誰かの手記──その継承
剣と魔法のある異世界なので、標準的ななろう作品だと思います。
このようなことを記述するのは不本意であり、事実私は、ずっとあの忌まわしくも呪われた家のことを、誰にも知らすつもりはなかった。しかしあの家の存在が、世界の存亡に関わると知った今、見ないふりをし続けることはできなかった。いつか誰かが、あの呪われた家と関わることがあったのなら、どうかこの手記を役立てて欲しい。
あの呪われた家について、どこから語るか考えた時、最も分かりやすいと思われたのは、やはり私が5歳になった時のことだろう。
まず銘打っておくことにしよう。私の名前はルキウス・キャリバー。そうだ、英雄キャリバーの末裔である。そして私の家とはつまり、伝説の英雄の血を引く、金色の髪を持つ、名門貴族キャリバー家と言うことだ。
キャリバーの名を聞いて、良い感想を抱いた者は。なるほど、よく歴史を学んだ純朴な人なのだろう。だがしかしキャリバーの名を聞いて、何か不穏な気配とを結びつけたのなら、君は間違いなく世間を見下した優秀な者か、さもなければ私の家と関係を持ち、私の家を嫌っている人物なのだろう。もちろん私も後者であり、私も我が家を嫌っている。いや、嫌うではないかもしれない。そうだ、私は恐れている。
私があの家を不気味だと感じたのは、物心ついてからすぐのことだった。当時の私は、今よりもずっと幼く、少年らしくも絵本の類を愛読するような子どもだった。
我が家は裕福であり、貧しいといった言葉とは無縁だった。だから私は多くの本を与えられ、面白いと気に入った本を、暇な時間さえあれば、母親が見守る中、部屋の中でいつも読んでいた。特に好きだったのは、二匹の兄妹猫の話だ。
そんな幸せな時間のある幼少期であったが、一つだけ、もしくはそれに連なる形で二つだけ悩みをあげるとするなら、父親の姿がなかったことだ。
これは何も父親が早くに他界したからとかではない。父親は間違いなく健在であり、今でも生きていることだろう。しかし、私は一度として父に会ったことがない。昔はその理由が分からず、よく母に尋ねたものだが、彼女は曖昧に濁すばかりで、何も教えてくれなかった。このことは後から知ったことなのだが、どうやら私の母は、父の本妻ではなく妾であったらしい。それもかなり立場の低い。当時の私には本当に分からなかったことだが、ー私専属の使用人も母の使用人もいたーしかし本家の方から、私の母は非常に冷遇されていたらしい。だが私は母のことを非常に好ましく思っていたし、今でも絶対的に好ましい人だと信じてやまない。なぜなら温もりがあったから。ただこう言ってしまうだけでは、誤解が生じるかもしれない。なのですぐに次の話題、すなわち、昔困っていたもう一つのことについて話をする。
私の母は呼ばれることはなかったが、私に関しては本家の方に呼ばれることが、当時多々あった。その内容というのが、幼い内から剣術を叩き込まれるということだ。我が家が多くの剣士を世に輩出していることは、よく周りの大人達から教え込まれていたので知っていた。そしてそのために、剣を持てる年になったら、本家に招集され剣の稽古をすることも知っていた。なので最初に本家に呼ばれた時、変なこととは思わず、すんなりと受け入れた。
唯一母と別れることが、悲しかったが、しかし稽古が終われれば帰れると言うこと、そして本家の荘厳さを初めて見て知った時、そんな思いも小さくなった。分家である私の家から、そこまでの距離はないというのに、背後を断崖に取られたその家は、何というか1060年にはそぐわないほど、非常に卓越した技術を元に作られている……。と思える程素晴らしかった。今だから言えるが、あの家は遠い異国にある、美麗な都市ルカナスタの建築様式の流れを汲んでいた。
そんな本家の中庭に集められたのは、私を含め男女十五名の子ども達であった。年の頃はみな、四つから六つ程であった。私達を師事してくれるのは、曽祖父様であった。
曽祖父様──名をソーミレス・キャリバーというこの痩せぎすの男は、私が初めて会った時、既に歳は百を超えていたらしい。会った時は知らなかったが、例え知っていたとしても、驚きはなかっただろう。人間六十ほどしか生きられぬことは、常識として広く伝わっているが、ごくたまに七十や八十といった歳まで生きる者もいると知っていた。だからという訳ではないが、しかし見た目が、どんな年寄りも老いていて醜かったから、むしろ100歳というのは若かった気さえする。
この老人、身に纏うものこそ上等な物だが、筋肉はすっかり衰え、服から出る骨と肌だけになった腕や脚は奇怪極まりなかったし、何よりその顔が病的なまでに青白く病んでいて、シミと吹き出物だらけで、見るも不愉快だった。何より嫌だったのが、生気を感じさせない風体だというのに、私達を前にして不気味にニヤリと顔の筋肉を、通常あり得ない挙動で歪ませたということである。とにかく気味の悪いこんな生気も感じさせない老人では、剣の師事なんて出来る訳ないだろうと、この場にいる子ども全員が思ったのは間違い無い。
