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ただの特待生ですが、公爵令嬢に「ヒロインだ」と断罪されました~風紀委員長は規則しか信じないようです~

掲載日:2026/02/28

短編です。最後はざまぁ+甘めです。

 最近、視線が痛い。

 それは物理的な質量を持って、私の背中や項にじっとりとへばりついているようだった。

 王立ラピスアカデミーの広大な食堂。高い天井に反響する食器の音に混じって、さざ波のような囁きが聞こえる。食堂の中央、特待生用の質素なメニューが載ったトレイを手に立ち尽くしていると、それは明確な「拒絶」として形を成した。


「また、あの方……エドワード殿下に近づこうとしたらしいわよ」

「身の程を知らないにも程があるわ。所詮は平民の娘、ただの特待生でしょう?」

「騎士団長のご子息にも、怪我を口実に取り入っているとか。ヘルミーネ様が仰る通りだわ。あの方は、学園の秩序を乱す毒草よ」


 原因はわかっている。

 ヘルミーネ・フォン・アルヴァルト公爵令嬢。この学園の頂点に君臨する「花」が、いつからか私を「殿方へ不当に接触する不届き者」として指名手配の対象にしているらしい。

 空いた席に腰を下ろそうとした瞬間、向かいに座っていた生徒が無言で立ち上がった。まるで、汚いものでも見るかのような一瞥を私に投げ、食べかけの皿を持って去っていく。


(……そんなに、嫌われるようなことをしただろうか……)


 私は、ただ「学問」をしていただけだ。特待生として恥じないように。

 ふと、強い視線を感じて顔を上げる。

 食堂の二階、高位貴族だけが許される特別室へと続く回廊。そこを歩く、光を凝縮したような金の髪。

 第一王子、エドワード・ラピス・ナトリア殿下だ。

 目が合った。一瞬だけ。

 その碧眼に浮かんだのは、慈しみでも、特待生への期待でもない。

 ――剥き出しの、警戒。

 そして彼は、嫌な虫を避けるように、すっと視線を逸らした。

 胸の奥が、氷を飲み込んだように冷えた。


 思い当たる節がないわけではない。一週間前、放課後の書庫でのことだ。

 私は、特待生に課せられた「高位魔法理論」のレポートを仕上げるため、滅多に学生が立ち入らない稀少本の棚にいた。そこには、申請を出した人間しか触れないはずの、難解な魔導書が並んでいる。

 その棚の前で、エドワード殿下が一人、眉間に深い皺を寄せて立ち尽くしていらした。

 開かれた頁には、古代語混じりの魔力循環式。

 殿下の魔力量は素晴らしいが、その理論構成には一点、致命的な「罠」があることを、私は研究室の資料で知っていた。


「……第三章の補助式、左辺の変数が第ニ項と衝突しています。恐らく誤植の可能性があります」


 私は、親切のつもりだった。同じ学問を志す者として、無駄な時間を過ごしてほしくなかった。


「こちらの、百年前の注釈書のほうが正確な記述かと――」


 言い終わる前に、凍てつくような視線が私を貫いた。


「……なぜ、そこまで知っている」

「え?」

「私が今、この本を読んでいることも。そして、どの箇所で行き詰まっているのかも。今は放課後でもない、自習の時間、君のクラスは教室にいる。……本来であればここに来るはずのない時間だ」


