第五十六話~山空さんが聞いている。~
この度、俺こと作者は名前を「ポンジュニア」から「本樹にあ」へと改名いたしましたことを、この場でご報告させていただきます。
そして相変わらずのスローペース更新。面目ないです。
~今回の新キャラ~
【春風 燕】
俺、山空 海は今、竹田 琴音と身体が入れ替わってしまっている。
そんな俺にミッションが与えられた。そのミッションとは、この《入れ替わり》から解放されるために、この元凶であるオメガこと鳴沢 恭平のカバンを取ってくる。というものだ。
『じゃあ山空。僕は一足先に帰って例の道具の修理に必要な機材を揃えておく。キミは僕に、修理道具の入っている僕のカバンを届けてくれればいい。今は一刻を争うときだ、なるべく早く頼む』
メガネの彼は、俺にそう告げるなり、帰宅路をダッシュで進んでいった。
『琴音ちゃんは僕に少し手を貸してくれ』
メガネの彼のこの言葉を聞き、彼の背中を追いかけるように、俺の姿を模した琴音も帰っていく。
ひとり残された俺。しかし俺にも彼から与えられたミッションがあるため、いつまでもこの場に佇んでいるわけにも行かない。
俺がオメガのカバンを彼の教室からとってこなければ、オメガは壊れた機械に対して手を加えることができないまま。
そう、つまり言ってしまえば、俺の役目はいわば最重要の役割。例えるならば、時限爆弾を止めるために赤と青のどちらかのコードを切断しなければならず、その切断をするポジションに割り当てられるのが今回の俺だ。
俺が動かなければ、この《入れ替わり》から解放されることはできない。まるで物語の主人公のようだ。
もし本当に俺が物語の主人公なら、琴音が俺の身体で覗きを行ったと噂され現状の知れぬあの教室から逃げ帰ることは許されない。主人公は、どんな困難にも屈しず、立ち向かわなければならないのだ。
覚悟を決め、俺は歩み始める。
一歩、また一歩と目標に近づいていく。
まずは昇降口。ここに侵入しなければ話は始まらない。
なあに、俺は琴音の身体だが、中身は俺。つまり高校生……それもこの高校の現役の生徒だ。この高校の全体の間取り、どこに何があってどう繋がっているのかなど手に取るよりも簡単に把握できる。
覗き騒ぎで興奮して凶暴化している生徒の住む教室へと単身で乗り込み、ブツを奪取する……なんていえば聞こえだけは難しそうなものだが、この高校を隅々まで知り尽くしている俺にとって、自分の家のお庭から大事に育てたお野菜を収穫してくる……位の簡単なミッションなのである。
このミッションで唯一難しいのが、中学生の姿である俺の学校への無断侵入であるが、幸いこの高校には、この身体に見合う実の兄が存在する。要するに兄への用事という定でいけば何ら問題はないということである。
そう、このミッションは……簡単すぎるのだ。
第五十六話
~山空さんが聞いている。~
――結果だけ告げると、俺の考えは全てにおいて浅はかでとんだ夢物語だったことになる。
このミッションは……簡単すぎるのだ。そう考えていたのが今からザッと数十分前の出来事で、現状、俺は今、いろいろあって掃除用ロッカーに身を隠している状態にある。
なぜこのような有様になってしまっているのかといえば、事の発端はあの昇降口に足を踏み入れた時からだった。昇降口を通り、外履きや上履きなどを収納する下駄箱へ足を進めた時に感じた寒気。それが全ての始まりだ。
目の前に大きなモノが存在している。あの時あの瞬間では、そんな曖昧な認識が精一杯だったのをよく覚えている。必然、この物体がなんなのかをたしかめるため、俺は無意識に見上げた。そこにはなんと“鬼が立っていた”。
……以上のことだけを聞いた皆さんは、何を言っているのかわからねーと思う。当然、本物の鬼が立っていたわけではない。そう、“鬼”というのはいわゆるその物体の象徴であり、比喩的表現なのである。
鬼。ではそんな表現は、どういう時に使用するものなのか? そう考えると、やや個人差はあると思うが一般的には『迫力があり恐ろしい様』が思い浮かぶと思う。
