第2話 氷の皇帝陛下の執務室。初任務は「微動だにせず気配を消すこと」でした。
ヴァルドラ帝国の冬は、暴力的なまでに白い。
馬車の窓から見えたのは、視界を埋め尽くす吹雪と、針のように尖った黒い森だけだった。
リリア王国で生まれ育った私にとって、この景色は死の世界に等しい。
けれど、一歩城内に足を踏み入れれば、そこは別世界だった。
「──暖かい」
私は思わず呟いていた。
分厚い石造りの回廊は、ほのかな温もりに包まれている。
壁に埋め込まれた魔導鉱石が熱を発し、城全体を巨大な暖房器具のように温めているのだという。
「気に入っていただけたかな? 我が国の自慢の空調システムだ」
前を歩く宰相ジークフリード様が、愉快そうに振り返った。
彼は王国の夜会で着ていた燕尾服ではなく、今はきっちりとした軍服に身を包んでいる。
ただし、片目のモノクルと、人を食ったような笑みは変わらない。
「はい。これなら末端冷え性の私でも生存できそうです」
「それは重畳。……さて、ここが君の更衣室だ。着替えたら執務室へ」
通された小部屋には、一着のドレスが用意されていた。
濃紺の生地に、銀色の糸で控えめな刺繍が施されたハイネックのロングドレス。
装飾は最低限で、靴音を消すための特殊なソールのブーツもセットになっている。
侍女服のようでありながら、どこか軍服の機能美を感じさせるデザインだ。
私は袖を通し、鏡の前に立つ。
(……地味ね)
素晴らしいほどに、地味だ。
闇に溶け込み、風景の一部となるための色。
私が求めていた「目立たない服」そのものである。
私は髪をきつく編み込み直し、気合を入れた。
今日から私は人間ではない。
王宮の「壁」だ。
◇
「いいかい、ミナ嬢。君の任務はシンプルだ」
執務室の重厚な扉の前で、ジークフリード様が声を潜める。
「中に立ち、気配を消すこと。陛下が誰と会い、何を話しても、決して反応してはならない。咳払い一つ、衣擦れの音一つも厳禁だ」
「承知いたしました」
「ただし──陛下に命の危険が迫った時だけは、その『不可視』を利用して盾となり、敵を排除しろ。君には護身用の短剣も持たせてある」
私はスカートの裏に隠されたホルスターの感触を確かめ、頷く。
事務員上がりだと思われているようだが、護身術は一通り嗜んでいる。
目立たないように生きるには、自分の身を守る術が必須だったからだ。
「では、行こう」
ジークフリード様が扉を開ける。
広い。
それが第一印象だった。
高い天井、床一面に敷き詰められた深紅の絨毯。
壁一面の本棚には、分厚い書物が整然と並んでいる。
部屋の奥、巨大な窓を背にして、黒檀の執務机が鎮座していた。
今はまだ無人だ。
「君の定位置はあそこだ」
彼が指差したのは、執務机の斜め後方。
窓際にある厚手のカーテンと、観葉植物の隙間。
死角でありながら、室内全体を見渡せる絶妙なポジションだ。
私は音もなくそこへ移動し、呼吸を整える。
(──『希薄化』、展開)
意識のスイッチを切り替える。
私の輪郭が曖昧になり、存在感が室内の空気と同化していく。
ジークフリード様が、満足げに片眉を上げた。
「……見事だ。目の前にいると分かっているのに、意識を逸らすと見失いそうになる」
「お褒めにあずかり光栄です」
「では、健闘を祈るよ。陛下はもうすぐ戻られる」
彼はニヤリと笑い、部屋を出て行った。
重い扉が閉まる。
完全な静寂が訪れた。
時計の針の音だけが、チクタクと響いている。
私は石像のように静止した。
瞬きの回数すら減らし、心拍数を落とす。
待つこと十分。
廊下から、カツ、カツ、と硬質な足音が近づいてきた。
一つではない。複数の、慌ただしい足音だ。
ガチャリ。
扉が開かれる。
「──ですから陛下! 北部国境の魔物討伐予算ですが、これ以上の削減は現場が持ちません!」
「却下だ。先月の討伐数と被害状況を見る限り、現行の戦力で十分に対処可能だ。お前たちの指揮系統を見直せ」
低い、凍えるような声が響いた。
入ってきたのは、数名の将軍たち。
そして、その中心にいる一人の青年。
(……あの方が)
息を呑みそうになるのを、意志の力で抑え込む。
銀色の髪が、窓から差し込む冬の光を反射して輝いている。
陶器のように白い肌。
氷河の色を映したような、冷たく鋭い蒼色の瞳。
噂に違わぬ、絶世の美青年だった。
そして、噂以上に、恐ろしい。
彼が纏う空気は鋭利な刃物のようだ。
眉間には深い皺が刻まれ、近づく者すべてを拒絶している。
彼こそがヴァルドラ帝国皇帝、クラウス・フォン・ヴァルドラ。
彼は私の存在になど微塵も気づかず、机の前に座った。
いや、彼だけではない。
後を追ってきた将軍たちも、誰一人として部屋の隅にいる私に視線を向けない。
私のスキルは、この高レベルな空間でも通用している。
「しかし、兵の士気が……」
「士気で魔物が倒せるなら苦労はない。必要なのは精神論ではなく、効率的な魔導兵器の運用だ。……下がれ。次の会議までに再案を出せ」
クラウス陛下は書類に視線を落としたまま、冷淡に言い放った。
取り付く島もないとはこのことだ。
将軍たちは悔しげに顔を歪めながらも、皇帝の威圧感に押され、逃げるように退室していく。
バタン。
再び、扉が閉ざされた。
部屋には、皇帝陛下と、空気になった私だけ。
(怖い……)
私は背筋が凍る思いだった。
リリア王国の貴族たちとは格が違う。
これが覇王の風格というものか。
あんな風に睨まれたら、私なら一秒で胃に穴が開く自信がある。
やはり、このまま一生「壁」として過ごそう。
間違っても正体を明かしたり、お茶を勧めたりしてはいけない。
彼の視界に入ることこそが、最大の死亡フラグだ。
クラウス陛下は、しばらく無言で書類にペンを走らせていた。
カリ、カリ、とペン先が紙を引っ掻く音だけが響く。
完璧な静寂。
完璧な執務風景。
冷徹な独裁者は、一人になっても隙を見せない。
そう、思っていた。
「…………」
不意に、ペンの音が止まる。
カタン。
ペンが机に置かれた。
次の瞬間。
クラウス陛下が、ガタリと椅子を引いたかと思うと──
「…………あ゛ぁーーーー…………」
ドサッ!!
