第3話 どうやら皇帝陛下は、ぬいぐるみの「くま太」にしか本音を話せないようです。
「壁」の仕事は、想像以上に過酷だった。
肉体的な疲労ではない。
ジークフリード様の言った通り、労働環境は最高だ。
執務室は暖かいし、お給料は破格だし、椅子の座り心地も悪くない。
問題なのは、精神的な負荷だ。
主に、私の「推し」への愛おしさが爆発しそうなのを、無表情の下に押し殺すという負荷である。
◇
勤務3日目の午後。
今日のクラウス陛下は、いつにも増して機嫌が悪そうだった。
いや、周囲にはそう見えていただろう。
午前中にあった、隣国の公女殿下との非公式なお茶会。
私は護衛として、部屋の隅の観葉植物になりきって同行していた。
公女殿下は、勇気を出して陛下に話しかけていた。
「へ、陛下。あの……本日のタルトは、季節のベリーを使っておりまして……お口に合いますか?」
頬を染める可憐な公女。
対して、クラウス陛下は能面のような顔で、フォークを止めた。
数秒の沈黙。
室内の気温が、体感で五度くらい下がる。
やがて陛下は、重々しく口を開いた。
「……甘いな」
たった一言。
低い、地を這うようなバリトンボイス。
公女殿下の顔が引きつる。
「甘い」=「私の考えが甘い」「媚びるな」という意味に捉えたのだろう。
彼女は「も、申し訳ありません!」と涙目になり、逃げるように退出してしまった。
その場の空気は凍りつき、侍従たちは震え上がっていた。
けれど、私は見ていた。
陛下がフォークを持つ手が、緊張で微かに震えていたのを。
そして、「甘い」と言った後、耳の先が僅かに赤くなっていたのを。
あれは、ただの食レポだ。
「(とても)甘い(ですね、美味しいです)」と言いたかったのに、緊張のあまり主語と述語と修飾語が全て消滅しただけなのだ。
◇
そして現在。
執務室に戻ったクラウス陛下は、全ての人間を追い出し、鍵をかけた。
私はいつもの定位置──カーテンと本棚の隙間──で、呼吸を極限まで浅くして待機する。
ここからが、私の本当の戦いだ。
陛下はふらふらと机に近づくと、いつものように一番下の引き出しを開けた。
そして、茶色いモフモフ──守護熊の「くま太」を取り出す。
ぎゅうううう。
彼は椅子に座ったまま、ぬいぐるみを抱きしめて丸まった。
背中から、哀愁が漂っている。
「……また、やっちゃった……」
消え入りそうな声。
さっきの威圧感はどこへやら、完全に落ち込んだ青年の声だ。
「くま太ぁ……どうして僕は、普通に会話ができないんだろう……」
彼はくま太の手をとり、自分の頬にぺちぺちと当てている。
「『とても美味しいですね、公女殿下』。……うん、心の中では百回練習したんだよ? なのに、口を開くと『甘い』しか出てこないんだ。呪いかな? これは呪いなのかな?」
いいえ、陛下。
それはただの極度のコミュ障です。
私は心の中で即答する。
表情筋が緩みそうになるのを、鋼の意志で食い止める。
「公女殿下、泣いてたよね……。綺麗なドレスだったのに、褒めることもできなかった」
陛下はしょんぼりと肩を落とす。
「本当は、『そのドレスの青色は、あなたの瞳によくお似合いだ』って言いたかったんだ。……ねえ、くま太で練習していい?」
彼はくま太を机の上に座らせ、正対した。
そして、コホンと咳払いをする。
キリッとした表情を作る陛下。
その美貌は、絵画のように完璧だ。
黙っていれば、世界中の女性が恋に落ちるだろう。
彼は優雅に手を差し伸べ、くま太(綿100%)に向かって微笑みかけた。
「……君の毛並みは、最高にモフモフだね」
(そっち!?)
私は思わず吹き出しそうになった。
ドレスの話じゃなかったんですか。
なんで対象がぬいぐるみ仕様に翻訳されているんですか。
危ない。
今、横隔膜が痙攣した。
呼吸が乱れ、スキル『希薄化』の膜が一瞬揺らいだかもしれない。
私は慌てて自分の太ももをつねった。
痛みで笑いを相殺する。
これは任務だ。笑ってはいけない「壁」選手権なのだ。
陛下は自分の発言に気づいていないのか、満足げに頷いている。
「よし、今の笑顔は自然だったはずだ。次はジークで練習しよう。……あいつなら、失敗しても笑って許してくれるし」
彼は再びくま太を抱きしめ、机に突っ伏した。
「はあ……疲れた……。お腹空いたけど、食事の時間まで誰とも会いたくない……」
その言葉に、私はピクリと反応した。
そういえば、陛下は朝からほとんど何も食べていない。
お茶会でも、タルトを一口食べただけで終わってしまった。
昼食の時間も、分厚い予算案の決裁に追われていたはずだ。
先ほどから、彼の顔色が青白いのが気になっていた。
魔力持ちはエネルギー消費が激しい。
特に陛下のような強大な魔力の持ち主が、空腹とストレスを抱えるのは危険だ。
「魔力酔い」を起こして倒れてしまうかもしれない。
(……何か、差し入れをするべき?)