そして、この学校でそんな『迫力があり恐ろしい様』を担う物体といえば何か? ……正確には、その様を醸し出せる人物は誰か? そこまで連想したところで、脳が一気に答えを導き出した。
それと同時にフラッシュバックするあの記憶。あの時の『じゃあ直接そちらにお伺いさせていただきます!! くたばれクソ野郎!!』というセリフ。
最初の疑問が、一本の線に繋がり“解”を作っていくのと比例して、心臓の動機が早くなり自分の顔から徐々に血の気が引いていくのがわかる。
そう、西郷だ。
脳内に存在する人物のデータベースが、目の前の人物を認識し導き出してしまう。それとほぼ同時に、目の前の鬼は口を開きながら俺にその筋肉質でゴツゴツとした手を伸ばしてくる。
その瞬間、俺は駆け出していた。
廊下は走ってはならない。そんなこと、小学校に入った頃から……いや、下手すればそれよりもずっと前から理解していることだ。ましてや俺は今靴下。なぜ靴下なのかといえばこの身体に合うサイズの上履きがなかったという理由なのだが、なんにせよ俺は今靴下なのまま廊下を全力疾走している状態にある。
この高校の廊下は木製であり、やはり地肌と地面のあいだに布を隔てると摩擦が減り、まるでアイススケートのようによく滑る。さらには今俺は無我夢中でダッシュ中。派手に転んでしまったのは必然に近い出来事だろう。
靴下の届いていない部分の地肌が地面に擦れる。そのせいでその間に摩擦熱が生まれ、擬似的なやけどを追ってしまった。丁度スカートで隠れている左足の太ももの側面部分だったため目立ちはしないが、他人の体ということもあり自分の体で怪我をする時とは比べ物にならないくらい心に来る出来事だった。
擦れた足がスカートの布や空気に触れる度ヒリヒリと痛むものの、後ろからは鬼のような形相の西郷が教師なのにも関わらず廊下を全力疾走で追いかけてくる。お前教師やめちまえ! なんて思いながらも、痛む足を抑えて、できるだけ早く、必死に階段を駆け上がった。
12段ある階段を3回ほど折り返しのぼったところで、目的の場所――『2-2』と表記されたクラス板が目に入ってきた……の、だが。
“人だかり”である。
今は放課後だ。ここに来るまでに人にすれ違わないことに少なからず違和感を覚えていたが、そのもやもやを晴らす光景がそこにはあった。
文字通りざわざわという擬音がピッタリなほどに騒々しいそこは、教室の中から人がこれ以上ないくらいに溢れかえり、廊下へと洩れ出していた。
この高校の普段の光景を知っているがゆえ、その異様な光景には驚きを隠せない。
――とりあえず隠れよう。
そう思うが早いか、俺はすぐに近くにあった誰も使用していない第二理科準備室へと身をひそめる。なぜここは第二なのかと問われても理由は分からないが、理科や科学の授業の時に使用する教室で、広さは中々のモノだ。少なくとも各教室の倍くらいは広いと言っても過言ではないくらいに。
なるべく目的の教室の近くまで身を寄せ、聞き耳を立てる。この騒ぎの原因は琴音やオメガの話から推測するに『俺が委員長のトイレを覗いた』というものだと断定できるが、その犯人である俺(の身体)が既にこの学校にいない。なのになぜ皆は今もなお集まって騒ぎ立てているのか。それが気になったのだ。
余計な情報を脳に入れないためにまぶたを閉じて視界を遮断し、じっくりと聴覚を研ぎ澄ます。
すると、声質にアニメキャラのように甲高いという特徴のある、一人の女性の不満の混じった声が耳に入ってきた。この声から察するに、彼女は俺のクラスメイトの一人だと思う。名前は知らない。
『よっしゃみんなァ!! 明日、今日日アタシらから逃げくさりやがったあのエロ不良がのこのこと登校してきたところを拉致してもう二度とこんなことがないように奴の身体をボッコボコにすっぞォオラァ!!』
