天下美剣-弐
いつからだろう。母が私に嫉妬し、狂い始めたのは……そう、7歳の時だ。
母は、自分が誰よりも美しいという自信を持っている。その自信の表れか、人が集まる場所では、誰よりも注目されていた。それほどの美貌を持っている。
幼いながらも、私も母を綺麗だと思った事は多くて、今だってそう思う。
だけど7歳のころから、皆私の方を見るようになった。口を揃えて私を褒めるようになった。
母はそれからというもの、私に暴力を振るうようになった。
でも、母が一番気に食わないのは、自分が注目されなくなったことでもなければ、私が褒められていることでもない。
母は、他でもない自分自身が、私の事を美しいと思ってしまっている。それが気に食わないのだ。自分が逆立ちしても手に入らない美しさを羨ましがっている。
いや、それとも”恐ろしい”と思っているのだろうか。
だから少しでもその輝きに傷を付けようと、夜な夜な私を寝室に呼び出して殴りつけているのだ。
「死ね……死ね……」
母の力が強まる。対し私の抵抗は弱まる。手に力が入らない。母の腕から手が離してしまう。
不思議と、これほど追い詰められた状態になっても怒りや殺意は湧いてこない。
「何であんたみたいな子が生まれたのよ……」
分からない。母を恨んでいるのか愛しているのか、殺したいのかそうでないのか、助かりたいのか、辛いのか痛いのか逃げたいのか。
自分の感情と考えが分からなくなっている。
「あんたなんか、産むんじゃなかった……」
締め上げる力が強くなる。泡が口の端から零れ落ちる。耳が遠くなり、目の前が赤くぼやけ始め、体中から力が抜けていく感覚に襲われる。
「……あんたは、人を狂わせる……」
なんでこんな事になっているのだろう。
なんで殴られなければならないのだろう。
なんでこんな苦しい思いをしなければならないのだろう。
なんで私は自分の気持ちが分からないのだろう。
なんで?なんで?なんで……なんで。
なんで私は……。
"この状況を、楽しんでいるのだろう。"
鬼の形相でこちらを睨む”女”に、私は侮蔑の視線を送る。
「…………くっ………くひ……」
口元を歪めると涎と吹いた泡が零れ落ち、歪んだ視界がクリアになる。
「ヒ……ヒヒ……ヒヒヒ……」
「……笑うなぁぁああああ!!!」
女は激昂し、私の首から手を離す。同時に空気が一気に体中に流れ込み、大きく口を開け咳き込む。
次いで金切り声が耳に入ってくる。
気付いた時には、右頬に女の拳がめり込んでいた。
同時に、私の思考はそこで停止した。
"母"の動作が止まったのは、その直後であった。
泣き声が、聞こえる。気絶から目覚めた私は、口の中が切れている事と、鼻血が垂れていることにまず気付く。ベッドには小さな血溜まりが出来ていた。
泣き声のする方に視線を移すと化粧台に座り、泣き崩れている母が見つかる。まるで不幸なのは私よ、と言うように、大声を上げて、顔を伏せて泣き続けている。
私は、鼻血が垂れていることも放置して、そんな母の背中を眺める。ベッドの上で座って、ぼーっと眺め続ける。やがて口の中が血でいっぱいになり、ベッドに血を吐き出す。
母はその音に反応して少し顔を上げ、鏡越しにこちらを睨みつけた。
「……出ていって」
弱々しいその声を聞いて、私は鼻の下をこすると、足早に部屋の外へ出る。
出るまでの間に聞こえていた母親の泣き声は、私の耳にこびりついてしまった。
廊下に出て、2階へ続く階段を登ろうとしたが、痛みで立ち止まってしまう。
今日はいつも以上に殴られた。痣もたくさん残るだろう。
だが、顔を殴られたのはびっくりした。鼻血もすぐに止まったし、赤くなっている程度で済んでいるだろうが……。
それよりも、私は気になることがあった。首を絞められて殺されかけていた時に、私は楽しんでいたような気がしたのだ。
……気のせいだろうか。それとも……。
「まだ起きていたのかい」
背後から野太い声がかけられる。振りむかなくても誰だか分かる。けれども『しきたり』は守らなければならない。
口元を拭い、回れ右をして深々と頭を下げる。
「……お帰りなさいませ。お父様」
「ただいま」
そう言って父は私の目の前まで来る。煙草と酒の匂いが私の鼻腔をくすぐる。
見上げると、父の顔には疲れが漂っていた。皴一つ無い黒のスーツ、髪はオールバックにしており、彫りの深い顔には厳しい表情が常に浮かんでいる。
しかし、髪は少しべたついているし、口元には無精ひげがあるため、政治家とは思えないほど清潔感が無い。
だがそんな見た目とは裏腹に、父には魅力がある……らしい。今日のパーティにいた人が父の事を「カリスマ」と呼んでいたことを思い出した。
「お仕事、お疲れ様でした。お父様」
