39 伯爵(2)
優樹は、隣に座る私をひとしきり見つめ、安心させるように頷くと、他のメンバーの方へ向き直った。
「愛梨は、俺たちの曲を耳で覚えて、譜面に起こしてたんだ。驚いたよ、なんせ、正確なんだ。しかも、自分でアレンジも加えるとしたらどうするかってメモも、走り書きしてあった」
「――耳コピで? 私たちの曲を、譜面に?」
表情のあまり変わらない陽菜さんが、目をわずかに見開き、眉を寄せる。信じられない、といった表情だ。
「そう。それも、ただの耳コピじゃない。俺がその譜面を見たのは、五月だ」
「……嘘でしょう? まだ音源も販売してなかった頃じゃない。ライブで聴いたものを思い出しながら、譜面に起こしたっていうの?」
陽菜さんをはじめ、メンバー全員が驚いて私に視線を向ける。
――しかし、皆は、一つ勘違いをしている。
皆は、私が一度や二度しか聴いていない曲を、完璧に覚えたのだと思っているだろう。
しかし、私は、タイムリープを経験しているのだ。実際には、何度も繰り返しmasQuerAdesの曲を聴き続けてきたのである。
「あの、それは――」
「本当なんだよ。だから、愛梨の耳の良さと記憶力、勘、柔軟性。彼女の音楽センスは本物だって、俺は思ってたんだ」
私は、どう説明すべきか悩みつつも、ひとまず何か言おうと、口を開きかけた。しかし優樹は、それを遮る。
「それで。今日、愛梨をmasQuerAdesのメンバーに引き合わせて説明をした後に……さ」
優樹は、再び私の方を見て、バツが悪そうに頬を指先で掻く。
「……あわよくば遊び感覚で、演奏に参加してみてもらえないかと思ってたんだ。記念になるからって説得すれば、頷いてくれるかなって思ってたから」
そう言って優樹は、「強引なことして、ごめん」と謝る。私が首を横に振ると、優樹は少し安心したように、小さく息をついた。
「まあ、でも。愛梨がどうしても嫌がったり、合わせてみて無理そうだったら、別のキーボーディストを探そうと思ってた。けど――」
そこで優樹は言葉を切ると、ふっと笑みを浮かべた。目を柔らかく細めて、やさしい声色で、続ける。
「――愛梨は、予想以上のパフォーマンスを見せてくれた」
「え……?」
「だよな、皆」
彼がメンバーたちに呼びかけると、皆、それぞれに明るい表情を浮かべて、頷く。
「うん。とっても楽しかった」
「最高のグルーヴだったよ、ベイビー」
「まあ、最高とは言わないけれど、伸びしろがあるわ。合格点ね」
優樹はその答えに満足したのだろう。三人に向かって、大きく頷く。
そうして、私の右手を取ると、自身の両手でそっと包み込んだ。
「だから、さ。もし、愛梨にその気があったら……、俺たちと一緒に、バンドしないか?」
「え? ……え?」
私は、ただただそうして、短く疑問を返すことしかできない。
突然の出来事に、自分の脳がショートしてしまったみたいだ。現実感がなくて、これは夢なのではないかと錯覚しそうになる。
けれど、私の手を包んでいる、優樹の両手は熱いぐらいだ。これは――紛れもない現実なのだ。
「……もちろん、急なことだし、無理にとは言わない。愛梨にも学校があるし、将来のことも考えて、資格の勉強とかもしてるだろ」
「うん……まあ」
「俺たち正式メンバーは、もうすぐレーベルとの契約を控えてる。どのレーベルと契約するかにもよるけど、普通の仕事に就くことは難しいかもしれない。でも、サポートメンバーとしてなら、学校に通ったり、働きながらバンド活動をする方法もある」
レーベルとの契約と聞いて、私は内心、そうか、と納得する。masQuerAdesがメジャーデビューをする時期が近いということだ。
所属契約が成立すれば、マネージャーもつくし、CDやグッズ、チケットの販路、規模なども大きく変わってくる。
曲作りに関しても、ライブ演出に関しても、今までとは異なる制約がつき、多くを求められるようになるだろう。だから、このタイミングでキーボーディストを探していたのだ。
「……学校や仕事以外にも、周りの理解をもらったりとか、色々難しいこともあると思う。俺たちと違って、最初から音楽の道に進もうとしてたわけじゃないんだし、そこは分かってるつもり。だけど――」
優樹は、手を離して、身体全体で私の方へ向き直る。そして、私の目をじっと見つめた。――真剣で、熱くて、懇願の込められたまなざし。
「――俺たち、masQuerAdesのメンバーとして活動する未来も、考えてみてくれないかな」
いつものやさしい表情ではなく、情熱的な瞳で、私を射抜く。
その真剣な面持ちから目を逸らせず、私はごくりと唾を飲み込んだのだった。




