初登校
翌朝。
部屋に並ぶ空の瓶にも関わらず、高校生らしい見た目とはいえ明日野はピンピンとしていた。
と言うのも、彼は元々地獄において飲酒舞踏、賭博の俗に言う【飲む打つ買う】の放蕩三昧を推奨しているし、人達の間では贅沢を味わうことを奨励していると、古代の書には記されているし、コレには明日野自身もそうだろうと述べていた。
とはいえ、コレについては、本人は知らないと蠅野に語っている。
また、某所においてアスモデウス署名の書類も在るとされていたが、コレは本人は否定している。
端的に言えば【咲良以外の者など知らん】と述べていた。
気持ち悪いとトイレに駆け込んでいた蠅野などいざ知らず、洗面台の鏡で身形を正す。
「全く! それでも【暴食】の大罪を司る大悪魔の一人か!? なんてだらしがないんだ……地上暮らしで鈍ったか?……ともかく、ベルゼバブ! 俺様は先に行くからな? 後から来いよ!」
トイレからの呻きに関わらず、明日野は玄関を開けた。
タイミングを計った様に自分に手を振る咲良。 先ほどまでの勢いはどこへやら、明日野は借りてきた猫の様に肩をすくめて丸くなっていた。
「おはよう、明日野君」相も変わらず柔らかい咲良の挨拶に、明日野の目は左右に泳いでしまう。
「……えっと…あの……おはよう、ございます……高品さん…」
地獄の軍団が見たら、それこそ億を超える全員がその場ですっ転びそうな明日野の弱気な挨拶。
だが、そんな事には構わないのか、咲良はクスリと笑う。
「えー? そんなに他人行儀じゃなくてもいいのに…………」そう言うと、咲良はポンポンと明日野の肩を叩いた。
咲良の身長は役百六十五前後。
明日野の身長は百八十近いのだが、それでも、頭一つ小さい筈の咲良には明日野は頭があがらず、その顔を真っ赤に染めていた。
「結構結構、じゃあ学校行こうか?」そんな咲良の気軽な言葉に、明日野は「……はい……」とだけ蚊が鳴くような小さな声で答えていた。
そんな二人を訝しく理沙も見ていたが、どうにも弱気に見える明日野の姿から、フゥと溜め息を吐いていた。
さてとと、理沙も学校へ行こうかと思っていると、明日野のアパートからこれまた長身かつ精悍な青年が現れる。
彼は、周りをキョロキョロと見回しつつ、其処にいた理沙に目を付けた。
「すみません、この辺で変な若造……惚けた高校生を見ませんでしたか?」
眼鏡を掛けているとは言え、蠅野も明日野に負けない程に精悍な青年である。
理沙は少し頬を染めつつ、アッチと指差した。
「これはこれは…………どうもありがとうございました」それだけ言うと、蠅野は急いで咲良と明日野の二人を追った。
遠くなる作業服の青年をみつつ、理沙は少し呟いた。
「あの二人…………どんな関係なのかな?…………」と、そんな風に。
学校へと案内された明日野だが、意外にも彼自体も少し楽しみであった。
そもそも産まれは遥か昔であり、学校というモノが何なのかは知ってはいても、行ったことは無い。
「じゃ、私は此処で …………教室が同じだと良いよね?」咲良はそう言って、校門前で明日野と分かれた。
言われた少年はニヤニヤしながら彼女に手を振るのだが、元がそれなりの造形であるためか、実に絵になるのだ。
とは言え、そこら中から「あれ誰?」といったごく普通の疑問から「お前声を掛けろ」と言った特異なモノまで様々である。
とは言え、周りの女子が声を掛けるより早く、明日野の頭に鞄が振り下ろされた。
咲良との一件がなければ、容易く避けられる筈ではあるが、呆けた明日野の頭には鞄が直撃し、鈍い音を放った。
「…………おや、鞄はどうしましたか? 学生さん?」
片手に鞄を持ちつつ、グイッと眼鏡を上げる蠅野に、明日野は恨みがましい視線を向ける。
「野郎…………利いたぜ…………何の用だ? ベルゼバ……ぶっ!?」
もう一度、容赦なく明日野の頭に鞄が振り下ろされた。
蠅野は呆れた様な顔をしつつ、こめかみに青筋を立てた。
「此処では、 は え の です……蠅野……いい加減覚えてくださいよ?」そう言うと、蠅野は鞄を明日野に渡す。
「たく…………さて、一応挨拶だけ済ませませんと、私が上司からどやされますからね…………行きますよ? あ す の 君?」
そう言って歩く蠅野に、頭を自分で撫でながら明日野も続いた。