なんでやっ!? という俺の心の中のツッコミをかき消すように、オォオオオーーーーッ!!!!! と、周りの奴らも気合の入った声を発した。心なしか野太い声も女子に負けないくらい混じってた気がした。
というかアニメ声の子、声は可愛いくせに内容がえげつねぇ……。
俺のこの高校でのあだ名。金持ち不良、女たらしの地味不良ときて、今度はエロ不良……。どんどん退化しているあだ名に、「この次はどんなあだ名になるのか逆に楽しみだわ」と強がってみる。
しかし強がっては見たものの、やはりあまりの酷さに絶望を隠しきれず、挙句にはズキンズキンと頭痛の症状まで垣間見えてきた。
自分で思っている以上に、俺のガラスのハートはボロボロに傷ついているようだ。
そんな中。
『えっと、私もトイレの鍵掛けてなかったわけだし……山空くん? が全部悪いわけじゃないから、何もそこまでやらなくてもいいんじゃないかな……って思うんだけど』
擁護の声があがる。
これはもしかしなくても委員長の声に違いない。
委員長こと春風 燕。写真部とイラスト部の各部が合体した新聞部に所属しているらしく、毎月各教室の後ろの黒板と各階の廊下に数点貼られる学級新聞の制作に加担しているという噂も聞くが、彼女とはあまり深く関わったこともなく、それゆえに詳しいことはわからない。
なにせ俺の抱く委員長の印象といえば、綺麗な茶髪と、前髪の桜色の髪留めが印象的で、委員長の割に大人しそうなイメージの女子だという程度の認識。
実際彼女の方も、俺の名を『山空くん?』と疑問形で口にしているところから見てもわかるとおり、俺に対しての印象は薄いだろうし。
あとは……そうだな。今まではいわゆるメガネ女子だったが、最近コンタクトに変えたとかで彼女と仲の良い女子グループが騒いでいたのはまだ記憶に新しいな。
……とまぁ、そんな俺が委員長のトイレを覗く行為を行ったとなれば、だ。
まぁ、うん、その……あれだ、なんというか……その、目の前にある光景になるだろうなぁと、自分でも思います。うん。
しかし委員長はそんな中でも、自分が被害者でとても恥ずかしい思いをしてもなお、加害者たる俺を擁護する行動に出る。まさにイケメンだ。女性なのにイケメンとはなんとも不思議な子である。
そんな男気溢るる彼女。俺が男なら確実に委員長に惚れていることだろう。
「って、俺は元から男だよ!!」
『ん? 誰かいんの?』
「やばっ……!!」
ついセルフノリツッコミで声を荒げてしまい、廊下を歩く誰かに聞かれてしまったようだった。
開いていたドアから人影が入ってくるのを視界に捉えると、咄嗟に近くにあった清掃用ロッカーへと身を隠す。
足音の数や人の気配から、それは複数人いるようだった。
『あれ……誰もいない?』
別に特別やましい事をしているわけじゃなし、別に見つかっても何ら問題はない事実に気づいたのは、ロッカーの扉を完全に閉じた後のことだった。
しかしロッカーに身を投じてしまった今、いくらやましい気持ちがないとは言えいきなりここから飛び出したら確実に変人扱いされてからかわれる。別にそれが俺なら適当に誤魔化せば特に問題ないが、それが琴音となると話は変わってくる。
今後この《入れ替わり》が元に戻ったとして、琴音が琴音であるときに、俺の行動のせいで琴音にとって見知らぬ輩に突然からかわれるなんてことが起きたりしたら、わからないけど多分すごいトラウマになって他人恐怖症みたいな感じになってしまう疑いがある。
ただでさえ琴音は極度の人見知りなんだ。人見知りが悪化する可能性だってないわけじゃない。
だから、ここは人がいなくなるまで飛び出せない。換気のためか、ロッカーに少し隙間があり、そこから外の様子が確認できたことがせめてもの救いか。
真っ暗な中にわずかに差し込む微かな光。そこから外を眺めてみると、外では見た目が派手で柄の悪そうな連中が理科室特有の長机に腰掛けて雑談をしているところだった。
おいおい……ふざけんなよ……。何くつろいでるんだ。俺が外に出れないだろうが……!!!
