お相手
ロート殿下の名は、領地でただ貴族令嬢らしい振る舞いを、礼儀を学び、またシーズンで王都を訪れただけの時には、あまり聴かなかった。宮廷の奥に立派な植物園をつくらせている、風流なかただと、商人達はそんなように噂していた。ただ、式典などに出てこず、お姿をほとんど見せないので、もしかしたら伏せっておいでなのではないか、と。
或いは、非常なかわりものだ、という噂もあった。醜男でそれがはずかしくて表に出てこないのだ、とも、好色で官女達に手を出して何度も不名誉なことになっている、とも。
だから、殿下ではなく、陛下の弟君が次の王になるのではないか、なんて話までささやかれていた。
陛下に弟が居るというのは、ファナは知っていた。式典などに出席することもあるので、噂には少々の信憑性があった。
勿論、そのような噂に、確たる根拠はない。話していたら不敬として罰せられかねない。だが、式典にめったに姿を見せない王子には、その手の不快な噂は、どうしてもついてまわった。
ほとんど姿をあらわさない殿下に、多くの人間が気色の悪さを感じている。国民にまともに顔も見せない王子が、次の国王になることに、皆漠然とした不安を覚えている。
ゼロームと婚約し、貴族の宴に多く顔を出し、貴族しか――それも、ある程度以上の歴史のある貴族しか――出入りできないような社交場に行くようになって、ファナはそれ以上の話を聴いた。
ロート殿下は、ああ……聡明とはいえないかたらしい。もっと口さがない表現も、幾らでも聴いた。あまり、大声でいいたくないような単語だ。
それに、具体的な話も幾らかもれきこえてきた。
曰く、殿下は数字を十までしか数えられない。
曰く、殿下はご自分の名前さえ間違って書くことがあるので、侍従達が気遣ってかわりに署名するようになった。
曰く、官吏達が化粧領について報告さしあげても、よきにはからえとしかいわない。
曰く、規則を理解するのが得手ではなく、その為遊びというものをほとんどできない。
曰く、官女達がちょっかいをかけたり、ご夫人がたが誘いをかけたりしてもそれがなにかわからず、女達はこわいといって陛下へ泣きついた。
つまり……要するに……その高位の貴族達の噂が真実であれば、殿下は、知能の発達に問題があるらしい。飽くまでも、噂が真実であれば、だが。
ファナにとって、その噂話はただ不愉快だった。
何故って、ファナにとって、貴い王家の方々の噂など、まずもって不敬以外の何物でもないからだ。陛下をはじめ、王家の方々は国民をまもり、国を豊かに、平和に保つ為に尽力されている。王家のおかげで安寧にすごせているのに、その噂など、口が裂けてもいいたくはない。その噂の善し悪しは関係なかった。いい話でも、悪い話でも、等しく不敬だろう。実際にしてもいないことならば、いってもいないことならば。
この数百年、他国に侵略されることなく、また侵略することもなく、反乱も王家に対してのものは数回程度だった。平和な暮らしを享受していられるのは、王家のおかげだ。自分達は王家に尊敬の念を持たねばならない。尊敬している相手の、たしかでない情報を、吹聴していい訳はない。だから最初にロート殿下の噂を耳にしたとき、貴族達の頭がどうにかしてしまったのかとファナは思った。なんと尊大な態度だろうか、と。実際、どうかしているのだろう。領民を蔑ろにし、数回反乱を起こされている家の人間が、嬉々として噂を口にしていたのだから。
おまけに、彼女は男爵家の娘で、しかもその男爵家の祖は他国出身で、だから裏返しても逆さにしても、殿下とお近付きになることなどない。
法的に可能かどうかではなく、ほかに大勢の、しかも立派な家格の、生粋の王国貴族の娘達が居るのに、自分に殿下の許嫁などという栄誉な立場が訪れる訳はないと思っていた。それに、自分のような――一応男爵家とはいえ――財力だけしかない家の娘が、殿下の友人になる訳もない、とも。
ロート殿下の噂は、ただただ不愉快かつ、自分には関係のない話だったのだ。
なのに、そのロート殿下が、ファナをめとるという。ウルー家の意向もファナの意思も関係なく、突然使者が来て、宮廷からの指示を読み上げた。すぐに宮廷へ参じ、殿下と結婚するようにと書かれていたそうだ。
そうファナは聴かされた。ウルー家の誰もが、なにが起こったのかわからない、混乱状態にあった。かたや、由緒正しいへーレ家からの突然の婚約破棄、かたや、雲の上の殿下からの突然の求婚である。それをすぐにのみこむほうが無理な話だ。
