49 全ての世界線で、あなたと共に(1)
優樹と初めて口づけを交わした日。
その夜に見た夢は、不安を煽るようないつもの夢とは少し、様子が違っていた――。
◇◆◇
赤い糸を辿って、光ある世界に戻ってきた私は、長く閉じていた瞼を震わせる。
ぼんやりと映る世界は、白に満ちた部屋の中だった。
「――り? 愛梨、聞こえる……!?」
頭上をちらちらと動く影。聞こえる声は、私の母のものだ。
「あなた、目が開いたわ! 先生を呼んで、早く……!」
緑色のカーテンが揺れ、その外で影が動く。どうやら、父も、すぐそばにいたらしい。
「ああ、愛梨、お母さんよ。分かる? お父さんも、優樹くんも、もうすぐ来るからね」
(――優樹? なんで?)
私は声を出そうとするが、からからの喉からは、吐息しか出てこない。
それでも、母は私の言いたいことを読み取ってくれたようだ。
「優樹くんはね、愛梨が海に落ちて搬送されてから、毎日お見舞いに来てくれてるのよ。忙しい合間を縫って、ずっと声をかけてくれてたわ」
母は、泣きそうな表情で、私の手をずっとさすってくれている。すぐにお医者様と、看護師さんたちが部屋に来て、診察を始めたのだった。
それからしばらくして。まだほとんど身体も動かないけれど、掠れた小さな声なら、出せるようになった。
父と母に心配をかけたことを謝罪し、救急車を呼んでくれたのが朋子だったことも聞いた。
私が海に落ちた経緯などは、尋ねられることはなかった。両親の、思いやりだろう。私から話を切り出すのを、待ってくれるつもりなのだと思う。
優樹が病室を訪れたのは、さらにしばらく経った後だ。
「……よぉ、愛梨。久しぶり」
――優樹が、『優樹』として私と会ってくれるのは、三年半ぶりだ。
「優樹……来てくれて、ありがと」
「……おう」
三年半ぶりに聞くはずの優樹の声も、泣き笑いみたいな変な顔も、不思議と全てが愛おしく思える。
そして――そう感じる理由を、この世界の私も、もう知っている。
「――約束通り、迎えに来てくれたんだね。ありがとう」
「え――」
優樹は、綺麗な目を大きく見開き、時が止まったように私を見つめる。
「優樹。公爵じゃなくて、優樹の歌。新しい曲……聴かせてくれるんでしょう?」
「愛梨……?」
「――どうか、希望に満ちた歌を。お願い……王子様」
そして。
王子は、眠りから覚めた姫の手を取る。
「――何なりと。お姫様」
恋に落ちる音は、とても静かだ。
けれど、私たちは、今度こそ本当の恋を見つけた――そう、こちらの世界でも。
優樹が、ベッドの横にしゃがみ込み、私の耳元に口を寄せて、何かを伝える。
私は、驚いたように……けれど嬉しそうに頷く。
優樹はしばらくの間、私の頭をやさしく撫でると、立ち上がって部屋から出て行った。
誰もいなくなった病室で。
私は、おもむろに、こちらへ視線を向ける。
そして――私は、私と目が合った。
私は、私に向けて、静かに口を開く。
「――ありがとう。もう、大丈夫」
(大丈夫……って?)
私はそう返事をするが、実体がないからだろう、声にはならなかった。
けれど、私には私の言うことが分かったようだ。
「私、眠ってる間、あなたの世界の夢を見てたの。私の傷は、もう、あなたとあなたの優樹が、充分癒してくれた」
(私が……こっちの世界を夢に見ていたみたいに?)
「そう。私は、また頑張れる。今度こそ、幸せを掴むよ。あなたみたいに、自分の手で」
同じ私だから分かる。私の笑顔は、嘘でも偽りでもない。
「私の物語は、ここから始まるの。ありがとう、愛梨。――ありがとう、伯爵」
病室に、まばゆい光が溢れていく。
もう、この不思議な夢を見ることはないのだろう。そんな予感があった。
(こちらこそありがとう、愛梨。あなたのおかげで、masQuerAdesのおかげで、今、すごく幸せだよ)
「うん、知ってる」
(だから、あなたも、幸せになってね。――絶対だよ)
私が、微笑む。
私も、笑い返す。
そうして、私は、真っ白な病室から光の世界へ、誘われていく。
私の世界から伸びる、赤い糸を辿って――。
◇◆◇
それからというもの、不思議な夢はぱたりと止まった。
あちらの世界の私が言った通り、事故で転落した私の心が、癒えたからかもしれない。
また、その夢をきっかけに、今まで見てきた不思議な夢の内容も全てはっきりと思い出した。
あちらの私は、もう、大丈夫だ。
両親に謝り、お礼を言うこともできた。優樹も、私を想い続けてくれていた。
それに、朋子も――おそらく、私が海に落ちるほどショックを受けるなんて、思ってもみなかったのだろう。彼女はただ、修二が自分のものだと、私に見せつけたかっただけ。
だからきっと、あちらの世界でも、いつか朋子と仲直りできるに違いない。
あと、気がかりなのは、伯爵の正体と、彼女の行方だ。
こちらの世界で私が会ったことのない、『玄野』という名のマネージャーが、鍵を握っている気がする。
もしかしたら、こちらの私が会っていないだけで、優樹は『玄野さん』のことを知っているかもしれない――そう思って、私は優樹に尋ねてみることにした。
「……玄野さん?」
「うん。優樹は、会ったことある?」
「いや、ないな。どうして?」
「実はね……」
そうして私は、不思議な夢の内容を、優樹に全て話すことにしたのだった。
次回、最終話です。