そして私だけでなく、何人かがこの老人を、自分の曽祖父であると知りながらも、煙たがったから、代わりの人が来てくれるのではないかと期待した。けれど現実にはそんなことはなくて。曽祖父様は腰元に取り付けた剣を、会話もなく引き抜くと、私達を眼前に据えた。
今までこの老人から正気の類を感じたことはなかったが、その態度を見て初めて、意志を感じ取った。しかしそこにあるのは、疑いようもない殺気であった。私達は全員身震いをするとともに、曽祖父様同様に、腰元に取り付けられた剣を、一も二もなく引き抜いた。まだ何も教えてもらっていないのに、全員構えが出来ていたのには驚いたが、それは自分もだったし、何より殺気を持った相手にどうすればいいのか、剣を引き抜いた瞬間から、直感的に全てを理解した。これが伝説の英雄の血を引く者の特性なのかもしれない。
曽祖父様は私達皆が、構えを取れているのを確認すると、また奇怪な動作で表情を歪め、言葉にならない声を漏らしながら、私達に恐ろしい勢いで近づいて来た。もちろん抜剣したままだ。まとまっているとやられると理解したので、私達はすぐに離散し、距離をとった。そして曽祖父様の背後をとった何人かが斬りかかったのだ。このようにして幼い私達の稽古は始まった。凄いのは本当の剣での打ち合いでありながら、誰も死ななかったこと。凄いのは曽祖父様の腕前。私達全員が最初下した、この老人は私達の訓練相手として不適応という評価はすぐに改まったことは言うまでもないだろう。
この本物の剣を使った厳しい訓練は毎日、飲まず食わずで朝から夕刻まで続いた。くたくたになった頃、ようやく私達はそれぞれの家に帰されたのだ。この日々の中で何が特に困ったかと言えば、剣の指南自体に関しては、あまりにも実践形式なのを除けば、まぁそこまで文句はないが、どうしても嫌だったのが、曽祖父様が時折浮かべる笑顔についてである。いやはっきり言ってしまえば、曽祖父様が嫌だった。彼の存在が単純に不愉快であった。彼の顔の動かし方が、どうしても同じ人間のものとは思えなかったから。それに剣を打ち合っている中、一度だけ曽祖父様の身体に触れてしまったことがあるが、その身体からは全くと言っていいほど、熱を感じられなかった。どころか何時間動いていたにも関わらず、冷え切っていたのである。その冷たさが、全くと言っていいほどない曽祖父様のぬくもりが、不気味であった。
そしてこの日々がしばらくの間続いたある日のことである。子どもの数が減っていた。最初減ったのは、私と同じように分家の子であるランベルカであった。彼女は、私達子どもの中で最もしっかりしており、誰よりも優しかった。稽古が終わる度に、彼女は私達のことを心配してくれて、疲れている子にはお菓子を渡していたしー私ももらったことがあったー、怪我をしている子には自分の服の一部をちぎり、それで止血もしてくれた。自分だって大変だろうに、しかしそんなことをしてくれる彼女の存在は、私達にとって非常に心休まるありがたい存在だった。だからこそ不意に、なんの前触れもなく唐突にいなくなった彼女が心配でならなかった。私達は何か事件性を追って、曽祖父様に、今日の稽古は中止にして、捜索をさせてくれと頼み込んだ。しかし返ってきたのは刃であった。私達は嘆きながらも、その日も必死に剣を振るったのである。
次にいなくなったのは、最も体力のないテミンーこちらも分家の子ーであった。母親に貰ったブローチを、お気に入りだと言っていつも付けていた彼だが、剣の腕自体はあったのだが、しかし残念なことに、致命的なまでに体力がなかった。私達はそれを分かっていたから、テミンの体力がなくなるやいなや、誰かが前に出たりしたが、特にそれをしていたのは誰よりも気配り上手なランベルカであったから、彼女が抜けたことが痛かったに違いない。
テミンがいなくなった日、「あれに関しては、今日より稽古は免除する」と、曽祖父様がおっしゃっていたのだ。私達は何か不穏な空気を感じながらもー何を言っても無駄なのが、ランベルカの件で分かっていたからー頷くと、また剣を振った。
そうしている内に気づけば二名となっていた。
すなわち私と本家の娘ゼファーである。ここに来てようやく私は理解した。この稽古というのが見極めであったのを。であれば曽祖父について怪しきことを考えたのは、申し訳ないと思った。彼は単純に能力のないものを炙り出し、日々日々取り除いていたのである。そしてついて来られる者だけを残したのだ。私は別に、こんな大変な日々、残りたくもなかったが、しかし残れるだけの実力があってしまった。だからそれからというもの、またしばらくの日々をゼファーと共に稽古をしたのである。
そんなある日……あの衝撃的な日が来た。
