静かなアパート
軽部の怒りを、遠くから見詰める影ではあるが、その顔は、フードに隠され、殆ど伺い知れない。
それでも、薄く笑う唇だけは、面に出していた。
「ガブリエル………相変わらず、短気だねぇ………そんなのだから………誰からも忘れられる………悲しい話だよね…………」
そう言うと、フードで顔を隠した人物は、徒歩で逃げる様に闇の中へと入っていった。
さて、人気バンドのコンサートに来て、オマケにサイン迄も頂いたからか、すっかりホクホク顔の理沙ではあるが、ふと、気付いた事もある。
目に映る視界には、変化が在った。
ぼやけたといった、何らかの病気ではなく、視界に映る明日野と、彼と別れをつげ合うバンドの面々には、立ち上る様な陽炎が見える。
思わず、自身の視線を姉に向けるが、「どしたの? 理沙?」と、あっからかんと返されるのみであり、急ぎ振り返るが、やはりというべきか、明日野から立ち上る煙にも似た何らかの陽炎が、やけに眩しかった。
コンサートの帰り道、相も変わらず、辿々しい明日野と、彼を柔らかい態度で接する二人の後に続きながら、理沙は、怖々と周りを見ていた。
少女の目に映る世界の変化は、顕著であった。
時折、角が生えた通行人も居れば、やたらと派手な服装の女性の露わな背から、小さな蝙蝠羽すら見える。
ソッと、そんな妖艶な女性と目が合った際、理沙は、妖しく笑う女性に、目を反らす。
おかしいどころの話ではない。
先程よりも、明日野の背に隠れる様に近づき、やはり、周りを確認する。
今度は、筋骨隆々の厳めしい男性をふと見るが、アロハシャツに、白色のパンツを組み合わせている彼の頭には、うっすらと浮かぶ光の輪が見えた。
「……あ、あの…それで……さ、咲良…えぇと…アイツらから、なんか云われた………かな?…」
「うん? んー…………そうだねぇ…………明日野くんを……宜しくって…」
実にいい感じな二人とは違い、二人の後ろに続く理沙は、戦々恐々であった。
そうこうしている内に、一行は、自宅たる安アパートへと辿り着いた訳である。
「じゃあ…………これで…………」そんな風に、本日の別れを告げんとした咲良だが、そんな姉を、理沙は、やんわりと押しのけた。
「ごっめん……お姉ちゃん……少し、明日野さんとお話が…………」
唐突に、そんな事を呟く妹に、咲良は、首を傾げた。
「まぁ……良いけど、晩御飯作るから、早めにね?」と、あっさりと咲良は妹に許可を出していた。
明日野と共に、部屋へと入る咲良を、見送る理沙ではあるが、二人は、同じ様に、実に爽やかに笑う。
パタンと、咲良がドアを閉じると同時に、明日野と理沙も、実に真面目な顔を取ると、パッと合い向かいに立つ。
「で? 話はなんなのだ…………」明日野からすれば、この後ゆったりと夜のストーキングに移ろうかと云うところにも関わらず、その妹はと云えば、眉を寄せて険しい顔を浮かべていた。
「聞いて…………なんかさ、変なものが見えるんだけど?」
落ち着いた理沙の声に、明日野は、暫くの間、腕を組んでいた。
僅か十秒足らずでも、理沙は、苛々と目の前の長身の少年を睨む。
そのすぐ後、ハッと成った明日野は、ポンと手を叩いた。
「あぁ! そうだ………だいぶ前だったか…………今と同じ事が在ってな?」
そんな言葉と共に、明日野からは、アスモデウスだった頃の昔話が始まる。
概要に関して云えば、何も難しい話ではなく、偶々、死にかけた男性を発見したアスモデウスではあるが、その際、愛しの人を浚われた男性に対して、アスモデウスは、ほんのちょっぴり、力を貸していた。
結果から云えば、その男性は、愛する伴侶を助け出し、ついでにアスモデウスに感謝を捧げていたと、そんな話である。
「……で?……」と、実に冷たい理沙の反応に、今度は明日野の方が、眉間に皺が寄っていた。
「聞いていなかったのか? …………だからな、俺様はその男を助け…………結果として、アイツの彼女も助かった…………万々歳ではないのか?」
そういう少年ではあるが、そんな彼が纏うシャツを掴んで、理沙は、顔を寄せさせる。
「むかーしむかし…………を、聞きたいんじゃないの…………私の目に映る異様はなんなのかと…………それが聴きたいんだけど? アスモデウス様?」
