巻き戻せ
「俺のせいじゃないって!」
俺は血塗れのビンを放り出してそう叫び上げた。
堅い底が砕け散り、血に滑ったガラスの黒いビン。それが音を立てて転がっていく。
通行人達が驚いた顔で俺と地面に倒れている男を交互に見た。
そう、路地裏に血塗れの男が倒れている。俺に絡んできた他の店の男だ。
俺は店の裏でこの男と鉢合わせし、店の客を盗ったと因縁をつけられたのだ。
寂しい女の相手をして店で金を吐き出させるのが俺の仕事だ。
客層は決まっている。上客なら尚更取り合いだ。
自分の上客だと思っていた女が、俺の店に流れたのだろう。男は待ち伏せしていたのか、女を車で送り出した俺をいきなり路地裏に引きずり込んだ。
「こいつが先に! 俺を小突いたんだ!」
そう、俺はいきなりこの男にアゴを小突かれたのだ。
更に問答無用で突き飛ばされ、酒ビンのケースの山に正面から突っ込んだ。
「仕方なかったんだよ!」
丁度手を着いたところに黒いビンがあった。
正直言ってついさっき起こったことなのに、もう自分でも何をしたか覚えていない。
覚えているのは飛びかかってくる相手の血走った目と、次の瞬間に俺の手に走った鈍い衝撃だけだ。
気がつけば男は額から大量の血を噴き出し、二、三度よろめいたかと思うと地面に崩れ落ちて動かなくなった。
死んでいる。間違いない。
俺はもう終わりなのか? これからどうなるんだ? 何で俺が?
このままでは前科者。しかも殺人者だ。俺の頭の中を数々の疑問符が浮かんでは埋まっていく。
ついさっきまで上客に貢がせて天にも昇る気持ちだったのに、今や地獄いき――いや監獄いきの一歩手前だ。
時間が戻って欲しい――
俺はぴくりとも動かなくなったその男を見下ろして切にそう願った。
俺が心からそう思った時、本当に時間が戻った。
時間が戻った。
俺はしばし呆然とする。
俺は店にいた。
上客の女が、まさに騒動の原因となった女が会計済ませているところだった。これは十数分前の光景だ。
俺はその会計につき合い、この後店の外の車まで見送ったのだ。
きょとんとしている俺に、女がどうしたのと声をかけてくる。
「別に……」
俺はそう答えて女を一人でドアの外にやり、店から出なかった。
車まで見送らない俺に女は不平顔でドアの向こうに消える。閉まるドアの隙間から一瞬見えたのは、死んだはずの他の店の男だ。待ち伏せの為にか、向かいの店の陰に半身を隠している。
やった――
俺はその状況に原因も分からないまま歓喜する。
俺は時間を巻き戻したのだ。
この力があれば――
俺がそう思ったその時、また時間が戻った。
俺は歯を磨いていた。
覚えている。今日の昼だ。俺の朝は遅い。遅く起きて新しい歯磨き粉を試し、その味に慣れないなと思った昼だ。
時間がまた戻ったのだろう。
何故だ? 俺は今日の昼からやり直したかったか?
いや、違う。上客の女に金を吐き出させたのだ。最後のことがなければ最高の一日だったはずだ。
俺がそんなことを考えていると、また時間が戻った。
そう、また時間が戻ったのだろう。
俺は子供になっていたからだ。
俺は呆然と辺りを見回した。
覚えている。ここは俺の小学校の教室だ。間違いない。
何故? 俺はそんなことは望んでいない。望んだ時だけ時間が戻るのではないのだろうか?
そんなことを考えていると――
俺は銃を手に塹壕で震えていた。覚えている。俺は戦争で徴兵されこの塹壕に放り込まれたのだ。
覚えているだって? 何だこの記憶は? 俺の記憶なのか?
俺は――
俺は畑を耕していた。使い慣れた鍬をふるい、毎年の農作業に額に汗していた。
鍬がしっくりと手に馴染む。知っている鍬だ。長年使い慣れた鍬だ。
何故俺が鍬など知って――
俺は矢を放った。次の瞬間どっと倒れたのは一日がかりで追った獣だ。
俺は自慢の弓を掲げた。
自慢の弓? 何だ? さっきから何が起こっている?
銃を手に塹壕だって? 鍬で畑を耕すだって? 矢で獲物を捕るだって?
まるでどんどん時間が――
俺は棍棒を振り上げた。腰に巻いた獣の皮がその動きに揺れる。
俺は何となく理解した。
時間を巻き戻す力を手に入れたのは俺だけではなかったのだ。
皆が好き勝手に時間を巻きもどし、ついにこんな時代にまで戻ってしまったのだ。おそらく皆が前世に戻りながら。
俺はこの新しい前世で、獲物を横取りされたと喚くよそ者を棍棒で叩きのめしているところだった。
時間が戻って欲しい――
俺はぴくりとも動かなくなったその男を見下ろして切にそう願った。