本能寺の宴
アマガイ ツバサは歴史学者として、誰よりも織田信長を愛していた。
戦国の覇者が築いた波乱万丈の生涯と、本能寺の変での悲劇的な最期。
そのすべてが彼の研究テーマだった。
大学の図書館にこもり、彼が手にした無数の史料には、信長が残した数々の手紙や書状も含まれていた。
信長の筆跡の力強さには、ツバサはいつも感動を覚えていた。
その日、ツバサはいつものように研究室へと向かう道中だった。
冬の曇天の中、突風が吹き抜け、看板がきしむ音が聞こえた。
「危ない!」と思う間もなく、金属製の看板が彼の頭上に落ちてきた。
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気がつくと、彼は異様な空気の中に倒れていた。
厚い畳の香り、蝋燭の火が揺らめく光、甲冑を身につけた男達の視線。
目の前には、一人の男が立っていた。
黒い法衣をまとい、獅子のような眼光を宿したその姿は、ツバサが研究の中で何度も頭の中で思い描いた「織田信長」その人だった。
「貴様、何者だ?」
低く響く声に、ツバサは身体を震わせた。
しかし、それが恐怖からではないことに気づく。
彼は歴史を愛する学者であり、目の前に立つのは、まぎれもなく時代を超えた英雄。
「私は未来から来た者です。そして、織田信長公……あなたにお伝えしたいことがあります。」
家臣達は口々に「妄言」「戯け者」と罵ったが、ツバサの目には覚悟、そして決意が表れている。
彼はショルダーバッグから一冊の本を取り出した。
表紙には「織田信長直筆文書集」と書かれている。
信長はその本を手に取ると、しばらくの間、目を細めて無言でページをめくった。
「ほう……これは、わしの字だな。」
信長の声には、驚きと興味が入り混じっていた。
ツバサは震える声で続けた。
「明日の未明、ここ本能寺に明智光秀が軍を率いて攻め込んできます。それが歴史に残る『本能寺の変』です。」
信長は本から顔を上げ、ツバサを見つめた。
「わしはお主の言葉を信じよう。未来の者よ、その先はどうなる?」
「信長公は……自害されます。そして……未来の日本では、あなたの名は永遠に語り継がれます。」
一瞬の沈黙の後、信長は声を上げて笑い出した。
「愉快だな! わしが死んでも、名が後世に残るとは。人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻の如し、か……」
ツバサは必死で食い下がった。
「ここで逃げれば、未来は変えられます!あなたが生き延びれば、もっと大きな歴史を築けるのです!」
信長は微笑み、首を横に振った。
「未来がどうであろうと、わしは今を生きる。この本に書かれているわしの名と行いが真実であれば、それで十分だ。光秀が攻め込むならば、それを迎え撃つまでよ。」
信長の覚悟を目の当たりにしたツバサは言葉を失った。
信長を救いたいという情熱も、自分が何もできないという無力感にかき消されていく。
「それにしても、この書物……面白いものを見せてもらった。」
信長は笑顔で本を閉じると、ツバサに向き直った。
「お主、未来の学者とやら。ここまで話した褒美に、わしと一杯飲むがよい。」
その夜、ツバサは信長や家臣達と共に酒を酌み交わした。
心の中では、この宴が最後になることを知っていたが、もはや止める術はなかった。
──そして、未明。
火の手が上がる本能寺の中で、ツバサは再び意識を失った。
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目を覚ました時、彼は研究室の机にいた。
手元には、本能寺の変について書かれた資料が広がっている。
彼の胸には重い感情が残っていた──それでも、あの夜の信長の笑顔と声は、何よりも鮮やかに彼の脳裏に刻まれていた。