けれど、ファナにも、ウルー家にも、選択肢はない。
「すぐに馬車の用意を」
父からくわしい話を聴いたファナは、すぐにそう、女中へ命じていた。「都へ行くわ。必要なものを揃えて頂戴。ガウンはあちらの邸にありますし、必要ならば都の仕立屋に頼むほうがはやいでしょう。だから、道中必要なものだけね。お金は忘れないように」
息を継ぎ、ファナはすばやく瞬いて、髪を耳にかけた。
「あとは日記帳くらいしか持っていかなくていいわ。それ以外は、どうしても必要になれば買うか、都からこちらへ連絡して、運んでもらえばいい。余計なものを積まないでね。侍女はふたりだけでいいです」
女中が出ていき、父は呻くようにいった。「ファナ、いいのか?」
ファナはそれを見て、小さく息を吐き、頷く。浅く、数回。
「わたくしの意思は関係ございません。殿下が来いとおっしゃるのですから、参りますとも」
「しかし……殿下は……」
父も、爵位持ちとして貴族同士の付き合いをする間に、噂は聴いているらしい。それが、どのような噂かはともかくとして、父は殿下によい印象を持っていないようだ。
不快な話を耳にする前に、ファナはいう。
「もしや、へーレ家がわたくしとの婚約を破棄したのも、王家の意向では?」
「む。……それは、ありうるかもしれぬ」
父は顎を撫で、ぐっと眉根を寄せた。父が不遜なことをいわなかったのに、ファナはほっとする。父の口からあんなにも不快な噂が出てきたら、自分がどんな行動をとるかわからなかったからだ。
父は鼻に皺を寄せる。
「殿下が横槍をいれたのか。王家が借財を肩代わりしたということか? なれば、へーレ家があれだけの金を手にいれたのも、わからぬでもない。王家が、お前を譲らせる為に、支払ったのだ。ゼロームから、お前を奪うのに」
奪うというのとは違うだろう。ウルー家が肩代わりした借財を、更に肩代わりし、へーレ家がファナを迎える理由をなくしたのだ。そして、宙ぶらりんになったファナを、ひょいと掴みとった。いとも容易く。
自分の身柄がモノのように売り買いされたらしいと、ファナは気付いて、苦く笑った。項垂れ、肩から滑り落ちた髪を払いのけて、顔をあげる。
物事のよい面を見よう、と、そんなふうに考えた。へーレ家はいいひと達ばかりだったけれど、あおざめた顔の娘をめとるのはいやそうだった。幾らか肌の色の濃いミンカのほうがいい。いや、ミンカがへーレ家へ嫁げなくてもいい。そもそもへーレ家は、金のかわりにファナをひきとるという約束をしただけだ。約束はなくなった。なら、もうへーレ家とウルー家には、なんの関わりもない。
王家はわたくしの為に、相当の金を動かした。それも、殿下の妻になる名誉をくださる為に。
なんにせよ、殿下は余程、ファナを求めているらしい。ウルー家が肩代わりしたへーレ家の借金は、なんの誇張もなく莫大なものだった。金貨にしておよそ三千枚。一般家庭が十年以上、不自由なく暮らせるだけの金額。自分が毎年自由にできる額の、十五倍。そんな計算をしてしまったから、気絶なんてしたのだろう。決して、自分ではなくミンカが選ばれたと思った動揺ではない。
わたくしに金貨三千枚の価値があると、殿下はお考えになった。
そう思い込むと、少しだけだが気分はよくなった。実際のところ、借金をどうにかなくしただけのへーレ家が、金貨三千枚もの金を、たった半年で用意できる訳はない。元手はないし、へーレの領地はこの数年、不作に喘いでいる。今年どうにかなればいいが、そうでなくばまた、方々に頭をさげて金をかりる羽目に陥ったろう。
三千枚もの金貨をすぐに用立てることができるのは、王家くらいしかない。家のことに関わらないファナでも、それはわかる。ファナとゼロームの婚約が発表されてから、半年以上が経っているが、裏を返せば一年にも充たないということだ。その期間でも、並みの貴族では金貨三千枚など、とても用意できない。するとすれば、家財や宝石を売り払って、だ。王家であってもそれはかわるまい。貴族ならば、かならず噂が立つというだけだ。
ファナは息を吐いて、胸を張るようにした。せめて、毅然としていなくてはなるまい。これがなにかの間違いでないならば、わたくしは殿下へ嫁ぐのだから。
「父さま、持っていけないものはミンカ達にあげます。好きにするように伝えてくださいませ」
「ファナ」
