37 マスカレード(4)
「……はぁ。あなたねえ」
ため息交じりの声で、陽菜さんが言う。
「は、はい」
私が姿勢を直して身構えると、彼女は続けた。
「何、もう帰ろうとしてるの? 何曲かやるって、さっき優樹が言ったじゃない。聞いてなかったの?」
「え……?」
意外な言葉に、私は驚いて目を見開く。私は正規のキーボーディストではないと明かしたのだから、ここで終わりになると思っていた。
「そうだよベイビー。せっかく熱くなってきたところなんだから、もっとグルーヴしようじゃないか!」
「うん。やろう」
竜斗くんも、琢磨くんも、目を輝かせて楽しそうに頷いている。
「愛梨。俺ももっと、愛梨とセッションしたい」
「優樹……」
優樹も、音楽への情熱を孕んだ視線を、私に向ける。そのやさしい微笑みに後押しされて、私は首を縦に振った。
「――お願いします」
私の返事を聞いて、陽菜さんの口角がわずかに上がる。
「ただ、少しアドバイスがあるわね。さっきのシンコペーションの部分、発想は良かったんだけど、ちょっと単純すぎたわ。裏拍を取るだけじゃなくて、もっと遊びを入れるといいわね。それから、サビ前のタッチだけど――」
陽菜さんのアドバイスは的確で、勉強になる。ピアノとは鍵盤の重さから何から全く異なっているため、まだ慣れていないということもあるが、バンドサウンドを作り上げるための知識が、私には圧倒的に不足していた。
彼女の指摘は、それをカバーして、確実に曲の力、バンドの力を底上げしていくものだ。masQuarAdesの曲は、彼女が編曲しているのかもしれない。
「――ひとまず、以上ね。じゃあ、次は何の曲にしましょうか」
そうして私は、結局、あと五曲ほど演奏に参加させてもらった。
大好きな推しに交ざって演奏するのは、やはり緊張したけれど、それ以上に楽しかった。音を通してメンバーたちとコミュニケーションを取りながら、一緒に曲を組み上げていく感覚は、一生忘れられない最高の思い出になるだろう。
全ての演奏が終わり、片付けを待つ間、私はスタジオの外の待合室で休ませてもらった。
私も手伝おうとしたのだが、メンバーたちだけで話し合いたいこともあるというので、外に出されてしまった形だ。私は部外者だし、当然のことである。
合わせて六曲も演奏をしたため、心地よい疲労が頭にも身体にもたまっている。私は椅子に座り、少しの間だけ……と目を閉じた。
◇◆◇
「……伯爵が、いなくなった?」
優樹が、スマホを耳に当て、誰かと話している。場所は、病院の中庭のようだ。
ぽつりぽつりと、入院患者が散歩したり、車椅子を押してもらって日向ぼっこしたりしている。
「玄野さん。伯爵から何か聞いてないんですか? いきなり伯爵を連れて来てバンドに加入させたのも、唯一彼女の連絡先を知ってるのも、マネージャーの玄野さんだけでしょう?」
玄野さんというのは、どうやらmasQuerAdesのマネージャーのようだ。
「あと二日? 何の話です? ――こっちの伯爵が目を覚ますまで、って……彼女、体調でも悪いんですか?」
優樹の表情が、さらに険しくなっていく。かと思うと次は、理解できない、というように視線を彷徨わせ、狼狽えるような仕草を見せた。
「はぁ、それ、どういう意味です? ……って、もう切れてるし」
優樹はスマホを耳から離すと、小さく息をついて、それをジーンズのポケットにしまう。
「……ひとまず、伯爵は病気療養中、って発表することになるのか……?」
優樹は、中庭をゆっくり横切りながら、呟いている。
「一体どこ行ったんだ? 俺たちには身の上話どころか、雑談すらしてくれないし。ずっとステージ用の仮面つけてて、素顔も本名も知らないし……これじゃあ、探しようがないじゃねえか」
そう言って優樹は、大きくため息をつき、建物の中に入っていった。
「それにしても……玄野さん、変なこと言ってたな。『お姫様は王子様のキスで目覚める』……、次にリリースする新曲の話か……?」
通りすがる他の人には聞こえないような声量で、優樹はぶつぶつ呟いている。こんな呟きが聞こえるのも、夢の中だからだろうか。
「……けど、もしそんな奇跡が本当に起こるなら。愛梨も……」
優樹は、首を力なく横に振り、ため息をつく。
「……いや。君にとっての王子は、俺じゃないんだよな」
そして、今日もまた同じ病室の前で立ち止まり、扉をノックした――。
◇◆◇
――――Next『伯爵』




