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空気令嬢は王宮の壁になりたい  作者: 秋月 もみじ


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7/10

第7話 処刑どころか、「ずっと君を探していた」と皇帝陛下に泣きつかれています。


「……ミナ」


「はい、何でしょうか」


「視線を感じない。こっちを見て」


「書類を見てください、陛下」


執務室の風景は、劇的に変わった。


以前、私が潜んでいたカーテンと観葉植物の隙間。

そこは今、ただのデッドスペースになっている。


現在の私の定位置は、ここ。

皇帝クラウス陛下の執務机の、真横だ。


追加配置された小さなデスク。

距離にして、わずか50センチ。

手を伸ばせば触れ合えるし、吐息すら聞こえそうな距離感である。


(……仕事にならない!)


私はペンを握りしめ、心の中で悲鳴を上げた。


以前は「壁」として気配を消していればよかった。

しかし今は「特別補佐官」だ。

堂々と姿を晒し、陛下の横でスケジュール管理や書類整理をしなければならない。


問題なのは、私の主君(推し)の態度だ。


クラウス様──二人きりの時はそう呼ぶ約束だ──は、書類にサインを一つするたびに、チラチラと私を見てくる。

まるで、分離不安の大型犬のように。


「……ミナがそこにいるか、確認しないと落ち着かない」


彼はペンを止め、拗ねたように唇を尖らせた。

その手には、しっかりと「くま太」が握られている。


「おります。逃げも隠れもしません」

「でも、君は気配を消すのが上手すぎる。油断すると空気に溶けるじゃないか」

「職業病です」


私は努めて事務的に答える。

そうしないと、顔が緩んでしまうからだ。


至近距離で浴びる「氷の皇帝」の破壊力は凄まじい。

銀色の睫毛の長さや、憂いを帯びた蒼い瞳の透明度まで、鮮明に見えてしまう。

尊い。

拝みたい。

でも仕事をしなけりゃ給料泥棒だ。


「……はぁ。ミナが可愛いすぎて仕事が手につかない」

「ッ!?」


不意打ちのデレ発言。

私はガタリと椅子を鳴らした。


「な、何を仰るのですか! お戯れはおやめください!」

「戯れじゃないよ。本心だ」


クラウス様は真顔だ。

耳は真っ赤だが、その瞳はまっすぐに私を射抜いている。


「君が横にいてくれるだけで、頭痛がしないんだ。世界が色付いて見える。……手、握ってもいい?」

「仕事中はダメです!」

「じゃあ、くま太の手で我慢する……」


彼はくま太の手をムニムニと握りしめた。

その姿が愛おしくて、私は机の下で自分の太ももをつねる。


距離感がバグっている。

正体がバレて以来、彼はタガが外れたように私に甘えてくるようになった。

「処刑」されると思っていたのに、待っていたのは「溺愛」という名の監禁生活だった。


「……ところで、ミナ」


しばらくして、クラウス様が改まった声を出した。

くま太を机に置き、姿勢を正す。


「来週の建国記念舞踏会についてだが」


「はい。スケジュールは空けてあります。警備体制の確認もジークフリード様と連携済みです」


私は手元の手帳を開く。

帝国最大級のイベントだ。

私は補佐官として、裏方で走り回ることになるだろう。


「当日の私の配置はどこでしょうか? やはり会場の隅か、陛下の影に潜む形になりますか?」


「いや」


クラウス様は首を横に振った。


「君には、僕のパートナーとして隣に立ってほしい」


「…………はい?」


私の思考が停止した。

ペンの先が、手帳に黒い染みを作る。


「パートナー、とは……護衛としてのカモフラージュ、という意味でしょうか?」

「違う。エスコート相手としてだ。一緒にダンスを踊りたい」


執務室に沈黙が落ちた。

暖炉の薪がパチリと爆ぜる音だけが響く。


私はゆっくりと瞬きをした。

理解が追いつかない。


皇帝の、パートナー?

私が?


「……ご冗談を」


私は乾いた笑声を漏らした。


「私は元・リリア王国の男爵令嬢。しかも、婚約破棄されたばかりの『傷物』ですよ? そんな私が陛下の隣に立てば、帝国の品位に関わります」


「品位なんてどうでもいい」

「良くありません! 貴族社会では体面が全てです!」


私は思わず立ち上がっていた。


「陛下は独身で、多くの貴族令嬢がその隣を狙っています。そこに、どこの馬の骨とも知れない他国の地味な女が立ってみなさい。……陛下まで笑い者になります」


私の言葉は、自分の古傷を抉るようだった。

ジェラルド様に言われた言葉が蘇る。

『地味で、隣に立つに相応しくない』。

それは事実だ。

私は裏方が似合う。主役の隣で輝けるような華はない。


「笑いたい奴には笑わせておけばいい」


クラウス様も立ち上がった。

彼は回り込み、私の目の前に立つ。


「僕は、君がいいんだ。他の誰でもない。君だけが、僕を『皇帝』という記号ではなく、一人の人間として見てくれたから」


彼は一歩、距離を詰める。


「君と踊りたい。……初めてのダンスは、好きな人と踊りたいんだ」


「す、好き……ッ」


直球すぎる言葉に、頭がクラッとした。

この人は、どうしてこうも無自覚にクリティカルヒットを放ってくるのか。


「……だ、ダメです」


私は視線を逸らし、後ずさった。


「それは……陛下の一時的な気の迷いです。吊り橋効果のようなものです」

「違う!」

「違わなくありません! 私は地味で、特技は気配を消すことだけの女です。華やかな場所に出れば、ボロが出ます。……陛下の『推し』としての幻想も、きっと壊れてしまいます」