その日の私は、だいぶ体力も付いて来たからと、いつもの稽古終わりに、気まぐれに本家の中を歩き回ったのだ。最初の頃は何がなんだか分からず、疲れる日々でそんな余裕もなかったが、しかし改めて思えば、この家は明らかに素晴らしかった。だから少し見てみたくなったのだ。けれど本家の者の誰かに、こんな所を歩いているのを見られたら怒られてしまうと思ったから、ゼファーを連れて行かなかったのはもちろん、道中誰かの気配を感じ取る度に、その身をさっと隠した。こんなことが出来るようになったのはひとえに、毎日の鍛錬の賜物だろう。気配の探知が上手くなった。
そうして誰にもバレないように、ふらふらと見学すること数十分。私は足早に通路を横切っていく曽祖父様を見たのだ。視認した時はなんとも思わず、そのまま隠れたまま見過ごしたが、ふと気になったのだ。曽祖父様は稽古をなされた後何をしているのだろう? と。言ってしまえばこう考えたことが私の悪夢の始まりだったのだが、こう考えたからこそ、この呪われた家から私は逃れることを考えついたのだ。
私がそう考えた後の行動というのは、実に子どもらしい分かりやすいものだ。曽祖父様の後をバレないようにつけたのだ。追いかけている時、何かやましいことをしているようで、非常に胸はドキドキと高鳴ったし、曽祖父様が非常にあくせくとした様子で歩いているのを見るのは、少し面白かった。なにせいつも感情を感じさせない振る舞いばかりで、まるで死人のようだから。そうして曽祖父様の行動になんら違和感を持つことなく、そのまま私はどこまでもついて行ったのだ。この時考えていたことはせいぜい、飽きたらやめようくらいのことだった。
曽祖父様の行動が何かおかしいなと思ったのは、後を追ってから数分後のことだった。ここまでに何度か扉を開け、通路を渡ってきた訳だが、その道中一度として立ち止まることはなかったのだ。この家がどれほど大きいかは、遠目に分かっていた。だから彼が目的地を目指して歩き続けるのにも、多少は理解があった。だがどうしたことか、流石にこれは長過ぎると思った。結局何もなかったし、この辺りで帰ろうかと思った時だ。曽祖父様が何か不審な顔つきで辺りをキョロキョロと見渡して、一つの扉へと入って行ったのだ。私はそれが少し気にかかったが、どうせここも異なる通路へと繋がる扉でしかないのだと、たかをくくっていた。この扉を開けて、中に何もなかったら、もうひきかえそう。そう考えた後、多少時間を空けてから、扉を開いて見た。するとどうしたことか、そこは書庫だった。どうせこの扉を開けても通路しかないと思っていただけに驚いた。そしてもっと驚いたのが、その部屋には扉が、ーもっと言えば出口がー今自分が開けた物しかないというのに、中には誰もいなかったことだ。
おかしいと思った。私は今までの慎重さを忘れて、その部屋の中央に大胆にも躍り出ると、そこから四方の壁を見渡した。しかし何も変なところはなくて、いよいよ持って曽祖父様は何処へ行ったのか? と考えていたら、ふと気になるものを見つけた。簡単に言えば一部の柱が他よりも出っ張っていて、なおかつその柱には、他にはない特徴があったのだ。その柱には、ご先祖の者と思える絵画が飾ってあったのだ。
埃一つないその絵画はどこか魅惑的で、ついつい触れて見たくなる奇妙な力があった。その絵は高い所にあったけれど、跳躍することで、なんとかその絵に触れることが出来た。すると絵画は、左右に揺れ動いた。その時、何か、何かが不自然なことに気づいた。しばらくそれが何かについて考えたが、答えはすぐに出た。安定していないと思ったのだ。普通絵画というものはがっしりと固定され、簡単なことでは取り外せないようになっている。しかしここに飾られた絵は、多少は乱雑に触れたかもしれないが、それでは考えられないくらい揺れ動いたのだ。
ずうっと放って置かれたことによる老朽化の線も考えることができたが、それにしては、この絵は綺麗すぎた。埃一つない説明が、それでは説明出来ないのだ。だから私はこの絵に何かがあると考えて、調べてみた。すると絵を外して気づいたことなのだが、この絵の裏にはぽっかりと穴が空いていたのだ。その暗闇は深く、どこまでも続いているようで、又人一人分が通るには丁度良さそうにも思えた。そしてご丁寧にもそこには、梯子が立てかけられていた。つまり、どうやら中へと降りられそうだったのだ。
私は何か危ういことをしている気がしたが、しかしごくりと唾を呑み込むと、その中へと飛び込み、梯子を降りて行った。自分の身体が小さいからか、かなり余裕を持って、その中を通ることが出来た。そして辿り着いたのは暗い洞窟であった。ここがどこか分からず、右往左往して困惑したが、ある程度先に光が見えた。このまま真っ直ぐ進めば良さそうなので、本来の目的も忘れ、取り敢えずの所は、その光へ向かい歩き出した。
程なくして辿り着いた場所は、あの断崖であった。私はどうやらお屋敷の裏側へとやって来ていたみたいだったのだ。そして荒れ狂う海原を眼下に見下ろして立つ曽祖父様の姿があった。私は慌てて、近くの茂みへ駆け込むと、曽祖父様の様子を伺った。そして分かったことなのだが、どうやら彼の周りの地面には、歪な線画が描かれているようだった。それは何か六芒星のようにも見えたし、それと異なっているようにも見えた。
