普通みたいに
ロートはだらしなく衣装を身につけ、植物園で画架をたてて、木炭で絵を描いていた。乗馬と弓の鍛錬はすでに終えたそうだ。夜には結婚式だというのに、その日にまで鍛錬かと驚いたけれど、ロートは毎日決まっていることはしないと落ち着かないらしい。
陛下達は、ファナがすぐにやってくるとは考えていなかったのだろう。それにおそらく、ロートの状態を聴いて、すぐに承諾するとも思っていなかった。断るにしても、すぐには断らないと思っていたようにある。
そして今は、ファナの気がかわらないうちに、急いで結婚式を挙げようとしている。だから、結婚式はロートの予定に割り込む格好になった。
「殿下、少し宜しいでしょうか」
話しかけてみると、ロートは弾かれたようにファナを見た。まっかな瞳だ。くしゃくしゃの髪をすかして、怯えた視線をこちらへ向けている。
ファナは微笑んで、これ以上ロートを怯えさせないように、立ち停まった。ファナが動きを停めたからか、ロートは少しだけ肩の辺りの緊張を解き、木炭を掴んだ手をおろす。「な……なに?」
「ファナと申します。殿下の妻です」
「あ。うん、おとうさまとおかあさまとおばあさまからきいた」
ロートはぎこちなく頷いて、画布へ目を向けた。「結婚しなさいって。ぼく、よくわからない」
「あまりむつかしく考えなくても宜しいと思います。わたくしが家族に加わるとお考えください」
「かぞく? じゃあ、ゼーといっしょだ。ゼーはぼくの馬。ゼーは家族。たいせつにしなさいって、おとうさまと、おかあさまと、おばあさまと、妹のリーリエがいってた」
馬と同列にされ、侍女の眉がつり上がったけれど、ファナは笑みを崩さなかった。馬は人間の役に立つ。現に、殿下の乗馬の鍛錬の役に立っている馬と、同列になったところで、怒りはわかない。
「ええ、可愛いゼーと同じくらい、大切にしてくださいませ」
「うん。ゼーはきれいなんだ。すごくいいけなみをしてて、虫がつかないようにまいにちといてあげる。大切にするから」
ロートはぴたりと黙り、またファナを見た。目をしばたたき、ぎくしゃくとした動作で近付いてくる。侍女や官女達がひっと息をのむ。
ファナのすぐ傍で停まり、ロートはまじまじと、ファナを見た。彫像をじっくり見るひとのように、ファナのまわりを歩きながら、背中をまるめたり爪先立ったりして、くまなく見ている。
そうして、彼はファナの前へ戻ると、ぎこちなく微笑んだ。「きれいな毛だね。ゼーとおなじくらい。ちゃんとといてもらった? ぼくがしてあげるよ」
「畏れおおいですわ」
「でもむしがついたらかわいそうだから、ぼくをこわがったらいけないから、毎日とかないといけないって、じょうばのツァイヒェンせんせいと、いもうとのリーリエがいってた。ぼく、ブラシをいっぱい持ってるから、してあげられるよ。ゼーのたてがみをとくのにつかってるブラシがいいとおもう。同じくらいきれいな毛だから、たいせつにするから、まいにちしてあげる」
「ありがとうございます。でしたらわたくしも、毎日殿下になにかしてさしあげたいです」
「どうして?」
「殿下を大切にしたいのですわ」
ロートはしばらく考えるように、首をかくかくと左右に動かしていたが、得心がいったのか、細かく頷いた。「うん。うん。ゼーはぼくをのせてくれる。きみは、なにしてくれるの」
「殿下の苦手なお勉強の、お手伝いをいたします」
「うー」
ロートは顔をしかめ、大きく唸って後退る。それで会話は終わったらしく、彼はまた画布の前へ立ち、木炭を動かしはじめた。ファナは官女に命じて椅子を持ってこさせ、座って殿下を見ていた。
結婚式は非常に面白いものになった。ロートが落ち着きを失ったからだ。
途中までは、ロートは緊張していたものの、失敗はしなかった。だが、誓いの言葉を読む段になって、彼は不安そうに体を揺すりはじめた。
その場に居るのは、王家の一部、それに貴族だった。といっても、ごく少数に限られる。ロートの状態は、王家のなかでも玉座に近い――継承順が若い――者と、王国ができた時からの貴族にしかあかされていない。勿論、官女や官吏、侍従達はまた別である。ただ彼らも、大概は貴族階級出身だ。そして、王家に対する大きな忠誠心がある。だから、家族やなにかに殿下の状態をもらすことはない。
王族も貴族も、ファナのあおざめたような顔に、やっぱり不快感を持ったらしかったけれど、流石に文句はつけなかった。陛下の弟は、いやに楽しそうだった。なにがそんなに楽しいのかわからないが、ずっとにこにこしている。そういう表情だと、陛下との年の差がはっきりと見てとれた。
誓いの言葉を読めない様子のロートに、ファナは耳打ちした。ロートはそれを繰り返し、なんとかその場の体裁は整った。
