19 親友(2)
「愛梨……落ち着いた?」
心配そうに手を握ったまま、優樹は眉尻を下げて私の顔を覗き込む。
「うん、おかげさまで」
「良かった……!」
そう言って、優樹はぽすんとベッドの淵に顔を埋めた。柔らかな黒髪が、私の手の甲をくすぐる。
「優樹……ここに連れてきてくれただけじゃなく、看護師さんも呼んでくれたんでしょう? それに、ずっと一緒にいてくれたって」
私は、空いている方の手で、優樹の頭をそっと撫でる。男性にしてはさらさらした髪だ。
「ん……」
優樹は一瞬、驚いたように身じろぎしたが、されるがままに、短く返事をした。
「優樹、ありがとう」
「……ん」
優樹は、顔を少しだけ上げると、上目遣いで私の瞳を見つめ、やさしく目を細めた。
「お坊ちゃま、お嬢様。私は、失礼させていただきます。何かございましたら、お呼びください」
「ありがとう、伊東さん」
「もったいないお言葉です」
優樹が身を起こしてお礼を言うと、家政婦の伊東さんは、満面の笑みを浮かべた。綺麗にお辞儀をして、部屋から出ていく。
私は、すかさず優樹を質問攻めにし始めた。他人が近くにいた手前、下手なことを口にできなかったのだ。
「ねえ、優樹。ここ、優樹のおうちなの? さっきの伊東さんという方は、芹沢家のゲストルーム、って言ってたけど」
「ん、ああ……」
「それから、朋子は? あれから、時間はどのぐらい経ったの?」
「待って。一個ずつ説明すっから」
そう言って優樹は一度ベッドから離れ、遮光カーテンを開ける。穏やかな日差しが、レースカーテン越しに入ってきた。
優樹は、ドレッサーの椅子をベッドの横に持ってきて、そこに腰掛ける。
「まず、ここ芹沢家は、俺の父親の家だよ。救急病院よりここの方が近かったから、駅前のタクシー乗り場からすぐに直行したんだ。愛梨が倒れてから、まだ一時間も経ってない」
確かに、窓から差し込む光は、まだまだ明るい。それなら、私の親にも心配をかけなくて済みそうだ。
優樹の、「俺の父親の家」という言い方は気になったものの、詳しく聞いていいものか分からないまま、あっさりと話題は流れていった。
「朋子も、愛梨のことを心配してたよ。けど、俺に任せてくれって言ったら、『あとはお願い』って。それで、俺一人でここまで連れてきた」
「朋子が……私の心配を?」
「ああ。『声かけた時から様子がおかしかった』って、心配そうにしてた。あとでRINE送らなきゃな、愛梨は無事だって――」
「ダメ!」
私は、咄嗟に強い口調で否定してしまった。
優樹は、目を丸くしている。私は、ハッとして口を押さえた。
どうして、そんな風に否定したのだろう。自分でも、分からなかった。
朋子は、私を心配してくれたのに。朋子は何も悪くないのに、私は朋子を警戒しているのだろうか。
それとも……優樹だから?
……いや、それこそ良くないことだ。
私が、優樹の交流に口出しする筋合いなんて、一切ない。恋人でもないのに、そんな感情を抱くのは醜くて汚らわしいことだ。
「……ううん、ごめん。何でもない」
私は、優樹から目を逸らして、謝った。
布団の上に両手をおろして、ぎゅっと握りしめる。
爪が皮膚に食い込むが、そんな小さな痛みでは、自己嫌悪は消えてくれなかった。
「なら、さ」
私が固く握りしめた両手の上に、あたたかい手のひらがそっと被せられる。
優樹は慈しむように私の手の甲を包む。その温度と、やさしい声が、ほんの少しだけ、心をほどく。
「愛梨から、RINEしてやりなよ。それも辛いなら、スマホ貸してくれれば、俺が愛梨の代わりに送ってやるから」
私は返事を渋っていたが、優樹はやさしく、辛抱強く話しかけてくれる。
私は、逸らしていた目を、おそるおそる優樹の方へ向けた。
優樹と視線が交わる。
心から私を案じる、思慮深い瞳が、こちらをじっと見つめていた。
「なあ、愛梨。前にも言ったと思うんだけどさ、俺のこと、もっと頼ってほしいんだ。愛梨の心、少しでいいから、俺に預けてほしい」
優樹の言葉に、熱がこもっていく。
やさしく、真摯で、どこまでもまっすぐだ。
重なっている優樹の手も、火傷しそうなぐらいに熱くなっていた。
「――辛いようなら、言わなくてもいい。だけど、俺は聞きたい。他でもない、愛梨のことだから」
「……優樹……」
まっすぐな優樹の言葉に、私の心が、大きく揺らぐ。
――優樹になら。
優樹にだけは、話せるかもしれない。
彼なら、どんな不思議なことでも、私を否定することなく、うんうんと頷いて聞いてくれそうだから。
それに……私も、他の誰でもなく、優樹に、私の秘密を、私の心を預けてみたかった。
再会してからもうずっと、あなたのことを頼りにしているのだと、優樹に伝えたかった。
「私……私ね」
私は意を決して、話そうとする。
――しかし。
気持ちとは裏腹に、心が言葉を阻害した。
なかなか思った通りにいかず、言葉が宙に浮かんでは掻き消えていく。
しばらく口を開けたり閉じたりを繰り返していると、優樹が首を横に振った。
「……やっぱ、今はいいよ。愛梨の準備ができるまで、待ってる」
優樹は、寂しそうに、けれどやさしく笑ってそう言った。あたたかな手も、離れていく。
さっきまで優樹の手が触れていたところが、今度は風邪をひきそうにスースーと寒い。そこから、隙間風が入ってきているみたいだ。
「――ううん」
だから、私は覚悟を決めた。
このトラウマを乗り越えるために。
優樹に、しっかり向き合うために。
私は、私のために、優樹のために、自分の心をきちんと整理しなくてはならない。
「ちゃんと、話すよ。朋子と、修二と……私に起こった、不思議なこと」
私は、優樹の目をしっかりと見つめる。
優樹は、姿勢を正して、真剣な顔で頷いたのだった。