そして私はそこで、今でも忘れることが出来ない、世界を汚すような、根本から否定するような、あの冒涜的な言葉を聞いたのだ。
【オグトロド、アイ、フ。エ、エ。トゥルーリア】
何を言っているのか分からなかったが、それが聞いてはいけない言葉の類であることは、すんなり理解できた。私はここへ来るべきではなかったのである。しかし私の身体はすくみ、動かなかった。何故動くことが出来なかったかと言えば簡単で、想像も絶するような光景が、その言葉の後すぐに起きたからである。
その言葉を言っていたのは曽祖父様であったのだが、やがて彼の身体はまるでくちた屍のように、しゅくしゅくと萎んでいき、べちゃりと地面に倒れたのである。それだけでも恐怖だったのだが、そこからがさらに恐ろしかった。あの老人の身体から、何か意味不明な緑色に光る蟲達がいくつも這い出したのだ! それを見て絶叫しなかっただけでも自分を褒め称えたいのだが、いや、その後自分はさらに正気を失うことになった。
その幾多も這い出て来た冒涜的な緑色に光る蟲達は、どこから持って来たのか、いやどこにあったのか、全く動かなくなった人間を引きずって持ってくると、口の中や耳の中から侵入し、身体を持ち上げ喋り出したのだ。その人間達に混じって曽祖父様も立ち上がったが、いや今はそんなことどうでもいい。その人間達の中に、あのランベルカの姿もあったのだ。
【オグトロド、アイ、フ。エ、エ。トゥルーリア】
聞こえて来たのは間違いなく、先ほども聞いた曽祖父様の声音であった。いや、私は彼と話すことなんて碌にしなかったし、彼自身も話すことはなく、奇怪な音を時折漏らすだけだったが、しかし先程の言葉はよく記憶に残っていた。だからこそ分かる。今、もう一度再び聞こえて来たあの声は間違いなく、曽祖父様自身のものであると。であればどうしたことか、他の人物の声は知らないが、少なくともランベルカはこんな小汚い、しわがれた声では話さなかった。
だとすると、それは恐ろしい想像なのだが、けれどその答えに私は辿り着いてしまった。あの蟲の塊こそが曽祖父様なのだと。そして蟲達が取り憑いた人は、既に物言わぬ骸なのだと。
そして曽祖父様は、いや曽祖父様達は、一人で問答を繰り返した。
『今回残ったのは二人か』
『いいや、これまでの無能共と同じだ。すぐに一人いなくなる。だから追放の用意だけはしておけ。もし最後まで両方が付いて来れたのなら最後に殺し合わせればいい』
『追放の手順は間違えるな。我ら一族の肉体だ。劣化品の無能とは言え、勘づかれれば一筋縄ではいかない。食事に睡眠薬を混ぜて…………追放するのだ』
『勘づかれたのならどうする?』
『以前愚かにも申し出たあの女のように、身動きを封じ、暗がりまで連れ込み、食い散らかせばいい』
『ああ、でもこの女の肉は美味かった。あの忌々しい契約がなければ、追放ばかりにはしないんだが。どうせならまた、歯向かってくれればよいものを。そうしたら食える。それに御身にも、捧げることが出来る』
『だが悲願、伝説の英雄の再誕は、剣に愛されたと言われるあの英雄の祖は帰らない。まだ成就しない。契約は破棄できない。
……そろそろお見えになる。我らは黙るべきだ』
曽祖父様達の会話を聞いて戦慄した。恐るべき会話の内容もそうだが、何よりも蟲達の声が全く同じであったということだ。蟲の内の一匹が喋れば、誰かがまた全く同じ声音で返していた。一匹として違う声音を持つ者はいなかった。そのどれもが、紛れもなく曽祖父様の声であった。声を発する者は一つではないのに、声の種類は一つしかいないというのは、いったいどういうことか。
私は眩暈がする思いであった。出来ればすぐにでも逃げ出したかったが、しかし安易に走り出せば見つかり、問答するまもなく殺される気がした。だから私は、気が熟するのを待った。正気をなんとかすんでの所で保ち、自分が逃げ出せる決定的な場面が来るまで、待ったのである。
それが良かったのか悪かったのか、私には分からない。だがしかし、その後に現れた者を見て、それが今もなお、自分の記憶の大部分を占めて、自分を苦しめているとなっては、あれは誤った選択だったのかもしれなかった。
海原から何か常軌を逸する【何かの気配】がしたのである。私は海原とは真反対の陸地、曽祖父様の方を見ていたから分からなかったが、確かにあの大海原には何かがあった。振り返ればすぐそこに、何かの姿を見ることも出来た。けれど振り返りたくなかった。それを見れば、もう未来永劫自分の身に、安全な眠りはないと理解出来たから。
しかし私はそれらを理解しながらも、ついに振り返ってしまったのだ。言い訳を言えば、多分その不思議な魔力に勝てなかったのだ。
それを見て絶句した。大海原には確かに、あの大きな、何か透明な、何か神聖な、何かほとばしる、緑色の火柱があったのだ。
──怪奇。これを怪奇というのでなければ何をもってして怪奇と言えばいいのか。分からなかった。そこにある緑色の不浄なる光の火柱は、世界全てを嘲笑うようだった。全ての物理法則を無視していた。私達の世界の物理法則全てをだ。あれはこの世界にあってはいけなかった。
