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空気令嬢は王宮の壁になりたい  作者: 秋月 もみじ


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2/10

第2話 氷の皇帝陛下の執務室。初任務は「微動だにせず気配を消すこと」でした。


ヴァルドラ帝国の冬は、暴力的なまでに白い。


馬車の窓から見えたのは、視界を埋め尽くす吹雪と、針のように尖った黒い森だけだった。

リリア王国で生まれ育った私にとって、この景色は死の世界に等しい。


けれど、一歩城内に足を踏み入れれば、そこは別世界だった。


「──暖かい」


私は思わず呟いていた。

分厚い石造りの回廊は、ほのかな温もりに包まれている。

壁に埋め込まれた魔導鉱石が熱を発し、城全体を巨大な暖房器具のように温めているのだという。


「気に入っていただけたかな? 我が国の自慢の空調システムだ」


前を歩く宰相ジークフリード様が、愉快そうに振り返った。

彼は王国の夜会で着ていた燕尾服ではなく、今はきっちりとした軍服に身を包んでいる。

ただし、片目のモノクルと、人を食ったような笑みは変わらない。


「はい。これなら末端冷え性の私でも生存できそうです」

「それは重畳。……さて、ここが君の更衣室だ。着替えたら執務室へ」


通された小部屋には、一着のドレスが用意されていた。


濃紺の生地に、銀色の糸で控えめな刺繍が施されたハイネックのロングドレス。

装飾は最低限で、靴音を消すための特殊なソールのブーツもセットになっている。

侍女服のようでありながら、どこか軍服の機能美を感じさせるデザインだ。


私は袖を通し、鏡の前に立つ。


(……地味ね)


素晴らしいほどに、地味だ。

闇に溶け込み、風景の一部となるための色。

私が求めていた「目立たない服」そのものである。


私は髪をきつく編み込み直し、気合を入れた。

今日から私は人間ではない。

王宮の「壁」だ。


          ◇


「いいかい、ミナ嬢。君の任務はシンプルだ」


執務室の重厚な扉の前で、ジークフリード様が声を潜める。


「中に立ち、気配を消すこと。陛下が誰と会い、何を話しても、決して反応してはならない。咳払い一つ、衣擦れの音一つも厳禁だ」

「承知いたしました」

「ただし──陛下に命の危険が迫った時だけは、その『不可視』を利用して盾となり、敵を排除しろ。君には護身用の短剣も持たせてある」


私はスカートの裏に隠されたホルスターの感触を確かめ、頷く。

事務員上がりだと思われているようだが、護身術は一通り嗜んでいる。

目立たないように生きるには、自分の身を守る術が必須だったからだ。


「では、行こう」


ジークフリード様が扉を開ける。


広い。

それが第一印象だった。


高い天井、床一面に敷き詰められた深紅の絨毯。

壁一面の本棚には、分厚い書物が整然と並んでいる。

部屋の奥、巨大な窓を背にして、黒檀の執務机が鎮座していた。


今はまだ無人だ。


「君の定位置はあそこだ」


彼が指差したのは、執務机の斜め後方。

窓際にある厚手のカーテンと、観葉植物の隙間。

死角でありながら、室内全体を見渡せる絶妙なポジションだ。


私は音もなくそこへ移動し、呼吸を整える。


(──『希薄化』、展開)


意識のスイッチを切り替える。

私の輪郭が曖昧になり、存在感が室内の空気と同化していく。

ジークフリード様が、満足げに片眉を上げた。


「……見事だ。目の前にいると分かっているのに、意識を逸らすと見失いそうになる」

「お褒めにあずかり光栄です」

「では、健闘を祈るよ。陛下はもうすぐ戻られる」


彼はニヤリと笑い、部屋を出て行った。

重い扉が閉まる。


完全な静寂が訪れた。

時計の針の音だけが、チクタクと響いている。


私は石像のように静止した。

瞬きの回数すら減らし、心拍数を落とす。


待つこと十分。

廊下から、カツ、カツ、と硬質な足音が近づいてきた。

一つではない。複数の、慌ただしい足音だ。


ガチャリ。

扉が開かれる。


「──ですから陛下! 北部国境の魔物討伐予算ですが、これ以上の削減は現場が持ちません!」

「却下だ。先月の討伐数と被害状況を見る限り、現行の戦力で十分に対処可能だ。お前たちの指揮系統を見直せ」


低い、凍えるような声が響いた。


入ってきたのは、数名の将軍たち。

そして、その中心にいる一人の青年。


(……あの方が)


息を呑みそうになるのを、意志の力で抑え込む。


銀色の髪が、窓から差し込む冬の光を反射して輝いている。

陶器のように白い肌。

氷河の色を映したような、冷たく鋭い蒼色の瞳。


噂に違わぬ、絶世の美青年だった。

そして、噂以上に、恐ろしい。


彼が纏う空気は鋭利な刃物のようだ。

眉間には深い皺が刻まれ、近づく者すべてを拒絶している。


彼こそがヴァルドラ帝国皇帝、クラウス・フォン・ヴァルドラ。


彼は私の存在になど微塵も気づかず、机の前に座った。

いや、彼だけではない。

後を追ってきた将軍たちも、誰一人として部屋の隅にいる私に視線を向けない。

私のスキルは、この高レベルな空間でも通用している。


「しかし、兵の士気が……」

「士気で魔物が倒せるなら苦労はない。必要なのは精神論ではなく、効率的な魔導兵器の運用だ。……下がれ。次の会議までに再案を出せ」


クラウス陛下は書類に視線を落としたまま、冷淡に言い放った。

取り付く島もないとはこのことだ。

将軍たちは悔しげに顔を歪めながらも、皇帝の威圧感に押され、逃げるように退室していく。


バタン。

再び、扉が閉ざされた。


部屋には、皇帝陛下と、空気になった私だけ。


(怖い……)


