第10話 空気と言われた令嬢は、氷の皇帝を溶かす唯一の陽だまりになりました。
「……信じられない」
私は鏡の前で、呆然と呟いた。
そこに映っているのは、純白のウェディングドレスを纏った女性。
レースとシルクをふんだんに使い、銀糸で繊細な刺繍が施された、帝国の最高技術の結晶。
頭には、重厚なティアラと長いベール。
誰が見ても、完璧な「皇妃」の姿だ。
「似合っているよ、ミナ」
背後から、ジークフリード様が声をかけた。
彼は今日、私の父代わりとしてバージンロードを歩く役目を務めてくれる。
(実家の父には招待状を送ったが、「畏れ多い」と辞退し、代わりに山のような祝いの品が届いた。彼らなりに、娘の幸せを遠くから願ってくれているらしい)
「本当に、私でいいのでしょうか。……こんなに目立ってしまって」
私はドレスの裾を握りしめた。
かつて、カーテンの裏や壁際に隠れるのが一番落ち着くと感じていた私だ。
それが、国中の視線を集める主役になるなんて。
「まだそんなことを言っているのかい?」
ジークフリード様は苦笑し、私の手を取った。
「君はもう『空気』じゃない。……この国の皇帝を人間に戻してくれた、唯一の『陽だまり』だ。自信を持ちなさい」
陽だまり。
その言葉に、胸が温かくなる。
私は、数日前の夜のことを思い出した。
あの、不器用で最高に愛おしいプロポーズのことを。
◇
それは、いつもの執務室でのことだった。
舞踏会から半年。
私は「特別補佐官」として、クラウス様の公務を支え続けていた。
もちろん、お茶淹れとメンタルケアが主な仕事だ。
その夜、クラウス様は珍しく「くま太」を引き出しにしまったままだった。
そして、執務机の前ではなく、窓際のソファに私を座らせた。
「……ミナ」
彼の顔は真剣そのもので、耳まで真っ赤だった。
膝の上で拳を握りしめている。
緊張しているのが、空気だけで伝わってくる。
「はい、クラウス様」
「……僕は、口下手だ。気の利いた言葉も言えないし、君を怒らせることもあるかもしれない」
彼は一つ一つ、言葉を選びながら紡いだ。
「君は『地味で目立たないのが好き』だと言ったね。……僕との結婚は、その願いを叶えてあげられないかもしれない。皇妃になれば、注目されるし、責任も重い」
「……ええ、そうですね」
「だから、迷ったんだ。君を僕の世界に縛り付けていいのかって」
彼は顔を上げ、私をまっすぐに見つめた。
その蒼い瞳は、揺るぎない光を宿していた。
「でも、ダメだった。……君がいないと、世界が静かすぎて寂しいんだ」
ドクン。
心臓が跳ねた。
「君が淹れてくれるお茶じゃないと、味がしない。君が隣にいないと、眠れない。……君が笑ってくれないと、僕はまた『氷の皇帝』に戻ってしまう」
彼は跪き、私の手を取った。
震える手で、小さな箱を取り出す。
中には、私の瞳と同じ色をした、大粒の琥珀の指輪。
「ぬいぐるみ(くま太)に頼るのは、もうやめる。……これからは、君だけに弱音を吐いて、君だけを抱きしめたい」
「…………っ」
「ミナ・オルコット。……僕と、結婚してください。君を、一生大切にします」
完璧なプロポーズだった。
飾り気のない、彼の魂そのもののような言葉。
私は涙が止まらなかった。
「推し」からのプロポーズだからではない。
一人の男性として、私の全てを必要としてくれたことが、嬉しくてたまらなかったからだ。
「……はい。謹んで、お受けいたします」
私が頷くと、彼は子供のように泣き笑いをして、私を強く抱きしめた。
その体温の温かさを、私は一生忘れないだろう。
