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空気令嬢は王宮の壁になりたい  作者: 秋月 もみじ


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5/10

第5話 【悲報】皇帝陛下の独り言が、先日見かけた「地味な令嬢」への恋心だった件。


その日、執務室の空気はピンク色だった。


物理的にではない。

皇帝クラウス陛下の発するオーラの話だ。


「……ふふっ」


不気味だ。

あの「氷の皇帝」が、書類にハンコを押しながら鼻歌交じりに笑っている。

外は猛吹雪だというのに、彼の周りだけ春のお花畑が見えるようだ。


私はいつもの定位置──カーテンと観葉植物の隙間──で、戦慄していた。


(……何があったの?)


ここ数日、私の「妖精活動(差し入れ)」は順調だった。

陛下の体調は回復し、顔色も良くなった。

それはいい。

問題は、彼が元気になった余波で、思考回路が「ある方向」へ暴走し始めたことだ。


時刻は午後3時。

休憩の時間だ。


陛下はペンを置き、慣れた手つきで引き出しから「親友」を取り出した。

茶色いモフモフの守護熊、くま太だ。


彼はくま太を膝に乗せると、夢見る乙女のような瞳で窓の外を見上げた。


「聞いてくれ、くま太。……昨夜、夢を見たんだ」


甘い声だ。

砂糖を煮詰めて蜂蜜をかけ、さらに練乳をトッピングしたような声。

聞いてるこっちが胃もたれしそうになる。


「リリア王国の夢だ。あの夜会の日のことだよ」


ドキリ、とした。

またその話か。

陛下は最近、ことあるごとにあの夜会の思い出を反芻している。


「ずっと気になっていたんだ。あの喧騒の中で、彼女だけが静寂を纏っていた」


陛下はくま太の手を握り、熱っぽく語りかける。


「派手なドレスや宝石で着飾った令嬢たちの中で、彼女だけが大地のような色──ミルクティー色のドレスを着ていた。髪は、そうだな……陽の光を吸い込んだような、柔らかな栗色」


(……ミルクティー色?)


私は自分の記憶を検索する。

あの日、私が着ていたドレスは、実家の倉庫で眠っていた古い品だ。

色は褪せたベージュ。

よく言えばミルクティー色だが、悪く言えば「ダンボール色」だ。


「瞳は、透き通った琥珀色。何も語らず、ただ静かに、全てを見通すような目だった」


(……琥珀色?)


私の目は、よくある茶色だ。

特徴がないのが特徴と言われる平凡な色。


「彼女は、壁際に立っていた。誰とも群れず、誰にも媚びず。まるで、咲き誇る花々を見守る庭師のように、凛としていた」


(……凛として?)


いいえ、陛下。

それはただの「無」です。

早く帰りたいなー、足痛いなー、と思いながら、意識を虚空に飛ばしていた時の顔です。


陛下の中の「彼女」は、一体どれだけ美化されているのだろう。

私は冷や汗が止まらなかった。


しかし、陛下の妄想(?)は止まらない。


「目が合ったわけじゃない。言葉を交わしたわけでもない。……でも、彼女の周りだけ空気が澄んでいて、僕は救われた気がしたんだ」


彼はくま太を抱きしめ、うっとりと目を閉じた。


「あれが、『一目惚れ』ってやつなのかな」


ブッ!!!!


私は危うく吹き出しそうになり、自分の口を両手で塞いだ。

衝撃で膝が笑う。


一目惚れ?

誰に?

私に?


あの「空気」扱いされていた私に?


(嘘でしょう!?)


脳内で警報が鳴り響く。

あり得ない。

ジェラルド様には「可愛げがない」「地味だ」と散々言われ、実家の親にさえ名前を忘れられる私が?

世界最高峰の美形である皇帝陛下に一目惚れされた?


