と五時限目にやる教科の順番を入れ替えたりだとか。
それが西郷にかかれば優に実行できるということ。
普通こんなやり方をしていれば色々と問題が起こりそうな気もするが、そこは西郷が上手いこと調節しているのか、少なくとも俺は無事何の違和感も覚えずに授業に取り組むことができているわけで。
要するに西郷は、豪快そうに見えて実はとても計画性を得意とする人物なのである。
だから……というわけではないが、この英語勝負も、俺と勝負することになって初めて俺への嫌がらせという名目で、もともとそのテストをやるはずだった時間帯ではなく別の時間帯に変更したのではないかという話。
そして、その考えは実際に的中していたらしく。
「まぁ、あれだ。いきなりのテストで95点以上を出すなんぞ、今までの山空の成績を見てきた身としては無謀に等しいことだとしか思えなくてなぁ。ハンデとして一時間余裕を持たせてやろうとしたまでだ。……あ、これは情けとかじゃなく勝利者の余裕というヤツだからな?」
あっさりと西郷は白状したのだった。
その瞬間、俺の中で言い訳のプロットが高速で構築されていく。
「なるほど……つまり先生は、個人的な事で時間割を変更したと、そういう事でいいんですね?」
「あぁ……言い方はアレだがその通りだな。別に珍しいことじゃないと思うが?」
「はい、むしろ日常茶飯事ですよね」
突然だが、ここで一つ問いたい。
俺は中学からこの高校へ来るとき、不良とぶつかった。そして、その騒ぎで警察まで動いたわけだが……。
皆さんは、自分の学校の前に警察が来ていたら……何が起きたのか興味がわかないだろうか?
答えは人によりまちまちだとは思うが、大半の方は『気にはなる』という返答をしてくださることだと思う。
そしてそれは、西郷にも言えることなのだ。
西郷だって人間なわけだから、自分の務めている学校の前に警察が来ていたりなんかしたら、絶対に気になるはず。
しかし、俺が警察の人と話をしている時、西郷は様子を見に来なかったのだ。
いったいなぜなのか、その理由は至極単純。同じく様子が気になっていたであろう高校の生徒たちを抑制するためだ。
学校の前で警察がたむろしているんだ、普通、好奇心旺盛な高校生たちは、授業という苦行に暇と退屈を持て余していることも相まって、何事かと様子を見に行きたがるはず。なのにもかかわらず、俺が警察の方と一緒にいるときは窓から顔を出す生徒あれどこちら側まで見に来た野次馬根性丸出しの人はいなかった。
つまりはそう、そういう野次馬を阻止するためにも、西郷はテストを実施し、皆の動きを抑制しつつそういう輩が出ないよう見張りとして教室にとどまっていたのだと思われる。
そしてそれは、西郷の犯した唯一のミスでもあった。
「じゃあ誤解があるといけないんでもう一度簡潔にまとめますけど、先生は四時限目にやる予定だった英語の抜き打ちテストを五時限目に変更した。その理由としては、俺にハンデを与えるため……という事で間違いないですね?」
「まぁ、間違いは特にねえけど……」
「という事はつまり、俺との英語勝負がなければ普通に四時限目に英語の抜き打ちテストを出していたけども、俺と勝負することになったがゆえにテストの時間を五時限目に変更した……という事になりますね」
「……何が言いたい?」
「あれ? 先生は気づきませんでした? テストのとき、オメ……恭平がいなかったのを」
そう、テストは五時限目に実施された。
という事は、その時すでに不良に絡まれていた場所で俺と接触し道具を直すために先に家に帰ったオメガはそのテストに出席しなかったことになる。
そしてもう一つ。本来ならば四時限目にテストが実行されてたであろう点だ。