司祭がふたりの結婚を認めたあと、誰かが贈ってきた祝いの為に、ロートが更に動揺した。楽隊の演奏だったのだが、ファナにはわからないものの、失敗があったらしい。ロートは椅子を倒して立ち上がり、耳を塞いだ。
陛下達がはっとして、ロートのそれ以上の行動を辞めさせようとしたけれど、間に合わなかった。ロートは大声で――幾つもの楽器をかきけすほどの声で、失敗を指摘しはじめたのだ。顔をまっかにして、涙ぐみながら。
侍従が数人がかりで、ロートを広間からつれだした。王妃が顔色を失い、それを追う。国王は咳払いし、花婿ぬきで式を続けることを提案した。
誰も反対しなかったが、ファナはにこやかに席を立って、わたくしは夫の傍に居たいですので、と、その場をはなれた。誰も追ってこず、ファナは広間を出ることができた。
ロートは寝台に突っ伏して、めそめそと泣いている。花婿の仰々しい衣装はぬいで、シャツと簡単なずぼん姿になっていたが、まだ、耳を塞いでいた。
王妃がぐったりと疲れた顔で、床に座りこんでいた。傍には、ロートがぬぎちらかした衣装がある。
「陛下、お体がひえます」
「ああ、ファナ」
王妃も泣いていたようだ。化粧が崩れている。握りしめた手巾を、引き裂かんばかりにひっぱる。
「ごめんなさい。結婚式があんなふうになるなんて」
「いいえ、殿下の負担が大きすぎました。陛下の責任ではございません。あのように煩雑な式をはじめた誰かが悪いのですわ」
ファナはくすっとして、ロートの寝台へ近付く。「殿下、わたくしもそこへ座って宜しいですか?」
ファナの声は決して大きくはないが、ロートには聴こえたようだ。耳から手を少しだけ、浮かせるようにしてはなし、ファナを見る。ファナは笑みをうかべた。
「殿下の寝台の、この辺りに、腰掛けても宜しいですか」
「……うん」
「ありがとうございます」
ファナは寝台に腰掛け、手をあげてから訊いた。「殿下のお体に触れても宜しいですか?」
「さわるの?」
「はい。殿下がおゆるしくださればですが」
「痛い?」
「背中を撫でてさしあげたいのです。痛かったらそうおっしゃってください。そうすれば、続けません。ほんの少しだけ、触らせてくださいませ。どうですかしら」
ロートは考えていたが、手をだらりと投げ出した。「いいよ」
「失礼いたします」
そっと、殿下の背中に手を遣る。うすいシャツが、汗で湿っていた。まだまだ寒い時期だというのに、汗をかくほど泣いたらしい。
ファナは、情けないとか、男として頼りないとか、そのようなことは思わなかった。寧ろ、ロートは勇気のある、気骨のある人物だと感じた。緊張していても、いやでも、式を挙げようと努力した。誓いの言葉も、なんとか読もうとしていた。それ以降も、投げ出さずに頑張ろうとした。
軽く、拍子をつけながら、ぱたぱたと叩く。痛くないように気を付けているつもりだ。ロートはなにもいわないから、大丈夫だろう。
「笛が二度もまちがったんだ」ロートはまた、涙をこぼした。「いちどはがまんしたんだ」
また、ロートの顔が赤くなる。思い出してもいやなくらいの失敗だったようだ。ファナは息を吐いて、今度はロートの背中を、上から下へと撫でた。
「殿下、失敗を指摘するのは、有意義なことです。ですが、指摘の仕方というものがございますわ」
「……むずかしいよ。ファナのいうことはむずかしい」
「申し訳ございません」
謝ってから、ファナはにこっとする。「ほら、こうやって、指摘が役に立つこともあります。わたくしはこれから、殿下には、持ってまわったいいかたはしません。殿下が、難しいと指摘してくれたから」
「わかんないよ」
「殿下が、さっきのように優しく、音が間違っていたといえば、奏者はやりなおします。大きな声を出さずにおっしゃったほうが、きっと宜しいですわ」
これでもまだ、もってまわったいいかただろうか、と思って、ファナは微笑み、いいそえた。「演奏を停めて、お喋りのような声でいえばいいのです」
ロートは洟をすする。小さく頷いて、そうだね、といった。それで、ファナにはもう充分だった。
「本当に、あんなふうになるのは、最近ではめずらしかったの」
眠ったロートを寝室へ残し、ファナと王妃はひとつ隣の居間に居た。疲れた顔の官女達が、衣装を持ってどこかへ行く。侍従がお茶を淹れ、持ってきた。
「あの場の雰囲気に、緊張されていたのでしょう」
「ええ、ええ、そうでしょうね。そうだわ。ロートは近頃では、二回も、式典に出ているの。できるようになってきたの」
王妃はぬるいお茶を一息にのみ、マグを置いて、目許を拭う。唇が紫になり、震えている。
「本当に、この頃は、普通みたいに思えることもあったの」
小さな声には、ファナは答えなかった。