私がそう考えた所で、私の意識はしかし、狂気に飲まれ、落ちて行ってしまったのだ。
私はその後、分家に無事、帰れることになるのだが、あの呪われた家からどうやって帰ったのか記憶が定かではない。
ただあの断崖で起きた時、すでに夜だったことだけは覚えている。それから周りに誰もいなかったはずだ。なぜならあの場に蟲の一匹でもいようものなら、私が五体満足でいれた筈がないから。だから私はきっと、どうにかしてあの家から逃げるようにして帰ったのだ。
しかし分家に戻っても地獄から逃げ出せた訳ではない。私は朝が来たら、またあの本家に行かなければならなかった。どうすればここから逃げ出せるのだろう。あの日を過ぎてから私の思考の全ては、そのことにだけ使われるようになった。
その時、手がかりとなったのは、テミンのことだった。哀れなるランベルカとは違い、彼は無能であったために追放された。それがどういう意味か、なってみなければ本質的な所は分からないが、そこにしか救いはなさそうだった。
私はその日より仮病を使ったり、わざと稽古の時手を抜いたりと、あらゆる手段を用いて、無力を装った。思えばこの時からかもしれなかった、私の母がより一層冷遇されたのは。しかしそれを知っていたとしても、私はこの振る舞いをやめなかっただろう。助かりたい一心だった。
人は追い詰められた時、本性を出すというが、であれば私は最低な人間ということになる。私は自分の母がどんな立場に置かれたとしても良しとし、呪われた本家の子とはいえ、私よりも若い少女──ゼファーを見殺すような真似をしたのだから。だが誰が私を責められると言うのか。あの神話的な恐怖を前にして。実際に見たことがないから、そう言えるのだ! …………いや私はやはり弱かったのかもしれない。
ただそんな死に物狂いな、抵抗は功を奏したのだろう。私は多くの犠牲を、多分支払っていたのだろうが、それでもこの大陸から追放されることが決定したのだ。
ある日の晩餐のことだった。家では貴族家系にしては珍しく、使用人ではなく母がいつも夕餉を作ってくれていたのだが、その日だけは別だった。見慣れぬ使用人が我が家にいたのだ。そしてその人物は夕餉を母の代わりに作ってくれた。私はそれを疑問視したが、しかしそれが本家から来た者であると分かると、断る理由はなかった。
これには毒が入っているのかもしれない。しかし、あの日聞いた会話を思い出せば、これには睡眠薬が入っている可能性も高かった。もし睡眠薬であれば、私は外の世界へと逃げる一世一代の好機を逃すこととなる。それはまずかった。それに今晩だけ手をつけなかったとなれば、それはそれでもっと本家から危険視されるかもしれない。
だから私は夕餉を一つとして残すことなく食べたのだ。最後の晩餐のつもりで食べたのだ。
食べ方が普段と比べ、格段に上手ではなかったが、いやそれは仕方ないことなのだ。
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目が覚めたら辺りはすっかり薄暗い夜で、そしてそこは見知らぬ深い森の中だった。私はこの場所を全く知らなかった。本ばかり読んでいたが、それでも外に出歩くことはあったので、周辺の地理ぐらいは知っていた。だから分かった、ここの植生が、あまりにも自分の知っている知識とかけ離れていることを。
それで私は理解したのだ。ちゃんと見知らぬ場所まで追放されたのだと。私が安堵したのは、記さなくても分かってもらえることと思う。ただし一つ予想外だったのは、私の今の現状であった。私は太い木に縛り付けられ、服も普段の洒落たものではなく、ボロ衣のようなくたびれた物だったから。
追放というのがどういうことか。全く想像してこなかった訳ではない。でもまさかここまで徹底しているとは思わなかった。自分達の預かり知らぬ場所でのたれ死ねばいい、くらいの感覚で本家は追放しているものだと思ったが、そんな自分の考えは甘過ぎた。そうだ、そもそもがあんな猟奇的で狂気的な本性を持つ家だ。この程度はむしろ当然なのだ。
予想よりもずっと困難な状況下だったが、しかし知らない場所に一人追放される想定はしていたので、刃物は用意して来たのだ。私は舌裏に忍ばせていた、2cm程度ある剥き出しの刃だけのものを地面へと吐き出した。いくらか口の中を切ったようで、吐き出された物には、よだれだけでなく赤いものも混じっていた。
手足が縛られた状況下、これだけで何が出来る? という話だが、私は初めて刃物を持った頃から、それだけで今何をするべきか全て理解できた。あの最初の稽古の時だ。まるで透き通るような世界で、全てが知覚できた。何をすべきか知らないのに知っていた。これを私はキャリバーの特性ゆえのものだろうと思ったけど違った。あの日の曽祖父様達の会話で気づいたのだ。これこそが先祖返り、最も剣に愛された者のみが持つ才能なのだと。
