ファナ、ほっとする
ファナは、起きている間はほとんど、ロートと一緒に居た。数日ごとに、化粧領から報告があるのだが、それも一緒に聴いた。官吏が長々と、殿下の領地について説明をしても、殿下はほとんど理解している様子はなく、いつでも、わかった、としかおっしゃらない。官吏達はそれでひきさがる。殿下がご自分の領地について、ああせよこうせよと指示することは、どうやらないようだ。
ただ、実際に領地を管理している執政官は、ロート自身が任命したそうだ。勿論、陛下が選抜したなかから選んだのだが、ロートはその人物を信用して、すべてを任せている、ということらしい。
毎日、乗馬と弓をやり、植物園で絵を描き、学習室にこもる。はじめこそ、ファナは学習室には近寄らなかったけれど、あれ以来一緒に行くようになった。パウルの態度が非常に不快だったからだ。
しかし、ファナも人間だ。体調を崩すこともある。
熱っぽさを感じて、もし風邪なら殿下にうつしては大事と、自室で伏せていた日のことだった。夕方頃、ロートが泣いてやってきた。
「どうなさったのですか?」
ロートは涙とはなみずでぐちゃぐちゃの顔で、ファナの居間の床へ突っ伏し、泣き続けている。ロートの態度を見て、すっかり彼を信用するようになった侍女達が、タオルやなにかを持ってきた。
ファナはタオルをとって、ロートの傍へ座りこむ。「殿下、お顔を拭かせてください」
「……ファナ、ごめんなさい」
「まあ、謝ることなどございませんわ。さあ、お顔を綺麗にしないと」
「ぼく、やくそくをやぶった」
約束?
ロートとの約束、といえば、ひとつしかない。寝室でのことだ。自分以外とこういうことはしないでほしいと、そう頼んだ。
ロートはぐすぐすと泣きながら、上体を起こした。鼻水がぽたぽたとこぼれる。「いやなんだ。いやだっていった。だのに、ぼくのうでをつかんで、ふくをぬがせようとした。ぼく、いけないんだっていったよ。ちゃんと、ちゃんと、だめって。ファナとやくそくをしたし、そういうことをするのはだめだって、おかあさまと、妹のリーリエと、いもうとのフリーダがいったんだっていったのに」
「誰ですか?」
ファナはロートの顔を覗きこみ、訊いた。成る丈冷静な声で。「誰が、殿下にそんな無礼を働いたのですか?」
「かんにょの、リベレ」
ロートはしゃくりあげ、侍女達が失礼しますといって、その顔をタオルで拭いた。ロートはそれ以上なにもいわず、泣き続けた。
ロートを説き伏せて寝台へ寝かせ、ファナは急用だと、陛下達に時間をつくってもらった。
がらがらの謁見の間に、ファナは侍女とともに参じた。ファナがそのように陛下に目通り願うことはなかったので、ロートになにかあったと思ったのか、王女達も勢揃いしている。
そしてその場には、ロートが名前を出した、官女のリベレも居た。以前、ファナの世話をしていたが、いつの間にか居なくなった子だ。一度、くってかかられたので、顔は覚えていたが、名前はさっぱりだった。
「ファナ、急用だときいたが?」
「お訊ねしたいのですが、陛下はわたくしでは殿下の妻の任が務まらないとお考えでしょうか」
「なに? そのようなことは考えておらぬ。突然、どうしたというのだ」
ファナはほっとして、息を吐いた。その可能性を考えたからこそ、リベレを直接呼び出して問いただすような愚は犯さなかった。王家は、存続せねばならないのだ。だから、ファナはその役割を全うすることをもとめられる。
便宜上の夫婦など、とんでもない。それは王家の責務をこなさないという意味だ。ファナは嫁いでいって殿下の妻となった以上、すべきことはすると決めている。
「ようございました。たしかにわたくしは、まだ身籠もっていません。その為に、陛下がそれを気に病んで、殿下に愛妾をおつけになろうとするのかと勘違いしてしまいました。おゆるしくださいませ」
「どういう意味だ、それは、ファナ?」
「そこに居る官女のリベレが、殿下を襲いました」
王も王妃も、口をぽかんと開ける。ファナはリベレを見ず、淡々と事実を述べる。「殿下がおっしゃいました。いやだというのに、リベレが服をぬがそうとした、と」
「嘘です!」リベレが金切り声を上げる。まっさおになっているが、口は滑らかに動いた。「違います、殿下はファナさまに怒られるのがこわくて、真実を口にしなかったのですわ。わたくしは殿下と情を通じております。殿下はわたくしを后にしてくださるおつもりです」
「リベレ、質問に答えなさい」
王妃が威厳のある声を出すと、リベレは口を噤んだ。
「ロートはあなたに、なんといったの? あなたと、情を交わす時に?」
「勿論、愛しているとおっしゃいました」
「くわしくおっしゃい。いつどこでのことです。何回あったのですか」
王妃の声は、有無をいわせない響きを含んでいる。リベレは口をぱくつかせ、喘ぐ。
「それは……まず、はじめは、ファナさまが来る前です。詳細な日時は忘れてしまいました。わたくしが庭掃除をしていると、殿下がいらして、わたくしに挑みかかられたのです。わたくしは、殿下ですから、あの、拒むこともできずに」
「お黙り」
王妃が一喝すると、リベレはさーっと白くなって、黙り込む。
王妃はそれを、険しい顔で睨んでいた。
「今の話で、嘘がはっきりわかったわ。お前には失望しました。出てお行き」
「そんな……酷いです! わたくしは殿下の子を身籠もっているかも」
「出ていくか、王子を陥れようとした罪で裁かれるか、どちらがいいの?」
王女のひとりが鋭い声でいうと、リベレはその場へ倒れ込んだ。気絶したのか、したふりか、わからないけれど、陛下が侍従達を呼び寄せ、リベレを外へ運び出すように命じた。官女の位を剥奪し、ことの経緯を記した書簡とともに実家へ戻すように、とも。