ファーストキスだったのに。
「死んでよ」
「え」
すぐ背後まで彼女が迫っていることに全く気付かなかった。無防備に背中を向けていた桜の耳に幼馴染の冷え切った声が届くと共に、ドン、と力一杯押されてバランスを崩す。今いる場所はドラマの撮影でよく使われていると有名な断崖絶壁。落ちないギリギリの場所から海を眺めていた時にいきなり背中を押されたらどうなるか。
(あ、落ちる)
ぐらりと身体が傾き、重力に逆らえることなく崖から投げ出され夜の海に吸い込まれていく。まるでスローモーションのようだ、とどこか他人事のように思う。一縷の望みをかけて右腕を伸ばすも、たった今自分を突き落とした幼馴染がその手を取ってくれることはない。ただただ昏く濁った双眸が落ちていく自分を見下ろしていた。
バシャン、と激しい水音と共に海に叩きつけられ全身に痛みと冷たさが襲ってくる。海水で服が重くなり、手足に絡み付いて身体の自由を奪っていく。自分は泳げない、しかもここは深い、どうもがいても足が付かず身体が海に沈んでいく。海面で口と鼻を出して必死で息をするが思い切り海水を飲み込んでしまい、激しく咽せてしまう。
(苦しいっ…)
岸まで泳ぐなんて無理だ。体力が既に持っていかれている。肺に水が入ったのか呼吸がしづらく意識が朦朧としてきた。このまま死ぬのだろうか。いやだ、まだやりたいことがあったのに。それに何故彼女がこんなことをしたのか、直接聞き出して往復ビンタをかますまでは死んでも死に切れない。生に対する執念も死に対する恐怖もあるが、それだけで泳げるようになる訳がない。桜の執念も虚しく、意識は遠のいていく。意識が途絶える直前、イルカのようなヒレを持つ何かが凄まじい勢いで向かって来るのが見えた気がするがもう、何も分からなかった。
「…?」
重い瞼をゆっくりと開けた桜の視界は白で埋め尽くされている。ここはあの世だろうか、ならば自分は溺れて死んでしまったのかと絶望するがどうにもおかしい。視界に広がる白は霞む目を凝らして見ると、天井だ。あの世に天井なんてあるのか。桜は目だけを動かして周囲を確認する。目には入るのはテレビに机、椅子。どうみても天国ではなく、誰かの部屋のようだ。グッタリと重い身体はふかふかとした何かに横たえられていて、桜の身を包むのはあの崖に行く時に来ていたTシャツとスカートではなく、スウェットとジャージだ。
(あれ…)
桜は身体を起こそうとするが、クラッと眩暈がしてまた倒れ込む。
(何これ、私死んでないの?もしかして誰か助けてくれた?いや、あの崖から岸までかなり距離あったし、ライフセーバーとか専門の人じゃないと無理でしょ)
都合良く落ちた桜を目撃した人が、専門的や知識を持った人である確率はかなり低い。ただ泳ぎが上手い人では、あの場所にたどり着く前に体力を消耗し桜を連れて岸に戻ることは難しい。しかし、助けてくれた人がいたから桜はこうして生きているのだ。
上手く働かない頭で状況を整理しようとする桜の耳にドアの開く音が届く。開いたドアから現れたのは若い男だ。桜が起きたと確認すると、スタスタと近寄って来る。
「目覚めた?良かった、何処か具合悪いとかある?それなら車で病院に連れて行くけど」
男は無表情で淡々と言葉を募る。突然現れた謎の男に桜は困惑し、固まってしまいオロオロと視線を彷徨わせた。男はそんな桜の様子に気づき、コホンと咳払いをする。
「ああ、いきなり色々言われても分からないか。俺はここの家主…というと微妙だけど、清水渉って言います。偶々夜の散歩に出ていたら崖から人が落ちるのが見えてね、急いで救出しに行ったんだ」
清水、という名字に聞き覚えがあったものの、それよりも桜は礼をすることを優先した。
「あ、あなたが助けてくれたんですか。ありがとうございます」
桜は慌てて身体を起こそうとするが、男…清水が止める。
「無理しなくて良いよ、寝てて。人が落ちるのを目撃したらそりゃ助けるよ。俺こう見えて泳ぐの得意だからね」
あの距離を泳いで桜を助けてくれたというのか。彼はライフセイバーか何かなんだろうか。泳ぐのが得意と言うか、もしかしたら水泳の選手という線もあるかもしれないがそっち方面に疎い桜は、清水の顔に見覚えはない。年は20代後半だろうか、清潔感のある短く切り揃えられた黒髪に目鼻立ちの整った端正な顔立ち。肌は日に焼けておらず、白く綺麗だ。
(泳ぐの得意って言う割には肌白いし私より綺麗じゃない?まあプールとかで泳いでるのかな)
桜がそんなことを考えている間も清水の説明は続く。
「急いで君を岸に引き上げた後、意識が朦朧としていたから一通りの応急処置はしたんだ」
「応急処置」
「人工呼吸や心臓マッサージとかだね」
反射的に桜は自分の唇に触れる。人工呼吸とはつまり…。
「…ファーストキスだったのに」
「え、なんかごめん」
ポツリと溢れた桜の言葉に清水が謝る。我に返った桜は自分がとんでもないことを口にしたことに気づく、何度も頭を下げる。
「すみませんすみません!命の恩人になんて失礼なことを…!」
「別に怒ってないよ。記念すべきものを見知らぬ男が奪ってしまったのは申し訳ないけど、人命救助だし犬に噛まれたと思って忘れた方が良い」
清水は人工呼吸とキスと同一視する、桜の幼稚な発言を咎めることはなく寧ろこちらを気遣ってくれた。良い人過ぎる、と桜は感激する。気のせいか胸がドキドキしてきた。
(あれ、何これ吊り橋効果ってやつ?)