地面へ吐き出してしまったのは、ちょっとした手違いだったが、私も落ち着いてはいられなかったのだろう。地面へ落ちた刃物を、なんとか歯で取ろうと、身体を曲げて顔を近づけた。そのあんまりな曲げ方に、かなり身体は悲鳴を上げたが、子どもであったのが良かった。私の身体はそれなりに柔軟性があった。
落ちた剥き出しの刃を、無事歯で掴むと、まずは先程やったように身体を折り曲げ、胴を結ぶ麻縄を切った。それは無理だ。誰もが言うだろう。しかし私は現に今もこうして生きているし、だからこその天才だ。どこに刃を当てればいいか、どこをどのくらいこすれば切れるか、そういうのは全部分かっていたのだ。あるいはこの刃が教えてくれていたのだ。
後はもうとんとん拍子だ。木から解放された私は、地面の上で芋虫が蹲るようにして体を丸め、足を縛る縄を切り、刃物を足の指に持ちかえると、すぐさま手に結ばれた縄も切ってしまった。そうやって身体を泥だらけにして立ち上がった。時間にすればほんの数十分と言う所だが、私には何時間も経ったように感じられた。
だが生きていた。私は間違いなく生きていた。私の口元を縛らなかったのが、曽祖父様方の運の尽き、あるいは抜けていた所だ。そんなことをその時、考えたかもしれない。だけどそれが間違いではないことに感づいたのは、そのすぐ後のことだった。何か大きな足音がずしんずしんと響いて来たのだ。断じて地震ではないその音は、何か大きな物体がこちらに歩いて来ているのを示唆するものだった。
私はこれを受けて、今の装備では勝てないと判断し、木の上へとするすると立ち上った。ある程度の高さまで来た所で、もういいだろうかと、登る手を止めて、辺りを見渡した。そうするとまた見てしまったのだ。冒涜的な存在を。
それは巨人だったように思う。全高どれくらいだろうか? 高い木の上からでも、横を見ればその姿を見ることが出来る程の巨躯だった。少なくとも4m近くはあったと思う。意外と大きくもないと思ったかもしれないが、断じて違うのだ。私が巨人と表現したから誤解したかもしれないが、それの大きさは頭部を抜いてその大きさだったのだ。
それは頭のない巨人だった。白熱して何の衣服も纏っていない剥き出しの身体は、妙な弾性があるように思えた。その四肢は強靭で、足跡は世界に消えぬ傷をもたらすよう。頭がない巨人というのも恐ろしかったが、その掌を見た時、私は多分一定時間脳の機能の全てを落とした。
その頭のない巨人の掌には、何と言うことだろう、ぬらぬらと怪しげに月夜に光る光沢があった。それは透明な液体で、何かに似ていた。幾ばくかの考察をして辿り着くのも可能だったが、その時の私は不幸にも、さらにその深淵を直にすぐ覗いてしまったのだ。それの掌には口があったのだ! いやらしい舌が掌でのたうちまわり怪しげな液体を周囲に撒き散らしていた。
正気を取り戻した後、その巨人の姿は既になかった。気配を探っても近くにいそうにないのが判明して、そのことには安堵した。でも私が木を降りて、あれは何しに来たんだろうと、辺りを見渡した時に理解したのだ。私が先程まで、結ばれていたあの木が激しい乱暴を受けていたのを。剥き出しの肌色の樹木が、それの凄惨さを物語っていた。何より恐ろしかったのは、その木が濡れていたこと。
その時全てを理解したのだ。私が口輪をつけられていなかったこと。追放というのがどういう意味だったのかを。
……私の想像通りなら、この辺りにあるんじゃないかなと、その時私は周囲を探索した。
そうして見つけた。赤黒い肉片がこびりついたあのブローチを。──テミンの物だった。見間違えるはずもない。あの日々を共に過ごした者の持ち物を見間違えるはずもない。
追放とはつまり、この世からの追放を意味していたのだ。決して救いの道なんかではなかった。私が口輪をつけられなかった意味は簡単だ。きっとあの怪物に悲鳴を聞かせたかったのだろう。
最後のはもちろん私の想像だから、実際にそうとは限らないが、間違いないと確信している。あの頭のない巨人は間違いなく悪だった。底意地の悪い悪性があると確信出来た。
私はブローチから肉片を取り払い、握りしめ咽び泣きながら、その場で嗚咽した。
私達は特別に仲が良かった訳ではない。でも仲が悪かった訳でもないのだ。互いに助け合って生きていた、私は偶然にも幸運なことに生き残れたが、何かが一つ異なれば、彼らと同じ運命を辿っていただろう。一つ隣の道に入ってしまった彼を──彼らの死を、どうして嘆かないでいれるだろうか。
私は特別誰かと仲が良かった訳ではない。他の皆も、誰かと仲が良かったわけではない。だが一体感はあったのだ……。あったのだ。
私は呆然としながらも、その時こう思った。ではどうすれば良かったのだろうと。哀れなるランベルカのように、あの日知った時、抗議の声をあげればよかったのだろうか。あるいはもっと早く、曽祖父様以外の者をともった声を大にして言えばよかったか。恐らくそのどれもが無意味に終わるのだろうが、挑戦する価値はあったのかもしれない。
