第8話 元婚約者が「戻ってこい」と言ってきましたが、今さら誰ですか?
応接室の扉を開けた瞬間、鼻につく香水の匂いがした。
リリア王国で流行っている、薔薇と麝香を混ぜた濃厚な香り。
かつては「貴族の嗜み」だと我慢していたが、澄んだ空気に満ちた帝国に慣れた今の私には、ただの公害にしか感じられない。
「遅いぞ、ミナ」
革張りのソファにふんぞり返っていた男が、不機嫌そうに顔を上げた。
金髪に碧眼。
整った顔立ちだが、目の下には隈があり、肌も荒れている。
かつての「王子様」のような輝きは見る影もない。
ジェラルド・フォン・ベルンシュタイン伯爵令息。
私を捨てた、元婚約者だ。
「……お久しぶりです、ジェラルド様」
私は努めて冷静に、淑女の礼をとった。
心臓が少しだけ早鐘を打つ。
恐怖ではない。
ただの不快感と、過去の記憶に対する生理的な拒否反応だ。
「何の御用でしょうか。私は今、帝国の公務員として勤務中なのですが」
「公務員だあ? 笑わせるな」
ジェラルド様は鼻で笑い、カップを雑にテーブルに置いた。
「どうせ、雑用係か何かだろう? お前のような地味で能無しな女が、この大国でまともな職に就けるわけがない」
相変わらずだ。
彼は私を「無能」と決めつけている。
私の作った書類のおかげで、伯爵家の経営が成り立っていたことも知らずに。
「それで? わざわざ国境を越えて、私を嘲笑いにいらしたのですか?」
「……フン。迎えに来てやったんだ」
彼は尊大な態度で、足を組んだ。
「お前が泣いて詫びるなら、許してやらないこともない。あの婚約破棄は……そう、ちょっとしたテストだったんだ。お前の愛を試すためのな」
「テスト?」
「ああ。だがお前はすぐに逃げ出した。本来なら許されないことだが、私は寛大だからな。特別にチャンスをやる」
彼は手を差し出した。
まるで、飼い犬に餌をやるような仕草で。
「さあ、戻ってこい。溜まっている書類の山を片付ければ、側室くらいにはしてやるぞ」
「…………」
呆れて、言葉も出ない。
側室?
書類を片付ければ?
結局、彼は困っているのだ。
私がいなくなって、領地経営が回らなくなり、面倒な仕事を押し付ける相手がいなくて。
だから、「許してやる」という体裁で、便利な道具を回収しに来ただけ。
(……ああ、やっぱり)
私の心の中で、何かが冷めていく音がした。
かつては、この人に認められたくて必死だった。
愛されなくても、せめて必要とされたかった。
でも今は。
私には、私の淹れたお茶を「美味しい」と笑ってくれる人がいる。
「君のおかげで息ができる」と言ってくれる人がいる。
「地味だ」ではなく「輝いている」と言ってくれる人がいる。
比較することすら失礼だ。
月とスッポン。
宝石と泥団子。
もちろん、泥団子はこの男の方だ。
「……お断りします」
私は冷ややかに告げた。
「は?」
ジェラルド様の顔が固まる。
「聞こえませんでしたか? お断りします、と言ったのです。私は現在、この国で正規の契約を結んで働いています。待遇も良く、毎日が充実しておりますので」
「な、何を言っている! 帝国ごときが、伝統あるリリア王国より良い待遇など出せるはずが……」
「給与は伯爵家の十倍です」
「じゅっ……!?」
「残業代は全額支給。有給休暇あり。福利厚生完備。さらに、上司は理知的で美しく、部下を大切にする素晴らしい方です」
私は一歩も引かずに言い放った。
「あなたのような、自分の仕事もできない無能な上司の下に戻る理由が、一つもありません」
「き、貴様……!」
ジェラルド様の顔が朱に染まる。
プライドの高い彼にとって、「無能」という言葉は最大の禁句だ。
彼はガタッと立ち上がった。
「誰に向かって口を利いている! 私は伯爵家の次期当主だぞ! 男爵家の分際で!」
「ここは帝国です。あなたの家の権威など通用しません」
「黙れ! 黙れ黙れ!」
彼は理性を失い、大股で私に詰め寄ってきた。
甘やかされて育った子供が、癇癪を起こした時と同じ顔だ。
「いいから戻ればいいんだ! お前がいないと、計算が合わないんだよ! 借金取りがうるさいんだ! 全部お前が何とかしろ!」
本音が出た。
やはり、金か。
「嫌です。ご自分でなんとかしてください」
私は踵を返した。
もう話すことはない。
これ以上、同じ空気を吸うのも御免だ。
ドアノブに手をかけた、その時。
ガシッ!
「逃がすか!」
強い力で、二の腕を掴まれた。
「痛っ……!」
骨がきしむほどの強さ。
男女の筋力差はどうしようもない。
私は強引に引き戻され、ソファに突き飛ばされそうになった。
「離してください!」
「うるさい! 力ずくでも連れて帰る! 実家にも連絡済みだぞ? お前が戻らなければ、男爵家がどうなるか……」
「ッ……卑怯な!」
「卑怯で結構! 私は手段を選ばない!」
ジェラルド様の顔が目の前に迫る。
充血した目。
荒い鼻息。
生理的な嫌悪感で、吐き気がする。
(クラウス様……!)
助けを呼びそうになって、唇を噛む。
ダメだ。
自分で断ると決めたのだ。
いつまでも守られているだけじゃ、彼の隣には立てない。
私は隠し持っていた護身用の短剣──ジークフリード様から支給されたもの──に手を伸ばそうとした。
その瞬間だった。
パリーン!!
