【6】植物学者
男は植物を研究している学者だという。
古代の森に興味があってここに移住してきたらしく、ここからほど近い屋敷で暮らしているそうだ。
「この家には元々、森の管理人が暮らしていたらしい。どの屋敷よりも古代の森の近くにあるから、古代の森に行くたびに通りかかるんだ。とはいえ鍵が掛かっているから、なかに入ったことはない」
「はぁ、なるほど」
通い慣れた道を歩いていたバーロンは、その鋭敏な嗅覚でサンドイッチの匂いを嗅ぎ取った。
ふらふらと誘われるままやってきて、我慢できずにセラから強引に奪うようにして食べたというわけだ。
どこが賢いのかその基準を知りたいと思ったが、挑発しているように受け取られるかもしれないのであえて何も言わない。
好かれようとは思わないが、あえて敵を作ることは生きていく上での愚策である。
「自己紹介が遅れたな。俺はヴィル・ネルソンという」
「セラです」
「セラか。今後何かと顔を合わせることもあるだろう、よろしく頼む」
「こちらこそ」
ヴィルはその後いくつか会話を交わすと、屋敷に戻っていった。
すでに古代の森で記録を取ってきたようで、帰宅途中だったらしい。
セラは荷解きに取りかかり、今後の予定をたてる。
生活していく上で収入源を確保しておきたいので、薬を卸す店を探さなければならない。
以前に契約していた店に輸送して振り込んで貰ってもいいが、薬品なのでできれば自分の手で卸店に持ち込みたいのだ。
(あとで、薬を置いてくれる店を探すとして。さっそく、古代の森で材料集めとしましょうか)
わくわくとしながら出掛ける準備を進めたが、荷解きに思っていたよりも時間がかかっていたらしい。
陽が暮れ始めているのが見えて、セラは外出を思いとどまった。
この身体は、人形ではなく人のものだ。
人はとても脆弱で夜目も利かないため、夜間の外出は危険なのである。
セラは朝一番に出掛けようと決めて、キッチンに置いておいた鞄に手を伸ばした。
「あ。……サンドイッチ、無いんでした」
人は食べなかったら、飢えて死ぬ。
食事は生命線であり、寿命や健康にも影響を与えるのだ。
そのため、セラはできる限り食事をしっかり取るようにしているが、今夜ばかりはサンドイッチで済ませようとしていた。
だがそれさえも、バーロウに食べられてしまったのである。
ため息をついたとき。
玄関ドアの向こうで、「わっふ!」と聞き覚えのある声がした。
「バーロウですか?」
出迎えると、バーロウは尻尾を振りながら家に入ってきた。
ヴィルはいない。
首に、前掛けのように小さなポシェットをつけている。
「もしかして、バーロウのご主人からですか?」
「わっふ!」
バーロウが苦しくないようにそっと外して、ポシェットをひらく。
両手ほどの大きさの包みが入っていて、そっと開くと、ロールパンにベーコンとレタス、ゆで卵を挟んだものが二個入っていた。
遅れて、ポシェットのなかにメモ用紙が入っていることに気付く。
神経質そうな字で、「バーロウが食べた分には足りないが、今夜の空腹はこれで凌いでくれ」と書いてある。
意外と律儀なんですね、とセラのなかでヴィルに対する好感度がやや上がった。
大切に食べよう、ともう一度包み込もうとしたとき。
「わふ!」
バーロウがロールパンを一つ食べてしまった。
慌ててもう一つを死守する構えだが、のし掛かられて、あっさりと奪い取られてしまう。
よれよれになったセラは、満足そうなバーロウにポシェットを付け直し、屋敷に帰らせた。
わんぱくなバーロウは口にパン屑をつけていたから、何があったのか、すぐにでもヴィルの知るところになるだろう。
セラはもう寝ることにした。
魔法で身体を清めてから、屋敷の明かりを消す。
そして、今日から自室となった部屋の布団に潜り込んで、眠りにつく。
魔法で干したてふかふか布団にしたベッドは、とても心地よくて、セラは熟睡することができた。
◇
朝日と共に目が覚めたセラは、町に降りるにはまだ早いと考えて、古代の森へ行くことにした。