――とまぁ、そんなこんなでそれから数十分が経過し、今に至るわけである。
濡れた雑巾や埃まみれのホウキやハタキ、モップなどの清掃道具。高校生のいい加減さというものがふんだんにあしらわれているロッカー内は、モノが乱雑に収納されていてとても狭く、少し体を動かすだけでも物音が立ってしまいそうなほどに繊細な配置の道具たちでいっぱいだった。
いや、それだけならまだいい。ちゃんと絞らずに水が滴っている雑巾のせいで、非常に湿気が多くじめじめとし、さらにはとてもカビ臭い。こんなロッカーに長時間いると、気がおかしくなりそうだ。
とめどなく流れる汗。徐々に朦朧としてくる意識。軽く脱水症状になっているのかもしれない。
でも、外では不良(?)たちが楽しくおしゃべり中。外に出られない。
あぁ、今日はとことん不良運が悪い日だ。
金髪不良には絡まれるし、エロ不良とかいう称号を獲得しちゃうし、間接的ではあるが不良たちに閉じ込められているし。
ついてない。つくづく今日は……。厄日だ。
湿気が多く、まとわりつくような嫌な汗に苛立ちを募らせている俺は、世界すべてを恨みたくなるほどに追い詰められていた。
このままでは熱中症と脱水症状の異彩放つコラボレーションで死んでしまう。
死が目前に迫り焦る気持ちの中、なんとか気を紛らわせないといけないと思い不良たちの会話に耳を澄ますことにした。
別に盗み聞きがしたいわけではないが、動けないこの状況では盗み聞きという手法でしか、気を紛らわせる方法がなかったのである。
とはいえ、盗み聞きをしなくともさっきから度々笑い声が聞こえてくる。何か盛り上がる話でもしているのだろうか。
この不良っぽい人たちは、一体、どんな話をしているというのか。
『でさー、そんとき彼女なんて言ったと思う~?』
どうやら彼女さんの話らしい。
こんな不良っぽいのでも好む人はいるのだと分かると、似た境遇の自分もどこか自信が湧いてくる。
そうだ、俺だってモテる可能性は秘めているんだ。たとえ顔が不良顔でも、好んでくれる人が――。
そこまで考えたところで、脳裏にユキの顔が浮かんだ。
考えてみると、ユキは唯一俺のことをひと目で優しそうな人だと言ってくれて、俺みたいに不良寄りな外見をしている奴でも嫌悪感を抱くどころか、好きだと言ってくれた子。
そんな子の気持ちを、俺はいつも軽く流していたんだよな……。
『正解はね~、なんと彼女、「キミのことが好きなの」って! 言い終わったあと顔真っ赤にしてうつむいてるところがまた可愛くってさ~』
そう告げた彼の横顔は、とても幸せそうな、優しい表情だった。
自分の好きな人をこんなにも楽しそうに。嬉しそうに。胸張って可愛いと言える。少しムズ痒くもあったが、それ以上にカッコイイと思えた。
できれば俺も、この人みたいにちゃんと――。なんて、今までユキを散々悩ませておいて今更おこがましいのかもしれない。
それに俺はまだユキのことをそう言う意味で好きかと聞かれれば答えられる自信がない。まだ俺にはそういうのはわからない。恋愛って、なんなのだろう……。
『俺、彼女に出会えてよかったよ』
どうやったら彼みたいに、真っ直ぐに自分の好きな人を友達に胸を張って話せられるようになるのだろう。
カズくんや端元くんは、なんだかんだ言ってそういう意味では俺よりも大人なのかもしれない。
俺にもいつか誰かを好きになってずっと一緒にいたいと思えたり、守ってあげたくなる人が現れるのだろうか。
もし俺が誰かほかの人を好きになった場合、ユキはどのくらい傷ついて、どのくらい涙を流すのだろうか。
今までそういうことを考えたことが一度もなかったけど、一度真剣に向き合ってみると、その怖さが十分に理解できた。
そんな恐怖を背負いながら、端元くんも、カズくんも、……そしてユキも。人を好きになっているのだろうか。
「ははは……かなわねえな……みんな、すげえよ……」
ホント、すげえ……。
『……ってちょっと待って? さっきから彼女の話してるけど……お前彼女いたっけ?』
『え? ……あっ!? 俺、彼女いねぇ……』
別の奴が、彼女のことを語っていた奴にそう問いかけると、なんともまぁ意外な返答が返ってきた。
……うん。まぁあの、軽くショック受けたけど聞かなかったことにしておく。
『全部妄想だったのかよ!!!』
『あ、いやでも妄想って言い切れるわけじゃないぜ? 俺携帯型の彼女いるし』
『二次元ッ!! ドヤ顔で言ってるけど彼女量産型じゃねえか!!』
『うるせーな、お前だって彼女いねえだろうが』
『はぁ? 俺はいるよ、彼女!!』
『はっ、どうせ嘘だろ?』
『嘘じゃねえよ!!』
『嘘じゃねえったってどうせ二次元でしたってオチなんだろ? いまどき流行らねーぞそんなオチ』
……いや、多分お前にだけは言われたくないと思う。
というかお前らさっきから黙って聞いてればなに漫才始めてんだよ。
『オメエだけはに言われたくねえよ!!』
ほれみろ。
『じゃあまさかの四次元?』
目に見えない彼女!!