鋭い破砕音と共に、応接室の窓ガラスが粉々に吹き飛んだ。
「な、なんだ!?」
ジェラルド様が驚いて私から手を離す。
猛吹雪が、室内になだれ込んできた。
一瞬にして、室温が氷点下まで下がる。
カーペットが白く凍りつき、テーブルの上の紅茶が瞬時にシャーベットへと変わる。
「……ひ、ひぃ……!?」
ジェラルド様が腰を抜かして後ずさる。
吹き荒れる吹雪の向こうから、一人の男が入ってきた。
窓から。
ここは3階だというのに。
氷の結晶を纏い、銀色の髪を逆立てた、美しくも恐ろしい魔王。
「……ク、クラウス様……?」
私は目を疑った。
いつもの「くま太」はいない。
あるのは、触れれば切れるような殺気だけ。
その蒼い瞳は、極北の氷河よりも冷たく、そして地獄の業火のように燃えていた。
「……おい」
低い声。
それだけで、大気が震える。
ジェラルド様は「ひっ」と悲鳴を上げて失禁しかけている。
クラウス様は、床を凍らせながらゆっくりと歩み寄ってきた。
カツ、カツ、と氷の靴音が響く。
彼は私の前で立ち止まると、痛む二の腕をそっと確認した。
掴まれた跡が、赤く残っている。
それを見た瞬間。
周囲の空気が、ピキピキと音を立てて凍結した。
「……よくも」
クラウス様が、ジェラルド様を見下ろす。
虫ケラを見る目だ。
いや、虫ケラ以下の、存在することすら許されない汚物を見る目だ。
「僕の大切な『補佐官』に、その汚い手で触れたな?」
「あ、あ、あなたは……皇帝、陛下……?」
ジェラルド様が震えながら問う。
「ち、違います! これは、痴話喧嘩で! 私たちは婚約者で……!」
「黙れ」
一喝。
ジェラルド様の口元が、物理的に氷で封じられた。
「んぐっ!?」
「言い訳など聞きたくない。……貴様が何者で、どんな事情があるかも興味はない」
クラウス様は、右手を上げた。
膨大な魔力が渦を巻く。
執務室で見せる「不器用な甘えん坊」の姿はどこにもない。
これが、大陸最強と謳われる『氷の皇帝』の真の姿。
「ただ一つ確かなのは、貴様が僕のミナを傷つけたということだ。……死をもって償え」
「んー! んーーー!!(命乞い)」
巨大な氷の槍が、ジェラルド様の喉元に突きつけられる。
本気だ。
このままでは、リリア王国の特使が串刺しになってしまう。
それは外交問題だ。
そして何より、クラウス様の手が汚れてしまう。
「待ってください! クラウス様!」
私は慌てて彼の前に飛び出し、その腕にしがみついた。
「ダメです! 殺さないで!」
「……ミナ。退いてくれ」
クラウス様の目は据わっている。
「こいつは君を侮辱した。君を脅した。……生かしておく価値がない」
「でも、ここで彼を殺せば、帝国が悪者になってしまいます! クラウス様が、私のせいで暴君と呼ばれてしまいます!」
「構わない。君がいない世界で名君と呼ばれるより、君を守って暴君と呼ばれる方がマシだ」
なんて極端な。
でも、その重すぎる愛が、今はどうしようもなく嬉しい。
私は彼の冷たい頬に、そっと手を添えた。
「……大丈夫です。私は無事です。あなたが来てくれたから」
私の体温が伝わると、クラウス様の瞳から殺気が少しだけ引いた。
「……痛かっただろう?」
「少しだけ。でも、あなたの顔を見たら治りました」
私が微笑むと、彼は泣きそうな顔で私を抱きしめた。
強い力。
でも、ジェラルド様とは違う、優しくて温かい力。
「……遅くなってごめん。怖かったね」
耳元で囁かれる声に、張り詰めていた緊張が解ける。
私は彼の胸に顔を埋めた。
「……はい。少しだけ、怖かったです」
素直になれた。
一人で戦わなくていい。
この人は、絶対に私を守ってくれる。
私たちはしばらく抱き合っていた。
部屋の隅で、氷漬けになりかけたジェラルド様がガタガタ震えているのも無視して。
やがて、クラウス様は私を離すと、冷徹な仮面を被り直し、ジェラルド様に向き直った。
「……殺しはしない。ミナがそう望むならな」
彼は指をパチンと鳴らした。
ジェラルド様の口元の氷が砕け散る。
「は、はぁ、はぁ……!」
「ただし、二度と帝国の土を踏むな。そして、リリア国王に伝えろ」
クラウス様は宣言した。
「ミナ・オルコットは、ヴァルドラ帝国皇帝の『最重要人物』である。彼女に対する干渉は、帝国への宣戦布告とみなす、とな」
「ひっ、は、はいぃぃぃ!」
ジェラルド様は脱兎のごとく逃げ出した。
扉にぶつかり、転がりながら、情けない悲鳴を残して去っていく。
後に残ったのは、窓の割れた応接室と、抱き合う二人だけ。
「……やりすぎですよ、クラウス様」
「足りないくらいだ。本当は一生氷漬けにして、夏の祭りの氷像にしてやりたかった」
彼は拗ねたように言いながら、私の腕の赤くなった部分を、魔法で冷やしてくれた。
「……ミナ」
「はい」
「僕のそばにいて。どこにも行かないで」
「……行きませんよ。あんな男より、あなたの方がずっと待遇が良いですから」
私が軽口を叩くと、彼は嬉しそうに笑い、私の額にキスを落とした。
「待遇だけ?」
「……さあ、どうでしょう」
私は顔を赤くして、彼の胸に隠れた。
窓の外では吹雪が止み、雲の切れ間から光が差していた。
私の過去との決別は、これ以上ないほど劇的に、そして騒々しく幕を閉じたのだった。