「ありがとう。今日はそっちも頑張ってくれたみたいだな。お疲れ様」
父は優しい声でそう語りかけてくる。和やかな雰囲気で会話をする私達。父の声を聞いて、私はまた泣きそうになる。
「今日も殴られたのかい?」
「……はい」
「そうか」
父は私を抱きしめ、頭を優しく撫でる。そして、私の耳に囁く。
「本当は、助けたい。そう思っている」
嘘だ。
「うん」
「けど、お父さんにはやるべきことがある。夢がどんどん近付いている。今日のパーティでお前にも感じ取れただろう?」
感じ取れないよ。
「うん」
「だから今この家の問題が騒がれたりしたら……分かるよな」
分からないよ。
「うん」
「すまないと思っている。本当に。だが、耐えて欲しい。必ずお父さんは夢を叶えて、お前を助けるからな」
……助けてよ。今すぐ。
「……うん」
私は「うん」としか言えず、ただ首を縦に振るだけだった。
父は私を抱いたまま階段を上り、私の部屋まで運んでくれた。それから傷の手当てをしてくれた。適当に薬を塗り湿布を貼るだけだったが。
奥歯がぐらついている事を伝えたが、父は頭を振って歯医者に行けない事を伝えた。歯医者に行けば診察記録が残ってしまうから、という言い訳を添えて。
父は虐待の記録を少しでも減らそうとしている。
痛み止めを飲んで大人しくしているよう言うと、部屋から出ていった。
残された私は、ベッドの上で膝を抱えて震え上がる。体中の痛みは増しているようだ。父は自分の夢を何よりも優先している人である。分かっている。父は頑張っている。いつか夢が叶ったら、私を助けてくれる。
そう信じ続けている。3年も。
……この家は狂っている。
眠い。このまま眠れるのなら、せめて夢の中だけでも。
家族みんなで、笑ってご飯を食べている光景を見せて欲しい。
私は痛みと肌寒さを感じながら意識を手放した。
これが日常だった。
汚らしい毎日を過ごしていく中で、私の心身はボロボロになっていった。
小学校を卒業して、中学生になっても暴力は振るわれ続けた。むしろ頻度が上がり、新たに煙草の火種を押し付けられる暴力も追加された。
体中の傷は増え、体育の時は1人だけ便所で着替えなければならなかった。夏でも長袖を着用する日が多かった。
クラスメイトからは不審な目が多かったが、私の美貌と生い立ちに対する好奇の目がそれ以上に多かったため、上手く誤魔化す事が出来た。まぁ、その美貌のせいで女子達からは嫌われ、虐められていたのだが。
そして、中学2年生の秋。人生の転機が訪れた。
家に帰ってきたのは午後5時過ぎであった。学校の図書室でずっと本を読んでいたからこの時間になってしまった。
部活動をして時間を潰す事も考えたが、体のせいで着替えは出来ないし、顔立ちのせいで全学年の男子に言い寄られ、全学年の女子からは顰蹙を買う。だから出来なかった。
何処に行っても私は悪影響にしかならない。
私は自分の部屋の扉を開けると、スクールバッグを放り投げようと腕を振る。
だが、投げる直前で動作を止める。奇妙な違和感を覚えたからだ。何か部屋の中に異物が紛れ込んでいる。そんな感覚に襲われる。
部屋の中を見渡す。
勉強机。その右隣にある22インチのテレビモニター。クローゼット、小説や参考書がたくさん入っている本棚。
違うここじゃない。部屋中を見渡してみる。
ベッド。その上に、ある物が乗っているのを見て、私は目を大きく見開いた。
抜き身の刀、そして鞘が、そこには置かれていた。
「……」
不思議と、頭の中は透き通っている。思考はクリアで、特に混乱はしていない。ただ、こういう風に”選ばれる”のか、と思ってしまう。
その存在についてはよく知っている。教科書やテレビで腐るほど見てきた。
私はその場にバッグを下ろし、刀に近づく。部屋の中に夕陽が差し込み、刀身に反射する。橙色の反射光を出す刀身は、炎の色をしている様に見えた。
しばし眺めた後、小さく呟く。
「……お前はいいね。選べて」
私は、選べないのに。
何かどす黒い感情が、胸中を渦巻き、気付いたら、私は刀に手を伸ばしていた。
午後10時を過ぎた頃、リビングに明かりが灯っていた。
部屋に近づくと母と父が言い争いをしているのが聞こえる。内容についてはどうでもいい。取るも足らない喧嘩だ。
私はリビングに入る。
「……何?あなたまだ起きて……」
「子供はもう寝る時間だ……ぞ……」
2人は私の姿を見て、絶句してしまう。
「お父様、お母様」
右手に力を込める。
「……私、刃華になっちゃった」
涙を流しながら、口元だけ笑みを浮かべてそう告げた。
私の右手には"三日月宗近"が握られている。
お読みいただき、ありがとうございました
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