動きやすい厚手のズボンと長袖の上着、さらにマントを羽織ったセラは、胸いっぱいに朝の静謐な空気を吸い込んだ。
呼吸とは、かくも心地よいものなのかと思ったのは、人の肉体を得たときだった。
他にも、眠る間際の微睡みや、起きたあとのうとうとする心地には、ふわふわとした幸福感を覚えるのだ。
これは、肉体を持つ者にしか得られないことである。
(ああ……本当に、すごい)
森につづく道を歩き、見上げる程もある大木を前にセラは圧倒された。
古代の森という名に相応しい、荘厳さすら感じる大木群。
ここから先は神域だと、本能のようなものが訴えてくる。セラはその圧倒的な自然を前に、己の矮小さを知る思いだった。
人の寿命は、長くて八十年ほど。
魔法使いとして実体を持たなかったセラですら、この世を彷徨ってきた時間は二百年ほどである。
――古代の森は、数億年前からここにあるという。
まだ神々がこの地におわし魔法使いが当然のように暮らしていた、まるで物語のような時代からだ。
セラは自然と頭が下がり、古代の森に立ち入ることの許しを乞う。
予想以上に、古代の森は素晴らしかった。
珍しい薬草や、初めて見る木々に草花。生き物も多く生息している。
「チチッ!」
人が珍しいのか、セラの方にリスが降りてきた。
反対の肩には、フクロモモンガが飛び乗ってきて、すりすりと臭線をセラの体に擦り付け始める。
「あなた方は、とても可愛いですね」
二匹はセラの肩が気に入ったようだ。
退く気配がないので、セラはそのまま進むことにした。
魔法解析にかけたり、葉の破片や土の一部を採取したり、としているうちに、あっという間に時間が過ぎてしまう。
小動物たちを肩から下ろしてまたくる旨を約束し、セラは屋敷に戻った。
「本当に留守だったのか」
ドアの前に、ヴィルが立っていた。
昨日と同じ漆黒の服装に今日はモノクルをつけて、片方の肩にリュックを掛けている。
「居留守だと思ったんですか?」
ヴィルが顔をしかめて、サッと視線を逸らした。
肯定しているも同然である。
「森に行っていました。何か御用ですか?」
「バーロンが食べてしまった分の食事を……昨夜、簡易なものだが、届けさせたのだが……」
ヴィルは言い淀み、こほんと咳払いをした。
「しかし、どうやらまた食べてしまったらしい。すまない、普段はとても賢い犬なんだが」
「構いません。今日は朝から町に降りる用事がありますから、そこで朝食を買うことにします」
サッと辺りを見るが、バーロンの姿は無い。
どうやら今日は留守番のようだ。
「そうか。詫びに食料を持ってきたんだが、貰ってくれるだろうか」
「助かります、遠慮なく頂きます」
ヴィルがリュックから取り出した食料を受け取る。
ふわりと香辛料の香りがして、お、と思った。これは結構高価な品である。
「きみは薬師と言っていたな」
「はい」
「良ければ今度、我が家に招待したいのだがどうだろう?」
「目的によりますね」
間髪入れずに答えると、ヴィルは苦笑した。
「俺が植物の研究をしているという話はしただろう? 薬師の見地から意見を聞きたいんだ」
「私の意見など大したものではありませんよ」
サラリと遠回しに断った。
セラにとっては、興味がない事柄だったからだ。
「……俺が暮らしている屋敷は、かつて、古代の森の守り人が暮らしていた屋敷だ。かなり古い頃からの文献や記録が残っている。古代語で書かれていて読めないものも多いが、好きに読んで構わないぞ」
「わかりました。いつごろ伺いましょうか?」
それはぜひ読んでおきたい。
古代語の本も、翻訳魔法にかければ読めるだろう。
コロッと態度を変えたセラに、ヴィルが苦笑した。
「大体屋敷にいるから、いつでも来てくれて構わない。場所はこの道を真っ直ぐに進んだところだ。すぐにわかるだろう」
「では、今日の午後か明日辺り、早速伺わせて頂きます」
ヴィルは、待っていると言うと、古代の森へ歩いて行った。