怖かった。

光の下に晒されるのが。

そして何より、彼が私への興味を失ってしまうのが怖かった。

今は「珍しい妖精」として面白がってくれているけれど、公の場に出れば、私より美しく賢い女性は山ほどいる。

比較されたくない。

今の心地よい距離を失いたくない。


「ミナ……」


クラウス様が手を伸ばしてくる。

私は反射的に、スキル『希薄化』を発動させてしまった。


フッ、と私の存在感が薄れる。

彼の指先が、空を掴む。


「……ッ、逃げないでくれ!」


クラウス様の顔が歪んだ。

悲痛な叫びだった。


「隠れないで! 君が消えると、僕は……!」


彼は無理やり、私の腕を掴んだ。

見えていないはずなのに。

気配だけで、正確に私の実体を捕らえた。


強い力。

でも、手は震えている。


「お願いだ……『壁』に戻らないでくれ。僕を見てくれ」


泣きそうな声だった。

皇帝の威厳なんてかなぐり捨てて、ただの一人の青年として、私に縋り付いている。


「……陛下」


私はスキルの解除を余儀なくされた。

こんな顔をされたら、逃げられるわけがない。


「……分かりました。考えさせてください。ですが……期待はしないでください」


私はずるい答え方をした。

拒絶はできない。でも、肯定する勇気もない。


クラウス様は、安堵したように息を吐き、私の手を額に押し当てた。


「……待つよ。君が頷いてくれるまで」


その熱が、手を通して伝わってくる。

私の心は、嬉しさと恐怖でぐちゃぐちゃだった。


          ◇


気まずい空気のまま、午後の公務が終わった。

私は逃げるように更衣室へ戻り、ため息をつく。


(どうすればいいの……)


ドレスアップした自分を想像する。

似合わない。

周囲の嘲笑が聞こえるようだ。

でも、クラウス様のあの目は本気だった。


「お悩みかな、子猫ちゃん」


廊下の角から、ジークフリード様が現れた。

相変わらず、気配もなく現れる食えない人だ。


「……ジークフリード様。盗み聞きですか」

「人聞きの悪い。部下のメンタルケアも上司の仕事だよ」


彼はニヤリと笑い、一枚の書状をヒラヒラと振った。


「舞踏会の件で悩むのも分かるが、その前にもう一つ、厄介な案件が届いていてね」


「厄介な案件?」


嫌な予感がした。

背筋がゾワリとする、あの感覚。


ジークフリード様は、その書状を私に手渡した。

封蝋に見覚えがある。

リリア王国の紋章。

そして、見慣れた──いや、見飽きた下手くそな筆跡。


「お客様だ。リリア王国特使、ジェラルド・フォン・ベルンシュタイン伯爵令息。……現在、城門に到着したそうだ」


ドクン。

心臓が嫌な音を立てた。


「……ジェラルド様が、なぜここに?」

「表向きは『親善使節』。だが、裏の情報では……『逃げ出した元婚約者を連れ戻しに来た』らしいよ」


ジークフリード様のモノクルが、冷たく光った。


「君の『有能さ』に、ようやく気づいたらしい。……失ってから気づいても遅いのにねぇ」


血の気が引いていく。

あの男が来た。

私の平穏を、安らぎを、やっと手に入れたこの場所を壊しに。


「会いたくないなら、私が追い返すが?」

「……いえ」


私は拳を握りしめた。

震えそうになる手を、逆の手で押さえつける。


逃げてばかりでは、何も変わらない。

『希薄化』で隠れていても、問題は解決しない。


クラウス様は、私を見つけてくれた。

なら、私も変わらなければならない。


「……会います。会って、きちんとお断りします」


私は顔を上げた。


「私はもう、彼の都合のいい『影』ではありませんから」


「いい目だ」


ジークフリード様は満足げに頷いた。


「では、応接室へ案内しよう。……ああ、ちなみに」


彼は歩き出しながら、意地悪く付け加えた。


「陛下には内緒にしておこうか。彼が知ったら、ジェラルド卿を物理的に氷像にしてしまうかもしれないからね」


それは、笑えない冗談だった。


私は覚悟を決めて、彼に続いた。

扉の向こうに待つ過去との決別。

そして、その先に待つクラウス様との未来のために。

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