 殿下の声は低く、刃のように研ぎ澄まされていた。


「……私は、司書教諭からこの棚の目録整理を任されているのです。放課後は他の学生で混み合いますから、自習時間を充てる許可を……」


私は、手に持っていた古びた目録の束を、縋るように胸に抱いた。


「言い訳を。……その役目すら、私と二人きりになるために、教師を丸め込んで手に入れたのだろう?」

「え……?」

「偶然を装うのはやめろ。そうやって私の『理解者』の座に収まり、何を得ようとしている。ヘルミーネの言う通りだ、君の瞳には野心しか映っていない」


 殿下は、重い革表紙の本を叩きつけるように閉じると、私を一瞥もせずに去っていった。

 残されたのは、埃の舞う静まり返った書庫と、差し出した手を下ろすことすら忘れた、滑稽な私だけ。

 あれは、本当に偶然だった。

 策略なんて、私のような余裕のない特待生に考える暇などない。

 でも、彼らのような「選ばれし者」の目には、私の全ての行動が「獲物を狙う蜘蛛の糸」のように見えるらしい。


 誤解の連鎖は、止まらなかった。

 魔力実技の演習場。その日は、実戦を想定した模擬戦が行われていた。

 轟音と共に、訓練用ゴーレムの核が暴走し、爆発した。土煙が舞う中、悲鳴が上がる。

 爆心地のすぐ近く。騎士団長のご子息であるライナス様が、右腕を押さえて崩れ落ちるのが見えた。


「ライナス様!」


 爆煙の中、私は迷わず駆け寄った。

 私がこの学園に特待生として招かれた唯一の理由。それは、平民に近い家柄ながら、王族すら稀にしか持たない『光の魔術』への適性があったからだ。

 右腕を深く裂かれ、苦悶の表情を浮かべるライナス様の傷口へ、私は祈るように両手をかざした。


「今、治します。……『光よ、溢れ、癒せ(ルクス・キュア)』」


 私の指先から、温かく柔らかな、黄金色の光が溢れ出す。

 その光は、どんな傷をも塞ぎ、痛みを奪う慈愛の象徴――のはずだった。


「……っ、その汚い光を消せと言っているんだ!」


 術式が完成する直前、私の手は手酷く振り払われた。

 ライナス様は傷口を抑え、脂汗を流しながらも、私を「救助者」ではなく、まるで「毒蛇」を見るような嫌悪に満ちた瞳で睨みつけた。


「近づけば貸しを作れるとでも思ったか? 希少な『光の魔術』を見せびらかして、恩を着せ、殿下への仲介を頼むつもりだろう。……反吐が出るほど、あざといんだよ」

「……え? 違います、ライナス様。傷が深すぎるのです。すぐに治さないと傷が残って、練習復帰までに支障が……」

「黙れ! 余計なお世話だ。……ヘルミーネが言っていた通りだな。『光のヒロイン様は、男が弱っている絶好のタイミングで、聖女を装って現れる。その光に惑わされてはいけない』と」


 また、その名前だ。

 ヘルミーネ・フォン・アルヴァルト。

 彼女は、私のこの「光の力」さえも、男を誘惑するための計算尽くの道具だと、彼らに吹き込んでいる。


「お前は俺を助けたいんじゃない。俺を助けたという『聖女のような実績』が欲しいだけだ。……消えろ、偽善者め」


 周囲の令嬢たちが、遠巻きにクスクスと笑い声を上げる。


「あの方、またあんな見え透いた真似を。自分の希少価値を売り込むのに必死ですのね」

「怪我に乗じるなんて、品性のかけらもありませんわ。まるで、誰かが怪我をするのを待っていたみたい」


 膝をついたまま、私は震える自分の手を見つめた。

 人々を救うために授かったはずの光。その輝きが、今はこの場にいる全員から「獲物を狙う蜘蛛の糸」のように、薄汚い欲望の象徴として見られている。

私は、膝をついたまま立ち上がれなかった。

 泥のついた掌。拒絶された光の残滓。誰も、私の言葉を聞こうとはしない。


「おや。随分と派手に目立っているようですね、アリアさん」


 ふわりと、鼻をくすぐる苦い薬草の香り。

 保健医のヴィクトール先生だ。彼は私を助け起こそうともせず、ただ眼鏡の奥の細い目をさらに細めて、私を「観察」するように見下ろした。


「今日はどなたを『攻略』……おっと失礼、勧誘なさったのですか?」

「先生……私、そんなつもりは……。ライナス様の傷が、あまりに酷くて……」

「ええ、ええ、わかっていますよ。ライナス君の出血量は計算済みでしょう? あそこで君の希少な『光の魔術』を見せつければ、彼の独占欲を煽るには十分すぎる。実に見事なキャスティングだ」