だが今更何を考えても、どの可能性を追っても、全ては遅い。私が母とゼファーを見捨てたという事実、それからここに亡くなった者達とランベルカ、彼はもうどうやったって帰らないのだ。
だからこそ私は決意した。次があるのなら、その時には、助けられる人間になろうと。どれだけ怖かったとしても、こうやって泣くくらいであれば。助けようと。
そんなことを呆然と思ったのだ。
そして物語がここで終わったのならよかった。
私が決意を新たにすると、遠くの方で火の手が上がった。それから怪物の唸り声が聞こえて来た。
火の手に関しては分からなかったが、唸り声には察しがついた。あの頭のない巨人があそこで何かを行なっていたのだ。私はそれが無謀と知りながら、漠然としない不安感を感じて、火の手を目印とし、そこへ向かった。近づく程にはっきりと聞こえてくる、身の毛もよだつ唸り声と、もう一つの悲鳴のような声。それらを聞いて、私はますます駆ける足を早めた。
そうして火の手の上がった場所を目にした時、案の定な光景が目の前では繰り広げられていた。火の手が上がった場所は村だった。そして村の中央では、あの頭のない巨人が人間を拾い上げては、掌からばりばりと喰らっていたのだ。
何人かは抵抗したのだろう、巨人の身体には、鍬や鉈などの農具が突き刺さっていた。しかし巨人のあの健在な姿を見れば分かる通り、それらは全くの無駄だったのだ。私が当初見立てた通り、あの頭のない巨人は、人知の及ばない化け物の如き強さを誇っていた。
恐怖からか、動けないでいる村人達が食べられている所を、私は何もせずに眺めていた。こんな所にまで何のようがあって来たのか。その理由は分かっていた。多分私は決意に基づいて、人々を助けようと思ったのだ。だけどならどうして、私の身体は動かないのだろうか。
躊躇があった。だけどあの怪物がどうしてこんなことをしているのか、だからこそ察してしまった。やはりあの衝撃的な日を思い出したのだ。そこで曽祖父様は語っていた。『契約だと』『自分が食べたかった』と。そして決め手だったのは『美味しかった』だ。多分私達は一族として強いだけだけでなく、身体能力が極端に優れて、身体が熟成されているから美味しいのだ。だから私達は追放され、契約に従いあの怪物に食べられていたのだ。
だが今回そんなご馳走が、怪物にとっては不運なことに逃げ出してしまったのだ。だからあの怪物は今、ああやって飢餓を満たすためか、もしくは腹いせかで村人達を食べているのだ。そう考えなければ怪物の行動に説明がつかない。何故こんな近くに村がありながら、手を出さずにいたのか、全く説明がつかないのだ。私達が食べられることで、あの怪物はいつも満足してくれていたのだろう。
そのことに考えがいたり、この村で起きている出来事が、もう全く自分と無関係のこととは思えなくなった。むしろ自分こそが、あの怪物をこの村に引き寄せた原因にも感じられた。今から自分の身を差し出せば、この村にいる人達は助かるだろうか? そうとも考えたが辺りから命の鼓動はもうほとんど消えていた。私が手をこまねいている間に……。
それから私は無謀だと知っていたが、頭のない巨人に立ち向かっていた。武器はそこら辺に落ちていたり、怪物に突き刺さっている農具を都度、持ち替えながら使った。子どもの身では重い物ばかりだったけど、私は苦もなくそれらを使いこなした。そしていくら奇跡があっただろうか。自分が何をしたか、もう覚えていないが、私はあれを倒せないまでも、撃退したのだ。五つの子どもが怪物を追い返すくらい頑張ったのだから、十分ではないかと思った。でも消えかかっていた、ほんの僅かな命も、この戦いの間にすっかり消えて無くなっていた。命の音が聞こえなくなっていた。
私の頑張りは全くの無駄であったのだろうか。
私は私のためにも、火の手が回る村の中、必死に生存者を求めて探し回った。ふりしきる火の粉や、灰や汚れた煤が、私の髪を黒く染めた。どんなに探し歩いても見当たらなくて、諦めかけたその時、「オギャア」という声を聞いた。今の声が何かの間違いじゃないかと疑いながらも、そこにいるのだと確信して、私は声のする方に歩いて行った。そうしたら赤子を抱える女の姿があった。その人は下半身がなかったが、幸か不幸かまだ意識はあるようで、赤子を震える手で宥めていた。
私はその人に急いで近寄って、「大丈夫ですか?」と問いかけた。これが馬鹿げた質問だったのは、これを読む諸兄らも察していることだろう。でも私には、その言葉以外何も言えなかった。赤子を抱える女性は、泣きじゃくる私よりもずっと穏やかで、心が安定していた。だから彼女は私の言葉に「あなたが守ってくれたから」と答えてくれた。ただ彼女はその後も続けたのだ。「でも私は駄目かもしれない」と。
全てを悟ったように話す彼女を見て、私は知らず自分が抱える事情、自分が考えた推察の全てを乱雑に並べて話した。赦しが欲しかったのかもしれない。いや、違う。きっとそうだ。私はごめんなさいと頭を地面につけながら、それらのことを語ったのだから。こんな話、今際の際に聞かされてもちっとも分からない話だろう。だがその女性は、私に近寄るように言うと、頭を撫でてくれた。「辛かったね」と。
