君の紡いだ声
プロローグ
――あ、風が揺れた。
ふと空に顔を向ける。春の日差しが暖かい。立ち止まり目を瞑る。耳には心地よい音楽が聴こえてきた。音が風を揺らしたんだ。
小夜子は、目を開けると肩越しに音の聴こえた方向を見た。並ぶ家の一角から零れてきた。
風を揺らした音は、春の音だった。紛れもない春。
何かを期待させるような。何かを奪っていくような。
いままで聴いたことがない。ピアノ演奏なのでクラシックかなと思ったけど、知らない曲だ。春を感じるクラシックはそうない。知らないだけかもしれないが、もしかしたらオリジナルってこともあるのかな。そうだったらいいな。小首を傾げながら音に身を委ねた。小夜子の指も一緒に鍵盤を叩いていた。
不意に強い風が吹いた。春の嵐。
春は何かが始まる。そんな予感がある。寒さが去り、暖かさがやってくる。別れと出逢い。始まりと終わり。小夜子は胸がぎゅうと締め付けられる思いがした。音が苦しいほどに潜り込んでくる。まるで音に包まれてるように感じ、気付くと涙が一粒頬を濡らした。
「お母さんただいま」小夜子は散歩から戻り母に声をかけた。母と狭いマンションに二人暮らしをしている。
「何か面白いものでも見つけた?」母はリビングで本を広げて書きものをしていた。そっと覗き見るとその本は音楽の教科書だった。母は音楽教師だ。授業で使うプリントを作っているようだ。家では小夜子のピアノの先生でもある。優しくも厳しく怖い先生だ。
「ずっと空き家だったコンビニ裏の家、誰か越してきたみたい」
「あら、それはよかった。空き家が多いのは寂しいし、治安も悪くなりやすいからね」
「誰かがピアノ弾いてた」
小夜子は練習に煮詰まると散歩に出て気分転換をする。外の空気が好きだ。土や木の匂いを嗅ぎ、風を感じられる。そしてなにより、外には多くの音がある。鳥の声、風の囁き、子供の泣き声、川のせせらぎ。葉の擦れる音。耳を澄ませば様々な音が、音楽がある。世界は音楽で出来ている。私もその一部なのだと感じることができる。
そして、今日出逢った初めての音。あの春の音を思い出していた。
「そのピアノどうだったの?」
「春だった」
「今の季節ね。知ってる曲?」
「ううん。知らない曲。誰のだろ?知ってる曲より知らない曲のほうが世の中にはたくさんあるけど、いつか誰の曲かわかるといいな。いい音楽を聴いて刺激受けた。ちょっと弾いてくる」小夜子は隣の防音室に移動した。
小夜子は地区限定などの小さい大会では今までに何度も入賞していた。高校三年の今年はもっと大きなコンクールでの入賞を狙っている。
漆黒のグランドピアノの前に腰をおろした。蓋を開け、えんじ色の布をめくる。白と黒の小人さんに挨拶をする。今日もよろしくね。指を開いたり握ったりする。片方の指をもう片方の手で、手首の側に伸ばす。軽く手を振って、鍵盤に手を乗せた。
ひとつ息を吐く。そして指をおろす。
空気を震わす音。今日の鳴りはどうだろうかと思いながら好き勝手に、指の動くままに演奏する。特に決まった曲とかではなく、即興曲であったり、どこかで聴いたポップスだったり、童謡だったり。準備運動の意味合いでリラックスして楽しんで弾く。
ふとさっき聴いた春の音を思い出し、倣ってみた。
ちょっと違う。少し温度が違うような。春なんだけど、暖かさの中にも冷たさが残っているような。何が違うのかなと首を傾げながら強弱や音を少し変えながら弾いてみる。でもあの音は出せない。どんな人が弾いているのだろうか。音には人柄が出る。春のような人なのだろうか。それとも冷たさを感じるような人なんだろうか。そう考えたらいつのまにか鼻歌まじりに弾いていた。飲み物を持ってきてくれた母が驚きながら、「今日はご機嫌ね」と笑った。そうだ、ピアノを弾きながら鼻歌なんてコンクールで入賞するようになってからは一度もないかもしれない。小夜子はそれに驚き、少し悲しみ、そして久しぶりのことに胸が弾んだ。
窓から見える隣の家の満開のソメイヨシノに春の訪れを感じた。花びらが風で散っていくのを見ると、少しさびしくなるけれども、春本番の到来を感じることができる。
雨と晴れを繰り返しながら気温が上昇していき、それと共に小夜子の練習にも熱が入った。今年は東都ショパンコンクールの最上位のプロフェッショナル部門を目指すことにした。国内最高峰の大会のひとつだ。多くの偉大な音楽家たちがいる中で、特にショパンが小夜子は好きだった。今よりももっと高みに行かねば入賞はほど遠い。
春の音に導かれるように小夜子はひたすらピアノを弾いた。
その春の音は、すべてを祝福するような、彩り豊かな花畑のようだった。
花の甘い匂いが漂ったように感じた。
夏の章
1
長い梅雨が明けて、よく晴れた七月。夏がやってきた。
小夜子は今日も息抜きに散歩をした。アスファルトが溶けるような真夏日に日傘を持ってくるべきだったかと日陰を探しながら後悔し始めた時、風が揺れた。
あの時と一緒だ。思わず天を見上げた。風を揺らすピアノの音。春の音を聴いて気になりながらもピアノに打ち込んでいてなかなかもう一度遭遇することのなかった音。嬉しさがこみ上げてきた。
夏の音だ。紛れもない夏。
暑さが伝わってくる。うだるような暑さ。汗がしたたり落ちる。太陽が暴力的に迫ってくる。肌が焼ける感覚になった。でも、時折混じる清涼な音。風鈴の軽やかさ、かき氷の冷たさ、海やプールでの解放感。夏を彩るお祭りと花火。楽しさが爆発していた。蝉の声を忘れ目を閉じた。
不意に音が止んだ。
目をそっと開ける。
音の鳴っていたほうを見ると、少し開いていた二階の窓が大きく開いた。カーテンが風にはためく。その影から人の顔が覗いた。男の人だ。わたしと同じ高校生くらいに見える。前髪が目を隠すほど長い。寝ぐせなのか横の毛が少し立っている。
そして、透き通るほど肌が白い。白すぎて青い。それがとても眩しくて太陽を見るようだと目が眩んだ。一瞬目が合った。ような気がする。彼の口が、あ、と言った。ような気がする。
眩んだ。小夜子はその場で倒れた。暑さが堪えた。彼の長い睫毛がまぶたに焼き付いた。
どれくらいたったのだろう。重いまぶたを開いた。知らない天井。涼しいなぁとぼんやり思いながら顔が火照っているのを感じる。額にはぬるくなったタオル。それが取られたと思うと水の音。タオルを絞る気配。ひんやりとしたタオルが額に当たり、気持ちいい。そっと手をタオルに近づけた。あ。
手のぬくもりを感じた。
「あ」柔らかい声が降ってきた。さっと離れたぬくもり。離れたことが、とても悲しいと思った。もっとぬくもりを感じたいと思った。
少しして手のぬくもりだと気付いた。顔がまた火照った。男の人の手。でも、綺麗な手だ。絹のように滑らかで柔らかい手。薄く開いた目で彼の顔を見上げた。長い前髪だけど、下から見上げると瞳がしっかりと見えた。彼の長い睫毛がかすかに揺れた。
「気付いた?」彼が尋ねてきた。
「うん」答えて、目をしっかりと開いた。「わたし……」
「びっくりしたよ。ちょっと外の空気をと思って窓を開けて女の子がいるなと思ったら倒れるんだもの。熱中症だね。今日は暑いよ。麦わら帽子は忘れたの?」と言って水を飲むようにすすめてきた。
「ごめんなさい」上体を起こす。そっと背中を支えて起き上がるのを助けてくれた。思わずうつむいた。出された水のペットボトルを受け取った。キャップははずされている。彼は、「水換えてくる」と言って洗面器を持って立ち上がった。黙って頷く。彼が出ていくのを見送ってから二口水を飲んだ。喉を通る水が甘く感じる。扇風機の音だけが回っていた。
「緋山小夜子です」彼が戻ってきたので名乗ってお礼を言った。ありがとうございました。
「青井正太郎」彼も名乗った。
「これ」と言って正太郎は皿を差し出してきた。「母親がいないから何もないんだけどレモンがあったから。水分だけじゃだめみたいだよね」
「だめ?」
「熱中症。塩分とかも取らないとって。だからレモンもいいのかなって」
「塩じゃ、ないよね。酸っぱいよ」と言いながら輪切りにされたレモンを一切れ口に入れた。
「す、」口をとがらせた。皺が寄る、すっぱい、けど。
「大丈夫。かけてきたから」
けど、塩辛い。レモンの塩かけか。砂糖をかけたレモンは食べたことあるけど、塩は初めてだ。でも、まぁこれもありかな。何より体が塩気を欲していた。思わず小夜子は笑った。正太郎もつられて笑っていた。
笑いながら、ふと正太郎の言葉を思い出す――母親がいない。ということは、多分二人きり。初対面の男の人と。それに気付くと途端に怖気づいた。優しそうな声に優しそうな笑顔だけど、「男は獣よ、鬼畜よ」と散々お母さんに言われてきたのを思い出した。
ぱっと立ち上がり距離をとった。両手を前に出していた。ボクサーのように。ぐらり。あ。
いきなり立ち上がったのがいけないのだろう。立ち眩みだ。小夜子は女としては背が高いほうだ。そのためかよく立ち眩みをする。
よろけた。危ない、と彼がさっと立ち上がり肩を支えてくれた。肩に熱を感じた。
「無理しないほうがいいよ。家の人呼んだら?僕が代わりに電話しようか?」
小夜子は床に座り深呼吸をする。立ち眩みはあったものの大丈夫そうだ。正太郎の救助も早かったために症状は重くない。
「家すぐ近くだから大丈夫。一応お母さんには電話するけど」と言って、そろりと立ち上がった。うん。大丈夫。帰れそうだ。
「本当に、本当にありがとうございました」頭を下げた。
「どういたまして」正太郎は噛んだ。でも、正太郎は照れることもない。気付いてもいないのだろうか。なんだかそれがかわいいなと思い小夜子は口角をあげた。にやけた。正太郎も微笑んだ。
玄関で向き合って今度改めてお礼に来ると告げた。そんなのいいよと手を振る正太郎に、いや絶対来ますと言い張る小夜子。玄関でなにやってんだと言い二人で笑った。
「そういえば」と言って小夜子はピアノを弾く真似をして、「やるの?」と聞いた。
「あ、聴いてた」ぼりぼりと寝ぐせのある髪をかく。「うち、防音部屋ないんだ。だから昼間だけ弾いてる。――いや、本当は夜も静かに弾いてる」
「静かに弾けるの?」
「たまにしか苦情は来ないよ」と正太郎は真顔だ。
「そっか。たまにか」
「うん。たまに。多分出来が悪い時だけじゃないかな。出来のいい時は、自分じゃ気付かないんだけど、音がいつのまにか大きくなってるみたい。でも文句言われたことない。ただ」
「ただ?」
「みんなが聴きに集まって狭い部屋がむさくるしくなって困る」
それはそれは。聴衆と化してるじゃないか。でも、わかる。あの音は聴きたくなる。目くじら立てるより聴衆として、応援団となってしまったほうがいい。近所なのだから。小夜子は少し羨ましいなと思った。
「じゃそろそろ行くね。ありがとう本当に」
「気を付けてね。倒れる時は前のめりに、そして人目のあるとこで」
「大丈夫だよ」
「本当は送ってあげたいんだけど――」
「いいよいいよ。近いし」
「あまり外出れないんだ。見てわかるように」正太郎は、さぁ見てと言わんばかりに両手を広げた。「健康じゃないんだ」
ああ。やっぱり。でも。
「でも、綺麗な肌だよ。きめ細かくて眩しいほどに白くて、憎らしいほど透き通っている」
「え」
「え?」
小夜子は言ってから冷静になって何を言ってんのと思い頭を抱えた。もう何も言えず顔も見られずにドアを慌てて開けると、じゃあ、とだけ残して足早に去った。
その日の最高気温は三十七度を超えた。
小夜子の体感では四十度を遥かに超えていた。真夏に飲んだココアのように体を芯から熱した。
2
学校が夏休みに入ったところで小夜子は正太郎の家を再訪した。
「別によかったのに」わざわざありがとうと正太郎は笑顔で迎えてくれた。
つまらないものですがと日本人らしい挨拶で母が用意してくれた菓子折りを正太郎の母に渡した。連絡をしてから訪ねたので今日は正太郎の母も家にいた。
「ありがとうございます。今、飲み物出しますね。小夜子ちゃんあれから体調は大丈夫?」優しそうな正太郎の母が柔らかい口調で聞いてきた。
「はい」大丈夫ですと元気に答えると、安心したように何度も頷いていた。
リビングで出された冷たい麦茶を飲むと、夏を一層感じた。小夜子はこないだ聴いた夏の音を思い出した。
「ピアノ聴きたいな。窓から零れてきた音楽」ふと口に出してしまった。
あらあらと正太郎の母は目を丸くしたあと、コロコロと大黒様のように笑って、正太郎を見た。
「ん。いいよ」正太郎はあっさり言うと立ち上がり、リビングを出ていった。
つられて小夜子もあとを追う。
階段を上り正太郎の入った部屋にそっと入った。六畳ほどのフローリングの部屋。ドアの反対側に窓があった。正太郎が顔を覗かせていた窓だろう。ドアのある壁の右手の壁に向かってアップライトピアノが置かれていた。
ピアノの隣には小さな本棚が置いてあり、そこには楽譜集が置いてあった。ほとんどがピアノだが、バイオリンのものもあった。
小夜子は次にピアノを見た。これが正太郎のいつも弾いてるピアノ。流石にグランドピアノではなかった。経済的にもスペース的にもグランドピアノは大変だ。小夜子は祖父母が母のために買ったグランドピアノを使っている。自分は恵まれていると思った。ピアノをやるのは経済的負担が大きい。いや、ピアノに限らず音楽はお金がかかる。芸術にはお金がいる。働いていない小夜子は稼ぐ大変さを想像することしかできない。母と祖父母に感謝した。
正太郎は慣れた手つきで蓋を開け、えんじ色の布をめくった。椅子に座り軽く指を揉むと、鍵盤の上に置いた。
正太郎はちらっと横目に小夜子を確認すると何も言わずにいきなり、指をおろした。
雷が鳴った。ような大きな音だ。
小夜子は肩を震わせ思わずすくんだ。鬼神に睨まれたように息をするのも苦しい。
矢継ぎ早に音が降ってくる。それは夏の風物詩でもある激しい夕立だ。左手は優雅に音を添えている。右手は激しく動き、大きな音をはっきりと鳴らしている。一音一音が胸に響く。雷鳴がこだまする。
徐々に音が緩んでいく。雷雲が去っていくと共に音も去っていく。
雷が去ったあとのじりじり焼くような太陽、突き抜ける青い空。そんな爽やかさと残酷さを、うねるような手が紡ぎ出していく。これはいったいなんだ。
正太郎の横顔を見る。終始にこやかだ。汗ひとつない。青白い顔が一層輝きを増している。なんて軽やかに音を紡ぐのだろう。そしてなんて簡単そうに複雑な音を織りなすのだろう。
顔から手元に視線を落とすと、無数の鯉が餌を争うように手が蠢いている。どれだけ早いのだ。そして正確なのだろう。音をいくつも飛ばしても、はっきりと着地する。その正確さが音に没入させる。
小夜子は知らずに目を瞑り音だけに身を委ねていた。体の強張りはいつのまにか消え、ひたすらに弛緩していた。心地よさが体を満たす。
次に飛び込んできたのは雨上がりの空を羽ばたく燕だ。高い空を風に乗っていたかと思うと、急降下してきて地面すれすれで戯れる。そんな画が浮かぶような浮遊感を感じる音だ。鳥は自由に空間を支配する。同じように正太郎の音がこの空間を支配していく。どこへ飛んでいくのか想像できない。自由だ。自由すぎる音楽。それなのに。
それなのに、どこか懐かしい。
かつての天才たちの作り出したクラシック音楽。その音楽への敬意を感じる。
そしてそれと同じくらいの敵意を感じる。ライバルはいにしえの天才。格が違う。神童と呼ばれるちびっこピアニストは毎年掃いて捨てるほどいる。そこから本当に神童のまま成長して天才と呼ばれる者は一握り。その一握りでさえ、後世に名を残せる者はさらに一握り。
最後の一音が鳴らされた。静寂が満ちた。
小夜子は動かない。動けない。
正太郎は余韻を楽しんでいるように目を閉じ薄く笑っていた。残響が震えた。
拍手が起きた。
小夜子は手を叩いていた。「凄い……」としか言えなかった。
力強い演奏。突き刺さるような音。角ばっているような鋭利さを感じた。心が冷えるようなほどの圧倒的な技術だ。正確な指使いはまるで機械のようだ。
あの倒れた日に聴いた夏の音は楽しさが感じられた。しかし、今日の音は夏の激しさも感じた。苛烈な夏を楽しさの中に融合した。そうだ、楽しいだけの季節なんてない。どの季節も二面性がある。それを音で表現していた。こないだの楽しさの音もよかったが、今日聴いた音の方が何倍もよかった。肌が粟立っていた。肩が震えていた。呼吸が荒くなる。はぁはぁ。なんだこの音は。同じピアノなのか。小夜子とは、全くの異質な存在。なおも震えた。これは。これは。
これは――畏怖。
「オリジナルだよね?自分で作曲したってことだよね?」震える肩をきつく抱きしめ絞り出すように尋ねた。
少しだけ照れたように頷く正太郎。「はい」褒めてほしい子供のように無邪気な笑顔だった。
クラシック作曲家として名を成せる者は現代に果たして存在するのかわからない。でも、小夜子の感覚では正太郎はそういった存在なんじゃないだろうかと思わずにはいられない。演奏技術の高さはもちろんだが、作曲能力もすごい。これだけ季節を感じさせる音楽は滅多にない。
「とてもよかった。力強くて、伸びやかで、何より夏をはっきり感じた。ちょっと嫉妬した。……ううん。すごく嫉妬してる」小夜子は綻んだ。悔しさを隠すように。
「ありがとう。嫉妬してる、なんて最高の誉め言葉だよ。でもまだ完成じゃないんだ。もう少しアレンジしたい。アイデアが降ってくるんだ。それをどう生かしたらいいか」
「……そうなんだ。これ以上になるの?」ため息が思わず零れた。才能の塊。激しい嫉妬が沸き上がった。それでも。
それでも聴きたい。
「その予定」
「また聴かせてね」食い気味に言った。
正太郎は嬉しそうに笑った。「もちろん。聴いてもらいたい」その笑顔は、小学生の時に憧れたアイドルの柔らかくもかっこいい笑顔よりもステキだった。
「ところでクラシックはやらないの?」これだけ弾けるのに、全然若いのにもうクラシックなんてやらないのだろうか。
「やるよ」そう言ってベートーベンの運命の印象的な旋律を鳴らした。「正確にはやってた、かな」
「やってた?今はやらないの?コンクールは出ないの?」思わず前のめりになっていた。
「小学生の頃は出ていたよ。いくつか優勝したこともある」そう言って後ろの壁に目を向けた。そこには額縁に収まった表彰状がいくつか並んでいた。
「今は?」
「今は出てない。というか」正太郎はそう言って俯く。「出られないんだ。まぁ興味もなくなってきてるけど」
「あ」小夜子は思い出した。あまり健康じゃないと言った正太郎の言葉を。
「だから、今は作曲が楽しいんだ。何かを残せたらいいなと思って」正太郎は笑顔ではっきりとそう言った。小夜子をしっかりと見つめたその目は力強かった。「――残したいんだ。生きた証を」
正太郎の想いの強さに戸惑う。でも、その想いがあの曲を力強いものにしていると感じた。
「前に聴いた曲は、春だった。春を感じた」小夜子はぼそりと言った。
「今弾いたのは夏だけど、春はいつ聴いたの?」
「春休みに、この前の道を散歩してる時に、降って来た」
「そっか。その頃だと多分まだ――」そう言うと、正太郎は、ピアノを鳴らした。どう?という感じで目線を寄越した。
それは、小夜子が散歩で聴いたものでありながら、それとは違うものであった。首を振った。そして震えた。す、すごい。あの時、風を揺らした音よりも、さらに――。
さらに音に厚みがあった。あたたかさがあった。緑が芽吹き、桜が頭の中で咲いた。風が吹いた。一陣の風が桜の花びらを舞わせた。春は別れの季節。そして、春は出逢いの季節。春の息吹を、この夏の日に感じさせてくれた。
小夜子が正太郎の音楽に出逢った春。あの時のように今日も静かに涙した。
正太郎が春を弾き終わった。
小夜子は残響が消えるのをじっと待った。足ががくがくした。暑いはずなのに、寒気を感じていた。慄いた。
「前に聴いた時よりも数段いいよ……」唖然とした。口がだらしなく開く。何度驚かせれば気が済むんだろうこの人は。底が知れないというのはこのことか。
「ありがとう」へへへと正太郎は笑った。
「緋山さんに出逢えたからかも。人との出会いは刺激を受けるよね。だからその気持ちを足してみたんだ」
そう言って、照れたように窓の外を見ている正太郎の横顔を見つめた。
胸にじわりとくるものがあった。トクンとひとつ胸が鳴った。あれ?この感覚はなんだろう。
「あ、秋もあるの?」何かを振り払うように聞いた。
「これから。まだ夏は終わってないよ」鼻歌混じりに屈託なく笑う顔が眩しくて思わず小夜子は顔を背けた。「まずは夏を完成させないとね」男の子の低い声が、小夜子の強張った体をほぐした。まいったなぁ。震えはいつのまにか止まっていた。
小夜子は家路についた。どこか腑抜けた状態だ。ふわふわしていた。体が浮いて足が地についていない。凄いものに出逢うと思考が停止する。あんなに凄い曲を作り、あんなに凄い演奏をし、それなのに凄く自然体だった。優雅に舞っている蝶のように軽やかなタッチ。バレリーナがくるくる回転して、宙に飛ぶような運指だった。すべてが絵になっていた。音楽は芸術だ。音も、演奏する姿さえも。感動にむせび、嫉妬に狂いそうになった。小夜子は思った。わたしも、そうわたしもいつか、あそこまで行く。
いつか大きなホールで演奏する自分の姿を想像してみた。それは想像するだけでも胸が高鳴った。いろいろな感情が今日だけで渦巻いた。まるで見るもの全てが初めての子供のように世界の全てが輝いていた。
「小夜子、もう行かないほうがいいんじゃない」家に帰り今日の出来事を話すと、母にそう言われた。
なんで?という顔を向けると、聴いてないからわからない部分はあるけどと断りを入れてから「天才は毒なのよ。身近にしたらあなたの音楽は壊れてしまうかもしれない」と言った。母は音大でいやというほど天才を見てきたのだ。そしてそれによって壊れていく凡才の数々も見てきた。彼我の差に愕然として音楽を辞めてしまう者、自分もできると思い狂気が宿り演奏に没入して体を壊す者。様々な形で音楽と距離をとらざるを得ない者たちはたくさんいた。夢は寝て見るのが凡才だ。白昼夢を見せるのが天才だ。あまり近寄らないほうがいいと言った。
「でも、」小夜子は反抗する。
あんな凄い演奏が今の自分にできるとは思わない。天才は毒、か。確かにそうかもしれない。感化された結果わたしの演奏が崩れるかもしれない。それでも、いい音楽は聴かなきゃいけない。彼の音楽はわたしにとって毒になるのか肥やしになるのかまだわからないけれども、ただただ聴きたい。その本能に逆らったらだめだ。
その裡から湧き上がる意志はきっと揺るがない。
あの音楽は、今、聴かなきゃいけない。
――今しか聴けない。
なぜかそう思った。刹那の音楽。残したいと言った言葉がかき消される。例え世の中に残せなくても、小夜子の中にはいつまでも残るだろう。けれど、あの至高の体験は一度だけ。すべては体験した瞬間から色あせていく。それでも、色あせないように抗うのが音楽家なのかもしれない。演奏を追求し、編曲し、編成を変える。それでも、産まれた瞬間の純粋な歓喜は一度だけ。次は秋の音楽。また聴きたい。壊れてもいい。聴かずにいたら後悔しか残らない。小夜子はまだ聴かぬ音楽に想いを馳せた。
そして正太郎の笑顔が脳裏に焼き付いている。純粋で邪気のない、子供のような笑顔。屈託のない、底抜けに明るく、大きな青い空のように雄大な笑顔。
小夜子の指は宙に浮く鍵盤を叩いていた。音が弾んだ。心も弾んだ。
「でも、また聴きたいの。だからわたしは会いに行く。きっと今聴くべきだし、聴かなきゃ後悔する」うまく説明はできないがそんな予感、いや確信がある。
「……そう。それならもう何も言わない。行くならば」
「行くならば?」母の少し低い声音に喉がごくりと鳴った。
「行くならば、絶対にプラスにしなさい。そして覚悟しなさい」
小夜子は静かに顎を引いた。
3
残暑厳しい中、小夜子はピアノと向き合っていた。ひたすら指に覚えさせる。滑らかに動くように。考えるよりも先に次の鍵盤を押せるように。暗譜が必須なので、まずはそこからだ。表現の前にクリアすべきことがある。
地区大会の課題曲は三曲弾くことになる。二曲はエチュードの決められた中から選択する。もう一曲はバラード、スケルツォ、幻想曲の中から一曲を選ぶことになる。まだ決めかねている。小夜子はエチュード二曲は「革命」と「木枯らし」に決めた。とりあえずエチュードを今は完璧なものにするため毎日八時間以上はピアノに向き合っている。
「革命」は有名な曲で、クラシックを知らない人でも耳にしたことがあるのではないだろうか。有名なだけに表現力で差が出るとも言える。主に左手のための練習曲であり、十六分音符の速いアルペジオになる。ここでの滑らかな音の連なりはひとつのポイントだ。それと共に右手での有名なハ短調の第一主題の音にも気をつけたい。ここでの強弱のつけ方は個性の出るところかもしれない。弱音の指示はあるが、どれだけ弱く弾くかの微妙な匙加減は奏者の読み方による。小夜子はいろいろな強さで弾いてみているが、まだ正解が見つからない。いや、正解はないのだ。自分でこれだと思えるものを探すだけなのだ。納得できる音を見つけたい。
革命は序奏がある。三つの和音が印象的な右手の強打と、左手は十六分音符での速い下降音から始まる。小夜子は右手をさっとあげて一瞬止めてから手をおろして高い音を鳴らす。それと共にすっと左手を鍵盤に這わせるように音を連ねていく。そして、左手と右手のユニゾンへと繋がっていく。両の手が平行して動く。指が一個の生命体のように蠢き、見事な集団行動のように規則正しく隊列を為して動いていく。その音の重なりはショパンの美しさを醸し出している。
左手が素早いステップを踏むように音を鳴らし続ける。右手はバレリーナが優雅に飛越し着地するように、音を刻む。
左と右がまったく別の動きをして、音を結びつける。ピアノってなんて高度で優雅な楽器なんだろう。小夜子はその左右の手を別の生き物のように動かすことが好きだ。それこそがピアノの魅力だと思っている。始めた頃は別々に動かすことが難しく、よく同じ動きになったりテンポが合ってしまっていた。悔しくてよく泣いた。その悔しさがまた繰り返す原動力になった。そして繰り返しは身についていく。努力は裏切らない。一度の練習では一ミリも成長しないけども、一万回練習すればはっきりと成長を感じることができる。
一万回できるかどうかが努力の成果が出る人と出ない人の差ではないか。一万回で成果が出ないなら十万回やればいいと思えるかどうか。ピアノに限らないが、繰り返し練習を重ねることができる人、精神的にタフな人でないと上にはいけない。才能なんて目に見えないものを言い訳にしちゃいけない。本当に必要な才能は、愚直に弾き続けること。
そして、そんな自分を信じ続けること。でも、それが難しい。
小夜子は自分に才能があるとかないとか考えないように何度も努力した。あろうとなかろうとピアノを弾くことを辞めるなんて考えられない。それなら考えるだけ無駄だから。やることも変わらない。優れた才能に出逢うと嫉妬する。それはどうしようもない。嫉妬するほどに悔しいなら、自分が這い上がるだけだ。誰かを引きずりおろして順位を上げることに意味はない。ピアノは自分との戦いだ。音楽は自分を高めていくものだ。
才能を口にするのは何かを成し遂げてからでいい。そして本当の天才にだけ使えばいい。そう、たとえば正太郎のような人に。
――正太郎。
名前が出ると意識してしまう。なんて呼べばいいのかな。
正太郎くん。硬いかな。
正ちゃん。いきなりなれなれしい?
