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空気令嬢は王宮の壁になりたい  作者: 秋月 もみじ


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3/10

第3話 どうやら皇帝陛下は、ぬいぐるみの「くま太」にしか本音を話せないようです。


「壁」の仕事は、想像以上に過酷だった。


肉体的な疲労ではない。

ジークフリード様の言った通り、労働環境は最高だ。

執務室は暖かいし、お給料は破格だし、椅子の座り心地も悪くない。


問題なのは、精神的な負荷ダメージだ。


主に、私の「推し」への愛おしさが爆発しそうなのを、無表情の下に押し殺すという負荷である。


          ◇


勤務3日目の午後。

今日のクラウス陛下は、いつにも増して機嫌が悪そうだった。

いや、周囲にはそう見えていただろう。


午前中にあった、隣国の公女殿下との非公式なお茶会。

私は護衛として、部屋の隅の観葉植物になりきって同行していた。


公女殿下は、勇気を出して陛下に話しかけていた。


「へ、陛下。あの……本日のタルトは、季節のベリーを使っておりまして……お口に合いますか?」


頬を染める可憐な公女。

対して、クラウス陛下は能面のような顔で、フォークを止めた。


数秒の沈黙。

室内の気温が、体感で五度くらい下がる。


やがて陛下は、重々しく口を開いた。


「……甘いな」


たった一言。

低い、地を這うようなバリトンボイス。


公女殿下の顔が引きつる。

「甘い」=「私の考えが甘い」「媚びるな」という意味に捉えたのだろう。

彼女は「も、申し訳ありません!」と涙目になり、逃げるように退出してしまった。


その場の空気は凍りつき、侍従たちは震え上がっていた。


けれど、私は見ていた。

陛下がフォークを持つ手が、緊張で微かに震えていたのを。

そして、「甘い」と言った後、耳の先が僅かに赤くなっていたのを。


あれは、ただの食レポだ。

「(とても)甘い(ですね、美味しいです)」と言いたかったのに、緊張のあまり主語と述語と修飾語が全て消滅しただけなのだ。


          ◇


そして現在。

執務室に戻ったクラウス陛下は、全ての人間を追い出し、鍵をかけた。


私はいつもの定位置──カーテンと本棚の隙間──で、呼吸を極限まで浅くして待機する。


ここからが、私の本当の戦いだ。


陛下はふらふらと机に近づくと、いつものように一番下の引き出しを開けた。

そして、茶色いモフモフ──守護熊の「くま太」を取り出す。


ぎゅうううう。


彼は椅子に座ったまま、ぬいぐるみを抱きしめて丸まった。

背中から、哀愁が漂っている。


「……また、やっちゃった……」


消え入りそうな声。

さっきの威圧感はどこへやら、完全に落ち込んだ青年の声だ。


「くま太ぁ……どうして僕は、普通に会話ができないんだろう……」


彼はくま太の手をとり、自分の頬にぺちぺちと当てている。


「『とても美味しいですね、公女殿下』。……うん、心の中では百回練習したんだよ? なのに、口を開くと『甘い』しか出てこないんだ。呪いかな? これは呪いなのかな?」


いいえ、陛下。

それはただの極度のコミュ障です。


私は心の中で即答する。

表情筋が緩みそうになるのを、鋼の意志で食い止める。


「公女殿下、泣いてたよね……。綺麗なドレスだったのに、褒めることもできなかった」


陛下はしょんぼりと肩を落とす。


「本当は、『そのドレスの青色は、あなたの瞳によくお似合いだ』って言いたかったんだ。……ねえ、くま太で練習していい?」


彼はくま太を机の上に座らせ、正対した。

そして、コホンと咳払いをする。


キリッとした表情を作る陛下。

その美貌は、絵画のように完璧だ。

黙っていれば、世界中の女性が恋に落ちるだろう。


彼は優雅に手を差し伸べ、くま太(綿100%)に向かって微笑みかけた。


「……君の毛並みは、最高にモフモフだね」


(そっち!?)


私は思わず吹き出しそうになった。

ドレスの話じゃなかったんですか。

なんで対象がぬいぐるみ仕様に翻訳されているんですか。


危ない。

今、横隔膜が痙攣した。

呼吸が乱れ、スキル『希薄化』の膜が一瞬揺らいだかもしれない。


私は慌てて自分の太ももをつねった。

痛みで笑いを相殺する。

これは任務だ。笑ってはいけない「壁」選手権なのだ。


陛下は自分の発言に気づいていないのか、満足げに頷いている。


「よし、今の笑顔は自然だったはずだ。次はジークで練習しよう。……あいつなら、失敗しても笑って許してくれるし」


彼は再びくま太を抱きしめ、机に突っ伏した。


「はあ……疲れた……。お腹空いたけど、食事の時間まで誰とも会いたくない……」


その言葉に、私はピクリと反応した。


そういえば、陛下は朝からほとんど何も食べていない。

お茶会でも、タルトを一口食べただけで終わってしまった。

昼食の時間も、分厚い予算案の決裁に追われていたはずだ。


先ほどから、彼の顔色が青白いのが気になっていた。

魔力持ちはエネルギー消費が激しい。

特に陛下のような強大な魔力の持ち主が、空腹とストレスを抱えるのは危険だ。

「魔力酔い」を起こして倒れてしまうかもしれない。


(……何か、差し入れをするべき?)


