第一話「朧月前夜」
国宝である大般若長光が盗まれた。
もぬけの殻となったケース。惨状を目の当たりにした副館長は、「今日が休館日だったのは不幸中の幸いだ」と一瞬思ったものの、現実を直視したくなくて目を逸らし項垂れた。
東京国立博物館副館長である伊集院充は、ヨロヨロとした足取りで傍らにある椅子に腰を下ろす。何度目かも分からないため息をついて再び項垂れる。盗人の痕跡が見つかることを祈ったが、渋い顔をする警察官達を見る限り、望みは薄いだろう。
貧乏揺すりが止まらない。落ち着いて下さいと現場検証をしている警察に何度も言われたが、伊集院が落ち着く訳が無かった。
「また、刃華に……刃華に奪われた。警察の皆さん、お願いします。あの化物達を、捕まえてください」
「伊集院副館長、お気持ちは察しますが」
現場検証を行っていた警官が柔らかい口調で伊集院を諭すが、逆にそれが伊集院の癪に障った。
「やかましい! 何処の小娘か知らないが、あれはそこら辺にいる者達が触っていい物じゃない!! 国宝だぞ! 分かるか! 国の宝だ!!」
「お、落ち着いてください!」
「何本も盗まれ、贋作だと世間に流れた刀もある!! それもこれも盗んだ奴が悪いのだよ! 誰が盗んだのかって!? もう決まっているじゃないか! 刃華だよ! 刀に選ばれたとか世迷言を言っている連中が犯人だ! 早く刀人教会に行け! 犯人はあそこにいるだろうが!!!!」
伊集院はそう捲し立てると頭を掻きむしりながら唇を噛み締め、かけていた眼鏡が落ちたことにも気付かず涙を流し続けた。
それから1時間後、報告が上がる。
犯行現場には何も残っておらず、監視カメラの映像には何も映っておらず、警報履歴も皆無であった。
目撃証言についてはまだ情報を集めている段階であるが、望み薄である事を察した伊集院は身を震わせて慟哭する。
そんな彼の傍に、1人の刑事が近づく。刑事部捜査一課の安条幸村は歯噛みする。
自身も大切な物を盗まれているため、伊集院の気持ちは少なからず理解している。
安条は、警察の信用が地に落ちるのを危惧し、刃華達を保護している"刀人教会"へ向かう決意をする。
「ご安心ください。必ず、必ず犯人を捕まえます。何が何でも」
安条はそう語りかけると、空になったケースに視線を移す。
いったい、どういうことなのか。安条は不気味に思う。
何故、ガラスも割れていなければ、開けた形跡すら存在しないのに、中の刀が無くなっているのか。物体をすり抜ける超能力でも使ったとしか思えない。
安条は下らない考えを振り払うように頭を振るとケースから視線を外し、上層部の許可を得るため足早にその場を後にした。
♢ ♢ ♢
2022年4月9日の夜空には不気味な朧月が姿を見せていた。暗雲立ち込める空、靄がかかっているにも関わらず、いやに大きく映るその月は、見上げる者達を睨みつけているかのようである。
窓越しにそれを見つめていた三日月宗近は目を細める。
「嫌な月だな」
そう呟くと視線を外し、冷蔵庫の扉を開け炭酸水を取り出す。蓋を外し炭酸の抜ける音が響く。
同時に三日月の背中にため息をする声がかかる。
「お前上着ろよ、三日月」
ソファの上で胡坐をかいている鬼丸国綱が、スマートフォンから視線を外し、呆れた声を発す。
風呂上がりの三日月の体は火照っており、長い黒髪も微かに濡れている。ズボンは履いているが、上半身は首にかけているタオルが胸を隠している以外に何も羽織っていない。
女性らしい、しなやかに鍛えられた体、陶器のような肌は、芸術品のようである。三日月の出で立ちは美麗であった。
「風呂上がりのおっさんじゃねぇんだからよ」
だが、鬼丸はその体をほぼ毎日見ていた。どれほど美しい肢体でも、毎日ともなれば流石に飽きてしまうため、近頃ではおっさん呼ばわりする始末になっていた。
「おっさんとは失礼な」
「見たくもない裸を見せている方がよっぽど失礼だ。なんで風呂の後半裸でうろつくんだよ」
吐き捨てるように言うと、鬼丸はショートヘアの前髪を掻き上げる。次いで舌打ちしながらスマートフォンの画面を睨みつけ、胡坐を崩し足を組む。