正太くん?うーん。
って何考えてんだ。
変な意識を戻すようにピアノに指を叩きつける。ちょっとフォルティッシモが多くなった。耳たぶが熱い。このモヤモヤする気持ちはなんだろう。この感情の名前はなんだろうか。
小夜子は肩で息をした。深呼吸をする。荒ぶる息を整える。朝からぶっとおしで弾き続けた。ちらりと壁にかかった時計に目をやる。針は十二時を少し越えていた。小腹がすいた。ような気がする。何か食べよう。
台所へ行き、冷蔵庫を開けてみる。調味料とヨーグルトと飲み物だけだ。見事に何もない。思い切って何か買いに行こう。コンビニでいい。おにぎりとか炭水化物を体が欲している。頭は甘い物を求めている。スイーツも食べよう。心は。心は何を求めているのだろう。
頭をぶんぶんと振った。
Tシャツにジャージというおしゃれのかけらもない部屋着から向日葵を思わせる黄色のワンピースに着替えた。裾に白いレースのひらひらがついているお気に入りだ。くるりと姿見の前で回ってみる。ふわりと裾が舞い上がり、膝小僧が見えた。普段はほとんど化粧はしないのだけど、今日は色付きのリップを塗った。前髪を整えて、後ろ髪にはよく櫛を通した。
もう一度全身を姿見でチェックする。よし。何がよし?いいのいいの。白い歯を出して、いーとしてみる。指で頬を押し上げる。よし。
いってきまーすと誰もいない家に残して玄関を出た。鍵をしっかり閉めて、真っ白なスニーカーで熱せられて湯気の出てそうなアスファルトを歩き出す。今日も太陽はフル稼働だ。麦わら帽子はまだ買っていない。今どき麦わら帽子する子なんてあまり見ない。でも、なんか憧れる。似合うのかどうかはさておいて、欲しいなぁと思う。
母の日傘を今日は借りてきた。夏は終わりかけているけど、まだまだ日差しは強烈に若い肌にも容赦なく突き刺さる。白い肌が自分ではとても気に入っている。だからできるだけ焼きたくない。
てくてくとできるだけ日陰を探しながら歩く。このあたりはまだ緑があるほうなので、日陰もある。緑は見ていて優しい。あるだけで少し暑さが和らぐ。偉大なり緑。緑に感謝をした。
小夜子は大きな木があると手をそっと当てて目をつぶってみることがある。どくんどくんと水を吸い上げる音が聞こえる。ような気がしている。木は大地から水分を得ている。人間の血液のように木も水が巡っている。だから音は聞こえてもいいと思う。勘違いでも空耳でもいい。あれは水の音だ。そう思うと心安らぐ。木の音。木の音楽。
大きな入道雲が見える。真っ青な空に真っ白な雲。自然ってなんでこんなに美しく色めいているのだろう。時折はっとした想いに囚われてしまう。そして、はらはらと涙を零すときがある。
――感受性が強いんだね。
母にはそう言われた。それはいいことなの?
――気持ち悪い。何考えてるのかわからない。
クラスの誰かがそう言った。それは悪いことなの?
ぐわんぐわん。頭が回る。いやな声がこだまする。
――きもい。あっちいけ。さよこなんてどっかいけ。キモチ、ワルイ。げらげらげら。
やめて、やめて、やめて。
シネ。
死ね。
「いやっぁあ」小夜子は頭を抱えて蹲る。がたがたと震える。さっきまであんなに暑かったのに、今ではこんなに寒い。太陽が凍ってしまったようだ。世界は氷河期になったのだ。このまま寒くなり続け小夜子は凍り付く。寒さは活動を停止させる。凍った小夜子は動けない。吐く息は白くなり、やがて息さえも凍り付く。そして、体が死に、脳が死に、心も死ぬ。視界が暗くなる。光はもうどこにも感じない。地面が近い。
体を影が覆う。ひんやりとした風が体を撫でた。
頬にぽつりと水滴が当たる。ぽつりぽつりとまた当たる。震える体で天を見上げた。真っ黒な雲が急速に発展していた。頬を涙がつたう。雨と交じり合い、それは洋服を湿らせる。小夜子は、ああ、雨だと思った。
次の瞬間、雨は狂暴になり襲い掛かってきた。体を打ち付ける。服は見る見るうちに色を濃くした。寒さに震える。張り付いた服が気持ち悪い。身を抱く。このまま寝てしまいたい誘惑にかられた。もう何も考えたくない。死ねという言葉が雨となり打ち付けているようだ。
地面を叩く雨音が、シネシネシネと聴こえるリズミカルな悪魔の歌となる。
小夜子は吐きそうになった。内臓がきしむ。地面に顔がつき、その冷たさに身を委ねた。このまま寝よう。
雨が止んだ。いや、雨音はする。あれ?と薄目を開けた。何か声が聞こえる。誰かが叫んでいる。肩を揺すられた。
脇に頭を入れられて起こされた。傘が落ちるのが見えた。ああ。
ああ、正ちゃんだ。小夜子は口元が綻んだ。
「小夜ちゃん意識ある?家に入るよ。しっかりして」
小夜ちゃんと呼ばれた。男の人にそうやって呼ばれたの初めてだ。嬉しいなぁ。優しいテノールに耳が喜ぶ。わたしは正ちゃんって言ってた。正ちゃんって呼ぼう。呼んでもいいかな。
玄関に腰かけた。意識がはっきりしてくる。寒い。震える。夏でも雨は冷たい。
正太郎はバスタオルを持ってきてくれ、一枚を肩から掛けてくれた。小夜子はそれで顔や手足を拭いた。もう一枚のタオルで正太郎は小夜子の髪を優しく拭いてくれた。髪を母と美容師以外に触られるのもタオルで拭いてもらうのも初めてだ。胸がどきどきしてきた。急速に意識が舞い戻る。顔が熱い。
「もし、もしだけど、よかったらなんだけど」言いにくそうに正太郎が俯いた。
「ん?」
「お風呂入る?体、温めたほうがいいよ、こんなに冷たい」正太郎の手が小夜子の手を包み温めていた。はっとして手を引っ込めた。
「あ、ご、ごめん。いやだったよね」
「ううん」違うの。いやじゃないの。ただ、ただ。
「あ、じゃ、お風呂借りようかな。ちょっと寒いし」ただ、照れくさい。もう頭がよく回っていない。シャワーを頭からかぶりたい。冷静にならないと。
「お湯、すぐにたまると思う。とりあえずシャワー浴びてて。浴びてるうちに、その、たまると思う……」正太郎は視線を逸らした。
はっとして服を見ると、ピタリと張り付いて、胸の曲線がくっきりと出ていた。下着の線も見えていた。手で隠す。ははと笑って誤魔化した。正太郎は、手であっちがお風呂と指す。耳たぶが赤いのが見えた。
「乾燥機もついてるからよかったら洗濯機使ってね」正太郎の背中がそう言った。「僕は上のピアノの部屋にいるから」
脱衣場で濡れた洋服を急いで脱いだ。張り付いた洋服は気持ちが悪かった。
洗面所の鏡に映る顔を見る。少し青ざめていて唇は血の気がなく紫がかっていた。温まらなきゃ。
ふと目についたのは真っ赤なルージュの口紅。正太郎の母親のものだろうか。若者に人気のある化粧品メーカーのものだ。お母さんこんな口紅つけるんだ。こないだ会った時は、薄く化粧してるだけで口紅も塗っていないように見えた。少し意外に感じた。
「ありがとう。生き返ったよ。いいお湯でした」小夜子は血色の良くなった顔で二階のピアノのある部屋に入った。
正太郎はピアノの前にたたずんでいた。「唇に色が出てる。良かった」と息を吐いた。
「これもありがとう。洗って返すね」と言ってぶかぶかのTシャツをつまんだ。正太郎に借りたTシャツとスウェットのパンツ。パンツは裾を折って履いている。足長いんだなぁ。
「僕のでごめん。母さんのだとサイズが合わないかなと思って」
「ううん」正ちゃんの匂いがする。それがなんだか嬉しかった。少し甘い匂い。人の匂いは、不快か心地いいかしかない。正ちゃんは圧倒的に後者だ。安心する。
突然、和音が鳴った。
はっとして正太郎を見た。
凛としたたたずまいで伸びた背筋が綺麗だ。優雅な手つきで音を紡ぎ出す。あ。
夏、完成したのかな。こないだのよりも、もっと音が耳を心地よく刺激する。
音と匂いに包まれて気持ちよくなってきた。体は温まっている。雨の止んだ夏の空気は暑さを取り戻してきた。
その軽やかに優しい音色が、わたしを、しっかりとこの世界と繋いでくれる。還って来たと感じた。あの不吉な声ももう聞こえない。わたしは、死なない。シネと言われても、この音がわたしを生きていいと言ってくれていると感じる。許される気がした。
夏の音楽が静かに終わった。糸が引くような余韻に小夜子は目を閉じた。
目を開くと拍手した。素敵な音楽だ。
「びっくりしたよ。雨だと思って外を見たら倒れているから。声をかけても反応がないし飛び出したよ靴下のままで」
でもよかったと笑った。小夜子は胸が弾んだ。
いつのまにか足が向いていたんだ。
いや、きっと意識していた。
もう一度会いたいと思っていた。もう一度聴きたいと思っていた。君の音楽を。君のピアノを。そして。
そして、君の声を。
「もっとピアノ聴かせて」小夜子は頼んだ。
「ん」正太郎は少し考えるそぶりをする。
小夜子は小首を傾げた。
正太郎は何か思いついたような顔をした。太陽が雲間から顔を出した。そんな眩しい表情だ。
「だめ?」
「小夜ちゃんは、あ、小夜ちゃんって呼んでもいい?っていうかさっきすでに呼んでるけど」
「うんいいよ。そう呼ばれるの嬉しい。わたしは、正ちゃんって呼んでいい?」
「あはは。いいよ~」歌うように言った。「それで、小夜ちゃんもピアノやるんだよね?」
「あ、うん」
「一緒に弾こう」
え、と小夜子は固まった。
「だめ?」と声色を変えて正太郎が言った。
「真似しないで」怒ったふりをして小夜子が言った。
「さぁ」と正太郎は小夜子の手を取った。
あ、と勢いに押されて声が漏れる。小夜子は手をひかれるままに立ち上がりピアノの前に立つ。
「僕立ったままでいいから小夜ちゃん座って」正太郎はそう言うと長い指で手を軽く揉んだ。
小夜子はそっとピアノに触れながら「こないだ見た時にも思ったけど凄く綺麗だね。よく磨かれていて、まるで飴色のような輝き」と言った。手入れが良くされている。
「飴色だなんて詩的だね小夜ちゃんは」正太郎はそう言うと軽やかな音をひとつ鳴らした。
「やだ」照れた。
正太郎は横目に視線を寄越しながらも音を紡いでいく。
「ねぇ何を弾くの?」火照った顔でそっと横目に正太郎を見た。
「好きなように」
「え」
「好きなように弾こうよ」
「どういうこと」
「音はさ―」
小夜子は顔をはっきりと上げて正太郎を見た。
「音は合うものだよ」正太郎も小夜子を見た。
小首を傾げて問う。
「音は仲の良い音と仲の悪い音があるんだ。最初はお互い手探りなんだけど、段々相性みたいなものがわかってくる。そしていつしか仲良しで手を繋ぎ合うんだ。だから何も考えず音を出してごらん。自然と音は仲良しになる。感じて」
小夜子は頷いた。
すっと指を鍵盤の上にのせる。目を閉じ、深呼吸をする。耳には軽やかな音が入ってくる。正太郎がとめどもなく音を紡いでいる。
さぁという感じで正太郎は低音部のドを鳴らした。腹に響くような音。背中を押す音。
小夜子は目を開く。手をおろす。
高音部のソを鳴らした。今日の空のように突き抜ける爽快な音。青い空のソ。
正太郎は、音を合わせてくる。さらに小夜子が合わせていく。お互いが歩み寄っていく。いつしか手探りの音探しが勝手に合っていく。合わせようとしないでも、合っていく。
見事なハーモニーが鳴らされた。小夜子は胸が浮き立つのを感じた。自然と笑顔が零れた。
小夜子は正太郎を見た。正太郎も小夜子を見た。
音が溢れてくる。裡から出てくる衝動。抑えきれない感情。それをただ鍵盤にぶつけていく。鳴らされる音が手を繋ぎスキップをする。それが空間を満たす。まるで舞踏会のように、音符がぐるぐる回りながら踊っている。華やかな衣装のように音が空間を彩っている。この世界はカラフルだ。音があればこんなにも心が豊かになる。なんて。
なんて楽しいんだ。
コンクールに出るようになって、毎日何時間も弾いて、うまくなっていく嬉しさはあった。だが、ピアノを弾き始めた頃のただただ楽しいという感情を忘れていた。
ピアノは楽しいものなんだ。それを思い出した。音が全然違う。弾んでいるのが自分でわかった。ピアノが喜んでいた。歌っていた。
どれくらい弾いていただろう。正太郎が突然手を止めた。調和されていた音がつまずいた。何かが壊れた気がした。
正太郎は胸を押さえている。苦しそうに呻き額には脂汗が浮かんでいた。
「正ちゃん」叫び肩を抱く。
「だ、大丈夫。ちょっと横になれば平気だよ」そう言って床に腰をつける。
小夜子はそれを手助けするように体を支えながら床に膝をつく。
部屋はフローリングの床で、絨毯などは敷かれていない。部屋を変えればソファーがある。変えたほうがいいだろうか。それよりもベッドで横になったほうがいいのではないか。小夜子はそう思ったが、移動さえも辛そうな正太郎はすでに床に横になろうとしていた。
正太郎は床に頭をつけようとした。小夜子は慌てた。
正太郎の頭は固い床には着かずに小夜子の柔らかい膝枕に沈み込んだ。
「え」正太郎は苦悶の表情ながら驚きの声を出した。
「え」小夜子は自分のしたことに驚きの声を出した。
無意識にも自分の腿に正太郎の頭を乗せたのだ。それを意識すると顔が熱くなる。はっきり赤くなるのを自分で認識した。熱さは耳たぶにまで伝わった。それでも、やめようとは思わなかった。正太郎も戸惑いを感じさせながらも、動くのも辛いのか、身を委ねてきた。
少しずつ正太郎の呼吸が落ち着いていった。
小夜子は正太郎を上から見下ろす形で見ている。そっと、髪を撫でた。正太郎の、髪は漆黒だ。光がかすかにあたると光沢ができた。正太郎の表情が次第に和らいでいく。髪に指を通して梳いてみた。するりと指が通る。まるでペルシャ猫の柔らかい毛のような滑らかさ。白い肌に漆黒の髪。美しい横顔。呆れるほどに正太郎は美しかった。その横顔を見ながら髪を撫で続けた。
ううんと漏らすと正太郎はうっすらと目を開けた。
小夜子は覗き込むように正太郎の目を見た。真っ黒で綺麗な目。宇宙のようだ。星がある。まるで少女漫画の王子様のようだ。小夜子のまだ乾いていない長い髪の先から一滴垂れて、正太郎の鼻先に落ちた。あ、と小夜子は思った。
目をぱちぱちとすると、「うわ、ごめん」と正太郎は跳ね起きた。
ごちん。いきなり起きたので二人の頭がぶつかる。いてて、ごめん、と何度も謝る正太郎の頭を小夜子はまた撫でた。いたいのいたいのとんでけー。なんて口に出してしまってから顔から火が出た。自爆。
「ありがとう。痛いの飛んで行った。小夜ちゃんは」と言うと、すっと手を伸ばして小夜子の頭を撫でる。
小夜子は飛びのくように後ろへとのけぞった。
「あ、ごめん。髪に触られたらいやだよね」
いや、そうじゃない。ちょっとびっくりしただけ。本当は――。
小夜子は目をぎゅっとつぶると頭をずいと正太郎のほうに出す。今度は正太郎がのけぞった。
「どうしたの?」正太郎は不思議そうに尋ねた。
小夜子は薄く目を開けるとただ頭を振った。目は涙目だ。
正太郎は、戸惑い、考え、そのあと閃いたような顔をすると、すっと手を出して小夜子の頭を撫でた。いたいのいたいのとんでけー。
小夜子は、顔が熟したトマトより赤くなった。恥ずかしさで失神しそうになる。
窓からそよ、と風が入ってくる。正太郎の前髪を揺らした。小夜子の頬を撫でた。夏から秋に移るのを予感させるような心地よい風だった。もうすぐ夏も終わりだ。
「いてて」小夜子は声に出した。
「思い切りぶつかったからね、ごめん」正太郎は申し訳なさそうに小さくなる。
「違う、足がね」と言って足を崩す。「正座とか普段しないのに慣れないことしちゃだめだね」舌を出した。
「ああ、頭重かったよね。床固いよね」と言って小夜子の足を撫でようとする。
ぎゃっという叫び声がこだました。
「ああ、痺れてるのに触ったらだめだよね」正太郎はおろおろする。
その姿がコミカルでおかしくて小夜子は声に出して笑った。
「ねぇ、ピアノ弾いて」
「それで許してくれるならいくらでも」
「うん、許す」怒ってないけど。「でも無理しない程度に短くね」
「また倒れたら膝枕してくれる?」
「え」
「うそうそ。心配させないようにする。静かな曲にするよ」
小夜子は改めて膝枕と言われてどぎまぎする。正太郎の顔を見れない。ただ、無理しないでともう一度俯きながら言うだけだった。
正太郎は椅子に座り鍵盤に向き合う。すっと手を上げる。背に芯が通る。窓から太陽にの光が入る。正太郎が輝いたように見えた。風がざわっと吹いた。
手をゆっくりとおろす。
和音が大きく鳴った。
重力を感じないような手つきなのに、一音一音がはっきりと響く。鍵盤をしっかりと押せているのだろう。力強い。なのに、すごく繊細。
聴いたことのある曲だ。でもこれって――。小夜子は目を閉じ音に身を委ねた。静かな音楽なのにしっかりと音が体に入ってくる。気付くと体が揺れていた。まるでひだまりで昼寝をするような心地よさだ。猫になって丸くなってしまいたい。
不意に正太郎の声が鳴る。
うた、だ。
クラシックだけをやっている小夜子は衝撃を受けた。あんなに素敵な曲を作曲するのに、クラシック育ちなのに、歌もこんなにうまい。声が澄んでいて川のせせらぎのようだ。静かな歌。そよそよと。その夏の歌は、今年の夏をくっきりと縁取った。
最後の一音を鳴らし、残響が消えると、小夜子は大きく手を叩いた。
「ありがとう」正太郎はお辞儀した。
「正ちゃん、私が、ありがとうだよ」
弾き終わって、休憩しようと言ってリビングへと正太郎は小夜子を連れて行った。麦茶を出してくれて、一緒に飲んだ。壁には向日葵の画が飾ってある。夏だな。でも、すぐに秋だ。すると。
「小夜ちゃんは秋はコンクール出るの?」
「うん、特訓中……の休憩」そう。秋になるとコンクールが始まる。
「あはは。秋に始まるショパンのやつかな?小夜ちゃんならいいとこ行くよ」
「うん。ほんとにそう思う?」
「うん。タッチが正確だし指の動きも滑らかだよ。音に艶があるし、柔らかい。聴いてて心地いい。練習しっかり続ければ大丈夫じゃないかな。課題曲はもう決めたの?」
「練習曲の二つは。もうひとつをまだ迷ってる。バラード、スケルツォ、幻想曲から選ぶんだけど」
「バラードがいいんじゃないかな。小夜ちゃんに合うと思うよ」
「そう?そっか、そうかも。うっすらそう考えてはいたんだよね」
「迂闊なことは言えないし、さっきのしか聴いてないけど、技術は大丈夫だからどの曲を選ぶかが大切だよ。合う曲って絶対あるから。小夜ちゃんのリズム、メロディはバラードかなと」
「そんなのわかるの?」
「わからないの?」
「え」普通わかんないよね?小夜子は戸惑う。
「人はみんな固有のリズムがあるし、メロディを持っているよ。僕はそれが聴こえる。だからそれに合わせてしゃべると会話が歌みたいになるんだよ」
「だから心地いいのかな」
「そう思ってもらえるなら嬉しいな。自分が会話にもハーモニーをと思うだけだし、失敗して不協和音になると最悪の会話になるんだ。急に相手がわけもなく怒り出したり」
