天下美剣-参
三日月宗近。平安時代に作られたとされる日本刀であり、"天下五剣"の一つ。日本刀の中でも名刀と言われた五振りの内一本、天下屈指の名刀である。
また、その天下五剣の中で”最も美しい刀”とも言われている。
刀工・三条宗近の作品で、名物中の名物と呼ばれている。その完成度と見た目の美麗さは刀に詳しくない者でも、一度目にすればまず見惚れてしまう。
三日月の由来は、刀身に三日月形の打除けが数多く見られたため、と言う説が有力である。
刃長二尺六寸四分(80cm)、反り九分(2.7cm)。細身で反りが大きい、極めて優美な太刀。
現在は国宝認定されており、東京国立博物館に所蔵されている。
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午後6時を回り、番組が報道番組に切り変わる。陽気な音楽がいつもは流れるのだが、今日は番組テロップと効果音だけが流れている。
カメラが、1人の男性キャスターにズームする。
「こんばんは、まずはこちらのニュースをお伝えします」
キャスターの後ろにあるモニターがある建物を映し、下にテロップが出る。「国宝強奪事件、最新情報」と書かれてある。
「本日未明、東京国立博物館にて、"国宝"にも認定されている刀が盗まれるという大事件が起きました。いったい何が起こったのか。現場から中継です」
場面が切り替わり、細身の男性がマイクを片手に喋り始めようとしていた。背後には東京国立博物館の外観と大勢の人々が映っている。
「こちら東京国立博物館前です。後ろには警察関係者が続々と押し寄せて来ております。本格的な調査が始まる様子を醸し出しております。いったい、犯人は何処にいるのでしょうか」
テレビに映るその光景を、私はベッドの上で膝を抱えながら見続けている。盗まれた"国宝"とは、私の隣に置いてある抜き身の刀、"三日月宗近"の事である。
何かテレビで喋っているが、既に私の意識はそちらに向いていなかった。
昨日刃華になってしまったと両親に報告した私は、しばらく学校を休むよう言われた。
本当に刃華になってしまったのか、今度検査をする……父は少しだけ恐れが混じった真剣な表情でそう告げた。その後ろにいた母が笑いを堪えようと必死になっているのが目に入った時、怒りの感情が沸き起こる前に呆れが来てしまった。
刃華。刀に選ばれた人間の総称。別名"刀人"、"特別な存在"、"妖怪"等々。
私はこの刃華という新しい種族の特徴を知っている。以前、刃華を研究している研究員と父との話を聞いた事があるからだ。相手はかなり酔っていた。私が傍らにいるにも関わらず、屋形船の中で楽しそうに喋っていた事を覚えている。
まだまだ判明している事が少ないが、確定している事は少なからずある。
刀に選ばれただけで、常人とは違う卓越した身体能力と自然治癒力を身に着け、挙句の果てには摩訶不思議な異能力まで身に着ける者もいる。
その研究員は、そう話していた。
何故そうなるのか、まったく解明は出来ていないらしい。
テレビに意識を戻すと、刀の専門家と名乗る白髪のお爺さんが何か専門的な用語を喋っている。言葉は脳まで到達せず、通り抜けていくばかりだ。
息を長く吐き出しテレビを消すと、刀の柄を握ってベッドへ倒れこむ。横になりながら、じっと刀を見つめ続ける。
抜身の状態で、光り輝く刀身はまるで鏡であり、私の顔半分を綺麗に映している。薄っすらと浮かぶ波紋は、まるで刀が脈打っているようであった。私は刀に詳しくは無い。全くと言っていいほど興味も無い。
ただ、この刀が特別という事だけは感じ取れた。
家の中は静寂で包まれている。ふと、両親の様子が気になる。今頃、私の処遇について決めているだろう。母は私を追い出せと言っているに違いない。父はどうだろうか。まぁ捨てるだろう。今の私は夢の妨げにしかならない存在だ。
散々痛めつけられた挙句、化物として捨てられるのだろうか。哀れ過ぎて涙も怒りも湧いてこない。呆れ気味の乾いた笑い声が漏れる。
また、検査、というのにも不安が隠せない。何をされるのか分からないからだ。痛い事をされるのか。お腹とか切られて中身を見られるのか。
様々な不安が胸中を渦巻く。腹が痛みだした。明確に痛む場所が分かる物ではなく、全体的に痛む、じわじわと広がるような不快な痛み。
