【2】セラの旅立ち
まだこの世に精霊たちがいた時代に、人々から生まれた希有な存在――魔法使い。
遺伝はせず、数億分の一という確率で、どこにでもいる人の夫婦から生まれるという。
セラが魔法使いとしてこの世に生を受けたのは、今から二百年も昔のことだ。
双子の兄と共に生まれたセラには肉体がなく、ふよふよと空中を漂うだけの『意識』だった――。
何も食べなくてもそこに在れたが、誰にも見られず、誰とも話せず、人の寿命を越えて空中を漂い続けるだけの人生は、あまりにも退屈だった。
長い旅を終えて、とある森に住み着いたのは気まぐれに他ならない。森の深くに、まるでひと目を忍ぶようにして建つ屋敷を見つけたのだ。
そこは何年も前に空き家となった、人形師の屋敷だった。
二百年の歳月のなか、より多くの知識と強力な魔法を使えるようになっていたセラは、自分の魂を人形に移し、生まれて初めて、四肢を得たのである。
赤毛の女の子の人形を選んだのは、兄がセラを妹として可愛がっていたからだ。
長い人生のなかで、兄だけがセラの存在に気付いていたのである。
兄は、鏡にすら映らないセラの姿がはっきり見えると――自分と同じ、赤毛の少女がいると言っていた。
会話を交わすことは出来なかったが、兄はいつも一方的にセラに話しかけてきた。セラという名前をつけたのも兄だ。
セラは当然のように兄と共に生き、彼の人生の一部のように傍で過ごした。
そうして歳月が過ぎ、老いた兄は最期にこう言った。
――『触れたかったよ、セラ』
あのときの兄の言葉が、両親や兄の顔を忘れてしまった今も、頭に残っていたのだ。
触れるとはどういう感覚なのだろうか。
手足があればよいのだろうか。
兄は何を求めていたのだろうか。
――身体を得たら、分かるかも知れない。
人形師の屋敷で暮らし始めたのは、そんな昔のことを思い出したのがきっかけだった。
だが言わずもがな、所詮は人形でしかない。
それでも手足を得たことは大きく、セラは人のふりをして街に降りては、人に関して知識を深めた。屋敷ではこれまで出来なかった魔法薬作りを趣味として、副産物としてできた薬品を売ってカネを稼いだ。
偶然とは必然である、という言葉を聞いたことがあった。
ディアンナとの出会いは、まさにそれだったように思う。
◇
セラは着ていたドレスを脱ぎ捨て、用意してあった旅装束に着替えた。
素足にぴったり沿うくるぶし丈のズボンをはき、風よけのマントを羽織っただけだが、おおよそ貴族令嬢とは思えない雰囲気を醸す。
本物のディアンナならばいざ知らず、中身は平民出身のセラなのだから当然のことだ。
「助かりました」
部屋から出たセラは、王宮から馬車でここまで連れてきてくれた御者にカネを投げて寄越した。
カネを受け取った男は上品に微笑んでから会釈をする。
当然、ポーリッシュ家お抱えの御者ではなく、セラがカネを積んで雇った者だ。堂々と依頼できる内容ではないため、正規の手順での雇用ではない。
そのため資金もかなり必要だが、足がつきにくい利点もある。
「部屋に脱ぎ捨てたドレス、もういらないのですけど。あなた、貰ってくださいますか?」
「それは売ってもよいのでしょうか?」
「ええ。足が着かないようにお願いしますね」
「心得ております」
優雅に一礼する男の傍を通り過ぎ、セラは外に出た。
出てきた家屋を振り仰ぐ。王都の南東にある、貸し部屋の一つだ。
セラはディアンナの身体を得ると、すぐ旅にでる準備を進めた。拠点として自由に利用できる場が必要だったため、半年間まとめてこの貸し部屋を借りたのである。
いつでも旅に出る――ポーリッシュ家を捨てる――ことができるように、着替えなどの最低限の旅支度を済ませておいたのだが、まさかこんなに早く、ポーリッシュ家を出ることになろうとは。
セラはこのまま、舞踏会から帰宅せずに姿を消すつもりだ。あんな愚かな婚約破棄を突きつけられたあとだから、ショックで失踪したとか、そんなふうに勘ぐってくれるだろう。
大通りに出て、道行く人々に混ざって歩く。
ふと、資金集めのために薬を売っていた薬屋を通り過ぎる。
瞬間、ふわりと記憶が蘇った。
――『まぁ、ありがとう! これでドルトン様も元気になってくださるわ!』
この世の誰よりも優れた美貌を持つドルトンは、不治の病を患っていた。
どのような薬や治療も効果がなく、それでもディアンナは婚約者であるドルトンを助けるすべはないかと王都の薬屋を一つ一つ回っていたのである。
そんななか、ディアンナは薬屋の店主からセラのことを聞いたのだ。
腕の良い薬屋が、納品してくれるようになってから売上があがった、と。
ディアンナは、一縷の望みに縋った。
彼女はいつ売りにくるともわからないセラのことを待ち、やがて、ディアンナとセラは出会う。
そうして――。
ディアンナの願い――『ドルトン専用魔法薬の生成』――と引き換えに、セラは彼女の肉体を望んだ。
ディアンナの死後、彼女の身体を貰うことにしたのだ。
(ああ、懐かしいですね)
セラは、当時を思い出して微笑みながら、そっと鞄から小瓶を取り出した。
ディアンナに渡した魔法薬の残りである。
二か月に一度、ほんの一滴。
それを摂取し続ける限り、ドルトンは病が完治したかのように身体が軽くなり、痛みも消え去る。
フッ、とセラは笑う。
――『駄目よ、こっそりドルトン様の紅茶にいれるの。だって、私が治療薬を見つけたなんて言ったら、押しつけがましいでしょう? それに、どこで手に入れたのか聞かれて、セラに迷惑をかけたくないもの』
ディアンナはそう苦笑して、こっそりとドルトンに魔法薬を飲ませていたのだ。
たった五年前の出来事なのに、まるで百年も前のように懐かしい。
セラはディアンナを思って微笑む。
とっくに大通りを過ぎて、鉄道の駅まで来ていた。
切符を買う。
そしてホームに向かう途中で、小瓶の蓋をひらいてから屑篭に投げ込んだ。
セラは軽い足取りで汽車に乗り込むと、これからの自分の人生を想像して瞳を輝かせた。