「あ、でもそれってあるよね。なんか話し方がいやというかテンポやリズムが合わないというか。話しててイライラするみたいな」
「小夜ちゃんもそんなふうに思うことあるんだね。うん、合う合わないって音が違うんだろうね。僕と小夜ちゃんはぴったりだよ」
「え」正太郎は自然と言うけど、小夜子は恥ずかしくなる。さらりとそんなことを言って、そんな笑顔で見つめて、ずるい。
「小夜ちゃんはピアノはお母さんに教わってるんだよね?」
「うん。音楽の教師なんだ。正ちゃんは?」
「僕も母さんに。結婚式やパーティーでピアノを弾いてるんだ」
「そうなんだ。音大卒だよね?わたしのお母さんと同級生だったりしてね。……お父さんは?」
「知らない」とがった声だ。「結婚はしなかったみたいで、一緒に暮らしたこともない。母さんは何も教えてくれなくて。でも多分プロのピアニストじゃないかなと思ってる。僕のピアノ、父さんがくれたらしい。場所がないからアップライトだけど、最初はグランドピアノをくれようとして母さんが断ったみたい」
「そうなんだ。私もお父さんいないんだ。産まれてすぐ死んじゃったらしい。当然記憶になくて、写真の一枚もないし、お母さん何も話してくれないんだよね」
「少しだけ似た者同士だね僕たち」
「そうだね」小夜子はなんだか嬉しくなった。父がいないことを寂しいと思ったこともあるし、シングルマザーだから同級生にいろいろ言われたこともある。だけど、正太郎と同じだと思うと、いやなことは消え、よかったんだと思えた。
小夜子は学校で家のことも自分のこともあまり話さない。それどころか会話自体そんなにしないほうだ。なのに正太郎とだと素直にいろいろ喋っている。会話を楽しみ、もっともっとと欲している。彼の声がもっと聴きたい。
なんでもない会話がキラキラしている。知人友人と話したら、喋った瞬間から忘れてしまうような身のない会話。それが相手が違えば、喋った瞬間から代え難い思い出になっていく。脳の皺に刻まれていく。宝物が刻一刻と積み重なっていく。世の中の人はこういう体験を当たり前にしているのだろうか。同級生の女の子が耳に不快な高音で騒ぐのも少しだけわかる気がする。いまなら。
いまなら、わたしも、金切り声で叫んでしまうかもしれない。人生って素晴らしい。会話ひとつで幸せを感じられるなんて、この世は安上がりだ。神様は優しい。幸福をこんなに身近に用意していてくれる。気付くかどうかだけだ。気付けた人は人生が楽しくてしかたないだろう。すべてがうまくいく。そんな勘違いさえ許される。そして、勘違いでなく本当にうまくいってしまうのではないか。
気付くと、外はオレンジに溶けていた。
正太郎の声が聴きたくて、正太郎のリズムとメロディを体に刻みたくて、時を忘れて、夢中で口を開き続けた。
ただひとつ正太郎が苦しんで胸を押さえたことだけは聞けなかった。病気なのはわかる。でも、外にもほとんど出られず家の中で過ごしている正太郎。多くのことを諦めているのが会話から伝わってきた。それだけに病気のことを聞くのが怖かった。正太郎もそれを話そうとはしなかった。いつか知ることができるのだろうか。胸を押さえていた。心臓だろうか。良くない思考で埋まりそうになるのを払って、明るく振舞った。
「ねぇ見て」正太郎はピアノが小夜子に見えるように振り向いた。
「あ」すごいな。まるで燃えているようだ。ピアノがオレンジに染まり、部屋もオレンジに染まっている。まるで炎に包まれているようだ。
「この時間が好きなんだ」
「きれい」
「西日で部屋は暑いんだけど、でも炎に包まれているようで好きな時間」
正太郎はピアノを弾き出した。
炎の中で演奏する姿は、炎の使者だろうか。太陽神アポロンがピアノを弾くとこんな感じかもしれない。ぼやっとしていく頭。蕩けそうだ。暑さにでなく、音楽に。
「海の上のピアニスト。戦場のピアニスト。四分間のピアニスト」
「わたし全部見た。どれもいい映画だよね」
うんと正太郎は頷いた。
「さしずめ、今の僕は炎のピアニスト。燃えてるぜ」
「心が?」
「そうそう」あははと笑いながら、「ハートは熱く、頭はクールにね。僕には熱量が足りないんだ。だから思うのかもしれないけど、ピアニストに必要なのはさ――」
「必要なのは?」
「パッションじゃないかな」そう言うと鍵盤から手を跳ね上げた。制止した手が美しい。その手でそっと胸を叩いた。
「情熱、か」小夜子もそっと胸に手を当てた。
4
――明日、また来られない?
昨日の帰り際にそう言われた。
「え」
「花火」
「花火」
「うちから見えるんだって。花火大会。小さいんだけど、夏休みの終わりに毎年やってるらしくて、その良かったら一緒に」
「うん」嬉しくて、大きな声で、大きく頭を縦に振った。
目が眩むほど。盲目になるほど。
そして今日も正太郎の家に来た。夜来たのは初めてだ。玄関開いてるよと二階から声が届いた。お邪魔しますと言って中に入り二階を目指す。
風景が黒く塗りつぶされると、それだけでいつもと違う世界に来たように思う。胸が早鐘を打つ。口から飛び出しそうだ。なんて使い古された言葉が浮かんだ。足りない。そんな言葉じゃ足りないよ。時限爆弾が体の中で時を刻んでいるようだ。カチカチとずっと鳴り、骨に響き、脳を痺れさせている。だって。だって。
初めて浴衣を着てみたんだ。どうかな?正ちゃん、どうかな?大人っぽいメイクもしてみたんだけど。唇がつるりと光っていた。
胸の高鳴りを感じながら、正太郎のいる部屋をノックして扉を開けた。
正太郎が、窓際にいてこちらをゆっくりと振り返った。
目が合った。あ。
あ、正ちゃんも浴衣だ。似合っている。かわいい。かわいいって男の子に言うと怒られるかな?でも、かわいいと思った。ふふ。
「小夜ちゃん!」
キーの高い声に肩が跳ねあがった。顔を思わずじっくり見つめた。
「可愛いよ!すごく似合っている。その浴衣の色合いも素敵だね。センスいいなぁ」
顔が一気に熱くなった。期待していた。期待していたけど、本当に言ってもらえると、想像以上に嬉しい。褒められれば嬉しいのは当たり前なんだけど、そんなことじゃなく、正ちゃんに言われたことが嬉しい。舞い上がる。浮足立つ。ふわふわとしていた。来てよかった。着てよかった。
誘ってくれてありがとう。
「青い花に赤い金魚の絵柄だね。派手すぎない色合いがとてもいいね。それに」正太郎はそわそわしていた。
小夜子は窓際に近づき正太郎の横に立った。「ありがとう。正ちゃんもよく似合って、その」もじもじしてしまう。わたしは褒めるのが苦手だ。言葉がスムーズに出ない。でも、勇気を出せ。言葉にしなきゃ。
「正ちゃん。かっこいいよ」
「ありがと」正太郎はにこりと笑う。でも目が合うとすぐに逸らした。
「どうかした?」
「いや、その」指さした。
「ん」と指さされたところに手をやった。首筋からうなじ。あ。
「うなじが綺麗だなと思った」恥ずかしそうに言った。「セクハラかな」
「うんセクハラだ。正ちゃんのすけべおやじ~」髪を結わって来たのだ。いつもはロングをそのままか、後ろでまとめて縛るだけ。でも今日はせっかくの浴衣なので母に結ってもらった。三つ編みにしてからそれをさらに結って後ろでまとめた。首筋が見えるので、いつもより風を感じる。
その時、窓が揺れた。破裂音も響いた。
「始まった」正太郎が外に目をやった。
「綺麗。大きい」小夜子も見た。すごくよく見える。こんなにはっきりと花火を見るのなんて初めてだ。
しばらく黙って二人並んで夜空に咲く大輪を見た。リズミカルに鳴る破裂音が心地いい。不意に体温を感じた。
目をおろした。
繋がれた手。
目をあげた。
耳まで赤く口をきつく結んだ正太郎。長い指。少し節だってて肌は滑らかで柔らかい。大きい手だなぁと思った。
小夜子は手を強く握った。ぴくりとした反応のあと、強く握り返された。
真空のように空気がなく密着した肌と肌。あたたかい。体温は、人は、あたたかい。当たり前のことを思い出す。誰かと手を繋ぐなんていつ以来だろう。小さい時に母や同級生と繋いで以来だろうか。小学校を卒業してからは確実にない。小さい頃はなんでもない行為だったのに、成長すると簡単にはできなくなってしまう。それだけに手を繋ぐ行為が神聖で尊いものにさえ感じる。
手に湿度を感じた。汗、大丈夫かな。嫌がられないかな。ちらりと横目に見た。指と指を絡ませる握りに変えられてぎゅううとまた強く握られた。隙間はもっとなくなり、湿った空気も押し出して密着した掌。大丈夫。わたしは全然いやじゃないもの。きっと正ちゃんも。もう一度わたしも強く握り返した。
無言のまま、花火の音だけが何度も何度も響き窓を震わせ、その度に代わる代わる手を握り合った。
気付くと一時間黙って手を握り合っていた。
ひゅうう~と長い音。そして盛大な破裂音。大きな大きな花が咲いた。でっかい花。わわしは今見た花を、一緒に見たことを忘れない。胸の奥に大切にしまい込んだ。
「終わっちゃったね」ぽつりと言った。
「なんにでも終わりはあるんだよね」正太郎がさびしそうに言った。そして握り合った手に気づき、驚いた顔をした。口が金魚のようにパクパクしている。小夜子は思わず笑った。つられて正太郎も笑った。楽しい。すべてが楽しく輝いている。
「あ、そうだ」と正太郎は言うと、恭しく手を名残惜しそうに離し、ちょっと待っててと階下に降りて行った。
とんとんとん。正太郎のリズム。
とんとんとん。戻って来た。
「おかえり」
はぁはぁと僅かの階段の昇り降りなのに息が荒れていた。大丈夫?と思わず口に出しそうになった。
正太郎は大きく呼吸をして唾を飲むと息が整っていった。「これ」
すっと上げた手にはかき氷を作る機械だ。
「夏と言ったらこれじゃない」
「うん」嬉しくなった。夏の風物詩だ。季節を感じる食べ物を一緒に食べるのはかけがえのないことだと思う。
床に機械をおろし、氷をセットする。
「やってみる?」
「いいの?」
「いいに決まってるよ」正太郎は、おいでと手招きして、ハンドル部分を示した。
小夜子はそっとハンドルに手をやる。ぐるんぐるん。思い切り回した。がりがりがり。氷が思い切り削れた。しゃりしゃりしゃり。削られた氷が、下に置かれたガラスの器に積もっていく。雪が積もっていくようにちょっとづつ山になっていく。シロクマが頭に浮かんだ。見てるだけで涼しい。
「シロップは何がいい?」
「いちご」
「だと思った。僕もいちご」いちごとメロンとレモン味があった。「知ってる?目を瞑って食べるとどれも味が一緒らしいよ」
「そうなの?」
「色と香料が違うだけ。色に脳が騙されて赤だといちご、緑だとメロンって思うらしいよ」
「目に見えるものが全てじゃないってことだね」
「哲学的~」
「やめてよ~」
あははと正太郎は目を線にして笑った。「ただ言えるのは」
「言えるのは?」
「いちごもメロンもレモンも美味しいってこと」
「そうだね。美味しいなら味が一緒だろうとどうでもいいよね。美味しいは正義」
口の中を冷たいが満ちていく。頭がきーんとしてこめかみを押さえた。横を見ると正太郎も同じようにこめかみを押さえてた。それを見て思わず噴き出した。
「これがたまらない」正太郎も痛がりながら噴き出した。
「来年も――」
「ん?」
「来年も一緒に見ようね」小夜子はそう言って、小指を出した。
正太郎は小指を絡めて、頷いた。
空気が少し冷えた気がした。
「ねえ赤い?」何かを振り払うように正太郎は舌を出した。
「赤い赤い。わたしは」小夜子も舌を出した。
「あっかいよー」
無邪気な笑い声が部屋にこだました。くだらないことで笑い合える。時間がこのまま止まればいいな。痛切に思った。そして願った。
来年も花火を見たい。
一緒に。
秋の章
1
「お母さん散歩に行ってくるね」
「またなの?コンクールはもうすぐよ。息抜きも大切だけど、集中しないとだめよ」
「わかってるって」
「失礼のないようにね」
はーいと返事もそこそこに玄関を飛び出した。
小夜子は息を切らすほど走った。走った。走った。十月になると、すっかり秋の空気に変わった。高い建物のないこの街は空が大きい。吸い込まれそうな青に向かって叫ぶ。言葉にならない声で。なぜ、叫ぶのか。小夜子自身わからない。何かもどかしく、自分で自分がわからなくなる。母の言う通り、ピアノに打ち込まなければいけない。もうすぐコンクールだ。でも、ふとした瞬間、思考に入ってきてしまう。
彼の声が。彼の笑顔が。彼の空気が。
気付くと、息抜きと称した散歩に出ては足が勝手に向かう。その先はいつだって一緒。今だって、無造作に駆け出したつもりでも、無意識に、いや、本当は意識しているのだ、彼の、正ちゃんの方へ向かっている。
「やぁ」
声が降ってきた。
小夜子は、肩で息をしながら膝に手を付き、顔をあげる。正太郎は、いつもと変わらぬ笑顔で窓から手を振っている。
「秋で涼しくなったけど、そんなに走って運動会の練習かい?」
「ううん。運動会なんて出たこともない。ピアノしてるから怪我しちゃいけないと言われてるから。でも走るのは速いよ」何の話をしてるんだろうか?なんでもいい。なんでも声が聴けるならいい。
「玄関あいているから、上っておいで」そう言うと正太郎は顔を引っ込めた。
うん、と見ていないのに頷くと小夜子は玄関に入る。お邪魔しますと一声かけてから勝手知ったる足取りで二階へと上がっていく。
「今日はどうしたの?」
「どうもしない」
「ふふ」
「迷惑だった?」
「歓迎だよ」
「ありがと」
小夜子は二日に一度は訪れるようになっていた。そして、いつもピアノのある部屋で話をする。時にピアノを弾く。それは正太郎一人だったり、小夜子一人だったり、二人で一緒にだったり。
小夜子はコンクールで弾く課題曲を正太郎に聴いてもらった。拍手をしてくれた。そして一通り褒めてくれたあとに、ミスしたところ、弱いところを的確に指摘してくれる。そして、練習方法を教えてくれた。通うたびに上達するのを小夜子は実感する。だから。
だから、母が言うようなことはないのだ。決して天才といるからって壊れはしない。正太郎は教えるのがうまい。
「ねぇ聴いてもらっていいかな」
「うん。毎回うまくなるから聴くのが楽しみなんだよ」
小夜子はすっかり慣れた様子で椅子に腰かけて、高さを調節する。
「バラードやるね」三つ目の課題曲はバラードにした。バラードは有名な一番op.23だ。ピアノのアニメなどでも演奏シーンがあるほどだ。有名なだけに多くのピアニストも演奏している。だから、審査員の耳もより肥えている。それは不利なのかどうかわからない。でも、正太郎が向いていると言ってくれたバラードだ。小夜子自身、練習を重ねるごとに合っていると感じた。日に日に上達するのを感じる。
導入部は静かな調べだ。ショパンの想いはどんなものなのか。想像しながら鍵盤に指をおろす。望郷の想いを感じながら憂いのある演奏を意識する。
ト短調の第一主題に入る直前で、左手がD,G,Esという不協和音を押さえる箇所がある。表記ミスではないかと、D,G,Dの表記を採用している楽譜出版社もあるのだが、一流ピアニストの多くが、原典のD,G,Esを採用している。
小夜子もそれに倣い、正太郎もそれを支持したので、不協和音となるほうで弾く。
単純な旋律の序奏。ゆったりとした大きな河の流れのように。一音一音を繊細に、かつ大胆に弾く。強すぎず弱すぎず。ともすれば陰鬱にも感じるからこそ、単純な旋律だからこそ、美しく奏でたい。その想いを指に込める。
徐々にテンポをあげ、音の連なりが雨のように降ってくる。
かと思うとまたテンポを落とす。緩急が聴く者の心を掴む。そして、心を叩く。小夜子は弾きながら自分もこの旋律や音の波に飲みこまれるような感覚になる。
中盤になると激しさを増していく。指の動きも速くなっていく。右へ左へと走りまわる。時に右手を左手が超えて叩く箇所もある。その手の動きは舞踏会での舞いのようであり、優雅でありながら躍動的。鍵盤をしっかり叩くために体は自然と鍵盤に対して並行移動する。焦らず優雅な振る舞いに見えるように、見え方も気にして弾こうよと正太郎に言われた。
「難しいよ。優雅になんて余裕がない」そう言ったこともあった。
「優雅に弾けてないから余裕がないんだよ。優雅に弾いてごらん。見え方も優雅になるよ。それに」
「それに?」
「ピアニストは魅せる者だ。芸術は見栄えも込みだよ。僕はそう思う。白鳥のように、水面下はじたばたしてもいいけど、見える部分、水上部は優雅にいなきゃ、ね」
小夜子はわかったようなわからないような曖昧な頷きで返した。でも、ピアニストは魅せる者ってのはわかる。やはり、かっこいいピアニストは魅せ方もうまい。観ていて感動する動きだ。
意識する。
それだけで人は変わる。背筋が今まで以上に伸びている。見え方がよくなるように意識したら自然と弾くのに適した姿勢になった気もする。
指の動きもきっちり鍵盤に向き合えば、自然と美しい指の動きになり見え方になる。優雅に叩け。指を躍らせろ。バレリーナは激しく動いても優雅だ。あの動きのように指を動かせ。指の先の先の神経にまで意識よ届け。
後半部に入ると旋律は華麗になっていく。技術的にも難しくなっていくが、それだけ指をしっかり動かせた時には美しく見える。
右手と左手が追いかけっこをするように連動して動く。左手が天に浮く。右手の指が高速で動く。音が、飛び跳ねていく。兎のようにぴょんぴょんと可愛らしく跳ねている。
劇的な情熱溢れるコーダ。滝のように流れる音。休符の時に跳ね上げられて静止する手。空に浮かぶ一瞬が眩く輝く。
小夜子は楽譜の美しさを思う。上昇していく音符。そして下降する音符。山を登り、降りていく。頂上には何があるのだろう。そこから見える光景はどれだけの感動があるだろう。
楽譜は山登りの道しるべのようだ。登ってみないとわからない感動がある。弾いてみないとわからない感動がある。いつも新しい楽譜を見ると、小夜子はその地図がどこに自分を導いてくれるのだろうと夢想し、軽い興奮を覚える。
ショパンの楽譜は美しい。その地図はいつも小夜子の想像を超えた景色を見せてくれる。その光景を聴いてくれる人に届けたい。届け、わたしの音楽。観てくれ、わたしの表現。
最後の音が、空間を漂い、消えていく。
静寂。
そして正太郎の拍手。立ち上がり、ぺこりとお辞儀する小夜子。
「ありがとう聴いてくれて」
「今日のは、一段といいね」正太郎は満面の笑みで言った。
小夜子は嬉しさと気恥ずかしさではにかみながら俯く。
正太郎はピアノに向かい、椅子に腰かける。そして、おもむろに両手を鍵盤に降ろす。
