第1話 空気のような私は、婚約破棄されたので王宮の「壁」に就職します。
リリア王国の建国記念パーティーは、いつものように絢爛豪華で、そして騒がしい。
会場の隅、分厚いベルベットのカーテンの陰。
そこが、私の定位置だ。
手には、乾杯の時から減っていないグラスが一つ。
私はただ、壁の染みになったかのように息を潜めている。
「……君だけだよ。僕の本当の理解者は」
すぐ2メートル先。
巨大な観葉植物の向こう側から、甘ったるい声が聞こえてくる。
声の主は、私の婚約者であるジェラルド・フォン・ベルンシュタイン伯爵令息だ。
隙間から覗くと、彼はふんわりとしたピンク髪の可愛らしい令嬢の腰に手を回していた。
名前は確か、新興男爵家のマリア嬢だったはずだ。
「まあ、ジェラルド様ったら。でも、婚約者のミナ様がいらっしゃるのではなくて?」
「あんな地味な女、名前だけの飾りさ。会話も弾まないし、可愛げのかけらもない」
ジェラルド様が鼻で笑う。
その「地味な女」が、あなたのすぐ背後で無表情に立ち尽くしていることには、微塵も気づいていない様子だ。
無理もない。
私、ミナ・オルコットには、生まれつき特殊な性質がある。
『希薄化』。
あるいは『認識阻害』とも呼ばれる、非常に地味な固有スキルだ。
意識して「そこにいる」と強く認識されない限り、私は風景と同化してしまう。
魔法で透明になるわけではない。
ただ、脳が私の存在を「重要ではない背景情報」として処理してしまうのだ。
(……そろそろ、次の曲が始まるわね)
私は心の中で時計を確認する。
怒りは湧いてこない。
ただ、呆れと、少しの諦めがあるだけだ。
ジェラルド様の書類仕事──領地経営の収支計算から、彼が夜会で使う気の利いたスピーチ原稿の作成まで──を全て私がこなしているというのに、「会話が弾まない」とは心外だ。
あなたが私の書いた台本通りに喋っているだけなのだから、弾むはずがない。
「愛しているよ、マリア」
「私もですわ」
二人の顔が近づく。
私は音もなく視線を逸らし、グラスの中のぬるくなった果実水を一口飲んだ。
美しい絵画のようなカップルだとは思う。
中身が空っぽであることを除けば、だが。
私は幼い頃から、こうして一歩引いた場所から「主役たち」を眺めるのが好きだった。
物語に介入せず、ただの観客席で、美しい人々が織りなすドラマを安全圏から見守る。
それが、私にとって一番落ち着く生き方だったのだ。
だから、この婚約も、実家の借金返済と引き換えに「有能な事務員」として伯爵家に買われたようなものだと割り切っていた。
けれど。
「……おい、ミナ! どこにいる!」
突然、ジェラルド様が私の名前を大声で叫んだ。
マリア嬢との逢瀬を一区切りつけたらしい。
彼は赤らんだ顔で周囲を見回している。
周囲の貴族たちが、「おや、ベルンシュタイン卿が誰かを探しているぞ」とざわめき始めた。
私は小さく溜息をつく。
そろそろ、潮時かもしれない。
カーテンの陰から、音もなく一歩踏み出す。
スキルの出力を、少しだけ弱めた。
「……こちらにおります、ジェラルド様」
「うわっ!?」
ジェラルド様が素っ頓狂な声を上げて飛びのいた。
マリア嬢も「きゃっ!」と小さく悲鳴を上げる。
私はいつものように、背筋を伸ばして淡々と頭を下げた。
「お呼びでしょうか」
「き、貴様……いつからそこにいた!?」
「最初からおりました。乾杯の挨拶の直後、ジェラルド様がこちらの女性とテラスへ向かわれた時からずっと」
嘘ではない。
テラスへ行く動線上に、私はずっと立っていたのだから。
ジェラルド様の顔が、驚きから羞恥へ、そして怒りへと変わっていく。
自分の不用心さを棚に上げ、私に恥をかかされたと感じたのだろう。
彼はマリア嬢の肩を抱き寄せると、私を指差して声を張り上げた。
「ちょうどいい! 皆、聞いてくれ!」
音楽が止まる。
会場中の視線が、私たち三人に集まった。
「私、ジェラルド・ベルンシュタインは、ミナ・オルコットとの婚約を、今この場で破棄する!」
会場がどよめく。
よくある話だが、まさか建国記念パーティーでやるとは。
TPOという概念をご存知ないのだろうか。
「理由は貴様のその陰湿さだ! いつも無表情で、何を考えているか分からない! 華やかな社交の場でも壁の花で、私の隣に立つに相応しくない!」
「……左様でございますか」
「それに比べてマリアは素晴らしい! 明るくて、私を癒してくれる! 私は真実の愛を見つけたのだ!」
ジェラルド様は陶酔した表情で演説をぶつ。
私は冷静に、ドレスのポケットから小さな手帳を取り出した。
「婚約破棄、承りました。つきましては、我が家への結納金の返還義務の免除と、私がこれまで代行してきた領地経営業務への未払い報酬、および慰謝料の請求書を後日送付させていただきます」
「は、はあ? 金の話か!? この守銭奴め!」
「契約ですので。……それでは、お幸せに」
私は優雅にカーテシー(膝を折る礼)をした。
これ以上ないほど完璧な角度で。
そして、踵を返す。
ジェラルド様が何か喚いているが、もう関係ない。
周囲の貴族たちが、憐れみとも嘲笑ともつかない視線を向けてくる。
けれど、不思議と胸は軽かった。
(終わった……!)
