シラーズ
成城くんは、
いつもの時間に店に入り、
ワインの棚の前で足を止めた。
昨日のことを、
考えていないわけではなかった。
でも、考え続けてもいなかった。
「こんばんは」
声がした。
振り返ると、
石井さんが立っている。
スマートフォンは手にしていない。
いつもの服装だった。
「こんばんは」
それだけで、
昨日が一日分、
過去になった気がした。
二人は、
少し距離を空けたまま、
同じ棚を見ていた。
「昨日の電話」
石井さんが、
前を向いたまま言った。
成城くんは、
視線を商品から外さずに聞いていた。
「実家からで。
母親です」
それだけだった。
「長くなりがちなんですよね」
付け足すように言って、
石井さんは、
ワインを手に取った。
シラーズの赤ワインだった。
「これ、安いのに
けっこう美味しいんすよね」
成城くんは、
うなずいただけだった。
石井さんは、
別に勧めているわけでもなさそうだった。
ただ、手持ち無沙汰で、
声に出しただけのように聞こえた。
成城くんは、
ロゼワインでも飲んでみようと思った。
赤でも白でもない、
はっきりしないお酒を飲みたい気分だった。
二人は、
自然と同じレジに並んだ。
「じゃあ」
「はい」
言い方も、
間の取り方も、
昨日までと変わらない。
店を出て、
それぞれ違う方向へ歩き出す。
成城くんは、
歩きながら思う。
聞くつもりも、
知るつもりもなかった。
でも、石井さんは
きっと言いたかったのだろう。
次にこの店で会うとき、
昨日のことを思い出すかどうかは、
分からない。
でも、
また会うことだけは、
疑っていなかった。