びくりと小夜子はした。完璧と思えた自分の演奏が、こなごなに打ち砕かれる。ただただその美しさに圧倒される。完璧とはこうだと言わんばかりのバラードを正太郎は弾く。小夜子は涙が零れた。
音が突然止む。
はっとして、小夜子は涙を拭き隠す。悔しいなぁ。わたしと何が違うんだろう。
「正ちゃんはいいなぁ」ふと漏らした一言だった。
「なにが?」にこにこしながら肩で息をする正太郎が小夜子の顔を真っ直ぐに見つめた。
「才能があって」
正太郎は、肩をひとつ震わせた。それにも気付かずに小夜子は続けた。
「指も長いから音をしっかりと捉えている。打鍵も強い。なによりピアノを弾くために産まれたような才能がうらやましいよ。わたしにももっと才能があればなぁ。正ちゃんもお母さんも自信を持てというけど、そう簡単に自信は持てないよ。褒めてくれても正ちゃんの演奏に圧倒されるだけだ」ため息混じりに言った。
不協和音が部屋に鳴り響く。小夜子は雷が落ちたのか、外で車が事故でも起こしたのかと思い首をすくめた。不穏な空気が溢れている。
不穏な空気を恐る恐る見た。凍り付いた。血の気が引くとはこのことだと妙に冷えた頭で思った。
「ふざけるな」正太郎はまた鍵盤を叩きつける。
「うらやましい?才能?」ふざけるなとまた言った。
小夜子はその剣幕にうろたえた。「ご、ごめ」
「ほしい才能がもらえるわけじゃない。僕が求めたんじゃない。努力もしないでできているわけでもない」
小夜子は目が滲んだ。それでも正太郎をしっかりと見た。自分の言葉の浅はかさから逃げてはいけない。
「だいたい才能なんて目に見えないものに縋るのもどうかしてる」
才能を言い訳にしちゃいけない。わかっている。わかっているけど――。
小夜子は自分の弱さを恨んだ。圧倒的な演奏を前にすると覚悟が簡単にへし折れる。それさえも言い訳でしかない。ただただ項垂れるしかない。
「それに僕は音楽しかうまくできないから、外で走り回ることもできないから」これしかないだけなんだ、と叫んだ。
「そんな」ことないとは言えなかった。病気で外にもほとんど出ない正太郎には慰めにもならない。
「僕は音楽の才能よりも丈夫な体がほしかった。長い指より普通の心臓がほしかった」
正太郎はそう言って窓に近寄ると外を見た。
「走るのが好きだった」ぽつりと漏らす。
小夜子は正太郎の背中を見つめた。彼の声を聴き洩らしてはいけない。
「小さい時は外を毎日駆け回って、泥だらけになっていたんだよ僕は」
正太郎は窓を開けて太陽を探した。その眩しさに目を瞑る。
「走るのが好きだったんだ。僕は走る才能が欲しかった」
小夜子の方を見たその目は心なしか潤んでいた。
「自分のしたいことと、うまくできる才能が一致するとは限らないんだ。一致しない人のがほうがきっと多い。だからみんな悩むんだ」
よく言うことでさ、才能を無駄にしてはいけないとか言うよね。羨むような才能を持っているならそれを発揮するのは義務だとまで言う人もいるよね。正太郎はどこか諦めたような表情をした。
「僕は音楽も好きだ。だから弾き続けている。いっぱい走って、いっぱいピアノを弾いた。足は速くならなかった。それでも走っていたかった。でも――」
正太郎は一息つく。長い睫毛がかすかに動く。
「でもある時、ぶちっと音がした。アキレス腱断裂。後遺症が残った。それまでのように思い切り走れなくなった。遅くても思い切り走り、風を感じるのがとても好きだったんだ。それができなくなった。幼い僕は毎日泣いたよ」他人事のように言った。
「そうだったんだ……」小夜子はそれ以上の言葉が出なかった。
「それでも音楽だけは残った。走る分まで打ち込んだよ。コンクールで優勝もした。走れないけど、ピアノで一番を目指そうと思った。だけど、病気が見つかった。それは思った以上に重かった。次第に学校にもいけなくなったよ。才能なんかいらない。健康が欲しかった。好きな時に外に出て、当たり前に学校に通いたかった。友達がほしかった……。僕は二度の絶望を味わったんだ」
今日はもう帰ってと言われて小夜子はごめんと言って逃げるように帰った。
小夜子は、不登校だ。うまく人づきあいができないために学校が苦手だった。そのうちにいじめにも合うようになった。いじめを理由に転校したこともある。母は逃げるのは恥ずかしいことじゃないと言って別の学校を探してくれた。我慢なんてしなくていいとも言ってくれた。
教師をしている母は複雑な想いを抱いていると思う。学校では肩身が狭い思いをしているかもしれない。それでも何も言わずに小夜子のことを守ってくれる。そんな母にはいつも感謝している。
高校に入るといじめもなくなったが、人づきあいの下手さは変わらない。学校自体も苦手だ。ピアノを理由にいつしか学校にほぼ行かなくなった。出席日数ぎりぎりなのでたまに行ってもまっすぐに保健室に通うようになっていた。
不登校を恥じることはない。と思う。無理した結果、自殺するより全然いいとテレビで聞いたりネットで目にすると免罪符を手に入れた気になった。
だけど、正太郎のように行きたくても行けない人がいるのだ。恥じてしまうし、申し訳ないと思ってしまう。そう思うことさえ驕りなのかもしれないが。
それに正太郎の言ったように、望む才能を持って産まれる人なんてほとんどいないのだろう。好きなものを職業にできる人は少ない。そのうえに才能まである人なんてほとんど奇跡だ。
迂闊な一言を悔いた。ちゃんと謝らなきゃと小夜子は思いながら眠りになかなか付けず、空が白み始めた頃に浅い眠りについた。枕をしっとりと濡らしながら。
2
次の日、寝不足で、泣き腫らした瞼のままにピアノに向き合うも集中力がない。
自分の迂闊さが恨めしい。思わず手を鍵盤に叩きつけてしまった。そんな自分に自己嫌悪を抱きながら鍵盤に頭をつけて突っ伏していた。
母がドアを開けて入ってきた。突っ伏した小夜子を見て、「どうしたの?」と言った。
母は小夜子に近づくとそっと頭を撫でた。小夜子はかすかに震えてる。
「……わたしは弱い」
「ん?」母は小夜子の顔を覗き込むようにする。
「どうしても人を羨んでしまう。ないものをねだってしまう」小夜子は絞り出すようにぽつりと言う。
母は目を細くする。何も言わずに頭を撫で続ける。小夜子はそれに安心して心情を吐露する。
「例えば指がもう少し長ければ。もう少し筋力があれば。もう少し体力があれば。もう少し。もう少し。才能が……」小夜子は体を起こすと、恨めしそうに自分の指を大きく開き見つめる。
「繊細で優しい音色。あなたの音色はとっても優しくてあたたかい。それに技術もどんどん上達している。正太郎君は教えるのが本当にうまいのね」悔しいなと最後にぽつりと付け加えて小夜子の頬を両手で挟む。小夜子が小さい時から励ますときの母の仕草だ。
小夜子は黙り込んで俯いてしまう。覚悟を決めたはずなのに、それでもときおりもどかしくなり、不安になる。なんでこんなにもわたしの心は揺らぎやすいのだ。強固な心が欲しい。揺れず芯のある心が。
――小夜ちゃんに足りないのは、自信だけだよ。
正太郎はそう言った。その言葉を信じて自信に変えたい。けれども弱い心が覗く。これではだめだと何度も思う。そしてあろうことか――。
「正ちゃんはいいなぁって言っちゃったの」
「そう」
「才能があるって」
「小夜子」
母のキーの上がった声に小夜子は肩を震わせた。
「正ちゃんって呼んでるんだ」
「え」小夜子は俯いた。顔が火照る。
「ふふ。怒らないわよ。いいなぁって思うことってあるよね。私は才能がなかった。プロになんてとてもなれない。それが自分でわかってしまった時は泣いたなぁ。そして才能ある友人が憎らしくて」
「お母さんにもそんなことがあったんだ」
「あるわよー。若かったのね」
「それで?」
「謝まったわよ」
「仲直り、できた?」
「ええ。許してくれるまで帰らないと思って、友人のとこに行ったなぁ」
「そっか」
「若かったから照れはあったけど、ちゃんと謝れば気持ちは伝わるのよ」
小夜子は何かを噛みしめるように口をきつく結んだ。
「それとね」
母の言葉に小夜子はじっと耳を傾けた。
「正太郎君の音楽聴いた。近くを通った時にそう言えばと思って少しうろついたら、音が降って来た。凄いなと思った」
「でしょ」
「うん。あなたが魅了されるのもわかる。圧倒的な技術だった。それでも――」
小夜子は静かに言葉を待った。
「それでも、表現力はあなたのほうがある。感受性豊かなあなたの音はとてもカラフルだよ。正太郎君は、少し音が固いというか、感情があまり豊かじゃないのかも。あなたの音は柔らかくて丸く包み込むようなの。繊細なタッチでの表現とか我が子ながら聴き惚れる」
小夜子は思わず自分の両手を開いて見つめた。そうなんだろうか?
正太郎の音楽は正確で指使いは見ていてほれぼれする。表現だって巧みに感じる。それでも、それでもわたしのほうが表現力があると母は言ってくれた。
「もっと自信を持ちなさい。ミスを気にして小さい演奏にしちゃだめよ。あなたの、小夜子だけの音を聴かせて。あなたの音を響かせれば、それは届くよ。技術は練習しただけ上達する。表現力はあなたの持つ最大の魅力よ」
「うん、ありがとう」小夜子は満面の笑みを浮かべた。母も言う。自信を持てと。そうわたしに足りないのは自信。心の強さ。自分を信じて盲目なほどに信じて演奏することだ。叩いた鍵盤の数は嘘をつかない。
「お母さんはあなたの演奏にいつも感動してる」そう言って小夜子の手をぎゅっとした。
熱を帯びた眼差しの母を見て小夜子は目に熱いものを感じた。
「あなたには才能がある」
「そんなこと」
「ある。だってあなたはあの人の――」母は、はっとして口を噤み慌てて立ち上がった。
「あの人って」小夜子も思わず勢いよく立ち上がった。椅子が後ろに倒れた。「お父さんのこと?」椅子の倒れる音がやけにうるさく鳴った。
母はしまったという顔をしながらも、小夜子の顔を真っ直ぐに見た。そして静かに頷いた。
「お母さん」小夜子は少し冷静さを取り戻そうと、椅子を起こし間を置いた。そして座りながら尋ねた。「お父さんってどんな人?」
沈黙が部屋を満たす。防音室は外界の音を寄せ付けない。ただ、空気がひりつくような音だけがあった。
ひとつ大きな息を吐くと母は言った。
「あの人はね――、ピアニストよ」
小夜子は息が止まりそうになった。
「凄く才能のある人。その血を、才能を、あなたは確かに受け継いでいる。――ごめん。これ以上は言えない」母はそう言うとドアに手をかけた。
「ずっと今まで何も教えてくれなかった。ねえ、本当に死んじゃったの?」小夜子は腰を浮かせて母に鋭い視線をぶつけた。小夜子が小さい頃に死んだとだけ聞いていた父の記憶はない。母も父のことは何も言うことはなかった。聞いても教えてくれなかった。父の話はタブーとなっていた。
「知らないほうがいいこともあるのよ」母は呟くように言うと、ドアを開けた。「そんなことより」
「そんなことより?」
「行ったほうがいいよ」
「どこへ?」
母はやれやれというように眉を寄せて、ピアノを弾く真似をした。
あ。小夜子は正太郎の顔を思い浮かべた。「うん、行ってくる」
父のことは気になるが、今は父よりも正太郎のことが優先だ。誤魔化された気はするが、小夜子は着替えると家を飛び出して走り出した。
小夜子は息を切らせ正太郎の家の呼び鈴を鳴らした。胸がどきどきする。走ったからだが、それだけでないものが交じっていた。気まずさはあったが、失いたくないもののために精一杯の勇気を絞り出した。
表情のない顔で正太郎がドアを開けて中に招き入れてくれた。
いつもの部屋に行った。ピアノが鈍く光っていた。
「昨日はごめんなさい」正太郎が小夜子よりも先に謝ってきた。「ううん。謝るのは私だよ。ごめんなさい」小夜子は頭を下げた。
「いや、ごめん。偉そうなこと言ったし、小夜ちゃんのことを考えずに傷つけた」正太郎は小夜子の不登校を聞いて知っていた。頭を下げて謝まってきた。「本当にごめんなさい」
お互いに頭を下げたまま時が流れた。どれくらいそのままだったのだろう。ほんの数秒にも思うし、何時間にも思えた。
ふふふとどちらともなく笑い出した。
「これでもう仲直りにしよ」正太郎はそう言うと手を差し出す。
小夜子は一瞬戸惑いながらもその手を取る。仲直りの握手。そんなもの初めてだ。なんだかこそばゆい。正ちゃんの手はあたたかいなぁ。
「二度の絶望がさ――」
こないだ言っていた二度の絶望。小夜子は身構えた。
「僕から感情を奪ったんだ」
正太郎は窓の外に目を向けている。ぽつりぽつりと話し出した。
「ピアノに限らず音楽は表現力が大切だ。技術はもちろん大切だけど、ただ正確なだけの音楽なんて、塩気のないみそ汁のようなものだ」
小夜子は、ただじっと耳を傾けるしかできない。
正太郎は、ピアノを弾き出した。
それは、リストの超絶技巧練習曲だった。リスト本人が弾いたとしても、完全な演奏はできないのではないかとも言われるものだ。技術的な難しさはもちろん表現の部分も難解だ。それを完璧に弾いてる気がした。だけど――。
「どう?ミスタッチはない。指使いは自分でも完璧だと思う。技巧的にはクリアしてる。でも、表現の部分があまい気がするんだ。納得できない」
確かに、これだけの技術に比して感情が乗っていない気がする。
「小夜ちゃんはミスタッチも時折あるし、まだまだ練習は必要だけど、感情を乗せるのが抜群にうまい。表現力が本当に素晴らしいなと思う。パッションを凄く感じる熱い演奏をする。熱気を感じて聴いてるだけで体が火照ってくるんだ」
「ありがとう」
「僕は絶望で感情が閉じてしまったんだ。心が冷えている。だからか音も冷えている。それがいい方向に出る音楽もあるけど、やはりもっとパッションを感じさせる音楽を奏でたいんだ僕は」
正太郎はピアノから手を離し、小夜子を見つめた。
「でも、小夜ちゃんに出逢ってから、胸が苦しくなったり、きゅうと締め付けられたりするんだ。それから僕の音が変わったんだ。まだまだだけど、前よりこれでもよくなってる。四季の音楽も、だからどんどん変わっていくんだ。どんどん良くなっている。感情が溢れてくるんだ」
正太郎はにっこりと笑った。
「出逢ってくれてありがとう。絶対いいものを作る」
正ちゃんだって完璧ではない。本人にしかわからない悩みや苦しみがある。同じ人間なんだ。才能を言い訳にはしない。そう決めれば、覚悟ができた。覚悟ができれば心が折れることはない。できないならできるまでやれ。それだけだ。できない言い訳を探す前に、一度でも多く鍵盤を叩け。嫉妬するならそれさえも糧にして、より鍵盤と向き合え。
「小夜ちゃん」真剣な声で正太郎は言った。「小夜ちゃんの演奏は本当に素敵なんだよ。音色が素晴らしくて、それはきっと僕よりもいいものだ。表現力が素晴らしくて、小夜ちゃんは感受性が優れてるのかな。音が表情豊かだ。僕とは違う。僕は、あまり感情が出せてない。だからかもしれない。小夜ちゃんの演奏に刺激を受けている。これは言わば返歌のようなものだ。こだまのようなものだ。小夜ちゃんの音を僕が返す。そしてまた小夜ちゃんが返す。返すほどに音は、音楽は高みにのぼっている。そう感じるんだ」
小夜子はそう言ってもらえて嬉しかった。でも、全然及ばないとわかっている。
その優しさに少しだけ胸を痛めた。
気を取り直して言った。「正ちゃん、弾いて」
「うん」正太郎はピアノに向かった。
正太郎のピアノを聴いたら泣いてしまいそうだ。正太郎の音楽は涙を呼ぶ。それは感動なのだろうか。そんな簡単な言葉では表せない何かだ。なんでもいい。涙を誘うほどの音楽は、それだけで美しいのだから。
正太郎の、静かに躍動する音が、小夜子の鼓膜を震わせた。
鼓膜の震えは心の震えとなり、心の震えは涙腺を緩ませる。
短くなった陽が、部屋を燃やす。その中心でピアノを歌うように鳴らす正太郎は、天使のようだった。
この光景を忘れない。小夜子は胸に深く深く刻んだ。
「四季の完成、すごく楽しみ」小夜子は目頭が熱くなるのを感じた。
「でもさ」あのあと眠れなくていろいろ考えちゃったんだけどと笑い混じりに正太郎は話し始めた。照れを隠すように早口になっていた。「才能なんて本当にそれが欲しい人のとこにはいかないものだよ。だからみんなイーブンな立場さ」
「そっか。そう思うと、才能なんて気にする必要ないよね」
「そうだよ。何億も稼ぐスポーツ選手もさ、たまたまその才能があるとわかったからやってるだけさ。稼ぐためだけに嫌いでもやるんだ。好きなことを仕事にして、ずっと好きなままでいるって僕たちが思う以上にものすごく難しいことなんじゃないかな」
「そうだよね」
「あの有名な野球選手、きっと本当は水泳がやりたかったんだぜ」
「じゃあの有名なミュージシャンは料理の才能がほしかったのかも」
「そうそう。そんなものだよ。世の中そんなにうまくはできてない。みんながそうなんだ。だからそう思うと逆に世の中うまくできてんだよ。有利な人ってのはそんなにいないのさ」
「うん」そう思えば気が楽になる。人を羨ましがることもなくなる。多分。もしかしたらまた羨ましがるかもしれないし、嫉妬するかもしれない。その時は、正太郎の言葉を思い出そう。彼の言葉を、母の言葉を、今度こそ信じてみよう。小夜子は胸に手を当てた。心臓がどくんと力強く波打った。
3
仲直りをした二人はそのあと時間を忘れて多く話した。好きなこと、嫌いなこと。音楽のこと。くだらないこと。笑えること。笑えないこと。そして、父のこと。
「正ちゃんのお父さんもピアニストなんだよね。一緒だね」小夜子は母に聞いたことを話した。
「そうなんだ。小夜ちゃんにもピアニストの血が流れてるんだね~」相変わらず歌うように楽しそうに話す。
「血と言えば、わたし珍しい血液型なんだ。だから輸血が必要になるような怪我はするなと言われてる」
「そうなんだー。僕も珍しいんだよ。というか、怪我はしたくないよね」
そうだね、あははと小夜子は笑った。でもさ、と真剣な表情になって言った。
「お父さんのことなんて記憶の片隅にもないから実感も何もないよ。別に親がピアニストだからって自分が変わるわけじゃないし」
「だよね。僕も記憶にはないし、別にただの一つの職業でしかないからね。父は五輪選手でしたと言われたら、ちょっと感激したけど」
「五輪に出たかった?」
「夢は見た。犬と勝負して全然かなわなかったなぁ」あははと陽気だ。
玄関から呼び出し音が鳴った。誰だろう。正太郎の顔を見ると、「誰かな……」と階下に降りようとした。
「あ、開いてる。入るよー」と元気な声が聞こえた。低いけどよく通る声。女の人の声だ。
「あ」と正太郎は誰かわかった顔になる。心なしか血色がよくなったように見える。気のせい?
