お上手
小さな事件に対処しつつ、宮廷に居る期間が延びると、ロートの立場が実に、危うい均衡の上に成り立っているとわかってきた。
侍従長と、その派閥の侍従達は、ロートの味方だ。官女も大多数が、ロートをきちんとした王太子として仰いでいる。ロートの妹にあたる王女達も、一様にロートを愛し、次期国王にと望んでいた。
それに貴族でも、特に古くからの家は、ロートについていた。
それこそへーレ家や、ヴォルケ家、マルモア家シュラム家ラーヴァ家などの、建国時からの貴族達だ。彼らはロートの状態を、はっきり知っていた。その上で、国法に則り、ロートが王太子になるのが正しいと考えている。数こそ少ないが、有力な味方である。
また、他国出身者を祖とする貴族の大多数は、ロートの状態を知りはしないが、消極的に味方ではあった。他国出身者が祖、というのは、どこまでいってもついてまわる。その立場では、長男への継承が通常である玉座を云々することは、できない。
反対に、それ以外の貴族は、ほとんどが陛下の弟のパウル派だった。ロートが式典にほとんど姿を見せず、なにか功績を挙げた訳でもなく、化粧領もぱっとしないからだ。殿下が体を患っているのではないか、というのは、多くの貴族、また一般階級でも耳にする噂である。それほど、ロートは滅多に人前に出ていかない。
そのような、居るか居ないかもはっきりしない王子を王太子として仰ぐより、式典にも参加するし、外交やなにかで成果も上げているパウルのほうが、次の国王に相応しいのではないか……と、そう考える貴族が出てくるのは、当然だ。
古くからの貴族の支持があり、何度か、ロートは王太子になりそうだった。
その度貴族の誰かが難色を示し、ロート自身に意見をいわせようという話になって、頓挫する。ロートは大勢の前で、動揺せずに喋ることはできない。また、妙なことを口走らない保証もない。陛下達は、それで尻込みし、結果としてロートはずっと王太子になっていないのだ。
毎度、ロートに意見を直にいわせよう、という話になるのもおかしなことで、だから裏で誰かが糸をひいているのではないか、ともいわれている。
しかし、古くからの貴族の支持が強くあるので、廃嫡だとか、修道院へいれるとかの措置も、またとられていなかった。言動に問題がある貴族の子女は、多額の寄付とともに修道院に預けられ、そこで一生をすごすことはめずらしくない。王家でもそうなのだが、王妃がいやがって、ロートを手放さなかったのだそうだ。それに、王太后が賛成したので、今のようにロートは宮廷に居る。宮廷の、奥まったところに。
侍従長から、ファナはそんな話を聴いた。皆、殿下を愛しているのです、とも。殿下に、玉座を継いで戴きたいのです、とも。
とはいえ、王族も一枚岩ではない。ファナには把握しきれていないけれど、派閥のようなものは確実に存在した。陛下の母、パウルにとっても母である、王太后さまが、ロートを認めている。それが為に、王太后につく人間はロートにつき、そうでない人間はパウルにつく、そんな雰囲気がある。
そうやって、ロートを宮廷へ残してくれた王太后は現在、体調を崩して伏せっている。年齢も年齢だし、もし亡くなれば、一気にロート派とパウル派の力関係がかわる可能性も、あった。
「閣下がたの尽力で、殿下が宮廷へ残れたそうですね。ありがとう」
王太子の后であれば、貴族へ敬語をつかう必要はない。だが、ファナは男爵家出身で、ついそれが出てしまう。
東宮殿の社交室には、へーレ家とヴォルケ家の主達が、並んで椅子に腰掛けていた。向かいにはファナ、その隣にロートが居る。ロートは画板を膝にのせ、体を揺らしながら、木炭を走らせていた。本来なら、植物園で絵を描いている時間だが、ファナが頼んで来てもらった。今日は、王妃の差配で、貴族のなかでも重鎮のふたりとのお茶会をすることになったのだ。
へーレ卿とヴォルケ卿は、微笑んでロートを見ている。
「いえ、殿下のご人徳です」
「姫さまがいらして、殿下は随分、ああ……落ち着かれたそうですね」
かなり言葉を選んだヴォルケ卿に、ファナは肩をすくめる。
「わたくしには判断つきません。殿下はいつもご立派で、大変な努力家です。わたくしからすると、どうして殿下がいつまでも王太子になれないのか、不思議でなりませんわ」
ふたりは優しい目でファナを見てから、顔を見合わせた。「いったろう」
「ああ」
なんだろう、と思ったけれど、ファナは口をはさまない。すると、ヴォルケ卿がファナを見て、いった。
「姫さま、実を申しますと、姫さまを殿下の后にと奏上さしあげたのは、わたしなのです」
「まあ。閣下が?」
「ええ。殿下がファナ嬢を気にいったようだと、王妃陛下がおっしゃっていましたし、わたしにはあなたが殿下に相応しいと思えた。そして、それは正解でした。……そのことで随分、こやつには恨まれましたが」