しかし、私は「壁」だ。

姿を見せて「お茶をお持ちしました」などと言えば、彼のプライバシー(くま太タイム)を侵害したことになり、私の首が飛ぶ。

物理的にも、社会的にも。


だが、このまま推しが衰弱していくのを見過ごすわけにはいかない。


私は葛藤した。

職務規定の厳守か、推しの健康か。


その時。

コン、コン。


控えめなノックの音がした。


「陛下、失礼いたします。次期魔導師団長の選任に関する書類をお持ちしました」


侍従の声だ。

クラウス陛下は弾かれたように顔を上げ、慌ててくま太を引き出しに放り込んだ。

鍵をかけ、服の乱れを整え、一瞬で「氷の皇帝」の仮面を被り直す。


「……入れ」


声色は冷徹そのもの。

さっきまでぬいぐるみに「毛並みがいいね」と言っていた人物とは別人のようだ。


侍従が入ってきて、書類を置き、逃げるように去っていく。

その間、陛下はずっと眉間に皺を寄せ、こめかみを押さえていた。


侍従が出て行った後、陛下はガクリと項垂れた。


「……頭痛がする……」


彼は引き出しを開ける気力もないようで、机に突っ伏したまま動かなくなった。

呼吸が浅い。

これは、まずい。


低血糖と、魔力欠乏の初期症状だ。


私は決断した。

ルール違反だとしても、ここで彼を倒れさせるわけにはいかない。


私は音もなく移動を開始した。


幸い、執務室には来客用の給湯スペースが併設されている。

そこは衝立で仕切られており、机からは死角になっている。


私は気配を消したまま、滑るように給湯スペースへ入り込んだ。


手早くポットの湯を確認する。

魔法瓶構造になっているため、まだ熱い。

私はカップを取り出し、棚にあった茶葉──リラックス効果の高いカモミールと、即効性のエネルギー源となるハチミツたっぷりのブレンド──を選んだ。


音を立ててはいけない。

カップとソーサーが触れ合う微かな音すら、この静寂の中では爆音になる。


私は指先に魔力を集中させた。

スキル『希薄化』を、自分自身だけでなく、カップとスプーンにも伝播させる。

存在感を希薄にすれば、物理的な干渉音もまた、認識されにくい「ノイズ」として処理されるはずだ。


カチャ……。


極小の音。

陛下の耳には届いていない。


熱いお茶が出来上がった。

湯気とともに、甘い香りが漂う。


(ここからが本番よ)


私はトレイを持ち、執務机へと近づく。

陛下は突っ伏したままだ。


距離、あと3メートル。

2メートル。

1メートル。


私は息を止める。

彼の視界の端、書類の山の陰に、そっとカップを置く。


そして、即座に離脱。

風のように、影のように。


私は定位置のカーテンの陰へ戻り、再び石像と化した。

タイム、5秒。

完璧だ。


しばらくして。

漂ってきた甘い香りに、クラウス陛下が鼻をひくつかせた。


「……ん?」


彼はのろのろと顔を上げた。

そして、目の前に置かれた湯気の立つカップに気づき、目を丸くした。


「……お茶?」


彼はキョロキョロと周囲を見回した。

当然、誰もいない。

扉には鍵がかかっているし、侍従が入ってきた形跡もない。


「誰が……?」


警戒するようにカップを覗き込む。

毒見もしていないものを口にするのは、皇帝としてあるまじき行為だ。

普通なら警備兵を呼ぶところだろう。


しかし、彼はその香りに誘われるように、カップを手に取った。


「……僕の好きな、蜂蜜入りだ」


彼は躊躇いつつ、一口啜った。


温かい液体が喉を通り、空っぽの胃に染み渡っていくのが、見ていて分かった。

強張っていた彼の肩から、力が抜けていく。


「……美味しい」


彼はほう、と白い息を吐いた。

冷え切っていた顔色に、少しだけ血色が戻る。


「不思議だ……」


彼はカップを両手で包み込みながら、虚空を見つめて呟いた。


「誰もいないはずなのに、誰かがいたような気がする。……しかも、とても優しい気配が」


ドキリ、とした。

私の心臓が大きく跳ねる。


「……君なの? くま太の友達の、妖精さん?」


(よ、妖精……!?)


陛下は真剣な顔で、部屋の空気に話しかけている。


「ありがとう。……すごく、助かったよ」


彼は、誰もいない空間に向かって──正確には、私が隠れているカーテンの方角に向かって、ふわりと微笑んだ。


その笑顔は。

作り物ではない、心からの感謝に満ちた、とろけるような笑顔だった。


ズキューン。


私の胸の奥で、何かが撃ち抜かれる音がした。

尊い。

あまりにも尊い。

この笑顔を守るためなら、私は一生、壁でも妖精でも座敷わらしでもなってやる。


私は自分の頬が熱くなるのを感じながら、心の中でガッツポーズをした。


これより、私の任務に新たな項目を追加する。

『皇帝陛下の安眠』に加え、『皇帝陛下の健康管理』。

これを、極秘裏に(誰にもバレずに)遂行する。


それが、私の新しい「推し活」だ。

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