四時限目といえば、その頃は俺がまだちょうど不良に絡まれているかいないかぐらいの時間。つまり、オメガはまだ教室にいたという事。
そしてそれらが導き出すのは。
「そう……先生が気分でテストを出す時間帯を変更したせいで、恭平が本来ならばテストを受けられたであろう日に受けることが叶わなくなってしまったという事です」
西郷といえど教師の端くれ。
普段俺と西郷は勝負事を持ちかけては熱い戦いを繰り広げてはいるが、そこには大前提として西郷が教師としての役目を全うするという決まりがある。
例えば、俺は学生だから好き勝手やっていても意外と害はないものの、西郷は教師のため、俺との勝負ごとに夢中になりすぎて教師の仕事がおろそかになってしまったり、授業などに何か悪影響が出てしまったりすると他の学生たちにとって非常に弊害となる。それは勝負云々の前に大人として西郷が犯してはいけないミスだ。
そして当然、そんなことは西郷もわかっているため、今まではちゃんとそつなくこなしてきたものの、ただ今回だけ。今回だけに限った話で言えば、西郷は俺との勝負に気を取られて、オメガがテストを受けられなかったという失態を犯してしまった、という事になる。
そしてそれは、結果としては西郷は俺に勝利しているものの、教師としてならばむしろその逆。マイナス点と言われても致し方がないレベルだ。
つまり何が言いたいかっていうと、『勝負には勝ったけど教師としての仕事を全うにこなせなかったのでこれは引き分けですね!』という、筋が通っていそうで実はまったく通っていないけど正論なのでぐぅの音も出ないような理屈を並べて西郷を追い詰めて引き分けにしてもらおうという魂胆なわけだ。
「やれやれ。先生がちゃんと前もって予定していた通りにテストを行えば、恭平がテストを受けられないなんて事案が発生せずに済んだものを……」
「……なるほど、そうきたか」
「ふん、今さら気づいてももう遅い! どうすんだ西郷! このままだと教師失格だぞ! 勝負事なんて小っちゃいことに囚われて本来の仕事も真っ当できなくなるほど落ちぶれちまったのか? あぁん?」
我ながら言っていることが滅茶苦茶で酷すぎる。
しかし、これで西郷が俺の言ったことを真に受け勝負を取り消してくれたらそれはそれでOKだし、もし仮に無視して『勝負は勝負、俺の勝ちだ』などと言ってきてた場合、西郷は勝負には勝ったが、職務放棄をしたとして俺にネチネチ言われ続けることになる。
どちらにしても、俺は損をしないので結果西郷は俺に負けたことになるのだ。
教師としての仕事を放棄して俺に嫌味を言われ続けるか、教師としての誇りを守り勝負を白紙に戻すか。
さぁ、早く選べよ西郷。
「……はぁ」
勝利を確信し口元をゆるませた俺とは打って変わって、西郷は大きなため息と共にがっくりと肩を落とすと、バツが悪そうに口を開いた。
「……参った。完敗だ」
ふっ、やはりな。
西郷はこう見えても真面目な教師だ。この仕事に誇りだって持っているはず。
だったらそれを傷つけるよりも、白紙に戻して何もなかったことにした方が西郷も何かと都合がいいのだ。それに勝ちにこだわると教師としてのプライドを傷つけられるが、白紙に戻すだけならプラスがプラスマイナスゼロなるだけで、マイナスになることはない。
西郷が教師としての誇りを取ることなど、俺は予想がついていたのである。
「まぁ賢明な判断ですよね。というわけで勝負は白紙に――」
俺が言いかけた時である。
「――とでも、言うと思ったか?」
ニィ……と、鋭い眼光のまま薄気味悪い笑顔を浮かべる西郷。