「馬車の準備にはさほどの時間もかからぬでしょう。わたくしはすぐに、王都へ参ります。殿下がすぐにと仰せなら、臣民として、その通りにせねば」
父は口を開いたけれど、反対意見どころか言葉はなにも出てこない。ファナはもう一度頷いて、本を持っていることを思い出し、それは父へおしつけた。
女中が戻り、馬車の用意ができたといったので、ファナは外へ出る。馬車には旅行鞄と、金貨の詰まった箱が積まれていて、ファナは女中に感謝してのりこんだ。
ウルー家の領地は僻地にある。王都までは、馬車で半月かかった。それも、精一杯急がせて、だ。
ファナは道中、女中が気を利かせて積んでくれていた本を読み、余計なことを考えないようにした。本というのはとてもありがたいものだった。自分がいったいどんな男性に嫁ぐのか、宮廷ではどのような扱いをうけるのか、そんなおそろしいことに思いをはせなくてもいいからだ。とても楽で、穏やかな旅だった。
途中、宮廷からの迎えとかち合い、ファナは馬車をのりかえた。王家の印を刻んだ馬車は、確実に信頼のできるものだったから、不安はない。侍女達はこわがっていたけれど、ファナはこわがらなかった。これ以上酷いことにはなりようがないと思っていたのだ。まさか、宮廷へ行った途端に破談になるなんてこともあるまい。
宮廷から送られた、儀仗兵や官女達、ファナを迎えに来た者らは、何故かずっと不安げだった。不意に王家へ嫁ぐよういわれ、そのまま家を出てきたファナより、ずっと。
宮廷は、なんとも居心地の悪い空気で充ちていた。ファナは馬車を降りた瞬間から、違和感を覚えていた。王子の花嫁を迎える雰囲気ではないのは間違いがない。寧ろ、葬式かなにかのようだ。官吏も官女も儀仗兵達も、ファナの顔をまともに見ようとはしない。
あおざめたような顔だからだろうか。
あまり考えたくはないことだけれど、考えられることではあるし、彼らに拒絶されたとしてもその気持ちはわかるから、ファナは気にしないことにした。それに、ファナをまもるように傍に居る侍女達も、同じような扱いをうけていた。彼女らは問題なくこの国の人間に見える。それでも、わずかな拒絶やなにかを感じるのだから、肌の色云々の問題ではないのかもしれない。それとも、ウルー家の関係者だから、よそよそしい態度をとられているのだろうか。
昨シーズン仕立てたなかでも一番、顔色をよく見せる、撫子色のガウンを着て、胸を張り、顔をあげ、堂々と歩いた。肌の色は隠せない。かえることもできない。ならば、それと付き合っていくしかない。できもしないことをしようとするのは愚かというものだ。
「どちらへ参ればいいの?」
官吏へ訊ねると、相手はかしこまって、ファナを案内した。
ファナは、広間で高位の貴族達に迎えられたあと、ろくろく挨拶もせずにそこをつっきって廊下へ行き、しばらく歩かされ、宮廷の奥の奥へいたった。侍女も一緒にだ。
短い橋を渡ると、その先は王族の個人的な空間だ。貴族でも滅多に這入れないそこに、ファナはずけずけとあがりこんだ。官女達、官吏達、それに結局ここまでついてきた侍女達も頭をさげて歩くなか、ファナはそうはしなかった。下を向いたら気絶するかもしれないという妙な予感が働いたからだ。
議場や大広間のある、宮廷でも外側の建物と違い、あまり大仰ではない、けれど趣味のいい豪華さの建物が見える。
その前に、謁見の宴でお目にかかった、陛下達が居た。おふたりで、どことなく悲痛げな表情で。
おふたりの背後から、背の高い少年が、顔をのぞかせた。くしゃっとした黒髪が、国王陛下とそっくりそのままだ。瞳はファナが今まで見たことのない、うさぎのそれのような紅だった。顔立ちそのものは、王妃に少し似ている。緊張しているようで、顔が強張っている。
自分と同じか、歳下か、と、ファナは考える。身長ばかりのびて、中身は子どもという感じの彼は、仕立てのいい衣装を着ているが、クラヴァットはきちんとしめていない。ボタンもところどころ外れていたり掛け違っていたり、どことなくだらしない印象をうける。髪には、よく見るとところどころに宝石のような赤がまざっていて、それは陛下とは違う。
彼は怯えた顔でうーんと唸り、陛下の背中に隠れる。陛下が優しくいった。
「ロート、きちんと顔を見せなさい。ほら、挨拶もするんだ。お前の花嫁が来てくれたんだぞ」
髪や顔立ちで、予測はしていたから、ファナはあまり動揺しなかった。ただ、殿下は自分よりも二歳上の筈だと思い出して、それで動揺した。