36 マスカレード(3)
陽菜さんが弾き始めたのは、ベースのリフから始まる、アップテンポなロックナンバー。先月発表されたばかりの新曲だ。ライブでも、まだ二、三回しか演奏していないはず。
それに、この曲は伯爵が加入する前に発表された曲である。タイムリープ前の時間軸で、彼女がライブの時、どんな感じでアレンジを入れていたのか、あまりよく覚えていない。
けれど――曲の構成も、コード進行も、筋金入りのmasQuerAdesオタクである私の頭には、しっかり入っている。
陽菜さんに合わせて、琢磨くんと竜斗くんも演奏を開始した。
優樹も、私の方に視線を向けてやさしく頷くと、ギターを鳴らし始める。
私はすう、と大きく息を吸って、目をつむった。
ずんずんと身体の芯まで響く音の波が、私の心音を上書きして、落ち着かせてくれる。
――大丈夫。私は、弾ける。
ふう、と大きく息を吐き、ゆっくりと目を開けて、キーボードの上に指を置く。
コード進行に合わせて、オンのリズムに和音を乗せていくが……、
「……違う」
私は呟いて、首を横に振った。
アップテンポなこの曲で、オンのリズムに和音を置いていくだけでは、他の楽器のグルーヴに乗れず、置き去りにされてしまう。
かといって、慣れないこの鍵盤で、分散和音を弾きながら早いコードチェンジについていくのは、今の私には難しいだろう。
キーボードのタッチはピアノに比べて軽い。初めて軽音楽用のキーボードに触った私には、まだ思うように弾きこなせない。
「なら……」
シンコペーションだ。
リズムの裏をとり、表は単音、裏はスタッカートぎみに和音を鳴らしていけば、疾走感が生まれるかもしれない。
私は一度演奏を止め、次の小節からリズムを変えた。
先程までの私の演奏を聴いてつまらなさそうにしていた陽菜さんたちに、小さく動揺が走る。しかし、悪い空気ではなさそうだ。
優樹は、満足そうに頷くと、マイクに向かって声を出す。
「愛梨、その調子! 躍動感が出てきたぞ!」
私は、優樹に頷き返す。見回してみると、陽菜さんも、竜斗くんも、琢磨くんも、面白そうに私の動きを見ながら、自由に演奏にアレンジを加え始めた。
――masQuarAdesの真骨頂は、これなのだ。メンバー各々の息がぴったりで、時には自由に大胆に、曲にアレンジを加えていく。
その瞬間を目の当たりにして、私は全身の毛穴が開くような、高揚感に包まれた。指が震えるような緊張は、いつの間にかすっかり薄れている。今はただ、こうして音の波に身を任せるのが、とにかく心地よい。
「二番から、歌も入れるぞ!」
優樹がマイクに向かってそう告げる。今は歌を入れていなかったが、ちょうど一番が終わろうとしているところだ。私たちは大きく頷いた。
間奏を経て、優樹は大きく息を吸い、二番の歌唱を始める。
「――遠回りして やっと見つけた
僕だけの美しい花 見渡せば 本当に遠くまで来た」
ああ、公爵の歌声だ。
染み渡るような、輝く水面のような、澄んだ歌声。
私は大好きな彼の歌声を邪魔しないよう、控えめに音を紡いでいく。
優樹がやわらかな微笑みを私に向ける。私も優樹に微笑み返すと、彼は嬉しそうに目を細めた。
そんな私と優樹を交互に見て、他のメンバーが目を見合わせる。
「――石畳に 車輪の音が鳴る
がたりと揺れる馬車 向かいの席に一輪 愛しい花が咲いている」
優樹が歌うのに合わせて、私も歌詞を小さく口ずさむ。
私のところにマイクはないけれど、自宅のピアノで一人で推しの世界に浸るときの、いつもの癖のようなものだった。
「――陽だまりに似た 君の瞳は
どこか遠く見つめて
何を思う 誰を想う 後悔してる?」
鍵盤を指が滑っていく。きらめく水面に、ひとしずくの光を垂らすように。
心が歌うそのままに、やさしく繊細な優樹のヴォーカルを引き立てるように。
「――けれど君は笑って言うんだ
過去に別れを告げてると
僕と過ごす未来を 想ってると」
頭の先からつま先まで、旋律が駆け抜けていく。
心地よい音の海に深く潜っているうちに、あっという間に曲は終わったのだった。
「……ありがとうございました。それから、ごめんなさい」
しん、と静かになったスタジオで、私はmasQuerAdesのメンバーたちに向かって、頭を下げた。
「あの、本当は私、優樹がスカウトしてきたキーボーディストじゃないんです」
masQuerAdesのメンバーは、誰も言葉を発さず、各々で目配せをしている。
「でも、私、皆さんの大ファンで。ライブにも毎回行ってて、本当に大好きで……なので、今日こうして一緒に演奏に交ざらせてもらえて、すごく良い思い出になりました。本当に、ありがとうございました」
私はもう一度、深く頭を下げる。
「……はぁ。あなたねえ」
――そうしてしばらくの間、頭を下げていた私に、陽菜さんの、冷たい声が降りかかった。