やっと、あの無意味な書類の山と、中身のない会話から解放される。
「地味だ」「暗い」と罵られる日々ともおさらばだ。
私は足早に会場を後にした。
出口へ向かう途中、すれ違う給仕ですら、私に気づかずにぶつかりそうになる。
私は慣れた動きでそれを避け、夜風の吹き抜けるバルコニーへと脱出した。
「ふう……」
夜風が熱った頬を冷ましてくれる。
王都の夜景が眼下に広がっていた。
これからの生活を考えなければならない。
実家に戻っても、また別のどこかへ売られるだけだろう。
かといって、一人で生きていくには、貯金が少し心許ない。
どこかに、私のこの「気配のなさ」を活かせて、かつ静かで、衣食住が保証された職場はないものだろうか。
「──見事な引き際だったね」
不意に、背後から声がかかった。
心臓が跳ねる。
私がここにいることに、気づかれた?
スキルはまだ発動中のはずなのに。
振り返ると、一人の男性が欄干に寄りかかっていた。
月明かりを浴びて輝く、赤茶色の髪。
片目にかけたモノクルが、知的な光を宿している。
仕立ての良い燕尾服を着崩し、どこか食えない雰囲気を漂わせる美丈夫だ。
「……どなたでしょうか」
「おや、警戒させてしまったかな。怪しい者じゃないよ。……いや、怪しいか」
男は楽しげに肩を竦めると、私の目の前まで歩み寄ってきた。
その瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「背景」を見る目ではない。
明確に、「私」という個を見定める目だ。
「君、名前は?」
「……ミナ・オルコットです」
「知っているよ。ジェラルド卿の元婚約者。そして、ベルンシュタイン領の財政をV字回復させた『影の功労者』」
私は息を呑んだ。
その事実は、公にはしていないはずだ。
「なぜ、それを」
「調べればすぐに分かるさ。あの無能な男が書いたにしては、提出される報告書が完璧すぎたからね。筆跡、計算式の癖、そして注釈の的確さ……君だろう?」
男は懐から一枚の書類を取り出した。
それは以前、私が徹夜で作成した治水工事の予算案の写しだった。
「美しい書類だ。無駄がなく、論理的で、そして読み手への配慮がある。僕はこういう仕事ができる人間が好きなんだ」
彼はにっこりと笑うと、大仰に手を広げた。
「単刀直入に言おう、ミナ嬢。我が国に来ないか?」
「我が国……?」
「そう。ここよりもずっと北にある、寒くて厳しいが、君のような人材を正当に評価する国だ」
彼はモノクルの位置を直しながら、低い声で囁いた。
「我が主──ヴァルドラ帝国皇帝陛下が、君のような人材を求めている」
ヴァルドラ帝国。
その名を聞いて、背筋が伸びる。
軍事大国として知られる北の大国。
そして、その頂点に立つのは『氷の皇帝』と恐れられる冷酷無比な支配者だと聞く。
「皇帝陛下が、私のような事務員を?」
「事務員? いや、違うな。求めているのは──『壁』だ」
「……はい?」
「君のそのスキルだよ。『希薄化』。素晴らしい才能だ」
彼は私の困惑などお構いなしに、熱弁を振るう。
「陛下の執務室には、常に機密情報が飛び交う。だが、護衛を入れれば気が散るし、かといって一人では危険だ。求めているのは、『そこにいるのに、いない』存在。空気のように気配を消し、しかし万が一の時は盾となり、手足となって動ける有能な側近」
彼は私の目を覗き込んだ。
「君ならできるだろう? 誰にも気づかれずに、ただ静かに、世界で一番高貴な方の日常を見守る仕事だ」
見守る。
その言葉が、私の心の琴線に触れた。
誰にも邪魔されず。
理不尽に罵倒されることもなく。
ただ静かに、役割を全うする日々。
しかも相手は、あの『氷の皇帝』。
噂によれば、絵画のように美しい銀髪の美青年だという。
(……尊いイケメンを、特等席で、誰にも邪魔されずに拝める仕事……?)
ごくり、と喉が鳴る。
それは私にとって、願ってもない条件ではないだろうか。
「待遇は保証するよ。衣食住完備、給与はベルンシュタイン家の十倍。もちろん、社会保険も完備だ」
男──いや、帝国のスカウトマンは、悪魔のような笑顔で手を差し出した。
「どうだい? 退屈な悲劇のヒロインはここで降りて、新しい舞台へ行かないか?」
私は一度だけ、会場の方を振り返った。
中からはまだ、音楽と笑い声が聞こえてくる。
私の居場所など、最初からなかった場所。
私は迷わず、その手を取った。
「……そのお話、詳しく伺わせていただけますか」
私の新しい人生は、こうして唐突に、そして静かに幕を開けたのだった。