にこやかにいって、ヴォルケ卿はへーレ卿を示す。へーレ卿は少しだけ、苦く笑った。
もともと、ファナはへーレ家へ嫁ぐ予定だった。
貴族達は、へーレ家の窮状を救うかわりにファナが嫁ぐと、皆口にしないまでも気付いていたろう。だから、噂になるとしても、へーレ家は上手に王家に厄介者をおしつけた、とか、殿下はあおざめたような顔の娘が好きなかわりものだ、とか、そんなものだろう。
一般階級は、ことの経緯を知らない。すでに婚約は公表していたから、それが解消され、ファナが王家へ嫁いだとなれば、まるでファナが、へーレ家よりも王家がいいとのりかえたように見える。或いは、へーレ家には勿体ないと、王家が奪いとったとも。それは、へーレ家にとっては、はじなのではないだろうか。
面白おかしく騒ぎ立てる者らも、実際に居るらしい。
更に、ゼロームと、ファナの一歳下の妹、ミンカとの婚約が、少し前に正式に発表された。それでまた、世間は騒いでいるようだ。
人前に滅多に出てこない、病かもしれない殿下に姉が嫁ぎ、妹がその後釜に座るというのは、面白い話なのだ。芸人達がそっくりそのままの筋立てで、殿下を好色な人物、ミンカを姉を陥れる悪女として描いた芝居をかけて、公序良俗に反するというので罰せられている。
もともと、王家や貴族を面白おかしく脚色する芝居は幾らでもあるが、今回は度が過ぎた。だが、一般市民からすれば、それも、本当のことを演じたからお上が慌てたと、そう見えるかもしれない。
「ゼローム卿や、ミンカは、なんともないのかしら」
「勿論ですとも」
へーレ卿は大きく頷く。「率直に申しますが、姫さま。わたしは偏見を持たないつもりだったが、ウルー家のような、他国の出の者が祖となっている家を、あまり信用していなかったのです」
「日和る者らもありますからな」ヴォルケ卿がいい添えた。「こやつを悪く思わないでください。ウルー家のように忠義に篤い者らはめずらしいのです」
「まあ、そのように偏見でもって、正しくウルー家を見ていなかった訳です……」
へーレ卿は少しだけ俯いて、軽く、ひげを撫でた。
「しかし、あなたと、うちのゼロームが婚約して、付き合いがはじまると、印象はかわりました。あなたも、ミンカ嬢やシャマールも、いや、実に王家へ忠実で、驚いたのです」
「我が家にはそれしかありません」
ファナは頷く。「王家へさしあげられるものは、本当の意味では忠義だけ。ほかの貴族も同じことでしょう」
「そうではない貴族もある、とだけ、申しましょう。残念なことですが」
ヴォルケ卿はどことなく、疲れたような、怒ったような顔で口をはさみ、背凭れに体を預けた。へーレ卿はそれを見てから、ファナへ目を戻す。
「不作はもうごめんです。領民を死なすまいと、方々駈けまわり、頭をさげて金をかりるのは、楽しいことではないですからね。しかしわたしは、あなたやウルー家の忠義を見るにつけ、不作で借金をつくってしまった自分を幸運だと思うようになったのです。なんと、義に篤い、よい嫁をもらえたのかと。こやつの所為で、あなたとゼロームの結婚式は見られませんでしたが、ミンカ嬢はゼロームの説得に応じてくれた」
驚いたことに、ゼロームはミンカを口説いたようだ。何度も宴で顔を合わせていたし、もしかしたらミンカとのほうが気が合うのかもしれない。
妹にとられた、とか、そのようなことは思わなかった。ミンカは素晴らしい相手と結婚できそうだと、安心しただけだ。
「ファナはぼくとけっこんしたよ」
不意に、ロートがいったので、三人は揃ってそちらを見る。殿下は画板の端をぎゅっと掴み、へーレ卿達を訝しげに見ている。
「ゼロームとはけっこんしない」
「おお、失礼をいたしました、殿下。勿論、姫さまは殿下のお后ですとも」
「きさきって、おかあさまのこと?」
「殿下の妻ということですわ」
「ふうん?」
ロートはいまいち、理解していないようだったが、謝罪されたのはわかったのだろう。また、木炭を動かしはじめた。紙にはまた、名状しがたい、線の集合体ができている。
ふと、それになにか、見覚えがあるような気がして、ファナは画板を覗きこんだ。「まだできてないよ」
「殿下、なにを描いておいでなのです?」
そう質問してから、ファナは一度も、自分がそれを訊かなかったことを思い出した。植物園でなにかを描いている時は、植物なのだろうと簡単に片付けてしまっていた。なにを描いているかわからなくても、誰も困らないし、ファナも夫がなにを描いているかにそこまで興味はなかったのだ。ただ、なんの緊張もなく、楽しそうに木炭を動かしているのが、とても可愛らしいと、そう思うだけだった。
だが、この室内で、ロートがなにを描いたのか、それは気になった。
ロートはファナを見る。
