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空気令嬢は王宮の壁になりたい  作者: 秋月 もみじ


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4/10

第4話 壁だと思っていたら、いつの間にか陛下の体調管理係になっていました。


執務室は、戦場だった。


剣や魔法が飛び交うわけではない。

飛び交っているのは、紙だ。

山のような書類、決裁書、そして嘆願書の束。


帝国の年度末予算編成期。

それは、皇帝陛下にとっての地獄の季節らしい。


「──第3師団の兵站予算、計算が合わん。却下だ」

「はっ! 直ちに修正いたします!」

「北部の防壁補修案、資材の調達ルートが不透明だ。精査しろ」

「ぎ、御意!」


深夜2時。

本来なら草木も眠る時間だが、執務室は昼間のように明るい。

魔導灯が煌々と照らす中、クラウス陛下は休むことなくペンを走らせている。


私は、定位置のカーテンの陰で、じっとその背中を見つめていた。


(……限界ね)


私の観察眼が、陛下の「仮面」の下にある疲労を読み取る。


背筋は伸びているが、ペンを持つ指先が微かに白んでいる。

時折、こめかみを押さえる仕草が増えた。

そして何より、顔色が悪い。

陶器のような白い肌が、今は青白く透き通るようで、見ていて痛々しいほどだ。


「陛下、コーヒーをお持ちしました」

「……ああ。置いておけ」


侍従が新しいコーヒーカップを置き、逃げるように去っていく。

これで何杯目だろうか。

陛下は食事もそこそこに、濃いブラックコーヒーばかりを胃に流し込んでいる。


(ダメよ、推し。そんな黒い泥水ばかり飲んでいたら、胃に穴が開くわ)


私は心の中で警告する。

魔力持ちにとって、カフェインの過剰摂取は魔力回路を不安定にさせる。

必要なのは休息と、消化の良い栄養だ。


しかし、周囲の人間は「氷の皇帝」の威圧感に恐れをなし、誰も「休んでください」と言えない。

ジークフリード様ですら、他国との交渉で出張中だ。


つまり、今ここで陛下を守れるのは、壁(私)しかいない。


「……うっ」


不意に、陛下がペンを止め、口元を押さえた。

眉間に深い皺が刻まれる。

胃痛だ。


彼は震える手で、冷めきったコーヒーカップに手を伸ばそうとする。


(動くわよ、ミナ)


私は覚悟を決めた。

これは業務外の越権行為だ。

バレればタダでは済まない。

だが、推しの健康(と顔面偏差値)を守るためなら、リスクを冒す価値はある。


チャンスは一瞬。

陛下が立ち上がり、背後の本棚へ資料を探しに行く数秒間。


「……あの資料はどこだ……」


陛下が椅子を立ち、背を向けた。


今だ。


私は音もなく影から飛び出した。

スキル『希薄化』フル稼働。

私の存在は、室内の空気、あるいは塵芥と同等の情報量へと希釈される。


給湯スペースへ滑り込む。

あらかじめ準備しておいた「特製ブレンド」のカップを手に取る。


中身は、最高級茶葉のロイヤルミルクティー。

たっぷりの蜂蜜と生姜、そして気つけ薬代わりの「疲労回復ポーション」を数滴垂らしてある。

色はコーヒーに近いが、効能は天と地ほど違う。


私は風のように執務机へ接近した。


机の上には、飲みかけの冷たいコーヒー。

私はそれを回収し、代わりに温かいミルクティーを置く。

カップの位置、取っ手の角度まで、ミリ単位で再現して。


回収したコーヒーを持って、再び影の中へ。


(所要時間、3秒)


完璧だ。

誰の目にも留まらない、神速のすり替え。

元・ブラック企業の社畜事務員を舐めないでほしい。

上司の目を盗んでお菓子を食べる技術で鍛えた隠密スキルは、伊達ではないのだ。


「……あった」


陛下が分厚いファイルを手に戻ってくる。

彼は何も気づかず、椅子に座った。


そして、手元のカップを無造作に持ち上げ、口に運ぶ。


(飲んで……!)


私は祈るような気持ちで見守る。


陛下がカップを傾け、液体を口に含んだ。


ピタリ。

動きが止まる。


「……?」


陛下がカップを二度見した。


「……甘い?」


低い声が漏れる。

苦い泥水を覚悟していた舌に、濃厚なミルクと蜂蜜の甘さが広がったのだから、当然の反応だ。


彼は怪訝そうに眉を寄せたが、カップを置くことはなかった。

むしろ、喉がそれを求めていたかのように、二口、三口と飲み進める。


「……温かい」


彼の強張っていた肩から、力が抜けていく。

ポーションの効果か、あるいは生姜の効能か。

青白かった頬に、ほんのりと赤みが差した。


「……また、君か」


陛下がふと、虚空に向かって呟いた。


「妖精さん」


(っ……!)