桜は今命の恩人たる清水に対し、言語化しがたい感情を抱いている。冷え切っていた身体が徐々に体温を取り戻し始めていたが、この身体の暑さは決して体温だけが原因ではない。
「で、一度君意識取り戻したんだけどアイリ、って呟いて気を失っちゃって。取り敢えず家に運んで濡れた服脱がせてここに置いてあった姉の服を着せて、様子を見ていたんだ」
桜は服を脱がせて、という清水の言葉に一瞬で顔が真っ赤に染まる。服を着替えているのだから当然元の服を脱がせた人間がいるわけで、その相手は清水しか有り得ない。人工呼吸どころか裸も見られている事実に桜は羞恥のあまり布団に顔を埋めた。そんな桜に清水は安心させるように、言い聞かせる。
「そうだよね、人命救助とはいえ不快だよね。言葉だけじゃ信用出来ないと思うけど邪なことは一切考えてないから」
清水は桜の目を見てキッパリと言い切った。彼の目と態度に下心の類は一切感じられなかった。とんでもない誤解をされていると気づいた桜は慌てて首を振る。
「違います!恥ずかしかっただけで、清水さんを疑った訳では」
「そう?良かった、人命救助の名目で良からぬことを企む屑だって思われてなくて」
「そんなこと思いませんよ」
「いや、世の中にはそういう奴も何処かにいるかもしれないよ」
清水の言葉を桜は否定出来なかった。この世は善人で溢れている訳ではない。もし桜を助けたのが清水ではく、その相手が「そういう奴」であった可能性もあったのだ。想像するとゾッとした。偶々清水が散歩に出ていた事も含め、桜は運が良かったのだ。
「それで、君スマホ持っていたけど水没して壊れたみたいでさ。身元も連絡先も分からないから、目覚めてから聞き出すなり病院に連れて行くなりすれば良いかと思って」
清水はポケットからスマホを取り出し、桜に渡す。桜のスマホで画面は真っ暗。電源ボタンを押したり色々試したがうんともすんとも言わない。完全に壊れているようでショックを受ける。
「…しょうがないですね、助かったのが奇跡ですし」
ショップに行けば新しいのと交換してもらえる。バックアップも取っているからデータも復旧出来るがとっくにショップは閉まっているし、そもそも土地勘が無いから見つけるだけで一苦労だ。
「一応聞くけどさ、誰でも良いから連絡先覚えて」
「…ないです。スマホしか連絡手段ないと詰むんですね」
「しょうがない、俺もスマホが使えなくなったら誰とも連絡取れないと思う」
正確には一人だけ覚えているが、今絶対連絡を取るわけにはいかない人物なので除外だ。ここで桜は自分が清水に自己紹介もしてないことに気づき、再び頭を下げる。
「あ、私名乗りもしないでごめんなさい。篠原桜と言います、M大学の2年でこっちにはサークルの合宿で来たんです」
「サークル?もしかしてミステリー研究会とか、そういう?」
「!何故分かったんですか」
「あの崖、ドラマで使われているから有名で観光客が良く来るんだけど、大学生の団体客は大体ミステリー研究会の名前でホテルや旅館に泊まってるらしいよ。だからそうかなって。でも、騒ぎ過ぎて落ちる人もいてさ、幸い亡くなった人はいないけどそろそろ自治体で柵を作るか夜は立ち入り禁止にするって話が出ているんだ…ってこんな話今しなくて良いか。桜さん、泊まっているホテルの名前分かる?サークルの人達君が戻って来ないって心配してるはずだから、連絡しよう」
清水は別のポケットから自分のスマホを出すが、桜は顔を伏せて口籠もる。連絡するべきだと分かっているのだが、気が重い。その理由を赤の他人の清水に打ち明けるのは憚られる。俯いた桜に清水は連絡を嫌がる理由に察しがついたのか、恐る恐る尋ねてきた。
「…もしかしてさ…誤って落ちたとかじゃなくて突き落とされた?『アイリ』って人に」
否定せず黙りこくった桜に清水は自分の指摘が合っているのだと悟り、沈痛な面持ちになる。
「その人、同じサークルの人だよね。ほぼ初対面の人間とあんな時間にあんな場所行かないし」
桜は彼女…愛理と親しく信頼していたから「夜の方が雰囲気あるだろうから、一緒に見に行こう」という誘いに何の疑いを持つことはなく、ノコノコついて行き…こんな目に遭った。
「…幼馴染なんです。家が近所で学校もずっと一緒で親友だと、思ってたんですけど。急に死んでよって言いながら背中を押されて。私泳げないからパニック起こしてしまったんです」
「幼馴染ってことは当然泳げないこと知ってるよね。その上で崖から突き落とすとか殺人行為だよ。泳げる人間でもあの高さから落ちたらパニックを起こして溺れるのに…許せないな」
清水は端正な顔を不愉快そうに歪め、地を這うような低い声で吐き捨てる。美形が本気で怒ると迫力があり、自分に怒りが向けられた訳ではないのに身体が強張った。清水は自分のスマホを操作し始める。
「すぐに通報しよう」
「あ、待ってください」
通報を止めた桜に清水は怪訝な顔をした。
「…まさか見逃す訳ないよね?自分を殺そうとした奴庇ったら駄目だ」