 先生の声は、まるで実験の成果を褒めるかのように甘く、そして冷酷だった。


「ですが、ここからは私の仕事です。本物の医療魔術師である私が治しますので、専門外の君が心配する必要はありません。……それとも何かな? 私の診療所にまで、その『純粋な献身』という名の罠を仕掛けに来るつもりですか?」


 私は、何も言い返せなかった。

 学園で唯一、中立であるはずの教師でさえ、私を「一人の生徒」として見てはいない。


「君のその、困った人を放っておけないという『ヒロイン的振る舞い』。ヘルミーネ様から伺った通りの動きですよ。実にあざとい。……次は誰に狙いを定めるのか、研究対象としては非常に興味深いですがね」


 先生の瞳には、慈しみなど微塵もなかった。

 あるのは、珍しい害虫の生態を眺めるような、透き通った好奇心だけ。

 ――ああ、もう、何を言っても無駄なのだ。

 私の光は、ここでは救いにならない。

 私の言葉は、ここでは真実にならない。

 そう確信したその日の放課後。

 全校生徒が集められた講堂の重苦しい空気の中で、私の予感は最悪の形で的中した。

 壇上で、燃えるような紅い髪を完璧に結い上げたヘルミーネ様が、勝利を確信したような笑みで私を見下ろしている。


「近頃、学園の秩序を乱している不埒な生徒がいます。複数の上級貴族へ偶然を装って接近し、色香と弁舌をもって彼らを惑わそうとする者。――アリア嬢、あなたです」


 彼女の指が、まっすぐに私を射抜いた。

 その瞬間、何百もの嘲笑と蔑みの視線が、物理的な質量を伴う槍となって私を突き刺す。逃げ場はない。周囲の生徒たちは一歩、また一歩と私から距離を置き、講堂の中央で私は絶海の孤島のように孤立した。

 私は、ようやく理解した。ここは正しい者が救われる場所ではない。「筋書き」を持っている者が勝つ場所なのだ。


「皆さん、お聞きなさい! この女がいかに狡猾に、私たちの愛する殿方たちを絡め取ろうとしたか!」


 彼女は朗々と、私の「罪状」を読み上げ始めた。


「まずは書庫での邂逅。これはエドワード殿下の行き詰まりを予見し、さも『理解者』のような顔で現れました。明らかにエドワード殿下の歓心を買うための、計算高い誘惑行為ですわ!」


 ヘルミーネ様の声が講堂に響き渡るたび、周囲の生徒たちの視線が冷たく私を刺す。


「そ、そんなことは! 私はただ、間違いを正そうとしただけで……」

「黙りなさい! そして次に、演習場での救護! ライナス様の負傷を待ち構え、希少な光の魔術を見せびらかして恩を売ろうと試みた! すべては、計算され尽くしたシナリオ通りなのですわ!」


 シナリオ。また、その言葉だ。

 私の必死な思いも、懸命に磨いた光の魔術も、彼女の中ではあらかじめ決まった「配役」の一部でしかないらしい。


「何をおっしゃっているのかはわかりません。私は、私の思想に基づいて動いただけです!」


 私の必死の訴えは、しかし火に油を注ぐだけだった。ヘルミーネ様の瞳に、ドロリとした焦燥と、狂気にも似た光が宿る。彼女は震える手で扇を握りしめ、まるで目に見えない敵と戦っているかのように、虚空に向かって叫び始めた。


「どうして……どうしてそんなに平然としていられるの!? 次は保健室でヴィクトール先生の同情を買い、来月の舞踏会でエドワード殿下のパートナーの座を掠め取る……。私は知っているのよ、貴女の『攻略方法』をすべて! 私は、貴女の思い通りにはさせない!」