そして彼女は、どうかこの子を届けて欲しいと、私に頼んだのだ。彼女の話によると、この村の近くにジーナ村という所があるらしく、そこに自分の姉がいるから、彼女の元へ届けて欲しいということだった。自分の名前を出せば分かるからと。
年端も行かないこんな子どもに、自分の愛する赤子を託すのは、彼女自身苦慮の決断だったに違いない。それも意味不明なことを宣うクソガキとあっては信用も何もあったものではなかっただろう。でも彼女は任せてくれた。
だから私は必ずと約束して、母親の名前を伺った。その時いささか驚いた。母親の名前は、私の好きな絵本の、片割れの猫の名前だったからだ。
赤子は母親の手から私の手の中へと移った。彼女は私の手の中に収まる赤子を見て安心したらしい。いよいよ息が掠れていった。私はそれを不安に思いながら見つめていた。何も出来ずに見つめていた。そうしたら彼女が、私の目を見てにっこり微笑むと「そしてどうか願ってもいいのなら」付け足したのだ。
内容はその子を側で見て助け守って欲しいと言うものだった。その子は女の子だから、助けてくれる兄がいたら、きっと喜ぶと。
私は泣きながらそれを承知した。私はこの子の兄となり、何にかえても、この子を助けると誓った。まだ頭の毛も生えそろっていない赤子、しかし母親似の、クリーム色の美しい髪が頭のてっぺんにぽつりぽつりと生えていた。私はそれを触りながら、微笑ましく思い、一つ聞き忘れていたことを思い出し、母親の方を見た。
「この子の名前は何ですか?」
ただ時既に遅かったのだ。母親はこときれていた。脳が破壊されていく感覚を味わって、私は目の前が真っ暗になった。しかし、その途中に泣き喚くこの赤子の顔を見た。それで踏みとどまったのだ。私がなんとかしなければと。
私は今後、今夜起きたことは全て胸に秘めて、出来るなら忘れ、この子のことをよく思い生きていこうと決めたのだ。
ただ今こうして書いているように、前者に関してはうまくいかなかった。まず私は、その村のことだけでなく、あの呪われし家で起きたことの一切も忘れられなかった。いや、むしろ毎夜夢見るようになった。あの家と、あの巨人とを無惨に滅ぼす夢を。
私は、ついにあの呪われし家が何を隠しているのか、そしてあの緑の炎が何かを突き止めた。その過程で、世界の一旦を知ってしまった。あの緑の炎はどうあっても滅ぼさなければならない。この手記には、緑の炎を退散する呪文について記した紙片が挟まれてある。手記を読む者がいれば、どうか活用して欲しい。
あの日から年は過ぎ、私は王都ルカナスタにて、この手記を書いている訳だが……。ここまで読んだ所で、不思議に思っただろう。そこまで分かっているのなら、なぜお前が行かないのかと。……【誓約】なのだ。私では行けない理由があるのだ。ゆえにこの手記を残す。
一時期は自身との決別、本家に勘づかれないために、異なる名を名乗っていた私ではあるが、今は本名で働いている。本名を名乗るのは、ちょっと具合の悪いことが起きたからと、今更気づかれた所で怖くもないからだ。手記を託す算段は付いており、私は私の役目を、次の任務で果たせる。だからお前達が万一気づけたとしても、もう遅い。滅ぶは貴様らのみだ。
この手記は、私が最も信頼する人物に託しておく。これを見たということは、その人物から信頼されたということだろう。だから名前が……そう言うことである。この事実は、どうかその子には伏せておいて欲しい。仕方がなかったんだ、だって私の職場にまさか来るとは思わなかったから。私にはこう名乗るしか手段がなかった。第一あの時名乗った名前こそが偽名なのだ。髪色だってあの時と今ではかなり違うし、話し方だって変えた。別人と言って差し支えない筈だ。だからまぁ、あの、その、あれで。
…………その子には誰よりも健やかに育って欲しいのだ。世界の暗部など知る必要はない。
──と、部下から呼ばれてしまった。私は剣才を生かし、今は聖騎士をやっているのだが、上記に書いた通り、今度の任務は、私にとって非常に重要な意味を持つ。私は殺人鬼と話をしなければならない。
ああ、ごめん今行くよ。えっ、何してたかって? 絵本を読んでたんだ。あはは子どもっぽいって。でもこの本、すっごく好きなんだ。君も好きだって? そうだろうね。何せ君と君のお母さんの名前だ。
なぜそこまで知ってる? 気持ち悪い? あはは。気を悪くさせたならごめんね。知ってるのは自分の兄だけだって? 僕が君のお兄さんに似てる? まさか、そんな訳がない。その人はもう随分前に亡くなったんだろう。
ここにいるのは、この絵本にあるような兄猫ではない。ただのルキウスだ。
そして君も妹猫ではない。確かに見ようによっては似ているが、しかしこの猫は茶トラで、君の髪色はクリーム色だ。
あ、後。今度手帳預かってもらえない? 中身は見ないで欲しいんだけど……。理由? えっ、まぁそれは。なんていうか、はい……。はい…………。