「誰?わたし帰った方がいいよね」
「ん。大丈夫だよ」
「誰もいないのー。玄関開けっぱなしで物騒だよ」と声が近くなったと思うと、部屋のドアが開いた。
ドアの影から顔が覗く。長い髪はゆるいパーマがかかっている。ほんのり茶色い。そしてナチュラルメイクの美人だ。清潔感のある服装に快活な話し方。なんか輝いている。自分とは違う世界の住人だ。小夜子は身を固くした。化粧は薄いのに、唇は真っ赤なルージュだった。あ、と思った。お風呂を借りた時に見たあの口紅だ。
「まこ姉どうしたの?」正太郎がキーの上がった声で尋ねた。
「よう、久しぶり。近くに来たついでに、ね。あんたのピアノ聴きたいなと思って」
「いつも突然で自由だなぁ」と呆れながらも嬉しそうな顔を見せた正太郎。そんな顔見た事がない。その顔に胸がズキリと痛んだ。
嬉しく思えよと軽く小突く、まこ姉と言われた美人。
小夜子は、さっきまでの空気と変わってしまったこの部屋がとても居づらく感じた。
「あ」と小夜子に気づくと頭を下げた。「お邪魔しちゃったかな。正太郎の従姉の羽村真琴です」
「あ、小夜子です。緋山小夜子です」慌てて頭を下げた。
ああ、とよくわからない相槌のようなものを打つと、囁くような声で正太郎に耳打ちする。ばか、何言ってんだよ、と慌てる正太郎。またまた~と肩で肩を押すようにする真琴にまんざらでもない表情で応える正太郎。真琴は正太郎の髪を撫でた。正太郎はそれを嬉しそうに受け入れた。仲睦まじい振る舞いに小夜子は大きなガラスで遮断された気になった。すぐそこにいる。見える。でも、声ははっきりとは聞こえなくなり、手を伸ばしてもガラスで阻まれて向こうには届かない。三人いるのに、ひとりぼっちだ。ああ、学校でよくあった懐かしい痛み。もう味わいたくない苦しみ。
「二人、なんか似てるね。色白だし、目の感じとかそっくりだ。似てくるのかな」と真琴がにこやかに言った。
「そんなことないと思いますが」小夜子は刺々しくなる。いけないと思いながらも。
その後もなにかと話しかけてくれるものの、上の空で返事するだけしかできない。二人は近況を話したり昔話に花が咲いている。小夜子の知らない昔話。
なんか場違いだなと思い目が滲んできた。慌てて下を向く。
「ね、ピアノ弾いて」真琴はそういうと持ってきていたケースを開ける。
小夜子は、あれはバイオリンケースだと俯いた視線の先の床にちょうどあったそれを認める。あ、と思った。バイオリンの楽譜の入った本棚を思わず睨んだ。
「いいよ。なんの曲?また即興?」正太郎は腕まくりをする。白い肌がほんのりさくら色になっている。
「うん。ジャズぽいのでお願い。あんたとのセッションはいい気分転換になるんだよね」
お互い目で合図を送ると、正太郎の指が鍵盤を叩く。小夜子の胸に響く音。腹に響く音。指は滑らかに左右に走る。速いのにスローに感じる。優雅な手さばきが時間の感覚を捻じ曲げる。緩急を自在に操る。鍵盤から離れた指がピタっと止まる瞬間がまるで一枚の絵画のように美しい。
そのジャズのような多彩な音の波を真琴のバイオリンはなんなく乗りこなしていく。立ち姿がバレリーナのように芯がぶれていない。肩から腕、手、指とすごく柔らかい動きで華麗な舞いを見ているようだ。
溢れる音と音。低音の響き。高音の響き。
即興なのに息の合った演奏に小夜子は打ちのめされた。小夜子と正太郎の連弾よりも合った演奏。そこに小夜子にはない二人の今までの長い月日を感じた。真琴の演奏はプロのレベルに感じる。どこかの楽団に入っているのかもしれない。
時折目線を合わせながら、手と手を取る社交ダンスのように寄り添う音。ジャズの即興性が心をざわつかせる。二人の笑顔が眩しくて、眩しくて、もう直視できない。
小夜子は大粒の涙を零した。そしてそっと立ち上がるとドアを開けて部屋を出た。階段を降りながら追いかけてくる音に背中を押されるように足を急かされた。二人の集中力も凄かった。他のことは目に入らないかのように音の世界に没頭していた。お似合い、なんて陳腐な言葉が浮かんだ。
正太郎の家を重い足取りで出る。窓から音が降ってくる。外はすっかり夜の暗さをまとっていた。
どれくらい歩いたのかもわからない。気付くともなく音が聴こえなくなったことを意識した。その時だった。
「小夜子ちゃん」
俯いていた顔を思わず反射的に上げた。空耳?にしては大きな声。
「小夜子ちゃん待って」
今度ははっきりと脳が認識する。あの低いけど通る声。艶を感じる声。歩みを止める。でも、振り向きたくない。
「ごめん」小夜子の前に回り込んで拝むように手を合わせて謝る真琴。
何も発することができないままに真正面から真琴を見つめた。
「つい夢中になって。ちょっと楽団での練習の時にいやなことあってさ。そういう時は正太郎の演奏で気分転換するんだよね。話しかけても小夜子ちゃん上の空だから音楽やれば話しやすくなるかなと思ったんだけど、だめだね、演奏するとつい本気で入り込んじゃって」
「そうですか」
「邪魔したのは本当に悪かったよ。ごめんなさい」と頭を深々と下げた。
「気にしないでください」そう言って真琴の横を通り過ぎようとする。
「待って」真琴は小夜子の手を掴む。びくりと小夜子の肩が跳ねあがる。
「あ、痛かったよね。ごめん」真琴は手を離す。
「大丈夫です。……なにか?」
「勘違いするといけないと思って」
「勘違い?」なんてしませんけど。小夜子の感情は蠢いている。
「ほら」と言って左手を見せてくる。
「なんなんですか」もういい加減鬱陶しいと手を払いたくなる寸前でそれが目に入った。
薬指に輝く小振りながら虹色の輝きを放つ指輪。ダイヤモンドだろうか。
「あっ」結婚してるんだ。
「そういうこと」にこっと口を横に広げる。
「い、いや、そういうことも何も、勘違いとかも別に」口ごもる。
「そう?あたしの勘違いかな」
「何がです?」むきになって早口になる。
「やきもちやいたのかなーって」
「そ、そんなことないです。もう帰る時間だったので」
「黙って帰る?」
「二人が気持ちよさそうだったので」
「じゃあさ」
なんですかと目で問う。
「はい」とハンカチを渡してきた。
あ。
「ちょっと歩こうか」先に歩き出す。
受け取ったハンカチで目を拭うと、はい、と言ってあとについていく。
「……ごめんね」もう一度謝ってきた。
「いえ」
「正太郎と少し前に電話で話したときにさ、聞いてたんだよ小夜子ちゃんのこと」
「え」驚きつつも恥ずかしさがこみ上げた。
「楽しそうに、興奮気味に。いつも飄々としてるのにね」
そうなんだ。小夜子は無言のままだった。
「あたしが焼いてたんだ」
「え」真琴の顔を見た。
「ヤキモチ」と言った顔はなぜか満面の笑みだった。
「ずっと小さい頃から知ってて、まこ姉まこ姉って懐いてて。大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげるなんて言ってたなぁ。だから結婚したときは凄く怒って拗ねてしばらく口も聞いてくれなくて。正太郎が引っ越してすぐの頃には何度か訪ねたんだけど、その後に結婚してしばらく来れなくて、今日が久しぶりだったんだ」
「自慢ですか」小夜子の心ははささくれだった。
真琴は横目に見て、口角をあげた。
「結婚して少ししてから電話くれたんだ。やっと口聞いてくれたと思ったら、小夜子ちゃんの話ばかりされてまいったよ」
「え」顔が熱くなる。
「途中から完全にのろけ」
「私たち、そ、そんなんじゃないですから」うろたえた。
「付き合ってないってだけでしょ。でも、正太郎は小夜子ちゃんのこと」
「それ以上は言わないでください」
「そうだね。本人が言うことだ」
沈黙が落ちる。
「ただ」真琴が重々しく口を再び開いた。
「ただ?」
「付き合うことはできないかも」
「いや、そんな」こと考えてもいない、こともない、のだろうか。頭を振る。
「正太郎の病気知ってる?」
「あ」心臓の病気なんだろうとは薄々感じているが。
「心臓の病気でね。移植しないと治る見込みはないんだ。薬やほかの治療で持たせているけど、それだけじゃだめなんだ。移植待ち。心臓が止まる前に移植できるかどうか。知ってるかわからないけど、この国で移植するのはなかなかハードルが高いんだよ。だから、いつ」その先の言葉は続かなかった。
小夜子はポケットに手を入れると、自分のハンカチを取り出す。それを真琴に黙って渡す。
「……ありがと」顔をハンカチに押し付ける。くぐもった呻きが漏れた。
「いつ」
真琴がハンカチから顔をはずして小夜子を見る。
「いつまで持つんですか」
「わからない。病気がわかった時五年生存率が五十%と言われたみたい。それが高いのか低いのかわからない。確率なんてなんの目安にもならない。ちなみに」
真琴は言葉を切った。小夜子の目をしっかりと見つめて言う。
――今、七年経った。
「……そう、ですか」言葉がうまく出ない。
「正太郎が大切にしている小夜子ちゃんだから言っておかなきゃと思って。正太郎は去年一度倒れて入院している」
「こないだも、苦しそうにしてました……」入院の事実が重くのしかかる。
「時間はそれほどないのかもしれない。だから作曲を引っ越しを機に始めたのかも。風景が綺麗で、風を感じると言ってた。四季を巡り、四季を生きるんだって」
「そうなんですね。……この七年は学校とかは?」
「中学校までは休みがちながらも通ってなんとか卒業させてもらったけど、高校は諦めた」
「ずっと家に?」
「そう。だからちょこちょこ時間許す限り会いに行って一緒に音楽をやった。一人の時はショパンを始めいろいろなクラシックを練習して、技術はどんどん上達したよ。天才なんて言葉で片付けちゃいけないけど、紛れもない天才だね。ただ孤独ゆえにどこか感情が抜け落ちている気がしてた。でも」
「でも?」
「今日聴いたら変わってた。前よりも感情が聴こえた。きっと、小夜子ちゃんに出逢ったからだよ」
「……そうですかね」それならば嬉しい。
「正太郎はいいやつだよ。これからも会ってやってほしい。感情が出てきて明るくなった。笑う回数も増えた。でも覚悟はしておいて。それがもしできないなら」
「できないなら」胸が締め付けられる
「もう会わないほうがいい」
「いやです」即答だった。
「……辛いよ」
「会えないほうが辛いです。覚悟は――」自分に問う。そして頷く。
「覚悟はできています」毅然と前を向く。
「うん。わかった」真琴は、また頭を下げる。「正太郎をよろしくお願いします」
え、え、え。小夜子は戸惑う。戸惑うが返す。
「不束者ですが」
ん?
夜空に二つの笑い声がハーモニーを奏でた。月も笑っていた。
4
時の流れは止まらない。誰にも等しく流れていく。
でも。
でも、時の感じ方は人それぞれだと思う。
「ああー」小夜子はもう明日へと迫ったコンクールに少しの焦りを感じる。
なんでこんなに早いのだろうか時ってやつは。
地区大会ではあるけど、気は抜けない。まずはここを突破しないと。
張りのある薬指を揉みながら少し息をつく。ふぅ。小指と薬指は日常生活でそれほど使わないだけに負担がかかる。思うようにコントロールできない時はもどかしくなる。正太郎の指使いを見ると、五本すべてを完全にコントロールしている。どの指も滑らかで、強張ったような力の入りもない。あれだけ動かせれば、演奏の質は確実に上がる。ピアノは反復練習が大切だが、特に指の練習は地味だが大切だ。長い時間の演奏に耐える指を作らなければいけない。指を動かすと手首と肘の間――前腕の筋肉や腱に披露が溜まる。指の次にそこを入念に揉む。地味だが毎日いじめぬくしかない。それはランナーが毎日走るのと同じようなものだろうか。一日休むと取り戻すのに三日かかると言われるのはピアノもランナーも同じだ。走りたいと言った正太郎。ピアノに打ち込めたのはどこか通じるものを感じていたのかもしれない。
指を休めながら目は楽譜をそっとなぞる。
革命。
ショパンは何を思ってこれを紡いだのだろうか。
政治的に不穏になりポーランドを後にして、その後ワルシャワが陥落した。祖国を、家族を、友人を憂い想い、そして鍵盤に想いを乗せたのだろうか。この曲とワルシャワ陥落の関係はわからない。それはショパンの心の裡にだけある。それでも、私たちは想いを馳せる。
日本から遠く離れたポーランド。ニュースになることもない。ショパンについても普段耳にすることもない。私たち音楽家には、音楽家と名乗る立場ではまだないかもしれないが、それでもあえて言う、私たち音楽家にはショパンの名は重い。好き嫌いはある。だけど、無視はできない存在だ。
そして戦争の時代に生きて作曲したという背景は、平和ボケした私たちには現実とはかけ離れたものでしかない。それでも想像するのだ。
con fuoco。――熱情込めて。
正太郎が言った。パッションがピアニストには必要だ、と。
確かにそう思う。
ショパンはどんな熱を、情を込めたのだろう。ショパンのパッションを感じ取れ。どれほどの激しさで書いたのだろうか。もし、祖国が故郷が業火に焼かれ、家族が連行されたならば。流れ弾に当たり、苦しみもがき命を落としたならば。
小夜子は震える体を自ら抱く。目に滴る涙を感じる。
豊かすぎる感受性は、学校生活を困難にした。しかし、その感受性は想像力を豊かにし、楽譜の中の想いを読み取り、物語の中へと入っていく力となる。深く深く潜っていく。
閉じた目の向こうに風景が浮かび上がる。
そっと手を鍵盤におろす。
右手で最初の和音を鳴らす。強い音は始まりの合図のように高らかに響く音。そして、悲しみや憤りを感じさせる深い音。
左手が絶えず目まぐるしく駆け回る。速いアルペジオの音型は、何かから逃げるようにも感じる。何かを追いかけるようにも感じる。それはなんだろうか。祖国から逃げた事への後悔でもあるのだろうか。
絶望。それを熱に変えることでしかこの曲を弾くことも作ることもできなかったのかもしれない。怒りも含まれているのかもしれない。戦争への怒り。旧ソ連軍への怒り。そして――。
そして、無力な自分への怒り。音楽は何も救わない。戦争を止めない。平和に寄与しない。そんな諦念さえもあるのかもしれない。
振幅の大きい旋律に左手の速い伴奏。技巧と共に表現力が問われる。
後半に入り、リズムが複雑になっていく。乱れていくように。心が。感情が。激しく乱れていく。絶望の先には混乱しかなかったのかもしれない。感情のぶつける先も見つからず、その感情につける名前もわからず、ピアノの音だけがショパンの心の拠り所になっていたのかもしれない。
かもしれない。
かもしれない。
すべては弾く者の想像。そこに正解はない。演者の数だけ解釈もある。想像もある。どれも正解。どれも間違い。言えるのは、心に響かせられるかどうかが大切だ。解釈の差は個性の差。問われるのはその演奏が琴線に触れるのか。感情を揺り動かせるものなのか。心を震わせるのか。
鍵盤に指をおろす。そのおろす速さ。鍵盤に接している時間。離す速さ。コンマ何秒の世界。わたしたちはアスリートのようなものだ。コンマ何秒を競うわけではないが、そのわずかな時間を意識し、コントロールしようとする。他者とは違う音を奏でる。それが音色となり、個性となり、わたしの存在を誇示する。表現するのだ。
楽譜は一遍の物語だ。
小夜子は最後の音を鳴らすと、そっと目を開ける。音が消える。
大丈夫。
きっと。
――小夜ちゃんなら大丈夫だよ。
正太郎の言葉が蘇る。
大会前に最後にもう一度だけと思い昨日正太郎を訪ねた。自信と不安で揺れていた。それを察して励ましてくれた。大丈夫。なんの保証もない、無責任な言葉。
なのに、あたたかい。
焦りはある。でも、正太郎の言葉を思い出すたびに不安は減っていく。
焦りは良い緊張へと変えよう。大丈夫という大船に乗って今日は眠ろう。
5
そして、地区大会を迎えた。
高く澄んだ空の十一月某日。空気は冬の足音を微かに予感させるようにひんやりとしていた。緊張もせずによく眠れた。指を動かす。親指から順繰りに曲げていく。波のように滑らかに。次に握って開いてみる。うん。大丈夫。
幼児の部から始まり小学生、中学生と年齢があがっていく。演奏時間が決まっていて、曲の途中でも終了のベルが鳴るとそこで終了になる。それで失格になるとかではなく、人数が多いので時間の都合上そういうシステムなのだが馴染みにくい。やはり途中で終わるのは気持ちよくないなぁと思う。
小夜子は順番までまだ時間があるので、指ならしもかねて練習をする。会場は隣町の文化会館のサブホールだ。客席は百ほどで舞台も小学校の体育館の舞台より小さいくらいでそれほど広くはない。練習室はないので、近くのピアノ教室をあらかじめ探して貸してもらえるようにしていた。もうここでじたばたする必要もないので、指の動きを確かめる程度だ。
アルペジオで音を上がっていく。そして下がってくる。鳥が空へ飛び立ち、急降下するようにのびのびと弾く。タッチの感触を確かめる。小指の動きを感じる。微細な動きにさえも神経がいく。感覚が研ぎ澄まされていく。周りの音は聴こえない。自分の鳴らす音と呼吸の音だけの世界に入る。呼吸のリズムが心地よい。そう思える時は調子がいいのだ。小夜子は歌うようにピアノを鳴らした。
正太郎との会話が思い出された。
「正ちゃんの作った曲弾きたいな」
「完成したらね」
「すっごくいいよね。コンクールで弾きたいくらい」
「現代クラシックはなかなかコンクールで弾けないよ」
「そうなんだよね」
「だから」
「だから?」
「ソロコン開けるようになってね。そこで弾いてほしい。楽しみだなぁ」正太郎はその未来が決まっているかのように言った。
「ええ。そんな」
「小夜ちゃんなら大丈夫。いけるよ」
「その時は聴きに来てくれる?」
「もちろん」正太郎は眩しい笑顔で応えた。そんな未来が来る可能性は薄いとわかっているのに。
「わかった。私そこまでいく」
約束だよと指切りを交わした。それはおまじない。
正太郎の曲をソロコンサートで弾く。それがなによりの大きな目標になった。ショパンはもちろん大好きだ。でもいまの一番はもう違う。ショパンさえも踏み台にする。それくらいのつもりでいる。だから、ここは通過点でしかない。
出番が近くなったので会場に移動した。あとはイメージトレーニングだけをして待つ。
小夜子の出番が来た。
落ち着いた心は風のない湖のように凪いでいた。
客席は出演者の家族や親族がほとんどで、目当ての出番が終われば帰っていく者も多い。午後にもなれば空席が目立つようになる。審査員を除けば二十人もいない。審査員は多くの演奏を聴き続けた疲労が見える。空気が弛緩している。それでも、小夜子の出るプロフェッショナル部門となると、それまでと演奏のレベルが一段上がる。プロを目指し、著名な国際大会と同じレベルを目指して設立された部門だ。年々レベルが上がっており、何年か前のアジア大会金賞受賞者はその後に歴史ある国際大会で優勝し今ではプロとして活躍している。他にも、ポーランドでのショパン国際コンクールでの入賞者も出しており、近年注目を集めている大会となっている。
審査員、聴衆に向かってお辞儀をする。椅子に座り高さを調節する。ペダルに足をかけ具合を確かめる。ひとつ深く呼吸をする。目をつぶり三つ数えた。
数え終わると共に目を開き、指をおろす。
最初の音が会場を揺らした。
空気が締まる。
審査員の頬を叩き覚醒させた。
客席が息を飲むのがわかった。空気が薄くなった気がした。居住まいを正す者がいたのを小夜子は感じた。神経が研ぎ澄まされている。そして我知らず薄く笑っていた。
滑らかに動く指が音を紡ぎ出す。空気を振動させる。心に響けと鍵盤を叩く。胸を叩けと指を鍵盤から離す。
ショパンの激しい感情を感じながら弾く。いつしか小夜子自身がショパンとなる。
激しさを音に託して。悲しみを絶望を怒りを体から発散する。それは手を伝わり指を伝い、鍵盤へと流れ込み、ハンマーが弦を叩く。弦から弾き出された音は人の鼓膜へと届く。その音は感情を乗せていた。
曲は滑らかに歌われていく。革命から木枯らし、そしてバラードへと続く。
単調な旋律ゆえに表現力が如実に表れる。正太郎が合っていると言った。それを小夜子は信じた。確信に変わった。小夜子の弾くバラードは小夜子自身さえも揺さぶった。
アーティキュレーションがポイントになる。音と音をつなぐ強弱や表情。小夜子は繊細なタッチで豊かに音を紡ぐ。
そして華麗な後半部へと入っていく。人気のあるゆえんはこの後半部にあると言えるだろう。技術的にも難しい部分ではあるが、小夜子はミスすることなく完璧に弾いた。
Presto con fuocoのコーダ。感情を鍵盤に叩きつけるように激しく緩急をつけて弾く。重い音を劇的に弾き、軽やかさにキレを出す。小夜子の指は意志を持ったように意識から切り離されて動く。その指を見つめながら小夜子はピアノから出る音が声のように聴こえた。
黒い筐体がしゃべっている。
もっと聴かせて。もっと君の声を。
もっと。もっと。
最後の声を聴いた。
小夜子は呆然となった。
大きな拍手が会場に響いた。
我に返り、立ち上がると一礼をして立ち去った。
金賞を得て全国大会出場を決めた。
「おめでとう小夜ちゃん」正太郎は今日も自然体で笑顔だ。
「ありがとう。でもまだこれからだよ」
「ソロコンへの道は始まったばかり~」
「うん。どこまでいけるかな」
「どこまでもいけるよ。二年後にはワルシャワでショパンコンクールあるし。そこも通過点だよ」
「え。そこまで考えてなかった。……でもそうだよね」
「アジアで留まってちゃだめだよ」
「うん」
「でも、まぁまずは目の前だね」
「うん、目の前のモンブランだよ」
二人の前には黄金の山。モンブランという名の甘くて美味しいスイーツがあった。人はそれをケーキと呼ぶ。
「いただきます」小夜子は手を合わせた。
そして手にしたスプーンでおもむろに山を崩す。黄金の中からは白い雪が見えた。それはクリームという世紀の発明。豊穣な甘さと柔らかさが口の中で溶ける。土台となるスポンジケーキはふわふわだ。口の中で白い雪のようなクリームと黄金色の栗のクリームが混ざり合う。螺旋状に絞り出された栗のクリームは触感も楽しい。クリームの甘さと栗の甘さの調和が舌の上で踊る。頬を落とすほどの美味しさ。
「旨し」小夜子は柏手を打った。
「あはは。そういうのあったよね」正太郎も柏手を打った。
「溶ける~」
「クリームが?」
「脳が」ふにゃふにゃになって思考なんてできない。なんて幸せ。甘いものは正義だ。メロメロです~。
お祝いにと言って正太郎がケーキでもてなしてくれたのだ。前にチラリとモンブランが好きと言ったのを覚えていてくれたようだ。そして、秋にはぴったりの旬の素材。
旬のものを食べるのは贅沢だと思う。一年中なんでも食べられる時代だけど、旬にこそ最大の旨さが味わえると思う。旬がいつかを忘れがちな時代だからこそ、季節を感じながら食べるのがいい。何倍もさらに美味しいと思う。なんにでも旬はあるものだ。