大きな音を立てて、机の上に突っ伏した。
(……はい?)
私は我が目を疑った。
さっきまでの氷の彫刻のような姿勢はどこへやら。
彼は机の上に上半身を投げ出し、長い銀髪をくしゃくしゃにかき回している。
「……無理。もう無理……帰りたい……」
うめき声のような独り言が聞こえてきた。
え?
今、帰りたいって言いました?
ここ、あなたの家(城)ですよね?
「……頭痛い……将軍たち声でかい……怖いよぉ……」
(こ、怖い!?)
耳を疑う。
「氷の皇帝」が?
百戦錬磨の将軍たちを「怖い」と?
私の混乱をよそに、陛下は机に顔を埋めたまま、芋虫のようにのたうち回っている。
「どうして皆、あんなに怒ってるの……僕、何か悪いことした? 予算配分、ちゃんと計算したのに……正論言っただけなのに……」
声が震えている。
さっきの冷徹な命令口調とは似ても似つかない、情けない声。
(もしかして……この方、すごいコミュ障?)
私の観察眼が、急速に情報を修正していく。
眉間の皺は、威圧ではなく緊張の証。
冷たい視線は、視力の悪さと人見知りの裏返し。
早口で冷淡な命令は、長く話すとボロが出るのを恐れてのこと。
彼は、ふらふらと顔を上げた。
その瞳は少し潤んでいて、目の下にはくっきりとした隈がある。
「癒やし……癒やしがないと死んじゃう……」
彼は震える手で、机の一番下の引き出しに手をかけた。
そこは、重要機密書類が入っているはずの厳重な鍵付きの引き出しだ。
彼は懐から鍵を取り出し、カチャリと開錠する。
中から出てくるのは、国の運命を左右する機密か、それとも禁断の魔道具か。
私は固唾を呑んで見守った。
彼が両手で恭しく取り出したのは──
茶色くて、つぶらな瞳をした、モフモフの熊のぬいぐるみだった。
「……くま太ぁ……」
クラウス陛下は、そのぬいぐるみに顔をうずめ、深々と息を吸い込んだ。
まるで、砂漠で水を求める旅人のように。
「んー……よし、充電……」
スリスリと頬ずりをする。
銀髪の美青年と、少し草臥れた熊のぬいぐるみ。
あまりにもシュールで、そして破壊力抜群の光景。
(……尊い)
私の思考回路がショートした。
怖いと思っていた独裁者が、実は激務に耐えるためにぬいぐるみを吸っている。
そのギャップが、私の「推し活」センサーを激しく揺さぶった。
笑ってはいけない。
驚いてはいけない。
私は壁だ。壁は萌えない。
必死で無表情を保つ私の前で、彼はぬいぐるみに向かって話しかけ始めた。
「聞いてよくま太。今日のジーク、また仕事を増やしたんだよ。鬼だと思わない? 僕はただ、静かに眠りたいだけなのに……」
彼は愚痴り始めた。
完全に、部屋に誰もいないと信じ切っている無防備な姿。
私がここにいると知ったら、彼はどうなるだろう。
羞恥で死ぬかもしれない。
あるいは、口封じに私が消されるかもしれない。
(絶対に、気配を消し続けなければ……!)
私は決意を新たにした。
この秘密は、墓場まで持っていく。
そして、この愛すべき不器用な皇帝陛下の安眠を、影から全力で守り抜こうと。
そう誓った、その時だった。
「……ん?」
クラウス陛下が、ふと顔を上げた。
ぬいぐるみを抱きしめたまま、キョロキョロと周囲を見回す。
「……なんだろう。今日は、なんだか空気が……静かだ」
彼は不思議そうに首を傾げた。
「いつもなら、誰もいなくても視線を感じて落ち着かないのに……今日は、すごく落ち着く。まるで、森の中にいるみたいだ」
彼の視線が、私のいる方向へ流れる。
目は合わない。
けれど、彼は心地よさそうに目を細めた。
「……気のせいか。でも、悪くない気分だ」
彼は再び、くま太に頬を寄せた。
その表情は、先ほどまでの苦悶が嘘のように穏やかだった。
私は、息をするのも忘れて見惚れてしまった。
その無防備な寝顔のような表情を、特等席で見ている自分に気づいて。
これは、思った以上に天職かもしれない。
私の心臓が、仕事とは別の意味で、トクンと跳ねた。