痛みを紛らわすように、三日月宗近を力強く握り締める。力強さと優雅さを兼ね備えているこの刀を握り、見つめていると不思議と気分が落ち着く気がする。私は、この刀が、ただ人を殺すための道具には見えなかった。まるで昔からずっと知っていたような、仲の良かった友人と久しぶりに再会した感覚に陥っている。
……この子だけは、私の味方でいてくれるのかな。
空虚だった心に悲しみが湧いてくる。目の前がぼやけ、潤んだ瞳から涙が零れ落ちた。
その瞬間、"何か"が、悲しみではない。怒りでもない。胸の奥から"何か"がこみ上げてくる感覚に襲われる。
眉間に皴を寄せ、目を細める。その"何か"を吐き出さないよう歯を噛み締め、刀の柄を力強く握り締める。荒い呼吸を繰り返しながら、刀を離さないように。
「ふざけるな」
その声は、自分の声とは思えないほど低かった。自分ではない誰かが、喋っているような感覚だった。
私は刀身を右手で、それも素手で握り締める。刃が指にめり込む。
無意識だった。何故このような事をしているのか分からない。
直後、鋭い痛みが走る。柔らかい皮が切れ、肉に刃がめり込む感覚に襲われ、鮮血が滴る。頭の中で警告が鳴り響いている。痛い、手を離せ、と。
それでも私は止まらなかった。そのまま手を上げていく。ギチギチと音を立てながら、手を動かし続ける。唸り声を上げながら、歯を噛み締めながら。
数秒ほどその行為を行い、手を離す。右手の痛みがじわじわと全身に広がっていき、私は荒い呼吸を繰り返す。
ベッドには小さな赤い水溜りが出来かけていた。
私はそれを確認すると、自身の右手を広げてみる。
全体的に血塗れになっており、指からの出血は止まる気配を見せない。肉は断ち切れ、骨が露出している。もう少し力を込めていれば骨まで断たれていたかもしれない。そう考えると、三日月宗近の切れ味は申し分ない事を理解する。刀身に目をやると、血がべったりとくっついていたが、輝きに陰りは見当たらない。
そして気付く。先程まで見えていた指の骨は肉に覆われ、千切れていた筋肉がくっついていた。今では皮が切れ多少の血が流れているだけの状態になっている。
恐怖すると同時に本当に化物になってしまったという事を、私は認識した。
「……ふざ、けるな……!」
先程よりも大きな声が室内に響き渡る。同時に私は気付いた。”何か”の正体に。
これは、殺意だ。
弾かれた様に私はベッドから飛び起き、大声で叫ぶ。指の傷は完全に塞がっており、血も一滴すら零れる事は無かった。
2月下旬、高校受験も終わり、もうすぐ中学の卒業式間近という時期に、私はある場所を訪れた。
自宅から1つ県を超えた場所にある、父方の祖父の家だ。見てくれは庭付きの立派な和風屋敷であり、立派な門を構えたその外観から、家の大きさが伝わってくる。当然、外面だけの"はりぼて"ではなく中も異常に広い。小さい頃、屋敷の中で迷子になりかけたのを思い出した。
私は父と母からこの家に1人で行く事は禁止されている。だが、そんな言いつけはもう守る気などさらさらなかった。
門を潜ると、庭師が1人作業をしているのが目に入る。顔を上げ、私の方を見つめると、面食らったように慌てだし頭を下げる。その際、視線が、私の肩から下げているスクールバッグと、手に持つ刀袋に向かっているのだけはよく分かった。
私は庭師に、「内緒にしておいてくださいね」と笑いながら言うとその場を後にした。
白砂を踏みしめながら、敷地内に完備されている道場の前に行く。扉は開いていた。中に足を踏み入れると、目的の人物である祖父が出迎えてくれる。どうやら他に人はいないらしい。
白髪が所々目立つ、短く整えられた髪型。柔道着の上に紺の袴を履いている。身長は私より少しだけ大きい、175cm前後だと思われる。小さい頃より皴が多く増えたが、それでもまだ若々しさを感じる顔をしている。少なくとも、70を超えている人には見えない。
「お嬢様。ようこそおいで下さいました」
祖父は、私の事をお嬢様と呼ぶ。深い理由は無く、そう呼びたいだけらしい。
祖父の視線が私の持っている瑠璃色の刀袋に一瞬向く。
「突然あのような話をするとは驚きました。いったいどうされたので」
「電話で話した通りです、"師範"」
そう呼ぶと祖父の顔が引き締まる。私は道場内を見渡し目的の物を探す。目当ての物は壁に立てかけてあった。私はそれに向かって歩き出す。
「や、確かにお嬢様のお願いは存じ上げております。ですが流石に……」
背中に祖父の心配そうな声がかかるが私は聞こうともしなかった。
目当ての物……木刀を手に取る。刀袋とバッグを、木刀が立てかけてあった場所に置き、私は木刀の柄を握り締める。鍔は付いていない。お土産屋さんに置いてあるような木刀だ。