「いいか山空。お前のその、短時間にそこまでぺらぺらと屁理屈を並べられる頭の回転の速さは認めてやらんこともない。が、さすがに今回のは苦し紛れすぎるんじゃないか?」
もし俺のこの言い分で西郷が付け入る隙があるとするならば、やはり行き当たりばったりで出た即興の言い訳ゆえの苦しさと、その矛盾点くらいだろう。
だから、この西郷の反論は予測できたことでもあった。
……そう、予測できたはずなんだ。それなのに……。
「そ、それは! その……!」
なんでこんなにも、上手く言葉が出てこないのか。
言い返そうと思っても、頭が追い付いていかない。言葉が出てこない。
この感覚は前にもあった。中学校で保険の先生と話している時も、似たような感情に困惑してしまうこともあって、その時に俺の中で一つの結論が出ていた。
そう、つまりおそらくこれは、琴音の身体が反応してしまっているモノだと思う。
琴音は人見知りだ。
そんな琴音が、知らない大人を前にして――それも常人ならぬオーラを発する西郷を前にして、警戒しない筈がない。
しかしそれでも、ついさっきまでは平気で会話できていたところからみるに、憶測だが琴音の影響が出てくるのには波があるのかもしれない。
例えるならば心電図のように、出たりでなかったり、かと思ったらまた出たりして、そして最終的には一直線――俺が琴音へと成り代わってしまうのだろう。
前回、琴音の性格が俺への影響として現れたのが約数十分前。
これが良いのか悪いのかはわからないが、それの間隔が狭まってきている気がして、今まで以上に焦りが生まれた。
まぁ、全部憶測なわけだけど……ここまで来たらもう憶測だからと言って蔑ろにするのは危険だ。気を付けないと。
「……わかりました。今回は俺の負けでいいです」
西郷に負けるのは非常に癪だ。だが、それよりも琴音に何かあった方が嫌だ。
だからだろう。俺は、西郷との勝負で初めて自ら負けを認めることにも、まったく抵抗はなかった。
最初に決めた罰ゲーム(負けた方は勝った方のいう事を何でも聞く)は恐ろしいが、そんなことを言っていられる状況でもないし……、それにいくら西郷でも、俺が本気で嫌なことは命令してこないと思う。そう信じたい。不安だけど。すごく不安だけど。
「……お、おいどうしたんだ山空? お前の特技であるいつもの屁理屈はどうした? おい!」
素直な俺を目の当たりにした西郷は、信じられないものでも見たかのように目を丸くしている。
いやいや、何もそんな驚かんでも……というか屁理屈言うな。
「屁理屈も何も……これ以上は押し通せないなと思っただけですって。なんでさっさと罰ゲームの命令教えてください。元の身体に戻ったら必ず実行するんで」
「お、おぉ、そ、そうか! そうだな!」
小声で、なんかやりづらいな……と呟く西郷。
しかしすぐに『ごほん』と咳払いをし、西郷はいつもの調子で俺を見下ろしてくる。
「じゃあ命令するが……」
全てのトイレを清掃? 先生の雑務をすべて肩代わり? それとも大穴で先生と禁断の交際?
小さなことからありえない事まで、ぬかりなく想定し心の準備をしておく。
こういう時の先生は、俺が生徒だという事を忘れていると疑いたくなるほどに鬼畜的要求をしてくるのだ。今回も例外ではないだろう。
さぁ、どんとこい。今の俺はなんだって引き受ける覚悟だ。まぁホモルートは勘弁願いたいがな!
内心心臓バクバクな俺の表情をしばし楽しんだ後、西郷はとうとう命令を告げる。
「山空。自分に素直になれ」
「……は?」
あれだけ多種多様の想定していた俺だったが、実際に西郷が放った命令は、俺の理解の範疇を軽々と超えていた。
今、西郷なんて言った? 自分に……って、え? え?
