愛しのあの子
さて、詫びも済んだこと事として、大悪魔が何処にいるのか。
アスモデウスがいる場所。
その建物にはかなり小さい文字で【強欲】と書かれ、その下にはワザとデカい看板に【ニコニコ信用金庫】とある。
そう、アスモデウスは古い古い馴染みにお金を借りに来ていたのだ。
いくら大悪魔といえども、彼は無一文である。
地獄の領地に戻ればそれこそ唸るほどの金持ちだが、生憎と地上では地獄の通貨は使えない。
その為、誰かに借りる必要が在ったのだが、そこで、アスモデウスは、古い馴染みを頼った訳である。
「アスモデウス君……確かに私と君の仲ではあるが、融資するにはそれなりの担保が必要なのだよ? 此処は地上で、加えて、わ た し の銀行なのだから…………」
ドカッと革張りのソファに腰掛けるのは、地獄に在っては万魔殿の制作者にして大富豪。
地上に在っては銀行頭取兼、吝嗇の大魔神にして【強欲】を司る大悪魔の一人、マモンその人である。
金縁のサングラスを、グイと上げるのは、壮年の男性姿のマモンであり、大悪魔同士が相手とはいえ、アスモデウスは、大仰な革椅子とは反対に、安物のパイプ椅子に腰掛けながら、何とかお金を借りようと努力に努めていた。
「いやぁ、まぁ、そうなんすけど…………其処を、何とか、曲げてこの通りお願いします!」
もはや、恥も外分もかなぐり捨てて、アスモデウスは頭を下げる。
蠅野の協力もあり、半ば無理やり離島から転校生という名目で、咲良の居る学校へと配属の段取りは付けたのだが、如何せん、未だ住む場所はおろか、財布は勿論、アスモデウスは、一文も持っていなかった。
咲良と為にと、アスモデウスが蠅野に「お金貸して」と要求したら、流石の蠅野も若干ブチ切れたらしく、彼はアスモデウスを百メートルは蹴り飛ばしていた。
それぐらい自分で用意しろと言われ、紹介されたのは悪魔が運営するなかなかの信用金庫であった。
此処で問題なのは、アスモデウスは担保が無いという点だろう。
咄嗟に思い付き、地獄の物件ではと申し出たが、それはマモンに却下された。
物件担保としては文句が無いが、此処は地上である為に担保には成らないと言われてしまう。
ヌゥと、呻く大悪魔アスモデウスに、大魔神マモンも、銀行取締役として一歩も引くつもりは無かった。 とは言え、マモンは鼻からため息を漏らす。
「…………しかしながら、ソロモンの一件では私の友人が君に借りが在るようですし…………仕方ない、当座の資金として十五万ほど御融資しますよ…………」
実際問題として、学校の制服は当座の家賃を入れると、マモンが提示した額はギリギリのラインである。 だが、それでもアスモデウスは「忝い」と頭を下げていた。
ウキウキと封筒片手に銀行を出るアスモデウス。
さて、学校の制服とやらを買いに行こうかと思っていると、後ろから女性の叫びが響いた。
「ど! ドロボー!! 誰か捕まえてー!」
声の先から走って来るのは覆面で顔を隠した人間。
アスモデウスは首を傾げたが、その犯人の襟首をグイッと掴んだ。
バネ仕掛けの如く犯人の足は持ち上がり、バタンとそのまま倒れ込む。
アスモデウスからすれば、犯罪者を捕まえようとしたのではなく、単に学生服を買える場所を聞こうとしただけのはなしであった。
あっさりと犯人逮捕に協力したのもあってか、女性からはペコペコと頭を下げられ、悪魔の癖に人助けも案外悪くないモノだとアスモデウスは思っていた。
ふと思い付き、「学生服が買える場所は知らないか?」と助けた女性に訪ねると、なんとその女性が勤めているのが目的の店であり、渡りに船とはこの事かと、アスモデウスはウンウンと頷いた、
人をたぶからす筈の大魔神。
そんな彼もおりしも偶然から格安で学生服を入手すると、その場にてビシッと着替える。
古臭い衣服は店主が買い取ると言うので、どうぞと渡すと五千円ほど帰ってきた。
ホクホク顔のアスモデウスを余所に、その古臭い服は後に美術館行きとなり、有り得ない時代の遺物に多くの考古学者が首を捻ったという。
さて、咲良が住んでいるというアパート近くへとやって来たアスモデウスだが、彼もまた首を傾げた。
目に映るのはごく普通の安っぽいアパートであり、二階建てとは言え、外から見ても狭苦しさが伝わってくる。
借りる代金を蠅野に聞いたとき、家賃と建物がおかしいのではと疑問に感じるほどに。
とにもかくにも、とりあえずは明日である。
明日には咲良の通学する学校へと自分も通うのだと、アスモデウスは何も無い自室で両手を上げて英気を養っていた。
