第9話 地味な私が表舞台へ。皇帝の隣に立つ資格は「愛」と「最強のステルス」です。
「……目を開けていいよ、ミナ」
クラウス様の声に促され、私は恐る恐る鏡の前のカーテンを開けた。
息を呑んだ。
鏡の中にいたのは、いつもの「地味な私」ではなかった。
「……これが、私?」
身に纏っているのは、光沢のあるシルクのドレス。
色は、蜂蜜を溶かしたような深いゴールド──琥珀色だ。
派手すぎず、かといって地味ではない。
照明の光を柔らかく吸い込み、内側から発光しているような上品な輝きがある。
髪は緩く編み込まれ、真珠の髪飾りが散りばめられている。
メイクも、私の顔立ちを活かしたナチュラルだが華やかなものだ。
「似合う」
背後から、正装したクラウス様が現れた。
純白の軍礼装に、深い青のマント。
まさに「皇帝」の風格だ。
彼は鏡越しに私と目を合わせ、蕩けるような笑顔を見せた。
「言っただろう? 君は輝いているって。……このドレスは、君の瞳の色だ。僕に安らぎをくれる、世界で一番綺麗な色だ」
「……口説き文句が上達されすぎではありませんか?」
私は照れ隠しに軽口を叩くが、頬の熱さは隠せない。
ジェラルド様には「ダンボール色」と嘲笑われた私の色彩を、この人は「宝石」だと言ってくれる。
「さあ、行こう。……僕の隣に」
差し出された手。
私は大きく深呼吸をした。
今日、私は「壁」を卒業する。
誰かの後ろに隠れるのは、もう終わりだ。
「……はい、クラウス様」
私はその手を取った。
◇
大広間は、熱気に包まれていた。
帝国の建国記念舞踏会。
国内外の貴族たちが一堂に会する、社交界の頂点だ。
その一角で、不穏なざわめきが起きていた。
「聞いてくれ! 我が国の令嬢ミナは、この野蛮な帝国に不当に拘束されているのだ!」
大声で演説しているのは、ジェラルド様だった。
彼は懲りていなかった。
一週間前、クラウス様に殺されかけたというのに、外交官という立場を悪用し、会場に潜り込んだのだ。
「被害者」を演じることで、私を連れ戻そう──そして、自身の横領の罪を私に被せて精算しよう──という魂胆が見え見えだ。
「あんな地味で能無しな女が、皇帝の寵愛を受けるはずがない! これは洗脳だ! 帝国による拉致監禁だ!」
彼はグラスを片手に、周囲の貴族たちに訴えている。
帝国貴族たちは冷ややかな目で見ているが、他国の招待客たちは「まさか」とヒソヒソ話を始めている。
扉の向こうで、それを聞いていたクラウス様の眉間に、深い皺が刻まれた。
室温が急激に下がる。
「……あいつ、まだ生きていたのか。今すぐ氷漬けにしてくる」
「待ってください」
私はクラウス様の腕を掴んで止めた。
「ここで陛下が手を出せば、彼の思うツボです。『ほら見ろ、暴力的な皇帝だ』と宣伝する材料を与えるだけです」
「だが、君を侮辱させておくわけには……!」
「ええ。ですから」
私はニッコリと笑った。
かつて、面倒な伯爵家の裏仕事を全て片付けてきた「事務員」の笑みで。
「私が始末をつけます。……暴力ではなく、事実で」
私はクラウス様の手を離し、一歩下がった。
スイッチを切り替える。
呼吸を整え、意識を拡散させる。
スキル──『希薄化』、最大展開。
フッ、と私の気配が消える。
目の前にいるはずなのに、認識できなくなる。
クラウス様だけが、「そこにいる」と分かっている瞳で私を見つめた。
「……行ってきます。すぐに戻りますから」
「ああ。……待っている」
私は扉の隙間から、大広間へと滑り込んだ。
◇
会場は混雑していた。
だが、今の私にとって、人は障害物ではない。
私は空気だ。
風だ。
誰の目にも留まらず、誰の記憶にも残らず、スルスルと人波を縫って進む。
ジェラルド様は、会場の中央付近でまだ喚いていた。
「ミナは私の婚約者だ! 彼女を返せ!」
私は彼の背後に音もなく近づく。
護衛の騎士たちも、給仕も、誰も私に気づかない。
これが私の力。
地味で、目立たない、最強のスキル。
私はジェラルド様のすぐ真横に立った。
彼が身振り手振りで演説する隙を狙う。
彼のタキシードの内ポケット。
そこが不自然に膨らんでいる。
彼は用心深い。自分にとって一番大事なもの──横領の証拠となる「裏帳簿」と、私に罪を擦り付けるための「偽造書類」──を、肌身離さず持ち歩いていることを、私は知っていた。
いつだって、保身が第一の男だから。
「帝国は説明責任を果たすべきだ!」
彼が右手を振り上げた瞬間。
(失礼しますね)
私は流れるような手つきで、その懐に手を滑り込ませた。
スッ。
指先が紙束に触れる。
抜き取る。
ポケットの形を整える。
所要時間、0.5秒。
神業だ。
彼自身すら、軽くなったポケットに気づいていない。
私は証拠の束をドレスの隠しポケットに収め、そのまま彼から離れた。
