過去との決別
歴史教師兼、生徒を護るべく戦う独りの天使は、かつての上司に、我が目を疑う。
超越的な感覚を持つ天使ですら、相手の出方を見越すという事は、実のところ不可能である。
未来は不変ではなく、無限に広がるからこそ、その可能性全てを見通す事が出来る者が居るとすれば、それは、彼等の支配者だった神程度の者だろう。
それはともかくと、ラファエルの横には、別の者に抱えられるぐったりとなった高校生程の少女。
ウンと呻き、目を凝らす理沙は、ハッと目を開いた。
「お姉ちゃん!?」
思わず、素っ頓狂な声を上げる理沙だが、間違いはなく、半分悪魔の少女の目には、自身の姉が映っていた。
『どういうおつもりか!! それが神のお導きだとでも云うのですか!!』
理沙を庇う様に、歴史教師も立つが、本来人には聞こえない筈の声も、今の理沙には、しっかりと届いている。
だが、自分を見上げる視線に、ラファエルは笑う口を指先で抑えた。
「お導き引きかどうかは、別にどうでも良いんだけどね……でもほら、咲良はね……聖人候補とでも云うべき素晴らしい人だから……ねぇ?」
咎める様でもなく、嘲笑う様子もないが、ラファエルの声は、実に嬉しそうに高ぶる。
【聖人】という言葉に、咲良の妹の理沙は首を傾げるが、彼女の前に立つ女天使は、ムッと眉を潜めた。
確かに、歴史上記される聖人は多いが、反面、その全ては、個人が故人である。
中には、本来の意味とは違う位置付けにされていた者が居るとして、ソレとは別に、わざわざ熾天使が迎えに来ること自体、異例中の異例な話であろう。
本当に、咲良が聖人成れば、国一つ作り替えるだけの人物足り得る。
過去、旗一つで国を立ち向かわせた女性も居たが、その最後は、特に悲惨にて目も当てられない。
『その人をどうするおつもりか!?』ギリギリと歯を成らし、いよいよ、歴史教師はその羽を遺憾なく発揮し、空にフワリと浮き上がる。
ガブリエル同様、少ないながらも居る、天使らしい天使からすれば、同胞が行おうとしている事など、止めない訳には行かない。
だが、問題なのは、熾天使と違い、能天使では、抗うということ自体無理がある。
走り寄る戦車に、人間が立ち塞がったとて、平然と踏み潰される様に、歴史教師に向かって、ラファエルは、フッと息を吹いた。
驚愕に歪む女教師の顔から、彼女愛用の眼鏡が飛び散り、本人もまた、弾丸の様に飛ばされた。
凄まじい勢いにて、駐車場の車に叩きつけられる女天使に、理沙は胸の子猫を抱えながら、ただ震える。
実力が違うなどという話ではない。
戦うというのも無理であり、ふと、自分を見下ろすラファエルの金色の瞳に、理沙は、蛇に睨まれた蛙の如く動けなかった。
だが、そんな少女の腕から、スルッと子猫は抜け出し、全身の毛を逆立てる。
『理沙のお嬢を、護ってくれと旦那から云われて居るんでね』
無知の蛮勇とでも言わんばかりの子猫ではあるが、理沙もまた、半分自分と同じ世界に足を置いている。
だからこそ、飼い主から与えられた新たな姿を、子猫は御披露目するべく片目を赤々と輝かせた。
理沙の目の前で、いつしか見たのと同じく、子猫を黒色の霧が取り巻き、段々とソレは膨らみ、人の姿にも似た形へと変わっていく。
黒い霧が晴れる。
其処には、咲良と同じ程度の年齢にして、実に際どい格好の茶色い髪を持つ女性が居た。
理沙は首を傾げ、「え? 牝だったの?」と、場違いな質問を漏らす。
『今更ですか? まぁ、それは、後にしときやしょう……』
