誰がと何が
教会の中高科でいま、マタイ福音書の、山上の説教のところを読んでいる。二月半ばまで、これをやっています。
右の頬を打たれたら、左の頬を、とか、幸いである、天国は彼らのものである、とか、格言にもなった、有名な言葉が出てくる辺り。
それに関連して、いじめの話をしました。起きるきっかけ、いじめをする人が、なぜやめられないのか、…構造のような? ものを。
こういう話は、中学、高校ぐらいになったら、人ごとではなくなってくる。自分がされなくても、知り合いや、知り合いの兄弟や姉妹がされたとか、相談されたとか、そういうのが出てくる。
教会に通う子供というのは、日本ではどうしても少数派になります。それだけの理由でいじめられる子もいるし、下手をすれば、社会人でもそれを理由にクビになったりする。さすがに、あからさまに、クリスチャンだからクビとは言わないけどね……。
私が知っているだけでも、クリスチャンが嫌いな担任に、何かとあげつらわれたり、ささいなことで立たされたりと、集中攻撃を受け続けた高校生がいます。クリスチャンだと知った途端、上司から、態度が悪いとか協調性がないとか言われ、クビになりかけた人もいます。
高校生の男の子は、あまりにあからさまだった為、クラスメートが抗議に行きました(良い友達持ったな…ホロリ)。
クビになりかけた人は、なんだか空気が変だと不安になり、親しくしていた別の上役の人に相談して。そちらから注意が行って、なんとかなったらしい。
しかし、怖いのは。その話を聞いた人が、
「被害者が悪い」
と言い出すことがあるところ。です。
信頼したい先生から、あざけられ、攻撃を受け続けた高校生や、真面目に働いていただけなのに、突然叱責を受け噂の的にされた人に、
もう既に十分傷ついている人に、「キリスト教なんか信じるから馬鹿なんだ」とか、「教会なんか行くからダメなんだ」とか言った挙げ句、「あんたが悪いんでしょ」「自業自得」と言う人が、必ずいる。
さらなるいじめが起きる。
そういう発言が出てくる土壌は何なのか。
「違ったところがあったから、被害者が悪い」と言っているわけですが。これは違う。
この二人は、ごく普通に学校に通い、ごく普通に仕事をしていました。
高校生は、多少、やんちゃはしたかもしれない。でも十五ぐらいの男の子なら、まあやるだろうな、という程度。寝坊して遅刻したり、友達と騒いでいて、授業開始の合図に気がつかなかったり、授業中、つい隣としゃべってしまったり。
もう一人の方は、真面目も真面目。日曜日こそ出勤ができなかったが、その分、他の日は決して休まなかったし、同僚の都合が悪い時には、積極的に仕事を代わりに引き受けていた。
それが突然、攻撃を受ける。それも、担任や、仕事の上司という、逆らいづらい、権力を持っている相手に。
パワハラ(パワー・ハラスメント)じゃん。と聞いた時に思った。
キリスト教とか教会がとか言ってるけど、それ、あんまり関係ない。単にきっかけになっただけで。起きていた出来事に関しては、
あいつ、気に入らない。で、立場を利用して、弱い立場の相手に嫌がらせをする、
パワハラ=いじめです。
これね。やっていた本人は、たいてい、「自覚がない」です。セクハラもそうなんですが。
ちょっと強く、なんか言ったかもしれないけど、とか、たいしたことないのに騒ぎやがって、ぐらいの感覚。
理由が単に、「気に入らない」という感情的なものだけなので、した側には、自覚がなかったりする。無意識にやってるんです。嫌がらせを。
意識してないから、何回も繰り返す。
やられた方は、たまったものじゃないんだけど。
そういう訳もあり、問題が発覚した場合も。一応、形だけは謝ったりしますが、後であれこれ愚痴をこぼしたりしますね……たいしたことないのに、騒がれた〜みたいに。自覚してないから。
で、被害者を直接知らない人とかが、え〜、かわいそう、みたいに言い出したり。被害者が悪い発言をしたりする。
あるいは、いじめに気づいていたが、見て見ぬふりをしていた人が、罪悪感から目をそらす為に言ってたり。(良くある。)
でも、パワハラをした人が、悪いことをした、という事実にかわりはない。
被害者が悪いから、いじめが正しいということには決してならない。
便乗して噂を流す真似をしたなら、やった人も悪いことをやったことになる。いじめに荷担したことになります。
……ちょっと脇道それた。戻ります。
***
話をしたのは中学生で、ここまで突っ込んだことは言わなかったのだが、
「誰が」正しいと、「何が」正しいは違う、と話した。