そして、大階段の上──クラウス様が待つ場所へと戻る。
「……回収完了です」
私は扉の前でスキルを解き、実体化した。
手には、ジェラルド様の破滅の証拠。
クラウス様は、満足げに頷いた。
「おかえり、僕の最強の補佐官」
「ただいま戻りました。……さあ、参りましょう」
ファンファーレが鳴り響く。
重厚な扉が、ゆっくりと開かれた。
「皇帝陛下、おなーーーりーーー!!」
儀典長の声が響き渡る。
会場の視線が一斉に階段の上に集まる。
そこに立っていたのは、銀髪の皇帝と、琥珀色のドレスを纏った一人の女性。
「……誰だ?」
「美しい……どこの国の姫君だ?」
ざわめきが広がる。
ジェラルド様も口を開けて見上げている。
そこにいるのが、自分が「地味だ」と切り捨てた女だとは、まだ気づいていないようだ。
私たちは、ゆっくりと階段を降りていく。
クラウス様のエスコートは完璧だ。
私の手は震えていたけれど、彼が強く握り返してくれたおかげで、背筋を伸ばすことができた。
私たちは、ジェラルド様の前で立ち止まった。
「よお、リリアの使節殿」
クラウス様が、冷ややかな笑顔で声をかける。
「随分と熱弁を振るっていたようだが……私の『パートナー』について、何か言いたいことでも?」
「パ、パートナー……?」
ジェラルド様は私を凝視した。
そして、数秒後。
引きつった声を出した。
「み、ミナ……!?」
「ごきげんよう、ジェラルド様」
私は扇を開き、口元を隠して優雅に微笑んだ。
「人聞きの悪い噂を流すのはおやめくださいな。私は拉致などされておりません。……この通り、自分の意思で、この方の隣におります」
「ば、馬鹿な! お前のような地味な女が、そんなドレスを……!」
「地味、ですか?」
クラウス様が一歩前に出た。
殺気が漏れ出し、周囲の貴族たちがサッと道を空ける。
「私の目には、この会場の誰よりも美しく見えるが。……貴様の目は節穴か? それとも、恐怖で曇っているのか?」
「ひっ……!」
「それに、彼女を返せと言っていたな」
クラウス様は、私から受け取った書類の束を、ジェラルド様の足元に放り投げた。
バサリと散らばる紙片。
そこには、リリア王国の予算を横領した記録と、帝国の貴族を買収しようとした手紙が記されていた。
「こ、これは……!」
ジェラルド様が慌ててポケットを探るが、もう遅い。
「貴様が探しているのはこれか? ……ミナが『有能な補佐官』として、不正の証拠を確保してくれたよ」
会場中から、冷ややかな視線がジェラルド様に突き刺さる。
軽蔑。
嘲笑。
もはや、彼を擁護する者は誰もいない。
「ち、違う! これは罠だ! その女が勝手に……!」
「往生際が悪いぞ」
ジークフリード様が進み出て、兵士たちに合図を送った。
「外交特権も、犯罪者には適用されない。……連れて行け」
「離せ! 俺は伯爵家の……ミナ! 助けてくれ! 俺たちは愛し合っていただろう!?」
兵士に引きずられながら、ジェラルド様が私に手を伸ばす。
私は静かに彼を見下ろした。
「……愛?」
私は首を傾げた。
「いいえ。私があなたに抱いていたのは、愛ではなく『忍耐』でした。……そして、その忍耐はもう品切れです」
「ミナァァァァァァ!!」
断末魔のような叫びと共に、元婚約者は会場からつまみ出された。
扉が閉まる。
一瞬の静寂。
そして。
「……ふっ」
クラウス様が、こらえきれないように笑い出した。
「忍耐、か。……厳しいな、僕の補佐官は」
「これでも言葉を選びました」
「最高だ。胸がすく思いだよ」
彼は私の手を取り、跪いた。
まるで、物語の王子様のように。
音楽が流れ始める。
ワルツだ。
「ミナ・オルコット嬢。……僕と、踊ってくれるかい?」
私は彼を見つめた。
かつて、壁の花として眺めていた煌びやかな世界。
自分がそこに立つことなんて、一生ないと思っていた。
でも今、私の目の前には、私だけを見てくれる人がいる。
不器用で、ぬいぐるみが好きで、でも誰よりも誠実な、私の推し。
「……喜んで、陛下」
私は彼の手を取った。
彼が私の腰に手を回す。
距離がゼロになる。
体温が伝わる。
「……緊張してる?」
耳元で、彼が囁く。
「はい。足を踏んだらごめんなさい」
「大丈夫。僕の足は氷魔法でコーティング済みだ」
「物理防御ですか」
ふふっ、と二人で笑い合う。
私たちは踊り出した。
スポットライトが私たちを照らす。
もう、誰も私を「地味」だとは言わない。
誰も私を「空気」だとは扱わない。
私は今、世界で一番幸せな主役として、愛する人の腕の中にいる。
くるりと回るたび、琥珀色のドレスが花のように開く。
その光景は、いつまでも人々の記憶に残ることだろう。
「氷の皇帝」を溶かした、たった一人の女性の姿として。