「落ち着け、落ち着くのよミナ……」


心の中で必死に唱える。

これは何かの勘違いだ。

もしかしたら、私の隣に絶世の美女が(ステルスで)立っていたのかもしれない。

あるいは、陛下の視力が悪すぎて、観葉植物と私を見間違えたのかもしれない。


しかし、陛下は残酷なまでに詳細な情報を追加していく。


「あの日、彼女はバルコニーへ出て行った。……背中が少し寂しそうだったな。追いかけたかったけど、勇気が出なかった」


確定だ。

あのタイミングでバルコニーに出たのは、私しかいない。


「……はぁ」


陛下は大きなため息をつき、ガクリと項垂れた。


「でも、無駄だよな」


空気が一変する。

ピンク色から、どんよりとした灰色へ。


「だって、あんなに素敵な女性だ。独身のはずがない」


(……はい?)


「あの落ち着き、あの包容力。きっと、素晴らしい伴侶がいるに違いない。優しくて、知的で、僕なんかよりずっと彼女を大切にしてくれる旦那様が」


陛下はズブズブとネガティブ沼に沈んでいく。


「僕みたいな、偏屈で、友達がぬいぐるみしかいない男なんて、彼女から見れば気持ち悪いだけだ……」


「そんなことありません!」


喉まで出かかった言葉を、私は全力で飲み込んだ。


違います陛下!

旦那様なんていません!

婚約破棄されたばかりの独り身です!

友達がぬいぐるみ? むしろ最高です、そのギャップが尊いんです!


叫び出したい。

今すぐカーテンを開けて、「ここにいます! 私です! 独身です!」と宣言したい。


けれど、できない。

なぜなら私は今、「壁」だからだ。


姿を見せれば、これまでの盗み聞きが全てバレる。

彼がくま太に語った恥ずかしいポエムも、甘い初恋の独白も、全て聞かれていたと知ったら?


彼は羞恥で死ぬかもしれない。

あるいは、ショックで国を氷漬けにするかもしれない。


(どうすればいいの……!)


私はパニックに陥っていた。

心臓が早鐘を打つ。

ドクン、ドクン、という音が、耳元でうるさいほど響く。


「……それに、もし独身だったとしてもだ」


陛下はさらに悪い方向へ思考を進める。


「彼女はリリア王国の貴族だ。この極寒の帝国になんて、来たがらないだろう。……あんな繊細な花を、この雪国に閉じ込めるなんてできない」


彼は自嘲気味に笑った。


「妖精さんが淹れてくれるお茶が、彼女の香りと同じだなんて……僕の願望が見せた幻覚なんだろうな」


その言葉が、胸に突き刺さる。


幻覚じゃない。

ここにいる。

あなたのすぐそばに。


「会いたいなぁ……」


その呟きは、涙が出るほど切実だった。


「もう一度だけでいい。彼女に会って、言いたかったんだ。『君のおかげで、息ができた』って」


私の視界が滲んだ。

涙腺が緩む。

そんな風に思ってくれていたなんて。


私は自分を「モブ」だと思っていた。

誰かの物語の背景でしかないと。

でも、この人は私を「主役」として見てくれていたのだ。


感情が昂る。

制御できない熱が体中を駆け巡る。


その時だった。


『希薄化』のスキルが、揺らいだ。


感情の乱れは、魔力の乱れに直結する。

今まで鉄壁だった私の「認識阻害」の膜に、ノイズが走る。

カサリ。

ドレスの裾が、観葉植物の葉に触れた音がした。


「……!」


陛下が弾かれたように顔を上げた。

鋭い蒼色の瞳が、私の隠れている方向──カーテンの隙間を射抜く。


「……誰だ?」


声色が、一瞬で「皇帝」のものに戻る。

くま太を背後に隠し、彼は立ち上がった。

殺気が室内を満たす。


まずい。

バレる。


私は息を止めた。

心臓が破裂しそうだ。

逃げるか?