私はカーテンの陰で、反射的に直立不動になる。


ここ数日、私の差し入れ活動のせいで、陛下の中で「執務室には世話焼きの妖精が住み着いている」という設定が定着しつつある。


彼は誰もいない空間──私のいる方向とは少しズレた窓際──に向かって、柔らかく微笑んだ。


「ありがとう。……苦いのは、もう飽きていたんだ」


その笑顔の破壊力たるや。

徹夜明けの気怠げな色気も相まって、直視すれば網膜が焼けるレベルだ。


私は無言で胸を押さえた。

心拍数が上がりすぎて、スキルの維持が危ない。

「どういたしまして」と言いたい。

「もっと寝てください」と言いたい。

でも言えない。私は壁だから。


陛下はカップを空にすると、ふぅ、と満足げな息を吐いた。


そして、机の引き出しから何かを取り出した。


「……これ、お礼だ」


彼が机の隅に置いたのは、包み紙に入った高級クッキーだった。

どうやら、妖精へのお供え物らしい。


(餌付けされている……!)


私は戦慄した。

皇帝陛下が、見えない同居人に餌付けを試みている。

しかも、そのクッキーは帝都で一番有名なパティスリーの限定品だ。


食べたい。

すごく食べたい。

でも、それを手に取った瞬間、私の存在証明(物理)が確定してしまう。


私が葛藤していると、陛下は再びペンを執った。

しかし、先ほどまでの殺気立った雰囲気はない。

穏やかな、本来の彼らしいリズムで仕事を進めている。


「……不思議だな」


陛下がポツリと呟く。

ペンを走らせながら、独り言のように。


「このミルクティーの味……どこかで覚えがある気がする」


え?

私は思考を停止した。


「母上の味ではない。もっと最近……いや、リリア王国に行った時の……」


心臓が早鐘を打つ。

リリア王国。

その単語が出ただけで、冷や汗が吹き出る。


私が以前、ジェラルド様の屋敷で事務処理をしていた時、よく自分用に淹れていたブレンドだ。

もしかして、それを嗅ぎつけたことがあるのだろうか?

いや、まさか。私はずっと裏方に徹していたはずだ。


「……あの日。夜会の会場で、すれ違った時の香りだ」


陛下の手が止まる。


「名前も知らない、あの令嬢。……栗色の髪の、静かな人」


(バレてる!?)


私は口元を手で覆った。

なぜ覚えている?

あの夜会、私は完璧に気配を消していたはずだ。

陛下とは一度たりとも言葉を交わしていないし、目も合っていない。


「……彼女の周りだけ、空気が澄んでいた。今のこの部屋みたいに」


陛下は遠くを見る目をした。

その瞳には、熱っぽい色が宿っている。


「もし、この妖精が彼女だとしたら……。いや、そんな都合のいい話があるわけがないか」


彼は自嘲気味に笑い、首を振った。


「彼女は今頃、結婚して幸せに暮らしているだろうしな」


ズキリ。

胸が痛んだ。

結婚なんてしていません。

婚約破棄されて、あなたの部屋の壁になっています。


そう叫び出したい衝動を、私は必死で飲み込んだ。


今、正体を明かせばどうなる?

「壁」としての契約違反?

それとも、「ストーカー」として投獄?


どちらにせよ、この平穏な特等席(壁)は失われるだろう。


(……まだ、ダメよ)


私は唇を噛み締めた。

陛下の誤解は解きたい。

でも、まだ心の準備ができていない。

それに、もし正体を知られて「なんだ、地味な女か」と幻滅されるのが、何よりも怖かった。


「……会いたいな」


陛下が、消え入るような声で呟く。


「もう一度、彼女に会えたら……今度こそ、名前を聞けるだろうか」


その切実な響きに、私は何も考えられなくなった。

ただ、胸の奥が熱くて、苦しくて、泣きたくなるような感覚。


これが「尊い」という感情なのか、それとも「恋」なのか。

私にはまだ、判別がつかなかった。


ただ一つ確かなのは。

今日から私が淹れるお茶には、ほんの少しだけ「切なさ」というスパイスが混じってしまうだろうということだけだ。


夜明けが近い。

東の空が白む頃、陛下は机に突っ伏して眠りに落ちた。

寝息を立てるその肩に、私はこっそりとブランケットを掛ける。


そして、机の隅に置かれたクッキーを、一つだけポケットに入れた。


「……いただきます、陛下」


音のない声で、お礼を言う。

これは共犯の証。

いつか、この魔法(誤解)が解けるその日まで、私はあなたの優しい妖精でいよう。


そう決めたはずなのに。

私の指先は、震えて止まらなかった。

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