「っきしょー。何だコイツ、全然勝てないじゃん。デンタちゃん嘘付いたな」
更に貧乏ゆすりも加わる。ゲームに苦戦している様を見て、三日月が鼻と笑うと、鬼丸は鋭い眼を三日月に向ける。
肩を竦めた三日月は、黒塗りの高級な革を使用した椅子に座る。
同時に、ニュース番組の音声が三日月達の耳に飛び込んできた。
「8:45になりました。ニュースをお伝えします。今日午後3時過ぎ、JR秋葉原駅構内にて刀で斬られたと見られる男性の遺体が発見されました。現場から中継です」
場面が切り替わる。画面左上のテロップには東京・秋葉原と書かれている。
「こちらJR秋葉原駅前なのですが、現在も通行止めとなっております。遺体の損傷が激しく現場検証に時間が……」
キャスターは焦る顔で遺体の事を話す。表情からして余裕は見られない。
カメラが映し出す先には大勢の報道陣と野次馬が押しかけており、騒然とした様子であった。三日月と鬼丸は、テレビに視線を移す。次いで鬼丸は小馬鹿にしたような笑い声を上げる。
「もう日常茶飯事だろ、こんなの」
「笑い事じゃないぞ、鬼丸」
「はいはい」
手をパタパタと振って聞いているフリをする鬼丸に、三日月は一瞥もくれない。
ニュース番組は、世間を悪い意味で賑わせている"人間狩り"の報道を流し続けている。
「一昨年、2020年10月9日。東京オリンピック柔道女子70kgに出場し、銅メダルを獲得した新見志選手が殺害された事件が、今なお世間を脅かし続けている"人間狩り"の始まりとされております」
まるでこれまでのおさらいをするかのように、キャスターは喋り始める。
【人間狩り事件】。
現代日本で起こった"刀"による殺人事件は、今なお続いている。ひと月ごとに2、3名の犠牲者が必ず出ており、最近では、殺されはしていないが、重傷を負う被害者が増えてきている。被害者の声を聞くと「すれ違いざまに斬られた」「突然刀を持った人影が現れて斬りかかってきた」、というのが大半であった。
沢山の被害報告が出ているにも関わらず、人間狩りは未だ捕まっていない。
さらに、ここ最近は連日人間狩りが行われている。捜査は依然として難航しているようであった。
警察の捜査が難航するのには理由がある。
被害が拡大する一方、目撃情報、並びに現場検証から得られる物が少なすぎたこと。手がかりと言えば死体に付けられた太刀筋くらいしかなく、現場に残る証拠も隠滅されていた。監視カメラの映像にも映っていない。
犯人は刃華である可能性が高い。人々に迫害された恨みや辛みから完璧な人斬りを行っている。
犯罪専門家や警察の見解である。
そのためか、犯人は"ただの通り魔"といった言葉で片付けられなくなり、"人間狩り"または"現代の辻斬り"と呼ばれるようになった。
捜査が進まないことに、警察内部でも業を煮やしている者がいるらしく、「全く捜査は進んでいない」という情報が世に流出したこともある。報道陣や世間の、警察に対する厳しい声は、日本中に広がっていた。
それに反応してか、刃華に対して恐怖心や恨みを持つ"過激派"が暴れ始めた。
三日月の脳裏に、ある光景がよぎる。
まさか日本の街中で火炎瓶が飛び交う光景を見ることになるとは思ってもいなかった。
一般市民に多くの被害が出ているため、過激派の弾圧に警察及び機動隊が駆り出されていた。相対的に人手も足りなくなり、注目もそちらに行く。
人間狩りを行う犯人は、動きやすくなったことだろう。
日本中に、特に被害が大きい関東圏内には大量の警察が配備されている。特殊急襲部隊のSATまでもが出動し始めていた。
凶悪な犯罪者である人間狩り、恐らく刃華だろう犯人が、いつ現れても即座に鎮圧するために出動したとのことだが、殆どは人間狩りを見つけるより、過激派の鎮圧が目的となってしまっている。
もっとも、被害の範囲を考えれば、そうなるのも当然である。
少し前に、警察にいる知り合いから愚痴を零されたことを三日月は思い出した。
「人が住んでいるアパート……いや、庭付きの一軒家がいいですね。そこに火炎瓶やらが投げ込まれて火事になったとしましょう。庭が焼け、壁には焦げ痕が付き、窓ガラスは割れた。さて問題です。賠償金は誰が払う?」