しかし、私は「壁」だ。
姿を見せて「お茶をお持ちしました」などと言えば、彼のプライバシー(くま太タイム)を侵害したことになり、私の首が飛ぶ。
物理的にも、社会的にも。
だが、このまま推しが衰弱していくのを見過ごすわけにはいかない。
私は葛藤した。
職務規定の厳守か、推しの健康か。
その時。
コン、コン。
控えめなノックの音がした。
「陛下、失礼いたします。次期魔導師団長の選任に関する書類をお持ちしました」
侍従の声だ。
クラウス陛下は弾かれたように顔を上げ、慌ててくま太を引き出しに放り込んだ。
鍵をかけ、服の乱れを整え、一瞬で「氷の皇帝」の仮面を被り直す。
「……入れ」
声色は冷徹そのもの。
さっきまでぬいぐるみに「毛並みがいいね」と言っていた人物とは別人のようだ。
侍従が入ってきて、書類を置き、逃げるように去っていく。
その間、陛下はずっと眉間に皺を寄せ、こめかみを押さえていた。
侍従が出て行った後、陛下はガクリと項垂れた。
「……頭痛がする……」
彼は引き出しを開ける気力もないようで、机に突っ伏したまま動かなくなった。
呼吸が浅い。
これは、まずい。
低血糖と、魔力欠乏の初期症状だ。
私は決断した。
ルール違反だとしても、ここで彼を倒れさせるわけにはいかない。
私は音もなく移動を開始した。
幸い、執務室には来客用の給湯スペースが併設されている。
そこは衝立で仕切られており、机からは死角になっている。
私は気配を消したまま、滑るように給湯スペースへ入り込んだ。
手早くポットの湯を確認する。
魔法瓶構造になっているため、まだ熱い。
私はカップを取り出し、棚にあった茶葉──リラックス効果の高いカモミールと、即効性のエネルギー源となるハチミツたっぷりのブレンド──を選んだ。
音を立ててはいけない。
カップとソーサーが触れ合う微かな音すら、この静寂の中では爆音になる。
私は指先に魔力を集中させた。
スキル『希薄化』を、自分自身だけでなく、カップとスプーンにも伝播させる。
存在感を希薄にすれば、物理的な干渉音もまた、認識されにくい「ノイズ」として処理されるはずだ。
カチャ……。
極小の音。
陛下の耳には届いていない。
熱いお茶が出来上がった。
湯気とともに、甘い香りが漂う。
(ここからが本番よ)
私はトレイを持ち、執務机へと近づく。
陛下は突っ伏したままだ。
距離、あと3メートル。
2メートル。
1メートル。
私は息を止める。
彼の視界の端、書類の山の陰に、そっとカップを置く。
そして、即座に離脱。
風のように、影のように。
私は定位置のカーテンの陰へ戻り、再び石像と化した。
タイム、5秒。
完璧だ。
しばらくして。
漂ってきた甘い香りに、クラウス陛下が鼻をひくつかせた。
「……ん?」
彼はのろのろと顔を上げた。
そして、目の前に置かれた湯気の立つカップに気づき、目を丸くした。
「……お茶?」
彼はキョロキョロと周囲を見回した。
当然、誰もいない。
扉には鍵がかかっているし、侍従が入ってきた形跡もない。
「誰が……?」
警戒するようにカップを覗き込む。
毒見もしていないものを口にするのは、皇帝としてあるまじき行為だ。
普通なら警備兵を呼ぶところだろう。
しかし、彼はその香りに誘われるように、カップを手に取った。
「……僕の好きな、蜂蜜入りだ」
彼は躊躇いつつ、一口啜った。
温かい液体が喉を通り、空っぽの胃に染み渡っていくのが、見ていて分かった。
強張っていた彼の肩から、力が抜けていく。
「……美味しい」
彼はほう、と白い息を吐いた。
冷え切っていた顔色に、少しだけ血色が戻る。
「不思議だ……」
彼はカップを両手で包み込みながら、虚空を見つめて呟いた。
「誰もいないはずなのに、誰かがいたような気がする。……しかも、とても優しい気配が」
ドキリ、とした。
私の心臓が大きく跳ねる。
「……君なの? くま太の友達の、妖精さん?」
(よ、妖精……!?)
陛下は真剣な顔で、部屋の空気に話しかけている。
「ありがとう。……すごく、助かったよ」
彼は、誰もいない空間に向かって──正確には、私が隠れているカーテンの方角に向かって、ふわりと微笑んだ。
その笑顔は。
作り物ではない、心からの感謝に満ちた、とろけるような笑顔だった。
ズキューン。
私の胸の奥で、何かが撃ち抜かれる音がした。
尊い。
あまりにも尊い。
この笑顔を守るためなら、私は一生、壁でも妖精でも座敷わらしでもなってやる。
私は自分の頬が熱くなるのを感じながら、心の中でガッツポーズをした。
これより、私の任務に新たな項目を追加する。
『皇帝陛下の安眠』に加え、『皇帝陛下の健康管理』。
これを、極秘裏に(誰にもバレずに)遂行する。
それが、私の新しい「推し活」だ。