強い口調で桜を諭す清水に違うとばかりにフルフルと首を振る。
「庇うわけではないです…油断させるんです。多分愛理は今目を離した隙に私が居なくなったとか、自分に都合の良い話をでっち上げて、後悔に苛まれる自分を演じて酔っていると思うんです。散々周囲の同情を買った後に私がひょっこり帰って来たら…」
「今すぐ通報するより、彼女が受けるダメージは大きいね。自分で突き落とした癖に悲劇のヒロインぶってた外道だって皆から心底蔑まれることになるだろうね。これくらい仕返しにも入らない。じゃあ明日の朝一で近くの交番連れて行くよ。今日は泊まっていくと良い」
「何から何までお世話になって申し訳ないです…事が済んだら改めてお礼をしたいので連絡先教えていただけませんか…あ、決して悪用はしません!」
前のめりで主張する桜に清水は耐えきれないとばかりに噴き出した。
「最初から疑ってないから。そうだね、一応交換しておこうか。って桜さんスマホ壊れてるんだった、メモに書いてくる」
そう言い残して清水は一旦部屋を出て、すぐに戻って来てメモをサイドテーブルに置く。忘れずに持って行こう。
「着ていた服一式洗濯して、今乾燥してるから朝には着れると思うよ。後、風呂沸かしてるから好きな時に入って。俺は2階の風呂使うから気にしないでね」
「お風呂2つあるんですか…」
「うん」
「清水さん、もしかしなくてもお金持ちですか…」
「金持ちなのは親だよ。ここも親が持ってる別荘の一つで偶々遊びに来てたんだ」
(別荘の一つって複数所有してるってこと…?)
桜は目の前の男性が上流階級の人間と知り途端に緊張してきた。明らかに口数の少なくなった桜に清水は困ったように眉を下げる。
「そんな緊張しなくて良いよ、俺自身普通の…会社員じゃないけどフリーのライターみたいなことしてる奴だからさ」
「…善処します…」
その後、桜は清水に家の間取りについて簡単に教えてもらった。一階、2階にそれぞれある洗面所やお手洗いの場所、桜が今いる部屋は客間で他にも空いている部屋はいくつかあるらしい。説明を終えると「他人がいると気が休まらないだろうから」と清水は部屋を出て行こうとする。しかし、「あ」と何か言い忘れた事があったのか振り向いた。
「…俺これから風呂入るけど、すんごい長風呂なんだよ。いつまで経っても出て来なかったとしても溺れてるとか浮いてるとかじゃないから。本当、気にしなくて大丈夫だから」
と何故か自分が長風呂であることを強調し、気にするなと念押しして清水は去って行った。
(…私が覗くと思った、訳ないか。あそこまで言うってことは本当に長風呂なんだな。というか言い方が鶴の恩返しの鶴みたい)
桜は清水が置いていってくれたバスタオルを持って、一階の風呂場に向かう。これらは全て清水の姉のものらしい。どんな人なのか少し気になった。
(清水さんに似ているなら美人だよね、絶対)
まあ会うことはないだろうと思いながら、桜は客間を出て行った。
(お風呂実家とは比べものにならないくらい広かったな)
あまり豪華で綺麗な風呂場に衝撃を受けた桜はついつい長風呂をしてしまった。1時間に満たないが結構喉が渇く。清水から冷蔵庫の飲み物を勝手に飲んで良いと許可を得ているものの、やはりキッチンに入るのは気が引ける。誰も居ないのに「お邪魔します」と小声で挨拶をしてキッチンに入った。
(キッチンも広い…調理器具結構あるし清水さん料理するのかな)
不躾にもキッチンを観察しながら冷蔵庫を開けると、ラベルに英語が書かれた知らないメーカーの飲み物が沢山入っている。ジュースにコーヒー、紅茶、ミネラルウォーターと清水が買ったのか野菜や肉も入っていた。
(これはオレンジジュース、これはマンゴー?全部100って書いてあるから果汁100%だよね。一本いくらするんだろう)
コンビニで買うペットボトルのジュースとは比べものにならないだろう。飲むのを躊躇ってしまうが喉の渇きには耐えられず、桜はオレンジジュースを一本手に取り蓋を開ける。
「美味しい…」
最低最悪な目に遭ったけど、今の桜の気持ちは不思議と穏やかだった。
ドライヤーで髪を乾かした桜はつい先程まで寝ていたとはいえ、やはり体力を大幅に消耗していたためまた睡魔が襲ってくる。時計を見たら24時を回っていた。朝一で近くの交番に連れて行ってくれるという話なので寝坊する訳にはいかない。桜は再びベッドに入る。
(清水さん何してるんだろ。お風呂かな)
挨拶しておくべきだったかと思うが眠気には抗えず、あっという間に夢の世界に旅立って行った。
ふと、目が覚める。部屋もカーテンの向こうもまだ薄暗い。サイドテーブルに置いてある時計を確認すると5時を回ったところだった。
(…トイレ)
桜は寝ぼけ眼のままベッドから抜け出し、部屋を出てトイレに行く。トイレも一階と二階にそれぞれあると聞いた。男女の客や家族にそれぞれ対応出来るように分けているらしい。家族の部屋も女性は一階、男性は二階ときっちり分けている。風呂もトイレも一つずつしかない普通の家で育った桜には新鮮に映った。
