第5話 【悲報】皇帝陛下の独り言が、先日見かけた「地味な令嬢」への恋心だった件。
その日、執務室の空気はピンク色だった。
物理的にではない。
皇帝クラウス陛下の発するオーラの話だ。
「……ふふっ」
不気味だ。
あの「氷の皇帝」が、書類にハンコを押しながら鼻歌交じりに笑っている。
外は猛吹雪だというのに、彼の周りだけ春のお花畑が見えるようだ。
私はいつもの定位置──カーテンと観葉植物の隙間──で、戦慄していた。
(……何があったの?)
ここ数日、私の「妖精活動(差し入れ)」は順調だった。
陛下の体調は回復し、顔色も良くなった。
それはいい。
問題は、彼が元気になった余波で、思考回路が「ある方向」へ暴走し始めたことだ。
時刻は午後3時。
休憩の時間だ。
陛下はペンを置き、慣れた手つきで引き出しから「親友」を取り出した。
茶色いモフモフの守護熊、くま太だ。
彼はくま太を膝に乗せると、夢見る乙女のような瞳で窓の外を見上げた。
「聞いてくれ、くま太。……昨夜、夢を見たんだ」
甘い声だ。
砂糖を煮詰めて蜂蜜をかけ、さらに練乳をトッピングしたような声。
聞いてるこっちが胃もたれしそうになる。
「リリア王国の夢だ。あの夜会の日のことだよ」
ドキリ、とした。
またその話か。
陛下は最近、ことあるごとにあの夜会の思い出を反芻している。
「ずっと気になっていたんだ。あの喧騒の中で、彼女だけが静寂を纏っていた」
陛下はくま太の手を握り、熱っぽく語りかける。
「派手なドレスや宝石で着飾った令嬢たちの中で、彼女だけが大地のような色──ミルクティー色のドレスを着ていた。髪は、そうだな……陽の光を吸い込んだような、柔らかな栗色」
(……ミルクティー色?)
私は自分の記憶を検索する。
あの日、私が着ていたドレスは、実家の倉庫で眠っていた古い品だ。
色は褪せたベージュ。
よく言えばミルクティー色だが、悪く言えば「ダンボール色」だ。
「瞳は、透き通った琥珀色。何も語らず、ただ静かに、全てを見通すような目だった」
(……琥珀色?)
私の目は、よくある茶色だ。
特徴がないのが特徴と言われる平凡な色。
「彼女は、壁際に立っていた。誰とも群れず、誰にも媚びず。まるで、咲き誇る花々を見守る庭師のように、凛としていた」
(……凛として?)
いいえ、陛下。
それはただの「無」です。
早く帰りたいなー、足痛いなー、と思いながら、意識を虚空に飛ばしていた時の顔です。
陛下の中の「彼女」は、一体どれだけ美化されているのだろう。
私は冷や汗が止まらなかった。
しかし、陛下の妄想(?)は止まらない。
「目が合ったわけじゃない。言葉を交わしたわけでもない。……でも、彼女の周りだけ空気が澄んでいて、僕は救われた気がしたんだ」
彼はくま太を抱きしめ、うっとりと目を閉じた。
「あれが、『一目惚れ』ってやつなのかな」
ブッ!!!!
私は危うく吹き出しそうになり、自分の口を両手で塞いだ。
衝撃で膝が笑う。
一目惚れ?
誰に?
私に?
あの「空気」扱いされていた私に?
(嘘でしょう!?)
脳内で警報が鳴り響く。
あり得ない。
ジェラルド様には「可愛げがない」「地味だ」と散々言われ、実家の親にさえ名前を忘れられる私が?
世界最高峰の美形である皇帝陛下に一目惚れされた?
「落ち着け、落ち着くのよミナ……」
心の中で必死に唱える。
これは何かの勘違いだ。
もしかしたら、私の隣に絶世の美女が(ステルスで)立っていたのかもしれない。
あるいは、陛下の視力が悪すぎて、観葉植物と私を見間違えたのかもしれない。
しかし、陛下は残酷なまでに詳細な情報を追加していく。
「あの日、彼女はバルコニーへ出て行った。……背中が少し寂しそうだったな。追いかけたかったけど、勇気が出なかった」
確定だ。
あのタイミングでバルコニーに出たのは、私しかいない。
「……はぁ」
陛下は大きなため息をつき、ガクリと項垂れた。
「でも、無駄だよな」
空気が一変する。
ピンク色から、どんよりとした灰色へ。
「だって、あんなに素敵な女性だ。独身のはずがない」
(……はい?)
「あの落ち着き、あの包容力。きっと、素晴らしい伴侶がいるに違いない。優しくて、知的で、僕なんかよりずっと彼女を大切にしてくれる旦那様が」
陛下はズブズブとネガティブ沼に沈んでいく。
「僕みたいな、偏屈で、友達がぬいぐるみしかいない男なんて、彼女から見れば気持ち悪いだけだ……」
「そんなことありません!」
喉まで出かかった言葉を、私は全力で飲み込んだ。
違います陛下!
旦那様なんていません!
婚約破棄されたばかりの独り身です!
友達がぬいぐるみ? むしろ最高です、そのギャップが尊いんです!
叫び出したい。
今すぐカーテンを開けて、「ここにいます! 私です! 独身です!」と宣言したい。
けれど、できない。
なぜなら私は今、「壁」だからだ。
姿を見せれば、これまでの盗み聞きが全てバレる。
彼がくま太に語った恥ずかしいポエムも、甘い初恋の独白も、全て聞かれていたと知ったら?
彼は羞恥で死ぬかもしれない。
あるいは、ショックで国を氷漬けにするかもしれない。
(どうすればいいの……!)