『ちゃんと三次元だよバカ野郎!! 最近のゲームのグラフィック技術なめんなよ!?』
ゲームなんじゃねえか!!!
『それ三次元じゃなくて3Dなだけだろ!!!』
『チッチッチッ、ただの3Dとはわけが違うぜ? なんせ画面から飛び出すんだからな』
それただの任○堂さんとこの3○Sじゃねえか!!!
チッチッチッじゃねえよ!! キメ顔してんじゃねえよ!!
『え? お前の彼女貞子なん?』
なんだその切り返し!!! 画面から飛び出るってそういう意味じゃないからね!?
『貞子じゃねえよ!!! 凛子だよ!!!』
ラ○プラスですね分かります!!
『え、ちゃんこ? お前正気か?』
どうやったら「凛子」と「ちゃんこ」を聞き間違えれるんだよ!!
難聴ってレベルじゃねーぞ!! 耳鼻科行けッ!!
『え、俺は正気じゃなくて田中だけど』
名前聞いたわけじゃねーだろ!!! もう二人仲良く耳鼻科に通え!!!
『あ、俺は鈴木~!』
なんで自己紹介が始まってんだよ!!
『僕はマルコ』
なんか三人目出てきたんだけど!? え、いたの!? なんかロッカーの構造上俺には二人しか確認できないんだけど死角に隠れてもうひとりマルコがいたの!?
……まぁ、二人とは違う声色だから多分ずっといたんだろうが……。でもマルコ、あんたあの漫才の中よくずっと黙ってられたな。
「はぁ……はぁ……」
口に出していたわけじゃないのに、息が上がっている俺。
その時初めて、自分が滝のような汗を流していたことに気づいた。そしてそれを一度認識してしまうと、急に激しい目眩が俺を襲う。
たくっ、一体なんなんだよコイツら……。放課後に人気のない場所に集まってお互いに架空の彼女を自慢しあってるとか正気の沙汰じゃねえよ……。M-1でも目指してんのかよ……。怖いわー……。性欲にまみれてる男子高校生怖いわー……。
心の中で呆れるも、さすがにちょっとクラクラしすぎてやばいかもしれない。
胃から何かがこみ上げてくる感覚が俺をおそう。とうとう吐き気の症状まで現れやがった。
どうする!? 何度も自分に問いかけてみても、答えは当然返ってきやしない。
このままロッカーから飛び出すか、それとも僅かな望みにかけてあいつらがいなくなるのをジッと待つか。
目の焦点が合わずぼやける視界の中で、再び奴らの姿を確認する。しかし彼らは一向に退く気配を見せず、それどころか図書室で借りたであろうライトノベルを読み始めてしまう。
この場でジッと待ってるわけには行かない。が、あいつらが退くまで飛び出せない。なのにあいつらは退こうとしない。とんだ袋小路だ。
もう、ダメなのだろうか……。
ピピピピピ……。
軽く諦めかけていたその時、俺の身体から聞き覚えのある電子音が鳴りだした。
その音の正体を知っていた俺は、すぐにポケットの中からソレを取り出す。そして、スイッチをオンにした。
『もしも~し、山空く~ん、遅いですよ~、まだですか~、そうです、私が変なおじさんです』
左耳につけたニンジン型のイヤホンから、ふざけきったイケメンボイスが聞こえる。もちろんオメガだ。
というか変なキャラ作ってんじゃねえよ。どうせ無表情で言ってんだろ? そのセリフに無表情とかシュールすぎんだろ。
「あぁ、オメガか。わりぃ……ちょっと、ヤバい状況でさ……はぁ……はぁ……」
声を出すのも億劫だ。
正直、甘んじていた。熱中症や脱水症状がここまで辛いものだとは思ってもみなかった。
『……? よくわからないが、声だけ聞くと琴音ちゃんがハァハァ言ってるようで興奮冷めやらんのだが』
「ハァ……ハァ……」
『おいおい、本当にどうしたんだ山空? 今どこにいる? 迎えに行ったほうがいいか?』