(こんなイレギュラーな時じゃないと、こういう家見れる機会絶対ないよね)
トイレから客間に戻ろうとした桜の視界に二階に続く階段が入る。
(家の中歩き回るなとは言われてないし、部屋に入らなければ探検するくらい良いよね)
昨夜死にかけたというのに、もう気力を取り戻しつつあった桜の中で好奇心がムクムクと湧いて来て、客間に戻るはずの足は階段に向かう。二階で寝ているであろう清水を起こさないようにゆっくりと階段を登る。
(?電気付いてる)
真っ直ぐ伸びる廊下、幾つものドアが目に入るがそのうちの一つが少し開いているのか光が漏れていた。普通に考えたら今この家にいるのは清水だけなので、電気が付いているのは清水の部屋だろう。早起きなのか、はたまた徹夜しているのかは不明だが起きているのは確かだ。
(流石に人の部屋覗くのはアウトだしね、戻ろう)
あっさりと探索を諦めた桜は踵を返し、階段を降りようとした時耳にバシャンという水音が聞こえ立ち止まる。
(水音?何で…まさかあの電気付いてる部屋お風呂場…)
誰かが風呂に入っている。その相手は当然清水しか居ないが、彼は最後に会った時自分もこれから風呂に入ると言っていた。正確な時間は覚えてないが桜が寝た時間より前なのは確か。少なくとも5時間は経っている。一度上がってまた入った可能性も無くはないが、逆に5時間しか経ってないのに二度も入る人はいないと思う。つまり。
(え、あれからずっと入ってる…!)
長風呂と自己申告していたが5時間、下手したら6時間以上も入っていることになる。長いというレベルではないのではないか。桜の足が勝手に明かりの漏れているドアに向かう。
(寝てるのかな…お風呂で寝るのって危ないんじゃないっけ。口と鼻がお湯に浸かって溺れる人いるって聞くし…)
桜の脳裏に最悪な想像が浮かび、血の気が引く。ドアノブに手をかけ、恐る恐る入るとやはりここは洗面所のようで、床に置かれたカゴに清水の着ていた服が畳んで入っている。風呂場は電気が付いているが耳をすませても物音一つしない。桜の想像がまた信憑性を増す。
(どうしよう…もし何にもなかったら私ただの覗き魔だよ…でも、万が一溺れてたら…よし!)
何とでもなれ、と桜は勢いのまま浴室のドアを開けた。
「…清水さん大丈夫ですか…え」
ドアを開けた桜の視界に飛び込んで来たのは乳白色の湯に浸かり、気持ち良さそうに目を閉じている清水…と浴槽の反対側から覗いている大きな魚のような尾ひれだった。魚というよりも水族館で見たイルカやテレビで見た鯨のそれに似ている気がした。パシャ、パシャ、とお湯にヒレを打ちつけている。
(…何あれ、作り物?それにしては何かリアル…コスプレ?いやお風呂入っている時にコスプレする意味が分からない…え?え?)
桜は叫びはしなかったものの、目の前の光景が信じられず静かにパニックを起こしていた。浴室に充満する湯気を浴びながら呆然と立ち尽くす。すると目を閉じていた、恐らく眠っていた清水が桜の声に反応したのか目を覚ます。
「あ…また映画見てる途中で寝てた…ん?」
清水は目を擦ると桜の気配に気づき、こちらを向いた。その瞬間表情筋があまり動かない印象のあった彼の顔が驚きに染まる。その顔にはデカデカと「ヤバい」と書かれていた。
「…」
「…」
あの後、先に我に返った清水が「ちゃんと説明するから、取り敢えず出てもらって良い?」と退出を促したので桜は言われるがまま、浴室を飛び出して客間に戻った。そして約20分後、Tシャツとスウェットパンツに着替えた清水が物凄く気まずそうな顔で客間にやって来た。当然ながら尾ヒレはない。清水と桜は互いに無言で向かい合っていた。桜はさっき見たのは夢だったのではないか、と未だに心のどこかで思っているが清水の深刻そうな様子を見るにその可能性は著しく低い。それはつまり、あれが本物であるということであるが…。頭の中で疑問が渦巻いて混乱していた桜はずっと俯いて正座をしていた。
2人の間には気まずい空気がずっと流れている。そわそわと落ち着かない様子で、時計の秒針の音だけが聞こえていた。このまま黙っていても埒が明かないと思ったのか清水がその重い口を開く。
「…さっき見たと思うんだけど…あれね、作り物じゃないんだよ」
「それは、はい。何となく分かってました…えーと、つまり…」
桜は言い淀んだ。あなたは人間ではないのですか、なんて面と向かって言えるわけがない。しかし、人間にはあんな尾ヒレは生えていない。口をもごもごさせる桜を見かねて、清水は何処か吹っ切れたように言った。
「俺ね人魚、半魚人、呼び方はどっちでも良いだけど、そういうのなんだ。あ、他の家族は普通に人間だよ。俺だけが…先祖返りでね。海水に浸かると足が尾ヒレに変わる特異体質で、その代わり水の中では自由にいつまでも泳げる。桜さんを助けられたのはこの体質のおかげ」