さてと思い付き、静かに部屋を抜け出ると、一路咲良の住んでいるという二つ向こうの部屋へと忍び足でアスモデウスは進む。
蠅野の心配をよそに、アスモデウスは早速とばかりに咲良のベッドの下に潜り込む気が満々であった。
だが、高品と名札の在る部屋の前では、小学生か中学生ほどの小さい女の子がジッとアスモデウスを見ていた。
「すみません、何か御用で?」そう言われた所で、アスモデウスは咲良以外の者には微塵も気を掛ける気は無い。
だが、一応は協定の為にも普通の人間を演じる必要は在るのだ。
「あの…………今度越してきました、アスモデウスと言います。 咲良さんはおいででしょうか?」微塵も本名隠す気が無い大悪魔はさらっとそう答える。
蠅野辺りが見たら卒倒しそうな話だが、少年の姿をとるアスモデウスは気にもしてはいなかった。
「あすもでうす? 変な名前…………所で、家の姉に何か?」そう言う少女に、若干苛っと来たアスモデウスだが、聞き捨て成らない言葉を耳にしていた。
「…………姉?…………」そう言うと、少年は首を傾げた。
「高品咲良さんの妹さん?」少年がそう言うと、女の子もウンと首を縦に振る。
アスモデウスの脳裏には、嫌みに笑う蠅野の顔が浮かんだ。
彼は心の中で叫んだ。
『やろう!?こういう訳か!?見張りが居るなんて聞いてねぇぞ!?しかも妹だ!?どうしよう!?始末するわけにも………』そんな事を思いながら腕を組むアスモデウスに、女の子は訝しい視線を送る。
そもそも目の前の少年は知らない人であり、尚且つ姉の名前を知っている。
外国人的な顔付きから、姉を浚いに来たスパイかと思ったが、目の前の少年はそれほど頭が良さそうには見えない。
そこで、女の子の頭にはもう一つの答えが浮かび上がった。 コイツはストーカーではないかと。
女の子の考えは間違いではない。
確かに、というよりも確実にストーカーである。
だが、この場を濁すためにもアスモデウスは口を開いた。
「あの…………お名前を伺っても?」いきなりの低姿勢。 益々アスモデウスが怪しく見えたが、女の子は訝しいながらも「高品理沙ですけど?」と名乗った。
しばし対峙する両者だが、背中から懐かしい声がアスモデウスの耳に響いた。
「あら? お客様なの? どうも、家の妹が何か?」
人外の速度で振り返るアスモデウス。
其処には、かつてのサラそのままの柔らかい笑顔を浮かべる高品咲良が立っていた。
その瞬間。
アスモデウスは墜ちた筈の天へと登る様な気分と共に、バタンと後ろへ倒れ込んだ。
悪魔が気絶するのか、それはどうかはアスモデウスは知らなかったが、今回の事でそれが分かった。
だが、鼻をくすぐるのはかつて想い人と同じ香り。
大悪魔は目を開けるべきか悩んでいた。
自分を疑る様な理沙と、自分を心配してくれる咲良の声に耳を傾けながら。
ほんの少しく目を開ければ、自分を心配そうに見つめる瞳。
今すぐ彼女を地獄へ連れて帰りたい衝動に駆られつつ、アスモデウスはゆったりと目を開いた。
「あの…………大丈夫ですか?…………ええと」
アスモデウスは瞬間的に悟った。
彼女は自分の名前を知らないと、妹が答える前に、大悪魔はその能力を遺憾なく発揮。
なるべく普通の名前を考え始めていた。
かつて、アスモデウスは人間から様々な名前で呼ばれた。 『…………アスモデウス、アスモダイオス、アスモデ、アスモダイ…あすも……あすの……あすのだい?……明日野大? 良し、これで行こう』少年は、かなり安直にそう心に決めた。
理沙が答えるコンマ五秒前、少年は先に口を開いた。
「あ、明日野です…………明日野大と申します」寝っ転がったまま、明日野と名乗る少年はそれはそれは綺麗な不動の姿勢を見せていた。 端から見るとかなり不気味な少年にも、咲良もまた柔らかく笑う。
「明日野? あら、珍しい苗字ですね、私と同じ学校の制服来てますけど…………転校生?」
やんわりとそう言う姉に、とうとう理沙までバタンと倒れた。
心配する妹をよそに、姉は若干天然なのか、少年を気遣ってくれる。
それこそ、堕天使達が呪った筈の神に思わず明日野が感謝を覚える程に。
特に変わった事も無く、明日学校で会いましょうと言う咲良に、明日野はにこやかに笑いながら手を振っていた。
天然だったからか、咲良が気づかない事が一つ在る。 月明かりに照らされる明日野大の身体からは、少年らしい見た目とは全く違う影が伸びていた事に。