最強の召喚獣ジズ、シングルマザーで仕事より育児が忙しい。
夕暮れどきの渓谷に、肉を焼く匂いが漂っていた。
岩壁を背にした洞窟の入り口では、体長十数メートルのドラゴンが、丁寧に火力を加減しながら、川で仕留めてきた大鹿を串に刺して回している。うろこは深い紺色で、広げれば集落ひとつを翳に沈めるほどの翼を持ち、その瞳には人間の術師たちが「深淵の光」と呼ぶ色があった。
名をジズといった。伝説に謳われ、召喚士たちが畏怖をもって語る、最強の召喚獣である。
その足元では、三頭の子龍が転がっていた。
長男のヴォルは九歳で、弟たちの面倒を見ようとして逆に喧嘩を売られ、現在は耳を噛まれながら地面に転がされている。次男のドゥルは七歳で、長男の耳を噛んでいる張本人だが本人に悪意はなく、ただ興奮しているだけである。三男のリムは四歳で、その喧嘩を近くで観戦しながら鼻をほじっている。
「ヴォル、一回離れなさい」
ジズは串を持ったまま言った。声は静かだったが、低かった。渓谷の岩壁がわずかに震えた。
「ドゥル、噛むのをやめなさい。リム、指を顔から離して」
三頭がばらばらと反応し、互いの方向に散っていった。ジズはため息をついた。岩壁の震えが止まった。
召喚獣として名が知られて久しいが、子育てというのは別の種類の消耗だ、とジズは思っている。召喚士たちから呼び出され、魔物を屠り、戦場を制圧し、無事に帰還するという一連の作業は、長年のうちにある種の「仕事」として整理されていた。仕事は仕事だ。理不尽な依頼もある。タイミングの悪い呼び出しもある。疲れているときも、腹が立つときも、白い光が走れば行く。従う。そして終われば帰る。報酬が出る。魔力の形で支払われるそれは、子どもたちにとって最上の栄養になる。だから割り切っている。
割り切れる。
召喚の光が走ったのは、肉がちょうど良い焼き加減になった瞬間だった。
白い光の柱がジズを包み込み、次の瞬間、見慣れない石造りの広間に立っていた。五人の人間がいた。鎧を着た者、杖を持った者、短剣を二本腰に差した者、巨大な盾を抱えた者、そして羊皮紙を広げて呪文を詠み上げていた者――召喚士だろう。全員が、ジズを見て目を丸くした。
「来た……! 来たぞ!! ジズだ、伝説のジズ様だ!!」
「なんという存在感……これが最強の召喚獣……!」
「勝てる。これで勝てる……!」
ジズは無言で広間を一瞥した。血の匂いはない。緊迫した気配もない。窓の外に見えるのは、穏やかな夕焼けだ。
「……今から戦うんですか」とジズは言った。
「はい! 明日の夜明けに魔王軍の先遣隊が来ます! 迎え撃つ準備が――」
「明日の夜明け」
「はい」
「今じゃないんですね」
「今は、その、作戦会議を……」
「作戦会議は何時間ほど」
「夜通しで……」
子どもたちの夕食は、今まさに焼き上がったところである。
ジズはひとつため息をついた。「わかりました。ただし夕食前には終わらせてください」
勇者パーティは顔を見合わせた。伝説の召喚獣の口から出た最初の言葉が夕食の話だとは思わなかったらしく、数秒間の沈黙があった。
「は、はい……善処します」と召喚士が言った。
その夜、魔王軍の先遣隊が夜明けを待たずに仕掛けてきた。ジズは八分で壊滅させた。報酬の魔力を受け取り、帰還した。子どもたちは腹を空かせて待っていた。串の肉は冷めていたが、それでも三頭は喜んで食べた。魔力の甘みを含んだ空気を吸いながら、うとうとしはじめる子どもたちを見て、ジズは少しだけ肩の力を抜いた。
仕事は仕事。割り切れる。
それから半月のあいだに、ジズは七回召喚された。
一回目は、川で魚を捕っているときだった。仕掛けた罠に大物がかかった、まさにその直後だった。二回目は、ドゥルの傷の手当てをしているときだった。子龍同士の喧嘩は規模が大きい。血が出ていた。薬草を噛んで傷口に塗ってやっている最中だった。三回目は、岩山を削って住処を広げようとしていたときだった。四回目は、リムが初めて小さな炎を吐けたと興奮して見せに来た、まさにその瞬間だった。五回目は、ジズが久しぶりに昼寝をできていたときだった。
七回のうち五回は許容範囲だった。二回は、なかなかに腹が立った。
しかしジズは戻るたびに魔力を持ち帰り、子どもたちはそのたびに元気になった。バランスは保たれ
ている、と思っていた。
八回目の召喚は、雨の夜だった。
三男のリムが熱を出していた。龍の子どもが発熱するのは珍しいことではないが、嫌がる子どもに水を飲ませながら、ジズは洞窟の入り口で翼を広げていた。外から冷えた雨風が入り込まないようにするためだ。ヴォルが傍に寄り添って「大丈夫」と言い続けていた。ドゥルは心配すると暴れる性質があるので、ジズが事前に「外の様子を見てきなさい」と言いつけてあった。わかってか否か、ドゥルは少し離れた岩の上で雨を眺めていた。
リムが「かあちゃん」とうなされた、ちょうどそのとき。
白い光が走った。
広間に降り立ったジズの目の前には、見知らぬ召喚士が立っていた。前回までとは別の人物だ。若い。顔が青い。その後ろに、血まみれの兵士が数人倒れている。
「た、助けてください……! 魔将ガルムが……城に乗り込んで……みんな……!」
声が震えていた。本物の恐怖だ、とジズは即座に判断した。恐怖の匂いはわかる。
「魔将ガルム」