人魚…下半身が魚の伝説上の生き物。桜も当然知っているが童話を読んだ人魚姫のイメージが強い。清水は男なので人魚男、と呼ぶべきなのか。荒唐無稽な話で普通ならすんなり信じられないが、桜はこの目ではっきりと彼の尾ヒレを見ている。それに、薄々ただ泳ぎが得意な人間が崖から海に落ちた人間を助けられるものなのか、と疑問に感じていた。清水の正体を聞き、色んなことが腑に落ちる。
「…人魚って本当にいるんですね」
「俺が言うのも何だけど、受け入れるの早すぎない?」
疑う素振りすら見せない桜に清水は困惑している。
「直接見てますし。それに…気を失う前イルカのようなものを見た気がするんですよね。あれって清水さんですか」
「うん」
「改めて、ありがとうございます…」
「…正直に言うとね、桜さん見つけた時は海水を結構飲んでて心臓の音も弱くて危ない状態だったんだ。人魚は死にかけてる人間に口移しで自分の生命エネルギーを分けることが出来るって聞いていて、やるのは初めてだったんだけど上手くいって、本当に良かったよ」
心底ホッとしたように笑う清水。桜は自分の状態が相当に悪かったと知り、恐ろしくなった。清水が見つけてくれなかったら間違いなく死んでいただろう。本当に運が良かった。
清水はそれから、清水家の先祖について簡単に教えてくれた。清水家に伝わる文献によると江戸時代、武家として栄えていた清水家の長男が海で溺れた時、人魚に助けられたらしい。男はその人魚に惚れて、毎日毎日海に赴き人魚を探し続けた。そんな生活を5年続けた頃、美しい女が男の前に現れた。その女は男を助けた人魚だと名乗り、男も本能的に自分を助けた人魚だと気づく。
その後、男は周囲の反対を押し除け素性の知れない女を妻に迎えた。すると女の助言を受けて手を出した商売が瞬く間に軌道に乗り、豪商と呼ばれるまでに成長し現在に至るまで様々な事業を成功させている。男が女を妻に迎えてから清水家は幸運に恵まれ始めると共に、清水のような体質の子供が時折産まれるようになったという。その体質の人間は幸福の象徴として、崇められて何不自由ない生活を送れることになっている。
「何処まで本当か分からないけどね。男が人魚を殺してその肉を食った可能性もあるし。先祖返りじゃなくて人魚の呪いでこんな体質の人間が生まれているかも」
「怖いこと言わないでください…」
ロマンチックな恋物語が一瞬で血生臭い話に変わってしまった。真実は誰にも分からないが、桜は男と人魚が結ばれた方を信じたい。
「童話だと人魚は足と引き換えに声を無くしたと書かれてますけど、その人魚も喋ることが出来なかったんですか」
「いや、普通に喋っていたらしい。大層歌が上手く美しい女だったようだよ」
「…人魚の歌って…セイレーンやローレライを想像するんですけど…大丈夫だったんですか」
美しい歌声で舟人を惑わし、遭難させると言われる伝説上の生物。どうしても良いイメージがないので清水の先祖は無事だったのか心配になった。
「特に何かあったとは書かれてなかったけど、その人魚は凄く嫉妬深ったらしい。夫が女と談笑するだけで不機嫌になったとか。まあ夫の方も人魚にベタ惚れで浮気することもなく生涯仲睦まじい夫婦だったようだけど…夫が先立って妻もいよいよ死ぬって時に子供に残していた手紙に凄い書かれていたんだ…」
曰く人魚は人間の足を手に入れるために身体にある誓約を受けた。己の愛を捧げた男の心が一瞬でも自分から離れたら、自分は泡となって消えるという恐ろしい誓約。男と再会出来るまで5年かかったのも人魚の一族を纏める長を説得していたから。人魚はこの誓約を夫に生涯黙っていた。夫が心変わりしたら、それが自分の運命だと諦めるつもりだった。しかし、夫は命尽きるその時まで自分だけを愛してくれた。子供と孫に囲まれる素晴らしい人生を送れた。人間として生きる選択をし、人間として死ぬことに何の後悔もない、と。
「…声失くすよりも恐ろしくないですか?夫が心変わりしたら死ぬって」
「だよね、何で夫に黙ってたのかな」
「何となくですけど、話したら夫は絶対浮気しないって約束するし自制するじゃないですか。夫の気持ちを捻じ曲げるのが嫌だったんじゃないですか」
「命に関わるのに?」
「だからこそ、です。夫がずっと自分だけを見るか、それとも他に好きな人が出来るか。生きるか死ぬか、己の運命を愛する人に託した…とか?うわ、自分で言ってて恥ずかしくなってきた」
顔を覆う桜に清水の優しい声が届く。
「良いと思うよ、そっちの方がロマンがある」
さっき人魚を男が食っただ、呪いだとロマンの欠片もないこと言っていた人から出てきた言葉とは思えない。が、桜の恥ずかしい推察を肯定してもらえたのは嬉しかった。清水の先祖の話が一通り終わると、桜はずっと気になったことを聞いてみた。
「…あの気になってたんですけど、もしかしなくても清水って清水グループのことですか?」
「そうだよ?」
早く言って欲しい!と桜は心の中で叫ぶ。聞いたことがあるはずだ。清水グループは日本を代表する旧財閥系企業。その系譜を引く企業は数十を軽く越える。子会社や関連会社を含めるとその数は膨大だ。