音楽にも旬はあるのかもしれない。でも――。
でも、時代を超越し、旬も超越する音楽がある。クラシックとはそういったものではないか。
時を超えて名を成し、曲を残す。
窓から鈴虫の音が聴こえた。そっと外を見るとまん丸の月が浮かび、大きな月の暈がかかっていた。
「綺麗だね」小夜子は思わず涙しそうになった。
正太郎がそっと手を重ねてきた。しばらく黙って鈴虫の音楽を聴いていた。
「では食後のデザート」正太郎はピアノの前に座った。
「ケーキはデザートだよー」小夜子はけらけらと笑った。
「もっと甘いよ」
流し目を送って合図してくると、ゆったりとした優雅な手つきで鍵盤を指が舐めた。
あ。
秋の音だ。風が揺れた。紛れもない秋。
夏の暑さは去り、徐々に寒くなっていく。陽が落ちるのも早くなった。四季の中でも秋は短く感じる季節だ。そしてもの寂しい。だけど燃える山間。彩られる食卓。賑やかな喧噪。さびしいけども、美しい。そんな季節だ。
そういったものを感じさせる音楽。
低音が空間を満たす。正太郎の感情が溶け込み、空気となり、それを小夜子が呼吸する。感情が入ってくる。
声。
声が聴こえるようだ。
滑らかに動く指を見つめながら、蕩けそうな音に身を委ねる。小夜子は空間を満たす幸せな感情に浸かった。この幸せな時間が永遠に続けばいいなと思った。
でも刹那だからこそ、美しく幸せなのかもしれないとも思った。
軽やかな高音に知らずに心が浮き立つ。高揚感を伴い、頬が緩みだす。なんだろう。思い切り笑いたい。クラシックを聴いて笑いたくなる感情なんて初めてかもしれない。それなのに、目が潤み悲しみもやってくる。背反するような二つの感情を感じる音。胸が切なくなるような旋律に小夜子は狂おしくなる。
複雑なメロディなのにとても聴きやすく心にすっと沁みこむ。これは正太郎の超絶技巧があってこそ生きてくるメロディ。そのメロディを引き立たせるような和音の響き。
感情がなく、熱量が足りないと言っていたのが嘘にように熱く沸き立たせる。
激しく感情を揺さぶられた。
春、夏、そして秋。
進むごとに、わたしの勘違いかもしれないけども、音が浮足立っていく。それを人は恋と呼ぶのかもしれない。色めいて艶やかさが増していく。春は、まだ出逢っていなかった。わたしが勝手に聴いただけ。それが夏に出逢い、音に湿った温度が伴った気がしていた。そして秋を聴くと、わかった。
音が、音楽が、恋を感じさせる。なんて甘美な曲だ。これは恋文ではないのか。勝手にそう思うのは自由だ。小夜子は頬が火照るのを感じた。
最後の音が余韻となり、消えた。
小夜子は大粒の涙を零した。それを拭うこともせずに大きく手を叩いた。
嬉しい。正ちゃんの気持ちが入り込んでくる。心が正ちゃんと正ちゃんの音楽で満たされて溢れそうだ。零れそうだ。いや、何かが零れている。それは感情かもしれない。
それは物理的には涙と言うのかもしれない。
「ありがとう、ってどうしたの小夜ちゃん溺れちゃうよ」正太郎は慌ててハンカチを取り出して小夜子の目に当てた。
「……秋の音楽だね」
「……うん。ちょっと手間取った。小夜ちゃんの音楽を聴くとイメージが凄く広がって、もっともっとと音楽も広がったんだ。興奮するほどいい出来だと自負してる……あとは冬だ。でもまだまだ春も夏も秋も良くできそうな気もするんだ」
「凄く素晴らしいよ。正ちゃんが見せる風景がわたしを空高く連れて行ってくれた。まるで羽が生えたように。自由になった。心が。感情が溢れるの。涙も溢れるの。なんていえばいいのかわからない。ただただ、嬉しい。ありがとう。……ねぇ。完成したら、これを私が弾いていいの?」泣きながら笑った。感情が止まらない。
「ぜひ」
「正ちゃんみたいに弾けないよ」上目に見た。
「そんなのいらない。小夜ちゃんらしく弾いてほしい。それが聴きたい」
「ふさわしい弾き手になる」意思は力になる。
「アジア大会の終わる頃には完成させたいな」
全国大会は年明けの正月から数日間、部門ごとに行われる。そこでの上位入賞者がアジア大会へ出場する。アジア大会では海外からの招待奏者も加わり、全国大会から三週間ほど空いて一月下旬に行われる。今から約二か月ほど。できるのだろうか。時間はあっという間に過ぎていく。
「楽しみにしてる」
「まずは全国大会」
窓から沈む夕陽が眩しい。小夜子は不意に目に入った眩しさに目を閉じた。すっと何かが影となる。そっと目を開けると。
何か柔らかい感触が。そして目の前にはキラキラした天使。
いや正太郎。
え。今の感触って。
小夜子は人差し指で唇をそっとなぞった。え。
正太郎ははにかみながら横を向いている。耳まで赤い。それは夕陽に照らされているからだろうか。それとも。
「……かい」
「え」正太郎が小夜子のほうを向く。
「もう一回」
え。わたし何言ってるんだろうか。小夜子は頭を振った。
また影が小夜子の顔にかかった。
柔らかい感触。軽いタッチ。湿った熱を感じて、離れて、清涼な空気を感じた。ふふ。
ふふふ。
小夜子は笑いが漏れた。
「さ、小夜ちゃん」正太郎が戸惑った声を出した。
小夜子は顔が笑いに包まれた。幸福感とはこういうものなのか。笑いが声が漏れてしまう。抑えられない。抑えきれない。そういうものなんだ。
声を出して笑った。体が羽毛のように軽い。立ち上がり、思わず一回転した。調子に乗って手を正太郎に向かって差し出した。
正太郎は驚きながらも立ち上がり手を取る。
二人で気持ち悪いほどに笑いながら踊った。
ららら~。声に出して歌った。
夕陽が二人を包んだ。伸びた影が重なった。
歌が祝福する。
音楽が祝福する。
冬の章
1
この幸せをみんなに与えたい。おこがましい考えでいい。感情は伝染する。幸せも伝染する。分け与えよう。世界は幸せに包まれる。
十二月は師走というだけあって慌ただしい。師を横目に小夜子は鍵盤を叩き続けた。
正太郎にはキリストの生誕前夜祭に少しだけ会った。
熱々の鍋を用意してくれていた。正太郎が作ったという特製だ。
白菜たっぷりのキムチ鍋。辛さが刺激的で、食べると汗がじんわりと額に浮かんだ。豚肉は柔らかく、白菜はシャキシャキ感がある。合わせて食べると口の中が喜んだ。
ハフハフと熱さに息が乱れながら黙々と食べ続けた。ハッと気づいて正太郎を見ると、にやにやしながらこっちを見てた。恥ずかしくなり俯いた。がっつり食べ過ぎた。こんな女の子嫌われちゃう。
「嬉しいなぁ」
その言葉に顔を上げた。
「そんなに美味しそうに食べる人を僕は知らないよ。美味しいものを美味しそうに食べる人と一緒に食事ができるのって、こんなにも嬉しいんだと初めて知った」
正太郎は、手を出して小夜子から器を取ると鍋から新たに白菜と豚肉、エノキなどを入れた。そして、「ちょっと熱いかな」と言うと、ふぅふぅと息を吹きかけてから手渡してきた。あ。と思いながら受け取った。
他人にふぅふぅされるのなんて苦手で嫌な気持ちしかなかったのが、全然いやじゃない。むしろ嬉しい。すべてが幸せに繋がっていく。人生はバラ色。そんな単純でありながら的を射ているような言葉が思い浮かんだ。
鍋のあとクリスマスケーキを食べさせ合った。あーんという文化はいつから始まったのだろう。天才がいるものだ。あーん。
ケーキを食べながら一緒にジングルベルを歌い、クリスマスを堪能するメロディだなと思った。楽しくていっぱい笑った。
その後にピアノを正太郎に聴いてもらった。それが今年最後に聴いてもらった演奏だった。そして――。
年末は加速して時を連れていく。正月の準備と、暮れの後始末。なぜ同じ時間なのに人は意味を持たせ、忙しなく動くのを好むのだろうか。
ただの一日の連なりでしかないのに、大晦日、そして元旦と年を越す。明ける。すると何か新しい人間にでもなったような気分になってしまう。そんな調子のいいことがあるか。何も変わらない。素晴らしい昨日の続きが今日でしかない。辛い時の流れで今の時がある。
年を越そうがまたごうが変わらない。今日も変わらずにピアノに向かいひたすら指を滑らせる。和音の響きが除夜の鐘とハーモニーを奏でる。その時にだけ年明けを少しだけ意識した。実際には防音室なので除夜の鐘は聴こえていない。聴こえた気になっただけだ。十分に大晦日を意識していた。反省。煩悩を連れ去っておくれ。小夜子は手を止めた。正太郎の顔を思い浮かべる。にやける。いそいそとスマートフォンを取り出してメールを打った。送信ボタンをクリックする。と同時に受信をする。
――あけましておめでとう。今年もよろしく。
なんてことない挨拶が、これ以上ないほどの言葉となる。
今年も。来年も。その先もずっと。
胸がずきんと痛んだ。
頭を振り邪念を振り払う。
大丈夫。
大丈夫。
今年もあとたったの三百六十五日。マーチを刻めばすぐに新しい日の出を迎えられる。君の笑顔と共に。君の声と共に。
2
小夜子の指が鍵盤から離れる。音が止み、拍手に包まれた。首都の音大の客席が百ほどの小ホールでの演奏。審査員以外には地区大会と同じか少ないくらいの数の聴衆しかいない。
全国大会ではソナタの演奏だった。
手の震えが止まらない。ミスタッチもあった。それでも、この拍手を聴けば悪くない出来ではあったのだろう。心ここにあらずで他人事のようにしか思えない。心は正太郎のことでいっぱいだ。
立ち上がり頭を下げてすぐさま袖にはけていく。母が待っていた。
「うまくできなかった。動揺した」
母は何も言わず、そっと抱きしめてくれた。右手で頭を撫でてくれた。
「大丈夫だよね?」小夜子は声が震えた。
「大丈夫よ。だって検査入院って言ったんでしょ」
こくんと頷く。そう何も心配なんていらないはずだ。でも。
理屈ではない。嫌な予感がする。でも、それだけなのだ。なぜ大丈夫だと信じない。悪いことは想像しちゃいけない。
「お母さん、先帰って病院行ってくる。結果見ておいて」いてもたってもいられない。
「わかった。気をつけて行きなさいね」
「うん」
会場を出ると、駆け足で駅を目指す。逸る気持ちを抑えないと。そう思うけど、心臓はずっと暴れている。汗が額を伝う。冬なのに体が燃えるようだ。
スマートフォンで乗り換えを調べる。一番早く着く電車を選ぶ。行っても会えるかわからないが、それでも行かずにはいられない。メールを送ったが返事はない。ただ検査中で操作ができないだけだ。きっとそうだ。
ドアにもたれながら外を眺める。陽はだいぶ傾き窓に自分の顔がうっすらと映った。ひどい顔だ。こんな顔で会っても気味悪がられるかもしれない。できれば少しでも可愛い顔で会いたいけど、そんなこと言ってる場合ではない。会えば安心できる。声を聴ければ心落ち着く。胸が張り裂けそうだ。知らず知らずに泣き顔になった。一番端の座席の人が気付いたのか不思議そうな戸惑っているような顔をする。声をかけられでもしたらいやだなと思い場所を変えた。汗を拭く振りをして目元をそっと拭う。
一時間半ほどかかって病院の最寄り駅に着いた。駅から歩いて行くには少し遠いのでタクシー乗り場へと急ぐ。待っている客はいなくすぐに乗り込んで行き先を告げた。ひと息ついた。すっかり外は暗い。陽がなくなると不安が増す。夜は悪く考えがちだ。
正太郎は大学病院に検査入院した。主治医がこの大学病院に戻ることになったために、少しでも近い場所にと思って春に今の場所に引っ越してきたそうだ。
去年入院していることからも、いつ容態が変化するかわからないということでもある。そう予期してできるだけ近くへと考えたのだ。そのおかげというのはおかしいが、その引っ越しがあったからこそ出逢えた。病気がなければ出逢っていない。運命とは残酷だ。残酷だからこそ運命だと感じてしまう。心が張り裂けそうだ。顔がぐしゃぐしゃになるのがわかる。バックミラーで見られたくないのでずっと俯いて寝たふりをした。
もう少しで病院というところで、着信を告げる音が鳴った。メールだ。もしかしてと思って開くと、正太郎ではなかった。母だ。
――金賞でした。無事着いた?迎えに行くから病院で待ってなさいね。
嬉しい報告のはずだが、今は何も感情が動かない。
病院に着くなり、お釣りはいいですと言ってタクシーを飛び出した。
時間も遅いので正面玄関でなく、裏口へと向かった。何度か来たことがある大学病院なので場所の見当はついた。ドアを開けて中へ入る。すると、そこには真琴がいた。
「あ、小夜子ちゃん」
「あ、こんばんは」戸惑いながらも挨拶をした。
「正太郎に言われて待ってたよ」
「え」
「メールをさっき読んで小夜子ちゃんが来るのを知ったみたい。言われて迎えに降りてきたの。ずっと寝てたのよ。検査で疲れたんだね」
「じゃ無事なんですね」
真琴は口を大きく開き笑った。
「大丈夫だよー。検査入院って言われたでしょ」風が吹いた気がした。室内で風なんて吹かないのに。
「そうなんですけど……」
「まぁこないだは覚悟してとか言っちゃったからね。ごめん。でもそう簡単には。正太郎はああ見えて強いよ」
「はい」
無事を確認できて少し安心したのかお腹が鳴った。そういえば朝から何も食べていない。昼前に検査入院するとメールをもらってから気が気でなくて何も喉を通らなかったのだ。
あははと笑って真琴は何もないけどチョコくらいならと渡してくれた。ありがとうございますと言って食べた。ごほごほと噎せて背中を叩いてもらった。噎せた勢いで目から雫が零れた。真琴は何も言わずにいてくれた。それが妙にこそばゆかった。
お腹が落ち着いたところで真琴と一緒に病室に行った。
「こ、んばんは」と恐る恐る声をかけながらベッドを見た。起き上がろうとする正太郎を捉えた。
「やぁ」上体を起こしていつもの笑みを見せてくれた。
小夜子は息が止まりそうになった。
真琴が背中を正太郎にはわからないように叩いた。「ね。なんともないでしょ。いつもの正太郎だよ」
曖昧に頷きながら、それでも無理やりに笑顔を作った。
「どうだった?」青白い顔で正太郎が尋ねた。
「う、うん。金獲れた。みたい」
「みたい?」
「お母さんに結果まかせて出て来ちゃったから」軽く舌を出して見せた。
「小夜ちゃんのあわてんぼさん~」歌うように言った。そして、ほんの少し苦しそうな顔をした。
「正ちゃん横になって。すぐ帰るからゆっくり休んで。検査でもけっこう疲れるでしょ。また来るから」
「大丈夫だよ~。でも、うん、そうだね。ちょっと眠くてふわふわするから横にならせてもらおうかな」ふぅとわからないように息を吐き出すのがわかってしまった。
正太郎の手を握って、じゃあと小さく言った。また来るね。
うん、また。と正太郎も言った。とてもか細い声だった。
病室のドアを閉める。一歩、また一歩と重い足を引きずるように病室から離れる。階段を降りる。途中で、蹲った。腕に顔を埋めて声が漏れないように泣いた。しゃくりあげそうになるのを堪えた。しゃくりあげたら嫌な想像が現実になる気がしたから必死に堪えた。泣くのもこれで最後だ。大丈夫。大丈夫。まだ間に合う。時間はまだ止まらない。
そっとハンカチが差し出された。埋めた顔を上に向けると真琴がいた。真琴も何かを堪えるような顔をしていた。
「大丈夫だよ。移植の順番ももうすぐだから。長いこと待っている。適合する人が出てくれば優先で回ってくるはずだから」
流れる涙がハンカチに染み込む。震えて合わさらない歯が音をたてた。それでも、そうなることを強く願って頷いた。言葉は出ない。
次の日は何もする気力が起きずに布団を出ることもできずに太陽が真上を通過した。夜はほとんど眠れなかった。朝方少しだけ眠りに落ちたが、自分の泣き声で起きた。どんな夢を見たのか怖くて思い出すこともしなかった。
それでもさすがにこのままではだめだと思い布団を出た。パジャマから着替えた。真っ赤なセーターを着た。鮮やかな色で少しでも気分をあげようとした。わたしも炎のピアニストだ。
メールが届いた。何も考えずに見る。
――ちゃんと練習してる?昨日はありがとう。一晩寝たら元気全開だよ~。アジア大会の頃には退院できるから、いい報告を聞かせてね。僕は、金が好きだよ。
小夜子は泣きながらほほ笑んだ。そうだ、ここで泣き崩れても何もならない。正太郎をがっかりさせるだけだ。金の知らせを届けよう。正太郎が喜ぶことをいっぱいしよう。自分に今できることをしっかりやろう。
小夜子は自らを奮い立たせた。メールを返信する。
――絶対に金獲るよ。正ちゃんは残った冬の音楽を完成させてね。そして一緒に弾こう!
悪い考えがよぎる余地もないほどに、ピアノに向き合った。鍵盤をひたすら叩いた。指が悲鳴をあげても叩いた。冬なのに暖房もいれずに叩き続けた。汗で服が湿った。うっすら湯気が出ていた。
「風邪ひくわよ。体調管理も実力のうちだからね」母が入って来た。タオルで汗を拭いてくれて、着替えを置いていった。「着替えたらご飯食べに来なさい」。外はすっかり夜だ。六時間ぶっ通しで弾いていた。息を吐くと、指が攣った。痛みが生きている実感を与えてくれた。お腹は空かないし食欲もない。それでもトレーニングのつもりで食べた。食わなきゃ力が出ない。実力を出すには栄養が必要だ。落ち込んで食欲がないとか言ってる余裕はない。美味しいとか不味いとか何も感じずにただただ栄養摂取だけのために口を動かし噛み続けた。
全国大会から三週間後にアジア大会だ。練習して劇的に演奏が変わるほどの猶予はない。それでも気持ちの変化は大きい。もちろん金を狙ってはいたが、以前と今ではその渇望具合は雲泥の差だ。奇蹟を起こす。小夜子はそう思った。そのためにもまずは金賞だ。自分が金を獲れば、正太郎は冬の音楽を、そして四季の音楽を完成させる。そして、一緒に演奏する。ひとつずつ願いを目標を叶えていく。その先に、正太郎の移植が繋がっている。そう思うことにした。そう信じることにした。
信じる者にしか奇蹟は起こせない。
奇蹟を待つことはしない。そんな悠長なことではだめだ。
奇蹟は起こすものだ。
小夜子は音楽は祈りだという言葉を思い出していた。神への祈り。私の音楽で神様の機嫌を取る。そして奇蹟を起こす。
小夜子は自分の手に、指に、光が宿るのを感じた。
3
いよいよアジア大会当日を迎えた。会場はS大学の要するホール。音楽に適した作りだ。シューボックス型であり、三百五十ほどの客席がある。小規模のリサイタルやコンクールなどに何度も使用されている場所だ。
ステンドグラスから降り注ぐ日だまりの中で聴く音楽はあたたかく優しい。音響も良く、上品な雰囲気を醸し出す。
小夜子は会場を前に軽く震えた。
「いよいよね」母が手を握って来た。
「うん。ここまで来れるとは。でも、これで満足とは言わない」手を握り返し、力強く言う。「金賞を獲る」
今日のプログラムはアジア大会のプロフェッショナル部門だけなので十人と多くはない。出番は最後から二番目だ。小夜子の出番は午後になる。ほどよい緊張がある。ここでの金賞が第一歩だ。ここから未来は大きく開く。小夜子は強い意志で今日を迎えた。
ロビーで人だかりができているのが見えた。
「なんだろ?」母が言って、背伸びしてそちらを眺めた。何かに気づき驚きの顔をしたのを小夜子は見逃さなかった。
「どうしたの?」
「ううん」母は顔色が変わったまま首を振った。
小夜子は人だかりのほうへ歩いて行った。なにがあるのだろうか。ひょいと首を伸ばして中心を見た。そこには大きな外国人がいた。見た事がある。
世界的なピアニスト、ヨハネス=シュナイダー。通称、嘆きのヨハン。その旋律は誰かの嘆きのようであり、聴く者を深く深く落とし込む。悲しい音楽を弾かせたら世界屈指の評判だ。親日派としても知られており、日本でコンサートをよく開く。かつては数年日本に滞在していたこともあるらしい。
小夜子でも知るほどの大物だ。ゲストかなにかだろうか。振り返って母を見た。泣きそうな顔をしているが、小夜子に気づき口元に笑みを浮かべて近づいてきた。
「今日の出演者に教え子がいるみたいよ」
「そうなんだ。大物だよね」
彼の教え子はどんな演奏をするのだろう。やはり悲しい旋律なのか。
「彼は昔、ここのS大学で客員教授でもあったから縁もあるんでしょうね」
「へー」小夜子はあまり関心がない。でも、ふと思い出す。――そういえば。
「ねぇ、ここって」目で問う。
「ええ。私の母校よ」
「もしかして」
「鋭いのね」
「女の、勘」
「私が四年の時に客員教授になって一年だけ教わったことがある。彼もまだ若くて三十前くらいだったかな。だから学生とまるで友達のように接してたし、人気もあった」
それだけ言うと母は口をきつく結んだ。それ以上は聞くこともなく、予約しておいた大学内にある練習室へと向かった。そして、そこからは出番に向けて集中を高めていく。指の動きを確かめる。暗譜は完璧だが、それでもイメージトレーニングで楽譜をなぞり、実際に弾いてみる。そのうちに、ヨハンのことは頭から抜けていた。母のことさえも忘れていた。奇蹟を起こすには、ゾーンに入ることさえもコントロールできるようにならなければと小夜子は思う。そして、集中を高めていき、モチベーションが高いとそれに近い状態に持っていけるところまで来ていた。
午前の出場者の中に、優勝候補の一人の中国人の演奏があった。小夜子は見なかったが、母は客席で聴いていたらしい。その演奏に鳥肌が立ったとあとから聞いた。さすがアジア大会まで来るとレベルが高い。国際大会で優勝するレベルの出場者も珍しくない。そしてその中国人は最年少の十六歳で、小夜子よりも若い。若い才能はそれだけで人を感動させる。才能の差はいったいどこにあるのだろうか。
彼がヨハンの弟子だった。
親が優秀だから子も優秀になるなんて単純な話はない。教える人が偉大なピアニストだから教え子も偉大になれるわけでもない。
環境の差は大きいが、それだけで決まるわけではもちろんない。才能の開花に正解などない。才能に振り回され、嫉妬した。何度も何度も。それでも大切なのは最後までステージに立ち続ける勇気と覚悟だ。才能があろうとも、途中でリタイアした人は開花することも限界を知ることもない。小夜子は、絶対音楽を辞めないと誓った。死ぬときに、才能なんてものに振り回されたこともあったなと振り返れればいいと思った。考えるよりもピアノに向き合え。嘆く前に鍵盤を押せ。
答えは旋律だけが知っている。
ショパンの音楽が頭を巡っているうちに小夜子の出番が来た。彼が何を思い、ピアノに向かったのか。曲を紡ぎ出したのか。それは誰にもわからない。彼の残した楽譜はラブレターなのではと時々思う。僕の気持ちを綴ってみました。それに対して私たちピアニストはそれぞれに彼に返信をする。もちろんほとんどが彼のことを好きだというアピールだ。だが、そのアピールの仕方は人それぞれで興味深い。コンクールの時には、他の人の演奏を聴く時もある。そこで、その人の想いを感じられるのが楽しいのだ。