自身の変態発言に対して何も反応がなかったことに違和感を覚えたのか、先程までのふざけた口調とは打って変わり真剣な声色になったオメガ。
心配をかけてしまっているようだった。いや、まぁ当然といえば当然だ。
俺はバカだった。琴音がどうとか、変に思われるとか、そんなことばっかり気にして一番気にしなきゃいけないはずの琴音の身体のことをそっちのけにしていた。
廊下で転んだ時に擦った足に汗が伝ってヒリヒリしみるし、制服だってもうびしょびしょでほのかに汗臭い。頭も痛いし目もぐるぐる回るし吐き気はひどいし、琴音の体に悪影響ばっかり起こってしまっている。
もしこの状況で琴音が得するとすれば、少し痩せて体重が減ることぐらいだが……成長期である琴音にそんなサウナダイエットみたいなのは必要ないだろう。
このまま汗をかいたままでいると皮膚がかぶれて汗疹だってできてしまう可能性もあるし、何より元の身体に戻ったとき、辛い思いをするのは琴音自身。それだけは絶対に阻止しないといけない。
世間体だとか、周りの目だとか、くだらないことを気にして目先の本当に大切なものに気づけない。
恋愛だってそうだ。ユキに人前で張り付かれたりするのが恥ずかしくて、周りの目を気にして、本当に大切なユキの気持ちに気づいてあげられなかった。
決めたはずなのに。もうあんな思いはさせたくないって、決めたはずだったのに……。俺はまた、同じことを繰り返しているだけじゃないか。
ユキのため、琴音のためと言っておきながら、俺はどこか他人事だった。逃げてただけだった。
もうやめよう。人の目を気にしたり、世間に流されたり、他人のせいにして自分を擁護するのはもうやめにしよう。
「オメ、ガ……ハァ……ハァ……ちょっと、聞きたいことが、あるん、だが……」
今回の覗きの件だって、俺は琴音を殴ってしまった。嫌だった。やっとクラスに馴染めて来たとこだったから、本当に嫌だった。今までの苦労を破壊されるのは、心の底から嫌だったんだ。
心の奥底では琴音を責めていたかもしれない。ふざけんなって、思ってた。
「このピンマイク……自分の、イヤホンに……ハァ……声を送ることは……可能か……?」
『それはキミの声を届ける先を僕のイヤホンではなく山空のイヤホンに変更したいということか?』
「あぁ……」
でも、違う。そもそもクラスに馴染めるようになってきたのだって、エメリィーヌやオメガがこの高校に来てからだ。俺自身、何も変わってなかった。
エメリィーヌの陽気さがあったから。オメガのユニークさがあったから。ユキの大胆さや秋の優しさがあったからこそ、俺は学校が楽しい場所だって思えるようになってきてたんだ。
しかしそれは、自分じゃ何もしてないという証拠でもあった。何もできない俺を周りが流してくれたからこそ、抱くようになった感情。
『ならば、それは簡単だ。ピンマイクの表面部分……そこに通信先を設定できるボタンが赤と青の2種類ある。赤は僕のイヤホン、青はキミのイヤホンに割り当てられてるから、青を押せば設定は完了。あ、ちなみにその表面部分だが音量調節の役割を果たしているため外すと音量が調節されな――』
「お、オメガ……? 通信が……切れた、のか……?」
認めよう。俺は弱虫だ。逃げてばっかで、他人に助けてもらうしか脳のない馬鹿野郎。それが俺、山空 海という人間だ。
「ハァ……ハァ……ったく、どこが強電波なんだよ……」
そして変わろう。自分の力で。声で。言葉で。心で。
自分で頑張って、頑張って頑張って頑張って、それでもできないことがあったら、その時初めて、胸を張って、堂々とみんなを頼ろう。
だから。
まずはこの《入れ替わり》を、終わりにするんだ。
「青いボタン……」