 攻略。

 パートナーの座を掠め取る。

 まるで、私と殿方たちの間に流れる時間が、あらかじめ決められた「手順」に過ぎないと言わんばかりの物言いに、講堂の空気が一変した。


「……ヘルミーネ。少し、落ち着け」


 困惑を隠しきれない声が投げかけられた。エドワード殿下だ。彼は先ほどまで私に冷淡な視線を向けていたが、今は隣に立つヘルミーネ様の異様な様子に、たじろいでいる。


「……殿下? なぜそんな、彼女を庇うようなことをおっしゃるのですか!?」

「庇っているのではない。ただ……君の言っていることは、少し支離滅裂だ。舞踏会のパートナーなど、まだ誰にも話していないはずだろう」


 殿下の言葉に、ヘルミーネ様の顔がさらに青ざめる。


「いいえ! 決まっているんです、物語はそう進むんですもの! あなたも『転生者』なんでしょう!? ヒロインのくせに、とぼけないで!」


 講堂に、耳をつんざくような絶叫が響き渡った。

 「テンセイシャ」という不気味な響きの言葉に、ざわめきが広がる。エドワード殿下も、ライナス様も、先ほどまで私を睨んでいた瞳に「当惑」と「恐怖」を浮かべ始めた。目の前の公爵令嬢が、明らかに常軌を逸していることに気づき始めたのだ。


「私を……私をそんなに悪役令嬢にしたいの!? 私がどれだけ必死に、貴女という『毒草』を排除して、断罪エンドを回避しようとしていると思っているの! 答えなさいよ、この泥棒猫! ヒロインならヒロインらしく、さっさと正体を現しなさい!!」


 ヘルミーネ様の形相は、もはや貴婦人のものではなかった。

 執念と恐怖に駆り立てられた、獣の叫び。

 私は、ただ呆然と立ち尽くし、震える声で彼女に問いかけた。


「……ヘルミーネ様。その、『てんせい』とは、何のことでしょうか。そして……ヒロイン、とは……?」


 空気が、完全に凍りついた。

 私の純粋な問いが、彼女の作り上げた「物語」という名の砂の城を、音を立てて崩していく。


 その時だった。


「――そこまでだ」


 喧騒を切り裂くような、硬質な声が響いた。

 講堂の入り口から、一人の青年が歩み出る。銀髪を几帳面に整え、風紀委員の腕章を巻いたその姿。会場は、氷水を打ったように静まり返った。

 公爵家嫡男にして、風紀委員長。鉄のことわりを持つ男、レーデリック・ローゼンヴァルト様だ。

 壇上に立つヘルミーネ様の、完璧に引かれた眉がぴくりと動いた。


「……レーデリック様。風紀委員長である貴方が、なぜこの場に? これは学園の純潔を守るための、慈悲深い審判ですわ」

「『審判』とは、権限を持つ者が、証拠に基づき、規定の場所で行うものだ」


 レーデリック様の軍靴の音は、一分の乱れもなく講堂に響き、彼女の微笑みを無機質に削り取っていく。彼は私の横を通り過ぎる際、一度も私を見なかった。ただ、その背中が、震える私と群衆を隔てる絶対的な防壁のように、鋭く聳え立つ。


「アルヴァルト嬢。貴女に問う。この集会は、生徒会の承認を得た公的な告発か。それとも、ただの放課後の『お茶会』の延長か」

「それは……生徒の総意を代表して……」

「質問に答えろ。承認はあるのか、ないのか」

「……ありませんわ。ですが、緊急を要する事態だと判断いたしましたの。彼女が殿方へ不当な接触を繰り返しているという証言が――」

「証言、か。結構」


 レーデリック様は、手にした革の手帳を開いた。


「では、校則に照らし合わせよう。まず、貴女が主張する『不当な接触』。校則第九条『生徒の交友関係は自由であり、身分や性別による制限を設けない』。彼女はこれに抵触したか?」

「ですが! 彼女は殿下の研究を盗み見、意図的に――」

「推測だ。校則は『思想』を裁かない。『行為』を裁く。アリア特待生。貴女は殿方の私物に許可なく触れたか? あるいは、対価を求めて情報を売買したか?」


 名前を呼ばれ、私は震える唇を噛み、毅然と顔を上げた。


「……いいえ。私は、書庫で間違いを指摘しただけです。一銭の利益も、約束も受けておりません」

「よし。エドワード殿下、およびライナス。貴公らは、彼女から何らかの要求、あるいは強要を受けた事実はあるか。……証言せよ」


 レーデリック様の視線が、二人へ向けられる。殿下たちは、苦虫を噛み潰したような顔で沈黙した。事実、私から何かを要求されたことなど、一度もないのだ。


「証拠はない、ということだな。では次だ。先ほど貴女が口にした『テンセイシャ』『シナリオ』『ヒロイン』という概念について。……これらは、どの学問、あるいはどの法体系に基づいた言葉だ?」

