闇に輝く光
長い間の姉妹生活に慣れているからか、咲良の家事の腕前は、その辺の奥様方とほぼ同じか、平均以上である。
だからこそ、彼女の作る料理に関して言えば、問題ないのだが、それを食べる理沙の顔は、固まっていた。
ぼうっと、箸を咥える妹に、流石のおっとり姉さんも、眉が寄る。
「理沙…………なんか変だった?」心配そうな姉の声に、はっと成る妹は、直ぐに、首をブンブンと横へ振り、「いいえ、何時もながら美味しいです!」と、ありきたりな感想を漏らす。
箸を進める妹に、やっとの事でホッとしたのか、咲良もまた、自らも箸を進めるのだが、彼女の妹の箸が進まなかったのには、一応の理由があった。
二人の食卓の横では、本日のニュースや、明日の天気を伝える陽気なキャスターが居る訳だが、そのお姉さんはというと、咲良から見れば、普通に居そうな人だが、理沙から見れば、画面に映るお姉さんのおでこから、生える二本の立派な角が見え、オマケに、背中の方では、左右に揺れ動く尻尾までが、しっかりと見えていた。
その日の深夜、食事もお風呂もすっかり終え、眠る筈の理沙は、姉が寝静まったのを確認し、ソッと布団から抜け出し、そのまま、アパートの部屋の外へと忍び足で抜け出ていた。
「……はぁ……」錆びた手すりに、体を預けつつ、理沙はため息を吐く。
空に輝く月さえも、違って見えたらどうしようかとも想ったが、少女の心配を余所に、夜空の月は、まん丸に輝く。
「……ふぅ……」それを見て、理沙は、安堵の息を吐いていた。
ふと、横に近づく気配に、ハタと顔を上げる理沙は、柔らかく笑う隣人、蠅野と、目が合っていた。
「……今晩は…高品さん…」そう言って、差し出されるペットボトルを、理沙は、思わず、「あ、ありがとうございます……蠅野さん…」と、恐る恐る受け取る。
柔らかい笑みの蠅野ではあるが、やはり、彼からも、明日野と同様に立ち上る何かが見えており、其れを見た理沙は、思わず、口を噤み、鼻から深い息を吐いてしまう。
そんな少女の憂鬱そうな顔に、蠅野は、掛けている眼鏡を、クイッと上げた。
「駄目ですよ…………若い女の子が、そんなに溜め息ばかり吐いてちゃ…………せっかくの可愛さが、飛んでいってしまう………」
蠅野の優しい言葉に、理沙は、彼から立ち上る【何か】を無視して、満更でもないのか、頬を僅かに染めた。
お隣さんという関係も在り、理沙は、思わず、共に月見をしている蠅野の顔を見詰めると、口を開いた。
「蠅野さん…………聞いても良いですか?」少女の神妙な声に、眼鏡の青年は、コクリと首を縦に振り、「…………どうぞ?」と、理沙の質問を許してくれた。
僅かに、唾を飲み込み、急ぎ何を聞くべきか考える理沙。
だが、直ぐに蠅野の顔を見つめる。
「正直に言います……蠅野さんからも、変なモノが見えてます…………それだけじゃない………町の人達も、テレビのオネーサンも……それに…………明日野からも…………アイツの正体は、知ってます…………でも、どうしてですか?」
そんな、理沙の声に、今度は、蠅野がため息を吐いていた。
「あー………馬鹿ですからねぇ……昔っから…ホントはね? いけないんですよ? …でも、深く聞かないのであれば、余りお気になさらない方が、楽ですし、それでも……もっと聞きたいですか?」
そういう蠅野の顔は、笑っておらず、至極真面目であり、そんな蠅野に、理沙は、しっかりと頷いて見せていた。
少女の頷きを飲んだ大悪魔は、鼻から深く息を吸い込むと、徐に、それを、深く長く吐いた。
「では、正直に云いましょう……高品理沙……今の貴女は、半分悪魔擬きです……私は勿論、大将にも……それどころか、周りの屑天使にも、貴女の姿は、前とは違って見えますから………」
淡々と語る蠅野だが、理沙は、驚くよりも、【やっぱり】と、自分に納得させていた。
隣の少女が、あまり驚かないのに対して、蠅野は、僅かに眼鏡に隠された目を見開く。
「……失礼……あまり、驚かれては居ない様ですが?」
心配そうな蠅野に、理沙は、少しはにかむ様に笑うも、遠くを見た。
「あ、いえ…………そりゃあ…………多少驚きもしました……けど……」
意味深な理沙の声に、蠅野は、ふと、眉を上げた。
「…………けど?」と、催促する蠅野の声に、理沙は、僅かに微笑むと、スッと隣の青年を見た。
「ずっと……ずっと……つまんなかった……今の今まで、何もかもですよ? 毎日学校行って……いつかは卒業して、高校行って………大学は、無理そうだし…………仕事して、毎日毎日………グルグル同じ日が続くんだって……そう思ってた…………けど、今は、違うんです。 なんて云えば良いか、やっとの事で、楽しく成ってきたんです!」
そう語る少女は、両腕をバッと開く。
「何にも無かった私に…………あの馬鹿悪魔は、こんなに楽しい贈り物をくれました。 まだ、何にも始まってないけど……でも、やっと変わり始めたんです!」
実に楽しげな少女に、明日野と同じく、本性は大悪魔の青年は、眉を上げて笑う。
「良いんですかねぇ……それで………普通は、嫌がるでしょ? 悪魔に取り憑かれたって………昔っから、私達は、何処へ行っても嫌われ者……でしたから…………」