オメガとの通信が切れたあと、自分の耳からイヤホンを外し、音量調節の役割を果たしているらしいイヤホンのニンジンの部分を取る。
するとそこから、オメガの言ったとおり赤いボタンと青いボタン、2種類のボタンが出てきた。すかさず、俺は青いボタンを押す。
そして、試しにピンマイクに向かって言葉を発してみる。
「あー、あー」
単発の「あー」という声を発した瞬間、耳につけているイヤホンからも聞こえてきた。どうやらちゃんと設定が完了しているようだ。
確認し終えた俺はそっとイヤホンを耳から外し、イヤホンの音量を最大まで上げる。そのイヤホンをロッカーの隙間に近づけた。
「はぁ……はぁ……はぁ……フーー」
俺はこのロッカーから出たい。でも三人組がいて外に出られない。
だったら外に出るには、三人組をどかすしかない。
呼吸を整えた俺は、ピンマイクに向かって叫ぶ。
「火事だぁぁぁあああ!!!!!」
俺が叫ぶと同時に、イヤホンから同じセリフが大音量で飛び出した。
しかしイヤホンから出ているのは俺(琴音)の声ではなく、中年男性のような声だった。そう、声を変えたのだ。
このピンマイクに声を変える機能が備わっていることは、今朝、《入れ替わり》が起こる前に実証済みである。
なぜ声を変えたのかといえば、琴音のような若い女の人の声だとあまり迫力がないこともそれとなく理解していたためであり、中年男性……つまり教師に近い年齢の声。そんな声が火事だなんだと大騒ぎすれば、信じてくれる確率が上がる。
そうなれば、あの三人組の気も少しのあいだだけそらすことができるのではないか。そんな淡い期待込めて発した一言だった。
『おい、なんか火事らしいぜ?』
一人が食いつく。
それを筆頭に、もう一人も食いついた。
『え? 火事? どこで?』
『いや、知らん』
『知らんってなんだよ……』
『だってボク本当に知らんもん……放火犯じゃないから知らんもん……そんな責めなくたっていいじゃん……』
『何甘えた声出してんだ! キモいな!』
『キモくねーよ!!可愛いよ!!』
『死ねよ』
『お前たまにえげつないことを真顔で言うとこあるよな』
『それが俺の取り柄だからな』
『捨ててしまえそんな取り柄!』
あははは……と、笑い声が聞こえてくる。
結果として、全くといっていいほど火事に食い付いてもらえなかった。火事に対して興味無いにも大概にしたほうがいいと思う。
『ってあれ? マルコは?』
『ん? アイツなら火事って聞いた瞬間恍惚の面持ちですっ飛んでったぜ?』
訂正する。
結果として、マルコ一人だけはとても良く食いついてくれたようである。
しかしマルコ一人だけいなくなったところで、状況はさして変化はない。
意識は朦朧とし、もはや自分が今何を考えているのかすらはっきりしなくなってきた。一体どうすればいいんだ……。
「……もう、諦めて飛び出すしかない……か」
一人ボソリと呟くと、覚悟を決めて目の前にあるロッカーの扉へと手をかける。
そして、その手に力を込めた。
その直後。
「おいお前ら……こんなところで何をしてるんだ?」
不意に聞こえた声に、思わず力を込めた手を引っ込める。
誰が来たのかはわからないが、そんなことよりも人が増えてしまった……。
出るに出づらい状況だが、もしも運がよければ、逆に誰もいなくなるかもしれない。そう考えた俺は、ほんの少しだけ様子を見ることにした。
『あ、あー、えっとその、少しコイツと駄弁ってただけッス』
敬語を使っているところから見るに、おそらく訪れた相手は先輩か、それとも……。
『そうそう、もう帰りますんで、さよならッス』
「おうそうか、気をつけて帰れ。……ところでお前ら」
……この声。やはり、間違いない。