◇
「……行くよ、ミナ」
ジークフリード様の声で、現実に引き戻される。
大聖堂の扉が開く。
パイプオルガンの荘厳な音色。
ステンドグラスから降り注ぐ光。
そして、参列者たちからの割れんばかりの拍手と歓声。
「うわぁ……」
圧倒的な光景だった。
私は一瞬、反射的にスキルを発動しかけた。
『希薄化』して、この視線から逃れたいと。
でも。
祭壇の前で待つ、銀髪の彼の姿を見た瞬間。
そんな思いは吹き飛んだ。
彼は、私を見て微笑んでいた。
いつもの不器用な、でも愛に溢れた笑顔で。
(……隠れている場合じゃないわ)
私は背筋を伸ばした。
堂々と、彼の隣へ歩いていく。
今の私は、幸せすぎて全身からオーラが出ているに違いない。
これでは、どんなに頑張っても「気配を消す」なんて無理だ。
私は彼の手を取った。
温かい。
「綺麗だよ、ミナ」
「あなたも……とても素敵です、クラウス様」
神官の前で、誓いの言葉を交わす。
そして、誓いのキス。
ベールが上げられ、彼が顔を寄せる。
至近距離で見る彼の瞳には、私が映っていた。
ただの私ではない。
世界で一番愛されている女性としての私が。
唇が触れる。
その瞬間、大聖堂の鐘が鳴り響いた。
「万歳! 皇帝陛下万歳! 皇妃陛下万歳!」
歓声が渦巻く中、私たちは照れくさそうに笑い合った。
もう、誰も私を「空気」だとは呼ばない。
私はここにいる。
大好きな人の隣に、確かに存在している。
◇
それから数年後。
執務室は、今日も穏やかな空気に満ちていた。
「……ねえミナ。この書類、チェックお願い」
「はいはい。……あ、ここ計算間違ってますよ」
「うっ、さすがミナ。細かい……」
クラウス様は苦笑いしながら、ペンを走らせている。
その膝には、相変わらず少し草臥れた「くま太」が乗っている。
ただし、今はもう彼だけの友達ではない。
「あー! パパ、くま太ずるい!」
小さな銀髪の男の子が、テテテと走ってきて、クラウス様の膝によじ登った。
私たちの息子だ。
クラウス様に似て美形だが、中身は私に似て少しのんびり屋な、可愛い王子様。
「こら、仕事中だぞ」
「だってー、ママとお茶する時間でしょ?」
息子は正確だ。
時計を見れば、ちょうど三時。
「ふふ、そうですね。休憩にしましょうか」
私はワゴンを押し、手慣れた手つきでお茶を配る。
特製のミルクティーと、クラウス様の好きなクッキー。
「やったー!」
「……ミナのお茶がないと、午後が始まらないな」
二人の愛しい男性(と一匹のクマ)が、幸せそうに頬を緩める。
その光景を眺めながら、私は自分のカップに口をつけた。
窓の外は吹雪いているけれど、この部屋は春のように暖かい。
かつて、私は自分が物語の脇役だと思っていた。
誰にも気づかれず、ひっそりと生きるのがお似合いだと。
でも今は違う。
「ミナ? どうしたの、ニヤニヤして」
「……いえ。幸せだなぁと思いまして」
私が微笑むと、クラウス様は顔を赤くして、でも嬉しそうに目を細めた。
そして、テーブルの下でそっと私の手を握った。
「僕の方こそ。……君がいてくれて、本当によかった」
その手から伝わる温もりが、私の心を溶かしていく。
私は「壁」でも「空気」でもない。
この愛しい人たちを包み込み、温める「陽だまり」。
それが、私が自分で選び取った、最高の役割だ。
「さあ、冷めないうちに召し上がれ」
私は最高に幸せな笑顔で、彼らに微笑みかけた。
私の「推し活」は、これからもずっと続いていく。
この温かい場所で、最愛の家族と共に。
(完)




