第7話 処刑どころか、「ずっと君を探していた」と皇帝陛下に泣きつかれています。
「……ミナ」
「はい、何でしょうか」
「視線を感じない。こっちを見て」
「書類を見てください、陛下」
執務室の風景は、劇的に変わった。
以前、私が潜んでいたカーテンと観葉植物の隙間。
そこは今、ただのデッドスペースになっている。
現在の私の定位置は、ここ。
皇帝クラウス陛下の執務机の、真横だ。
追加配置された小さなデスク。
距離にして、わずか50センチ。
手を伸ばせば触れ合えるし、吐息すら聞こえそうな距離感である。
(……仕事にならない!)
私はペンを握りしめ、心の中で悲鳴を上げた。
以前は「壁」として気配を消していればよかった。
しかし今は「特別補佐官」だ。
堂々と姿を晒し、陛下の横でスケジュール管理や書類整理をしなければならない。
問題なのは、私の主君(推し)の態度だ。
クラウス様──二人きりの時はそう呼ぶ約束だ──は、書類にサインを一つするたびに、チラチラと私を見てくる。
まるで、分離不安の大型犬のように。
「……ミナがそこにいるか、確認しないと落ち着かない」
彼はペンを止め、拗ねたように唇を尖らせた。
その手には、しっかりと「くま太」が握られている。
「おります。逃げも隠れもしません」
「でも、君は気配を消すのが上手すぎる。油断すると空気に溶けるじゃないか」
「職業病です」
私は努めて事務的に答える。
そうしないと、顔が緩んでしまうからだ。
至近距離で浴びる「氷の皇帝」の破壊力は凄まじい。
銀色の睫毛の長さや、憂いを帯びた蒼い瞳の透明度まで、鮮明に見えてしまう。
尊い。
拝みたい。
でも仕事をしなけりゃ給料泥棒だ。
「……はぁ。ミナが可愛いすぎて仕事が手につかない」
「ッ!?」
不意打ちのデレ発言。
私はガタリと椅子を鳴らした。
「な、何を仰るのですか! お戯れはおやめください!」
「戯れじゃないよ。本心だ」
クラウス様は真顔だ。
耳は真っ赤だが、その瞳はまっすぐに私を射抜いている。
「君が横にいてくれるだけで、頭痛がしないんだ。世界が色付いて見える。……手、握ってもいい?」
「仕事中はダメです!」
「じゃあ、くま太の手で我慢する……」
彼はくま太の手をムニムニと握りしめた。
その姿が愛おしくて、私は机の下で自分の太ももをつねる。
距離感がバグっている。
正体がバレて以来、彼はタガが外れたように私に甘えてくるようになった。
「処刑」されると思っていたのに、待っていたのは「溺愛」という名の監禁生活だった。
「……ところで、ミナ」
しばらくして、クラウス様が改まった声を出した。
くま太を机に置き、姿勢を正す。
「来週の建国記念舞踏会についてだが」
「はい。スケジュールは空けてあります。警備体制の確認もジークフリード様と連携済みです」
私は手元の手帳を開く。
帝国最大級のイベントだ。
私は補佐官として、裏方で走り回ることになるだろう。
「当日の私の配置はどこでしょうか? やはり会場の隅か、陛下の影に潜む形になりますか?」
「いや」
クラウス様は首を横に振った。
「君には、僕のパートナーとして隣に立ってほしい」
「…………はい?」
私の思考が停止した。
ペンの先が、手帳に黒い染みを作る。
「パートナー、とは……護衛としてのカモフラージュ、という意味でしょうか?」
「違う。エスコート相手としてだ。一緒にダンスを踊りたい」
執務室に沈黙が落ちた。
暖炉の薪がパチリと爆ぜる音だけが響く。
私はゆっくりと瞬きをした。
理解が追いつかない。
皇帝の、パートナー?
私が?