「そうだな……まずは明日、お前が学校に登校してクラスのドアを開けた時、大声であいさつだな」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
理解が追いつかず慌てて制止する俺をことごとくスルーし、西郷はぺらぺらと意味不明な事を喋り続けた。
「そんで授業中は……まぁ授業だから真面目に受けてもらって、昼は……そうだな、最低5人と一緒に食え。んで少なくとも3回は自分から話を振れ。お前の知り合いである鳴沢は年中女に囲まれてるし、妹さんは男女分け隔てなくみんなに愛されてるから……そのどっちかに混ざりゃ簡単だろ?」
「全然簡単じゃないですけど!?」
あまりに唐突すぎて西郷が何を言っているのか理解できなかったが、要するに西郷はクラスに馴染めない俺が必死に馴染もうとするところを見て笑いものにしようという魂胆なのだろう。
……あまりにも非常すぎやしませんかね。
「非情だぁ?」
声に出てたっぽい。
「いいか山空。俺ぁこんなこと一度しか言わねえから良く聞けよ」
西郷を怒らせてしまったのかと不安になり、ごくりと生唾を飲み込んだ。
しかし、そんな俺の心配とは裏腹に、西郷の口から出た言葉は意外な言葉だった
「俺ぁな、お前が心配なんだよ」
「心配……? あっ、嫌味的な意味で?」
「違う」
西郷のことだら、きっと『俺はお前が心配なんだ(笑)』みたいな、嘲笑う感じの意味合いかと思ったのだが、どうやら違ったらしい。
「クラスに馴染めず、友達になりたい奴がいても横目でちらちら見てるだけで行動に移そうともしねえ。挙句の果てには『変態が執拗にチラ見してくる』などというクレームが俺のところまでくる始末」
「へぇ、この学校にもそんな変態がいるんだな」
一瞬オメガを疑ったが、アイツはロリ一筋だし……。
「おいおい、何言ってんだ。これお前のことだぞ」
「え? でも俺そんなクレーム出したこと一度も……」
「そっちじゃねえ。変態の方だ」
「ファッ!?」
衝撃の事実すぎる。
「とにかく、そんなわけでだな。クラスには馴染めねぇわ、クラスメイトには誤解され避けられ忌み嫌われるわで、正直もう見てられねえんだ」
「…………」
「俺ぁこれでも子供が好きでな、だからこんな教師なんて仕事やってるわけだが……特に山空。お前みてぇな、教師に対してなめた口きくような馬鹿が大好きなんだ」
言いながら、西郷は俺に背を向けた。
教師には不釣り合いなほどに筋肉質なその背中は、不思議ととてもデカく(まぁ実際にデカいのだが)感じられて。
「だからよ山空。お前はもっと自分に素直になっていいんだ。情けない所とか、ダメなところとか、隠そうとしなくていいんだぞ。俺ぁお前がちゃんと面白い奴だってこたぁわかってる。万が一それで避けられたりしたら、そんな奴は見る目がない奴だと割り切って一切合財相手にするな。そのくらいの気概でいろ。わかったな?」
そりゃあ俺だってクラスの奴らと仲良くなりたい。
カラオケに行ったとか、帰りにマックに寄ったとか、課題を見せ合ったりだとか、テストの答え合わせをするだとか。
そんな風な友達が欲しいって、クラスに馴染みたいって。先生に言われるまでもなく、ずっと思ってる。
何度か自分から話しかけようともしたし、物とか落ちてたら勇気を出して持ち主に手渡ししてあげたこともあった。
でもダメだった。
話しかけようとした時は、相手は蔑むような眼光でこちらを睨むか、いきなり謝罪の言葉を口にして逃げるようにその場を離れるかのどちらかだし。
落し物とかを届けようとした時も、お礼を言われるどころかストーカー扱いされて逃げられるし。
俺が中学で犯した妙な自己紹介と、金持ちな事と、目つきが悪いこと。
この三点がクラスの奴らの印象に残ってしまっている限り、俺はもう誰からも相手にされないものとして覚悟を決めていた。
それに友達なら秋や琴音もいたし、最近ではオメガやエメリィーヌ、ユキだっている。