「このへんで中学生の女の子見かけなかったか?」
――西郷だ。
『いや、全然見てないッスよ? というかそれ以前にここ高校ですし』
「ところがどっこい、紛れ込んだ子が一人いてな……どっかで見たことがある気がするんだが……どうにも思い出せん。知らないか?」
『知らないッス。なぁ?』
『うん、知らない』
「そうか、だったらいいんだ。引き止めて悪かったな、じゃあもう暗くならんうちに帰れ」
『わっかりました~、あ、そういえば火事あったんスか?』
「火事ぃ? どこで?」
『あ、知らないならいいんス。じゃ、さよなら!』
パタパタと足音が小さくなっていく。どうやら不良のような二人は帰ったようだ。しかし、西郷はまだいる。
この場にいたのがあの二人ならまだよかったが、厄介なことに西郷になってしまった。もし西郷に見つかれば、勝手に学校に入ったのと喧嘩をふっかけたのとで素直に見逃してくれるはずがない。現に今だって俺のことを探しているくらいだ、俺の姿を見たら絶対に捕まえに来るはずである。
ならばいったいどうするのか。そんなこと考えるだけ無駄なこと。今の俺には選択肢なんてないのだ。琴音のことを思えば、選択肢などひとつしかないのだから。
「はぁ、一体どこへ消えたと言うんだ――ぬぉ!?」
ガタッ……というもの音と共に、ゆっくりと開く清掃用具ロッカーの扉。
その中から出てきた……いや、正確にはグッタリと倒れこむように出てきた俺を見て、西郷は小さく声を上げた。
ロッカーの中とは違い涼しく澄んだ空気を肌で感じながら、俺はなんとか地に足をつき体を支える。
あぁ、西郷に見つかった……。否、それを覚悟して出てきたのだ、この後に起こる悲劇ぐらい覚悟している。
「ほぅ、そこに隠れていたか」
俺の姿を確認すると、西郷はニヤリと口元を怪しく釣り上げて笑みをこぼす。
そうさ、俺はここにいる。お前の目の前にいるんだ。逃げも隠れもしない、どんな罰でも受けてやる。
「煮るなり焼くなり……好きに……し……」
「……ん? お、おい!」
ぐわんと視界が歪み、天井がぐるりと渦巻く。
脳と三半規管が狂い、平衡感覚が一瞬にして無くなる。
あまりの異変に立てなくなった俺は、地面に倒れこんでしまった。
「お前、凄い汗じゃないか! なんでこんな……あぁ、そうか、俺のせいか。ついこの学校のやつらと同じ感覚で接しちまったから……とりあえず保健室まで行くぞ!!」
「うっ……いや、ちょ……」
「喋るな!」
だらしなく地面に倒れる俺を軽々と持ち上げたかと思うと、西郷はそのまま自分の背中に担ぎ上げる。
あの強面顔の西郷が中学生の女の子をおぶっている形になり、朦朧とした意識の俺も予想外の西郷の行動に少し戸惑ってしまったものの、すぐに体調の悪さから西郷の背中に身体を預けることにした。
そのあとすぐに、西郷は俺をおぶったまま切羽詰ったように走り出した。
未だにエロ不良を捕まえてとっちめると息巻いていて帰ろうとしない人だかりをまっすぐ突っ切ると、周りから『え!? あの西崎先生が見知らぬ女の子をおぶって廊下を走り抜けている!?』だの『鬼の西郷……いや、ロリの西郷……』などと好奇の声が上がるが、そんなことを気にする素振りも見せず西郷は走り続けた。
「あれ、今の……琴音? いったい――」
ざわつく声も、曲がり角を左折し階段を下りたあたりですっかり聞こえなくなった。
西郷が動くたび俺も揺れ、目眩に更に拍車をかけているものの、何もできずにギュッと目を閉じてただひたすらに耐え続ける。
そんな俺に、西郷は「大丈夫か?」「もう保健室つくからな」「水分取れそうか?」など、気遣いの言葉を何度も口に出し、語りかけてきていた――。
第五十六話 完