12 自覚(3)
◇◆◇
私が高校二年生だった時――ある秋の日の放課後。
下校途中で忘れ物に気がついた私は、通学路を引き返し、自分の教室へと戻っていた。
夕陽に染まった廊下は、活気のある昼間と様相を一変させ、草臥れたような気だるい空気に包まれている。
どこかの教室から、黒板消しをクリーナーにかける音が聞こえ、チョークと埃が混ざったような独特の匂いが漂ってきた。
自分の教室へ着き、扉に手をかけようとしたところで、わずかに開いていたその隙間から、よく知った声が耳に届く。
私は教室に入るに入れず、扉の隙間から、こっそりと教室の中をのぞき込んだ。
「――俺、恋人作る気、ないから」
そこにあったのは、やはりよく知る二人の姿。一体どんな話をしていたのか、優樹は、朋子に対してそっけなく、冷たい声で返答している。
「ふーん。つまんないの」
そう言って、朋子は興味を失ったように優樹に背を向けた。彼女は、私が立っているのと反対側の扉から廊下に出て、乱暴に扉を閉める。
幸いなことに、私は夕陽によって長く伸びた影に隠れていたのだろう。朋子は私に気付くことなく、廊下の向こうへ歩き去って行った。
「……俺だって、本当は……」
優樹は拳を握りしめ、唇を震わせて呟いている。その声は小さくて、教室の外にいた私には、部分的にしか聞こえなかった。
私は、忘れ物を回収するのを諦め、そっと教室から離れたのだった。
――あの時、盗み聞きしてしまったことをきちんと謝って、優樹に事情を尋ねていたら、何かが変わったのだろうか。
けれど、あの時は……なぜだか、胸をぎゅーっと掴まれたような気持ちになって、苦しくて。
友達として、優樹とちゃんと話をするべきだと頭では分かっていたけれど、心が誤作動を起こしたようで、気がつくと校舎から出てぼんやりと一人帰路についていたのだった。
◇◆◇
どうして優樹の顔を見たくないと思ってしまったのか、その時の私にはさっぱり分からなかった。
けれど、時間が経った今なら分かる。
――私は、あの時一度、優樹に失恋していたのだ。
まだ、好きという気持ちを自覚する前のことだったから、自分でもあれが失恋の痛みだったとは、気付いていなかったのだろう。
毎日、優樹と他愛ない話をするのが楽しみだった。
通学路で偶然会ったら「よっ」と手を上げて笑いかけてくれて、一緒に登校したり。
一緒にテスト勉強をしたり、漫画の貸し借りをして感想を言い合ったり、その時の気分に合わせておすすめの曲を教えてもらったり。
何気なく話したことを覚えていて、「あの後どうなった?」と気にかけてくれたり。
そんなごく普通の毎日が幸せで、大切で。
だから、優樹が彼女を作る気がないとしても、友達としての関係だけは壊したくなかった。
踏み込んだことを聞いて、自分でも気付いていなかった恋心の芽を悟られてしまうのが、怖かったのだ。
あれから、もう二年も経った。
あの時は恋人を作る気がないと宣言していたけれど、今はもう、優樹の事情や気持ちも変わっているのかもしれない。
――なのに、私は、まだ臆病だ。
あの時の冷たい声色を、そっけない表情を。
夕焼けに染まる教室を、埃っぽい廊下の匂いを、こうして思い出しては立ちすくんでしまうのだから。
それに……私なんて、やさしい優樹にはふさわしくない。
優樹への恋心を諦めて、修二への憧れを募らせて。それでも高校時代には、二人のどちらに対しても、友達として過ごすこと以外は、何ひとつも望まなかったし、悟らせなかった。
――いや。もしかしたら、朋子だけは、私の想いに気がついていたかもしれない。
とにかく、私は本当の気持ちを隠して、友達の仮面をかぶって、波風を立てないようにしてきたのだ。
けれど、その結果待っていたのは、拗らせてしまった修二への憧れと、朋子に対する裏切り。
悪かったのは、私を騙した修二だけではない。私に悪意をぶつけた朋子でもない。もちろん、優樹でもない。
知らなかったとはいえ、私が……私が、居心地の良い四人の輪を壊してしまったのだ。
それなのに、私は今になってまた、優樹に想いを寄せようとしている。
けれど、修二のことがあったから、恋人として付き合うのが怖いという気持ちも強い。
――はっきりしなくてはいけないことは、分かっている。
身を引くのなら、きちんと線を引くべきだ。
怖いと思うなら、正直にそれを伝えるべきだ。
なのにまた私は、中途半端な現状を維持することを望んでいる。
私は……こんなにも臆病で、不誠実だ。
*
あれから数日。今日は、優樹と買い物へ行く約束をしている。いつもと違う、大きな駅で待ち合わせだ。
優樹は相変わらず、Tシャツとジーンズというラフな服装である。
私が優樹を見つけると同時に、優樹の方も私を見つけたらしい。にこりと笑って片手を上げた。
「よっ」
「ごめんね、待った?」
「いや、俺も一本前の電車で来たとこ。さ、行くか」
「うん」
ほんの少し、こぶし一つ分だけ距離をあけて、私たちは並んで歩き出す。
恋心を自覚してしまった上で、仕舞い込もうと努力している今――この距離を保って歩くのが、なんだかとても難しいことに感じた。