昔の俺からしてみれば、それだけで十分充実していて、いつしかクラスの奴らとかかわろうとすることすらしなくなっていた。
だから本音を言えば、正直今はみんながいるから、クラスの人達とはそれほど仲良くなろうとなんて思っていない。
でもただ一つだけ。欲を言うなら、怯えられたり、避けられたりするのは少し心苦しいから……それだけは何とかして解消したいって思う。
「いいか山空。確かにお前は今までにも何度か自分から関わりを持とうとしたと思う。でもな、考えてもみろ。普段絶対そういう事をしなさそうな奴が、いきなり妙な行動をとってもそれは不気味なだけなんだ」
「でも、じゃあ……どうしたら」
「んなこたぁ簡単だ。“俺のせいにすればいい”」
俺に背を向けていた西郷は、その言葉と同時に俺に体を向けてニッと歯を見せた。
「もし誰かに何か言われたらこう返せ。『西郷のヤツと勝負したら負けた。その罰ゲームとしてはっちゃけるよう命令された』とな。これならどんなに普段と違う行動を取ろうが、みんな納得する。あとは流れで仲良くなるはずだ」
「い、いや、でもやっぱり俺にはそんなこと……!!」
「あぁ? 何言ってるんだお前は。これは命令だ。お前は命令を聞くという選択肢しか選べない。断るなんてもってのほかだ。違うか?」
「あ……あぁ」
何も言い返せない。
それは、西郷の命令に逆ってはいけないというルールがあるからなのか。
それとも、俺自身も変わるキッカケを欲しているからなのか。
……そんなの、考えるまでもない、か。
「わかりました。ルール上、命令には逆らえないですからね。“仕方なく”、言う事を聞いてあげますよ」
あくまでも仕方なく、それでいて自主的に、俺は西郷の要求をのんだ。
「ったく、素直じゃないな」
吐き捨てるように笑う西郷に、
「そんなの、お互い様じゃないですか」
俺も吐き捨てるように返した。
「じゃ、俺が伝えたかったのはそれだけだ。時間とらせて悪かったな」
「いえ、こちらこそありがとうございました。少しだけ先生のこと見直しました」
この言葉はお世辞でもあり、本音でもあった。
普段いい加減な先生だというくらいしか思っていなかったのだが、実際のところは全然違くて。なんというか、ちゃんと先生してるんだなって思ったわけで。
全体的に危機感の感じられないのんびりとしたこの校風も、西郷だけじゃなく、先生たちみんなが西郷みたくちゃんと頭では一生懸命悩んでいるからこその結果なのかもしれない。
楽しいことばかりじゃないけど、定期的に通いたくなる。ここはそういう場所だと俺は思う。まぁそりゃ学校だから嫌でも通わなきゃいけないんだけども。
「おいおいよせよ。男のツンデレは見苦しいだけだぞ?」
「おあいにく。今俺は“超絶美少女”なんで」
とりあえず琴音に媚を売っておいたりしてみる。
「竹田の妹さんだからな。直接会ったことはないが、きっと面白い子なんだろうな」
「はい。……あ、でもコイツすごい人見知りなんで、先生は会わない方がいいかもっすね。その顔はインパクトありすぎますし」
「顔だけで言えば山空も十分不良顔だ」
「ひでぇ!」
この先生、人の気にしていることを容赦なく打ち抜いてきよる。
しかもそれが俺が気にしているのを知っていての攻撃なのだから尚のことタチが悪い。
「不良顔っていやァ、お前にもう一つだけ教えてやる」
「はい?」
正直、『不良顔』で思い出される教えなんて聞きたくないのですが。
「山空お前、ただでさえ顔怖いんだから……」
「余計なお世話ですよ!」
「うるせえ最後まで聞け。いいか? お前が緊張したり、相手を警戒したりすると、顔つきが強張って目つきが鋭くなるんだ。つまりわかりやすく言やぁ、その顔の迫力が五割増しみてぇになるんだよ」
「ま、マジで?」
「おう。ちなみにニコヤカな顔を作っていた時はその五割増しのさらに五割増しぐらい不気味だ」
「oh……」
「要するに、友達が作りたきゃァ、相手を警戒せず、なおかつ緊張もせず、自然な笑顔で接することだ」
「無理です」
「即答かよ」