「ファナだよ」
「わたくし……ですの?」
「うん」
紙を見るが、そこに人型のものはない。線の集合……。
ファナはそれを見詰めて、小首を傾げ、自分の手を見た。そして、ぎくりとした。「わたくしの手ですか?」
「ううん。ファナのてくび。てくびと、袖」
ロートはそういって、手をおろした。「できたよ」
侍従達に、ロートがこれまで描いた絵を持ってこさせた。絵はすべて、物置に置いてある。ロートは絵を描くと興味を失うそうで、侍従達がそこへ仕舞いこんでもなにもいわないのだ。ただ、描きかけのものを間違って持っていくと、泣いて暴れるので、完全に描き終えたかどうか、侍従達はロートへいつも確認する。「殿下、これはなんの絵ですか」
「はっぱ。さくらんぼうので、かれて、せんだけになってるやつだよ」
「これは?」
「ちょうちょのあし。百合にとまってたから、かいたんだ」
「こちらは」
「いとすぎの下のとこだよ。ねえファナ、これたちがなにか、きになるの?」
「はい」
「じゃあ、おしえてあげる。これはね、侍従のドリットのえりのとこ。こっちはあやめの茎。これは妹のリーリエのまぶた。しばふ。まつのきのはだ……」
その調子で、ロートは絵を、ひょいひょいと掴んでは横へ避けた。木炭だけで描いたものもあれば、絵の具で色をつけたものもある。なにを描いているかわからないものだらけだが、ロートはそれらをすべて記憶しているらしい。
「……官女のコラレのつめ。おかあさまのかみのけ。ファナのかみのけ。ファナのめ」
絵を見て、ファナは感嘆の息を吐く。傍に立っているへーレ卿達も同様だ。「なにを描いているのか、わからなかったが」
「……わかれば、これは」
あとは言葉がない。上手だ、といいたいのだろうと、ファナは判断した。実際、ロートの絵は、ぱっと見てもなんなのかはわからないけれど、なにを描いているのかがわかれば、緻密で繊細な絵だった。
細かい。そして、かなり近くから描いている。ファナは、最初にロートと話した時、彼が自分のまわりをぐるぐるとまわって、じっくりと観察していたことを思い出した。
「どうしてきになるの?」
ロートはちょっとだけ、不安げだ。「ぼく、あんまりじょうずじゃないよ」
「お上手です」ファナは嘆息する。「いいえ、それでは足りません。とてもお上手です。殿下は、乗馬と弓だけでなく、絵も大変な努力をなさったのですね」
ロートは肩をすくめ、小さく唸ってから、席へ戻った。画板にはあたらしい紙がはさまれている。
「ロートは、あなたのおかげで、随分進歩したように思えるわ」
陛下達と食事を戴いていると、王妃がそういった。宮廷へ来てからは、やっと二回目だ。ロートとは朝も夜も一緒に食べるけれど、陛下達が加わることは少ない。
王妃の視線の先には、体を揺らしながらスープをすする、ロートが居る。相変わらず、体を揺するので、その為になにかをこぼすことはあったが、誰もなにもいわなかった。
「ファナの尽力は、素晴らしいわ」
テーブルを囲むのは、王家の方々だ。なかには、何度もロートが口にしていた、妹達も居る。女ながら、乗馬を好んでいるというリーリエ。侯爵家への降嫁が決まっているマグノーリエ。修道院いりを希望しているフリーダ。華やかな顔ぶれだ。
残念ながら、ロートのことを庇護しているという王太后は、姿を見せなかった。王太后はこのところ、特に体調がよくないのだ。十日に一度、ロートが見舞に行っているが、どのような情況かはファナには話してくれない。
ファナはロートを見て、小さく頭を振る。「いいえ、すべて殿下のお力です。わたくしは、殿下のまわりをちょろちょろしているだけですわ。弓がお上手なのも、乗馬がお上手なのも、絵がお上手なのも、殿下の努力ですもの」
「しかし、ロートの絵が真実うまいとわかったのは、君のおかげだ」
陛下がいうと、女達はこっくり頷いた。陛下はいたずらっぽく、一瞬だけ片目を瞑る。「それに、ロートが女に興味のない訳ではないと、よくわかった。君へ恋文を書いたことで」
「あれは、そのようなものではありません」
例の、ファナの髪についての文章だ。あれはあの数日後、陛下達へ渡している。
王妃は優しい声を出す。
「どのようなものでもいいの。この子が自発的に、自分から文章を書いたというのが、重要なの。書き写したものではなくて、自分の気持ちをかけるということが」
声は後半、涙に濡れた。王妃は目許を拭い、喘ぐようにいう。「これからもこの子の人生が、平穏であればいいわ」
往々にして、起こってほしくないことは起こるようだ。
ファナが王家へ嫁いで、半年ほど経った、ある日、結局一度も目通りかなわぬまま、王太后が亡くなった。
シーズン中で、貴族達が集まっている時に。
危うい均衡で保たれていた力関係が、王太后の死で、一気に動いた。