私は背筋が凍る思いだった。

リリア王国の貴族たちとは格が違う。

これが覇王の風格というものか。

あんな風に睨まれたら、私なら一秒で胃に穴が開く自信がある。


やはり、このまま一生「壁」として過ごそう。

間違っても正体を明かしたり、お茶を勧めたりしてはいけない。

彼の視界に入ることこそが、最大の死亡フラグだ。


クラウス陛下は、しばらく無言で書類にペンを走らせていた。

カリ、カリ、とペン先が紙を引っ掻く音だけが響く。


完璧な静寂。

完璧な執務風景。

冷徹な独裁者は、一人になっても隙を見せない。


そう、思っていた。


「…………」


不意に、ペンの音が止まる。


カタン。

ペンが机に置かれた。


次の瞬間。

クラウス陛下が、ガタリと椅子を引いたかと思うと──


「…………あ゛ぁーーーー…………」


ドサッ!!


大きな音を立てて、机の上に突っ伏した。


(……はい?)


私は我が目を疑った。

さっきまでの氷の彫刻のような姿勢はどこへやら。

彼は机の上に上半身を投げ出し、長い銀髪をくしゃくしゃにかき回している。


「……無理。もう無理……帰りたい……」


うめき声のような独り言が聞こえてきた。


え?

今、帰りたいって言いました?

ここ、あなたの家(城)ですよね?


「……頭痛い……将軍たち声でかい……怖いよぉ……」


(こ、怖い!?)


耳を疑う。

「氷の皇帝」が?

百戦錬磨の将軍たちを「怖い」と?


私の混乱をよそに、陛下は机に顔を埋めたまま、芋虫のようにのたうち回っている。


「どうして皆、あんなに怒ってるの……僕、何か悪いことした? 予算配分、ちゃんと計算したのに……正論言っただけなのに……」


声が震えている。

さっきの冷徹な命令口調とは似ても似つかない、情けない声。


(もしかして……この方、すごいコミュ障?)


私の観察眼が、急速に情報を修正していく。

眉間の皺は、威圧ではなく緊張の証。

冷たい視線は、視力の悪さと人見知りの裏返し。

早口で冷淡な命令は、長く話すとボロが出るのを恐れてのこと。


彼は、ふらふらと顔を上げた。

その瞳は少し潤んでいて、目の下にはくっきりとした隈がある。


「癒やし……癒やしがないと死んじゃう……」


彼は震える手で、机の一番下の引き出しに手をかけた。

そこは、重要機密書類が入っているはずの厳重な鍵付きの引き出しだ。


彼は懐から鍵を取り出し、カチャリと開錠する。

中から出てくるのは、国の運命を左右する機密か、それとも禁断の魔道具か。


私は固唾を呑んで見守った。


彼が両手で恭しく取り出したのは──


茶色くて、つぶらな瞳をした、モフモフの熊のぬいぐるみだった。


「……くま太ぁ……」


クラウス陛下は、そのぬいぐるみに顔をうずめ、深々と息を吸い込んだ。

まるで、砂漠で水を求める旅人のように。


「んー……よし、充電……」


スリスリと頬ずりをする。

銀髪の美青年と、少し草臥れた熊のぬいぐるみ。

あまりにもシュールで、そして破壊力抜群の光景。


(……尊い)


私の思考回路がショートした。

怖いと思っていた独裁者が、実は激務に耐えるためにぬいぐるみを吸っている。

そのギャップが、私の「推し活」センサーを激しく揺さぶった。


笑ってはいけない。

驚いてはいけない。

私は壁だ。壁は萌えない。


必死で無表情を保つ私の前で、彼はぬいぐるみに向かって話しかけ始めた。


「聞いてよくま太。今日のジーク、また仕事を増やしたんだよ。鬼だと思わない? 僕はただ、静かに眠りたいだけなのに……」


彼は愚痴り始めた。

完全に、部屋に誰もいないと信じ切っている無防備な姿。


私がここにいると知ったら、彼はどうなるだろう。

羞恥で死ぬかもしれない。

あるいは、口封じに私が消されるかもしれない。


(絶対に、気配を消し続けなければ……!)


私は決意を新たにした。

この秘密は、墓場まで持っていく。

そして、この愛すべき不器用な皇帝陛下の安眠を、影から全力で守り抜こうと。


そう誓った、その時だった。


「……ん?」


クラウス陛下が、ふと顔を上げた。

ぬいぐるみを抱きしめたまま、キョロキョロと周囲を見回す。


「……なんだろう。今日は、なんだか空気が……静かだ」


彼は不思議そうに首を傾げた。


「いつもなら、誰もいなくても視線を感じて落ち着かないのに……今日は、すごく落ち着く。まるで、森の中にいるみたいだ」


彼の視線が、私のいる方向へ流れる。

目は合わない。

けれど、彼は心地よさそうに目を細めた。


「……気のせいか。でも、悪くない気分だ」


彼は再び、くま太に頬を寄せた。

その表情は、先ほどまでの苦悶が嘘のように穏やかだった。


私は、息をするのも忘れて見惚れてしまった。

その無防備な寝顔のような表情を、特等席で見ている自分に気づいて。


これは、思った以上に天職かもしれない。

私の心臓が、仕事とは別の意味で、トクンと跳ねた。

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