第4話 壁だと思っていたら、いつの間にか陛下の体調管理係になっていました。
執務室は、戦場だった。
剣や魔法が飛び交うわけではない。
飛び交っているのは、紙だ。
山のような書類、決裁書、そして嘆願書の束。
帝国の年度末予算編成期。
それは、皇帝陛下にとっての地獄の季節らしい。
「──第3師団の兵站予算、計算が合わん。却下だ」
「はっ! 直ちに修正いたします!」
「北部の防壁補修案、資材の調達ルートが不透明だ。精査しろ」
「ぎ、御意!」
深夜2時。
本来なら草木も眠る時間だが、執務室は昼間のように明るい。
魔導灯が煌々と照らす中、クラウス陛下は休むことなくペンを走らせている。
私は、定位置のカーテンの陰で、じっとその背中を見つめていた。
(……限界ね)
私の観察眼が、陛下の「仮面」の下にある疲労を読み取る。
背筋は伸びているが、ペンを持つ指先が微かに白んでいる。
時折、こめかみを押さえる仕草が増えた。
そして何より、顔色が悪い。
陶器のような白い肌が、今は青白く透き通るようで、見ていて痛々しいほどだ。
「陛下、コーヒーをお持ちしました」
「……ああ。置いておけ」
侍従が新しいコーヒーカップを置き、逃げるように去っていく。
これで何杯目だろうか。
陛下は食事もそこそこに、濃いブラックコーヒーばかりを胃に流し込んでいる。
(ダメよ、推し。そんな黒い泥水ばかり飲んでいたら、胃に穴が開くわ)
私は心の中で警告する。
魔力持ちにとって、カフェインの過剰摂取は魔力回路を不安定にさせる。
必要なのは休息と、消化の良い栄養だ。
しかし、周囲の人間は「氷の皇帝」の威圧感に恐れをなし、誰も「休んでください」と言えない。
ジークフリード様ですら、他国との交渉で出張中だ。
つまり、今ここで陛下を守れるのは、壁(私)しかいない。
「……うっ」
不意に、陛下がペンを止め、口元を押さえた。
眉間に深い皺が刻まれる。
胃痛だ。
彼は震える手で、冷めきったコーヒーカップに手を伸ばそうとする。
(動くわよ、ミナ)
私は覚悟を決めた。
これは業務外の越権行為だ。
バレればタダでは済まない。
だが、推しの健康(と顔面偏差値)を守るためなら、リスクを冒す価値はある。
チャンスは一瞬。
陛下が立ち上がり、背後の本棚へ資料を探しに行く数秒間。
「……あの資料はどこだ……」
陛下が椅子を立ち、背を向けた。
今だ。
私は音もなく影から飛び出した。
スキル『希薄化』フル稼働。
私の存在は、室内の空気、あるいは塵芥と同等の情報量へと希釈される。
給湯スペースへ滑り込む。
あらかじめ準備しておいた「特製ブレンド」のカップを手に取る。
中身は、最高級茶葉のロイヤルミルクティー。
たっぷりの蜂蜜と生姜、そして気つけ薬代わりの「疲労回復ポーション」を数滴垂らしてある。
色はコーヒーに近いが、効能は天と地ほど違う。
私は風のように執務机へ接近した。
机の上には、飲みかけの冷たいコーヒー。
私はそれを回収し、代わりに温かいミルクティーを置く。
カップの位置、取っ手の角度まで、ミリ単位で再現して。
回収したコーヒーを持って、再び影の中へ。
(所要時間、3秒)
完璧だ。
誰の目にも留まらない、神速のすり替え。
元・ブラック企業の社畜事務員を舐めないでほしい。
上司の目を盗んでお菓子を食べる技術で鍛えた隠密スキルは、伊達ではないのだ。
「……あった」
陛下が分厚いファイルを手に戻ってくる。
彼は何も気づかず、椅子に座った。
そして、手元のカップを無造作に持ち上げ、口に運ぶ。
(飲んで……!)
私は祈るような気持ちで見守る。
陛下がカップを傾け、液体を口に含んだ。
ピタリ。
動きが止まる。
「……?」
陛下がカップを二度見した。
「……甘い?」
低い声が漏れる。
苦い泥水を覚悟していた舌に、濃厚なミルクと蜂蜜の甘さが広がったのだから、当然の反応だ。
彼は怪訝そうに眉を寄せたが、カップを置くことはなかった。
むしろ、喉がそれを求めていたかのように、二口、三口と飲み進める。
「……温かい」
彼の強張っていた肩から、力が抜けていく。
ポーションの効果か、あるいは生姜の効能か。
青白かった頬に、ほんのりと赤みが差した。
「……また、君か」
陛下がふと、虚空に向かって呟いた。
「妖精さん」
(っ……!)