「……ご冗談を」
私は乾いた笑声を漏らした。
「私は元・リリア王国の男爵令嬢。しかも、婚約破棄されたばかりの『傷物』ですよ? そんな私が陛下の隣に立てば、帝国の品位に関わります」
「品位なんてどうでもいい」
「良くありません! 貴族社会では体面が全てです!」
私は思わず立ち上がっていた。
「陛下は独身で、多くの貴族令嬢がその隣を狙っています。そこに、どこの馬の骨とも知れない他国の地味な女が立ってみなさい。……陛下まで笑い者になります」
私の言葉は、自分の古傷を抉るようだった。
ジェラルド様に言われた言葉が蘇る。
『地味で、隣に立つに相応しくない』。
それは事実だ。
私は裏方が似合う。主役の隣で輝けるような華はない。
「笑いたい奴には笑わせておけばいい」
クラウス様も立ち上がった。
彼は回り込み、私の目の前に立つ。
「僕は、君がいいんだ。他の誰でもない。君だけが、僕を『皇帝』という記号ではなく、一人の人間として見てくれたから」
彼は一歩、距離を詰める。
「君と踊りたい。……初めてのダンスは、好きな人と踊りたいんだ」
「す、好き……ッ」
直球すぎる言葉に、頭がクラッとした。
この人は、どうしてこうも無自覚にクリティカルヒットを放ってくるのか。
「……だ、ダメです」
私は視線を逸らし、後ずさった。
「それは……陛下の一時的な気の迷いです。吊り橋効果のようなものです」
「違う!」
「違わなくありません! 私は地味で、特技は気配を消すことだけの女です。華やかな場所に出れば、ボロが出ます。……陛下の『推し』としての幻想も、きっと壊れてしまいます」
怖かった。
光の下に晒されるのが。
そして何より、彼が私への興味を失ってしまうのが怖かった。
今は「珍しい妖精」として面白がってくれているけれど、公の場に出れば、私より美しく賢い女性は山ほどいる。
比較されたくない。
今の心地よい距離を失いたくない。
「ミナ……」
クラウス様が手を伸ばしてくる。
私は反射的に、スキル『希薄化』を発動させてしまった。
フッ、と私の存在感が薄れる。
彼の指先が、空を掴む。
「……ッ、逃げないでくれ!」
クラウス様の顔が歪んだ。
悲痛な叫びだった。
「隠れないで! 君が消えると、僕は……!」
彼は無理やり、私の腕を掴んだ。
見えていないはずなのに。
気配だけで、正確に私の実体を捕らえた。
強い力。
でも、手は震えている。
「お願いだ……『壁』に戻らないでくれ。僕を見てくれ」
泣きそうな声だった。
皇帝の威厳なんてかなぐり捨てて、ただの一人の青年として、私に縋り付いている。
「……陛下」
私はスキルの解除を余儀なくされた。
こんな顔をされたら、逃げられるわけがない。
「……分かりました。考えさせてください。ですが……期待はしないでください」
私はずるい答え方をした。
拒絶はできない。でも、肯定する勇気もない。
クラウス様は、安堵したように息を吐き、私の手を額に押し当てた。
「……待つよ。君が頷いてくれるまで」
その熱が、手を通して伝わってくる。
私の心は、嬉しさと恐怖でぐちゃぐちゃだった。
◇
気まずい空気のまま、午後の公務が終わった。
私は逃げるように更衣室へ戻り、ため息をつく。
(どうすればいいの……)
ドレスアップした自分を想像する。
似合わない。
周囲の嘲笑が聞こえるようだ。
でも、クラウス様のあの目は本気だった。
「お悩みかな、子猫ちゃん」
廊下の角から、ジークフリード様が現れた。
相変わらず、気配もなく現れる食えない人だ。
「……ジークフリード様。盗み聞きですか」
「人聞きの悪い。部下のメンタルケアも上司の仕事だよ」
彼はニヤリと笑い、一枚の書状をヒラヒラと振った。
「舞踏会の件で悩むのも分かるが、その前にもう一つ、厄介な案件が届いていてね」
「厄介な案件?」
嫌な予感がした。
背筋がゾワリとする、あの感覚。
ジークフリード様は、その書状を私に手渡した。
封蝋に見覚えがある。
リリア王国の紋章。
そして、見慣れた──いや、見飽きた下手くそな筆跡。
「お客様だ。リリア王国特使、ジェラルド・フォン・ベルンシュタイン伯爵令息。……現在、城門に到着したそうだ」
ドクン。
心臓が嫌な音を立てた。
「……ジェラルド様が、なぜここに?」
「表向きは『親善使節』。だが、裏の情報では……『逃げ出した元婚約者を連れ戻しに来た』らしいよ」
ジークフリード様のモノクルが、冷たく光った。
「君の『有能さ』に、ようやく気づいたらしい。……失ってから気づいても遅いのにねぇ」
血の気が引いていく。
あの男が来た。
私の平穏を、安らぎを、やっと手に入れたこの場所を壊しに。
「会いたくないなら、私が追い返すが?」
「……いえ」
私は拳を握りしめた。
震えそうになる手を、逆の手で押さえつける。
逃げてばかりでは、何も変わらない。
『希薄化』で隠れていても、問題は解決しない。
クラウス様は、私を見つけてくれた。
なら、私も変わらなければならない。
「……会います。会って、きちんとお断りします」
私は顔を上げた。
「私はもう、彼の都合のいい『影』ではありませんから」
「いい目だ」
ジークフリード様は満足げに頷いた。
「では、応接室へ案内しよう。……ああ、ちなみに」
彼は歩き出しながら、意地悪く付け加えた。
「陛下には内緒にしておこうか。彼が知ったら、ジェラルド卿を物理的に氷像にしてしまうかもしれないからね」
それは、笑えない冗談だった。
私は覚悟を決めて、彼に続いた。
扉の向こうに待つ過去との決別。
そして、その先に待つクラウス様との未来のために。