(別荘持ってるちょっとお金持ちとか、そんな可愛いレベルじゃなかった…)
一介の大学生が向かい合って話すことすら出来ない、雲の上の人であった。衝撃で目眩がしてくる。
「…清水グループの御曹司の方に多大な迷惑をかけた上にお風呂まで覗いて…謝って済む問題ではありませんが、本当に申し訳ございませんでした」
桜は清水の顔を直視出来ず、あまりの申し訳なさに即座に土下座をした。頭上から清水の慌てた声が降ってくる。
「謝らないでよ。さっきも言ったけど金持ってるのは親や一族で、それに清水グループの跡取りは姉で俺は事業にノータッチなんだ。畏まられる人間じゃない」
「…そうなんですか」
確かにライターのような仕事をしてると言っていた。しかし彼の素性を聞けば何故清水グループの関連企業で働いていないのか、という疑問が芽生える。勿論会社勤めが合わないとか、色んな事情があると思うが。桜の心の底から出た疑問に清水は悲しげな表情で答えた。
「身体の造りが人間と違うんだよね。海水じゃなくても水に30分浸かると足からヒレに変わるし、日差しにも弱いから日傘や帽子がないと日中外を歩けない。日常生活に制約が多いんだ。元々俺みたいな体質の奴が生まれたら何不自由なく生活出来るようにするけど、あまり公の場に出ないように言われて育つ。そりゃ人魚が時々生まれる家系なんて知られたら大騒ぎになるし、下手したら研究対象として連れて行かれるかも。スキャンダルだ。今は何とも思わないけど、子供の頃は身体半分が魚になるって気持ち悪いって思ってたし。実際、分家の奴が昔俺に聞こえるように『化け物と同じ血を引いてるなんて気持ち悪い、悍ましい。化け物のくせに周りから崇められて良いご身分だ』って言ってたこともある」
「は?何ですかその人達、最悪ですね」
思わず嫌悪感を露わに吐き捨ててしまった。子供の、自分の体質について悩んでいた頃の清水に暴言を聞かせるなんてまともな人間のすることではない。子供にそんなことを平気で言える奴の方が化け物だ、と桜は憤りを覚えた。
「で、その人達両親が聞いてる時にも同じこと言ってたらしくて。『化け物の血を引く一族の末端にいること自体不快でしょうから、一族から除籍します。良かったですね、これで自由ですよ』ってそいつらを家族ごと追放した。お情けで清水の関連企業で働いてるみたいだけど、閑職に追いやられて肩身の狭い思いをしてるらしい」
(…怖)
息子を侮辱した親族を追放出来る権力もだが、その行動力が怖い。しかしその苛烈さは清水のことを大事に思っているからではないか。赤の他人が軽々しく口を挟めることではないけれど。
清水は自分の身の上を話し終えると、改まった様子で姿勢を正す。
「…成り行きで話してしまったけど、今聞いたことは他言無用でお願い」
「それは勿論、信用ならないなら誓約書でも何でも書きます」
「いや、そこまでしなくて良いよ。それにうちの誓約書って特殊なものでね。人魚…俺の血を使うもので誓約を破ったら全身から血が吹き出して死ぬってやつなんだけど、したい?」
「遠慮させていただきます!!」
青白い顔で桜はブンブン首を振った。清水はそんな桜の様子を見て、顔を伏せて噴き出した。
(あれ?)
ツボに入ったのか未だに笑う清水に桜は段々と冷静さを取り戻す。疑念に満ちた顔で桜は問いかける。
「…もしかして嘘ですか」
「うーん、半分嘘」
顔を上げた清水はまだ笑っていて、さらっとそんなことを言う。
「俺が生まれてからは使われてないよ」
「ということは昔は使われていたと」
「綺麗事だけじゃ、やっていけなかったんだろうね。まあ俺の血を使うつもりはないって両親は言っているから、今後は使わないんじゃないかな」
「ご両親、清水さんのこと大事に思っているんですね」
「大事とかそういうのを通り越して過保護だよ。1人暮らしする時も散々反対されたから、もう27なのに」
清水は27らしい。思わぬタイミングで彼の年齢を知った。桜より7つ上だ。
「ということは最近までご実家暮らしだったんですか」
「うん、大学卒業するタイミングで実家出るつもりだったのに姉まで反対してさ…」
「日の光に弱い弟さんが心配だったんですよ」
「何か物凄い虚弱体質扱いされてるっぽいけど、制約が多いだけで日常生活送れるからね?吸血鬼じゃないからバテやすいだけで日光に当たったからって倒れないし、水に浸かれば寝なくても体力回復するよ」
「そうなんですか、凄」
という話をしていたらいつの間にか7時を回っていた。桜は乾いていた服を着て準備を終えると、清水の車に乗せてもらって近くの交番まで向かう。
「昨日の夜、同じサークルの高岡愛理に崖から海に落とされました。この人に助けて貰えなかったら溺れ死んでました。彼女を逮捕してください」
桜がそう訴えると警官数人は血相を変えて、詳しい事情を聞き出す。どうやら既に桜が海に落ちたと通報された後のようで他の交番や警察署の警察官も捜索だったり、ホテルに行ったりしていて殆どが出払っている状態らしい。その行方不明の張本人がひょっこり帰って来たら慌てるだろう。その後パトカーでサークルのメンバーが泊まっているホテルに向かった。ホテルに戻るとホテル側が提供してくれた大部屋のようなところにメンバーが集められていると聞き、こっそりと近づく。ドアを開けて中の様子を窺うと。