私はカーテンの陰で、反射的に直立不動になる。
ここ数日、私の差し入れ活動のせいで、陛下の中で「執務室には世話焼きの妖精が住み着いている」という設定が定着しつつある。
彼は誰もいない空間──私のいる方向とは少しズレた窓際──に向かって、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。……苦いのは、もう飽きていたんだ」
その笑顔の破壊力たるや。
徹夜明けの気怠げな色気も相まって、直視すれば網膜が焼けるレベルだ。
私は無言で胸を押さえた。
心拍数が上がりすぎて、スキルの維持が危ない。
「どういたしまして」と言いたい。
「もっと寝てください」と言いたい。
でも言えない。私は壁だから。
陛下はカップを空にすると、ふぅ、と満足げな息を吐いた。
そして、机の引き出しから何かを取り出した。
「……これ、お礼だ」
彼が机の隅に置いたのは、包み紙に入った高級クッキーだった。
どうやら、妖精へのお供え物らしい。
(餌付けされている……!)
私は戦慄した。
皇帝陛下が、見えない同居人に餌付けを試みている。
しかも、そのクッキーは帝都で一番有名なパティスリーの限定品だ。
食べたい。
すごく食べたい。
でも、それを手に取った瞬間、私の存在証明(物理)が確定してしまう。
私が葛藤していると、陛下は再びペンを執った。
しかし、先ほどまでの殺気立った雰囲気はない。
穏やかな、本来の彼らしいリズムで仕事を進めている。
「……不思議だな」
陛下がポツリと呟く。
ペンを走らせながら、独り言のように。
「このミルクティーの味……どこかで覚えがある気がする」
え?
私は思考を停止した。
「母上の味ではない。もっと最近……いや、リリア王国に行った時の……」
心臓が早鐘を打つ。
リリア王国。
その単語が出ただけで、冷や汗が吹き出る。
私が以前、ジェラルド様の屋敷で事務処理をしていた時、よく自分用に淹れていたブレンドだ。
もしかして、それを嗅ぎつけたことがあるのだろうか?
いや、まさか。私はずっと裏方に徹していたはずだ。
「……あの日。夜会の会場で、すれ違った時の香りだ」
陛下の手が止まる。
「名前も知らない、あの令嬢。……栗色の髪の、静かな人」
(バレてる!?)
私は口元を手で覆った。
なぜ覚えている?
あの夜会、私は完璧に気配を消していたはずだ。
陛下とは一度たりとも言葉を交わしていないし、目も合っていない。
「……彼女の周りだけ、空気が澄んでいた。今のこの部屋みたいに」
陛下は遠くを見る目をした。
その瞳には、熱っぽい色が宿っている。
「もし、この妖精が彼女だとしたら……。いや、そんな都合のいい話があるわけがないか」
彼は自嘲気味に笑い、首を振った。
「彼女は今頃、結婚して幸せに暮らしているだろうしな」
ズキリ。
胸が痛んだ。
結婚なんてしていません。
婚約破棄されて、あなたの部屋の壁になっています。
そう叫び出したい衝動を、私は必死で飲み込んだ。
今、正体を明かせばどうなる?
「壁」としての契約違反?
それとも、「ストーカー」として投獄?
どちらにせよ、この平穏な特等席(壁)は失われるだろう。
(……まだ、ダメよ)
私は唇を噛み締めた。
陛下の誤解は解きたい。
でも、まだ心の準備ができていない。
それに、もし正体を知られて「なんだ、地味な女か」と幻滅されるのが、何よりも怖かった。
「……会いたいな」
陛下が、消え入るような声で呟く。
「もう一度、彼女に会えたら……今度こそ、名前を聞けるだろうか」
その切実な響きに、私は何も考えられなくなった。
ただ、胸の奥が熱くて、苦しくて、泣きたくなるような感覚。
これが「尊い」という感情なのか、それとも「恋」なのか。
私にはまだ、判別がつかなかった。
ただ一つ確かなのは。
今日から私が淹れるお茶には、ほんの少しだけ「切なさ」というスパイスが混じってしまうだろうということだけだ。
夜明けが近い。
東の空が白む頃、陛下は机に突っ伏して眠りに落ちた。
寝息を立てるその肩に、私はこっそりとブランケットを掛ける。
そして、机の隅に置かれたクッキーを、一つだけポケットに入れた。
「……いただきます、陛下」
音のない声で、お礼を言う。
これは共犯の証。
いつか、この魔法(誤解)が解けるその日まで、私はあなたの優しい妖精でいよう。
そう決めたはずなのに。
私の指先は、震えて止まらなかった。