持ち上げ、上下に軽く動かし感触を確かめた後、切っ先を祖父に向ける。
「無礼を承知でお願いします。私と立ち会ってください」
「……お嬢様、それは玩具ではありません。元あった場所に戻して」
「私の心配をしているのであれば結構。腕を折られようが、痣だらけになろうが、頭をかち割られようが、すぐに治ります。まさか、師範。私に負けるのが怖いわけではないでしょう」
「……」
「私と剣道……いえ。剣術、体術、全てを用いた実戦勝負をしてください」
そう言い切る。祖父は腕を組み、項垂れる。
「師範は武人とまで称されているお方。大の大人が束になってかかっても敵わない実力を持っているとのこと」
「昔はそう言われておりましたが、今は」
「出来ないと?今も警察官達の稽古をしているのは存じ上げておりますが」
「……ふむ。お嬢様、一応聞いておきますが、武道などの経験はおありで?」
「剣道、柔道、空手、拳法といった武道の類は一度もやった事がありません。殴り合うような喧嘩の経験も皆無です」
あまりにも堂々と言い放ったからか、祖父が一瞬肩を震わせる。馬鹿らしいと思われているのだろう。だが、それでも戦ってもらわなければ困る。私の真剣な表情と声色を察してか、祖父は腕を組むのをやめ、柔らかい笑顔を向ける。
「なにやら事情がおありの様子。では、仕方がありませんね。やりましょうか」
パン、と祖父が両手を叩く。雑音が殆ど無い道場内にその乾いた音はよく響く。
「と言っても、お嬢様。まずは体を慣らしましょう。それと……」
私に近づき、祖父は手を差し出す。
「よろしくお願いいたします。老骨なので、お手柔らかに」
笑顔を向ける祖父は優しい雰囲気を醸し出していた。私はそれに安堵し、祖父の握手に応える。
「はい。こちらこそ、よろしくおねが」
瞬間、私は自分の体が宙に浮く感覚に襲われ、次いで背中に衝撃が走る。
何が起こったのか、この時点ではまったく理解出来なかった。
「っ!!」
突然の痛みと衝撃に襲われ、反射的に両目を瞑ってしまう。
そして再び目を開けた時、傷だらけの大きな拳が私の眼前で止められていた。
「試合でも実戦でも、勝負ありの一本です。お嬢様」
どっと、汗が噴き出す。寸止めされていなければ、顔が潰されていただろう。
「何をされたのか、お分かりですか?」
冷たいその声に対して頭を振って応える。声を出す事も、瞬きも出来なかった。
「武器から手を離してください」
私は言われるがまま、木刀から手を離した。それを確認した祖父は、拳を引いて私に背を向け数歩離れる。私は上体を起こしその背中を見つめる。大きく立派な背中だった。道着を着ていても、その下は筋骨隆々である事がハッキリと分かる。
祖父は私に向き直ると正座し、勢いよく頭を下げた。
「握手をすると同時に足払いを仕掛けただけでございます。その後仰向けに倒れたお嬢様の顔面目掛けて拳を下ろしました。完全な不意打ちでございます。大変なご無礼、誠に申し訳ございません!」
最後の言葉は震え気味の大声であった。本当に悪いと思っているのだろう。
「あ、謝らないでください、師範」
突然の土下座を目の当たりにした私は、言葉に詰まってしまう。
喧嘩を売った挙句簡単にあしらわれ、手心も加えられ、仕掛けも解説され、土下座までされてしまっては何も言えない。
祖父は顔を上げるが、悲し気な表情を浮かべている。
「武道に身を費やし60年余り。全て悪しき者達を裁く為に力をつけてまいりました。しかし、悪しき者はおろか、愛するお嬢様を足蹴にし、拳を振るうなど……。
ええい!生きていられるか!!今すぐこの場で腹掻っ捌きます!」
やると言ったら本当にやるのが祖父だ。私はとっさに口調を崩してしまう。
「いいよ。そんな事しないで」
乾いた笑い声を上げ、片膝を抱える。長く、長く息を吐き出す。
「焦っていたの。自分が、人間とは違う存在になると思って」
ポロっと言葉が零れる、というのはこんな感じなのだろう。気付けば私は喋っていた。
「いったい、何があったので?」
「私が刃華になったのかどうか検査をした話、覚えてる?」
「"適正値"とかいう話ですか?ええ、覚えておりますとも。しかしその数値も検査の仕方も何もかもがこう、信憑性に欠けるといいますか。
スーパーの惣菜店や肉屋に置いてあるような、計量器みたいな物に掌を置くだけで刃華かどうか分かり、危険度も分かるなんて、にわかには信じられません」