聖書の、「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい」のあの有名な箇所。
あれは、悪いことされても黙ってガマン。という意味ではない。誤解されやすいが。
二千年前のパレスチナで、右手の甲で、相手の右の頬を叩くのは、
「おまえ、バーカバーカ」
みたいな侮辱の意味があった。
された方は怒る。取っ組み合いのケンカになるのは当たり前。下手すりゃ怒涛の流血沙汰。
だいたい、こういうことする人は、頭に血が登っている。された方もかーっとなる。
で。
キリストが言ったのは、その辺りを踏まえた上でのユーモア混じりの発言。
「右の頬を打たれたら(おまえ、バーカバーカみたいに言われたら)、左の頬を向けてやりなさい(へっ、こっちを打つんなら、おまえがバーカになっちゃうぞと笑ってやんなさいよ)」
右手の甲で左の頬を打ったら、侮辱にならんのです。
それでも無理に右の頬を打とうとしたら、腕を変な風に曲げないとできません。
で、頭に血が登っている人というのは、そんなこと考えない。腕をねじって無理に当てようとするのは、ある程度、冷静な人がやることです。
戸惑います。
勢いがそこで、止まります。クールダウンのきっかけになります。
そうしたら、二人で解決策を考えなさいね。とキリストは言ってる訳です。
この箇所の直前に、「悪人に手向かうな」というのがありますが、これ、ちょっと日本語訳に問題ある。これは「悪さする人にからまれても、まともに相手するな」ぐらいの意味。「悪に悪で返すな」という。つまり、この辺りは、伝統的な日本語では、
「罪を憎んで人を憎まず」
です。
これに近いこと言ってます。
「悪さされたからって、悪さで返すな。泥沼になるよ? べつに、怒っても良いよ。でも、相手に怒りをぶつけるんじゃなく、同じことがまた起こらないように、解決策を考える方向でね」
当時の法律では、目には目を。が普通でした。かなり画期的です。
で、何が言いたいかと言うと。
いじめの構造は、「誰が」正しいと言い合うことで始まり、続く。
ということです。
「あいつが悪い」「私は悪くない」「〇〇さんが言ったから」「だって、みんなやってるし」
これ、全部、「誰が」正しいかを言う言葉です。
「あいつが悪い(私は正しい)」「私は悪くない(私は正しい)」「〇〇さんが言ったから(だから私は悪くない、私は正しい)」「だって、みんなやってるし(だから私は悪くない、私は正しい)」
自分が正しい側にいる。それだけを証明するために、言い続けます。場合によっては、さらにいじめを続けます。
でも、これ言っている人は、実は何も考えていません。
言ってさえいれば、「正しい」側にいられると思っているからです。手段と目的が一緒になっちゃってるので、何か考える余地もない。ただひたすら、言い続けさえすれば、平和なのです。
だから、「では、いじめをなくすにはどうしたら良いの?」「どうしたら、誰にとっても良い結果になりますか?」と問われると、黙ってしまいます。言い続けさえすれば「正しい」だったので、なに言ってんの? 状態。さらに問い掛けても、「誰かを責めたら良いじゃん」としか出て来ないのです。
これでは、標的が変わるだけで、いじめはなくなりません。
***
「何が」正しいか。「何をするのが」正しいか。
これを真面目に考えるのは、かなり大変です。
「誰が」正しいかは、責任を誰かに丸投げして、標的を責めていれば良い。楽です。
しかし、「何が」正しいか。「何をするのが」正しいか。では。
何があったのか、原因を調べ、事実を把握し、
自分自身の無意識に持っている偏見や怒りを見つめ、
怒りによるのではなく、忍耐を持って、お互いに、歩み寄る努力をする。
ことが。行われるからです。と言うか、……これ本来、当たり前のこととちゃうの。見知らぬ者同士で人間関係作るのに。
まあ、重要なことはシンプルなものです。
で、シンプルなことは実行が難しい。人間ってなあ……。
とりあえず。
何かあった時には、考えてみてください。
「誰が」正しい、「誰が」悪い、では、そこで頭が止まります。それしかないから。
「何が」正しいの?
「何をするのが」誰にとっても、良い結果になるの?
そのためには、「どうしたら」?
「私は何を」したら良い? 「何が」できる?
こういうことを。考えてほしい。
……とね。日曜日に話した。大急ぎで。時間なかったから。
中学生、どこまで理解してくれてるのかわかりませんが。少しはどこかに残ってりゃ良いな。
4時間かかったんですよ〜、渡すテキスト書くのにf^_^;
2013年 01月29日 活動報告より