ただただ好きを言い続ける人、大きな敬意を持つ人、少しの嫉妬を交える人。好きではなく、嫌いだという憎悪さえ感じるような演奏をする者が時たまいる。好きと嫌いは表裏一体だ。嫌いを言い続けるのは好きと言い続けるより体力がいる。だからだろうか。嫌いを発散する演奏は優れていることが多い。それを最初に感じた時は目から鱗が落ちた。嫌いなのに弾き続けるという精神がわからない。でも、音楽は嫌いだろうと、優れているとひれ伏してしまうのかもしれない。だがただ屈しない。なにくそと思いを乗せると、こんな表現もあるのかという驚きのような演奏に出逢うことがある。
ただ悲しいかな。ショパンコンクールにおいては評価されにくい。素晴らしくてもショパンを好きな者を称えるコンクールでもあるのだ。よほど突き抜けない限りそう言った者は選ばれない。きっと本人もそれはわかっているのだろう。バッハやベートーベンなどのコンクールであっさり表彰されるのも見てきた。技術が高いから嫌いなショパンでさえ弾きこなしてしまうのだ。でも、やはり好きでないと最後の最後の一歩が突き抜けない気がする。
恋はそれだけ強いのだ。恋を知った小夜子は今ならそれがわかる。
恋する乙女は強い。
さぁ出番だ。指を組み、一度だけ祈った。
ピアノの前に座る。静かだ。誰かが息を吸う音さえも聞こえた。
小夜子は指を鍵盤の上に置く。一瞬だけ目を閉じた。鼻から空気を吸う。口から息を吐く。光が見えた。目を開き、最初の音を奏でた。
音の跳ね方がいい。この会場は音楽のための会場なのだと嬉しく思った。
自然と口が綻んだ。
楽しい。音楽が、ピアノが、ショパンが、楽しい。
これがわたしの音楽。さぁ聴いて。感じて。
指が滑らかに動く。その指を見ながら、自分の指でないようにさえ小夜子は感じていた。勝手に動く生命体を眺めている。なんて優雅に動き、なんて俊敏に動くのだろう。他人事にしか思えなかった。なのに、全てをコントロールできているという思いもあった。
指が跳ねる時、不安を感じる時もあったのだが、今は着地する音がはっきりわかっていた。間違えようもなくはっきりと着地して、次の音へと跳ねていく。音と音の間さえも完璧に表現できたと感じた。何ミクロンの押し込みさえも感じることができた。微細な音の変化、表現をどれだけの人がわかるだろうか。
常人にはわからないレベルでの攻防。その微細な差が人の心に響く時、空気を伝わり、共振し、何倍も揺らすことを知った。
弾く者と聴く者の間にある空間。これがあるから大きく共振させられる。そして共鳴させられる。空間全部を使い、その空間に合った演奏、表現をする。音を支配する。それができて初めて完璧と言える演奏はできるのだ。
小夜子の神経はむき出しになっている。そして、伸びて壁に達している。ピアノからの距離を測り、そこへ飛ばし跳ね返る音さえも支配した。
そうか、コンサートでの興奮や歓喜は会場を支配してこそできるのだ。
CDで聴くミスのない完璧な演奏より、ライブのほうが盛り上がるのは、会場と空間という生物で演奏するからなのだ。聴くのは生身の人間なのだ。だから、練習通り弾くのでは足りない。その場の空気を読み取り、自分の演奏に上乗せしてこそ、人を揺さぶれるのだ。
伝われわたしの感情。伝われショパンの想い。
時に笑い、時に涙し、時に怒る。
感情は伝染する。
小夜子はそれを信じている。わたしの想いは、感情はきっと聴く人に届く。心を揺さぶり、感情を動かす力になる。感情を音に変えて。
わたしが楽しいならば君もきっと楽しい。
わたしが悲しいならば君もきっと悲しい。
わたしが苦しいならば君もきっと苦しい。
わたしたちは共有できる。感情を。想いを。
感情は伝染する。
会場を一体化させる。
小夜子は一本一本の指に感情を込めて願うように弾き続ける。
音が飛び跳ねている。感情が飛び跳ねている。
音を重ねる。音を紡ぐ。連続性を意識しながらも一音一音にも意識を乗せていく。なんて疲れるのだろうか。歴史を超えて、人と人が交流できるのが音楽なんだ。無駄な音はひとつとしてない。当たり前だが、ミスしていい音も、なくていい音もないのだ。
ショパンよ、君の紡ぐ声をわたしは漏らさず聴くよ。
これがわたしからの返信。
わたしの紡ぐ声も漏らさず聴いてね。
そして、正ちゃんにも。届け。わたしの紡ぐ声。
そして君の紡ぐ声をもっと聴かせて。
正ちゃんの音楽を、表現をもっともっと聴きたい。笑顔を見たい。耳を撫でる正ちゃんの声をいつまでも聴いていたい。小夜子の感情は暴発しそうなほどに膨らんだ。
最後の音が空間に響いた。音が止み、静寂が広がった。
小夜子は立ち上がりお辞儀をする。
誰かが立ち上がる気配を感じた。小夜子は視線を向けた。ヨハンがいた。興奮した様子で手を打ち鳴らしている。教え子がいるのに他の出演者にそんなに拍手していいのかなと小首を傾げた。
それと同時に他の出演者の付き添いで来ていた人や単純に演奏を聴きに来ていた人など、多くはないが少なくもない聴衆からの拍手も起こった。半分くらいの人がヨハンのように立ち上がっていた。スタンディングオベーションって言うんだっけ?と他人事のように思い、もう一度頭を下げた。
多分届いたんだ。
人にも、この会場にも。
正ちゃんにも届いたかな。
早く会いたい。声が聴きたい。
最後の一人の演奏が終わった。小夜子は大きく息を吐いた。終わったんだ。地区予選から始まって数か月。あっという間だった。わたしの音楽はどこまでいけたのだろう。結果が全てではないが、結果を出すと決めてやってきた。プロになるのだ。そしていつか自らのコンサートを開き、好きな曲を演奏するのだ。――そう、もちろん正ちゃんの音楽を。
その一歩が今日である。今日が一歩となってほしい。
結果を待つ間の時間が緩やかに過ぎていく。この時間がどうにも好きになれない。好きな人なんていないのだろうけど。
廊下でぶらぶらしていると、ふと視線を感じた。そちらを向くと少年がこちらを見ていた。中国人。あ、優勝候補と言われた人だ。
「演奏素晴らしかった」近づいてきて言われた。
えーと。「シェイシェイ」
ふ、と漏れるように笑われた。
「あ、あれ」小夜子は戸惑う。
「日本語大丈夫です。でもありがとう。謝謝」
「あなたの演奏聴けなかったの。でも、母が素晴らしかったって」
「ありがとう。でもキミのほうがよかった。空間が震えてたよ」
「あ、ありがとう」震わせることできたのかな。「そうだ、名前」
「ホァンロンです。ロンロンと呼んでください」黄龍と書きますと漢字も教えてくれた。
「ロンロン君ね。わたしは――」
「知ってます。小夜子さんですね」
「ロンロン君、強そうな名前だね」
「産まれた時からだが弱かったです。中国では弱い子とかに強い名前を付けることがあります。それで」
「そうなんだ。でも今では龍にふさわしい貫禄だよね」小夜子は見上げるようにロンロンを見た。ロンロンは小夜子より頭ひとつくらい大きい巨体だ。きっと雄大で力強い演奏をするのだろうな。
「またどこかのコンクールで会いましょう」そう言って手を差し出してきた。小夜子は大きな手を握った。羨ましくなる手だなぁと思った。
ううん、わたしはわたしと思い直し、ロンロンを真っ直ぐ見つめてにこりと笑った。「今度はワルシャワで」
ロンロンはハッとした顔をした。「そうです。ショパンを弾く者はそこを目指すものです。さすればおのずとそこで出会いますね」
さすればとか言葉遣いが可笑しかった。手を軽く振ってロンロンは先生――ヨハンのもとへ去っていった。先生が凄いと萎縮してしまわないのかなと小夜子は思った。
これからは海外の人もライバルになるんだ。まだ見ぬ凄い人もきっとたくさんいる。それは恐怖でもあり、楽しみでもある。弾き手の数だけ音楽がある。多くの音楽に触れて私の音楽はきっと変化しながら大きくなっていく。そう信じている。まだまだ進化していく。させる。
そして結果が発表された。
金賞の欄に小夜子の名前があった。
入賞者は金銀銅での表彰であり、それぞれが複数の場合もある。金賞が一人とは限らないのだ。同時優勝のようで少しだけ満足感が減るように感じていた。果たして小夜子の名前に並び黄龍の名前もあった。
それでもひとつの達成感はあった。
「おめでとう」母が手を握ってきた。
「ありがとう。疲れた」知らずに体が強張っていた。発表を待つ間緊張していたのだ。
「お母さん、あとのことまかせていい?」
「え」
言うが早いか小夜子は、「先に帰るね」と出口を目指して歩を進めた。
「ちょ、ちょっと」と言う言葉が背中に響いた。
早く会いたい。そうだ、その前に電話で結果だけでも教えて喜ばせたい。そして声だけでも早く聴きたい。正太郎の笑顔が浮かび、そして、青白い顔色が浮かんだ。ぶるりと一度震えた。
会場から出ると冷たい空気に頬がぴりりとした。マフラーを顔の半分が隠れるように巻く。スマートフォンを取り出していると、ふと知ったような声が聞こえた。あれ?
声の方に行くと、正太郎の母がいた。
来てたんだ。挨拶しなきゃ。と思うも、誰かと会話している。その相手は――ヨハンだ。なぜ?知り合い?
思わず物影に隠れてしまった。
――君も聴いたかあの演奏?
――ええ。
――いや、あれが僕の娘だとは嬉しいね。僕の教えてるロンロンももちろん良かったけど、まさか同じレベルのコンテスタントがいるとは思っていなかった。環境としてロンロンは恵まれている。僕に教わるのだから。それでも、僕の血を引いた娘も同じとこにいた。環境か血か。音楽とは面白いね。
――え?
――なんだ知らないのか。サヨコは僕の娘だ。
僕の娘?誰が?私。誰の?ヨハンの。え?
――そうなんだ……。知らなかった。
――そうだったか。じゃあ、なんだ。何やら顔色が悪いが何か悪い知らせか?息子のことか?
――そうよ。
――彼も天才だ。小さい時の演奏を聴いて痺れた。最近はコンクールに出てないみたいだが、まさか辞めたわけじゃないよな?
息子?え?私のきょうだいがいるってこと?いや、その前にヨハンが父なの?え?ちょっと待って。冷静になれ。なれない。なれるか。
世界的ピアニストが父。全く記憶にもない父。それがまさか。でも、確かに母との接点はある。ないことはない――のか?女の勘はそこまでは知らせていなかったような。いや、本当は薄々母の反応から思っていたのか。信じたくないだけだったのか。それどころでもないから思考から遮断していたのか。それにしてもどうしたらいいのだろう。わたしを、実の血の繋がる子供を放っておいて、中国人のロンロンに教えてるってなに?待って待って。わたしは捨てられたの?世界のヨハンがなに?名声をいくら得ていても、わたしや母にしていることは最低だ。そんなの。そんなの。
そんなの許せない。戸惑いは怒りに変わった。
大きく深呼吸をする。すーはーすーはー。少し落ち着いた。でも。
でも、一言言わせて。一言じゃすまないかもだけど。
小夜子は二人の前に出ようと物影から飛び出した。
「正太郎の容態が悪いの!」
勢いよく飛び出した小夜子を二人が見た。小夜子は口が開いたまま時が止まった。
え。思考が追い付かない。
いや信じたくないから知らぬふりをしたのかもしれない。私の脳が拒絶していたのだが、はっきりと正太郎と名前を告げられてはもう誤魔化せなかった。
正太郎と小夜子は異母きょうだい。
それが事実なのだろう。父は嘆きのヨハン。世界的ピアニスト。
正太郎はピアノを弾く。小夜子もピアノを弾く。血の繋がりをいやがうえにも感じるような符合だ。偶然ではあっても。家が近所なのは偶然ではあっても。年が一緒なのは偶然ではあっても。
ヨハンが二人同時に産ませた。許せない。でも、でも。
正ちゃん。正ちゃん。正ちゃん。
大人はうそつきだ。大人は醜い。汚らわしい。
お母さんも正ちゃんのお母さんも知ってて黙ってたの?知らなかったの?いや言えなかったのか。それでも、こんなことって。こんなことって。
お母さんが正ちゃんに会うのをやめろと言ったのはこれがあったからだろうか。でもすぐに応援してくれた。知らないのではないか。そんなことはどうでもいい。思考がどこへ行くのか定まらない。どういうこと。どうしたらいいの。
「サヨコ!」ヨハンが叫ぶように言った。嬉しそうな顔で。何も悪気を感じていない顔で。少年のような無邪気さで。
「イヤ!」あなたの声なんて聞きたくない。顔も見たくない。
イヤ、いや、嫌、否。小夜子はひたすらいやだと思った。足が無意識に動く。その場に留まれない。どこかに逃げたい。どこへ?どこでもいい。ただひたすら走った。目は滲む。陽は傾き、西日が眩しい。怒りは走ることへと転換された。
走りながら、それでも、正太郎に電話をしようとしていた。きょうだいであっても、それが事実であっても、この想いが消えることはない。これは嘘ではない。でも、でも、でも。
一声聴きたい。それで自分がどうなるかわからない。だが、聴かずにもいられない。こんなことって。
胸が激しくざわめく。脈も速くなる。呼吸は荒い。心臓が爆発しそうだ。それでも走ることをやめられない。体がどうにかなってしまえと自暴自棄にもなる。震える手でスマートフォンを操作する。止まればいいのに、止まったら死んでしまうかのように止まれない。酸素が足りなくなってきた。視界は相変わらず滲む。はぁはぁ。いつしか自分の呼吸しか聴こえなくなっていた。
通話ボタンを押す。
まもなくつながった。
「もしもし小夜ちゃん」
声を聴くと涙がさらに溢れた。水分全てが涙になってしまったようにボロボロと零れた。「……正ちゃん」かすれた声で囁くように口にした。「金獲ったよ」それでも結果を最初に伝えたかった。それしか言えなかった。
「おめでとう。僕も頑張ってすぐに冬の音楽を、四季の音楽を完成させるよ。もう少しなんだ」弱々しい掠れた声で、それでも強い意志で正太郎は答えてくれた。乱れた呼吸が不安を増幅させる。
目が眩む。冬の空は切ないほどに青かった。西日が痛かった。雪が見たいと思った。頭の中はぐるぐる回っていた。時はどこに向かうのか。進むのか。戻るのか。それとも。早く春にならないかな。桜も見たいなぁ。一緒に。誰と?誰かと。誰と?正ちゃんと。誰と?血のつながったきょうだいと。それは誰?知らない。誰?知らない。
誰だ?
知りたくない!知りたくなかった。でも知ってしまった。事実はもう変えられない。終わりの始まり。始まりの終わり。
小夜子の体が軋む。悲鳴を上げた。全身で泣いた。哭いた。鳴いた。
赤々とした太陽が静かに震えた。風が散った。
「約束だよ。正ちゃん、生きてね――」
春の章
1
やっとだ。
そっと横目に客席を仰ぎ見た。多くの人で埋め尽くされている。傾斜のついた席。舞台から見上げるように。
ショパンを弾き終えた興奮を軽く覚えていた。顔が紅潮している。大きな拍手をもらえてほっと一息。ソロコンサートはコンクールとは違った緊張感がある。そして大きな喜びがある。
間を置かずに指を鍵盤の上に浮かせる。客席は静まり返る。期待を感じる空気。ちょっと身震いした。もしかしたら裏切ることになるかもしれない。それでも、この曲を弾くためにここまで来たんだ。聴いてください。目を瞑り、胸に手を当て、そっと祈った。
ライトが落とされる。暗闇が客席を包んだ。
「視界の情報を遮断して、音だけで、この曲は、音だけで楽しんでください。何かを想像してもらえたならば」
そっと指を鍵盤におろした。
感情が溢れる。感情が爆発する。それを音に乗せ、波となって人へと伝わらせる。
感情は伝染するのだ。
そんな想いを込めた音。客席が息を飲むのを感じた。
2
小夜子の母――美也子は音楽に身を委ねていた。
これは春の調べだ。あたたかさを感じた。
春のあたたかさとまだ残る寒さ。別れと出逢い。期待と後悔。春はいつでも何かを待ち侘びるような気分になる。それはこれからの未来なのか。冬眠から目覚めた何かなのか。
あたたかい旋律が空間を満たす。和音が心に沁みこんでくる。
柔らかく包み込むような音だ。
春は過ぎ、夏へと向かう。転調をして、季節の変化をはっきりと告げた。春の穏やかな気温は、峻烈な暑さへと変わる。それは日本ならではの移り変わり。水の清流を感じさせるフレーズが暑さを和らげながら、夏の熱気が伝染してくる。熱波。音の波は熱波となり、襲い掛かってきた。祭りを思い出して、浮足立ってきた。胸がざわついた。
ハッとする。これは花火だ。夏の風物詩でもある花火を感じる音だ。そういえば、小夜子は正太郎君と花火を見たと言ってたのを思い出す。
やがて夏の暑さや興奮が緩んでいく。残暑が季節の境目を曖昧にし、溶かしていく。
気付けば秋。山々を真っ赤に燃やし、木々は色めく季節。過ごしやすい気候が、日々の生活を活性化する。何をするのにも適した季節。しかし、短い季節。それは隙間のような束の間のバカンスとも思えた。
隣の席を横目に見た。目を瞑り体を軽く揺らしている人がいた。聴き入ってるのか、寝てしまったのか。眠気を誘うほどの心地よさもあるのが音楽だ。刺激でもあり、癒しでもあるのだ。知らずに笑みが零れた。
音楽とはどういう存在なのだろう。もし世の中になかったら?特に困ることはないのかもしれない。でも、きっと何かが欠如したような、何かが足りないような、そんな気分になるのではないか。
自然と日常に溶け込んだ存在。そんな気がした。
鈴虫の音を思い出させ、月光を感じさせるような音が美也子の耳を撫でた。月の淡い光を見たような気がした。
秋が未練を感じさせるフレーズで終わり、やがて冬へと移り行く。
一音が鳴り響いた。それは真っ白な雪を、冷えた空、澄んだ空気を想起させる。
ジングルベルを思わせる音が鳴った。それは人を笑顔にして高揚させるメロディ。
小夜子は正太郎君とクリスマスにケーキを食べたと言ってた。
四季の風景を思わせる中に、二人の思い出が重なっているように感じた。
美也子は眩しそうに舞台を見つめながら呟いた。
「正太郎君よくここまで来たね」
小夜子、ちゃんと聴いている?この素晴らしい音楽を。
ライトが点いた。正太郎は手を宙に浮かべたまま制止していた。表情はないままだ。春に始まり冬で終わる音楽。
客席は驚きと興奮が渦巻いていた。
圧巻の表現力で演奏されたオリジナルの四季の音楽。作曲能力の高さに驚くと共に、それは巧みな技術があるからこそ生かされる楽曲だ。そこに表現力が伴う時、打ち震えるほどの芸術となる。技術があってこその芸術だと言ったアスリートがいた。音楽もそうだ。どちらかだけでない。両方が揃った時に、音楽は娯楽でありながら芸術と昇華する。
圧倒的な技巧に、小夜子の表現力が加わった。
技術はあってもどこか淡泊で冷たく表現力が技術に比べて追い付いていないと感じた音。
それがここまで表現豊かになるとは。冷たさと熱さを備えていた。鋭利でありながら丸く柔らかい。二色を融合した音楽のようだ。二人で紡いだ音なのだろう。
3
真琴は正太郎に拍手を送りながら思い出していた。
アジア大会のあった日、小夜子との電話のあと正太郎の容態は急変した。意識不明になり命が危ぶまれた。真琴は必死に声をかけ、帰って来いと祈った。
数時間後に意識が戻った時には安堵の息と共に涙が零れた。そんな時に、正太郎の主治医が駆け込んできて、「ドナーが見つかりそうだ」と告げたのは運命だったのだろうか。
「ショパン国際に出る」
正太郎がそう言ったのは、移植が成功してから半年後だ。
ショパン国際コンクールまで一年半。コンクールは世界最高峰の大会だ。出るだけでも簡単ではない。予備審査をまず通過しなければいけない。
予備審査は、書類とDVD審査がある。三~四百人の参加者がいるので、その審査だけでも長い時間がかかる。音質映像が悪いと実際の実力以下にも聴こえるので、プロの映像制作に頼む者も多い。
それとは別に指定された大会で優勝すると予備審査免除でワルシャワでの予選から参加できる資格を得る。こちらはもっと狭き門だ。それでも、それくらいの実力がないと良い結果を出せないのも事実だ。
「時間ないよ」
「大丈夫。僕、天才だから」正太郎は胸にそっと手を当てた。
「うん、そうだね。あんたは天才だ。それに――」
指定された大会に申し込みをすると正太郎はピアノが壊れそうなほどに弾きまくった。鬼気迫るほどの練習量が、天性の素質を開花させた。それまでも凄い演奏だと思っていたが、日に日に磨かれる演奏は圧倒的だった。真琴は、その音に打ち震えた。余韻でさえ涙した。ショパンの音楽は悲しみや絶望をどこか感じるものが多い。それはワルシャワ生まれであるがゆえのものであり、ショパンの根源でもある。正太郎はその悲しみを巧みに表現した。いや、巧みにというと技術的なものだけに思えてしまう。そうではない。感情を込めて、感情の塊になって、ピアノが悲しい悲鳴をあげているようだった。どこか冷めていた正太郎に熱を感じるようになった。
毎日十時間以上もピアノに向き合っていた。
ショパンにまるで恋人のように親密に向き合っていた。
ショパンにまるで家族のように濃密に向き合っていた。
ショパンを意識しつづけ、ショパンになり続けていた。
これは、モノが違う。ピアノが専門でない真琴でさえ、その凄さを肌で感じた。ショパンが乗り移ったような鬼気迫る迫力があった。
果たして、大会を難なく優勝した。他者が、ひれ伏す音楽だった。
そしてワルシャワに渡った。過去に日本人優勝者はいない。体力や構成力よりも、繊細さや内面の表現力などが評価される大会なので日本人の繊細さは有利なはずだが、まだ未踏なのはそれだけポーランドを始めとする海外勢が優れているのだ。強敵揃いなのはもちろんだし、ポーランドが自国の威信をかけてもいるため自国の演奏者に知らずに肩入れしがちな時もある。それらをすべてねじ伏せるだけの演奏をしないと優勝は難しい。
それでも、正太郎はすべてを超えていく。そう思えるだけの技術があった。そして表現力も各段に良くなっていた。その表現力の豊かさは小夜子を彷彿とさせた。色めいて、熱量があって、感情を揺さぶった。
ワルシャワでの正太郎は神懸っていた。胸に一度手をやり、それから演奏に入る仕草はこの時から始まった。
歌うようにピアノを鳴らした。正太郎の体が揺れると聴くものの心も揺れた。高音が琴線を刺激し、低音が臓腑を震わせる。和音が胸に響き、心地よく酔わせた。うっとりした恋する少女のような顔をした海外マダムがいた。正太郎の音楽が海を越えて、国境も人種も超えて伝わったのだ。音楽は様々なものを越える力がある。よく言われることだが、言うほど簡単には超えていけない。ボーダーは強固な壁であり、それを打ち破るのはいかなる天才であっても易しいことではない。だからこそ、それを目の当たりにしたことが嬉しかった。
シルクの手触りのような滑らかな音の連なり。ビロードのような柔らかいタッチ。しみじみとして、切なくて、でも希望があるような艶やかな演奏だった。際立っていた。レベルの高い奏者がたくさんいたが、それでもなお、圧倒した。