三日月は、お前達、と答えた。
「そう。警察が払うんです。犯人が捕まればまだいいのですが、捕まらなかった場合や捕まえた犯人が生活保護を受けている、または金銭を払える身内がいない場合警察持ちになります。「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」の言葉を添えて、ね」
確かに人間狩りよりも暴徒の方が恐ろしいな、と三日月はあの時と同じ事を思う。そしてテレビの電源を消そうとリモコンに手を伸ばす。
「おい、三日月。消すなよ」
テレビを見ていた鬼丸が言う前に、三日月は動作を止めていた。あるテロップが画面内を流れたためである。
テロップの内容は、刃華のための施設であり、三日月や鬼丸の家同然となっている刀人教会が疑われていることが書かれてあった。
「未だに見つからない人間狩り。警察では、帯刀許可を持つ刃華達が多く住む、協力関係でもある刀人教会に対し、近日中に調査を行う方針です」
あまりにも姿を見せない人間狩りに恐怖してか、刀人教会が匿っているのではないかという疑いがあるらしい。
三日月は頭を振る。
違う。匿っているのかを疑っているのではなく、街中で帯刀が許されている私達を直接疑っている。最悪、犯人に仕立て上げられる可能性もある。それに、警察が刀人教会を疑うのは「刃華をとりあえず疑っておけば市民の反応は良くなる」と思っているからだ。
悲しい事に、それは事実だ。
三日月はそう思うと息を吐き出す。
「馬鹿だぜ。こいつら」
「まったくだ」
三日月と鬼丸は笑う。
先週のことを三日月は思い出した。警察が下らない口上を述べて中に押し入り、捜査と称して盛大に内部を散らかした。おまけに、散らかしたらそのままにして足早にその場を去る始末。
「しかし、疑いがかけられるのは当然だ。私達は人々から恐怖される刃華の集団だからな」
テレビが気象情報に入る。明日は晴れる事を三日月は確認する。
「ただ、このまま黙っているのは癪だ。明日、皆で今後について話し合おう」
「オーケー。楽しみだ」
乾いた笑い声を上げた鬼丸は、再びスマートフォンを手に取り遊び始める。
「遊ぶのもいいけど、ほどほどにな」
「あいよ」
適当な返事をした鬼丸の視線がバッと三日月に向く。
「つうかお前いつまで半裸なんだよ!!!」
「さむっ」
「当たり前だろ!痴女かあんた!」
三日月は笑みを浮かべ、タオルをハンガーにかけると上を着る。
着終えた三日月の出で立ちを見て、鬼丸は顔を引き攣らせ、呆れたようなため息を零す。
「だっせ~……」
「何が」
「服」
「ジャージでいいじゃないか。動きやすく、暖かい。突然奇襲されても、この服なら戦いにも逃亡にも支障が無い」
「デンタちゃんと私が一緒に買ってきた、もこもこルームウェアは?」
「あれか。可愛すぎて私には合わないと思った。あと暑いし、刀振る時に気が散る」
「なんでルームウェアで抜刀すること想定してんだよ、馬っ鹿じゃねぇの」
それからしばらく言い争いが続く。鬼丸は三日月の服のセンスの無さには呆れかえってしまう。
「お前の言い分は分かったよ、鬼丸。だから今日はもう早めに寝ろ」
「まだ9時過ぎだろ。老人じゃねぇんだから」
「明日は寝坊するなよ」
「分かってるよ」
語気を強めて注意する三日月にたじろぎながら、鬼丸は頷くと"刀袋"を持ち自室に戻る。三日月は再びテレビに視線を向ける。
チャンネルを回すが、目に付くのは先程の事件ばかりだった。
楽しそうな顔で携帯片手に写真を撮る人々と、必死の形相で現場を保持する警察官達の姿が映る。
三日月に、明らかな侮蔑の感情が浮かぶ。
何故、こいつらはこんなに能天気なのか。現場のすぐ近くに人間狩りがいる可能性を全く考えていない。
刃華は人々が思うより、化物なのに。
そう思うと三日月はふっと笑う。
「馬鹿だな、こいつら」
鬼丸と似たような発言をしている事に気付くと窓の外へ視線を移す。
月は、暗雲に飲み込まれてしまっていた。
お読みいただきありがとうございます。
次回もよろしくお願いします。