「私も最初そうだった。刃華かどうかなんて、傷をつければ一発で分かるじゃない、って言ったら、検査してくれた刃華の研究をしている、えっと」
私はこめかみを叩いて思い出す。
「そう。永谷という人がこう言ったの。「最近では普通の人間と同じ治癒能力を持っている刃華がいる」ってね」
「ふぅむ」
納得がいっていない様子を祖父は見せる。
「で、向こうが用意してくれた機械を使えば、刃華かどうかも判明して、数値まで叩き出してくれると言ったわ。その数値に応じて、危険度を識別しているみたい」
「確か、お嬢様の数値は」
「"284"。意外と低い、って言われた」
三日月宗近という名刀に選ばれたのであれば、非常に高い適正値を叩き出すだろうと相手は思っていたらしい。明らかに落胆しているのが、あの時はうかがえた。私は興味本位で、普通はどれくらいなのか、危険なのはどのくらいの数値からなのか聞いたが、永谷は答えてはくれなかった。
「ただ、お嬢様は危険な刃華ではない、と」
「うん。けれど、確実に刃華になってしまっているとは言われたわ……100以下だったら望みがあるらしかったけど」
「望み?」
「適正値って状況に応じて上下するんだって。それで、100以下だと0になる可能性が高い、つまり刃華じゃなくなるみたいなの。だから望みがあるって言われたんだけどね」
「なるほど」
「私はどんどん適正値が上がっているみたい。そのせいである事が起こってね」
「ある事?」
「刀から離れられない」
立てかけた刀袋に目を向ける。中には国宝である三日月宗近が眠っている。
「最初は持ち歩かなくても大丈夫だったんだけど、最近だと学校に行こうと家を出ると、吐き気と頭痛が襲ってきて、気付いたらベッドの上で刀を握り締めて寝ている。このままだと卒業式に帯刀して出席しなきゃいけなくなるわ。
……刃華の特徴でね、刀から離れすぎると心身に問題が生じるみたい。場合によっては命に関わったり、関係のない人々を傷つけたりする。確か、"発狂状態"って呼ばれているみたい」
「つまりそれは」
「そう。”私が刃華だという事をバレないようにする"。私が家にいるための条件が破られそうになっている。それで永谷に相談したら、こう言われたわ。
確実に適正値を変動させる方法が1つだけある」
足を投げ出し、天井を見上げる。
「戦う事、だって。刃華同士の実験を行ったら、片方は適正値が上がって、もう片方は適正値が下がった。そう永谷は話してくれた。私はそれを信じるしかない。だからおじいちゃんを頼った。命の取り合いになれている、おじいちゃんに」
布の擦れる音がする。祖父が立ち上がり、私に近寄る。
「なるほど。そういう話であれば、この五陵院修、全力で協力しましょう。戦いで適正値とやらが下がるのであれば、私に出来る事なら何でもしましょう」
「違うわ、おじいちゃん」
「は?」
「……私はね。上げたいの。適正値を」
明らかに困惑の色を祖父は顔に浮かべている。頭の上に疑問符が浮かんでいるようだ。
「それは、問題なのでは?家にいられなくなります。私の家をお貸しするのは可能ではございますが、刀という時代遅れな物を一生腰にぶら下げる事になりますよ。刀が、お嬢様の体の一部になってしまいます」
「また、違うわ。おじいちゃん」
フッと笑い、私は言い放つ。
「刀は、私自身だ」
立ち上がり、祖父を見据える。
「師範、私を鍛えてください」
祖父は頭を振る。
「お待ちください。色々と疑問が湧いておりますが、私がお嬢様を鍛える事は」
掌を祖父に向ける。そう来るのは知っていた。だから祖父がこれ以上口を開く前に静止を促し、話に割り込む。
「もちろん、ただで教えてくれとは言いません。ちゃんと"ネタ"があります」
「ネタ?」
明らかに興味を示している声色に私は吹き出しそうになる。
祖父は、父を、自分の息子を嫌っている。資産を食い潰し、家の名前を勝手に使い、自分の事を何よりも優先している息子に。当然その息子が選んだ女性も嫌っている。だからこそ、このネタを聞いたら、必ず私に武道を教えてくれる。
口元を歪めながら私は告げる。
「私は母から虐待を受けている」
「な」
「証拠は押さえてあります。疑るなら、お見せしましょう。これが世間に知れ渡れば父も母も人生が終わる事でしょう。少なくとも、もう夢を叶える事は出来ない。
いかがでしょうか?」
そう言うと、祖父は少しだけ考える素振りを見せ、満面の笑みを浮かべた。
お読みいただきありがとうございます。
次回もよろしくお願いします。