「はい……七魔将の第二位です……我々では到底……」
ジズは城の外を確認した。炎が上がっている。悲鳴が聞こえる。本物だ、芝居ではない。
そして同時に、洞窟のことを考えた。翼を広げたまま召喚されたから、今頃、入り口から雨風が入り込んでいるはずだ。リムは熱がある。水を飲ませている最中だった。ヴォルは傍にいるが、九歳の子龍だ。ドゥルは外にいる。
「どのくらい時間がかかりますか」とジズは言った。
「え……?」
「この戦闘が終わるまでの、想定時間です」
「そ、それは……魔将が相手ですので、数時間は……いや、もしかしたら……」
「数時間」
「……はい」
ジズは黙った。
七魔将の第二位というのが本当なら、強い相手だろう。似たような格の敵と戦ったことはある。勝ってきた。
問題はそこではなかった。
数時間。リムが、熱のあるリムが、雨風の入る洞窟で数時間待つことになる。ヴォルはよくやる子だが、弟が苦しんでいれば動揺する。ドゥルは心配すると暴れる。今夜、外にいる。
魔力報酬のために従ってきた。子どもたちの食事のために。それは本当のことだった。
しかし数時間の不在が、今夜のリムには何を意味するか。
「あの、ジズ様……?」
召喚士の声が遠く聞こえた。
ジズはゆっくりと目を開けた。
これまで、召喚には従ってきた。強制力があるから。報酬があるから。仕事だから。そして――正直に言えば、拒否するという発想が、自分の中にきちんと存在していなかったから。呼ばれたら行く。それが召喚獣というものだ、という感覚が、長年のうちに体に染みついていた。
でも今、この瞬間、ジズは別のことを考えていた。
従うことが、守ることを壊す。
それでも従うのか。
それは仕事か。
それとも、ただ慣れた形に収まっているだけか。
ジズは召喚士を見た。
「魔将ガルムに、翼の一枚でも落とさせてみせたら、話を聞きます」
「え……?」
「あなた一人でいい。傷をつけてこられたら、私が残りを引き受ける」
「そ、そんな……」
「無理なら、私は今夜帰ります」ジズは続けた。「今夜だけでいい。帰らせてください。末の子どもが熱を出しています」
召喚士は、数秒、言葉を失った。
伝説の召喚獣から「子どもが熱を出している」という言葉が出てくるとは、思っていなかっただろう。
城の外では炎が燃えている。悲鳴が続いている。召喚士の手が震えていた。
「……でも、城の人々が……」
「わかっています」とジズは言った。「だから、条件をつけた。あなたが選んでください」
沈黙が落ちた。
ジズ自身も、この選択が正しいかどうかはわからなかった。城の人々に何かあれば、それはジズの判断の結果だ。リムのことを思えば帰りたかった。城のことを思えば、行かなければならない気もした。
両方、正しい。両方、痛い。
ただ今夜だけは、どちらを選ぶかという問いを、召喚獣としてではなく”自分のもの”として持っていた。それだけは、はっきりしていた。
召喚士は、震える声で言った。「……私が、行きます」
ジズは少し目を細めた。「一人で?」
「ガルムに、傷一つ与えられたら……」声に何かが込み上げていた。「それで十分、なんでしょう!?」
ジズは、一瞬だけ黙った。
そして翼を広げた。
「案内しなさい」
魔将ガルムを退けるのに、四十七分かかった。七魔将の第二位と呼ばれるだけのことはあった。しかしジズが四十七分で終わらせたのは、本気を出したからだ。本気を出したのは、早く終わらせたかったからだ。理由はひとつしかない。
帰還の光が収まったとき、洞窟の前でヴォルが立っていた。
「かあちゃん」
泥だらけの顔で笑っていた。「リムね、起きちゃって泣いてたんだけど、今は寝てるよ。ドゥルも寝てる」
ジズはヴォルにそっと顔を寄せた。何も言わなかった。
洞窟の中に入ると、リムが丸くなって眠っていた。ドゥルがその横で大きな音を立てて鼾をかいていた。入り口から少し雨が入り込んでいたが、ヴォルが岩をひとつ転がして塞いでいた。
ジズは翼でそっと入り口を補強し、その場に座った。外では雨が続いている。
報酬はもらわなかった、と気づいたのは、しばらく後のことだった。
翌日、ジズは文を書いた。龍が文を書くのは珍しいが、長年の付き合いで人間の文字は読み書きできる。短い文だった。
今後の召喚については、以下の三点を条件とする。
一、子どもが病気または怪我をしているときは不可。
二、食事の時間帯は原則として不可。ただし緊急時はこの限りではない。
三、状況を事前に説明できる場合は、できる限りそうすること。
これらは交渉の余地がある。無視した場合は、以後の召喚関係に影響する。
以上。
文を丸め、渓谷を飛んで、一番近い街の広場に落としてきた。召喚士のギルドに届くかどうかはわからない。届かなければまた書けばいい。
帰り道、渓谷の上空でリムが追いかけてきた。
「かあちゃん、どこ行ってたの」
「郵便」
「ゆうびん?」
「そう」
「ぼくも行く」
「次はね」
リムは不満そうにしながらも、ジズの後ろについて飛んだ。翼の動きはしっかりしていた。熱は下がっている。
ジズは少しだけ速度を上げた。夕飯の支度をしなければならない。
召喚が完全になくなるとは思っていない。
仕事は続く。それは変わらない。
ただ少しだけ、これからは条件をつけて続ける。
自分のものとして。
最強の召喚獣として。