私はパニックに陥っていた。
心臓が早鐘を打つ。
ドクン、ドクン、という音が、耳元でうるさいほど響く。
「……それに、もし独身だったとしてもだ」
陛下はさらに悪い方向へ思考を進める。
「彼女はリリア王国の貴族だ。この極寒の帝国になんて、来たがらないだろう。……あんな繊細な花を、この雪国に閉じ込めるなんてできない」
彼は自嘲気味に笑った。
「妖精さんが淹れてくれるお茶が、彼女の香りと同じだなんて……僕の願望が見せた幻覚なんだろうな」
その言葉が、胸に突き刺さる。
幻覚じゃない。
ここにいる。
あなたのすぐそばに。
「会いたいなぁ……」
その呟きは、涙が出るほど切実だった。
「もう一度だけでいい。彼女に会って、言いたかったんだ。『君のおかげで、息ができた』って」
私の視界が滲んだ。
涙腺が緩む。
そんな風に思ってくれていたなんて。
私は自分を「モブ」だと思っていた。
誰かの物語の背景でしかないと。
でも、この人は私を「主役」として見てくれていたのだ。
感情が昂る。
制御できない熱が体中を駆け巡る。
その時だった。
『希薄化』のスキルが、揺らいだ。
感情の乱れは、魔力の乱れに直結する。
今まで鉄壁だった私の「認識阻害」の膜に、ノイズが走る。
カサリ。
ドレスの裾が、観葉植物の葉に触れた音がした。
「……!」
陛下が弾かれたように顔を上げた。
鋭い蒼色の瞳が、私の隠れている方向──カーテンの隙間を射抜く。
「……誰だ?」
声色が、一瞬で「皇帝」のものに戻る。
くま太を背後に隠し、彼は立ち上がった。
殺気が室内を満たす。
まずい。
バレる。
私は息を止めた。
心臓が破裂しそうだ。
逃げるか?
いや、動けば完全に見つかる。
「そこにいるのか?」
陛下がゆっくりと近づいてくる。
足音が、死刑執行のカウントダウンのように響く。
コツ、コツ、コツ。
あと5メートル。
あと3メートル。
私は覚悟を決めた。
言い訳を考える。
「猫です」「通りすがりの妖精です」「幻覚です」。
どれも無理がある。
陛下の指が、カーテンにかかった。
「……失礼する」
シャッ!!
カーテンが開け放たれた。
「…………あっ」
私の口から、間の抜けた声が漏れた。
午後の陽光が、私を照らし出す。
地味な濃紺のドレス。
地味な三つ編み。
そして、涙目で固まっている私。
クラウス陛下と、目が合った。
時は止まった。
1秒が永遠に感じられる静寂。
陛下の目が、限界まで見開かれる。
その瞳に映っているのは、「不審者」を見る目ではない。
信じられないもの──奇跡、あるいは幽霊──を見る目だ。
彼の唇が震えた。
「……き、みは……」
彼の視線が、私の顔に釘付けになる。
そして、ゆっくりと、私の特徴を確認していく。
栗色の髪。
琥珀色の瞳。
そして、彼が「ミルクティー色」と呼んだ、地味な雰囲気。
彼の顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。
耳まで、首筋まで。
まるで熟れたトマトのように。
彼も気づいたのだ。
今、自分が「会いたい」と切望していた初恋の相手が、あろうことか自分の執務室のカーテンの裏に潜んでいたことに。
そして、状況から察するに、今の「くま太への独白」を全て聞かれていたことに。
「……あ、あ、あ……」
陛下が後ずさる。
言葉にならない声を漏らしながら。
私もまた、顔から火が出るほど赤くなっていたはずだ。
もう「壁」には戻れない。
私は完全に、一人の「女」として、彼の前に晒されていた。
「……申し訳、ありません……」
私が絞り出した言葉は、それだけだった。
次の瞬間。
「うわあああああああああ!!?」
クラウス陛下が、頭を抱えて絶叫した。
皇帝にあるまじき、少年のような悲鳴だった。
彼はそのまま膝から崩れ落ち、床の上でうずくまった。
まるでダンゴムシのように丸まり、両手で顔を覆う。
「夢だ……これは夢だ……よりによって、一番聞かれたくないところを……!」
「へ、陛下!?」
「殺してくれ……いっそ氷漬けにしてくれ……!」
「そ、そんな!」
私は慌てて駆け寄った。
不敬だとか、壁だとか、もうどうでもいい。
推しが尊死(社会的死)しそうになっているのだ。
「違います! 聞いてません! 私、何も聞いてませんから!」
「嘘だ! バッチリ目が合ってた! 君、すごく『尊い』って顔で見てたじゃないか!」
「み、見てましたけど! でも、幻滅なんてしてません!」
私は必死で彼の肩を掴んだ。
「むしろ逆です! 最高でした! くま太様に話しかける陛下があまりにも可愛らしくて、私、心臓が止まるかと……!」
「……は?」
陛下が、指の隙間から私を見た。
涙目のまま、きょとんとしている。
「……可愛い?」
あ。
しまった。
私は自分の口を手で覆った。
勢いで、本音(オタクの心の叫び)をぶちまけてしまった。
時すでに遅し。
私の「推し活」魂もまた、彼の前で露呈してしまったのだ。
真っ赤な顔で見つめ合う、皇帝と元令嬢。
執務室の床の上、奇妙な沈黙が流れる。
このカオスな状況を破ったのは、扉が開く音だった。
「おやおや。随分と賑やかだねぇ」
入ってきたのは、宰相ジークフリード様だった。
彼は惨状を見渡すと、満足げにニヤリと笑った。
「やっと『壁』が崩壊したか。……さて、お二人さん。処刑か結婚か、どちらか選んでもらおうか?」
私の新しい人生(推し活)は、どうやらここからが本番のようだ。