伊達に群れたいけど群れられない一匹狼やってるわけじゃない。
この学校じゃ、俺の噂なんて悪い噂ばかり。不良だの、金持ちだので、妬まれて避けられて恐れられての毎日だ。
そんな俺が相手と話そうと思えば容易なことではなく、当然緊張だってするし、同時に警戒だってする。多分俺に話しかけられた相手も同じだと思う。
俺の顔は怖いから、それを自覚しているからこそ、多少不自然でも場の空気が少しでも和らいでほしい一心で笑顔だって作る。
それらをすべてやめて相手に接しろだ? そんなのできるわけがない。
緊張も警戒ももう癖みたいなもので変えられないし、笑顔を作らなければ俺は怖い顔のまま。しかし自然な笑顔なんてのも楽しくなけりゃできるはずもなく、というかそもそも俺的には自然な笑顔を作っているつもりだったから、それがダメだとなるともう何をしていいのかわからない。
西郷の言いたいこともわかるけど、俺には無理だ。
「いいか山空。こういう事はあまり言いたくないが、お前のクラスでの印象は最悪だ」
「……まぁ、承知はしてましたけど」
「でも逆に考えてみろ。印象最悪だという事は、よっぽどのことをしない限り今以上に悪い印象を与えることはないわけだ」
西郷はなにか俺の背中を後押しするようなことを教えてくれている。
直感的にそれがわかったから、俺は黙って西郷の言葉に耳を傾けた。
「そして、これ以上悪くならないという事は、もう山空の印象は現状維持か良い方向にあがっていくかのどちらかという事になる。だからその……あれだ」
そこまで言うと、西郷はすたすたと歩き始め、保健室を出るために俺の脇を通る。
そして、俺とすれ違った時。西郷はただ一言。
「失敗を恐れるな」
とだけ告げ、俺に背中を見せて廊下を奥へと進んでいった。
神々しく歩く西郷の背中を見据え、俺は無意識に、ぽつりと言葉をこぼす。
「……でっけぇな」
これが大人というヤツなのだとしたら、大人っていうのはなんておっきいモノなのだろう。
しっかりと支えてくれているんだという安心感。説得力。
今の俺には到底出せそうもないオーラだったけど、いつかああいう大人になりたいと、素直に思えた。
ここでふいに、親父の顔が思い浮かぶ。
家を空けて、俺をほったらかしにしていたかと思えば、今になってひょっこり帰ってきて、だけど酒に飲まれている、尊敬に値しないダメ親父。その印象は今でも変わらない。
でも、俺が今学校に通えていること。
俺が今家に住めていること。
俺が今健康に生きていられること。
それらすべては、親父が――両親がいるからだ。
ダメ親父だったかもしれない。
クソ親父だったかもしれない。
でも、今の西郷のように、俺を陰で支え続けてくれていたのも、他の誰でもなく親父なんだと理解した。
だから、家に帰って親父に会ったら、もっと優しくしてあげても悪くないと思える。
これが、親孝行ってヤツなのかもしれないな。
「西郷……いや、西崎先生。ありがとうございました」
すでに見えなくなったその背中に俺は頭を下げる。
窓の外を見てみれば、茜色だった空も、今はもう日も落ちかけて暗さを帯び始めていた。
「……さて、と」
この《入れ替わり》。
色々と大変な事ばかりだったけど、悪いことばかりではなく、確実に得られるものも多かった。
普段の俺に足りなかったもの。それは、人に優しくする心。
この《入れ替わり》は、それを俺に教えてくれた。
してもらう事が当たり前じゃなく、それらに感謝をするという気持ちを、そんな当たり前だけど何よりも大切なことを、俺は改めて知った。
だからこれを期に、色々と新しい自分を始める事ができたなら、それが一番だと思う。
ならまずは、一番身近な人物――親父に感謝の言葉を伝えたい。
そのためには、元に戻らないと。
足元に置いてあった二つの鞄を手に取ると、これ以上遅くなったら秋達に怒られるな。なんて考えながら。
「――帰ろうか」
俺は力強く、一歩を踏み出した。
第五十九話 完
……でっけぇな(今回の挿絵)