「…私が目を離したから桜が…あの子泳げないのに…何かあったら私…」
「愛理、あまり自分を責めちゃ駄目だよ」
と桜を突き落とした張本人が女優も顔負けな演技力でハラハラと涙を流して、愛理と仲の良い子が肩に手を置いて慰めている。付いて来た清水がこそっと耳打ちした。
「…本当に悲劇のヒロインぽいね」
「でしょ」
桜は半分感心、半分呆れながらドアを開け放った。
「安心してよ愛理。私生きてるから」
堂々とした態度で現れた桜に部屋は水を打ったように静かになった。愛理は信じられないとばかりに大きな目を見開き、唇がワナワナと震えている。頬を伝っていた涙は一瞬で引っ込み、その瞳に桜を突き落とした時と同じ底の見えない沼のような暗い光を宿し、桜を見据え…睨みつけていた。
「…何で生きて…あ」
しまったと、口を手で押さえるも既に遅い。愛理の発言はこの部屋にいるサークルメンバーが全員聞いてしまった。「桜が戻って来て喜ぶ」振りでもすれば良いものを、生きて戻って来た衝撃で取り繕う暇も無かったようだ。
「何今の?」
「何で生きてるって言った?」
「どういうこと?」
「生きて戻って来た幼馴染に言う言葉じゃないよな…え?まさか…」
「あれだけ心配してたのに、本当は愛理ちゃんが…」
サークルのメンバーは疑念の篭った目を愛理に向ける。愛理は「ちが、今のは」と必死で誤魔化そうとするが、彼女を見る皆の目は冷ややかだ。そして桜と共に来た警官2人が彼女に近づく。
「高岡愛理さん、篠原桜さんに対する殺人未遂の件でお話しを伺います。署までご同行いただけますね?」
疑問形だが拒否することは許さない圧を発した警官2人に睨まれて、愛理は大きく息を吐き肩を落とすと無言のままついて行く。愛理は桜とすれ違い様、憎悪の篭った目で睨め付けると部屋を出て行った。桜は彼女の背中を黙って見送る。
(…相当恨まれてたんだな)
桜には殺されるような心当たりは全くない。幼馴染だが愛理と桜はタイプが違う。美人でモテモテの愛理、趣味に生きて恋愛事とは無縁の桜。月とスッポンだと揶揄されたこともあるが、そんな雑音が気にならないくらい桜は愛理が好きだった。殺されかけても彼女に対する情を捨てきれないくらいには。しかし、もう愛理との道が交わることはない。桜は胸の痛みを覚えながら、状況が飲み込めずに呆然としているサークルメンバーの元に向かった。
メンバーは何があったのか根掘り葉掘り聞きたがったが、ホテルにいた女性警官と保護者のように付き添っていた清水がそれとなくガードしてくれた。流石に愛理が連れて行かれた直後に取る行動としては不適切だと自覚したらしく、皆桜を労る言葉をかけるだけに留めてくれた。その中の1人、サークルの部長だけがソワソワと落ち着きのないの様子で顔色も悪い。桜が視線を向けると慌てて目を逸らされる。
(何?)
部長とは時折話すだけで、親しい訳ではない。逆に愛理とは良く話していたので彼女があんなことになって動揺しているのだろう、と桜は考えた。
その後、桜が辛うじて覚えていた実家の電話番号から両親に連絡が行き、すぐに迎えに来てくれた。当然合宿は中止、一通り話を聞き終えたから帰って良いと言われたので他の皆は最寄駅に向かって行った。母はホテルに到着し、桜の姿を目にすると抱きしめて泣き出してしまう。その隣で父も涙を堪えている。
「警察から電話がかかって来て、桜が殺されかけたって聞いた時心臓が止まるかと思ったわ。本当に無事で良かった」
感動の再会を黙って見守っていた清水に母が気付き、父と共に彼に向かって深々と頭を下げる。
「あなたが清水さんですか?娘を助けていただいたそうで、何とお礼を申し上げれば良いのか…」
「お気になさらず、人として当然のことをしたまでですので」
「そんな訳には…後日改めてお礼に伺いたいので連絡先を教えていただきたいのですが」
「連絡先なら既に娘さんに教えてます」
両親が一斉に桜を見た。積極性というものが皆無な桜がさっさと連絡先を聞いてあることが信じられないらしい。正直なところ、下心がないとは言えないので2人の顔を真っ直ぐ見ることが出来ない。はははは、と曖昧に笑う。
「本当にお礼はいらないので、それよりも娘さんを休ませてあげてください」
清水の一声で両親は最優先事項を思い出したようで、母が念のため彼の連絡先を聞き別れの挨拶をすると桜を連れてホテルの駐車場に向かう。別れ際清水が口パクで「またね」と言っていたのは、気のせいではない。