二人が通されたのは、校長室であり、真面目な蠅野と裏腹に明日野はつまらなそうにしていた。
そんな明日野の顔を見て、校長は首を傾げて頭を押さえた。
「所で…………明日野大君。 君とは初対面ではない気がするんだが…………どこかで会ったかな?」そう言う校長の顔を見て、明日野の顔は青くなる。
何故と言われても、明日野は彼の髪の毛が作り物だと知っているからだ。
「………いいえ、初めてお会いします、校長先生」そう言うと明日野はぎこちない作り笑いを浮かべた。
さてこれでと、蠅野は帰ろうとするのだが、振り向きざまに見てはいけないモノを見てしまう。
朦朧とした校長に対して、明日野は片手をヒラヒラさせながら欲しい情報を引き出していたのだ。
「高品咲良はどの教室か…………」そう言って、明日野が手をヒラヒラさせれば、ぼうっとした校長はブツブツと「……に、二年B組……」と、呟いてしまう。
蠅野が止めるよりも早く、明日野はこんな事を言う。
「俺を彼女と同じ教室する…………」そして、また悪魔の少年は手をヒラヒラとさせた。
「……あ、明日野君の教室は二年B組に編入……」まるで、というよりも確実に悪魔に操られながら校長はそんな事をブツブツと言っていた。
校長室を後にした二人だが、蠅野は明日野を壁に押し付けて詰め寄っていた。
「オイコラ? お前は遠い昔、遥か宇宙彼方の騎士とでも言うつもりか?」そう言う蠅野に、明日野は首を傾げた。 「お前は何を言ってるんだ? 俺は蠅騎士団には入っていないぞ?」そんな事を宣う少年に、蠅野は、酷いジェネレーションギャップに陥っていた。
特段語るに値しない事だが、明日野は本来大悪魔であり、人や天に仇なす存在である。
咲良には恋を抱き、彼女の為なら他の事は基本的にどうでも良く、咲良を護るためなら天使の軍団丸ごと一人で相手にする事も辞さない程である。
そう言った心意気を明日野が語ると、蠅野は長い長いため息を吐いた。
「…………まぁいいです。 お願いしますから彼女の為にも普通の人らしく行動してくださいね?」
咲良の為。 そう言えば明日野はあっさりと首を縦に振る。
しかも腰に両手を当てて如何にも自信たっぷりと。
「勿論だよ蠅野君! 少しはこの…………健全な少年を信用してくれたまえ!」
そう豪語する明日野だが、蠅野からしてみれば微塵も信用に足りない。
そもそも過去にも簡単に捕まった事が在ってか、あまり目の前の少年は信用に足りないのだ。
だが、一応は同族と言うこともあってか、必死に頭を回転させて対抗策を考えていた。
「明日野…………良いか? 彼女をモノにしたいなら、少しは頑張って健全な高校生に成ってくださいね? 魔法とか能力に頼っては駄目ですから」
蠅野がそう言うと、明日野は意外だという顔を浮かべる。
「何を言う? 俺が彼女にそんな事をするとでも?」少年はそう言うが、事実悪魔としての力を過去のサラにも、現代の咲良にも使ってはいない。
過去千年。 悪魔達の間でも議論に成るほどの謎であった。
下級悪魔ですら平然と使う手段を、大悪魔アスモデウスは用いない。
ソレについては、地獄において、賭の対象にすら成るほどに。
「聞いても良いですか? 何故力を使わないんです? 貴方ほどの力をもってすれば彼女を手中に収めるなど容易い筈…………」
そう言う蠅野に、鞄片手に明日野は振り返る。
「何故? むしろ聞きたいね? 好きなら自力で振り向いてほしいからに決まってるだろ?」そう言うと明日野は教室へ向かう。
長らく謎であったが、蠅野には理由が分かった。
ベルフェゴール辺りはくだらないとこき下ろすだろうが、彼、アスモデウスが咲良に抱いているのは彼の司る【色欲】ではなく純粋な【恋】なのだと。
その頃。
ホームルームの途中ではあるが、教師は受け持つ生徒に新しく転校生が来ることをお知らせしていた。
「えー、皆さん。 突然なのですが、転校生が一人来ました。 では、どうぞ」
教師の言葉を合図に、少年が教師へと足を踏み入れる。
不敵に笑う少年は、少し顎を引いて口を開いた。
「どうも、今度転校して来た明日野大と言う者だ。 宜しく!」
朝見た気弱な少年の姿に、咲良は柔らかい笑みを浮かべ、自信たっぷりな長身の少年に、教室の女子達は少しオオッと声を上げた。