いや、動けば完全に見つかる。


「そこにいるのか?」


陛下がゆっくりと近づいてくる。

足音が、死刑執行のカウントダウンのように響く。


コツ、コツ、コツ。


あと5メートル。

あと3メートル。


私は覚悟を決めた。

言い訳を考える。

「猫です」「通りすがりの妖精です」「幻覚です」。

どれも無理がある。


陛下の指が、カーテンにかかった。


「……失礼する」


シャッ!!


カーテンが開け放たれた。


「…………あっ」


私の口から、間の抜けた声が漏れた。


午後の陽光が、私を照らし出す。

地味な濃紺のドレス。

地味な三つ編み。

そして、涙目で固まっている私。


クラウス陛下と、目が合った。


時は止まった。

1秒が永遠に感じられる静寂。


陛下の目が、限界まで見開かれる。

その瞳に映っているのは、「不審者」を見る目ではない。

信じられないもの──奇跡、あるいは幽霊──を見る目だ。


彼の唇が震えた。


「……き、みは……」


彼の視線が、私の顔に釘付けになる。

そして、ゆっくりと、私の特徴を確認していく。

栗色の髪。

琥珀色の瞳。

そして、彼が「ミルクティー色」と呼んだ、地味な雰囲気。


彼の顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。

耳まで、首筋まで。

まるで熟れたトマトのように。


彼も気づいたのだ。

今、自分が「会いたい」と切望していた初恋の相手が、あろうことか自分の執務室のカーテンの裏に潜んでいたことに。


そして、状況から察するに、今の「くま太への独白」を全て聞かれていたことに。


「……あ、あ、あ……」


陛下が後ずさる。

言葉にならない声を漏らしながら。


私もまた、顔から火が出るほど赤くなっていたはずだ。

もう「壁」には戻れない。

私は完全に、一人の「女」として、彼の前に晒されていた。


「……申し訳、ありません……」


私が絞り出した言葉は、それだけだった。


次の瞬間。


「うわあああああああああ!!?」


クラウス陛下が、頭を抱えて絶叫した。

皇帝にあるまじき、少年のような悲鳴だった。


彼はそのまま膝から崩れ落ち、床の上でうずくまった。

まるでダンゴムシのように丸まり、両手で顔を覆う。


「夢だ……これは夢だ……よりによって、一番聞かれたくないところを……!」

「へ、陛下!?」

「殺してくれ……いっそ氷漬けにしてくれ……!」


「そ、そんな!」


私は慌てて駆け寄った。

不敬だとか、壁だとか、もうどうでもいい。

推しが尊死(社会的死)しそうになっているのだ。


「違います! 聞いてません! 私、何も聞いてませんから!」

「嘘だ! バッチリ目が合ってた! 君、すごく『尊い』って顔で見てたじゃないか!」

「み、見てましたけど! でも、幻滅なんてしてません!」


私は必死で彼の肩を掴んだ。


「むしろ逆です! 最高でした! くま太様に話しかける陛下があまりにも可愛らしくて、私、心臓が止まるかと……!」


「……は?」


陛下が、指の隙間から私を見た。

涙目のまま、きょとんとしている。


「……可愛い?」


あ。

しまった。


私は自分の口を手で覆った。

勢いで、本音(オタクの心の叫び)をぶちまけてしまった。


時すでに遅し。

私の「推し活」魂もまた、彼の前で露呈してしまったのだ。


真っ赤な顔で見つめ合う、皇帝と元令嬢。

執務室の床の上、奇妙な沈黙が流れる。


このカオスな状況を破ったのは、扉が開く音だった。


「おやおや。随分と賑やかだねぇ」


入ってきたのは、宰相ジークフリード様だった。

彼は惨状を見渡すと、満足げにニヤリと笑った。


「やっと『壁』が崩壊したか。……さて、お二人さん。処刑か結婚か、どちらか選んでもらおうか?」


私の新しい人生(推し活)は、どうやらここからが本番のようだ。

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