若干足を滑らせつつも、元子猫は、首を振ってラファエルを睨んだ。
アスモデウスの使い魔如きでは、どうにも成らないと、混乱を引き起こした熾天使は、フフンと不敵に笑い、ソッと眠る咲良に視線を向けた。
それを合図にか、ラファエルに仕える天使は、静かに眠る咲良を、ソッと地面に横たえる。
丁度その頃、理沙の通う中学校へと、バイクのマフラーから吐き出される爆音が轟いた。
横向に急停車するバイクから、相乗りしていた少年は飛ばされるが、彼は構わず、クルリと体勢を整え、僅かに地面を擦りながら着地。
そんな彼に、「……やっと来たよ……」と、理沙は安堵の息を吐きながら正直な意見を呈した。
睨み合うかつての上司と部下。
片方の少年は、黒髪ながらも、目を赤々と輝かせ、校舎の天辺から、足をぶらつかせながらに金髪の髪に瞳を金に輝かせる。
『聞いて置こうか………昔の事は良い……過ぎた事だからな…で? 今になって…何の為だ?』
普段とは、かけ離れた低い声でそう言う明日野に、ラファエルもまた、微笑むと口を開く。
『もはや此まで………では、正直に云いましょう……私もね…惚れてたんですよ……サラにね……』
そんなラファエルの声に、明日野は、首をゴキリと鳴らす。
『であれば……正々堂々とやるのが、男と云うものだろう?』
そう言う明日野の体からは、静かに黒い霧が漏れ出る。
それを見たのと同時に、ラファエルは、ふぅんと唸った。
『お互い様でしょう……私だって、出来ればね……でも、天使と人間じゃ無理なんです……ただの人形なんて意味ないでしょう?……でも、今の彼女は、聖人……天使とだって釣り合えるだけのお人です』
意外なラファエルの本音に、明日野は僅かに眉を潜めるが、直ぐに、首を横へ振った。
『……マルコシアスをけしかけたのはお前か……昔っから……狡い奴め……』
そんな明日野が、本気の姿を出そうかどうかと云うとき、ラファエルにポンと叩かれた咲良は、目を覚ます。
ウゥンと鼻を鳴らす女子高生は、全く状況が飲み込めない。
なにせ、自分を優しく見守る人物に心当たりは無く、不意に首を回しても、なんとなくしか、分からない。
「えーと………」何を云うべきか、悩む咲良。
そんな彼女に、ラファエルは、ソッと足の下を指差す。
校舎の天辺からは、恐る恐る顔を覗かせる咲良。
「……明日野君?……」
そう言う咲良の声に、少年は、眉を寄せた。
困り顔の咲良に関わらず、サッと背中に四枚の白く輝く羽を顕現させるラファエルだが、軽部と同じく、彼の頭の上にも、幾何学的模様に近い輪が、スゥッと浮かび上がる。
『さ、どうするアスモデウス? 過去と同じく、また負けるのか?』
重力など無視して、サッと立ち上がるラファエルは、両腕を開きながらそう言う。
此処に来て、在る意味天使らしく、平等な勝負だと言わんばかりに、熾天使の声は軽い。
そんな過去の同僚に、剥き出しだ歯をギリギリと言わせながら、明日野はラファエルを睨んでいた。
『他の馬鹿にも……きっちりと云ったはずだぞ、天使よ……チンケな脅しにびびっている様では、大悪魔の示しが付かんとな……お前ら如き羽虫が、どんな汚い手を用いようとも、俺様には無意味だ……』
【聖人】は、生きて居れば普通の人と大差は無い。
勿論、国一つに大きな影響を与える場合も在るが、多くの場合、死後の話しである。
だからこそ、明日野に躊躇いは無い。
理沙が止めるよりも早く、少年は自らの身体から吹き出した黒い霧に包まれ、七大悪魔が一つ、【色欲のアスモデウス】が、その本来の姿を現していた。