「それは……! これから起こる悲劇を、私が予知しているからですわ! 彼女は最後、私を追い詰めて――」

「未来予知、か。立証不可能なオカルトを公の場に持ち出すとは。アルヴァルト令嬢、貴女は正気を疑われる覚悟で発言しているのか?」


 レーデリック様の冷徹な言葉が、ヘルミーネ様の「物語」を現実の論理で切り刻んでいく。


「校則第百三十七条。『立証不能の推測、および私的な感情を根拠とする公開告発は、対象者への名誉棄損および、学園の秩序妨害に該当する』。……貴女が行っているのは審判ではない。卑劣な『リンチ』だ」


 講堂の空気が完全に反転した。今まで私を嘲笑っていた生徒たちが、一斉に顔を伏せる。


「あなたは……彼女の肩を持つのね! 結局、あなたも彼女に毒されたのよ! この世界のヒロインに!」

「仮定の感情を前提に、議論はできない。僕は規則に従う。そして――」


 彼は壇上のヘルミーネ様を見上げ、最後の一撃を放った。


「校則第二百十二条。虚偽の告発によって他者を貶めた者は、一週間の停学、および奉仕活動を命ずる。……アルヴァルト嬢。貴女の『慈悲深い審判』の代償だ。即時、風紀委員室へ出頭せよ」


 膝をつき、絶望に顔を歪めるヘルミーネ様の悲鳴。それは、物語という殻に閉じこもっていた彼女が、初めて現実の「拒絶」に直面した瞬間だった。

 静まり返った講堂。風紀委員に連行されていくヘルミーネ様の、虚空を掴むような叫びが遠ざかっていく。

 残されたのは、凍りついたままの観衆と、壇上から降りてきたエドワード殿下、そしてライナス様たちだった。彼らの顔には、今までの傲慢なまでの「警戒」に代わって、拭い去れない「当惑」と「罪悪感」が張り付いている。


「アリア嬢……」


 エドワード殿下が、一歩前に出た。その碧眼には、かつて私に向けられていた慈しみのような色が、歪な形で戻ってきている。


「すまなかった。私は……ヘルミーネの言葉を信じ、君が策略を持って私に近づいているのだと誤解していた。君のあの時の指摘が、ただ純粋な学究心によるものだったと……今ならわかる」


 続いてライナス様も、包帯の巻かれた腕を抑えながら、苦しげに言葉を絞り出した。


「俺もだ。あの時、君は本当に俺を助けようとしてくれていたのに。……すまない、あんな酷い言い方をして。君が望むなら、我が派閥の総力を挙げて君の名誉を回復させよう」


 謝罪の言葉。それは、数時間前までの私が、喉から手が出るほど欲していたものだった。

 けれど、いざそれを投げかけられてみると、私の胸の奥に広がったのは、温かさではなく、底知れない「冷淡」だった。


「殿下、そしてライナス様」


 私は、震えることもなく、静かに、けれど明確に彼らを見据えた。

 彼らが差し出そうとした手。それを取る代わりに、私は完璧な所作で、一寸の乱れもない「儀礼的な一礼」を捧げた。


「謝罪は、必要ございません。殿下が、幼少期から苦楽を共にしてきたヘルミーネ様を信じるのは、当然の理です。……私のような、どこの馬の骨とも知れぬ特待生の言葉より、公爵令嬢の言葉を重んじる。それは、この学園における『正しい選択』であったはずです」

「アリア、それは……」

「ただ」


 私は言葉を被せた。殿下の声を、物理的な壁で遮るように。


「私への疑いが晴れたからといって、私がかつて抱いていた『善意』が戻るわけではございません。あの日、書庫で私が差し出したのは、知識ではありませんでした。殿下への『敬意』です。そして演習場で私が差し出したのは、魔術ではありません。ライナス様への『誠意』です」