理沙の静かな怒りに触れたからか、やっとの事で、明日野の頭には、見えない電球が浮かんでいた。
「あぁ…………なに、ちょっと…………な?」そういう少年を、中学生の少女は、ブンブンと彼を振った。
「な?…………じゃあないでしょ? その理由を教えて頂きたいのですが?」
言葉こそ優しいが、やはり、少年を振る理沙の力は強い。
傍目には、どう見ても頭一つ小さい筈の理沙。
それでも、彼女の膂力は、通常のソレではない。
どれだけ明日野を振っても、一向に疲れないからか、理沙は、ハタと己の変化に気付いていた。
そんな時、いい加減不憫に思ったのだろう。
いつもであれば、理沙の脚の周りを、喉をゴロゴロ言わせながら身体を、ゴシゴシと擦り付ける子猫が、現れていた。
『……まぁまぁまぁ……理沙のお嬢……此処は、あっしに免じて旦那を許してやってくんなせぇ………』
いつもであれば、【ニャアニャア】としか聞こえない筈の子猫の声に、理沙は、目を見開いていた。
『お? あれ…………にゃんか、まずかったかにゃ?』そんな声と共に、子猫は理沙を見上げる。
バッと顔を明日野に向ける理沙だが、そんな彼女の視線に晒された明日野は、そっぽを向いて口笛を吹く。
明日野の異変に気付いた理沙は、思わず、歯を剥いて笑った。
「ねぇ……明日野君………」
場が場で在れば、実に意味深な理沙の声色だが、それを聞いた少年は、汗を滝のように流した。
「な、何かな………高品さん?」
慌てふためく明日野もまた、在る意味、告白を迫られて困る少年の様でも在るのだが、この場の場合、意味が違う。
「どういう事かな…………コレ?」そう言う理沙は、片手で明日野を捕まえつつ、片手の指先を、同じく困った様な子猫へと向けるが、彼女の顔は、前髪に隠されても分かるほどに、片目が薄赤く光っていた。
少年が、大変に困っている中、彼の意中の相手はと言えば、鼻歌混じりに、晩御飯作りに勤しむ。
バンドのコンサートの後だからか、彼等が奏でた曲を口ずさむ咲良は、明日野が居ない間の事を思い出し、嬉しそうに微笑んでいた。
咲良のご機嫌な理由だが、明日野の変化にある。
よそよそしさは、未だに残るが、それでも、必死な明日野の言動について、咲良は、【まだまだ】と心の中で窘める。
そんな事を少し考える咲良だが、在る感覚に疑問を感じた。
ずっと昔、何処かも分からない程に、懐かしさすら感じる不思議な感覚。
それがなんなのかは、咲良には分からないが、それでも、胸にこみ上げる暖かさは、実に心地よかった。
と、そんな風に、咲良のちょっと暖かい時間の中に、侵入者は現れる。
若干、苛立ち気味にドアを開け放つ理沙。
そんな妹を見て、姉は、困った様に眉を寄せた。
「こぉら…………建て付け悪いんだから、丁寧にね?」そんな咲良の声に、理沙は、「はぁい…………お姉さま」と、頬を膨らませながら答えた。
高品姉妹が、穏やかな夕餉を送る頃、二つ向こうの部屋では、独りの少年が、彼の名の通り大の字にて、寝ころんでいた。
無論、投げやりという訳ではなく、彼は、白く目を剥いている。
そんな彼の、僅かに上下している腹のうえでは、子猫が、すまなそうに飼い主の胸をポンポンと肉球で叩いた。
『にゃんか…………すいやせん、旦那…………あっしが、どうも余計な事を云ったばかりに…………』
そう言う子猫の声は、明日野にしか聞こえない。
無論、理沙が居れば話は違うのだが、生憎と、理沙もまた、【今は】其処まで耳がよくはない。
子猫の謝罪に、飼い主は、深くため息を漏らす。
「よい…………コレは、俺様が撒いた種なのだからな…………」そう言うと、明日野は、頭だけを上げ、猫に視線を合わせ、「ところで………お前……その口振り、何とかならんのか?」と、苦言を呈する。
飼い主の声に、子猫は、後ろ足で耳の裏を掻いた。
『いやぁ…………そう、云われやしても………』子猫は、明日野の部屋に平積みに、されている本を、前足で指し示し、『旦那が持ってきた教材が………あれでやしたから…………』と、耳をピコピコ動かした。
さて、そう言う子猫が示した【教材】、それは、何故か昔の任侠小説であった。




