28 臆病(5)
優樹は、私と同じ気持ちだったのかもしれない。
彼は曖昧に微笑んで、情けなさそうに指先で頬を掻く。
「――でも、怖くて、踏み出せなかった。そうして迷って、ためらってたら、ある日、学校まで父さんが迎えに来て」
「え、学校まで? それって……もしかして、高二の秋?」
「そうだよ。校長室にいきなり呼ばれて行ったら、校長と父さんが待ってたんだ。で、藤堂家で一人暮らしを始めたばっかりの俺に、芹沢家で暮らさないかって言い出してさ。何の冗談かと思ったよ。校長まで巻き込んで」
私は、あの日のことを思い出す。
校長室に呼ばれて、なかなか帰ってこなかったこと。
夕焼けの中、なぜか帰宅せず教室にいた優樹が、朋子に「恋人は作らない」と告げていたこと。
学校の前に停まっていた、黒く長い車体の高級車。
――こうして話を聞いたら、全てが頭の中で繋がった。
その時のことを思い出したのだろう、優樹は苦笑して、ベンチの背もたれに肘をのせて寄りかかる。
「俺は、即座にその申し出を断ったよ。父さんはまだしも、芹沢の屋敷には、苛烈な会長に、気位の高そうな奥さん。それから、腹違いの弟と妹が住んでる。どう考えてもトラブルの予感しかしないだろ?」
「うん……、そうだね」
私は、苦笑を浮かべながらも同意した。まさに針のむしろだ。私が優樹の立場だったとしても、まず間違いなく断っただろう。
「でも、結局、受け入れたんだよね?」
「ああ。俺は一人暮らしでも全然良かったんだけど、父さんがやたら熱心で全然引き下がらなかったのと……じいちゃんとばあちゃんが、俺を引き取ってもらうことに賛成してさ」
「おじいちゃんとおばあちゃんが……?」
「うん。校長室の電話で、俺が納得するまで、長々と説得されたよ」
優樹は、ベンチにもたれかかったまま、大きな銀杏の木から、葉がひらりと舞うのを眺めている。
黄色いカーテンの向こう側では、薄く細い雲が、ゆっくりと秋晴れの空を泳いでいく。
「『その方がお前のためだ。実の父親がついてるなら、自分たちも安心だ。離れて暮らしたって、苗字が変わったって、自分たちと縁が切れるわけでもないんだから』って。……まあ、俺のことを一人にしちゃって、心配だったんだろうな」
景色を眺めながら、優樹はひとつひとつ、思い出をたどっていく。
祖父母のことを話す時の優樹は、本当にやさしい表情で、彼が愛情をたっぷり注がれて育ってきたことが、よく現れていた。
「まあ、芹沢家の方が学校にも近いし、家事とかしなくてもいいし、じいちゃんたちを安心させられるし。家族のことに目をつぶれば、メリットは大きかったんだよな。……で、俺は条件を出して、芹沢家の養子になることを承諾した」
「条件?」
「ああ。一つ目は、高校を卒業するまでは藤堂姓のまま、通わせてもらうこと。二つ目は、芹沢家や芹沢コーポレーションの後継に関わる一切に、俺を巻き込まないことと、良くも悪くも、俺を特別扱いしないこと。三つ目は……この墓と、施設にいるじいちゃんばあちゃんを、最後まで俺に守らせてほしいってこと」
優樹の苗字がそのままだったのは、彼がそう望んだからだったのだ。そして、卒業まで隠し通すつもりだった――トラブルや好奇の目に晒されるのを、防ぐために。
「で、その日の夕方。父さんは、改めて学校まで俺を迎えに来て、車でここを訪ねたんだ。それで、母さんの墓前に、誓いを立てた。そっからは、忙しかったな……藤堂家の片付けとか、諸々の手続きとか」
「そう、だったんだ」
「――それで」
優樹は、ベンチの背にもたれかかるのをやめて、まっすぐ座り直す。
「芹沢家での暮らしとか、父さんの事情とか、新しい家族のこととか……話し出したら長くなるし、いつまでも本題にいけなくなるから割愛するけどさ。とにかく、その時に、『芹沢家の事情に俺を巻き込まない』って約束を交わした。だから、ようやく……俺は、一歩先に進めたんだ。俺も、人を好きになってもいいのかな、って思えた。……けど」
優樹は、悲しそうな表情をして、私をちらりと見る。
「――その時、愛梨の気持ちは、別の人のところにあった。まあ、愛梨もその先へは進まず、現状維持したがってる風には見えたけど」
「あ……あの時、私……」
「いや、いいんだ。誰が誰を好きになろうと、どんな形で想おうと、自由なんだから。――でも、今は」
優樹の形良い唇が、柔らかな弧を描いていく。
熱のこもった眼差しが、茶色の瞳が、私をまっすぐに見つめている。
「――俺が間違ってなければ、少しだけ、自惚れてもいいのかな……って感じてるんだけど」
甘く細まるその瞳に、やさしく綻ぶ口元に。
私の心臓は、どきどきと早鐘を打ち始めた。