ただその凄まじい演奏はショパンの演奏さえも超えてしまっているように思えた。それは保守的な審査員の評価を得るのは難しいのかもしれない。それほど突き抜けてしまっている。出る杭は打たれる。でも、出過ぎた杭は打てない。だけど、その出過ぎた杭は無視されることもある。存在をなかったことにされる。そうならないことを祈った。
音楽は、本当に素晴らしい音楽は、すべての余計な雑念を打ち払う。真っ当な評価が下される。そうであってほしい。神に背いても、音楽には背いてはいけない。
正太郎はショパン国際ピアノコンクールで見事に優勝を果たした。
4
ライトが点いた後、一拍置いて、さらに正太郎の指は音を紡ぎ出した。
これはあの冬の時にはなかった続きの曲。正太郎は最初は春夏秋冬の四季として作った。そこにもう一つ春を付け足したのだ。
この春は光の中で演奏したいと思い、冬の後にライトを点ける演出にした。
希望を感じさせたい。
薬が進化したおかげで今は心臓に疾患が見つかってから十年以上生きる人がいる。バチスタ手術で延命する人もいる。それでも、根本的な治療ではないので、いつかリミットは来る。正太郎も薬で延命しているが、それでも刻一刻とその時が迫っていた。そして容態の変化も起きていて長くはないと悟っていた。それだけにドナーが見つかったという知らせは歓喜する出来事だ。だが、それは誰かの死の上に成り立つことでもあり、手放しでは喜べない。
ドナーの遺族の気持ちを思うと胸が痛む。
脳死は、本当の死ではないという考え方もある。肉体はまだ死んでいないのだ。それなのに、とどめをさすような行為にも思えるのだ、移植とは。
だからこそ、その人の紡げなかった未来を代わりに紡がなくてはという覚悟が必要な気がする。そしてもちろん、その覚悟がある。
手術台に横たわり、麻酔をかけられ、意識が遠くへと旅立つ中で脳内には音楽が流れていた。表情豊かな音楽――ショパンだ。儚さと切なさが踊るようだ。これは小夜ちゃんの演奏だ。僕は微笑み、彼女も微笑んだ。
そっと彼女が手を差し出してきた。その手を取ると引かれて彼女の横に座った。一緒にショパンを弾いた。技術力は僕のほうがあると思うが、表現力は小夜ちゃんのほうがあるなとぼんやり思う。小夜ちゃんは感受性が豊かで、感情も豊かだ。綺麗なものを見て涙するほどに。表情もくるくる変わり、声に抑揚があって、気持ちを高ぶらせる。こんなにも小夜ちゃんの音楽は多彩なのに、小夜ちゃんは彼女自身を信じていなくていつもどこか萎縮してるようにも見えた。誰かを羨み、自分を卑下する。もっと、もっと自信を持っていいのに。もっと高い場所に行けるのに。
それがいつからだろうか。殻を破り、どんどん彼女のピアノが眩いほどに煌めき出した。
もっと彼女の音楽を聴きたいと痛切に思い、願った。
願いは叶う。もっと聴くことができると心が躍った。
移植が成功すれば、もっと生きられる――。
喜びの中で、彼女と並んでピアノを弾き続けた。音符が弾んだ。
目が覚めた時、生まれ変わったように感じた。
拒否反応が移植には付きものだが、まったくと言っていいほどない。
主治医は驚愕の表情で言った。ここまで、適応するケースは初めてだ、と。
手術後安静にする必要があり、また拒否反応などの経過観察もあるのでそのまま入院が必要だった。
早く小夜ちゃんに会いたかったが、母には今は安静にしてと泣いて言われた。もう少し元気になってからね、と。
気は急いるが、術後のために体が疲れやすく眠気がすごかった。一日のほとんどを寝て過ごしたので、確かにこれでは会っても寝てる姿を見せるだけだと我慢した。
まだ、絶望を知らないあの時の僕は愚かなほど無邪気で楽観だった。
神は残酷だ。
「小夜子ちゃんは、交通事故で亡くなったの……」
移植が成功して、容態が安定した時に母から告げられた言葉は正太郎の心臓に杭を打ち立てたような大きな衝撃を与えた。
やっと会える。小夜ちゃんのピアノを聴ける。これからもずっと一緒に歩いて行ける。
そう思った。それなのに。
それなのに、希望は絶望へとあっけなく転んだ。
母は小夜ちゃんの事故のことを詳しくは言わなかった。僕は思考を閉ざした。母は謝り続けた。ごめんねという言葉がむなしく漂っていた。なぜ謝るのかと思いながらも小夜ちゃんの死の前に何もかもがどうでもよかった。
僕は、ただただ小夜ちゃんの死を受け入れることを拒絶していた。
目を瞑ればまざまざと思い出せる小夜ちゃんの笑顔。手には小夜ちゃんの手のひらの感触が残る。あの白い肌に髪の毛の滑らかさ。息を吐く音。花のような甘い匂い。すべてが尊い。はらりと涙が零れた。
人はいつか死ぬ。そんな当たり前のことさえも理不尽に感じた。世界を恨み、人を恨み、神を殺した。生き返らせることができるなら悪魔にでも魂を売るだろう。
一粒の涙から堰を切ったように絶望に溺れるほど涙を流した。目玉が取れるほど泣き、瞼が卵のように丸く膨れた。喉が千切れるほど、声が嗄れるほど絶叫した。血反吐を吐いても、なお、口からは嘆きの音が止むことはなかった。
いったい人の体はどれだけ頑丈なのだ。どれだけ泣き、叫ぼうとも、死ぬことはなかった。休めば修復され傷は消えた。残るのは心の傷だけ。でも、心の傷を見ることは誰にもできない。傷がある、と思うだけだった。それは欺瞞でしかないのかもしれない。それは自己満足でしかないのかもしれない。心が傷ついたと言っても何も変わらないのだ。慰めてほしいわけではないのに、なぜそんなことを言ってしまうのだろう。すべてが悔しくて情けなくて何度嗚咽が零れた事だろう。
キミの砕ける命に何もできない自分の無能をどれだけ呪っても、世界は何も変わらない。それを知った時、また絶望が襲った。
キミがいない世界に絶望した僕は自死も考えたが、そんな気力も体力もなかった。何もしたくなくて、食べることもしなくて、寝てるのか覚めてるのかわからない状態で何日も過ごした。母は無理にでも食べさせようとしたが、僕は口を閉ざした。いつしか体力の限界も近づき動くこともできなくなった。母はどうにか僕をもう一度病院のベッドに連れて行った。
病室で知らされた事実が、僕の命を繋ぐことになる。
僕は生きている。
音楽が僕と小夜ちゃんを繋いでいる。そう思い、縋り付くように音楽に頼り、ピアノを弾きまくった。息が乱れることもなく思い切り弾ける喜びを感じながら、キミの不在の大きさに頽れそうにもなった。それでも、壊れそうな心を音楽で満たした。満たされた心はいつしかキミの紡いだ声でいっぱいに溢れた。それは計らずとも幸せを思い出させた。満ちた心は音楽を輝かせる。
深い悲しみを知った僕は、世界一の悲しい旋律を奏でよう。奏でられるはずだ。
悲しみの旋律は、生命の終わりを感じさせる。下がりゆく体温。下がりゆく気温。水は凍りつき、細胞は動きを止める。いつしか時さえも止めてしまうかもしれない。いや、止めてくれたらよかったのにと思ったこともある。
しかし、時が止まればきっと人の進化も止まってしまう。それは未来を失くし、希望を捨て、救える命さえも無視することだ。死せども残るものがある。
それを救いに思い、ピアノに向き合った。音楽に向き合った。
僕は悲しみだけでなく、あたたかさや優しさ、喜びも奏でたいと思った。小夜ちゃんの笑顔を思うと音楽が踊り出す。小夜ちゃんとの思い出は一生色褪せない。それを表現するのは悲しみではない。
殺したはずの神はいた。
唯一信じることができる神がいた。
それはちょこんと鍵盤の端っこにいた。音楽の神だった。小さな小人のような神は。妖精のようでもあり、ただ一言だけ言った。
――音楽は裏切らないよ。
それはただの幻聴なのだろう。もしくは白昼夢か。だが、それでもいい。それでいい。音楽は人を裏切らない。そう思えれば音楽を信じることができる。それならば、人も音楽を裏切ってはいけない。
この四季の音楽を奏でるためにピアノを弾き続けた。想いは実った。喜びと虚しさが同居している。聴かせたい相手はもういない。それでも、弾く。
届けと願いながら。
だって。
だって、と思う。
だって音楽は祈りだから。
そしてまたやってくる春の音。二人で迎えることのできなかった春を演奏する。
新しい命の芽吹き。それが春だ。冬はいつか過ぎ去る。終わりが新しい始まりを連れてくる。
生き永らえた。生き残った。なぜだ?なぜだ?と何度も思い絶望した日々。
どこにもいないキミ。キミの姿はどこにもない。それでも目を瞑れば、はっきりと浮かぶキミの笑顔。キミの声。
汗が飛び散る。再びの春は激しい旋律。全身を叩きつけるようにする。ピアノが揺れる。空気が揺れる。大地が揺れる。全てを揺らそう。小夜ちゃん、キミが僕の心を揺らしてくれたように。
漆黒の筐体が叫ぶ。天を切り裂き、大地を揺るがす。その雄大で繊細な音。まるで狼が月に向かって吠えるように高く、低く、遠くまで響かせる。
僕の音楽が誰かを揺らしたならいいな。
小夜ちゃんはいない。
小夜ちゃんは死んだ。
小夜ちゃん。キミのいない世界は悲しくて色がどこか煤けている。でも。
でも、それでもキミが存在したこの世界は、少しだけ僕をあたためてくれるよ。
最後の音が天に抜けていく。客席は総立ちになった。万雷の拍手が会場を満たした。舞台の上から手を振った。正太郎は何度も頭をさげ、時折胸に手を当てた。
あの冬から三年たったが、僕の気持ちはいまでも変わっていない。むしろあの時よりも強い。小夜ちゃん、キミに恋してるよ。愛しく思う。
僕が生き延びるより小夜ちゃんに生きて僕の音楽を奏でてほしかった。紡いでほしかった。僕は本当に彼女のピアノが好きだった。
僕は走れなくなって挫折した。それでもピアノが支えてくれた。
しかし、心臓の病で再び挫折を味わった。僕の心は死んだ。ずっとそう思っていた。
それでも何かを残したくて、作曲をした。だけど、何か足りてないと感じていた。
感情が動かないためか、どこか空虚な音だった。
そんな音に色を与えてくれたのが小夜ちゃんなんだ。小夜ちゃんの笑顔が僕の感情を揺り動かした。多くの表情が、言葉が、音楽が僕の心を生き返らせてくれた。小夜ちゃんがいなかったらきっと作曲も途中で投げ出していたような気がする。
僕の音楽を奏でてほしいと切実に願ったんだ。だが、叶わなかった。
最後に見た小夜ちゃんの演奏は鳥肌が立った。現実ではないような気がするほどだった。そこにいるのに遠くにいる。まるでおとぎ話を見るように不思議な感じだった。夢心地で聴き、すごく心が揺らされて、思わず涙したんだ。
鶴が布を織るようだった。大きな羽根を広げ、美しい光沢ある羽根で織りなす布――物語。そう感じた。まるで天女が美しい羽衣を纏い、空を優雅に舞うような気品に溢れた高貴さだった。どれだけ言葉を並べても追い付かない。言葉なんて全て凌駕していくほどの演奏だった。
「今日はありがとうございました」正太郎が最後の挨拶をした。
「僕は生かされました。脆弱な心臓が、今は強く、本当に強く脈打っています。僕を鼓舞するように強く強く打ち付けるのです。この心臓に誓って僕は音楽を続けていきます。これからもよろしくお願いします」
もう一度大きな拍手が起きた。雷のように鳴り、地響きが起きた。
会場はゆりかごのようにやさしく揺れた。
胸にぎゅうと握った拳を当てた。鼓動を感じた。
5
病院のベッドに連れて行かれた僕は点滴で栄養を吸収し、薬で睡眠を取り、徐々に体力を回復させていった。だけど、気力は戻ってこない。小夜ちゃんの不在は僕の心をまた空っぽにした。空虚で孤独だった。
そんなある日、美也子が病室を訪ねてきた。
「遅くなったけど小夜子のことありがとう。いっぱいお世話になりました」静かに頭を下げた。
正太郎は焦点の合わない目でうつろな表情のままだ。
「二人が出会うのは運命だった。そして小夜子は幸せだった」
正太郎はその言葉に涙した。
僕と出逢わなければ死ななかったのではないかとずっと思っていたから。
「心臓はどう?」
「はい。拒否反応もなくて、凄く順調です。先生も驚いています。小夜ちゃんと出逢ったような運命を、この心臓にも感じます」
「……そう」
美也子はおもむろに手を伸ばした。正太郎の胸に手のひらをつけた。正太郎は驚いたけども、そのまま美也子の手を受け入れた。
どくん。どくん。どくん。
美也子は目を閉じて心音に耳を澄ましているようだ。正太郎も目を閉じ、心臓の音に耳を澄ました。
どれくらいそうしていただろう。一瞬のようにも永遠のようにも感じた。
美也子は目を開け、当てていた手を離すと、はっきりとした口調で呼んだ。「正太郎君」
「はい」
「絶望しているのはわかる」
「……」
「死にたいくらいなんでしょう。でも」
――でも、生きてほしい。
正太郎はハッとした。小夜ちゃんに生きてと言われた声が蘇る。でも、小夜ちゃんのいない世界には何もない。正太郎は思わず顔をしかめた。
「移植だと、基本的にドナーの情報は知らされない」美也子はぽつりと零した。
「……ええ。本当に感謝しているので、礼を言いたい」
「あのね」
美也子は、視線を爪先に落としたままだ。そのまま沈黙が続いた。慌てる必要もなく、時間は無駄なほど余っている。正太郎は、その沈黙を受け入れて、ぼんやりと壁を見つめた。
「さらに残酷なことかもしれない。でも、生きる希望になるかもしれない。そう信じて言います」美也子は視線を落としたまま震える声で言った。
正太郎は手を握った。汗がじわりと手のひらに滲む。俄かに緊張してきた。心臓が、大きな音を奏で始めた。何か重大なことを言われる。そう感じた。そして、それは薄々わかっていたことではないかと無意識に感じていた。目の前が暗転しそうだ。目をぎゅうと一度瞑り、開いた。「なんですか?」答え合わせの面持ちで聞いた。
美也子は大きく息をひとつ吸い、それを吐き出すように言葉を発した。
「その心臓は、小夜子の心臓なの」
心臓を移植することに、美也子は戸惑ったと言った。
小夜子が脳死と判断された後に、移植カードを持っているのを見つけた。
死者の体を刻むことも、臓器を誰かに提供することも、頭ではそれで命が救えるとわかっても、心はついてこない。しかし、考える時間は短い。意思カードがあっても拒否する親族は多い。美也子もそうだった。
だが、直筆で正太郎に譲るという文言を見ると、最後にはそれを叶えることが小夜子の弔いになると思ったそうだ。
正太郎は世界が止まったように感じた。
めまいがする。脳がずきずきする。こめかみがぴくぴくと脈打った。
どくん。
心臓がひとつ跳ねた。
――正太郎は小夜子の心臓で生かされている。
正太郎は静かに涙を流した。
なんて残酷なことをするのだろう。母を恨み、医者を恨み、神を恨んだ。
視界が真っ暗になった。
正太郎は声を出さずに吠えた。涙はとめどなく流れた。洟が垂れ、口からは涎が滴った。生命が零れそうなほどに多くのものが裡から溢れた。苦しい。胸が、心臓が、そして心が、苦しい。
胸を掻き抱き、手を当て鼓動を聴いた。感じた。
いつしか世界がゆっくりと動き出し、頭に思考が戻り始めた。
妙に納得した。腑に落ちた。
心臓は恐ろしいほど、適応した。強い心臓は、励ますように脈打ち続けた。その鼓動は優しくじんわりと熱いリズムを刻んでいた。そのリズムが気付かぬうちに正太郎の心を落ち着けていった。
これだけ適合してしまう心臓に不安を覚えてもいた。でも、小夜ちゃんの心臓だと思うと不安は木っ端みじんに霧消した。握った拳を開いた。汗でびっしょりの手のひらが何かを解き放った。そしてもう一度握る。何かを手に入れた。
似た者同士なところのある僕と小夜ちゃん。白い肌に音楽。きっと通じるものが多いから適合するのだ。
心臓の鳴動が、まるで小夜ちゃんが『生きて』と語り掛けてくるようだ。
遠くで誰かが泣いている。
遠くで誰かが鼻をすすっている。
「正太郎君――」美也子の声に顔を向けた。ハンカチが差し出されている。
はっとして、頬に手をやった。
僕だ。
泣いているのは、僕だった。
ほろほろと涙が零れた。
ぽとぽとと布団に染みを描いた。
じわじわとした想いが胸を締め付けた。
胸をかきむしるようにした。心臓の音が聴こえる。
小夜ちゃんの声が聴こえる。鼓動が、彼女の声となり、僕を勇気づける。
泣くな男の子。泣くな正ちゃん。正ちゃんは笑顔で演奏するのが似合うよ。わたしの分までピアノを弾いて。正ちゃんの音楽を聴かせて。正ちゃんだけの音楽を、声を紡いで!
正太郎は声にならない声で絶叫し、天に吠えた。
「――小夜子の分まで生きてとは言わない。それはただの重しにしかならないだろうから。それでもひとつだけ言わせて」
あの時の美也子の強いまなざしは忘れられない。
「はい。なんでも言ってください」
「小夜子のこと、忘れないでね」
――もちろんです。忘れろと言っても忘れません。
当たり前のことだ。それでも美也子はあえて口にして、正太郎の声で聴きたかったのではないか。そう答えると、嬉しそうに、安心したように、微笑んで、そして泣いた。あとから聞いたのは、小夜子の死後、一度も美也子が泣いてるところを見た人はいなかった。病院でも葬式でも。初めて、力を抜いて、小夜子を悼むことができたのかもしれない。
その泣き声がとても心地よく、とてもやさしい。慈愛というのはこういうことを言うのかな。
僕は、生きなきゃと思った。胸に手を当て鼓動を聴いた。強く波打った。小夜ちゃんの分まで生きると誓った。この強靭な心臓に。
「これ」美也子は緑のカードを正太郎に渡した。
臓器提供意思表示カードだ。署名には小夜子の名前が彼女の字で書かれていた。
涙で曇る目でじっとその名前を見つめた。そして、視線をちょっとだけ上にした。特記欄が目に飛び込んだ。
『心臓を、青井正太郎くんにだけ提供します』
臓器提供は基本的に相手を選べない。だが、今は親族に限り優先して提供できるようになっている。小夜子と正太郎は親族でもないので優先事項には当たらない。それでも。
「順番が正太郎君だった」
「もうすぐとは思ってましたが」
「そして適合条件に一番合った」
「ああ」
「珍しい血液型が、正太郎君の移植の壁だった。でも」
でも、それがゆえに小夜子の心臓との適合率は高くなった。二人の血液型であるRHマイナスのO型は七百人に一人くらいだ。順番的に問題なく、適合率が一番高く、効力はないが、本人の意思表示は正太郎にだけ提供するとなっている。コーディネーターが正太郎を選んでも不思議はない。やはり運命なのだ。
正太郎も臓器提供意思表示カードを持っている。
あれはなんの時だったかな。ふとそんな会話になったのを思い出した。
「僕はいつ死ぬかわからない。だからもし使えるなら臓器を使ってもらいたいんだ」そう言って正太郎は緑のカードを小夜子に見せた。
「こういうカードあるんだね」
「臓器だけでも、僕の代わりに生きてほしいなぁとか思ったりしてね。それにそれで長生きできる人がいるなら僕の産まれてきた意味もあるのかな」ごく軽い調子で言った。
「ばか」小夜子は俯いたまま言った。
顔を上げてもう一度口を開いた。
「私に出逢ったことが産まれてきた意味だよ。私は正ちゃんに出逢うために産まれた。そう思ってるもん」口をとがらせる小夜ちゃんが、とても輝いて見え、とても可愛いかった。僕は思わず両手を小夜ちゃんの首に巻き付けるように前から抱きしめた。
そうだ、意味のない生なんてない。この出逢いが何よりも証明している。これ以上に意味あることなんてない。正太郎は口元が緩み、笑みをこぼした。ありがと。小夜ちゃんの耳元で囁いた。
あ、吐息と共に小夜ちゃんの声が漏れた。えっち、という声が続いた。
慌てて離れて、ごめんと言った僕の顔はまさに火が出たように熱かった。どれだけ赤くなっていたことだろう。きっとキミの顔くらいに赤いのだろうなぁと小夜ちゃんの真っ赤な顔を見て思った。
「私もカード持とうっと」誤魔化すように小夜子は言った。「なんかあったら正ちゃんに提供するね」
「そんなこと言うな、ばか」嬉しく思いながらも、そんなことが起きる未来は想像したくなかった。
「ばかと言う人がばかなんですー」おどけて小夜子が言った。
「先に言ったの小夜ちゃんだよ」あげた足を取ってやった。
そっか。そうだった。てへ、と舌を出して笑った。
こんなにも鮮明にキミのことが思い浮かぶ。
僕は生きている。生かされている。キミに命を繋いでもらった。
僕は誓う。
キミの分まで命を、音楽を紡ぐよ。
キミの紡いだ声を僕が紡ぐよ。そして。
そして、僕は僕の声を紡ぐよ。
エピローグ
僕はプロのピアニストとして多くのコンサートを開き、いくつかのCDを出した。それはオリジナル曲であったり、クラシックだったりした。どれも、ピアノCDとしては異例の売り上げを記録した。テレビに出たこともあるし、特集が組まれたこともある。それは、きっと僕の演奏よりも僕の経歴というか、心臓が注目されたからだろう。それでもいい。
そうそれでいい。むしろ注目してほしい。心臓に。
そして移植にも。世界を少しでも変えられるなら僕は喜んでインタビューも取材も受ける。それが未来を産み出すことになる。命を繋ぐことになる。繋がれた命は新たな命を産み出したり、新たな芸術や何かしらかを産み出す。そのために僕は広告塔になるし、さらし者になってもいい。僕の生きる意味は、誰かの未来を繋ぐことだ。小夜ちゃんが僕の未来を繋いだように。そんなふうにいつからか思いピアノを弾き続けてきた。
多くの拍手に包まれながら今日も小夜ちゃんのことを思い出していた。
あの笑顔に会いたい。天に召されればまた会えるのかなと思いながら、でもすぐには隣に行かないよと心臓に誓った。思った以上に長いこと待たされている。迎えが来る気配はない。
青井正太郎。九十歳現役プロピアニスト。世界最高齢だ。
正太郎は胸に手を当てた。
強く鼓動する。本当に強い。
一緒に生きた月日がこれほどになるとは驚きだよ。まだまだ小夜ちゃんのところにはいけないなぁ。
小夜ちゃん。キミに聴かせたい曲をたくさん作ったよ。まだ増やせるかな。キミのところに行ったら、また一緒に弾こうね。
小夜ちゃんの最期の言葉が脳裏に響く。お互いを意識し、お互いを思い始めてからもお互い言えなかった言葉。
短い言葉なのに、ものすごく深く、ものすごく勇気を必要とした言葉。そして、ずっとどこかで求めていた言葉。もっと何度でも言ってほしかった。もっと何度でも言えばよかった。でも、たった一度だからこそ強く胸に刻まれている。
病室で弱り果てていた僕にアジア大会で金を獲ったと電話で告げた小夜ちゃん。どれだけ勇気づけられただろう。僕も冬の音楽を、四季の音楽を完成させようと強く思えた。
「約束だよ。正ちゃん、生きてね――」
生きてね、という突然の言葉になんとも言えなかった。急に何を言うんだろうと不思議だった。
でも、僕の途切れそうな命を繋ぎとめる言葉だった。
生きたい、と思った。そう願った。
小夜ちゃんの呼吸の音が聴こえた。小夜ちゃんの命のリズムを感じた。
「もちろん。小夜ちゃんもね」
「正ちゃん――」
最期の言葉が耳をくすぐった。何年たっても耳を澄ませば聴こえる。
キミの紡いだ声が冬の空に舞った。
「正ちゃん。大好きだよ。いついつまでも」
了