 私は顔を上げ、かつて恋焦がれた王子を、ただの「他人」として見つめた。


「それらを自ら踏みにじり、拒絶なさったのは皆様です。一度粉々になったものを、言葉一つで繋ぎ直せるとお思いでしょうか」


 エドワード殿下が、息を呑む。彼の瞳に、初めて「取り返しのつかないことをした」という絶望が、真の理解となって宿る。


「……もう、結構です。私は、貴方様の『物語』の登場人物ではありません。私は、私自身の人生を歩みます。……失礼いたします」


 私は、縋り付こうとする彼らの視線を、透明な硝子の壁で隔てるように切り捨て、背を向けた。

 追いかけてくる声はない。重すぎる沈黙だけが、彼らへの罰だった。


 講堂を出ると、茜色の夕闇が廊下を長く、赤く染めていた。

 そこには、一人の青年が壁に寄りかかって待っていた。レーデリック・ローゼンヴァルト様だ。

 彼は私の足音を聞くと、手帳を閉じ、ゆっくりと顔を上げた。


「……終わったか」

「はい。レーデリック様、改めてお礼を申し上げます。貴方がいなければ、私は今頃……」


 言いかけて、言葉が詰まった。

 ヘルミーネ様の言葉が、澱のように胸に溜まっている。


「レーデリック様。私は……やはり『ヒロイン』とやらではなかったのでしょうか。彼女の言う通り、私の行動が誰かを惑わすための『イベント』だとしたら……」


 自嘲気味に笑う私を、レーデリック様の銀の瞳が、鋭く射抜いた。


「アリア嬢。何度も言わせるな。校則に、そのような不確定な身分は存在しない。君は君だ。学問に励み、時に余計な世話を焼き、そして……根拠のない悪意に晒されても、気高さを失わなかった、ただの特待生だ」


 彼は一歩、私との距離を詰めた。

 鉄の理を持つ男。感情を見せないはずのその表情が、夕日に照らされて、わずかに綻んだように見えた。


「思想は罪にならない。だが、行動は人を動かす。……僕が動いたのは、規則を守るためだけではない。君の『行為』が、僕という個人の規律を乱したからだ」


「……乱した、のですか?」


「ああ。甚だ遺憾だが、ここ最近の僕の思考時間は、校則の暗記よりも、君が次にどこで誰に冷たくされているかを確認することに割かれていた」


 彼は不器用な手つきで首筋をなぞり、ふいと視線を逸らした。


「……僕は、規則を破る人間が嫌いだ。だが、規則の範囲内で、これほどまでに僕を困惑させた人間は、君以外にいない」


 そして、彼は再び私を真っ直ぐに見つめた。そこには、エドワード殿下たちの謝罪にはなかった、切実な「今」が宿っていた。


「校則第百四条。生徒間の交際に、制限は存在しない。……僕はこの規則を、生涯で初めて『利用』したいと考えている。……異論はあるか?」


 それは、鉄の理を持つ男が、自分自身に科した「終身刑」のような、不器用で、けれど何よりも重い告白だった。

 私は思わず、くすりと笑い声を漏らした。

 頬が熱い。けれど、先ほどまで胸を支配していたあの氷のような冷たさは、どこにもなかった。


「……校則に異論を唱えるほど、私は不勉強ではございません、風紀委員長様」


 夕闇の向こう、遠い場所でヘルミーネ様が「まだシナリオが……」と、壊れた蓄音機のように呟く幻聴が聞こえた気がした。

 けれど、そんなものはもう、どうでもいい。

 この世界が、誰かが書いた物語であろうとなかろうと。

 私の目の前にいる人の体温も、私を呼ぶ声も、そして今、新しく動き出したこの鼓動も。

 それだけが、私の信じる唯一の「現実」なのだから。


「――私は私として、生きていきます」


 茜色の廊下。長く伸びた二人の影は、静かに、けれどしっかりと重なり合っていた。

最後までお読みいただきありがとうございます!

レーデリックの「規則を利用した告白」、気に入っていただけたら嬉しいです。

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