どこか寂しげに、空に孤独に輝く月を見ながら、蠅野は、感慨深く語る。
そんな青年に、理沙が、眉をひそめた。
「いんですか…………そんな事、私に教えても…………」
訝しむ様な理沙の声に、蠅野は、僅かに、フフンと鼻を鳴らす。
「良いも何も…………ホントは駄目に決まってますよ…………でも、私達って、天国から放り出された半端者ですからね………正直、天界のルールなんて、みんな………覚えてや居ません……無論、私もね………」
僅かに沈む蠅野の声に、気を良くした理沙は、甘える子猫の様に、身を寄せた。
悪気が在るか、と、問われれば、勿論在る。
曲がりなりにも、在る程度は気にしていた青年が、近くに居るのであればと、少女は、茶目っ気と、悪戯心を、擽られ、我知らず、【己が願望】に、流されつつあった。
「なんで、そんなに悲観的なんですか? あの馬鹿のぉ………本体は見ちゃいましたけどぉ……蠅野さんだってぇ……」
思わず、軽い口調の媚びが出る理沙だが、ふと、蠅野は、甘え口調の少女に目を合わせると、一気に目を赤々と輝かせた。
【七大悪魔】が一つ、【暴食のベルゼバブ】は、半人半魔の少女に、遠慮の無い殺気を浴びせる。
そして、殺気を浴びせられた理沙は、在ることを忘れている。
確かに、前に一度、【本気のアスモデウス】を見ては、居る。
加えて、熾天使と、大悪魔の対峙もだ。
しかしながら、それら二つは、どちらも、盾に成る者が居てくれた。
マルコシアスとの対決の際、アスモデウスは、背後に庇う少女の為に、力の一部を、彼女を護るために惜しげもなく注ぎ、ガブリエルとの対決の際にも、同じく大悪魔のベルフェゴールが、少女の盾に成っていた。
しかしながら、今は、盾がない。
だからこそ、理沙は、雑念を吹き飛ばされ、腰をペタンとその場に落としてしまう。
数秒間、理沙は、何処へ魂を飛ばされたかの如く、動かない。
すぐ後、いつもの落ち着きを取り戻した蠅野は、理沙を引き起こし、起こされた少女は、ハッと成ると、恐る恐る蠅野を見ていた。
「……失礼……今のは、ほんの挨拶なんですよ? ……でも……そんなモノでも、馬鹿に出来ます?」
地獄の底から響く様な低い蠅野の声に、手のペットボトルを取り落とした少女は、一歩下がってしまう。
そんな反応を見てか、蠅野は、悲しげに空へと視線を戻した。
「今の……高品さんの反応が……普通なんです。 でも、お願いですから……あんまり彼奴をバカにしないであげてください…………」
サッと、少女へと視線を戻した蠅野は、地上に手でから会得した奥義、【お辞儀】を繰り出し、腰を九十度折り、ぺこりと頭を下げていた。
蠅野からすれば、ほんの少しだけ、怒っただけである。
如何に、醜態を晒していたとて、アスモデウスは、彼の兄弟分であり、大切な同胞。
そんな彼を、年端も行かない隣人から、バカバカ連呼されたからか、蠅野は、ほんの僅かに、【ベルゼバブ】として怒った。
とは言え、本人からすれば、極僅かに睨みを利かせただけの話である。
だが、半分悪魔の少女は、心底心から怯えていた。
歯をカチカチと鳴らし、自分を見る理沙に、蠅野は、【大人げなさすぎ】と、自分を窘めていた。
やり過ぎどころの話ではない。
もし、理沙が生身の人間であれば、次の日には、【中学生の少女、心肺停止】というニュースが、僅かにテレビを賑わせただろう。
だが、それは、アスモデウスからの贈り物が、辛くも防いでくれていた。
唾を飲み込み、途方に暮れる理沙。
だが、持ち前の冒険心は、少女を鼓舞する。
「……すみませんでした……」そう言う少女もまた、ぺこりと、頭を下げる青年に、自分もまた、頭を下げる事で返事としていた。
なんとも言えない会談から、理沙は、跳ねる心臓を抑えながら、布団に静かに戻っていた。
隣の青年ですら、未だに底が見えず、その隣の少年もまた、然り。
今はまだ、何もかもが新鮮であり、少女は、これから始まるであろう未来に、思わず夢を馳せるが、問題が在る。
ガバッと身を起こす理沙は、窓に張り付く影に、目を細めた。
静かに、ソッと窓に寄ると、少女は、窓の鍵を外し、一気に窓を開く訳だが、其処には、大の字に固まる隣人たる少年が居た。
友のフォローも虚しく、気まずい空気に、明日野の顔が、酷く空々しい笑みを浮かべる。
「や、やぁ…………高品理沙さん………」
「すみません………此処、ドアじゃなく窓なんですけど?」
とってつけた挨拶の明日野に、理沙は、律儀に返事を返す。
汗を、滝の様に流し始める少年に、少女は、酷く頬を釣り上げていた。
「で? 何の御用でしょうか?」と、そう言う理沙の声に、明日野は、キリッとした顔を造ると、少女の目を見て、「………つ、月が、綺麗ですね? で、あの、お月見にでもと……」と、本来であれば、明日野は絶対に云ってはいけない【言い訳】を吐いていた。
無論、すぐ後、窓から中学生に蹴り落とされる大悪魔。
だが、蹴り落とした理沙は、学業が余り好きではないのか、少年がとっさに云った一言、【月が綺麗】の意味を、知らず、ついでに、明日野もまた、咄嗟だったからか、自分の言葉の意味を、思い出すことは無かった。