両親と共に自宅に戻った桜は大事を取って一週間ほど大学を休むことになった。授業に関しては少し心配だったが、同じ講義を取っているサークルの友人が率先してレジュメや代返をしてくれたので問題はない。休み明け、桜は特に注目を集めることはなかった。サークルの面々が緘口令を敷いてくれているのだろう。桜と仲の良い愛理がずっと休んでいることに関し、何か知らないかと愛理と仲の良い男子に聞かれたが答えられる訳がない。その後愛理は一度も大学に来ることなく退学したことで、彼女がしたことも噂されるようになったが桜は一貫して口を閉ざしていた。
後日、刑事が自宅までやって来て愛理が何故桜を殺そうとしたのか、その動機を報告してくれた。原因は様子のおかしかったサークルの部長だ。愛理は彼に告白したが振られ、その上桜が気になっていると告げられた。それがきっかけで殺意が芽生えたのか、そのくらいで人を殺そうとするなんて、と幼馴染の知らなかった本性を目の当たりにしてショックを受ける。しかし、刑事曰く愛理の中のコップの水が溢れる寸前だったのが部長の件で溢れただけで、元々桜に対する妬みや劣等感を抱えていた、と。愛理は恋多き女で頻繁に恋人が変わっていたが、見た目やスペックで選んでいたに過ぎず自分から好きになった男は悉く桜を好きだと言い断られ、時には仲を取り持つよう頼まれていたらしい。桜は告白されたことはないのだが、それは裏で愛理が邪魔をしてあることないこと吹き込んでいたことも本人が白状した。悉くというが部長を含めて3人であり、たった数人が自分より桜が良いと言った事実が許せず恨みを募らせていったのだ。
それ以外にも、愛理は桜を妬んでいた。桜は特別裕福ではないが家族仲が良い。裕福だが互いに外に愛人を作り仮面夫婦を続ける愛理の親。幼馴染の桜も愛理の両親には殆ど会ったことがない。愛理の親だけあって顔立ちの整った人達だが、いつも冷たい目をしていた。決定的なきっかけがあった訳ではなく積み重なったものが爆発した、と愛理は供述しており己の行為を深く後悔し、反省していると教えられた。
刑事が来た2日後、愛理の両親が弁護士を伴ってやって来た。話の内容は謝罪と示談の提案だ。慰謝料として提示された額はかなりのもので両親も桜も戸惑っていた。愛理の両親は「娘がとんでもないことをしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」と深々と頭を下げて謝ったが態度や言葉の節々に、「面倒臭い」という感情が透けて見えていた。兎に角穏便に済ませたい、世間体を気にしているのが伝わって来て彼らの態度に両親は眉を顰める。両親は桜を殺そうとしたと、相手が昔から知っている愛理だろうが構わず訴えるつもりだったが、他ならぬ桜が待ったをかける。桜は出来れば愛理にもう関わりたくなかった。裁判になれば時間も労力も使うし、変に注目を集めることも避けたい。それに愛理の行末が彼女の両親の態度を見て何となく予想出来てしまった。愛理の未来はもう閉ざされたも同然。そんな彼女に鞭打つ真似をするのは気が引けた。両親は渋っていたものの、最終的に桜の意思を尊重してくれた。契約書を交わし、多額の慰謝料を受け取る形でこの件を終わらせた。愛理の両親は事は契約書にサインをすると用は済んだとばかりに、さっさと帰って行った。
「あのご両親じゃ…ほんの少しだけ愛理ちゃんに同情するわ。勿論桜にしたことを許すつもりはないけれどね」
娘が殺人未遂を犯したにも関わらず、終始他人事な態度だった愛理の両親に嫌悪感を抱いた母は悲しげに言った。
釈放された愛理は両親から縁を切られ、多額の手切金をもらい何処かに引っ越したと風の噂で知った。彼女の両親も離婚して引っ越して行った。桜の中で愛理のことはずっと傷として残り続けるだろう。一生彼女を許すことは出来ないかもしれない。しかし、いつか自分の中で折り合いを付けられれば良いと思う。
桜はその後、清水にお礼をするために連絡を取った。それ以来何となく年の離れた友人のような、気の置けない関係を続けていたがあの日から一年経った時遂に「好きです」と言ってしまった。喫茶店でコーヒーを飲んでいた彼は面食らった顔で固まっていた。
「…それ吊り橋効果だよ。恋愛感情と感謝の気持ちを誤認してるんだよきっと。大学の同級生とか先輩、バイト先の人とかもっと良い人」
「居ません。それに吊り橋効果なら一年も持ちませんよ」
「いや、俺普通じゃないから。辞めた方が良い、身体半分アレになるんだよ」
「綺麗でしたよね、青色の鱗に光が反射して」
「…」
桜のストレートな言葉が思いの外刺さったのか、口籠もり目を逸らす。
「…人魚って総じて愛情深い、と言えば聞こえは良いけど異常に嫉妬深くて自分以外の同性が近づくのを許さないっていう面倒臭い奴ばっかなんだよ。普通に事故物件だよ」
「それって絶対浮気しないってことですか?素晴らしいじゃないですか」
「マズイ、何言っても効かない」
無駄にポジティブな桜に清水は項垂れて、ため息を吐いた。
「…俺はそういう風になるのが怖くて、今まで恋愛感情を抱かないように自制していたから…好き好き言われたら簡単にコロッと行くかもね」
「え」
「まあ頑張って」
桜は清水の言葉の意図を探ろうとしたが、彼は絶対に教えてくれなかった。